天理市櫟本町の高品(たかしな)の夏祭りを知ったのは5年ほど前だ。
櫟本町の和爾下神社で行われる夏祭りの茅の輪潜りなどを下見していた。
駐車場付近の民家に貼ってあった行事の案内に高品の長林寺で行われる観音夏祭りが書かれていた。
高品がどこであるのか気にもかけずにいた。
当時はどちらかといえば神社行事を中心に取材していた。
その後は地域の講を調べることが多くなった。
観音さんの祭りであれば観音講が考えられると、ふと思い出した。
随分と月日が経過したある日の送迎。
患者さんは櫟本の市場や膳史(かし)の住民。
Fさん、Nさんの二人の話しによれば、その日に花火が打ち上げられると云う。
「南六条から櫟本に嫁入りしたころは和爾下神社の祇園祭には立山があった」と云う。
およそ50年前。随分前の祭りの様相である。
白土町に住む送迎患者のSさんはこう云った。
「櫟本の祇園さんの日は川沿いに並んだ店で賑わった。ところどころに立山があった。商工会も作っていたし、イナヤ(稲屋であろう)にもあった。芝居小屋は現在の南都銀行の処やった。白土の隣村になる横田での立山は横田の和爾下神社前の電器屋や南の辻など、5か所にあった」と話す。
立山の存在を覚えていた小泉の送迎患者のYもこう話した。
「南六条のマツリに大神楽が来ていた。そのときには村で立山があった。横田や二階堂の街道筋の民家の広い場にもあった。見に行ったのは子どものころだ」である。
80歳を越えた高齢者が記憶にある立山はかつての村行事の在り方であった。
長林寺の観音夏祭りに話を戻そう。
「毎年7月17日は長林寺で行われる観音さんの祭りは、当時居られた安寿さんが始めた。19時ころに花火が上がって盛大な夏祭りだ」と話す櫟本の住民の声に誘われてやってきた高品地区。
商店が立ち並ぶ南北を貫く街道は奈良から桜井へ行き交う上街道。
京都から奈良街道を経て、古都奈良から桜井を結び初瀬参拝の道として江戸時代に発展した街道である。
高品の商店街には高く揚げた行燈型の提灯がある。
新地町内の行燈は「黒川に 抜苦興楽乃 御船阿里 月春」、「真善美 聖のすがたや 観自在 月春」を挟んだ中央には「観世音菩薩」とある。
反対側にも「月春」の句が寄せられている。
北側にも掲げてあった行燈型提灯には「信仰に 人の道あり 夏木立」、「うその無い 話涼しも 橋の上」だ。
反対側にもあった句は「はたらきに 一歩の徳や 汗涼し」、「花の精 観音さまを 生みにけり」だった。
その行燈が掲げられている一角にある建物が長林寺である。
北隣村の楢町に鎮座する楢神社はすぐ傍にある。
長林寺の本尊は観音さん。
周囲にはたくさん積みあげられた千手、如意輪観音などの観音像が処狭しとある。
このような光景は未だかって見たことがない。
台座と思われるような箱には西国三十三番札所の各寺が記されていた。
33体であるか、それとも千手、十一面、聖観音の3体を安置する近江八幡の長命寺のことを考えれば35体であるのかも知れない。
陽が落ちるころには法要が営まれる。
僧侶は櫟本の三寺(浄土宗極楽寺、融通念仏宗大興寺、浄土真宗覚王寺)が一年交替であたる。
この年は大興寺であった。
法要が始まる前には地区の人たちが訪れて参拝をする。
受付を済ませた人たちは線香とローソクをもらって手を合わせる。
一本、一本灯すローソクの火が風に揺れる。
子供連れ、家族連れ・・・・次から次へと参拝に来られる。
子供たちだけで来る子らも手を合わせている。
信仰が厚い町の子供の作法に感服する。
住職の法要に参集したのは櫟本観音講の婦人たち。
融通念仏の「夕時念仏」を唱えたあとは般若心経に移る。
本尊の前に御膳を供えた。
朱塗りの膳に盛った椀も朱塗りだ。
モチゴメにウルチ米を半々に混ぜたセキハン椀やカボチャ・オクラ・シイタケ・アゲ・ゼンマイの煮もの椀、エンドウマメの胡麻和え椀、シメジと菜っ葉の汁椀にキュウリ・トマトの香物だ。
いつもこうしているという御膳は調理膳である。
