マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

法貴寺川西講大神宮のゴウシンさん

2013年11月10日 08時51分28秒 | 田原本町へ
田原本町の法貴寺は2か所でゴウシンさんが行われている。

大和川西堤防付近にある川東惣講中の大神宮石塔と、今では公園になっている昭和57年の10号台風の豪雨で決壊した旧大和川より少し西側にある川西講中の大神宮石塔である。

神事を執り行うのは池坐朝霧黄幡比賣神社の藤本宮司。いつもお世話になっている。

御湯の作法をするのは法貴寺在住の小学生の巫女があたる。

始めに行われるのは川西講中のゴウシンさんである。

川西は前田、西南、西口、北、観音寺の五垣内の人たち。

寛政八年(1796)六月に川西講中が寄進された大神宮の石塔に神饌を供えて湯釜を沸かしておく。

準備が調ったころに出仕された宮司。祓え、祝詞奏上など神事を斎主する。

法貴寺集落を東西に通り抜ける街道は車の往来が激しい。

いやおうなしに宮司の背中を通っていく車に気をつけなければならない。

その道は郵便屋さんも走り抜けていく。

数年前に行われた川西のゴウシンさんには御簾や提灯もあったが、この年は見られない。

神事を終えるころに到着した里の女児巫女。

民家前に設えた湯釜に向かって御湯の作法をする。

始めに幣を振る。

その次に幣を湯に浸けてかき混ぜるような感じで湯釜の縁回りを回す。

笹束を受け取った巫女は鈴を持ってシャンシャンと鳴らしながら左に一周、次に右へ、そして左に一周するように回る。

次に洗い米を湯釜に投入して、塩、酒を注いで湯釜を清める。

御湯釜の禊祓いである。

本殿に向かって正面、左方、後方、右方への左回りに三度の一礼をする四方の神寄せのあとに笹を釜湯に浸けて前方に五回、側方に五回、後方に五回の湯飛ばしをする。



鈴・笹を持って左、右、左に舞って神楽舞をする。

参拝者に向かって鈴を大きく左右に振って祓いを終える。



御湯を終えれば使った笹束を大神宮に括りつけておく。

(H25. 7.16 EOS40D撮影)

丹波市・守目堂のダイジングサン調査散策

2013年11月09日 08時48分29秒 | 楽しみにしておこうっと
中之町伊勢講の神具を見送った私たちはご近所で祭られているダイジングさんの在り方を調査した。

