マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

南加納のゐのこ

2010年12月21日 08時56分30秒 | もっと遠くへ(大阪編)
かつて綿の生産が花形だった大阪の南河内郡。

その名残の建物が今でも見られる河南町の南加納。

およそ60年前のことだ。

工場だった建物は崩れる寸前まできている。

解体するにはそうとうな費用がかかるからと朽ちるのを待っているという。

その傍らに大きな車輪軸がある。

動力水車だった機械は軸受け台が残された。

当時は水路から豊富な水を利用して回っていたという。

そこで働いていた女工さん。地元に嫁いだ人も居るそうだ。

山麓近い南加納。多くの田園もあったが新興住宅が増えるいっぽう。

子供時代に過ごした田舎の面影は随分と変化している。

古い屋敷もなくなり集落は建て替えられて新しい姿になっている。

道路は狭く信号機に待つ車は数台。

富田林からやってくる金剛バスも停車している。

ここから先はワールド牧場がある。

そこら辺りは新興住宅の街になった。

それまでは農業を営む家が多かった。

稲刈りや野菜などの収穫が終わったころは子供たちが「ゐのこ」の棒を地面に叩きつける「ゐのこ」の行事がある。

それは農作業が少なくなった現在でも続けられてきた。

当時は男の子が主体的に行っていた行事だ。

それはいつしか子供会の主催行事になった。

日暮れの5時に集まってきた子供たち。

小学校1年生から6年までだ。

昔は男の子だけだったが今は女の子も参加できる。

手に持っている藁棒が「ゐのこ」だ。

長さは60cmぐらい。

細長い直線的な棒はモチ米の藁。

いわゆる今年に採れた新藁のモチワラで、粘りがあるしなやかな藁だという。

これには芯が入っている。

中身はズイキの茎。

これがないと地面を叩いても音がでないという。

おじいちゃんや母親、兄ちゃんに手伝ってもらって作った子もいるが、希には本人自身が作ったものもあるそうだ。

6年間の経験が活かされているのだろう。




実は見本があるのだ。

それは長老のUさんがこしらえたもの。

「子供たちのために見本をようけ作っておいた」という。

黒いテープを巻いているのは最近のものでしっかりしている。

激しく叩いても崩れないようにしたそうだ。

緩やかな螺旋を描く白いテープが原型だそうだ。

かつては注連縄を編むように細い藁を編んで、それを巻き付けていた。

手で持つ方は丸い。

白い布切れを巻いているのも最近らしい。

私の母親が住んでいた滝谷不動も「ゐのこ」の棒があった。

それはもっとずんぐりした形だった母が言った。

それはともかく地区を歩き出した一行。

傍らには母親がついている。今年の当番の役員たちだ。

玄関の呼び鈴を押して家人を待つ。

出てきやはったら「子供会ですがゐのこつかしてもらっていいですか」と伝える。

了承を得たら「ゐのこ」の棒を、囃しながら地面に打ち付けるように叩く。

ボテ、ボテとリズミカルに叩く。

この音がでるように芯をいれていたのだが、雨の日には地面も濡れてさらに鈍いボテボテ音になった。

「らいねんもほうさくをいのってー」と掛け声をかけて、「いのこ いのこ いのこのばん(晩)に じゅうばこ(重箱) ひろて(拾うて) あけて(開けて)みれば きんのたま はいた(入った)ったー ちょこ(しっかりの意)いわい(祝い)ましょ ことし(今年)もほうねん(豊年)じゃ らいねん(来年)もほうねんじゃ おまけ」。

