国指定重要有形民俗文化財の浴室「からふろ」は門跡寺院の法華寺東門正面にあります。
光明皇后の千人施浴発願によって建てられたもので、当時は同寺から東500メートル辺りだったそうだ。
慶長年間に現在地に再建されたと伝えられ、室町後期に改築、その後、江戸、明治に幾たびか修理を重ねてきましたが傷みが激しくなり、平成15年に光明皇后生誕1300年を記念して復元修理された。
湯釜から蒸気を導入する方式の蒸し風呂は極めて珍しい浴室で貴重な文化財です。
このからふろで施浴体験できる行事が毎年一回行われている。
蒸気釜はヒノキやクリの木をくべて湯を沸かす。
水を入れると一挙に蒸気が冷めるので補助釜に湯を沸かし、それを本釜に柄杓で継いでいく。
世話方の実行委員の方々は施浴を始める前に薬師堂に並びお参りをする。
副住職が唱えるご真言は七回。
「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」と唱えるのが習わしで施浴体験される方々もこれを唱えてから控え室に向かいます。
施浴予約は約30数名。
著名人の方々も名を連ねている。
体験者の話では、入浴後は全身の力が抜けてその日は何もする気がおこらなかったそうだ。
長い施浴で20分。
短い人は1分ほどで出てきたそうです。
蒸し風呂内部は一畳ほどの浴室が2室。
それぞれ6名ほどが入れる。
「沐浴身体 当願衆生 心身無垢 内外清浄 六根清浄 三業清浄」と沐浴の偈文(げもん)を唱えてから入浴する。
室内は湯気でまっ白。
暑いからと室外の板敷きで身体を冷やす人もおられるが、ほとんどは座り続けている。
一時間も座り続けたご家族には驚かせる。
施浴の浴衣は汗でびっしょり。
飛び入りで参加された方もおられたからふろ施浴は、古式に則る昔ながらの沐浴斎行で素朴な味わいがあるといいます。
(H21. 6.13 Kiss Digtal N撮影)
光明皇后の千人施浴発願によって建てられたもので、当時は同寺から東500メートル辺りだったそうだ。
慶長年間に現在地に再建されたと伝えられ、室町後期に改築、その後、江戸、明治に幾たびか修理を重ねてきましたが傷みが激しくなり、平成15年に光明皇后生誕1300年を記念して復元修理された。
湯釜から蒸気を導入する方式の蒸し風呂は極めて珍しい浴室で貴重な文化財です。
このからふろで施浴体験できる行事が毎年一回行われている。
蒸気釜はヒノキやクリの木をくべて湯を沸かす。
水を入れると一挙に蒸気が冷めるので補助釜に湯を沸かし、それを本釜に柄杓で継いでいく。
世話方の実行委員の方々は施浴を始める前に薬師堂に並びお参りをする。
副住職が唱えるご真言は七回。
「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」と唱えるのが習わしで施浴体験される方々もこれを唱えてから控え室に向かいます。
施浴予約は約30数名。
著名人の方々も名を連ねている。
体験者の話では、入浴後は全身の力が抜けてその日は何もする気がおこらなかったそうだ。
長い施浴で20分。
短い人は1分ほどで出てきたそうです。
蒸し風呂内部は一畳ほどの浴室が2室。
それぞれ6名ほどが入れる。
「沐浴身体 当願衆生 心身無垢 内外清浄 六根清浄 三業清浄」と沐浴の偈文(げもん)を唱えてから入浴する。
室内は湯気でまっ白。
暑いからと室外の板敷きで身体を冷やす人もおられるが、ほとんどは座り続けている。
一時間も座り続けたご家族には驚かせる。
施浴の浴衣は汗でびっしょり。
飛び入りで参加された方もおられたからふろ施浴は、古式に則る昔ながらの沐浴斎行で素朴な味わいがあるといいます。
(H21. 6.13 Kiss Digtal N撮影)
茗荷町でホオの葉弁当を作って食べた。
作り方を教わった長老に案内されて自宅の野良小屋へ。
その前になにやら穴がそこらじゅうあっちこっちに見つかる。