丹波市(たんばいち)町の市座神社から北寄り。

東西を抜く北側は勾田(まがた)町である。

その道筋の向かい側にあった斎壇。



木製の燈籠は大神宮なのか、それとも愛宕さんなのか判らない。

吊るしてあった御神燈提灯には「東等町」の文字がある。

地区の名称であるのか判らない。

斎壇にあったカヤの葉は何を意味するのであろうか。判らないことだらけである。


そこから北へ向かった。

道筋に高く揚げた御神燈の提灯がある。

ここは守目堂(もりめどう)町の中之町。

斎壇を組んでいる太神宮石塔は「文化七年(1810)」の刻印があった。

昭和60年7月16日に新調された白幕には「西之町 伊勢講」とある。

住民の話しによれば夕方にお供えをして「ダイジングサン」のお祭りをするらしい。



ちなみに置いてあった「「おみきどっくり」は中之町伊勢講で拝見した色柄と同じで松竹梅を描いている。

愛知の稲荷大名神の店で買ったものだと云う。

ここら辺りはくねくねと曲がった筋違いの街道。

南北に通る伊勢街道だと話す男性。

この町の構造は藤堂藩が築城した城下町で攻撃を防ぐために造った「カイマガリ」だそうだ。

「カイマガリ」を充てる漢字は「鍵曲」。

鍵の手のように曲がった筋違い路は、見通しを悪くして敵の進入を防いだのである。


これよりさらに北へ向かう。

西之町の住民が云うにはそこより西へ曲がった奥にあるという。

角にあった石塔。

「月参講中」が建てたと思われる「太神宮」は「常夜燈」でもあり、「文化巳丑二季(1805)四月」の年号が見られる。

その場からぐぐっと南下した場に斎壇があった。



その街道も「カイマガリ」の構造になっている。

街道とも思える場には高く揚げた献燈提灯は本町とある。



その街道を西に向かった。

民家の玄関に飾ってあった「蘇民将来子孫家門」の護符。



「家運隆盛」との間には特異な幾何学的デザインで描かれている。

星型のセーマンと格子状のドーマンである。

門戸が閉まっていたのでお話を聞くことができなかった。

そこから西へわずか。川があった。

清廉な川は布留川のせせらぎ。

透き通る川の流れに金魚藻がたくさん生えていた。

ハヤ(ハイ)魚も泳いでいる。

町中でこれほどまでに奇麗な川の流れは見たことがない。



橋の袂からそこを眺めた風景。

宮崎酒造の酒蔵が美しい姿で建ち並ぶ。


本町から南下した。



ここにも高く掲げた献燈提灯がある。

市座神社の真正面にあたる地区は新町である。

白雲山迎乗寺(げいじょうじ)北端にある燈籠は2基。



南側が木製の「愛宕大神」で、北側は石塔の「大神宮」だ。

お供えをして、「愛宕大神守護符」が置いてあった。


短時間の調査に聞き取りはできなかったが、当地ではダイジングサンとアタゴサンが混在しているように思った。

他市町村のアタゴサンは7月23日、24日、或いは橿原市の八木のように8月23日、24日が見られる。

新暦、旧暦のどちらかを選択していると思われる。

(H25. 7.16 EOS40D撮影)

丹波市中之町の納め伊勢講

2013年11月08日 08時26分37秒 | 天理市へ
「天照皇太神宮」の大きな文字を中央に配した大鏡をご神体として崇めてきた天理市丹波市の中之町の伊勢講。

講中にとっては見納めになる大鏡である。

重さは約29kg、直径が約93・6cmで、側面の厚さは3・2cmもある銅製と思われる大きな鏡。

右が「和山邉郡丹波市 明和八年卯歳(1771)」で、左には「六月吉祥日 摂待所連主」の刻印がある。

「連主」は「連中」の誤印であろうか。

おかげ参りの道筋にあった丹波市。

そこに摂待所を設けて伊勢参りをする人々を接待していた。

伊勢参りをしていた駿河の国、(紀州)伊都郡新田村、紀州の国のナグラ村など、商人たちから寄付を募って製作したと考えられる大鏡である。

木製の台座は何らかの建物の転用財であったかもしれない。

台座を入れた高さは1m50cmで、幅が90cmである。

古くは寛永十五年(1638)・慶安三年(1650)に勃発したとされる伊勢のおかげ参り。

その後の寛文元年(1661)・元禄十四年(1701)を経て、本格的なおかげ参りは宝永二年(1705)であった。

2ヶ月間に亘ってお伊勢さんを参った参詣者は300万人をも超える爆発的な増加である。

享保三年(1718)・八年・十五年・寛延元年(1748)・宝暦五年(1755)からしばらく間をおいた明和八年(1771)に再びピークを迎える。

同年に製作された大鏡はくすんでいるがれっきとした鏡体である。



周縁部には小さな穴が11個ある。

穴の広さはすべて同じではなく若干に違いがある。

大鏡を拝見していた奈良県立民俗博物館の鹿谷勲氏は「棒のようなものを挿していたのでは」と話す。

断定はできないが、放射状に発光する棒状の光背造りであったかもしれない。

誰が置いたかも判らず摂待所にあった大鏡を、一旦は石上神宮に預けるも天保元年(1830)のおかげ参りが流行った際に再び摂待所に置くことにした。

そうすれば伊勢参りの人たちが大量に賽銭を置いていったと伝わる。

その賽銭をもとにして建てたのが市座神社の境内にある大神宮の石塔である。



「天保庚寅元年(1830)十二月吉日 世話方人別名連」に丹波市の米屋・柴屋・鍵屋・戸屋・油屋・紺屋・車屋・堺屋・鋸屋などの商人や隣村の富堂村・嘉幡村の名も見られる大神宮。

施主には豊井村・佐保庄村・石上がある。

中之町伊勢講中の記録によれば『・・・いつよりか来らん御八咫鏡の形に似たるを施行処に止まる 自是人ゝ不思議□(な)□(る) 於もひをなしつこの出・・・いれ置希流やらんと尋問ふといへども更に人の□□より を□□むなしく止メ置き流・・是より十二三丁山の手に布留社とて□宮あり・・・今年文政十三庚寅年(1830)六十餘年に当り 三月廿八九年より阿波国よりおかけ参り騒がしくて閏三月中旬諸国騒処・・』とある。

