『 谷村新司さん御逝去 』
谷村新司さんが お亡くなりになったとの報
突然の訃報に 大変驚きました
その折々に 記憶に残る歌を 聞かせていただいた
謹んで ご冥福をお祈りいたします
合 掌
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『 女院の病状悪化 ・ 望月の宴 ( 92 ) 』
こうしているうちに、女院(詮子。一条天皇生母。)は腫(ハ)れ物のため熱をお出しになり、お苦しみになる。
殿(道長)は大変ご心配なさって、途方に暮れていらっしゃる。
病状は、女院ご自身それほどでもないとお思いであったが、数日経つうちに、しだいにそのお気持ちも揺らいで、どうしたことなのだろうと、心細く思うようになられる。
帝におかれても、御気分がいつもとは違うと仰せであったので、どうなるのかとご心配なさり、お食事もお受け付けにならず、万事につけ塞ぎ込んでいらっしゃるので、御乳母たちもどうすればよいのかと心配申し上げている。
中宮(彰子、この時十四歳。)もお若い心ながらも、女院のご病状をあれこれとご心配申し上げている。
殿は、「こうなれば、医師に診てもらわなければなりません。このままでは大変恐ろしいことです」と、たびたび進言なさいましたが、女院は、「医師に見せるくらいなら、生きていても仕方がありません」と、かたくなに申されて、診させようとはなさらない。
殿は、そのご容態を医師に語り聞かせたところ、「寸白(スハク・寄生虫による病のことで、腫れ物もその一種と考えられていた。)でいらっしゃるようです」と言って、その為の治療などを施したので、そう悪化するようには見えなかった。
数日経ったためであろうか、腫れ物から膿(ウミ)が流れ出ているので、誰もが一安心なさって見守られていると、ただ御物の怪どもが次々に立ち現れるので、御修法(ミズホウ・密教の祈祷法)を数限りなく尽くし、世にある良いとされる手段を、宮中、殿(道長)方、院(詮子)方など三方に手分けして、あらゆる手段がなされた。
帝には、いかにいかにと毎日お見舞い申し上げたくお思いであるが、日取りなどお選びになられるので、数日が素早く過ぎていった。
御物の怪を四、五人に駆り移しながら、それぞれの受け持ちの僧が声高に祈祷していると、東三条院の隅(スミ)の神の祟りだということまで出てきて、事態はさらに難しくなってきた。
「恐ろしき山には(当時の諺らしいが不詳。)」と世間で言っているように、いっそう病状が芳しくないうえに、このような事(災いをする神)まで加わったので、所をお変えさせるべきだという意見も出て来て、御占いにも合う所は、惟仲(コレナカ・平惟仲)の帥中納言の所有の邸で、そちらにお移りになるとお定めになる。
すぐさま、その日に行幸もあるはずである。
このように、女院はいかにも苦しげになさっているのに、この若君(媄子内親王)はたいそう騒がしくはしゃぎまわっていらっしゃるので、御懐から離れようともしないでまつわりなさるのを、御乳母に「この宮をお抱き奉れ」とも仰せにならず、じっとされるがままにさせていらっしゃる御心ざしは、しみじみとあわれに感じられ、そば近くに奉仕する僧なども、涙を流して控えている。
長年、心から愛しみお世話を下さったお陰を蒙ってお仕えしてきた人々は、いったいどうおなりになるかと心配する他に、為す術もない。
誰もが、女院の病状平癒の大願を立てて、涙を拭っておそばに控えている。
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『 マラソン・バリ五輪代表選考会 』
マラソンのパリ五輪代表を 選考する
グランド・チャンピオンシップが 東京で行われた
雨が降り続く中での 厳しい戦いとなったが
レースとしては 男女とも素晴らしい戦いだった
いずれも 下馬評と違う部分もあったが
今回内定を勝ち取った 男女各二人は
いずれも 会心のレースだったと思う
世界と 大分距離が出来てしまったが
パリでの健闘を期待したい
なお 男女とも あと一人ずつ代表枠が残されている
☆☆☆
『 さらなる惨劇が心配される 』
イスラエルによる ガザ地区への地上侵攻が
始まろうとしている
すでに3千人を超える死者が出ており
イスラエルの被害も大きいが 戦闘2日目以降は
パレスチナ側の被害が 断然多い
それも ハマス以外の一般市民の被害が多く報じられている
地上侵攻となれば これまでより遙かに大きな犠牲者が
予想されている
世界の英知は こうした時には あまりにも弱々しく感じる
あのロシアが 停戦を呼びかけたというのを
どう考えたらよいのか 全く分らないが
国連や 安保常任理事国 そして何よりも
イスラエルの 知恵ある行動を祈りたい
☆☆☆
『 いいなぁ 八冠と師匠 』
偉業を成し遂げた藤井八冠と 師匠の杉本昌隆八段の
会見の様子を テレビで見た
類い希なる英才が よくぞ この師匠と出会ったものだと
つくづく感じさせられる 温かいものだった
国内のニュースも 海外のニュースも
気が重く 辛いニュースが多すぎる中で
お二人の会話は こちらまで嬉しくなってしまう
