マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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矢田の民俗聴講⑩

2013年11月19日 08時19分18秒 | 民俗を観る
平成23年2月27日に立ちあがった「矢田歴史民俗研究会」。

きっかけは平成22年12月11日から翌年の23年2月6日に奈良県立民俗博物館で企画展された「大和郡山の祭りと行事」であった。

民俗博物館・大和郡山・矢田へと繋がった一本の線は発展して「矢田歴史民俗研究会」になった。

矢田は歴史文化の宝庫。住民が話す昔の暮しや民俗を中心に迫っていく。

今までに「矢田の大工の職人たち」、「西矢田宮座年代記」、「矢田の宮座」、「郡山天守閣の流転」、「矢田の墓制」、「中井役所・大工鑑札」、「矢田の石造仏」などさまざまな角度から捉えてきた。

例会のほとんどは村の住民の語りと調べもの。

大和郡山の祭りと行事を捉えたカメラマンの立場でと云われて初回から参加するようになっていた。

この日は10回目の会合である。

普段の例会は民俗博物館。

たまにはアウトドアで地域を巡検してきた。が、この日は矢田北村住民のK家である。

当主が話した蔵に残っていた諸物。

古い写真が出てきたという。

貴重な映像は当時の出棺の在り方である。

昨年の3月と11月に亘って矢田の民俗フィールドでお話を伺った棺桶を担ぐ葬送の姿である。



今では行われることもなくなった新仏の斎壇の在り方も知る貴重な家の記録写真である。

同席しているNさんは東村の住民。

いつも村の様相を話していただく。

北村は50軒ほどで、東村はおよそ60軒。

産業分布によれば明治時代の人口は中ぐらいであったようだ。

大阪から大和郡山へ。

交通の要所でもあった矢田村はかつて大勢の人たちが住んでいた。

江戸時代、敵を監視するタカヤマにコグリと呼ぶ地がある。

それは「コグチ」であったかもと話す両氏。

コグチは虎口。

木戸があったという地には川があった。

山を崩して新道を造った。

この地は大阪枚岡に抜ける道で、暗峠(くらがりとうげ)に続いていたと現地順検をした地の「タカヤマ」は「城」であったろうと話していた。

高専の東側に土手があった。

そこには土塁跡もあった。

西側の右には何もなくて田んぼだったと云う。

少年自然の家がある北の施設は「ひかり園」。

その前を流れる川沿いの道。

今ではアスファルトであるが、かつては砂の道であった。

川に溜まった土砂を掬いあげていた道。

夜道は月夜に光って輝いていた。

その光景は今でも鮮明に覚えていると話す。

その川は沖台川。

オキンダイガワと呼んでいる川である。

大昔のことであるがと前置きされて語った川の風景。

かつては川舟があった。

沖台川は千日町の傍を流れてオオカワ(大川)と呼んでいた富雄川へと流れていた。

矢田坐久志玉比古神社のお渡りに船渡御があったと話すNさん。

現代ではなく、江戸時代のことである。

古文書によれば一、二、三老の仕事で船渡御をする船頭に賃金を支払っていたと云う。

さらに、沖台川では土塀の白壁原料となる漆喰も運んでいたと話す。

上流に運ぶのはおそらくロープであったと考えられるが証しはない。

ちなみに北のサンマイ墓付近を流れる川の名はサンマイガワ。充てる漢字は三昧川である。

(H25. 7.27 SB932SH撮影)