史料を訳された天理大名誉教授・天理参考館学芸員の近江昌司によれば「おかげ参りで大鏡を持って行くのは珍しく、書いてある人たちが運んできて、重くて置いていったか、金がなくなって譲ったのかもしれない」と話す。

それより一か月前のことである。

毎日新聞、読売新聞、朝日新聞、奈良新聞の各社が報道した記事に中之町の伊勢講・大鏡を紹介していた。

鏡には小さな文字が彫ってあった。

前述した駿河の国、(紀州)伊都郡新田村、紀州の国のナグラ村などの商人の名が連なる刻印である。

新聞報道は「大坂心斎町」「長堀」「紀州伊東郡ハシ本町」などの地名や「カメや」「フジやサノ」「木綿」「源七」などの屋号や人名があったと伝える。

その報道を目にした男性Kさんが訪れていた市座神社の社務所。



トーヤのHさんとともにライトペンを当てて探している刻印は「長堀」に「カメヤ」だ。

「カメヤ」の先祖は「酢の造り蔵」を営んでいたと話すが短時間の検出に結果はでなかった。

中之町伊勢講は2月、6月、11月の各月にトーヤ家で「天照皇大神神宮」、「豊受大神宮」などの掛軸を掲げて営みをする他、7月16日には市座神社前の通りに斎壇を組んでこの大鏡を祭っていた。

朝にお参りを済ませて最後の直会の最中であった。

それから数時間後には講中の神具など一切合財を天理市の生涯学習課に寄贈する。

これまでお勤めをしてきた8人の講中は、高齢化によって継続することが難しくなり、この日を最後に解散される。



その件を最後に記帳して役所が到着する間、最後のお勤めに二礼二拍手一拝された。

講中のHさんは「神事を続けられないのは残念で、先人に申し訳ない。皆に知ってもらえるよう、市は将来的に鏡を展示してほしい」「今後は各家で伊勢信仰を伝えていきたい」と話した。

江戸時代に流行ったおかげ参りの信仰をいまに伝える貴重な史料はトラックに乗せて出発した。見届ける私たちも手を合わせて見送った。

「大正元年十一月拾六日 施主○○○○」、「昭和弐拾弐年弐月拾六日 施主○○○)」と記された二冊の「伊勢講名簿」の始めには「目出度甫」の文字がある。

二冊ともに書いてあったこの文字はどういう意味であるのか。

「たいへんめでたいはじめ」という意であるのか、聞きそびれた。

(H25. 7.16 EOS40D撮影)

南六条杵築神社祇園祭り

2013年11月07日 07時25分04秒 | 天理市へ
夕方間際に降った突然の突風。

南六条に鎮座する杵築神社境内を奇麗に清掃していた頭屋の一老になるTさん。

雨がどっさり降った量が多く、より一層奇麗になったようだ。

その後も2度降ったが祭典には影響しない天理市南六条南方の祇園祭り。

前区長のN氏の話しによればかつての祇園さんの日には田んぼに虫を寄せつける誘餓灯があったそうだ。

松明のような感じで作った竹道具。

火に集まってくる誘餓灯のような火はメタンガスだった。

南六条辺りの田園は泥湿地だった。

メタンガスが溜まっていたというから、泥炭であったのかもしれない。

それが火の源になったという。

そのときに叩いていた小さな鉦。

それで虫をおびき寄せる。

もしかとすればだが、虫を誘餓灯で引き寄せて焼き殺す虫の祈祷の鉦ではないだろうか。

夜の8時前。近くであろうと思われる打上花火の音がドドドンと聞こえてきた。

同市東側になる櫟本で行われている和爾下神社の祇園さんの始まりの合図。

華やぐ幕開けに賑やかな合図である。

それとは打って変わる南六条の祇園さんは静かな面持ちで荘厳に執り行われる。



神饌御供はこの日の夕べの夏を食するソーメンや、スルメ、ビワ、ブドウなど夏の果物に干しシイタケや海苔などだ。

神事に祝詞を奏上する神職。後ろ姿が神々しい。



玉串奉奠などの神事を終えた頭屋たちに村人も混じっての直会はソーメン喰い。

頭屋の接待で美味しくいただく。



座中の計らいで私もよばれることになった祇園祭のソーメン。

県内でお聞きする夏の風物詩であるようだ。

(H25. 7.14 EOS40D撮影)

