田中の里は思った以上に広い地域だと知ったこの日。
二人の息子が通っていた郡山西小学校も田中の区内であると初めて知った。
地区に住んで30年も経って知った田中の里である。
かつての富雄川に沿った斜めの小字境。
それが旧河川の流れ。
三カ井堰から流れて田中、新木南・小南北、豊浦集落北を東に流れて本庄南・杉の集落へ、である。
小字一ノ坪辺りは今でも田園が広がる。
田中の里ではあるが、農業している人は旧村ではないようだ。
田中の里は大和郡山市の田中町。甲斐神社が鎮座する。
同神社には二つの記念碑が設置されている。
一つは生垣を竣工した記念の銅板である。
それには「昭和11年10月 竣工生垣鉄筋 □□土塀御造営」とあり、社挙に藤井秀臣の名が刻まれていた。
もう一つは拝殿の新築で、「昭和52年10月吉日 社拝殿新築記念碑」で、村氏子の他、「軍友會、在郷軍人會、青年団、消防団、国防婦人會」の団体名もある。
宮司の名は璒美川公達に移っていた記念碑である。
璒美川公達は現小泉神社の先代宮司と聞いている。
今では継いだ森本宮司が斎主を勤めている。
この日の神社行事は「代々」とも呼ばれている七日盆の祖霊祭である。
宮総代、自治会長、数理組合長、氏子たちは普段着で参拝する。
この日に行われる下座についた御湯の湯焚きさんも普段着姿で神事を見守る。
以前は4人でもっと若かったが、少子化の影響で大学生ぐらいの年齢に移った。
修祓の次は田中の里に暮らす氏子たちの穢れを祓う祝詞を奏上される。
神事を終えて前庭に移る。
古い湯釜は雑木に火を点けて予め湯焚きさんが沸かしていた。
境内は美しくなっている。
1日には、この日のために地区の老人会の人たちが朝から神社周りを清掃していた。
シバを刈りとり、竹や樹木を伐採していた。
数日前の作業で疲れた身体になったそうで、この日の参拝を見送った人も多いと宮総代が云う。
湯釜の前に登場した巫女さんは森本宮司の婦人であるが、先代宮司の璒美川公達の娘さん。
父親とともに出かけていたと云う。
御湯を引き継いだと云うから、おそらく璒美川に嫁いだ母親の花枝さんから教わったのであろう。
引き継いだ直後は「サンバイコ」を腰に巻いていたと話す。
「サンバイコ」は安産を願う印し。
数年後にはしなくなったと云う。
御湯の作法は「20回どころか50回、もっとそれ以上にしなさい」と教えられていて、今でも先代の云いつけを守っている巫女さんであるが、御湯の作法には祝詞を奏上することはなかったようだ。
この日もダイナミックな湯さばきで湯を飛ばす。
御湯の作法の前には鈴を持ってシャンシャンと舞う神楽舞。
大きく手を広げて舞う。
湯被りをする氏子たちに容赦なく湯を飛ばす。
向こう正面に構えていた私にも飛ばしてくださるありがたい御湯。
森本宮司は「この日の行事は夏越しの祭りでもある」と話す七日盆の湯祓いは、かつて8月7日であった。
いつしか村人が集まりやすいその日に近い日曜日になった。
代々の祖霊を祀る行事でもある御湯は「湯花神事」と呼ばれていた。
湯のしぶきが花のように見える様からその名がついたのであろう。
御湯を終えた湯を柄杓で掬った宮総代。
貰って帰って家人が飲むと云う。
アツケ(暑気)にならないようにというありがたい湯は身体を内部から奇麗にしてくれるのだと話す。
一種の風習であるが、以前は行列ができるほどの状況だったそうだ。
7月の夏祭りの御湯にはたくさんの人が並んだ。
ほとんどの人が老人会。
この日の欠席では、それを拝見することはなかった。
