川西講大神宮のゴウシンさん神事を終えれば直ちに川東へ向かう池坐朝霧黄幡比賣神社の藤本宮司。
川西の御湯を終えた里の女児巫女も急ぐ。
川東惣講大神宮は現在の大和川西岸に建つ。
寄進年代は不明であるが、「川東惣講中」の刻印が見られる。
西岸に建っている大神宮を「川東惣講中」と呼ぶのは不思議な感じがするが、かつての大和川は法貴寺集落の中央を南北に流れていた。
そこを境に川西、川東に分かれていたのである。
昭和57年8月に発生した台風10号によって激しい豪雨によって、流れていた大和川(初瀬川)左岸にあった堤防が決壊した。
田原本町北部の大部分は甚大な浸水被害が発生したのである。
その後の5年間にかけておこなわれた大和川改修工事によって川筋を大きく変えた。
その工事によって川東垣内は東西に分断されたのである。
かつての大和川(初瀬川)は細い水路を中心に公園化されて、当時の面影を僅かに残している。
四方に竹を立てて注連縄を張った川東惣講中の大神宮。
川東は東市場、南、西市場、寺内、宮ノ前(神社前)垣内の五垣内であるが、ほとんどが現在の大和川東側にある集落だ。
川東で神事が行われている際にも郵便屋さんが走り抜けていった。
宮司による神事や里の女児巫女が作法する御湯は川西講中と同じである。
その場に居合わせた宮ノ前垣内の住民であるM氏の話によれば、9月21日に斎宮神社の例祭が営まれると云う。
かつては「雨乞いのヤマモリ」とい称していた例祭は、「雨降らんか、降らんかったら雨乞い、降ったらヤマモリをしていた」と云う。
西口、西南、一部の前田垣内の氏子のマツリで、御湯の神事が行われるそうだ。
ちなみに9月7日は池坐朝霧黄幡比賣神社の弁天さんのヤマモリがある。
寺内、宮ノ前垣内のマツリで、その際にも御湯が行われる。
さらには南垣内が祀るコンピラさんにおいても御湯があるそうだ。
宮ノ前の住民が話した池坐朝霧黄幡比賣神社のだんじり。
ヨイミヤは15時に宮入り。
翌日の本宮においては同時刻に5台の宮出しをしていると云う。
その順は三方においた籤引きで決まるらしい。
(H25. 7.16 EOS40D撮影)
川西の御湯を終えた里の女児巫女も急ぐ。
川東惣講大神宮は現在の大和川西岸に建つ。
寄進年代は不明であるが、「川東惣講中」の刻印が見られる。
西岸に建っている大神宮を「川東惣講中」と呼ぶのは不思議な感じがするが、かつての大和川は法貴寺集落の中央を南北に流れていた。
そこを境に川西、川東に分かれていたのである。
昭和57年8月に発生した台風10号によって激しい豪雨によって、流れていた大和川(初瀬川)左岸にあった堤防が決壊した。
田原本町北部の大部分は甚大な浸水被害が発生したのである。
その後の5年間にかけておこなわれた大和川改修工事によって川筋を大きく変えた。
その工事によって川東垣内は東西に分断されたのである。
かつての大和川(初瀬川)は細い水路を中心に公園化されて、当時の面影を僅かに残している。
四方に竹を立てて注連縄を張った川東惣講中の大神宮。
川東は東市場、南、西市場、寺内、宮ノ前(神社前)垣内の五垣内であるが、ほとんどが現在の大和川東側にある集落だ。
川東で神事が行われている際にも郵便屋さんが走り抜けていった。
宮司による神事や里の女児巫女が作法する御湯は川西講中と同じである。
その場に居合わせた宮ノ前垣内の住民であるM氏の話によれば、9月21日に斎宮神社の例祭が営まれると云う。
かつては「雨乞いのヤマモリ」とい称していた例祭は、「雨降らんか、降らんかったら雨乞い、降ったらヤマモリをしていた」と云う。
西口、西南、一部の前田垣内の氏子のマツリで、御湯の神事が行われるそうだ。
ちなみに9月7日は池坐朝霧黄幡比賣神社の弁天さんのヤマモリがある。
寺内、宮ノ前垣内のマツリで、その際にも御湯が行われる。
さらには南垣内が祀るコンピラさんにおいても御湯があるそうだ。
宮ノ前の住民が話した池坐朝霧黄幡比賣神社のだんじり。
ヨイミヤは15時に宮入り。
翌日の本宮においては同時刻に5台の宮出しをしていると云う。
その順は三方においた籤引きで決まるらしい。
(H25. 7.16 EOS40D撮影)