伊与戸のゴウシンサン

2013年11月06日 06時59分10秒 | 田原本町へ
正面に「大神宮 若連中」。

南側は「村内安全」と刻印された田原本町伊与戸の大神宮石塔は文化十年(1813)に建之された。

八幡神社の敷地内にある。

葉を付けた笹竹を立てる。

水平に掛けた一本の竹によって鳥居のように見える提灯掛け。

かつてはゴウシンサンの祭りに各家が持ってきた提灯を掲げていた。

傷みが激しくなったりローソクの火が移って燃えてしまったとかで止めた提灯掛けは、今では神社の御神燈になった。

かつては7月16日に行っていた伊与戸のゴウシンサンは、その日に近い日曜日に替った。

県内各地のほとんどの地域にある大神宮はかつて流行ったお伊勢参り。

伊与戸の集落を抜ける道は伊勢街道。店屋が多く建ち並んでいた。

提灯掛けが気になってやってきた村の長老のⅠさんは83歳によれば今年の3月まで伊勢講があったと云う。

4軒の営みだった伊勢講は2軒が脱会されて残りの2軒では継続することができない。

やむなく解散することを決断された。

2月に最後のヤドの営みを済ませて3月にお伊勢さんへ参った。

それまではヤドの会食を作る婦人の世話になった。

長年の感謝と慰労に夫婦で参拝したと話す最後の料理は豪勢三昧だったようだ。

Ⅰさんのお爺さんは明治生まれだった。

お伊勢参りは伊勢講中の三人で出かけた。

当時は歩いて参ったと云う。

三人組のひとりは豪傑。何かと頼りになったそうだ。

三人連れは二組。それぞれが出かけたそうだ。

お伊勢参りを象徴する大神宮は隣村にもあるから見に行こうと誘ってくださる。

守屋の大神宮には「文化十二年亥乙(1815)六月 大神宮 村若連中」に「伊勢施主村中」もある。

傍には「文化十二年 金比羅」の文字がある。

同時期に建之された一対の石塔である。

北隣の村である大木にも大神宮があると車に乗せてもらった。

公民館の前にある大神宮塔は「文化九年(1812)十一月 太神宮 大木若連中」であった。

それぞれの村の始まりは、建てた時代でときの流れがよく判る。

伊与戸のゴウシンサンの当番は四垣内それぞれから二人。

四年に一度の回りであるが、垣内の戸数がそれぞれ異なることから垣内内の回りは3~5年になるらしい。

短ければ12年、長ければ20年にもなる回りである。

夕方ともなれば大神宮塔にローソクを灯して提灯を掛ける。

当番の都合で決まった時間でもない。

突然に吹く大風は雨交じり。



提灯が濡れてはならぬと大急ぎで撤収したゴウシンサン。

「御神さん」と呼ぶ人もいる。

(H25. 7.14 EOS40D撮影)

