マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

北野山町の秋祭り

2010年10月11日 06時40分45秒 | 楽しみにしておこうっと
奈良県東部の東山中辺りでは田楽などの神事芸能を奉納されている地区が散見される。

奈良市では柳生町八坂神社、阪原町長尾神社、邑地町水越神社、大保町八坂神社、水間町八幡神社、大柳生夜支布山口神社、下狭川九頭神社。

山添村では北野天神社、室津戸隠神社、桐山戸隠神社、峰寺六所神社、中峯山神波多神社などだ。

布目川沿いに位置する北野山町の戸隠神社で演じられる田楽は、列挙した一連の地区における東山中の神事芸能として無形民俗文化財に指定されている。

秋祭りは10月15日だった。

勤め人が多いさかいといって集まり易い休日に移行されて、現在は体育の日になっている。

宵宮と本宮では持ち物の順とかが多少異なる。

ソウ(素襖)と呼ばれる衣装を着るのはゴヘイモチの当家、ジャリジャリ、フエ、タイコの4人に何も持たない人が続く。

当家は秋祭りの前月。

12日に振り上げで決められる。

茶碗にクジを入れて穴を開けた半紙を被せる。

それを総代が本殿に参ってから振り上げるそうだ。

その日はコモリと呼んでいる。

この日も日にちが替わった。

以前は15日だったがこの日も併せて休日になった。

5人は当家を入れて渡り衆と呼ばれている。

ソウ(素襖)を着て烏帽子を被る。

履きものは下駄だ。

奉納される拝殿にあがるときは草履に履き替える。

当家以外の渡り衆は既に決まっている。

その人たちは年齢順になる。

それが年ごとに繰り下がるので長老組や若者組になる場合もある。

拝殿で奉納されるのは目出度い詞が連なる謡い語り。

始めに渡り衆のなかから若い者が一人歩み出る。

「アカツキオキテ ソラミエル コガネマジリノアメガフリテ ソノアメヨウテ ソラハレテ トコロガサカエ タマブウエシ キミガヨ」の謡い台詞。

その直後に渡り衆はジャリジャリ、フエ、タイコを鳴らす。

ジャリジャリは丹生町でササラと呼ばれている鳴り物だ。

フエは2、3本あるがそのうちの一本を使う横笛。

タイコは手で提げて持つ太鼓だそうだ。

次は渡り衆のなかの年長者が歩み出て謡う。

「セイヨウノハルノアシタニハ カドニオマツヲタテナラベ オサマルミヨノシルシニハ タミノカマドニタツケムリ マツカラマツヘ ヨウゴノマツ」。

周りの衆は「ハァ」と掛け声を掛けてジャリジャリ、フエ、タイコを鳴らす。

最後は当家が締めくくる。

「ヤットトントン(3回繰り返す) オンマエナラオンマエ カメハカメ ツルコソフレテマエアソビ ツルノコヤシャマゴノ ソダトウヨウマデ トコロガサカイ(処が栄えるの意) タマブウエシ(賜って嬉しいの意) キヨガツハ」と謡いの台詞を述べる。