「おまけ」はほんまにおまけのボテ音のひと叩きで締める。

かつては卑猥な囃子言葉だったそうだ。

しかも家の家人の名前も台詞に取り入れていた。

これでは子供では具合が悪いと訂正された。

60年以上どころかもっと前だったそうだ。

これまで続けてきた「ゐのこ」の行事。

赴任して下宿していた小学校の先生は絶やしてはならんと強い後押しで継承されてきた。

隣村の北加納、持尾や平石でも行われていたがそれは早い段階で廃れたようだ。

その地域どころか母がいうにはもっと広範囲に亘って行われていたゐのこの行事は南加納だけになったという。

集会所を出発して上(かみ)に向かう。

白木小学校辺りを経て加納からは南へ向かう。

急坂をあがれば新しい団地が見えてくる。

数軒の家でゐのこを囃した。

老人センターの玄関を入ってここでもお願いして叩いた。

始めて見る光景に事務員も驚いたであろう。

そこから下って再び加納バス停へ。

そこからは少しあがる。

コンクリートミキサー車が行き交う工場地。

ここでも事務所の人にお願いして叩いた。

商店なども対象になる農業豊作を祝うゐのこ搗きだ。



ここからは中央の辻に向かいながら一軒、一軒囃して叩く。

あっちやこっちへと呼び鈴を押す。

叩き終えると家人が出てきて祝儀が渡される。

「ありがとう」とお礼を言って次へ向かう。

かつては自作で採れたクリやカキ、ミカンだった。

お菓子もあった。

それはいつしか一律300円になった。

そして500円、1000円と値上がっていった。

この年の参加者は14人。

およそ80軒、集落のすべてを廻ったあとは集会所に戻って分け前を分配するのだ。

ゐのこ叩きは長丁場だ。



玄関前で整然と並ぶ子供たち。

年長の大将が掛け声をかける。

囃子の台詞は2時間を過ぎたころは小さめになった。

もっと大きくしてやと叱咤がはいった。

雨は容赦なく降り続ける。

合羽は濡れ放題だが気にもかけない子供たち。

傘をさす役員たちは染みいる冷たい雨に打たれている。

3時間を経過して残すはあと10軒。

雨天の行事は辛いが大人になったときには思い出すことだろう。

長老が言うには終わってからも続きがあったという。

ゐのこ棒を括っていた紐を外して繋ぎ合わせ長い一本にした。

それに石をぶら下げた。

障子の取っ手に引っかけて伸ばした。

家人がそれを開けると石が障子に当たって音が鳴った。

ちょっとした悪戯だった。

これを「コトコト」と呼んでいた。

さらに落ちていたドングリを拾い集めて家の前にばら撒いた。

家から出てきた人が滑る。

そこまではならんかったがこれも悪戯だった。

当時は鷹揚な時代。

「子供のしよるこっちゃや」と許されていた。

そういう行為をするのは祝儀をくれん家やったと話す。

農作業、稲こきも終わってサトイモも収穫した。

年内の収穫も終えたころにしていたゐのこの行事。

それは12月5日だったかもしれないと話す。

今は子供会の行事。

特定日でもなく明くる日が休日で学校終えてから行うことにしているそうだ。

付けくわえて長老が話すゐのこの叩き方。

バットのように持つのではなく、輪っかになている部分を持ってぶんぶん回すようにして叩くのが本来なのだという。

長年の経緯のなかで持ち方どころかそれによって叩き方も変わってしまったようだという。

(H22.11.22 EOS40D撮影)