大阪ふくちぁんラーメン奈良神殿町店

2013年11月05日 06時57分33秒 | 食事が主な周辺をお散歩
2年ぶり。

穴場だった全国ラーメンが売りの永田屋を目指して出かけた。

お店にのれんがなくシャッターが下りていた。

遠目だけど貸店舗の張り紙があるように見えた。

どうやら閉店したようだ。

700円のドーヤン豚骨が美味かった。

どんなラーメンでも替え玉が可能。

家族で食べるときはこの手でいろんな味を確かめた。

尾道、和歌山、東京中華、横浜ちゃんぽんなどなどの全国の味がこの店で食べられる。

数々のラーメンがある中で唯一の焼きそば。

700円の超強火ソース焼きそばがとてつもなく美味かった。

それを食べたかったと残念がるかーさん。

永田屋は昨年の12月に閉店していたのであった。

この年の春には毎日放送の「せやねん」とか、関西テレビの「よーいドン!」で「隣の人間国宝」にもなった永田屋さんが店じまい。なんということだ。

仕方がないので急展開。

久しぶりに奈良のラーメンを食べたいという長男の希望を叶えたく、昨年の8月頃から行き始めた奈良市神殿町のふくちぁんラーメン店を目指した。

長男が20年前にも食べたことがあるふくちぁんラーメンは大阪の大東市にあった。

なんとそれ以来のふくちぁんラーメンである。

メニューがとにかく多いお店。

どれにするか迷いに迷ってそれぞれ決めた。

いつもならふくちぁんラーメンを頼むのだが、この日は違った味も確かめたいと切り替えた。

私が選んだのは630円の特製ニラダレラーメンだ。



チャーシューの枚数は4枚程度。

ほんまは5枚のようだが、こま切れだった。

味は濃いトンコツ醤油味。

盛っているニラダレがさらにコクを醸し出す。

かーさんが選んだのは870円の海苔付きチャーシュー醤油ラーメンだ。



麺が見えないほどに盛っているチャーシューが7、8枚ぐらい。

とんこつ味のふくちぁんラーメンは好みでないので醤油味にした。

大きな海苔が一枚添えてある。

ラーメンに海苔は必要なのか、議論が出たが結果は出ない。

長男が選んだのは新発売のキャベ玉ラーメン。

見本の写真ではキャベツが大盛りであった。



メニューにあったかどうかも確かめずに注文したキャベ玉ラーメンには生タマゴが一個ついていた。

殻を割ってとろーりの生玉子を混ぜて食べる。

値段は高めの930円だ。

何故に高いのかと云えば大盛りを注文したからだ。

大盛りは200円増し。

並みであれば730円となる。

永田屋の替え玉は180円だったが、ふくちぁあんは200円アップだ。

注文の際には麺の堅さ希望を聞いてくれる。

堅くもなく柔らかめでもなく普通を選んだ。

ラーメンにニンニクは要るのか要らないのか。

要って当然である。

これは量を聞いてくれる。

出てきたラーメンが出汁の香りとともに鼻に吸い込むニンニクの味。

食欲をそそる香りは少々で十分である。

それぞれの味はいずれも美味しいが、キャベ玉は生タマゴの関係で甘い。

キャベツも甘い。

チャーシューでなく、ふんだんに盛ったバラ肉がどんぶりに溢れるほどの麺に面食らう長男。

助け舟の登場を要した。

(H25. 7.13 SB932SH撮影)

