マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

城ケ丘の盆踊り

2013年11月20日 07時00分18秒 | 大和郡山市へ
かつて私が住む旭ケ丘自治会では盆踊りがあった。

息子たちが小学生のころだった。

青池と社会教育会館体育館の間の広場であった自治会住民が踊る盆踊り。

櫓を立てて踊りの輪が何重にもなったことを覚えている。

ここより1km南西に千日町がある。

旭ケ丘同様の新興住宅地である。

ここでもかつては町内の人たちで賑わった盆踊りがあった。

昭和45年に造成された住宅地に集約した住民が織りなす盆踊りは事情が起こって中断した。

一方、千日町造成以降に宅地化された新興住宅地は城ケ丘。

県立民俗博物館・大和民俗公園より東側にある住宅地である。

この日の夜は城ケ丘の盆踊り。

多くの住民が集まってくる。

公園内に立てられた櫓には笹竹を設えている。

盆踊りの日は城ケ丘の夏祭りでもある。

竹は祭りの柱なのだろうか。

自治会が運営する夏祭りには手作りの夜店もあって、輪投げに列ができるほど子供たちも多い。

普段の城ケ丘では子供の姿を見ることが少ない。

これほど多くの子供たちが居るとは思ってもみなかった。

この夜にお会いしたYさんが云うには、町を出ていった息子や娘さんが孫を連れてやってくるのだと話す。

新興住宅地が故郷である城ケ丘に戻って家族団らんで過ごす夏祭り。

浴衣姿で踊る夏祭りは数曲踊ってひと息つける。

町人バンドも唄声をあげる。

近年、見られなくなった新町の盆踊りは、代を重ねてこれからも続いていくことだろう。

(H25. 7.27 SB932SH撮影)

矢田の民俗聴講⑩

2013年11月19日 08時19分18秒 | 民俗を観る
平成23年2月27日に立ちあがった「矢田歴史民俗研究会」。

きっかけは平成22年12月11日から翌年の23年2月6日に奈良県立民俗博物館で企画展された「大和郡山の祭りと行事」であった。

民俗博物館・大和郡山・矢田へと繋がった一本の線は発展して「矢田歴史民俗研究会」になった。

矢田は歴史文化の宝庫。住民が話す昔の暮しや民俗を中心に迫っていく。

今までに「矢田の大工の職人たち」、「西矢田宮座年代記」、「矢田の宮座」、「郡山天守閣の流転」、「矢田の墓制」、「中井役所・大工鑑札」、「矢田の石造仏」などさまざまな角度から捉えてきた。