節回しは独特だそうだ。

思い出しながら詞章を語ってくれたO氏は84歳の長老だ。

若い者は書いてある台詞を見ながら謡うのだと嘆かれた。

最後はジャリジャリ、フエ、タイコを鳴らしながら揃って「キミガヨハ カネテコソ ヒサシカルベキ スミヨシノ マツヤニユウドウ」と謡う。

桐山はこれに付けて「安岐の国 厳島の弁財天王 いざや宝を拝むよう」と謡うそうだ。

北野山町の戸隠(とがくし)神社の本社は桐山の戸隠神社。室津の戸隠神社とともに本社だそうだ。

かつては三社の合同祭礼だった。

が、村のものがケンカしたことから別れたという。

その地は釜の口と呼ばれ、ケンカした際に使っていた釜を捨てた地だという。

本祭では渡り衆の順が替わる。

ゴヘイモチの当家、ゴヘイモチ、ジャリジャリ、フエ、タイコの順になる。

いずれも当家の家を出発するが宵宮は提灯の灯りで神社に向かうそうだ。

北野山町には山の神がある。

お渡りの際にはその山の神に向かって今年もよろしくお願いしますと拝礼するそうだ。

また、宵宮には枝付きのエダマメが出る。

茹でたエダマメはとても美味しいという。

戸隠神社の本殿後方は磐である。

磐の中は空洞で扉がある。

いわゆる岩戸であって宝物を納めていると言い伝えが残っている。

実際には確かめたことがないそうだ。

(H22. 9. 3 記)

北野山町明王院イセキ

2010年10月10日 06時38分37秒 | 奈良市(東部)へ
奈良市の北野山町は隣村の丹生町と山添村の境にある山間地。

室町期に建立されたとする明王院がある。

お堂は昭和61年に建て替えられた。

それ以前は大きな庫裡もあって藁葺きだったそうだ。

お堂は瓦葺きだった。

それを示す文化年代(1804元年)の再建瓦寄付帳の古文書が残されている。

瓦檀家衆は丹生町や興ヶ原町、邑地町の布目川に沿っている。

本尊に不動明王を祀る明王院。

明治45年6月の寶物貴重品台帳には本尊不動明王、本尊脇立、地蔵尊、釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来、弘法大師、中奥開像、三宝荒神像書画、両界曼荼羅掛け図、音金、鉢とある。

掛け図は損失し新調されたそうだ。

その掛け図と音金は亡くなった人を弔うときに使っている。

柳生の立野寺から住職を迎えて法要が営まれる。

それ以前は興ヶ原から来ていたそうだ。

9月3日の今夜は村中の人たちが集まってくるイセキの日。

昭和34、5年ころまでは盆踊りをしていた。

「盆踊りは三日イセキや」と言ってみんなが踊っていた。

江州音頭だったという。

いつしか廃れて村は19軒になった。



公民館を建ててからは境内で料理をこしらえて集まるようにしている。

テーブルに出された料理を肴にビールを飲む語らいの場となっている。

一年に一度のイセキの夜はお堂の扉を開ける。

祀られている仏像のご開帳だ。

線香をくゆらして参拝者を待つ。

お布施を捧げて手を合わせた。

子供が喜ぶ花火も打ち上げられた。

山間の夜は冷える。

上着を羽織って、酒を飲む。長い夜の宴は始まったばかり。

そのころにはカラオケBGMに混じってクツワムシがガチャガチャと演奏をしだした。

(H22. 9. 3 EOS40D撮影)

矢田口御旅所八朔祭り

2010年10月09日 07時20分22秒 | 大和郡山市へ
「八朔祭りのお参り、今年は多いなあ」と話す役員さん。

夕方に始まった矢田口御旅所の祭礼だ。

神職を迎えて豊作を祈願する。

とはいっても旧村氏子のなかには農家は一軒もない。

畑作をしていた農家もサラリーマンになったのだ。

矢田口御旅所は新木町の新城神社の御旅所にあたる。

20年ほど前までは神社から担がれた御輿がお渡りをしていたそうだ。

本家の神社では八朔の祭礼が廃れたが、御旅所では社を建立して行ってきた。

遷す神さんが居なくともこうして祭礼に集まってくる氏子たち。

親子連れなど次々と社に向かって手を合わせる。

希には子供だけでお参りをする子たちも居る。

「お参りしたら勉強ができるようになるで」と言われているそうだ。

境内ではみたらし団子を焼く店や金魚掬いもある。

大人たちも入って賑やかな八朔祭りの夕べは地域の夏祭りでもある。

(H22. 9. 1 EOS40D撮影)