東包永町宵宮の赤童子祭り

2013年11月04日 07時55分51秒 | 奈良市へ
奈良市東包永(ひがしかねなが)町は「ならまちきた」の一角にある。

春日山眼下にある「菊一文字四郎包永」店は当地が発祥と伝わる。

貞和年間(1345~)のころである。

当地に手掻文殊鍛冶平三郎包永が住んでいたことから包永(かねなが)の町名が生れたそうだ。

「包」を「かね」と呼んでいるのも頷ける。

85軒の町内は新築したワンルームマンション住民も入れれば100軒にもなるというT自治会長。

この日は町内で祀っている赤童子の祭りがある。

夕方の5時に突然降り出した大雨はどしゃぶりになった。

町内に貼ってあった祭りの案内。

子供たちが手書きした絵柄がなんとも可愛い。

地域の人たちが祭りにたくさん訪れてほしいとみたらしだんごや金魚すくい、ガラガラ抽選などの縁日で盛り上げる。

降りが小雨になればたくさんの人たちがやってくる会所。

それより数時間前に行われた神事は春日大社の神官によって執り行われたと云う。

会所に掲げた掛軸は二幅。

一つは赤童子である。

中世、春日社に出現したとされる赤色裸形の童子神像は不動明王の脇侍像に類似する容貌である。

自治会調べによれば、明治十二年(1879)に大和一円で流行ったコレラ病いが発端。

明治三十五年(1902)に再び発生したコレラ病いで死者が12名にもおよんだと伝える。

それから数年。

明治41年(1908)には天然痘、ペストも発生した。

その後も流行り病いは止まらず、大正五年、九年にも。

東包永町も患者が発症したコレラ病。

悪病を祓い断ち切るために守り神である赤童子を祀って夏祭りをしたと云う。

かつては総代家で、7月4日、5日に赤童子を祀ってお祭りをしていたが、昭和10年頃には14日、15日に替えて祀る場を会所に移したそうだ。



この日の祭りに掲げられた赤童子に手を合わせる子供たち。

町内の守護神は子供たちにとってもありがたいのであろう。

参拝には行列もできるぐらいだ。



手を合わせたご本尊の赤童子の掛軸は傷みがひどくなり、昭和47年に表装を新調された。

美しさは輝きを増したのであろう。

掛軸そのものには年号が見られなかったが、もしやと思って納めていた箱を拝見した。

それには薄らとある墨書。

自治会長や役員さんらとともに判読した結果は「明治弐年(1869)十月」であった。

流行り病いよりも遡ること10年も前の時代に作られた掛軸であったのだ。

始めて知った赤童子の製作時期に驚かれたのはいうまでもない。

赤童子・三社託宣を祀るのであれば春日講の存在があったのではと尋ねたが、「それは伝わっていない」と話す自治会長。

赤童子祭りは春日大社と関係が深い中央に天照皇太宮、右に八幡大菩薩、左に春日大明神の文字を配置した三社託宣の掛軸も掲げる。

鉄製の燈籠を吊るした斎壇には洗い米、塩にアズキを盛った神饌に赤く染めた餅も供える。

その下にはたくさん搗いた赤餅もある。

明日の本祭りが終わってから地区85軒に配る赤餅である。

宵宮の案内は18時としているが、神事は既に終えている。

町内の参拝者はその後においてきたほうが良かろうとそうしている。

祭りの日が固定であれば平日にかかってしまう。

もっと多くの人が参拝できるようにと集まりやすい第二土曜、日曜にしたと話す。

かつての神事は手向山八幡宮の神官であった。

東包永町は手向山八幡宮氏子域であったが、赤童子・三社託宣に関係が深い春日大社と判ってからは替えたと云う時期は昭和新調した昭和47年だったそうだ。

祀った掛軸に手を合わせる人も多く、始まってから144年、伝統を守ってきた地域の行事だと再認識した東包永町内の祭り。

「大正拾年七月拾五日 東包永町」と書かれている賽銭箱。

寄進した時代が判る。

前述した流行りコレラを払う夏祭りの始めを示す年号である。



ガラガラ抽選会場には子供たちの行列ができあがる。

外孫の子どもたちも楽しみにして戻ってくる地域の夏祭り。

ガラガラを回して出てきた番号を確認する役員さん。



後ろにある賞品を示す子供たちに笑みが零れる。

ちなみに抽選商品が売り切れても明日の本祭りには追加するそうだ。

(H25. 7.13 EOS40D撮影)