例会のほとんどは村の住民の語りと調べもの。

大和郡山の祭りと行事を捉えたカメラマンの立場でと云われて初回から参加するようになっていた。

この日は10回目の会合である。

普段の例会は民俗博物館。

たまにはアウトドアで地域を巡検してきた。が、この日は矢田北村住民のK家である。

当主が話した蔵に残っていた諸物。

古い写真が出てきたという。

貴重な映像は当時の出棺の在り方である。

昨年の3月と11月に亘って矢田の民俗フィールドでお話を伺った棺桶を担ぐ葬送の姿である。



今では行われることもなくなった新仏の斎壇の在り方も知る貴重な家の記録写真である。

同席しているNさんは東村の住民。

いつも村の様相を話していただく。

北村は50軒ほどで、東村はおよそ60軒。

産業分布によれば明治時代の人口は中ぐらいであったようだ。

大阪から大和郡山へ。

交通の要所でもあった矢田村はかつて大勢の人たちが住んでいた。

江戸時代、敵を監視するタカヤマにコグリと呼ぶ地がある。

それは「コグチ」であったかもと話す両氏。

コグチは虎口。

木戸があったという地には川があった。

山を崩して新道を造った。

この地は大阪枚岡に抜ける道で、暗峠(くらがりとうげ)に続いていたと現地順検をした地の「タカヤマ」は「城」であったろうと話していた。

高専の東側に土手があった。

そこには土塁跡もあった。

西側の右には何もなくて田んぼだったと云う。

少年自然の家がある北の施設は「ひかり園」。

その前を流れる川沿いの道。

今ではアスファルトであるが、かつては砂の道であった。

川に溜まった土砂を掬いあげていた道。

夜道は月夜に光って輝いていた。

その光景は今でも鮮明に覚えていると話す。

その川は沖台川。

オキンダイガワと呼んでいる川である。

大昔のことであるがと前置きされて語った川の風景。

かつては川舟があった。

沖台川は千日町の傍を流れてオオカワ(大川)と呼んでいた富雄川へと流れていた。

矢田坐久志玉比古神社のお渡りに船渡御があったと話すNさん。

現代ではなく、江戸時代のことである。

古文書によれば一、二、三老の仕事で船渡御をする船頭に賃金を支払っていたと云う。

さらに、沖台川では土塀の白壁原料となる漆喰も運んでいたと話す。

上流に運ぶのはおそらくロープであったと考えられるが証しはない。

ちなみに北のサンマイ墓付近を流れる川の名はサンマイガワ。充てる漢字は三昧川である。

(H25. 7.27 SB932SH撮影)

今市コネンブツ講の数珠繰り地蔵盆

2013年11月18日 07時50分31秒 | 奈良市へ
春の彼岸の入りの日はチバミ墓地に参ってお念仏を唱えて数珠を繰っていた今市の小念仏講の婦人たち。

7月には今市の地蔵盆においても数珠繰りをしている。

小念仏講の婦人たちは講中でも尼講の人たちだ。

今朝は雨が小雨だったこともあって蒲池傍にある地蔵尊に提灯掲げて般若心経を唱えていた。

石仏地蔵尊は「セキトバカ」と呼ばれる地から出てきた。

河川工事によって川からも出てきた地蔵尊を寄せて蒲池堤辺りに祀ったと云う。

かつては地蔵尊の前にゴザを敷いて行っていた。

「夏の日差しがきついからご住職には傘をさしてあげてしていた」と話す。

ところが、「えらい降りの雨の夕立におうてからは数珠繰りの場は公民館に移した」と話す講中たち。

一時的には地蔵尊傍の児童公園にしたこともあるが、「夏は暑いから丁度良いから、何年か前からはここ」という公民館は冷暖房が完備されている。

尼講は8人であるが、この日に集まったのは7人。

導師となる今市隆興寺の村井實道住職を迎えての法要。

最初に融通念仏勤行のお念仏を唱える。



念仏を唱える方角は地蔵尊がある処だ。

ガラス戸の方角がそこになる。

数珠を手にした婦人たちは手を合わせて念仏を唱える。

そうして始まった百万遍数珠繰り。

その間もお念仏を唱える住職。

数珠珠の房が一周する度に数えるカズトリは木片だ。

一の位は9枚。十の位は5枚。数珠珠が回ることに一つずつ置き替える。

これによって数珠繰りの回数が判るのだ。

本来ならば百万遍数珠繰りではあるが、百万遍も数珠繰りをしない。

100回数である。

これまでもそうしてきたが繰る婦人たちは高齢者。

「重たい数珠は年寄りには100回も送るのがしんどい。もうあかんわ」と彼岸の数珠繰りと同様に、ご住職に短縮を申し出て半分の50回にしてもらった。

炎天下でしていたころの地蔵尊の数珠繰りも50回。

蒲池傍にある地蔵尊で50回、それから移動して今市の街道沿いにある地蔵尊でも50回。

合わせて100回の数珠繰り地蔵盆は高齢者に堪える。

しかも50回も繰るにはおよそ30分にもなる長丁場。

「なーんぶーーつ なーああーむぅ あーあーいーだ あ、あ なまんあいだ なむあいだぶ なむあみだ」を終える頃は夕刻になった。

(H25. 7.24 EOS40D撮影)