大人講の鉦

2010年10月08日 07時19分39秒 | 大和郡山市へ
白土町の大人念仏講は三組ある。

かつては7日から一週間の14日まで念仏鉦を叩いていた。

集まることが難しくなって10年ほど前に7日の一日だけになった。

1組は10人。

7日のお勤めは5人ずつ交替するから2年にいっぺんの念仏鉦叩きだ。

念仏鉦を預かる家は決まっていてそれぞれの組にある。

2組はK家だ。もうひとつの組はN家らしい。

もう一組は判らないという。

7日の念仏講に供えて予め当番の人が取りに来る。

それは数日前のことだ。

営みを終えれば鉦はK家に再び預けられる。

4枚の鉦には「白土村念佛講中」の刻印があった。

これらは隣家のK家の先人が寄進したと伝わっている。

3枚の鉦の中央には墨書が認められたが文字は判読できない。

もうひとつ重要な書類が残されていた。

念仏講の箱の中にはそれらが入っていることが判っているが未だかって見たこともなかった帳面だったとK氏は話す。



念佛講中の記帳で年号が判別したのは新しいものから明治28年、天明(1781年)、寛政13年(1789年)があった。

覚え書きと想定される帳には文政10年(1827年)が記されている。

残る2組の存在を確認せねばならないがそれでも230年前のものだ。

子供念仏講ではさらに古く、享保21年(1737年)2月15日の覚書が見つかっただけに気になる帳だ。

その記述のなかに「観音堂什物」とある。

淨福寺内のお堂であろう。

そういえば子供の念仏講の鉦のなかには「観音堂」の刻印があった。

念仏講には観音堂となんらかの関係があったのではないだろうか。

(H22. 9. 1 SB932SH撮影)

ヤツバシラからヤツホ

2010年10月07日 08時14分19秒 | 大和郡山市へ
六老のK氏の家では古くから伝わる人員帳が残されている。

それにそれば八坂神社でなく八柱神社と記されている。

先代の前の前のもっと前の先代の名がある人員帳。

天保2年(1831年)生まれで安政四年(1858年)に称念寺で相続したとある。

江戸時代は八柱神社と呼ばれていた八坂神社。

廃仏毀釈のおりだろうか、明治時代に八坂神社と改称されたようだ。

先人から東と西のハツホサンは八柱神社の上社と下社だったと聞いているKさん。

八柱はヤツバシラ。

それが訛ってヤツバからヤツボ、そしてヤツホへ。

その後も訛ってハツホとなったのであろうか。

ホは穂だと六人衆は声を揃えていう。

(H22. 9. 1 EOS40D撮影)

石川八坂神社八朔御膳上げ

2010年10月06日 07時22分51秒 | 大和郡山市へ
節目、節目に氏神さんにお参りして豊作を祈願する。

台風のシーズンを迎えている稲穂の田。

大切に育ててきたころ、台風が軽く済みますようにと祈る八朔の行事。

石川町の八坂神社を守っている上六人衆は風呂敷を抱えて公民館にやってきた。

六人衆は地区の長老たちで農業を営んでいる。

遥か南方で台風が出現したニュースは気がかりだ。

県内と通るかどうかで稲作や野菜作りに影響するからその祈りは大切な行事である。

お茶を飲んで一服した。

気象庁の発表では113年前に統計を始めてから飛び抜けた異常気温を伝えた。

話題は今年の暑さにおける畑作の影響度合いだ。

そろそろ始めようかと御膳箱から取り出した大御膳と小御膳。

そこに八朔のお供えの神饌を載せていく。

カマボコ、お神酒、洗い米、コーヤドーフ、キュウリにナシだ。

七枚の御膳が揃ったら三社やアタゴサン、オイナリサン、西、東のハツホサンと呼ばれているイワクラに供える。

大御膳は三社の本殿に、小御膳はイワクラに並べる。

手を合わせて拝礼を済ませた六人衆。

稲も今がいちばん水を欲しいとき。

田植え後は雨が少なかった。

「今年の出来は半分ぐらいになるかなあ」と語った六人衆は大自然の驚異と向き合って米作りをしている。

八朔の祈りは六人衆だけで営まれた。

上げた御膳は氏神さんに豊作をお願いした。



御膳は神さんのお力をもらってお下がりをいただくのだといい、早くも風呂敷に包まれた。

そのあとは神さんとともに饗食。

座敷でお菓子などを肴にお神酒をいただく。

話題は畑作から世界経済まで発展した。

「今日はかたい話になったわ」と、延々2時間半の直会を済ませて家へ帰っていった。

(H22. 9. 1 EOS40D撮影)