アリジゴクと思いきやどうもすり鉢が見受けられない。
お聞きすればツチバチの穴だという。
そうこうしているうちにハチが数匹飛んできた。
靴底でふんずけられた塞がった穴辺りを飛んでいる。
自分の穴って判るんだろうか。
穴を見つけてスコスコと入っていった。
(H21. 6. 9 Kiss Digtal N撮影)
作り方を教わった長老に案内されて自宅の野良小屋へ。
その前になにやら穴がそこらじゅうあっちこっちに見つかる。
アリジゴクと思いきやどうもすり鉢が見受けられない。
お聞きすればツチバチの穴だという。
そうこうしているうちにハチが数匹飛んできた。
靴底でふんずけられた塞がった穴辺りを飛んでいる。
自分の穴って判るんだろうか。
穴を見つけてスコスコと入っていった。
(H21. 6. 9 Kiss Digtal N撮影)
Oさん宅では昔のモノがたくさん残されている。
テレビは懐かしいブラウン管式。
おかしくなったら真空管を替えりゃちゃんと映る。
全盛期だったころあっちこっちに出向いては交換修理で儲けたと笑顔で話す。
昭和15年のスタンプが押されているおじいさんの葉書が残っている。
呉軍港から出された軍事郵便扱いの葉書は「検閲済」の朱色のスタンプが押されている。
また、ご自身が生まれたころの祖々母が拝受された御沙汰書寫も残されている。
御沙汰書寫は大正十二年の記しがある。
当時の鉄道大臣から機関車脱線事故があり罹災者宛てに皇后両陛下より下賜相成りされたものだ。
裏庭に生えているホウも案内された。
そこには野良小屋があり、奥から当時使われていた箕を取り出してこられた。
ひとつはイグサで編まれた箕。
もうひとつはシュロの葉で作られた箕。
今でも使えるでと着込んでくださった。
(H21. 6. 9 Kiss Digtal N撮影)
テレビは懐かしいブラウン管式。
おかしくなったら真空管を替えりゃちゃんと映る。
全盛期だったころあっちこっちに出向いては交換修理で儲けたと笑顔で話す。
昭和15年のスタンプが押されているおじいさんの葉書が残っている。
呉軍港から出された軍事郵便扱いの葉書は「検閲済」の朱色のスタンプが押されている。
また、ご自身が生まれたころの祖々母が拝受された御沙汰書寫も残されている。
御沙汰書寫は大正十二年の記しがある。
当時の鉄道大臣から機関車脱線事故があり罹災者宛てに皇后両陛下より下賜相成りされたものだ。
裏庭に生えているホウも案内された。
そこには野良小屋があり、奥から当時使われていた箕を取り出してこられた。
ひとつはイグサで編まれた箕。
もうひとつはシュロの葉で作られた箕。
今でも使えるでと着込んでくださった。
(H21. 6. 9 Kiss Digtal N撮影)
茗荷町辺りの田原の里はお茶の栽培が盛んだ。
大和でお茶といえば茶粥が出てくる。
田原の番茶でこしらえた大和茶粥はさっぱりとして一杯が二杯、三杯と食をそそる。
今では見られなくなった田原の節句チマキ。
茗荷町では春に白い穂の花を付ける「チバ」の柔らかい葉を使ってチマキを作っていた。
萱と違って「チバ」は作業がし易いそうだ。
実際に生えている「チバ」を拝見すれば、それは田畑に繁るチガヤだった。
白い花が若いころは蜜が詰まっていて、吸うと甘いので畑仕事の合間に食べたと仰る。
(H21. 6. 9 Kiss Digtal N撮影)
大和でお茶といえば茶粥が出てくる。
田原の番茶でこしらえた大和茶粥はさっぱりとして一杯が二杯、三杯と食をそそる。
今では見られなくなった田原の節句チマキ。
茗荷町では春に白い穂の花を付ける「チバ」の柔らかい葉を使ってチマキを作っていた。
萱と違って「チバ」は作業がし易いそうだ。
実際に生えている「チバ」を拝見すれば、それは田畑に繁るチガヤだった。
白い花が若いころは蜜が詰まっていて、吸うと甘いので畑仕事の合間に食べたと仰る。
(H21. 6. 9 Kiss Digtal N撮影)