伊与戸の地蔵盆

2013年11月17日 08時17分33秒 | 田原本町へ
田原本町の伊与戸では集落を中央から分けて東・西の二カ所に地蔵尊を奉っている。

東・西それぞれに属する尼講こと大師講の婦人たちがお勤めをする伊与戸の地蔵盆。

地蔵尊の前に竹を2本立てる。

その間に架けた葉付きの竹で設えたのは提灯掛けである。

まるで横に広がった鳥居のような特徴をもつ形式だ。

提灯は子どもさんが居る家。各家が持ち寄った提灯には子供の名が書かれている。

東・西二カ所の地蔵盆はほぼ同時に始まる。

この年は西の地蔵盆を拝見した。

地蔵尊は「南無阿弥陀佛」の六字名号が刻まれた石塔だ。

それには小さな文字で由来若しくは名前らしきものがあるが、判読できない。

六字名号の石造物に違いないが、当地では地蔵さんと呼んでいる。

会所で毎月のお勤めをしている尼講。

お葬式の際には「なむあみだぶつっ」を唱えるそうだ。

地蔵盆のお供えは各家が持ち寄るお菓子であるが、石造物には当番の家が供えるダンゴがある。

かつては当番の家で作っていた。

米粉を挽いて作っていた。

ウルチ米にモチゴメを入れてカラスキで踏んでいた。

子どものころだというから随分前のことである。

挽いた米粉は湯で練って丸める。

煮立った湯に入れれば浮いてくる。

トリコ(取粉)を塗してできあがったダンゴは生来の米の味。

キナコを塗す、或いは醤油をつけてみたらし団子のようにして食べたと話す婦人たち。

お店で買ってきた三色ダンゴを供えてゴザに座る。

ローソクや線香に火を点けて始まった念仏は三巻の般若心経。

ゴザ外に立つ婦人らも手を合わせて唱える。

そのころにやってくる子どもたちは浴衣姿。

普段の伊与戸では見られないほどの子どもたちで賑やかになった。

外孫が大勢だと話す。

心経でお参りをされたあとは子どもたちのお楽しみ。

御供を下げて参拝者の子どもたちに配るのである。

子どもの目的はお菓子貰い。

親たちとともに並んだ行列が伸びていく。

箱から取り出したお菓子は箕に入れる。



それを行列に持っていく。

手を差し出す子どもたちには生まれたての赤ちゃんも並んでいる。

地蔵さんは子どもの守り神。

ありがたい御供を受け取れば東の地蔵さんに向かった。

到着したときには般若心経も終わっていた。

西と同様の三巻である。



ここでも御供貰いの行列ができあがる。

お菓子を貰って帰る子どもたちの姿を見送った東の当番の人は提灯を下げた。

(H25. 7.23 EOS40D撮影)

