奈良市東包永(ひがしかねなが)町は「ならまちきた」の一角にある。
春日山眼下にある「菊一文字四郎包永」店は当地が発祥と伝わる。
貞和年間(1345~)のころである。
当地に手掻文殊鍛冶平三郎包永が住んでいたことから包永(かねなが)の町名が生れたそうだ。
「包」を「かね」と呼んでいるのも頷ける。
85軒の町内は新築したワンルームマンション住民も入れれば100軒にもなるというT自治会長。
この日は町内で祀っている赤童子の祭りがある。
夕方の5時に突然降り出した大雨はどしゃぶりになった。
町内に貼ってあった祭りの案内。
子供たちが手書きした絵柄がなんとも可愛い。
地域の人たちが祭りにたくさん訪れてほしいとみたらしだんごや金魚すくい、ガラガラ抽選などの縁日で盛り上げる。
降りが小雨になればたくさんの人たちがやってくる会所。
それより数時間前に行われた神事は春日大社の神官によって執り行われたと云う。
会所に掲げた掛軸は二幅。
一つは赤童子である。
中世、春日社に出現したとされる赤色裸形の童子神像は不動明王の脇侍像に類似する容貌である。
自治会調べによれば、明治十二年(1879)に大和一円で流行ったコレラ病いが発端。
明治三十五年(1902)に再び発生したコレラ病いで死者が12名にもおよんだと伝える。
それから数年。
明治41年(1908)には天然痘、ペストも発生した。
その後も流行り病いは止まらず、大正五年、九年にも。
東包永町も患者が発症したコレラ病。
悪病を祓い断ち切るために守り神である赤童子を祀って夏祭りをしたと云う。
かつては総代家で、7月4日、5日に赤童子を祀ってお祭りをしていたが、昭和10年頃には14日、15日に替えて祀る場を会所に移したそうだ。
この日の祭りに掲げられた赤童子に手を合わせる子供たち。
町内の守護神は子供たちにとってもありがたいのであろう。
参拝には行列もできるぐらいだ。
手を合わせたご本尊の赤童子の掛軸は傷みがひどくなり、昭和47年に表装を新調された。
美しさは輝きを増したのであろう。
掛軸そのものには年号が見られなかったが、もしやと思って納めていた箱を拝見した。
それには薄らとある墨書。
自治会長や役員さんらとともに判読した結果は「明治弐年(1869)十月」であった。
流行り病いよりも遡ること10年も前の時代に作られた掛軸であったのだ。
始めて知った赤童子の製作時期に驚かれたのはいうまでもない。
赤童子・三社託宣を祀るのであれば春日講の存在があったのではと尋ねたが、「それは伝わっていない」と話す自治会長。
赤童子祭りは春日大社と関係が深い中央に天照皇太宮、右に八幡大菩薩、左に春日大明神の文字を配置した三社託宣の掛軸も掲げる。
鉄製の燈籠を吊るした斎壇には洗い米、塩にアズキを盛った神饌に赤く染めた餅も供える。
その下にはたくさん搗いた赤餅もある。
明日の本祭りが終わってから地区85軒に配る赤餅である。
宵宮の案内は18時としているが、神事は既に終えている。
町内の参拝者はその後においてきたほうが良かろうとそうしている。
祭りの日が固定であれば平日にかかってしまう。
もっと多くの人が参拝できるようにと集まりやすい第二土曜、日曜にしたと話す。
かつての神事は手向山八幡宮の神官であった。
東包永町は手向山八幡宮氏子域であったが、赤童子・三社託宣に関係が深い春日大社と判ってからは替えたと云う時期は昭和新調した昭和47年だったそうだ。
祀った掛軸に手を合わせる人も多く、始まってから144年、伝統を守ってきた地域の行事だと再認識した東包永町内の祭り。
「大正拾年七月拾五日 東包永町」と書かれている賽銭箱。
寄進した時代が判る。
前述した流行りコレラを払う夏祭りの始めを示す年号である。
ガラガラ抽選会場には子供たちの行列ができあがる。
外孫の子どもたちも楽しみにして戻ってくる地域の夏祭り。
ガラガラを回して出てきた番号を確認する役員さん。
後ろにある賞品を示す子供たちに笑みが零れる。
ちなみに抽選商品が売り切れても明日の本祭りには追加するそうだ。
