バケツ一杯の砂を小泉神社に持ち寄った。
それを砂盛りにした。
神社境内の砂は参った折り、知らず知らずの間に持ち帰ってしまう。
年に一度はその砂を返しにくる。
年末のころである。
富雄川から掬った砂を持ってきた。
奇麗な川の砂だったがいつしか汚れてしまった。
今では氏子の商店かじ安の人が奉納してくれる砂盛り。
その数は持ってきた量で変化する。
今年も奉納してくれた砂盛り。
それは砂モチの風習だと話す宮司。
その件は送迎している小泉の婦人も話していた。
1軒、1軒が持ちこんでいた砂盛りだったと話す。
いつしか砂モチの風習はしなくなったが、心ある氏子が盛ってくれる砂は年によって量が異なる。
富雄川の奇麗な砂も消えて今は買ってきた砂。
一年間に参る人たちが知らず知らずのうちに靴底にくっつけて持ち帰ってしまうのである。
そのようなわけで境内の砂が少なくなってしまう。
だから砂を盛り込むということだ。

この砂は2月11日に行われる御田植祭の砂掛けに用いられる。
それまでは砂を盛った状態にしておくと話す宮司。

地元のある家の方から無用になったことで神社に預けられた馬の絵馬を拝見する。
何のための絵馬であるのか判らず悩む二人。
神社でなく家にあったという絵馬だ。
腹ボテの馬から考えればお産を無事にあげたいという願掛けであるかも知れない。
ところで砂モチの風習を調べてみれば全国的な傾向にあるようだ。
大和郡山市内の柏木町でもその風習があったそうだが、佐保川を管理する県土木からの注意があって止めたという。
その昔の柏木町では川の奇麗な砂をバケツで2杯汲んでいた。
1杯は神社の砂モチに使って、もう1杯を家の前の道に砂を撒いていたという。
それは神さんが通る砂の道だと話す。
市内の4か所に現存する砂の道と同じ風習だったようだが、小泉町にはその伝承はなかった。
(H24.12.27 SB932SH撮影)
(H24.12.28 EOS40D撮影)
それを砂盛りにした。
神社境内の砂は参った折り、知らず知らずの間に持ち帰ってしまう。
年に一度はその砂を返しにくる。
年末のころである。
富雄川から掬った砂を持ってきた。
奇麗な川の砂だったがいつしか汚れてしまった。
今では氏子の商店かじ安の人が奉納してくれる砂盛り。
その数は持ってきた量で変化する。
今年も奉納してくれた砂盛り。
それは砂モチの風習だと話す宮司。
その件は送迎している小泉の婦人も話していた。
1軒、1軒が持ちこんでいた砂盛りだったと話す。
いつしか砂モチの風習はしなくなったが、心ある氏子が盛ってくれる砂は年によって量が異なる。
富雄川の奇麗な砂も消えて今は買ってきた砂。
一年間に参る人たちが知らず知らずのうちに靴底にくっつけて持ち帰ってしまうのである。
そのようなわけで境内の砂が少なくなってしまう。
だから砂を盛り込むということだ。

この砂は2月11日に行われる御田植祭の砂掛けに用いられる。
それまでは砂を盛った状態にしておくと話す宮司。

地元のある家の方から無用になったことで神社に預けられた馬の絵馬を拝見する。
何のための絵馬であるのか判らず悩む二人。
神社でなく家にあったという絵馬だ。
腹ボテの馬から考えればお産を無事にあげたいという願掛けであるかも知れない。
ところで砂モチの風習を調べてみれば全国的な傾向にあるようだ。
大和郡山市内の柏木町でもその風習があったそうだが、佐保川を管理する県土木からの注意があって止めたという。
その昔の柏木町では川の奇麗な砂をバケツで2杯汲んでいた。
1杯は神社の砂モチに使って、もう1杯を家の前の道に砂を撒いていたという。
それは神さんが通る砂の道だと話す。
市内の4か所に現存する砂の道と同じ風習だったようだが、小泉町にはその伝承はなかった。
(H24.12.27 SB932SH撮影)
(H24.12.28 EOS40D撮影)