クリーンな日に真っ黒

2010年12月20日 08時24分13秒 | 移設道路工事
市内では毎年6月と11月に一斉に地域を清掃するクリーンキャンペーンがある。

共用する場所を綺麗にする掃除の日。

始まる時間は決まっているが終わりは「キレイ」になるまでだ。

いつもなら雑草も生える道路際。

山から流れた泥は溜まっているものの、下水道工事がされたあとなのでそれはない。

あっという間に終わってしまった。

清掃道具を手にした人たちは暇をもてあます。

「ここにあるじゃない」と目を付けたのは家前に生えているカヤのススキ。

カヤの茎は固い。

それゆえ箸に使っている行事もある。

そんなことはお構いなしにノコギリが入った。

根っこの固まりだけは残ったが、それもスコップで根こそぎ除去。

月見の日には観賞用で使っていたカヤススキはまた生えてくるであろうか。

思いを残して行事取材に向かった。

それから数時間。

自宅に戻ってみれば、恒例の宴は炎天下の下で続いていた。

帰るなり手を引っ張られて缶ビール。

ここ数年間は取材や仕事で離れていた。

「あんたが来んかったら盛り上がらん」というが男たちはすでに酔いの様相。

おらんでも盛り上がっているじゃない。と、思うが手が勝手に缶ビールへいく。

そういや出かけて行ったときのことだけど・・・。

オイル漏れと思われる黒い点々がついていたという。

そういえば先日辺りからアクセルの様子がおかしい。

バックしてもスリップするような感じで駆動輪に伝わらない。

前進もそうだ。

アクセルをふかしてもなんだかぎこちない。

それから3日後。Sオートサービスに点検してもらった。

その結果は金が要る話しとなった。

洩れていたオイルはオートマのもんだった。

道理でスリップするはずだ。

オイルを補充すれば収まるちゅうけど本体部分はいずれ大修理をしなくてはならんだろう。

次々と訪れる突発的な支払いがまたもやかぶさってきた・・・。

数日経過した。

補充したオイルの状況はどうなっていたのか。

残念ながらエンジンを始動したらポタポタと落ちていく。

まるでポタポタ焼きのようや。といっても煎餅ではない。

ポタポタというフレーズのことだ。

それほど早い間隔で落ちていく。

みるみる間に黒い点が広がっていくガレージ。

これはあきません。

用事があるので仕方なく車を運転した。

戻ってその痕跡を追いかけると数百メートルも点々としていた。

当然ながらSオートサービスに持ち込んだ。

シールどころかミッションも交換せねばならない状況だった。

またもや中古パーツを探さねばならない。

(H22.11.21 SB932SH撮影)

