マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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花づくりの家

2016年09月25日 09時13分53秒 | 奈良市へ
花づくりの家のご夫妻とお会いしたのは前年の5月31日だった。

場所は田植えを終えた田園が広がる地だった。

自然観察会の指導先生の紹介もあってご挨拶をさせてもらった夫妻は存知している方々の名前を挙げられて驚いたものだった。

世間は狭いというのはこのことだ。

そのときにお願いした花づくりの取材である。

ほぼ一年ぶりにお会いする婦人はFBのトモダチになってもらっている。

2月27日付けの産経新聞に写真入りで紹介されていた薬師寺花会式・本尊薬師如来に供えられる花づくりをする家の記事を拝読して思わずメールを送った。

70年ほども関わってきた同家はこれまでにもテレビで紹介されたことがある。

ひとつは平成27年3月2日に放映されたNHK奈良のニュース番組だ。

「花びらの先が戻らないように、蝋で塗って固めた後、大きさの違う五種類の花びら十九枚を糊付けして重ねると完成です。山吹は黄色く染めた花びらを七枚から八枚を貼りあわせて小さな花を作ります」とアナウンサーが紹介する。

「みなさんが、お参りをされたときに綺麗な花やと思ってもらえるように気持ちを込めて作っています」と笑顔で応対していた婦人が突然に登場したので、大慌てで録画スイッチを入れたことを覚えている。

もう一つは翌月の4月2日に放送された読売テレビの「かんさい情報ネットten.」だ。

薬師寺花会式の様相を密着取材した特集にも花づくりの家が登場した。

「奈良西ノ京、薬師寺は天武天皇が皇后の病気平癒を祈って発願した大寺院だ。花会式の正式名は修二会と呼ばれ、古くは国家繁栄や五穀豊穣を祈る国家的行事だった。平安時代になって、堀河天皇の皇后が薬師如来に造花を供えたのがきっかけに花会式と呼ばれるようになった」と伝える。