2010十津川遊びp2

2010年10月05日 07時05分42秒 | もっと遠くへ(十津川遊び編)
昨夜はさすがに飲みすぎた。

響き渡るいびきに頭はガンガンするが朝の目覚めはいつもと同じ時間。

リビングでゆったり朝の時間をくつろぐ。静かな朝だ。

朝食はいつもと同じ。

相変わらず納豆がでてくる。何杯も寄せ集められた納豆の器が並ぶ。

かつては何杯もごはんをお代わりしていた。年のせいか2杯目が精一杯。

朝食が済めばいつもの会費徴収。昨夜のビールの本数にびっくらこく。

予定よりオーバーしたので男性方からは千円を加えてもらった。

それでも飲み代は安いものだ。

出発前はいつもとおりに記念撮影。もう何年ここで撮ったことか。

少しずつ成長した証しが写真に残る。

この日も同じ川原で夏を楽しむ。



テキパキと道具を運んで設営する。



食事の用意をし終えたら釣りに興じる。エサはイクラだ。

以前は瓶詰めが売っていたが昨今見なくなった。

食べても美味しいイクラの醤油漬けで川魚を釣る。

これがしたくて仕方がないまみちゃん。

アマゴは釣れなかったがご満悦。顔がほころびすぎ。



昼食は一昨年から始めた鍋はキムチ鍋。

味噌仕立てのストレート出しが利いている。

おっとごめんなさい。ゆかちゃんは辛いものが嫌いだったんだ。

ごめんよね。来年はちゃんこスープにするか。

それとも・・・。

鍋の材料はいたって簡単。白菜、白ネギ、ニラ、もやし、ブタバラ肉、ミンミンギョーザにキムチだ。

そこに中華そば。ただそれだけ。

ぐつぐつ煮えたらできあがり。

お椀に分配して熱々ふーふー。

夏に鍋っておかしいんじゃないのって言われるけどこれが美味いのだ。

料理が鍋だけじゃつまらん。

余った材料を使ってフライパン料理。

第一弾は民宿津川でいただいたシカ肉。



ときおりくださるのだ。

三切れももらったシカ肉は凍っているので切りやすい。

小さな包丁がスルスル入っていく。



塩と胡椒を振りかけてフライパンでジュージュー。香ばしさが河原に漂った。

箸でつまんで口に入れた。

「美味いぞー」の一言でシカ肉の争奪戦になった。



シカ肉だけじゃつまらんだろうにと鍋に使う野菜も入れて焼いた。

これは格別な味だ。

野菜の甘さと肉がまじわった。

余りものはまだある。

余りものというがほんまはへつっているんだな。



ギョーザは多い目に買ってきた。

それは焼きギョーザになった。

ブタバラ肉は900gも買ったので鍋に入りきらん。



ごそっと取り出してキムチ炒めでブタキムチ。



卵も余ったのでモヤシと炒めた。

味付けは塩と胡椒だけど、どれもこれも美味すぎる。

バーベキューなんて目じゃない料理。

少しずつだがみんなの口に入ったかい。

料理人のfさんの料理さばき。「あんたがおらんかったらこんなん食べられへんかったでー」と思う。

いつもなら鍋のあとは雑炊をするのだが昨年辺りから残る状態になっていた。

で、お米を持参するのを止めて正解だった。

そこそこの時間になったら撤収。

昨日同様に手際よく纏める。

今回はなにもかも売り切れた。満足の結果であろう。

あとは自由解散。

温泉に行くのも良しとまたもや割引入湯券を手にして走った。

家族連れとは現地解散。

我々おっさんはホテル昴の温泉に直行した。

津川から滝の湯までは約10分。



昴まではそこからさらに30分。

けっこーな距離で、2年前に浸かった庵の湯からまだ先だ。

昴の温泉では800円が割引されて500円になった。

露天風呂が素晴らしい。まったり湯に浸かって旅の疲れを癒す。

ロビーもゆったり。帰るのがおっくうになる。

雨にも降られず台風の心配もなかった今年の十津川遊び。

来年は還暦を迎えた年になる。

失業しているかもしれない。

そうなれば27回も続いたツアーを中止しようかと思い悩む。

(H22. 8.29 SB932SH撮影)