(H25. 8. 4 EOS40D撮影)
二人の息子が通っていた郡山西小学校も田中の区内であると初めて知った。
地区に住んで30年も経って知った田中の里である。
かつての富雄川に沿った斜めの小字境。
それが旧河川の流れ。
三カ井堰から流れて田中、新木南・小南北、豊浦集落北を東に流れて本庄南・杉の集落へ、である。
小字一ノ坪辺りは今でも田園が広がる。
田中の里ではあるが、農業している人は旧村ではないようだ。
田中の里は大和郡山市の田中町。甲斐神社が鎮座する。
同神社には二つの記念碑が設置されている。
一つは生垣を竣工した記念の銅板である。
それには「昭和11年10月 竣工生垣鉄筋 □□土塀御造営」とあり、社挙に藤井秀臣の名が刻まれていた。
もう一つは拝殿の新築で、「昭和52年10月吉日 社拝殿新築記念碑」で、村氏子の他、「軍友會、在郷軍人會、青年団、消防団、国防婦人會」の団体名もある。
宮司の名は璒美川公達に移っていた記念碑である。
璒美川公達は現小泉神社の先代宮司と聞いている。
今では継いだ森本宮司が斎主を勤めている。
この日の神社行事は「代々」とも呼ばれている七日盆の祖霊祭である。
宮総代、自治会長、数理組合長、氏子たちは普段着で参拝する。
この日に行われる下座についた御湯の湯焚きさんも普段着姿で神事を見守る。
以前は4人でもっと若かったが、少子化の影響で大学生ぐらいの年齢に移った。
修祓の次は田中の里に暮らす氏子たちの穢れを祓う祝詞を奏上される。
神事を終えて前庭に移る。
古い湯釜は雑木に火を点けて予め湯焚きさんが沸かしていた。
境内は美しくなっている。
1日には、この日のために地区の老人会の人たちが朝から神社周りを清掃していた。
シバを刈りとり、竹や樹木を伐採していた。
数日前の作業で疲れた身体になったそうで、この日の参拝を見送った人も多いと宮総代が云う。
湯釜の前に登場した巫女さんは森本宮司の婦人であるが、先代宮司の璒美川公達の娘さん。
父親とともに出かけていたと云う。
御湯を引き継いだと云うから、おそらく璒美川に嫁いだ母親の花枝さんから教わったのであろう。
引き継いだ直後は「サンバイコ」を腰に巻いていたと話す。
「サンバイコ」は安産を願う印し。
数年後にはしなくなったと云う。
御湯の作法は「20回どころか50回、もっとそれ以上にしなさい」と教えられていて、今でも先代の云いつけを守っている巫女さんであるが、御湯の作法には祝詞を奏上することはなかったようだ。
この日もダイナミックな湯さばきで湯を飛ばす。
御湯の作法の前には鈴を持ってシャンシャンと舞う神楽舞。
大きく手を広げて舞う。
湯被りをする氏子たちに容赦なく湯を飛ばす。
向こう正面に構えていた私にも飛ばしてくださるありがたい御湯。
森本宮司は「この日の行事は夏越しの祭りでもある」と話す七日盆の湯祓いは、かつて8月7日であった。
いつしか村人が集まりやすいその日に近い日曜日になった。
代々の祖霊を祀る行事でもある御湯は「湯花神事」と呼ばれていた。
湯のしぶきが花のように見える様からその名がついたのであろう。
御湯を終えた湯を柄杓で掬った宮総代。
貰って帰って家人が飲むと云う。
アツケ(暑気)にならないようにというありがたい湯は身体を内部から奇麗にしてくれるのだと話す。
一種の風習であるが、以前は行列ができるほどの状況だったそうだ。
7月の夏祭りの御湯にはたくさんの人が並んだ。
ほとんどの人が老人会。
この日の欠席では、それを拝見することはなかった。
(H25. 8. 4 EOS40D撮影)