「造花を十種類供えたときが、二月の修二会だったので造花会とも呼ばれていた。東大寺がお水取りというのに対して薬師寺は花会式」と解説されたのは山田法胤管主である。

特集は堂童子を務める長老を主に据えて紹介していた。

壇供にお身ぬぐい、造り花飾り付けを順に紹介する。

そこで登場したのが、花づくりをする前述のH家。

当主の奥さんが手のひらに乗せた黄色い花を広げていた。

糊を付けて互い違いに重ねていく。

同家の家族が揃って花つくりをしている。

代々が花を造ってきた家は五代目。

くちなしなど自然の染料を集めて、和紙を染める。

型抜きをして1本、1本の花は家族総出で半年間かけて作ってきたと紹介する。

出来上がった造花は薬師寺に納められる。

飾り付けは長老堂童子の指示のもと、青年衆と呼ばれる奉仕学生たちがしていた。

牛玉杖、荘厳を経て半夜、しゅし作法、結願、鬼追式で幕を閉じた一連の映像に感動していた。

この番組は撮ってはいるものの、花づくりの家族とはまだお会いしていなかった。

婦人を知ったのは放送後の2カ月先だった。

田園でお会いしたときに映ったお姿を思いだしたのである。

薬師寺に納める造花の種類は十種類。

椿、牡丹、梅、山吹、菊、藤、桃、桜、菖蒲、百合だ。

造花の花づくりは同家ともう一軒の家のM家が納めている。

花を作るのはすべての種類ではなく、分け合っているという。

同家は椿、牡丹、梅、山吹、菊、藤の六種類。

もう一軒が桃、桜、菖蒲、百合の四種類である。

すべての造花が出来上がれば薬師寺の僧侶に手渡される。

現在は薬師寺の僧侶が同家に来られてバンタイプのワゴン車に積み込んで運ばれる。

受け渡しの時期は薬師寺本尊、日光菩薩、月光菩薩のお身ぬぐいが行われる3月23日よりも前の日辺りになるそうだ。

かつては花づくり家の先代当主やインキョ(分家)の兄弟らが二人一組でオーコを肩に担いで運んでいたという。

自宅を出発して五ケ谷界隈の村を下る。

高樋、窪之庄を抜けて帯解に着く。

そこからは西方にあたる大和郡山市下三橋へまっすぐ進む。

北上して杏からはまたもや西方。

九条からはなら街道を経て薬師寺に着く。

距離は大よそにして片道13km。

途中で休憩する。

身体を休めて再び動くオーコ担ぎ。

重量はどれくらいか測っていないが、大きさから窺い知れる重さである。

届けてから自宅に向けて戻る。

そして次の造花を運ぶ。

一日に2往復。

数日かけて運んでいたと話す昭和6年生まれの現当主が子どものころに見た昭和27年以前の記憶である。

その年から昭和30年辺りの記憶は自転車に積み込んで運んだそうだ。

自転車に乗せられる量は限りがある。

何度も何度も往復したのであろう。

そして、車になったがミゼットだった。

ミゼットは大阪のダイハツ工業が生産・販売していた小型の軽オート三輪トラックである。

タイプによって異なるが昭和32年販売のDK型や昭和34年販売のMP型がある。

同家がどちらのタイプを購入されて利用していたか判らないが、運ぶ時代の流れを想定するにDK型が色濃いと思われる。

昭和34年といえば、私は小学2年生くらいだろうか。

住んでいた地域には車を所有する家は唯一の一軒。

車種はマツダのR360クーペだった。

生産・販売は昭和35年。

ミゼットとともに暮らしに身近になった軽自動車だ。

決して金持ちの家でもなかった人が買っていたが、育った地域で見た車は極、極、稀にであった。

花づくりは稲刈りを終えたころから始まっている。

紙切り作業は11月。

型紙に合わせて印を入れた和紙は重ねて切断する。

昔は包丁で切ったが、今は鋏で切る。

和紙は十枚重ねだけに包丁を入れるのも力がいったことだろう。

部材によっては色付けをする。

染める型紙は和紙の大判紙。

市内ならまち辺りの紙屋さんで買っているそうだ。

白っぽいところは白抜き。

色は付けていない。

染料は色粉。

餅などに入れる材料と同じで食べられる色粉。

饅頭屋さんに出かけて買ってくる。

色粉は色々。



本日、拝見した造花だけでも赤、朱、黄、緑、桃色がある。

色分けしてパーツごとに染料を染み込ませる。

液体に「しゅっと入れたら」染み込むという。

そういう染めもあれば、筆で塗る菊の場合もあるという。

染めが済めば広げて干す。

牡丹の芯になる黄色は名高い漢方薬の陀羅尼助丸薬の原材料にも使われているキハダである。

キハダはオオバク(黄柏)。