2010十津川遊びp1

2010年10月04日 07時42分33秒 | もっと遠くへ(十津川遊び編)
うだるような猛暑が続く平成22年の夏。

熱中症にかかる人も少なくない。

頭がボぅとして思考能力が低下する毎日。

街の喧噪から脱出して今年の夏も十津川村に向かった。

いつものコース。いつものメンバーが落ち合う先は近鉄大和高田駅。

初参加のAさんは西大寺駅からURさんが引き連れてきた。

彼が新人時代から知ったる人物である。

その彼もとうに50歳を過ぎた。が、顔つきは変わっていない。

バイクでやってきたMさんと我が家の前でかーさんと立ち話。

話は長くなるのでそのへんまで・・・・。

大和高田までは家から50分。短いようだが時間がかかる。

大阪吹田から電車でやってきたUさんとFさん。

二人の同乗者を乗せて「こんぴら館」を目指す。

これが意外と1時間でいける距離なのだ。

五條の橋を越えて約10分。「こんぴら館」で待ち合わせの三組と合流した。

久しぶりの参加となったT夫妻は元気な姿を見せる。

既に到着していて休息をとっていた。

そこへ来たのがWさん一家。小学四年生になったMちゃんは十津川を一番の楽しみしている子だ。

Sさんは相変わらずのペースでやってきた。

ほぼ揃ったわけだ。今年は16人。

Uさん一家が遅れてくると聞いているので宿屋へ急ぐ。

宿屋は風屋だ。

年々国道が整備されてきたおかげさまで到着時間が少しずつ短くなっている。

こんなところにトンネルがあったっけ・・。

毎年来ていると様相の変化に気づかない。

今日は絶好の晴天日和。青空がまぶしく大和盆地から奥吉野の山々がくっきり見える。

その山々を抜けてトンネルを過ぎれば谷瀬の吊り橋はとうに過ぎ去っていた。

そこから30分。やっと民宿津川に着く。

子猿の「キキ」が居る。一日三回の行水がいいらしい。

あれから一年、すっかり家族の一員になったようだ。

この時期に鳴いているミンミンゼミ。

去年もそうだった。暑さは厳しいがセミは同じだ。

手土産挨拶を済ませて奥の渓谷に入る。

当然ながら携帯の電波は届かない。

今年の夏は晴れ続き。雨はそんなに降っていない。

ところが支流滝川の流れるせせらぎは変わらない。

緑色に染まる樹木からキラキラ光る木漏れ日。

マイナスイオン以上の体感が味わえる渓谷にたどり着くとほっとする。

およそ30分。上流の笹の滝を見終えた車と対向する回数は例年になく多いように感じる。

到着したら早速準備に取りかかる。

道具や食材は全員で運ぶ。慣れたもので手際よく川原にセットアップ。



ぶっかけうどんは7分茹で。



それまではフライパンでポークソーセージ、塩たれやステーキたれの鶏肉。

美味くて飛ぶように口に入っていく。

なんでナンコツがないの?って言われてはっと気が付いた。

去年は売ってなかったので買い出しリストに含んでなかったんだ。

もうひとつはチキンソーセージ。試しに買ってみたのだ。

これも焼いてみる。

焼き加減がどうも判らない。



これぐらいでえーやろと口にしたらウゲェ。なんちゅう味や。

プリプリ感もなく今だかって味わったことがない世界。

みなも同じ反応を示した。

こんなものがお店で売っているなんて信じられない。

どう料理するんだろうか。