新庄町鉾立地蔵寺の地蔵会式

2013年11月16日 08時36分14秒 | 大和郡山市へ
この日は県内各地で地蔵盆が行われる。

なかでも気になっていたのは大和郡山市の新庄町。

新庄町本村から北東外れにある村の出垣内は「鉾立(ほこたて)」と呼ぶ地区。

江戸時代は鉾立が本村で新庄本村が枝村であった。

後世に逆転した珍しい地域である。

その鉾立に地蔵寺がある。

8戸からなる鉾立住民が代々に亘って、本尊の石造地蔵仏を守ってきた。

普段は無住寺で扉は閉まっているが、この日は村人のための地蔵会式に同市小林町在住の真言宗新福寺住職が来られる。

朝から本堂や境内を奇麗に清掃してきた村人たち。

境内墓地にも花を立てて会式に供える。

地蔵寺は、享保元年(1716)、蔵之庄村出身の山口直友(やまぐちなおとも)の菩提寺として建立されたと伝わる。

蔵之庄村は現在の天理市蔵之庄町。

鉾立より北東に向かった3kmほどの地である。

山口直友は戦国時代から江戸時代初期まで活躍したとされる武将で徳川家康の家臣だったそうだ。

山口駿河守と呼ばれた山口直友は豊臣秀長の家来だった。

伝聞によれば鳥羽伏見の戦いで戦死したようだ。

たしか位牌があったと云って住職とともに探してみたが判別できなかった。

地蔵寺境内に立つ燈籠に「奉書願成就之所 延享二年(1745)」らしき刻印がある。

天文十三年(1544)に生まれ、元和八年(1622)に没した山口直友年代より後年の建之された燈籠である。

石造地蔵仏は端正なお姿で、立派な光背もある。

地蔵会式に供えた大きなスイカ。

カボチャやトマトもある。

8戸の人たちが供えた御供はキュウリもある採れたての地産野菜だ。



本村の代表者とともに手を合わせる地蔵会式の法要を勤めるのは新福寺のご住職。

先々代より引き継いだ。

当時は地蔵寺に住まいしていた。

今でも住めるようにしていると云う。

「なむだいしへんんじょうそんこんごう」とご真言を唱えて焼香をする村人たち。

先祖代々供養に菩提を弔う塔婆回向。

一年に一度の村の会式に身体堅固、家内安全、諸願成就を願う。

ご真言を終えれば村人とともに般若心経一巻を唱えた。

昭和29年に嫁入りしたY婦人はお姑さんに連れられてお参りしていたと云う。

そのときにはアイスキャンデーを売りにきた商売人も来たそうだ。

会式の日にはダイカグラもあったぐらいに賑わっていたが、昭和31年に嫁入りしたⅠ婦人のころはアイスキャンデーもなかったと話す。

わずか数年間で賑わいに変化があったようだ。

(H25. 7.23 EOS40D撮影)

公納堂町阿弥陀さんの夏祭り

2013年11月15日 09時24分44秒 | 奈良市へ
江戸時代後期、元興寺の極楽坊が庶民信仰を広めるために近在一帯の十数か町に仏像を贈ったと伝わる「ならまち界隈」。

その一つにあたる奈良市公納堂町(くんどちょう)にはかつて阿弥陀さんを代々祀っていたあるお家に町内の人が集まって法要をしていた。

安置していたのは同家の庭だったそうだ。

30年から40年前だと云う。

さまざまな事情があって町内にある興善寺に預けることになった。

安置されたお堂は興善寺境内に建てられた不動堂・阿弥陀堂である。

公納堂町阿弥陀さんの夏祭りは15日。

いつしか集まりやすいその日に近い日曜日に移った自治会主催の夏祭り。

前日にはお寺境内の草むしりをするなど奉仕している。

公納堂町は清水通りの道筋に沿った37戸の家並み。

多くの観光客が訪れる。

清水通りは春日山から流れる伏流水。

水質が良いことから酒造りを営む酒屋さんは4軒もあったそうだ。

町内には井戸が多い。ほとんどが散水に使っているが、今でも飲料にしているお家が1軒あると云う。

災害時にはその井戸水が役立つのではと話す自治会長。



提灯を掲げた不動堂・阿弥陀堂に上がるのは地区の尼講の人たち。

狭いお堂に上がるには人数に限りがある。

役員たちは堂外で手を合わせる。

夏祭りの法要は阿弥陀さんの前に座った興善寺住職が唱える。

そして、尼講たちが木魚を叩いて般若心経を十巻唱える。



毎月の15日においても心経十巻を唱えている尼講である。

公納堂町の夏祭りは抽選会もある。

賞品を調達した役員さん。

本堂で籤を引く町内の人たちは参拝で賑わった。

80歳になるKさんが嫁入りしたころのことだ。

興善寺境内では盆踊りをしていた。

踊りの輪が二重にもなったぐらいに多かったと話す。

不動堂・阿弥陀堂に安置された仏像は阿弥陀立像、十一面観音立像、不動明王、行者さんなどだ。

木造阿弥陀立像は焼けた跡が僅かに見られる。

その姿が心苦しく、20年ほど前に職人さんの手によって塗り替えた。

光背はあとから付けたものと伝わる。

(H25. 7.21 EOS40D撮影)