福貴畑ジョウサン池の龍神祭

2013年11月03日 09時01分55秒 | 平群町へ
平群町福貴畑の水がめであるジョウサン池。

農業にとって大切な池は地域の貴重な水源地でもある。

村の鎮守社である杵築神社より北西500m先の山の上だ。

大阪県境になる十三峠はそれより向こう側になる。

6月22日に通りがかった十三峠の道筋。

そこでは村の男性たちが集まって道造りをしていた。

村の道にはびこる樹木や草を刈っていた。

いつもこうしていると話すS宮総代。

正月初めに行われた勧請縄掛けでお世話になった。

この日はジョウサン池に鎮座する龍王神社のマツリである。

龍王の名が示すとおりの水の神さんは池の南東畔にある。

この地はかつて雨乞いの場であった。

干ばつともなれば杵築神社にお参りをして松明に火を点けて山道を登っていった。

十三塚を左回りに巡ってから火を点けた松明を池に投げ込んだ。

そうすることで慈雨を乞うたのである。

龍神を怒らせて雨を降らせたという説もある雨乞いの様相はかつてのこと。

ジョウサン池に向かう村の人たちが抱える雨乞い松明の写真がある。

平群町が平成11年9月発行の422号に発行した『ふるさとへぐり再発見』に掲載された写真は奈良県教育委員会提供である。

ありしの姿を復元した松明行列の写真である。

その写真は先日まで県立民俗博物館で開催されていた企画展の「お米作りと神々の祈り」で展示されていた。

龍王神社下の広場に斎場を設けた。

シバを燃やして湯を沸かす御湯釜は他所では見たこともない茶釜であった。

年代を示す刻印もない湯釜。

ぶんぶく茶釜のような突起物は見られないが、御湯をされる三郷町の巫女さんも間違いないと話す。

湯釜の前に置いた蓆に座った巫女さん。

一拝して小幣を左右に降る。

ポン、ポンと柏手を打つ。

祓えの祝詞を奏上する。

そして湯の上から撒き散らすキリヌサ。

立ちあがって幣を振る。

その幣を湯に浸けて掻き混ぜる。

「この釜はひとかまなれどなるかまとおぼしめし・・・きこしめしかしこみかしこみ申す」。

「・・・東では三十三国、西でも三十三国、併せて六十六国」などを述べて湯を掻き混ぜる。

福貴畑の龍神さんに神さんを呼び起こして勧請する。



勧請した幣を左手に、右手は鈴を手にしてシャンシャンと鳴らしながら左、右、左にそれぞれ一回転する神楽を舞う。

笹の葉を執って「この手に笹をもちまねき いずくの国より 天より降りたもう」と告げて、上下に動かす湯に浸けた笹の葉。

もうもうと立ちあがる湯のけむり。

「祓えたまえ きよめたまえ」と掻き混ぜた笹を拝みながら「東では天照皇大明神、南は多武峰大権現、西では住吉大明神、北では春日若宮大明神」。

それぞれ「お受け取りください」と四柱の神々の名を告げて捧げまつる。



そうして湯に浸ける笹の葉。

何度も、何度も繰り返す。

まるで湯を焚きあげるような作法である。

そうして四神に向かってそれぞれ「元のおやしきに送りそうろう おさめそうろう おんなおれ」と告げる。

先ほどと同じように左、右、左に一回転する神楽を舞う。

そして龍神さんの祠の前に進みでて同じように神楽を舞う。



下って、「水難、盗難、家内安全、もろもろの穢れを祓えたまえ きよめたまえ」と参拝した神社役員一人、一人に御湯の笹を鈴で祓い清めるありがたい身体堅固を受ける。



御湯の儀式を終えれば一人ずつ龍神さんに玉串を奉奠する。

御湯に使った笹の葉と幣は祠に残して立ち去る。

龍神祭を終えたジョウサン池は静けさを取り戻す。



ちなみにジョウサン池を充てる漢字は何であろうか。

池の向こうは十三峠。

もしかとすればと思って、宮総代に伺った。

「ジュウサン」が「ジョウサン」に訛ったのでは・・・。

「そうかもしれん」と返答する宮総代であった。

雨乞いの御湯を終えたころにはぽつぽつと雨が降り出した。

雨乞いが叶った祈りの祭典を終えた氏子たちは杵築神社に戻って直会をする。

かつては秋のマツリにおいても御湯をしていた。

境内に設えた御湯の行事は今では見られない。

(H25. 4.27 SB932SH撮影)
(H25. 7.13 EOS40D撮影)