美味すぎるぶっかけうどんは2回も作って食べた。完食である。



後日、初参加したたけりんが言った。「ぶっかけうどんも全てが滅茶苦茶に美味しかったです。o(^▽^)o 」と。

安くて簡単料理のぶっかけうどんは定番になりそうだ。

他にもフライパン料理がある。

スーパーサンコーで買った漬けタレチキンとジャスコで買った塩たれチキン。



どちらも美味すぎる。あっという間に売れてしまった。

渓谷は山に囲まれて渓谷を流れる水流が涼しさを与えてくれる。

が、やはり天空から降り注ぐ日差しはきつい。



Wさんが持参したタープが設営された今回。みんなは日陰に集まってくる。

キャンプ用の屋根型テントのタープは防虫網があるスクリーンタイプ。

海に行ったときに強風に煽られて飛んだそうだ。

その際にポールが歪んだ。手で戻してなんとか使えるようにしたという。

そのなかで和気あいあいと談笑。話題は多岐にのぼる。

そして撤収。指示はなくともテキパキと片付けられる。

あっと言う間の撤収。



いつもの滝の湯に直行した。

河原からおよそ40分。

民宿津川でいただいた割引入湯券を提示すれば安くなる。

500円が300円になった。ありがたい券だ。

汗も落として湯あがりはスッキリ顔で身体もシャキシャキした。

Mちゃんが発した台詞。おかあさんの足から血が流れている。

どうやらヒルにやられたらしい。

場所はといえば河原でない。車道でだ。

往来の車を避けるために降りて誘導していたときにやられたのであろう。

小さな症状だったのでたいしたことはなかった。

ところがだ。翌日は私もやられていて二日後に痒くなった。

それはともかく大阪からやってくるUさん一家はまだ来ない。

五條辺りを走っているらしい。

1時間以上は遅れるようだ。

割引券はどうするか。

答えは滝の湯に預かってもらう手だ。

民宿津川のお客さんだと伝えたら快く応じてくださった。



それはともかく、再び津川に戻って夕ごはんの宴。

定番の夜食は鮎の塩焼きにお造り、シシ鍋、シカ肉の陶板焼きなど。

このときに発生したデジ一眼カメラの故障。

ERR99だ。久しぶりの再発だ。

これがでればどうしようもない。仕方なくケータイ画像で我慢する。

乾杯してから一時間後、ようやくUさん一家が大阪から到着した。

子供たちのクラブを終えてからの参加。

大きくなったものだ。



お腹もいっぱい。そろそろ子供の時間。

花火大会だ。

おっさんになった我々は座敷でカラオケもせず相変わらず宴を続けている。

数年前からこんな調子になってしまった宴。

つもる話に盛り上がりビールの本数が上昇する。

花火を終えて子供たちが帰ってきた。

たけりんは花火の場所を探してあっちへこっちへ。

とうとう所在が判らないと戻ってきた。

一人で行くと迷子になるんよね。

その後もおっさんは飲み続ける。

朝に清算したら27本も出動していた。

近年最高の本数になった宴は夜10時に閉店した。

その後の寝床は壮絶だった。

MさんとSさんはいびきかき。

別部屋に閉じ込めてはいたのだけど・・・。

まさかたけりんがそれ以上のいびきかきだったとは。

艦砲射撃の連続打ち。

朝まで寝られなかったのはいうまでもない。

隣で寝ていたUさんも悩まされた夜中だった。

(H22. 8.28 SB932SH撮影)