しばらく歓談して帰っていった住職。
残った婦人たちはこの場で西国三十三番のご詠歌を唱える。
かつて長林寺の住職を勤めていたのは蔵之庄の蔵福寺の先々代のお弟子さんになる安寿さんだった。
安寿さんが病いで入院された。
それから数年後に亡くなられた。
安寿さんが居られた時代もご詠歌の導師を勤めていたⅠさんは、亡くなられたあとも続けている。
キーン、キーンと平鉦を打ってご詠歌の調子をとる。
ゆったりとしたリズムで前半は二十三番まで。
なむあみだぶつ、なむあみだぶつで連打して終えた22分間。
西国三十三番のご詠歌は長丁場だけに一旦は小休止。お茶をいただいて一服する。
毎月17日は観音さんの日。
営みは同じく婦人部の人たちだ。
般若心経とご詠歌を唱えている。
高品の観音講は毎月21日がお大師さん。
その日も同じく般若心経とご詠歌を唱えている。
この夜の夏祭りの観音講の婦人は11人の営み。
かつては17人もおられたが今では12人になると云う。
男性も入れた講中すべてで50人にもなるそうだ。
後半は二十四番から。番外の「たにぐみ」、「くわざんのいん」、「くまのみょうほう山」、「なら二ぐわつだう」、「かうや山こうぼう大し」、「やなぎ谷くわんぜおん」、「ぜんくわうじ」、「やたのぢぞうさん」、「おとわのくわんぜおん」なども唱えた後半は13分間であった。
丁寧に唱える間もたゆまなく参拝する町の人たち。
ご詠歌を終えた時間後も絶えることがない。
この夜は町内会の大抽選会もある。
受付に並ぶ人で長い行列ができる。
賞品は一等賞がテレビで、二等は洗濯機だ。
観音講の寄付で賄っている賞品の豪華さに驚いた。
ドーン、ドーンと花火が上がった。
近くの新池から打ち上げられる高品町内会の花火大会に足を停めて見る町の人。
10分間に打ちあがった花火を楽しんでいた。
観音講の営みは2月の春祭りもある。
そのときは護摩壇に護摩木を燃やして絵馬を奉納すると云う。
(H25. 7.17 EOS40D撮影)
櫟本町の和爾下神社で行われる夏祭りの茅の輪潜りなどを下見していた。
駐車場付近の民家に貼ってあった行事の案内に高品の長林寺で行われる観音夏祭りが書かれていた。
高品がどこであるのか気にもかけずにいた。
当時はどちらかといえば神社行事を中心に取材していた。
その後は地域の講を調べることが多くなった。
観音さんの祭りであれば観音講が考えられると、ふと思い出した。
随分と月日が経過したある日の送迎。
患者さんは櫟本の市場や膳史(かし)の住民。
Fさん、Nさんの二人の話しによれば、その日に花火が打ち上げられると云う。
「南六条から櫟本に嫁入りしたころは和爾下神社の祇園祭には立山があった」と云う。
およそ50年前。随分前の祭りの様相である。
白土町に住む送迎患者のSさんはこう云った。
「櫟本の祇園さんの日は川沿いに並んだ店で賑わった。ところどころに立山があった。商工会も作っていたし、イナヤ(稲屋であろう)にもあった。芝居小屋は現在の南都銀行の処やった。白土の隣村になる横田での立山は横田の和爾下神社前の電器屋や南の辻など、5か所にあった」と話す。
立山の存在を覚えていた小泉の送迎患者のYもこう話した。
「南六条のマツリに大神楽が来ていた。そのときには村で立山があった。横田や二階堂の街道筋の民家の広い場にもあった。見に行ったのは子どものころだ」である。
80歳を越えた高齢者が記憶にある立山はかつての村行事の在り方であった。
長林寺の観音夏祭りに話を戻そう。
「毎年7月17日は長林寺で行われる観音さんの祭りは、当時居られた安寿さんが始めた。19時ころに花火が上がって盛大な夏祭りだ」と話す櫟本の住民の声に誘われてやってきた高品地区。
商店が立ち並ぶ南北を貫く街道は奈良から桜井へ行き交う上街道。
京都から奈良街道を経て、古都奈良から桜井を結び初瀬参拝の道として江戸時代に発展した街道である。
高品の商店街には高く揚げた行燈型の提灯がある。