仙台名物極厚炙り牛たん杜もと大和郡山店

2013年11月14日 07時21分24秒 | 食事が主な周辺をお散歩
郡山ゴルフ場の前。信号を渡ればマクドやガストがある。

中央はぽっかりと空いた地。

何十年もその姿であった。

かつての店が何だったか、まったく覚えていない。

数か月前のことだ。送迎する道中である国道24号線は通過地点。

空き地に工事業者が集まっていた。

何かができるのだろうと思っていたその後。着々と建物ができあがっていく。

一か月前に建った看板にメニューらしきご馳走が掲示された。

その店は牛タンを主に取り扱うようだ。

開店日は7月18日。昼ごろに通った際に見た光景。

幟を立てて通行人に知らせる。

仕事を終えて帰宅すれば「今日、入っていたチラシを見たか」と話すかーさんが嬉しそう。

先だって、仙台に住む実弟と話していた牛タン。

厚切りの牛タンがとてつもなく美味かった。

どこで売っているのかと聞けば、仙台の「牛たん元祖のべこ正宗」だと云う。

通信販売もしているから注文しようかと話していたことを思い出して食べたくなったかーさん。

18日から21日までは格安の値段で食べられる「極厚炙り牛たん定食」。

普段なら税込みで966円のところを750円である。

ありがたいお試し価格に釣られて出かけた「杜もと大和郡山店」は大和郡山市の小林町にある。

今国府の交差点から東へ少し走った今国府町東交差点のところだ。

昼前直前の駐車場はいっぱい。

お店も行列ができていた。

チラシに釣られてやってきたのであろう。

待つこと15分。案内されたカウンター席に座って注文するは「極厚炙り牛たん定食」。



すぐ出る一品のうちから頼んだ白菜キムチ。

ほんまにすぐ出てきた。

濃いめの味にビールが欲しくなるが運転手は飲むわけにはいかない。

しばらくすれば運び込まれた定食。



厚切りの牛たんは六切れ。

美味しそうな香りとともにじゅわーと喉が唸る。

添えものは一品でも売っている杜もとキャベツにピリ辛いもやし。

白菜キムチ同様に一品で頼んだら税込84円。

量はそれほど多くないから値段も含めて手頃感。

定食にはスープも付いている。

牛骨白スープはこってり味で、油が浮いている。

コラーゲンたっぷりのスープはコクがある。

中からは面白いように牛たんが出現する。

これが柔らかくて美味いのだ。

ごはんといえばこだわりの麦ごはん。

麦の味はそれほどでもないがとにもかくも量が多い。

年寄りやメタボ対策中の人には少々こたえる。

1/3ほど残したかーさん。食べてほしいというが無理、無理。

メニューを見ればこだわりのとろろもある。

それを頼めば麦とろごはんになる。

そうしようと頼んだとろろをぶっかける。



出汁の味が利いていて美味い。

喉越しも良いとろろだ。

主役の厚切り炙り牛たんはといえば上々の特上である。

包丁を入れた切り込みが食べやすい。

年寄りの歯でもがっつり切れる柔らかい牛たん。

噛めば肉汁がジュワーである。

思っていたよりもはるかにしのぐ特上の味にまた来てみたいと思ったのは言うまでもない。

ところで「杜もと大和郡山店」は1号店。

本社は大阪で7月初めに設立した。

本社創立は「ワンカルビ」や「きんのぶた」を経営するワン・ダイニングのお肉専門会社の「ダイリキ」だった。

今国府交差点北には焼肉ダイニングの食べ放題レストランの「ワンカルビ」がある。

(H25. 7.19 SB932SH撮影)

櫟本町高品長林寺観音夏祭り

2013年11月13日 14時14分50秒 | 天理市へ
天理市櫟本町の高品(たかしな)の夏祭りを知ったのは5年ほど前だ。

櫟本町の和爾下神社で行われる夏祭りの茅の輪潜りなどを下見していた。

駐車場付近の民家に貼ってあった行事の案内に高品の長林寺で行われる観音夏祭りが書かれていた。

高品がどこであるのか気にもかけずにいた。

当時はどちらかといえば神社行事を中心に取材していた。

その後は地域の講を調べることが多くなった。

観音さんの祭りであれば観音講が考えられると、ふと思い出した。

随分と月日が経過したある日の送迎。

患者さんは櫟本の市場や膳史(かし)の住民。

Fさん、Nさんの二人の話しによれば、その日に花火が打ち上げられると云う。

「南六条から櫟本に嫁入りしたころは和爾下神社の祇園祭には立山があった」と云う。

およそ50年前。随分前の祭りの様相である。

白土町に住む送迎患者のSさんはこう云った。

「櫟本の祇園さんの日は川沿いに並んだ店で賑わった。ところどころに立山があった。商工会も作っていたし、イナヤ(稲屋であろう)にもあった。芝居小屋は現在の南都銀行の処やった。白土の隣村になる横田での立山は横田の和爾下神社前の電器屋や南の辻など、5か所にあった」と話す。

立山の存在を覚えていた小泉の送迎患者のYもこう話した。

「南六条のマツリに大神楽が来ていた。そのときには村で立山があった。横田や二階堂の街道筋の民家の広い場にもあった。見に行ったのは子どものころだ」である。

80歳を越えた高齢者が記憶にある立山はかつての村行事の在り方であった。

長林寺の観音夏祭りに話を戻そう。

「毎年7月17日は長林寺で行われる観音さんの祭りは、当時居られた安寿さんが始めた。19時ころに花火が上がって盛大な夏祭りだ」と話す櫟本の住民の声に誘われてやってきた高品地区。