八木町愛宕祭

2010年10月03日 08時59分41秒 | 橿原市へ
古来の街道が交差する八木札の辻界隅。

東西が横大路で南北は下ツ道になる。

格子や2階のむしこ窓が見られる町家の景観は歴史的な町並みを形成している。

注視すれば屋根の上にある煙出しや2階の袖壁も目につく。

そういった伝統的な町家が並ぶ街道は生活道路。

通り抜ける車も少なくない。

8月23日から3日間、その下ツ道の街道沿いで愛宕祭の祠が祀られている。

建物景観は普段(ケ)の姿が消えてハレ(祭り)に転じた。



街道には夜店がずらり。

親子連れや子供たちが往来し、賑やかなハレの界隈を見せる。

北の端から南へ約1km。

途中には近鉄線とJR線の踏切がある。

そのJR線を境に北側を北八木、南側は南八木の町に分かれる。

旧地名が高愛(こうあい)町と呼ばれていた北八木町3丁目は北の端。



愛宕神社の開扉を待っていた老婦人。

笹竹を立てた左隣りの小屋には愛宕祭の催しである立山(たてやま)が造られた。

それが楽しみで腰掛けて待っていた。



今年の造り山は大河ドラマを反映して龍馬の立ち姿だ。

今まさに舟に乗ろうとする映像が小屋に現れた。

遠近感のある大海原。

「この絵はうちの嫁が書いたのです」と話した。



祠と思われる神社には提灯を掲げ、神饌などを供えて「阿太古祀符火迺要慎」と書かれたお札や愛宕大神の掛け軸を祀っている。

中世以来、戦火に巻き込まれてきた八木は、火事に見舞われないように火防(ひぶせ)の神さんとして崇められた京都の愛宕さんを信仰してきた。

近世江戸時代は火事が多くなり町家庶民に信仰が広まった。

県下、各地域に愛宕さんを信仰する愛宕講が存在する。

それは数軒規模ではなく地域ぐるみとして行われていると思われる。

少ない事例だが、見聞きしたそれらはすべて地域ぐるみだった。

1軒の火事は風に煽られて類焼、そして大火となれば町を焼き尽くす。そんな被害を受けたくないから愛宕さんにすがった。ということではないだろうか。

地域に根付く愛宕信仰は十数軒ごとの隣組で組織された愛宕講で営まれる八木の町。

初日の23日はそれぞれの神社(祠)で神事が執り行われる。

昭和31(1956)年、橿原市制が施行され新しい歴史を歩み始めた。

平成18年には50周年を迎えた市だ。

およそ50年前、衰退していた八木の愛宕祭を盛り返そうと市が立山のコンクールをしたそうだ。

旧町ごとに造っていた。

市の補助金もでたらしく、競い合って造ったそうだ。

特に北八木は賑やかだったのだと話す役員たち。

今は文化会館になっているが元は中学校。

そのころは商工会も協賛し、文化会館になっても盆踊りには大勢が踊っていた。

平成の初めのころ、突如として事件が起こった。

バイクに乗ったカミナリ族がやってきて交番が襲撃された。

警察は検挙に走った。

「それからだ。急激に衰えてしまって、現在はたったの1カ所になった」と話す旧高愛町の祭り役員たち。

田原本町の祇園祭で数カ所の立山が飾られている。

それは八木の立山の造り山をモデルにして造ったものだと田原本町に住む住民から聞いた。

時代はといえば戦後のことだ。

フジヤマのトビウオで名高い古橋選手。

ラジオから流れてきた日本でロンドンオリンピック(1948年)と同時並行で行われた日本選手権。

あたかもオリンピックに選手として出場している様子になった実況放送があった昭和23年のことだとMさんは話す。

JR線を越えて下ツ道を南下した。

中之山町では二つの造り山が飾られていた。



ひとつは動きも工夫した四神降臨。

龍が口を開けて大きく睨む。

夕陽が差し込み赤く染まる朱雀。

白虎は大人しいが、玄武はくねくねと左右に首を振る。