椎木の薦上の薦編み

2010年12月19日 08時35分23秒 | 大和郡山市へ
7月半ばに宮田で刈り取った薦は選別作業や天日干しを経て西の椎木町の旧公民館で保存していた。

それから4ヶ月、薦の葉の色は変わりなく美しい。

かつては宮田もなく池に生えていた薦を刈り取っていた。

それはたいそうなことだったと話す再び集まった当番の男性たち。

そのころは専業農業ばかりだった。

池がなくなり宮田を作った。

それを見守っているのが年番のトーヤだそうだ。

11月下旬のころは保存していた薦を編む作業がある。

早朝から旧公民館に集まった。

束にした薦はそれぞれの編む人らに配られる。

そして一本ずつ丁寧に編んでいく。

先代どころかもっと前から使っているというタワラアミの台。

ウマの足のような形をした木材は二股足だ。

百姓をしていたときの道具だそうでコメダワラ(米俵)を編んでいたという。

そこに一本の棒が据えられている。

幅は1メートルぐらいで4本の筋目が入っている。

そこが編んでいく基準となる印。

筋目は深く凹んでいる。

長年に亘る使用量が深い刻みを残したようだ。

編む道具に木製のツチノコがある。

いわゆる錘具のひとつに挙げられる道具で中央にくぼみがある。

充てる漢字は槌子であろう。

燻し色になっているツチノコも含めて編む道具は年代物。

「明治のころどころかもっと前や。そりゃ年季が入った道具や」と一人の男性は言った。

そして付け加えて言った。

「神さんのもんや。薦を跨ってはあかん」と一蹴された。

それもそのはず、できあがった薦藁は春日大社に献上される。

それは若宮おん祭における御旅所の仮御殿に用いられる大切なものなのだ。

薦編みはそのツチノコに藁紐を括り付けるところから始まる。

所定の長さにするにはそれだけの長さが要る。

くるくる巻き付けてタワラアミの台に据えた。

個数は8個だ。

一本の薦を台に添えた。

まずは右側だ。

薦の茎側を右端の基準点に置く。

そして手前にあるツチノコを前方右にもっていく。

今度は向こう側にあるツチノコを手前にもってきて左側に置く。

置くというよりも振るという感じで編み目はクロスしていく。

作業を文章にすると長くなるが実際は素早い動作である。

それもツチノコを持つという感じではなく藁紐を引っ張って振り上げるというようなものだ。



次の編み目は一つ飛ばした箇所だ。

今度は左に茎側に置く。

さきほどと左右の置き方が逆になる。

そして手前の箇所を編む。

それから同じように一つ飛ばして編む。

これを繰り返していく。

藁紐は縦糸、薦は横糸になる。

5人は黙々と編んでいく。

もう一人の男性は藁紐の長さを調整するなど作業の支援をする。

薦編みがある程度進んでいくと筵のような状態になる。

それをメジャーで測って足らなければもう少しだといって作業を続ける。

できあがった長さは1.5尺の45cm(柱用)だ。これを10枚作る。

編み人は5人だから一人が枚を編む計算だ。

薦が不作になったある年。そのときは茎を外して巾を広げ本数を増やしてなんとか奉納したと語る薦編み。

実はこれで終わりではない。

作業はまだまだ続き、3尺の90cmは24枚(床や御殿周りの覆い用)、6尺の180cm(階段用)が2枚もある。

これらの長さと枚数は決まっているのだ。

昼ころまでに作った90cmは10枚目作業の途中。

昼食をとって一旦は休憩をする。



それから再び作業をこなしていく。

すべてが終わるころは夜になる。

一日仕事の薦編みは薦上げと呼んでいる。

「こんな面倒な作業は若いもんはよーせーへんのとちゃうか、いつまで続けられるんかなぁ」と話す長老たち。

実は4年にいっぺんやってくる当番制。

薦刈りに薦干し、そして編む作業に献上は西と東の椎木町が交互に担う。

それぞれの地区には二つの班がある。

それも交替交代だ。

この年は西の北垣内だから、来年に東へ移ってさ来年は戻って南垣内が当番。

それから東へ再び移って北垣内に戻るというものだ。

「次はやれるかと思っていたら、もうやってきたんやなぁ」と笑顔で話しながら作業を進める人たち。

神さんに捧げるものだけに不幸ごとあれば薦はさわれない。

その場合は次の人(他垣内)に替わってもらうそうだ。

元気な間は続けていきたいが当番は終身制。

家長の男性が行う奉仕活動は引退宣言でもしない限り息子には譲れないという。

※ タワラアミの台は「コモゲタ」の名称がある。ゲタはケタで桁。そのトウカンカクの印がしてある桁なのでコモゲタと呼ぶらしい。橋桁の言葉もそうである。

※ コモを菰と表記する場合があるが、椎木のコモは春日若宮おん祭仮御殿へコモ上げされるものであることから薦の字を充てることにした。

(H22.11.21 EOS40D撮影)

