マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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味間のイノコ

2011年01月11日 08時34分09秒 | 田原本町へ
大和野菜の一つにあげられる味間芋。

田原本町の味間(あじま)の名産だそうでテレビでもその味を取り上げられたと生産者のN総代さんが話す。

日が落ちても畑で精を出すのは減反政策によって始めた麦の種まきだ。

大和盆地では珍しく味間ではため池がないという。

畑の水は長谷川の井堰から引いている。

水量が豊富であることから古来からそうしているそうだ。

味間は条里制が残されている地域。

中央の一角には濠に囲まれた広大な領地をもつ民家K邸がある。

以前は二重の濠だったそうだ。

それは暗渠にされて道幅を広げられたようだ。

その家では9月の八朔の日に多坐弥志理都比古神社から授かった神遷しされたお札を家で祀る。

かの家は神社の永代総代でもある。

注連縄を張りおよそ二十日間も祀られるのはその家の祭りごとである。

最終日には家の者がモチを地区に配り歩くと南垣内の住民が話す。

味間には須賀神社が鎮座している。

先週当たりには刈り入れられた新穀を感謝する祭りがあったそうだ。

その行事とは関係なく村の行事として行われているのがイノコだ。

今年に結婚された新婚さんの家に行って新米藁で作ったデンボをその家の門口の地面を叩く。

「イノコの晩に モチの搗かん家は・・・云々」と囃子たてて新婚の家を巡った経験があると話すNさん。

数日後、東味間の昭和7年生まれのSさんは「イノコの晩に モチ搗かん家は おうちのねーさん起きなはるか 寝てはるか・・・」と思い出された。

デンボでバシバシ叩いたことを思い出された。

小学校のときだったから60年ほど前のことだという。

夜になったら小学6年生の男の子が自然と集まってくる。

リーダーがおったのかも知れんという。

それは子供だけでしていたイノコの行事だった。

新穀を祝って新婚の家へ向かう。

そこでイノコをする。

そうすると家人が人数分を袋で用意されていたお菓子をくれたそうだ。

いつのころかデンボはなくなり囃子もなくなった。

現在は子供会がその一端を継承している。

お菓子はいつしか祝儀のお金になった。



今年は1軒あった。

東味間の辻に集まった子どもたちはその家を目指す。

味間からはそうとう離れた距離に東味間がある。

それは出垣内のようだ。

それはともかく呼び鈴を押して家人を待つ。

実際の新婚さんは家にいなかったが家人が差し出す祝儀に子供の手が伸びる。

囃子言葉もないことから妙に居心地が悪いと同行の親は感想をいう。

新婚がなければその年は行われない。

集まった子供は小学6年生と5年生の7人。

祝儀を分けるには難しいからと子供会の活動費に充てられると話す同行したその親の役員たち。

校区の小学校では今年の入学生が十人ほどだったそうだ。

私らが子供のときは同級生だけで20人も居たというNさんはあげるお菓子の量を考えれば相当な負担だったのではと話した。

東味間では8月に風日待ちがある。

こんぴらさんもある。味間では日待ちがされていると子供会の母親は語る。

その東味間では明後日に御供つきが行われる。

地区の行事だそうで辻の掲示板に案内されていた。

F自治会長に話しによれば須賀神社の分霊を祀った祠があるらしい。

そこには愛宕さんや地蔵さんも集めたそうだ。

これらは東味間の22軒で守られている。

12月20日前後の日曜日は「御供つき」と呼ばれる村の行事が行われている。

かつては集まってきた家ごとに作ったおにぎりやモチ(1軒2個)を持ってきた。

それは宿の家にだ。

各家ではごちそうも作っていた。

20年も前にはそれは止めていたと話す62歳の自治会長。

一年間の五穀豊穣を祝った行事だそうだ。

御供つきの名称だけが残った。

モチを搗いていたというからその名残の名称が継承されている。

現在はモチを搗くこともなく餅屋に頼んで作ってもらう。

集まる場所は公民館。

一年交替の宿が費用を集めて海の幸、山の幸、里の幸を神社に供える。

多坐弥志理都比古神社から宮司を迎えて神事を行う。

それだけになったが実際は年末の地区の忘年会。

宿は会席の接待の係のようだ。

(H22.12.17 EOS40D撮影)