新地町内の行燈は「黒川に 抜苦興楽乃 御船阿里 月春」、「真善美 聖のすがたや 観自在 月春」を挟んだ中央には「観世音菩薩」とある。
反対側にも「月春」の句が寄せられている。
北側にも掲げてあった行燈型提灯には「信仰に 人の道あり 夏木立」、「うその無い 話涼しも 橋の上」だ。
反対側にもあった句は「はたらきに 一歩の徳や 汗涼し」、「花の精 観音さまを 生みにけり」だった。
その行燈が掲げられている一角にある建物が長林寺である。
北隣村の楢町に鎮座する楢神社はすぐ傍にある。
長林寺の本尊は観音さん。
周囲にはたくさん積みあげられた千手、如意輪観音などの観音像が処狭しとある。
このような光景は未だかって見たことがない。
台座と思われるような箱には西国三十三番札所の各寺が記されていた。
33体であるか、それとも千手、十一面、聖観音の3体を安置する近江八幡の長命寺のことを考えれば35体であるのかも知れない。
陽が落ちるころには法要が営まれる。
僧侶は櫟本の三寺(浄土宗極楽寺、融通念仏宗大興寺、浄土真宗覚王寺)が一年交替であたる。
この年は大興寺であった。
法要が始まる前には地区の人たちが訪れて参拝をする。
受付を済ませた人たちは線香とローソクをもらって手を合わせる。
一本、一本灯すローソクの火が風に揺れる。
子供連れ、家族連れ・・・・次から次へと参拝に来られる。
子供たちだけで来る子らも手を合わせている。
信仰が厚い町の子供の作法に感服する。
住職の法要に参集したのは櫟本観音講の婦人たち。
融通念仏の「夕時念仏」を唱えたあとは般若心経に移る。
本尊の前に御膳を供えた。
朱塗りの膳に盛った椀も朱塗りだ。
モチゴメにウルチ米を半々に混ぜたセキハン椀やカボチャ・オクラ・シイタケ・アゲ・ゼンマイの煮もの椀、エンドウマメの胡麻和え椀、シメジと菜っ葉の汁椀にキュウリ・トマトの香物だ。
いつもこうしているという御膳は調理膳である。
しばらく歓談して帰っていった住職。
残った婦人たちはこの場で西国三十三番のご詠歌を唱える。
かつて長林寺の住職を勤めていたのは蔵之庄の蔵福寺の先々代のお弟子さんになる安寿さんだった。
安寿さんが病いで入院された。
それから数年後に亡くなられた。
安寿さんが居られた時代もご詠歌の導師を勤めていたⅠさんは、亡くなられたあとも続けている。
キーン、キーンと平鉦を打ってご詠歌の調子をとる。
ゆったりとしたリズムで前半は二十三番まで。
なむあみだぶつ、なむあみだぶつで連打して終えた22分間。
西国三十三番のご詠歌は長丁場だけに一旦は小休止。お茶をいただいて一服する。
毎月17日は観音さんの日。
営みは同じく婦人部の人たちだ。
般若心経とご詠歌を唱えている。
高品の観音講は毎月21日がお大師さん。
その日も同じく般若心経とご詠歌を唱えている。
この夜の夏祭りの観音講の婦人は11人の営み。
かつては17人もおられたが今では12人になると云う。
男性も入れた講中すべてで50人にもなるそうだ。
後半は二十四番から。番外の「たにぐみ」、「くわざんのいん」、「くまのみょうほう山」、「なら二ぐわつだう」、「かうや山こうぼう大し」、「やなぎ谷くわんぜおん」、「ぜんくわうじ」、「やたのぢぞうさん」、「おとわのくわんぜおん」なども唱えた後半は13分間であった。
丁寧に唱える間もたゆまなく参拝する町の人たち。
ご詠歌を終えた時間後も絶えることがない。
この夜は町内会の大抽選会もある。
受付に並ぶ人で長い行列ができる。
賞品は一等賞がテレビで、二等は洗濯機だ。
観音講の寄付で賄っている賞品の豪華さに驚いた。
ドーン、ドーンと花火が上がった。
近くの新池から打ち上げられる高品町内会の花火大会に足を停めて見る町の人。
10分間に打ちあがった花火を楽しんでいた。
観音講の営みは2月の春祭りもある。
そのときは護摩壇に護摩木を燃やして絵馬を奉納すると云う。
(H25. 7.17 EOS40D撮影)