田原本町の味間は六つの垣内がある。
東、西、南、北、中北、中南の六垣内。
なぜか東垣内だけは年中行事が多くあるという。
特に愛宕さんや地蔵盆、大神宮の行事がある7月、8月が忙しい。
それぞれには回り当番の宿(やど)とその両隣が協力しあって行事を支えている。
22軒であるから22年に一度の計算になるがそれぞれの行事の当番が互いに右回りと左回りにも回ってくるので重なるときもあるそうだ。
かつては宿(やど)の家に集まって会食をよばれていた。
それを解消するかのように昭和62年に公民館を建てたが葬式は3年ほど前まで自宅でしていたそうだ。
通夜、本葬、後かたづけもある3日間。
つきあいもたいへんやからと葬儀会場に移っていった。
この日の行事は「御供つき」。
一ヶ月ほど前に辻の掲示板に案内していた集合場所は公民館だった。
机を並べた席につく。
自治会長と宿(やど)のご主人は上席に座る。
挨拶を済ませて会計報告。
そうこうしているうちに神職が到着した。
由緒ある多坐弥志理都比古神社の宮司だ。
一同が揃えば御供をもって祭典場に向かう。
その場に小さな祠がある。
味間の須賀神社の分霊を祀っているという。
愛宕さん、庚申さん、天正年間に造られたとされる地蔵さんに大神宮まであるその場は神聖な地なのであろう。
そこを縦に横切るのは古来の幹道である中ツ道。
近世からは田原本町蔵堂から横大路までを橘街道と呼んでいた街道である。
古代には多くの人々が往来していたのであろうが今ではさまざまな車が往来する生活や輸送の道。
次々と通り抜ける。
そんな喧噪さも関係なく神事が始められた。
お供えはモチ2個のパックが数多く見られる。
神饌には味間の名物である大和野菜の味間芋もある。
一尾の丸サバなど、海の幸、里の幸、山の幸が神前に供えられる。
その横にはにごり酒もある。
この様相によればおそらく新穀感謝祭なのであろう。
修祓、祝詞奏上、玉串奉奠など厳かに行われた。
かつての「御供つき」は宿がたいへんだったという。
集まった垣内の人たちはそれぞれの役割で支度をしたそうだ。
切り身のサバは焼き魚。
どんぶりいっぱいの粕汁。
味間芋にダイコン、ニンジン、コンニャクを入れて炊いた。
それがごちそうだった。
この日は年末の決算日。
その昔、食糧飢饉の時代もあった。
実った稲は刈り取って、脱穀は宿の家でしていた。
稲藁は押し切りして細かくした。
来年も豊作になりますようにとそれを味間の田んぼに撒いた。
宿ではモチ米を杵と臼で搗いた。
婦人たちは料理をこしらえた。
今だから話せるがどぶろくも作っていたという。
それは遠い昔のこと。
いつしか簡略化されていって行事の名称が「御供つき」となって残った。
稲刈りを済ませて今年の豊作に感謝する。
それはモチにした。
畑の野菜は粕汁になった。
新穀で採れた新米酒はにごり酒。
あえて言うなら粕汁も酒だ。
これだけのものが揃えば新穀に感謝する新嘗祭だったのであろう。
公民館に戻って席に着けば宿(やど)がにごり酒を注いでいく。
宿(やど)の挨拶と乾杯の音頭で今年の収穫を祝った。
(H22.12.19 EOS40D撮影)
東、西、南、北、中北、中南の六垣内。
なぜか東垣内だけは年中行事が多くあるという。
特に愛宕さんや地蔵盆、大神宮の行事がある7月、8月が忙しい。
それぞれには回り当番の宿(やど)とその両隣が協力しあって行事を支えている。
22軒であるから22年に一度の計算になるがそれぞれの行事の当番が互いに右回りと左回りにも回ってくるので重なるときもあるそうだ。
かつては宿(やど)の家に集まって会食をよばれていた。
それを解消するかのように昭和62年に公民館を建てたが葬式は3年ほど前まで自宅でしていたそうだ。
通夜、本葬、後かたづけもある3日間。
つきあいもたいへんやからと葬儀会場に移っていった。
この日の行事は「御供つき」。
一ヶ月ほど前に辻の掲示板に案内していた集合場所は公民館だった。
机を並べた席につく。
自治会長と宿(やど)のご主人は上席に座る。
挨拶を済ませて会計報告。
そうこうしているうちに神職が到着した。
由緒ある多坐弥志理都比古神社の宮司だ。
一同が揃えば御供をもって祭典場に向かう。
その場に小さな祠がある。
味間の須賀神社の分霊を祀っているという。
愛宕さん、庚申さん、天正年間に造られたとされる地蔵さんに大神宮まであるその場は神聖な地なのであろう。
そこを縦に横切るのは古来の幹道である中ツ道。
近世からは田原本町蔵堂から横大路までを橘街道と呼んでいた街道である。
古代には多くの人々が往来していたのであろうが今ではさまざまな車が往来する生活や輸送の道。
次々と通り抜ける。
そんな喧噪さも関係なく神事が始められた。
お供えはモチ2個のパックが数多く見られる。
神饌には味間の名物である大和野菜の味間芋もある。
一尾の丸サバなど、海の幸、里の幸、山の幸が神前に供えられる。
その横にはにごり酒もある。
この様相によればおそらく新穀感謝祭なのであろう。
修祓、祝詞奏上、玉串奉奠など厳かに行われた。
かつての「御供つき」は宿がたいへんだったという。
集まった垣内の人たちはそれぞれの役割で支度をしたそうだ。
切り身のサバは焼き魚。
どんぶりいっぱいの粕汁。
味間芋にダイコン、ニンジン、コンニャクを入れて炊いた。
それがごちそうだった。
この日は年末の決算日。
その昔、食糧飢饉の時代もあった。
実った稲は刈り取って、脱穀は宿の家でしていた。
稲藁は押し切りして細かくした。
来年も豊作になりますようにとそれを味間の田んぼに撒いた。
宿ではモチ米を杵と臼で搗いた。
婦人たちは料理をこしらえた。
今だから話せるがどぶろくも作っていたという。
それは遠い昔のこと。
いつしか簡略化されていって行事の名称が「御供つき」となって残った。
稲刈りを済ませて今年の豊作に感謝する。
それはモチにした。
畑の野菜は粕汁になった。
新穀で採れた新米酒はにごり酒。
あえて言うなら粕汁も酒だ。
これだけのものが揃えば新穀に感謝する新嘗祭だったのであろう。
公民館に戻って席に着けば宿(やど)がにごり酒を注いでいく。
宿(やど)の挨拶と乾杯の音頭で今年の収穫を祝った。
(H22.12.19 EOS40D撮影)