舞台裏は廃車の自転車。

自慢の作品はそこを見て欲しいと言われた。

もうひとつは2010ワールドカップサッカー競技場だ。



札の辻を西に行った柳町の造りものは平城遷都祭を舞台にした。

復元された大極殿が威容を誇る。



工夫を凝らした立山に見入る人も多いなか愛宕さんにお参りする人も少なくない。

さて祠はといえばだ。

JR線を越える直前の家屋。

ガレージの奥に祀られていた祭壇に特徴あるオソナエが目に入った。

ユバを背にコーヤドーフや野菜を串刺ししたお供えだ。

線路を越えた街道の外れ。



新しい祠のなかには飾り付けが見事なオソナエがある。

提灯には南八木町3丁目の春日会とある。

掛け軸は愛宕さんでなく天照皇大神だ。

再び街道を南下した。



風格のあるむしこ窓の町家。

笹竹を立てた格子窓の向こうに灯りが見える。

愛宕さんの祭壇には大きなズイキ。

その前はやはり串にさした野菜のオソナエ。

これをゴゼンと呼んでいる。

漢字を充てれば御膳であろうか。

旧地名が北三木町と呼ばれていた南八木町2丁目だ。



M家の奥さんの話では10軒で愛宕講を営んでいるという。

おばあちゃんから引き継いで祀っている愛宕さん。

当番の人は代参参りしてお札をもらってくる。

笹を手に入れるのが難しくなったと話すMさん。

町内では愛宕祭を終えた翌日の26日にもお祭りがあるという。

それは風日待ちだという。

愛宕祭を同じようにお供えもする。

コンブ、スルメの神饌は必須。

横向きの笹竹だけがないだけでほとんど同じ様そうらしい。

ただし祭神はアマテラスノカミの掛け軸に替わる。

これが終わるまでは夏が終わらないという。

線路際に祀られていたのはまさしく風日待ちオソナエである。

線路から南は古くは南木(みなぎ)町と呼ばれていた。



この筋だけでも4カ所でゴゼンが供えられていた。



そのうちのひとつは下駄屋さん。

大きな下駄はシンボルのように目立っている。



すべてを見たわけではないので断定はできないが、北と南の様そうが異なる。



何らかの事情があったのだろうか。

ゴゼンの形式は寺会式で供えられる造りもののお供えとよく似ている。



八木愛宕神社では縁日も出されている。

お札を拝受する神社でもある。

帰りの道は下ツ道より西へ一筋向こうを巡った。

家の軒先に提灯を点して祀られた祠が点在していた。

ここでも数か所でゴゼンを供えていた。

(H22. 8.24 EOS40D撮影)

北杣ノ川の地蔵盆

2010年10月02日 07時35分44秒 | 奈良市(東部)へ
都祁針から国道389号線を北上すると水間町に着く。

都祁馬場をすぎ勾配を上り詰めてしばらく走れば左手に石に彫られた地蔵石仏が目に入る。

普段の走行では意識しなかった北杣ノ川の地蔵さんだ。

赤いヨダレ掛けを着け替えてもらった地蔵さん。

毎年一度の地蔵盆のときだ。

祀っているのは北杣ノ川のご婦人たち。

灯明に火を灯して線香をくゆらせて祈った般若心経一巻。

オヒカリが消えるまでじっと待っている。

子供のころはもっと上にあったという地蔵石仏。

今は道路から見下ろす位置にある。

実は道路が造られたのでそういう風に見えるだけでちっとも移動はしていない。

道路は昭和59年(1984)に開催された奈良わかくさ国体のときにかさ上げして幅広くなったのだ。

国体でロードレースが行われることからそうされたのだと話す。

往来する車が走り去る389号線は現在もロードレーサー風のサイクラーが疾走している。

そんなことを気にしないご婦人たち。

今年は少ないけどという。

ほんまのお供えはお餅。今日はセキハンにされた。

(H22. 8.24 EOS40D撮影)