誉れの受賞日

2010年12月18日 10時07分31秒 | しゃしん
奈良市写真美術館へは車で行くことが多い。

電車とバスで行ってみたらどうかとダイヤを調べてみた。

JR奈良駅から市内循環をしているバンビーナバスがある。

それほど多くない本数だ。

歩くにはほど遠い美術館。

それならば、と自転車で行くことにした。

ぶらぶらペダルをこいで高畑町を目指した。

里山に近づけば坂道。少しは力が入る。

あっちを見たり、こっちの横道へ。

ポタポタのポタリング走行だ。

白毫寺町までやってきた。

観光で散策する人らも居る。

西勝寺を通りがかったときに目に入ったポスター。

その中の文字が・・・。

「尼講」とある。

ある地域ではおばあちゃん講とも呼ばれている尼講。

おそらく観音講ではないだろうか。

気にかかる。

そのお寺の隣が宅(たく)春日神社で、近年に造宮された。

こちらも気になる存在だ。

それはともかく目的地はもうすぐだ。

新薬師寺へ向かう団体は修学旅行生たち。

ガイドに連れられて入っていった。

それにつられて・・・ではなく奈良市写真美術館へ。



ところが駐輪場がない。

仕方なく館の人にお願いして停めさせてもらった。

館は臨時休館。

それもそのはず明日からの入江泰吉賞に選ばれた作品の展示会の内覧会なのだ。

その内覧会の前には誉れある授賞式。

写友の野本氏が日経新聞社賞に選ばれた。

氏からご招待を受けてやってきた賑やかしの一人はYクラブのM氏、ならかん氏、あお氏に著名なS氏らと合流した。

彼らは記録係。バシャバシャとシャッターをきる。

穏やかないつもの表情と違った野本氏。

こういう席はさすがに緊張されているのだろう。

講評によれば応募された作品は225数だが写真点数はその6倍。

30枚の組写真となれば、なんとほぼ6000枚の「平城遷都1300年記念・・・あなたが伝えたいもの、残したいもの、まもりたいもの」の写真群だ。

審査委員長は話す。とてつもない審査作業だったと。



聞くところによれば奈良はあまり知らないそうだ。

それがゆえ新鮮な目線で選ばれる。

結果は大和をこだわり続けてきた入江作品とはかけ離れた傾向の作品が選ばれたように思えると内覧会を見終えた写友たちは話す。

模倣ではなく斬新なカメラアイで捉えたその人の心が写真に表現される。

ということではないだろうか。

コンテスト目的ではない長年に亘って大和を撮り続けてきた労作の情景作品。

なかでも私は「祭火まんだら」が秀逸だと思う。

HPで公開(数点は初公開)されたときから見ている作品はどれをとっても圧倒される。

しかし今回の入江泰吉賞は30点の組写真。

テーマがものをいう。

しかもどれをとってもハズレがないことだ。

それだけの枚数を高いレベルで維持するにはそうとうな腕がいる。

もうひとつは並べ方にストーリーが要る。

起承転結の物語り。

イントロから転回を経てエピローグへ。

それは静かに幕を閉じていく大峰山。

写真は戸開式だが・・・。

合間は雰囲気が替わって十津川村の山の情景。

火という物体が躍動し胎内リズムを奏でるように・・・。

次回作はギラギラ感を落としてソフトムードでいかがでしょうか、なんてことを小さな声で・・・思ったのであります。

なお受賞作品の著作権が作者に帰属するっていうのがなによりの賞であります。

(H22.11.19 SB932SH撮影)

我が家のシイタケ再び

2010年12月17日 09時12分58秒 | 我が家の花
シイタケの原木に変化が起き始めた。

異形の小粒が日増しに大きくなっている。

おそらくシイタケであろう。

5cm大からはみるみる大きくなった。

文様も間違いなくシイタケだ。

2月以来の久しぶりのご対面。

実はその数ヶ月先もシイタケが芽生えたことがある。

ところがナメクジの被害にあって口には入らなかったのだ。

雨がときおり降った。

その影響であろうか芽生えたシイタケ。

もっと大きくなぁれと毎日祈らずにおられない。

再び芽をだしたシイタケは5日後には食卓に並んだ。

それは4枚もあった。

バター炒めがいちばん美味かった。

(H22.11.19 EOS40D撮影)