(H25. 7.13 EOS40D撮影)
春日山眼下にある「菊一文字四郎包永」店は当地が発祥と伝わる。
貞和年間(1345~)のころである。
当地に手掻文殊鍛冶平三郎包永が住んでいたことから包永(かねなが)の町名が生れたそうだ。
「包」を「かね」と呼んでいるのも頷ける。
85軒の町内は新築したワンルームマンション住民も入れれば100軒にもなるというT自治会長。
この日は町内で祀っている赤童子の祭りがある。
夕方の5時に突然降り出した大雨はどしゃぶりになった。
町内に貼ってあった祭りの案内。
子供たちが手書きした絵柄がなんとも可愛い。
地域の人たちが祭りにたくさん訪れてほしいとみたらしだんごや金魚すくい、ガラガラ抽選などの縁日で盛り上げる。
降りが小雨になればたくさんの人たちがやってくる会所。
それより数時間前に行われた神事は春日大社の神官によって執り行われたと云う。
会所に掲げた掛軸は二幅。
一つは赤童子である。
中世、春日社に出現したとされる赤色裸形の童子神像は不動明王の脇侍像に類似する容貌である。
自治会調べによれば、明治十二年(1879)に大和一円で流行ったコレラ病いが発端。
明治三十五年(1902)に再び発生したコレラ病いで死者が12名にもおよんだと伝える。
それから数年。
明治41年(1908)には天然痘、ペストも発生した。
その後も流行り病いは止まらず、大正五年、九年にも。
東包永町も患者が発症したコレラ病。
悪病を祓い断ち切るために守り神である赤童子を祀って夏祭りをしたと云う。
かつては総代家で、7月4日、5日に赤童子を祀ってお祭りをしていたが、昭和10年頃には14日、15日に替えて祀る場を会所に移したそうだ。
この日の祭りに掲げられた赤童子に手を合わせる子供たち。
町内の守護神は子供たちにとってもありがたいのであろう。
参拝には行列もできるぐらいだ。
手を合わせたご本尊の赤童子の掛軸は傷みがひどくなり、昭和47年に表装を新調された。
美しさは輝きを増したのであろう。
掛軸そのものには年号が見られなかったが、もしやと思って納めていた箱を拝見した。
それには薄らとある墨書。
自治会長や役員さんらとともに判読した結果は「明治弐年(1869)十月」であった。
流行り病いよりも遡ること10年も前の時代に作られた掛軸であったのだ。
始めて知った赤童子の製作時期に驚かれたのはいうまでもない。
赤童子・三社託宣を祀るのであれば春日講の存在があったのではと尋ねたが、「それは伝わっていない」と話す自治会長。
赤童子祭りは春日大社と関係が深い中央に天照皇太宮、右に八幡大菩薩、左に春日大明神の文字を配置した三社託宣の掛軸も掲げる。
鉄製の燈籠を吊るした斎壇には洗い米、塩にアズキを盛った神饌に赤く染めた餅も供える。
その下にはたくさん搗いた赤餅もある。
明日の本祭りが終わってから地区85軒に配る赤餅である。
宵宮の案内は18時としているが、神事は既に終えている。
町内の参拝者はその後においてきたほうが良かろうとそうしている。
祭りの日が固定であれば平日にかかってしまう。
もっと多くの人が参拝できるようにと集まりやすい第二土曜、日曜にしたと話す。
かつての神事は手向山八幡宮の神官であった。
東包永町は手向山八幡宮氏子域であったが、赤童子・三社託宣に関係が深い春日大社と判ってからは替えたと云う時期は昭和新調した昭和47年だったそうだ。
祀った掛軸に手を合わせる人も多く、始まってから144年、伝統を守ってきた地域の行事だと再認識した東包永町内の祭り。
「大正拾年七月拾五日 東包永町」と書かれている賽銭箱。
寄進した時代が判る。
前述した流行りコレラを払う夏祭りの始めを示す年号である。
ガラガラ抽選会場には子供たちの行列ができあがる。
外孫の子どもたちも楽しみにして戻ってくる地域の夏祭り。
ガラガラを回して出てきた番号を確認する役員さん。
後ろにある賞品を示す子供たちに笑みが零れる。
ちなみに抽選商品が売り切れても明日の本祭りには追加するそうだ。
(H25. 7.13 EOS40D撮影)