お相伴させていただき ありがとうございます
☆☆☆
『 山たちはなれ 』
あしひきの 山たちはなれ ゆく雲の
宿りさだめぬ 世にこそありけれ
作者 小野滋陰
( 巻第十 物名 NO.430 )
あしひきの やまたちはなれ ゆくくもの
やどりさだめぬ よにこそありけれ
* 歌意は、「 山の峰から離れて 飛んでいく雲のように 今夜の宿さえ決まっていないような そんな人生だなあ 」といった、この世の無常といったものを詠んだ歌でしょう。
但し、この歌は、(巻第十 物名)として採録されていて、前書きには「たちばな」とあります。つまり、「たちばな」を歌の中に詠み込むのが目的(やま『たちはな』れ)ですから、技巧が目立ち過ぎるように思いますが、当時は一つの手法として評価されていたようです。
* 作者の小野滋陰(オノノシゲカゲ)は、平安時代前期の貴族です。生年、両親などは未詳です。
888 年 2 月に大蔵少丞に就いたというのが、残されている記録の最初のようです。この役職は、財務や出納を担当する役所の三等官に当たります。大丞・少丞の二つのクラスがあったようですが、役所によって呼び名が代わり、判官もやはり三等官です。
888 年 10 月に従五位下を叙爵し貴族の仲間入りを果たしています。
おそらく、これまでは文官として勤めてきたのでしょう。その功績による待望の叙爵だったのでしょうが、有力な一族とは考えられず、すでにそこそこの年齢、全くの推定ですが四十歳前後に達していたのではないでしょうか。
* その後、地方官に転出し、891 年に周防守、893 年に信濃介を勤め、同年 4 月に京に戻り、掃部頭(カモンノカミ)に就いています。宮中行事の施設設置や清掃を担当する部署の長です。
そして、896 年に逝去しています。行年も伝えられていませんが、五十歳前後だったのではないでしょうか。
* 小野氏は、第五代孝昭天皇にまで遡る名門氏族です。小野妹子や、古今和歌集の時代の小野篁や小野小町も同族とされています。
しかし、小野小町には、多くの出生地が伝えられているように、この時代には、幾つかの氏族として別系統とされていたようです。始祖が社家系統であったり、地方の豪族として栄えた一族などで、同系統でありながら早い段階で分派したもの、まったく別系統のものもあったのでしょう。
ただ、残念ながら、滋陰がどの一族に属するのか知ることが出来ませんでした。
* 結局、作者の生き生きとした姿を伺うことは出来ませんでしたが、才能を買われて朝廷に仕え、エリートたちの桁外れの繁栄を横目に見ながらも、コツコツと努力を重ね、遂には貴族、国司にまで昇った成功者だったのかも知れない、そう思いたいのです。
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『 遂に 八冠誕生 』
藤井聡太七冠が 永瀬拓矢王座に 逆転勝ちし
王座を獲得 遂に 八冠誕生となった
今日の新聞もテレビも 八冠! 八冠! 八冠!
逆転劇を生んだ 永瀬王座の一手の直後の様子が
放映されていたが 胸が詰まった
そのレベルを想像することさえ 出来ないが
AIなどでは とても生み出せない
奥の深い 崇高なまでの舞台が
二人の間には あったのではないかと 思ってしまう
ただ ただ 感動するばかりだ
☆☆☆
『 藤井聡太七冠 八冠なるか 』
藤井聡太七冠が 八つ目のタイトルを目指しての
王座戦が 行われている
今日勝てば 八冠独占の偉業となるが
対戦相手の 永瀬王座も 今回防衛すれば
名誉王座の永世称号を 獲得できる大事な戦いだ
間もなく勝敗が決する 結果やいかに!!
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『 虐待禁止条例案を取り下げ 』
話題を集めていた 埼玉県の
虐待禁止条例案を 自民党県議団が取り下げた
当然だと言えば当然だが 混乱が避けられたのは結構だ
それにしても 報道されている内容を見る限り
作成されるまでに 止める人はいなかったのかと思うほど
あまりにひどすぎる と思う
取り下げに当たって 「説明が足りなかった」と発言されていたが
とんでもない発言だと思う
あの内容を 説明で多くの人を納得させられると思っているとすれば
猛省を促したい
もし この条例が 罰則付きで実施されていれば
相当数の家庭を 崩壊させるとは 考えなかったのだろうか
素人考えかもしれないが・・・
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『 大谷サーン 何処へ 』
アジア大会は 終了
ラグビーは 健闘したが 残念だった
男子バレーは 五輪切符が 獲得できてよかった
プロ野球は これから楽しみな シリーズが始まるが
今は スポーツの谷間のような 感じ
目下の注目は 大谷翔平選手が
来年 どんなユニホーム着るのかだ
専門家から素人まで 様々な予想が出回っているが
今なら 言った者勝ち
さて あなたのの予想では 何処??
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