チェンジをチェンジ

2010年12月16日 07時33分44秒 | いどう
1年前のことだったか。

折りたたみ自転車が強風にあおられて転倒した。

その際にチェンジレバーが破損してしまった。

強力な接着剤でくっつけたものの数週間で外れてしまう。

何度も繰り返した。

今度は接着剤を替えた。

それでも同じように手があたるだけで剥がれてしまう。

少しだけ残ったレバーでもなんとか操作はもちこたえたがいかんせん。

いっそのことチェンジを取り替えてみよう。

サイクルアサヒへ持ち込んだ。

ところがだ、このレバー型は予備にないという。

売り出している自転車には付いているものの予備にはない。

あるのはグリップから離さずに操作できる丸型だ。

これで良いと修理するもハンドルグリップが長いときた。

切断するしかないという。

いたしかたない。

帰宅してチョイ乗りしたが、なんと・・・。ブレーキが利かない。

丸チェンジの輪っかが大きすぎてブレーキレバーがあたるのだ。

降輪ブレーキは利くもの、なんともはやの交換金額は1687円だった。

(H22.11.17 SB932SH撮影)

東明寺大般若経転読法要

2010年12月15日 03時37分21秒 | 大和郡山市へ
紅葉が綺麗な時期に行事を行いたいと初の大般若経転読法要が営まれた矢田町の東明寺。

願いは叶って楼門から見通す紅葉は鮮やかな色合いを見せる。

東明寺の年中行事は2月に行われる薬師講だけだった。

それに加えたいとはじめられたのだ。

同寺には檀家とされる宗家はないが、両行事とも関係者だけが集まる行事だそうだ。

集まった人たちはおよそ50人。

地元から愛知、大阪和泉、兵庫などさまざまだ。

本堂内に座った。

もうそれ以上は入堂できないというくらいの人数である。

住職からの応援を受けた和歌山、吉野などから来た5人の僧侶。

共に信貴山で修行を勤めてきたそうだ。

蝋燭を灯して導師となって座った住職。



大般若経の転読法要が始まった。

中国の唐の国の僧侶であった三蔵法師玄奘がインドの天竺から持ち帰ったとされる大般若(波羅蜜多)経は六百巻の大経典。

60億40万字からなる経典だそうだ。

導師が唱える間、僧侶たちは経典一巻を箱から取り出してパラパラとめくる。

めくるというよりも空中から下にあるいは左右へ広げ流すような作法で「だーいはんにゃはらみたきょう・・・ とう(唐)のげんじょうさんぞう(玄奘三蔵)ぶじょやーく だーいはんにゃはらみたきょう・・・」と大きな声で読誦(どくじゅ)される。

それは経典の流し読みの様のようで転読と呼ばれている。

60億40万字の経典を短時間で誦(ずうず)するのだ。

それはあたかも大経典のすべてを読んだことになるという。

般若心経は270の文字。

おそろしいほどに凝縮された。



それはともかく、一巻が終わるたびに経典を机(箱)に打ち当てる。

バーン、バシーと勢いのある打ち方だ。

大きな声と叩く音。

堂内にそれが響き渡り、その度に背筋は引き締まりシャンとする。

住職が言うには「声だしてなんぼ、叩いてなんぼ」だと話す。

修行時代には机を割ったら金一封が出たともされる転読はまことに力が入る。

そして導師は先祖代々の菩提や水子供養、家内安全、身体健全、交通安全、子孫繁栄など施主たちの様々な願いを唱える。



法要を終えてありがたい大般若経の経典でご加持を受ける。

首から肩へバシ、バシと打たれる。

すると普段から悩まされている肩こりが「一瞬に消えた」ように感じた。

(H22.11.14 EOS40D撮影)