東名高速道で追突事故

2013年11月02日 08時38分16秒 | かないあんぜん
県立民俗博物館で今年の写真展打合せを終えて帰宅したときのことだ。

長男が帰省すると電話があったというかーさん。

お盆は仕事が忙しくなりそうなので帰省できなくなる。

急なことだが休みをもらったので帰るとうわけだ。

そうか、世間では、海の日の祝日を含めて明日から三連休だった。

サラーリーマンでもない週三日間のバイト生活では三連休は関係ない。

意識もしていない日々を暮らしている。

たまには平日の仕事休みの日を日曜と思ってしまうことがある。

電話があって1時間後。18時半ころのことだ。

再び長男から電話があった。

高速道路で戻っている豊田辺り。

道路は渋滞だった。

ほとんど動かない渋滞に巻き込まれた。

そこへ突然に後方を走っていた車に追突されたというのだ。

警察を呼んでいるといって切れた。

電話ができるぐらいだから生きている。

しばらくして再び電話が鳴った。

「お父さん、車の事故経験は豊富やからどう対応したらいいんや」と話す。

「それはないやろ」と思いたいが、返した言葉は「直ちに加入している保険会社に電話せよ」である。

その際に云った言葉は「渋滞で停車していたのか、そこへ後車が突っ込んだのか」である。

実際、そのとおりであった。

身体に異常はないというから、まずはひと安心。

1時間後に思い出した。

事故直後の写真を撮っておいたか、である。

私はいつもそうしている。

何かがあれば記録を撮る。

携帯電話のカメラ機能はそのためにもある、と思っているほどだ。

夜8時になったが、かかってこないその後の状況。

しばらくすればかかった電話の内容は「保険会社が手配したレッカーで引っぱられて戻る」というのだ。

車は後ろに当たられて窓ガラスがすべて割れた。

少し凹んでいるだけなのでエンジンは支障ないはずだが・・・。

急な帰省であったが、友人を乗せていた。

彼は山添村の住民。

かれこれ数年前に訪れた村の行事にお世話になった息子さんだ。

電車も通っていない山間部。

衝突の際に受けた心の傷もあるだろう。

面倒をかけたくないと判断して保険会社のレッカーに甘んじたらしい。

戻ってきたのは夜11時半。

遠い道のりだ。

元気な姿をみてほっとする。

後ろの窓ガラスはビニールを張ってガムテープで応急処置してあった。

車に積んでいたバッグの中まで混入していた。

衝突した場所は愛知県の豊田。トヨタの町だ。

トヨタの車を陸送する4トントラックが帰社する途中でぶつかった。

渋滞で停車していたときだ。

バックミラーを見ればぐいぐいと大きく写るトラック。

ぶつかると思って運転席で横になった。

安全を見越した行動らしい。

それでいいのだが、時速はどれぐらいであったのだろうか。

警察に伝えた運転手は息子より少し若い。

いねむり運転していた。

気がついたときに急ブレーキ。

ドンとぶつかった。衝撃は強かった。

高速道路の事故で停車中にぶつかるトラック事故はニュースで度々報道される。

そのほとんどがグシャグシャにつぶれた惨状。

場合によっては発火して炎上する映像に目を覆う。

よくまぁ無事であったことだ。

ちなみにレッカー車は保険内を大幅に越えて実費10万円もかかったという。なんてことだ。

翌日に保険会社から電話があったそうだ。

停車中であろうが、移動中であろうが、追突の場合は10対0で全額保障されることを聞いてほっとする親の心。

修理はいつものSオートサービスに頼んだが、日にちがかかる。

仕事がある東京へは戻らなくてはならない。

修理を終えればまたもや奈良へ来なくてはならない汽車賃。

もちろん新幹線の利用であるが、それらの費用も保険で充当されるらしい。

数週間後の27日になってようやく修理が完了したものの奈良に戻るにはお盆休みを待つしかない。

しばらくの間はSオートサービスで預かっていただく。

(H25. 7.13 SB932SH撮影)

海知町倭恩智神社祇園祭の中日

2013年11月01日 08時38分04秒 | 天理市へ
祇園祭の中日(なかび)になる10日は般若心経を唱えたあとでソーメンをよばれると聞いていた天理市の海知町(かいちちょう)。

氏神さんを祀る倭恩智神社の祇園祭はかつて7日から14日までの毎日であった。

提灯を掲げた神社の扉を開けて参拝者を待つ。

いつしか祇園祭は7日、10日、14日の三日間になった。

畑仕事を終えた一人の村人は軽トラを停めて参拝する。

拝殿前に座って静かに祈る男性は副総代のNさん。

昨年の9月に行われたシンカン祭の七日座に居られた村ウチワの手伝いさんだった。

神社の関係者になってからは朝な、夕なに参拝している。

朝のお参りは「今日も元気で仕事ができますように」で、夕方は「無事に過ごせました」と正座して御礼を述べる。

祇園祭であろうが、シンカン祭であろうが、毎日を参拝する姿に感服する。

それからしばらくしてやってきたNさんは家のお風呂に入って身を清めた。

それが神さんに対する姿勢。

始めたころは立ってのお参りであったが、いつしか正座するようになったと話すのは奥さんだ。

12戸の宮座家は昭和初めに7戸、6戸。

その後も減り続けて3戸となった。

シンカン祭を継承することが難しくなり、昭和10年に宮座制度を廃止して村講(村宮座とも)行事へ移行したが、マツリを勤めるオトヤ(大頭屋)・コトヤ(小頭屋)の二人組は変わりない。

平成4年ころは36戸。

もっと昔は42戸もあったと云う海知町は旧村四垣内。

現在の戸数は東垣内が11戸、南は8戸、北が9戸、西は5戸である。

若干減ったようだと村ウチワのSさんが云う。

陽が沈んだころの時間になれば村総代や頭屋、村人たちが集まってくる。

電灯を点けた拝殿は村の佇まいを映し出す。



小さな子供たちもやってくる村の祇園さんに、般若心経の音色で包みこまれる。

副総代が勤める般若心経の導師。

鉦を打つこともなく、仏教CDを収録したカセットテープが唱える心経に合わせて参拝者も唱える。

かつては毎日が生声であった心経は三巻。

ゆったりとした調子である。

境内外で花火をしていた子供たちは両トヤが用意したお菓子を貰って帰る。

子供のころはそれが楽しみだったと話すオトヤのKさん。



心経を終えればお神酒を下げてソーメン喰いが始まる。

オトヤとコトヤが接待する両頭屋のふるまいソーメンをよばれるのだ。

今年は服忌が多くて参拝者は少なく14人。

残っては困るから何杯もおかわりをよそってくださるオトヤ・コトヤさん。



ネギをぶっかけてショウガかワサビの香味。

市販のソーメン出汁をたっぷり注いでいただく振る舞いのソーメンはたまらなく美味しい。



かつては供えたカマボコを肴にして飲んでいたと話すSさんは手、足が不自由なお身体。

そのような身体であるが、いつも気持ち良い笑顔で接してくださる。

(H25. 7.10 EOS40D撮影)