商店が立ち並ぶ南北を貫く街道は奈良から桜井へ行き交う上街道。

京都から奈良街道を経て、古都奈良から桜井を結び初瀬参拝の道として江戸時代に発展した街道である。



高品の商店街には高く揚げた行燈型の提灯がある。

新地町内の行燈は「黒川に 抜苦興楽乃 御船阿里 月春」、「真善美 聖のすがたや 観自在  月春」を挟んだ中央には「観世音菩薩」とある。

反対側にも「月春」の句が寄せられている。



北側にも掲げてあった行燈型提灯には「信仰に 人の道あり 夏木立」、「うその無い 話涼しも 橋の上」だ。

反対側にもあった句は「はたらきに 一歩の徳や 汗涼し」、「花の精 観音さまを 生みにけり」だった。

その行燈が掲げられている一角にある建物が長林寺である。

北隣村の楢町に鎮座する楢神社はすぐ傍にある。

長林寺の本尊は観音さん。



周囲にはたくさん積みあげられた千手、如意輪観音などの観音像が処狭しとある。

このような光景は未だかって見たことがない。

台座と思われるような箱には西国三十三番札所の各寺が記されていた。

33体であるか、それとも千手、十一面、聖観音の3体を安置する近江八幡の長命寺のことを考えれば35体であるのかも知れない。

陽が落ちるころには法要が営まれる。

僧侶は櫟本の三寺(浄土宗極楽寺、融通念仏宗大興寺、浄土真宗覚王寺)が一年交替であたる。

この年は大興寺であった。

法要が始まる前には地区の人たちが訪れて参拝をする。



受付を済ませた人たちは線香とローソクをもらって手を合わせる。

一本、一本灯すローソクの火が風に揺れる。

子供連れ、家族連れ・・・・次から次へと参拝に来られる。



子供たちだけで来る子らも手を合わせている。

信仰が厚い町の子供の作法に感服する。



住職の法要に参集したのは櫟本観音講の婦人たち。

融通念仏の「夕時念仏」を唱えたあとは般若心経に移る。

本尊の前に御膳を供えた。

朱塗りの膳に盛った椀も朱塗りだ。



モチゴメにウルチ米を半々に混ぜたセキハン椀やカボチャ・オクラ・シイタケ・アゲ・ゼンマイの煮もの椀、エンドウマメの胡麻和え椀、シメジと菜っ葉の汁椀にキュウリ・トマトの香物だ。

いつもこうしているという御膳は調理膳である。

しばらく歓談して帰っていった住職。



残った婦人たちはこの場で西国三十三番のご詠歌を唱える。

かつて長林寺の住職を勤めていたのは蔵之庄の蔵福寺の先々代のお弟子さんになる安寿さんだった。

安寿さんが病いで入院された。

それから数年後に亡くなられた。

安寿さんが居られた時代もご詠歌の導師を勤めていたⅠさんは、亡くなられたあとも続けている。

キーン、キーンと平鉦を打ってご詠歌の調子をとる。

ゆったりとしたリズムで前半は二十三番まで。

なむあみだぶつ、なむあみだぶつで連打して終えた22分間。

西国三十三番のご詠歌は長丁場だけに一旦は小休止。お茶をいただいて一服する。

毎月17日は観音さんの日。

営みは同じく婦人部の人たちだ。

般若心経とご詠歌を唱えている。

高品の観音講は毎月21日がお大師さん。

その日も同じく般若心経とご詠歌を唱えている。

この夜の夏祭りの観音講の婦人は11人の営み。

かつては17人もおられたが今では12人になると云う。

男性も入れた講中すべてで50人にもなるそうだ。



後半は二十四番から。番外の「たにぐみ」、「くわざんのいん」、「くまのみょうほう山」、「なら二ぐわつだう」、「かうや山こうぼう大し」、「やなぎ谷くわんぜおん」、「ぜんくわうじ」、「やたのぢぞうさん」、「おとわのくわんぜおん」なども唱えた後半は13分間であった。