慈眼寺十夜の柿供養

2010年12月14日 07時41分50秒 | 奈良市へ
北小路町の慈眼(じげん)寺本堂に集まったのはおよそ20人のご婦人たち。

同寺の檀家宗徒である。

毎年13日は柿を供えて十夜の法要が営まれる。

その柿は樹齢400年とされる古木から収穫された。

天候不順で実なりも良くなくて、お供えができるだろうかと心配されたほどでもなく、喜ばれる出来映えとなった。

「例年ならもっと熟した柿ができるのですよ」と仰る柿の品種は大学がDNA鑑定された結果、トヨカだったと話す住職。

400年前のことだといえば秀吉の時代で相当な古木で奈良市の指定文化財になっている。

当時は渋柿だったらしい。

その後、江戸時代初期のころに接ぎ木されて、その柿はとても美味しい甘柿になったそうだ。

お花を飾り、5品の御膳を供えた祭壇。

中央には香物(ワケギのぬた和え)。

メシ椀、レンコン、ニンジンの酢物に煮染めと汁椀だ。

左右脇には採れたての甘柿の盛りがある。

鉦が打たれ住職たちが入堂して法要が始まった。



そして大きな椀に盛られた甘柿が供えられた。

見事な大盛りだ。

般若心経など唱えられるお経の声は堂内に響きわたる。

外は往来が激しい車道。

子供たちの声も聞こえてくるが扉が閉められた本堂内は荘厳な空気に包まれている。



そして法要は焼香、ご先祖の塔婆回向へと移っていった。

「なむあみだぶー なむあみだぶー」と唱えられた十日十夜(じゅうにちじゅうや)の柿供養の法要。

「私たちは生かせている者が良いことをしましょう。良いことをしても相手は十人とりようによっては悪いようにとらえてしまう人も居る。それは誤解というもの。そして父母の恩があって生まれてきた人たち。愛情を注がれてそだってきた。命の恩は連綿と古代から続いてきた。これからも未来永劫まで・・だから命をいただく食事。ようは無駄にしないことだ。」と命の大切さを説かれた。

十夜は収穫された新米を仏さんに供える。

野菜はのっぺ汁にして、お米はアカゴハン。

祝い事の食事であるというが今日はお話だけ。

供えられた慈眼寺の甘柿のお下がりを手にした檀家たちは家路についた。

(H22.11.13 EOS40D撮影)

風、ウィンドウ

2010年12月13日 08時46分10秒 | いどう
運転席側のドア開閉スイッチが動作しなくなったのは三週間前のおとだった。

前触れもなく突然のことだった。

そのころは秋だというのにまだ暑い盛りだった。

仕方がないので助手席側のドアを開放して運転していた。

運転席側はなんどもスイッチをいれてみるが反応がない。がだ。

何度もスイッチを操作していれば突然のごとく動き出した。

このころは秋祭りの取材に東奔西走していた。

取材地に着いて停車するには窓を閉めなくてはならない。

ところがまたもや動作しない。

開放のまま車から離れるわけにはいかない。

汗が流れる。

またもや何度もスイッチを操作したら閉まった。ほっとする。

スイッチはグラグラになっていた。

誤って手が触れても動作しないようにロックした。

異常事態のまま帰った。

いつものSオートサービスに手配を頼んだがパーツが見つからない。

同形状の車が見つからず今日に至った。

なにが一番不自由かといえば有料駐車場に入る際にウィンドウガラスが下りないことだ。

駐車券を取るにはウィンドウが下りてくれるのが前提。

それができなきゃどうするか。

ドアを開け、車から降りて駐車券を手にする。

駐車場から出るときの支払いも面倒なことをしなければならない。

ハンドル時代の車はそういうトラブルにはならなかった。

電動はいつかこうしたトラブルになると思っていたものの、現実にそうなると困ったものだ。

ようやく見つかった同型のスイッチ。

中古パーツで2千円。

ありがたみを感じたウィンドウスイッチだった。

(H22.11.10 SB932SH撮影)

強風の火ともし

2010年12月12日 08時11分49秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
夜が明ける前から吹きすさぶ風が雨戸を叩く。

この日は一日中強風が吹き荒れた。

落葉は舞いあがり吹きだまりに風が誘う。

そんな日でも野依の白山神社では当番の人が本社や灯籠などにローソクの火を点していく。

雨が降る日はやむを得ず中断されるが風の日を含めて毎晩点される。

立ち去ったあと少しは火がついていた灯りはふぅっと消えた。

(H22.11. 9 EOS40D撮影)