「一日が終る。何ということもなかったが、まあ、無事な一日であったことで良しとするか・・」などと、一日を振り返ることが少なくなっているように思います。
それでも、寝床に着いた時には、一日の終りを漠然と認識してはいるのですが、私は、寝床で本を読むのが長年の習慣で、なかなか止めることができません。ほとんどの場合、小説の類いですが、それも、興味のある物と今一つ取っ組みにくい物の最低二冊は用意しています。体調の良い時は楽しい物を、早く眠りたい時は少々難解な物を読むことにしています。どちらの場合も、あっという間に眠気に誘われてしまうことが多く、一日を振り返ることなく、ほとんどありません。
ロシアによるウクライナ侵攻が始まって三年になります。
侵攻が始まった時には、一週間か十日で終るとご高説を述べていた方もいらっしゃいましたが、すでに三年になりますが、終結の道筋さえ見えていません。
おそらく、侵攻が始まった時点では、ウクライナ国民がこれほどの団結力と抵抗を示すとは思わなかったことと、米欧諸国がこれほどの軍事支援を実施するとは予想しなかったのではないでしょうか。同時に、ロシア側には、自国の軍事力の読み間違いと、早い段階での落とし所を見誤ったような気がします。
戦乱に至った原因には、少なくとも開戦に至ったのはロシア側に責任があるように思うのですが、そこに至るには、私などではとうてい理解出来ない柵(シガラミ)が数多く存在しているのでしょう。
そして、ウクライナはもちろんロシアにも、主張すべき正義が存在しているのでしょうが、正義らしい物と正義らしい物がぶつかり合っているうちに、多くの人が命を落しています。
ここに来て、トランプ米大統領の登場により、微かに、停戦への灯りがともったかに見えました。私などもそう思った一人です。
ただ、このところの情報は、やや悲観的に受取っています。おそらく、彼一流の手法なのでしょうが、同盟国への配慮がなさ過ぎるように思われます。もしかすると、同盟国などという意識は持ち合わせていないのかと思ってしまいます。
米国のウクライナに対する莫大な支援は、苦しい生活環境にある米国民の一部は大反対かもしれません。開戦に至る前、あるいはその直後に、ウクライナが大幅な譲歩を受け入れておれば、今日ほどの被害は防げたかもしれません。しかし、その場合、そう遠くない日に、第二、第三のウクライナが誕生してしまう可能性が高いでしょう。
そして、わが国がその候補でないなどと断言出来る人などいるのでしょうか。
「一日の終りが、何はともあれ無事であった」というだけのことが、ただそれだけのことが望めない人々が、大勢います・・・。
もしかすると私たちは、極めて偶然に、あるいは類い希な幸運のもとに、平穏な一日の終りを迎えているのかもしれません。
大袈裟すぎるかもしれませんが、私たちの国も、つい八十年前の頃には、多くの人が辛い日々を送っていたのです。そうした日々を避けるためには、私たちの国は、簡単には他国の侵略を許さない国力が必要なように思えてなりません。
そして、その手段は、軍事力なのか、経済力なのか、外交力なのか、文化や教育の向上なのか、その他多くの条件が考えられ、おそらく、それらのどれもが必要なのでしょうが、さて、そのバランスの取り方となれば、難しい限りです。