丁寧に唱える間もたゆまなく参拝する町の人たち。

ご詠歌を終えた時間後も絶えることがない。

この夜は町内会の大抽選会もある。

受付に並ぶ人で長い行列ができる。

賞品は一等賞がテレビで、二等は洗濯機だ。

観音講の寄付で賄っている賞品の豪華さに驚いた。



ドーン、ドーンと花火が上がった。

近くの新池から打ち上げられる高品町内会の花火大会に足を停めて見る町の人。

10分間に打ちあがった花火を楽しんでいた。



観音講の営みは2月の春祭りもある。

そのときは護摩壇に護摩木を燃やして絵馬を奉納すると云う。

(H25. 7.17 EOS40D撮影)

長安寺町のダイジングサン

2013年11月12日 10時34分11秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市の長安寺町にある五輪塔覆堂(ごりんとうおおいどう)は筒井順慶墓。

国指定の重要文化財である。

それは筒井順慶歴史公園内にある。

そこには長安寺町の大神宮もあるが、知る人も多くない。

かつては注連縄を張ってソラマメ御供を供えていた。

いつしかその場での営みを止めて、南側にある大師堂内部で十巻の般若心経を唱えている。

この日の晩の8時に神事の祝詞を奏上して心経を唱えていたと大師講のD婦人が話していた。

窓側の先の大神宮に向かってが紙に書いた大きな文字の神事祝詞を奏上していたのである。

神事ごとなので服忌であれば参列できない。

神事を終えた直会には供えたスルメやオカキを肴にお神酒をよばれていたそうだ。

大神宮には「太神宮 天下泰平 愛宕山大権現 天保二年(1831)」の刻印があった。

大和郡山にはそれぞれの旧村ごとに大神宮の石塔が見られるが、長安寺町のような「ダイジングサン」の営みを聞くことがない。

貴重な行事はいつか拝見したいものだ。

(H25. 7.16 EOS40D撮影)

法貴寺川東惣講大神宮のゴウシンさん

2013年11月11日 07時50分25秒 | 田原本町へ
川西講大神宮のゴウシンさん神事を終えれば直ちに川東へ向かう池坐朝霧黄幡比賣神社の藤本宮司。

川西の御湯を終えた里の女児巫女も急ぐ。

川東惣講大神宮は現在の大和川西岸に建つ。

寄進年代は不明であるが、「川東惣講中」の刻印が見られる。

西岸に建っている大神宮を「川東惣講中」と呼ぶのは不思議な感じがするが、かつての大和川は法貴寺集落の中央を南北に流れていた。

そこを境に川西、川東に分かれていたのである。

昭和57年8月に発生した台風10号によって激しい豪雨によって、流れていた大和川(初瀬川)左岸にあった堤防が決壊した。

田原本町北部の大部分は甚大な浸水被害が発生したのである。

その後の5年間にかけておこなわれた大和川改修工事によって川筋を大きく変えた。

その工事によって川東垣内は東西に分断されたのである。

かつての大和川(初瀬川)は細い水路を中心に公園化されて、当時の面影を僅かに残している。

四方に竹を立てて注連縄を張った川東惣講中の大神宮。

川東は東市場、南、西市場、寺内、宮ノ前(神社前)垣内の五垣内であるが、ほとんどが現在の大和川東側にある集落だ。

川東で神事が行われている際にも郵便屋さんが走り抜けていった。

宮司による神事や里の女児巫女が作法する御湯は川西講中と同じである。



その場に居合わせた宮ノ前垣内の住民であるM氏の話によれば、9月21日に斎宮神社の例祭が営まれると云う。

かつては「雨乞いのヤマモリ」とい称していた例祭は、「雨降らんか、降らんかったら雨乞い、降ったらヤマモリをしていた」と云う。

西口、西南、一部の前田垣内の氏子のマツリで、御湯の神事が行われるそうだ。

ちなみに9月7日は池坐朝霧黄幡比賣神社の弁天さんのヤマモリがある。

寺内、宮ノ前垣内のマツリで、その際にも御湯が行われる。

さらには南垣内が祀るコンピラさんにおいても御湯があるそうだ。

宮ノ前の住民が話した池坐朝霧黄幡比賣神社のだんじり。

ヨイミヤは15時に宮入り。

翌日の本宮においては同時刻に5台の宮出しをしていると云う。

その順は三方においた籤引きで決まるらしい。

(H25. 7.16 EOS40D撮影)