大峰山から送ってもらったキハダを包丁で削って粉にする。

黄色い粉はそのままに造花の花粉にしているという。

藤の花の芯はタロ(地元ではタラの木をタロの木と呼ぶ)の木を使う。



山野に生えているタロの木を刈り取ってくる。

刈ったタロの木はトゲトゲがある。

手で直に持てば当然ながら痛いが、天ぷらにしたタロの新芽はとても美味しい。

最近は栽培されたタラの芽がスーパーでも売られるようになった。

春を味わう旬のものだといって揚げたて天ぷらにして売る店も増えつつある。

山菜の王様とも呼ばれるタラの芽は需要が高い。

新芽がなくともタラの木は樹皮のトゲ(棘)で見分けがつく。

初春の頃に山野を歩いておれば目につきやすい。

稀にトゲが少ないタラの木が見つかる。

それはモチタラのようだが、私は見たことがないので自信がない。

それはともかく、タラの芽の一番芽は摘んでも、二番芽は摘まずに残すと教わってきた。

一番、二番とも芽を摘んだら、いくら繁殖力が旺盛なタラの木であっても生育力が衰えて翌年の芽だちが少なくなるのは当然だが・・・。

タラの木の成長には陽あたり良好、つまり、人の手が入った処に育成する。

山道や林道沿い、或は伐採地などが適地。

繁殖、密生、高木化した処では陽があたらず育ちが悪くなり、いずれは消滅する。

これまでは自宅近くの山野道沿いに生えていた。

いつしか消えてしまったタラの木はどこにあるのか。

その求めを知った山添村住民のTさんが材料を調達してくれたという。

ありがたいことである。

有る処には有るものなのであるが、そこも将来に亘って生えることはないだろうと思う。

樹木の材利用は他にもある。



牡丹の花の芯部分は桐の材を使う。

桐の枝は軽い。

それを長さ数cmに切断して円形にする。

中心部に穴を開ける、いわゆる刳り抜きの形である。

藤の花は説明を聞くまでは和紙を丸めて形づくりをしていると思っていた。

愕片に見立てたと思われるその部分は緑色に染めている。

蕾花の部分は白い。

それはタロ(タラの木)の木である。

皮を剥いて真っ白な芯をだす。

それが蕾の部分になる。

なるほどと思ったタロの蕾は作り置きができない。

皮を剥いだ芯は日にちが経てば経つほど色が褪せて白さが消えるらしい。



タロの木は他にも梅の蕾や菊の蕾にも利用される。

梅の花は白梅と紅梅。

枝はしゅっと伸びた梅ずわい。

先の方はふとんとじの糸を巻き付けている。

つまりは綿糸。

薬師寺が綿屋さんから集めてきた綿糸。

昔からそれを使っている。

今後は綿糸でなく本物の絹糸を使用することを考えているそうだ。

山添村北野に住む知人のTさんらが試験的に作り始めた蚕糸。

蚕を飼って繭にしてもらう。

繭は絹糸にする。

昔ながらの作業で作った絹糸を緑色に染めて梅ずわいの形づくりにする。

村の協力を得て材料を調達する。

蚕の生育には桑の葉もいる。

手間のかかる作業は数年前から始めたようだ。

試験的作業の場はだいたいわかる。

たぶんに訪れたあそこ(豊原公民館かも)であろう。

機会があれば覗いてみたい。

そんな話しを聞きながら出来上がった梅ずわいを拝見する。

ところどころに赤い点のようなものが見える。

梅の蕾であろう。

ところで梅ずわいの「ずわい」とはどういう意味があるのだろうか。

春日若宮おん祭において渡御式がある。

そのなかに赤衣を着た人が「梅の白枝(うめのずはえ)」と呼ぶ梅の木を携えて参進する光景を見ることができる。

「梅のずはえ」は桜井市多武峰の談山神社の神幸祭にも登場する。

お渡りに二の刀禰が若梅の木を持っていた。

ここでは若梅に厄除けの意味があると聞いている。

警固の意味をもつ社々の前駆けは、若宮おん祭の一番手先頭を参進する「日使(ひのつかい)」を先導する。

「梅のずはえ」の「ずはえ」とは梅の幹や枝からまっすぐに伸びた若枝の呼び名である。

若々しい枝を伸ばす梅の枝はこの「ずばえ」の他に「ずわえ」とか「すわえ」とも呼ぶことがある。

花づくりの家では細い梅の枝を訛って「ずわい」と呼んでいた。

充てる漢字は「楚」。

「すわえ」の詠み名がある。

これに清々しいの文字を連ねると「清楚」になる。

東京の大田花卉市場では取り扱う品種のなかに「ずばい」があるそうだ。

「ずばえ」でもなく「ずわい」が転じた「ずばい」である。

ちなみに「ずわい」の語彙に何かを思い出せないか。

「ずわい」といえば美味しい冬の味覚の「ズワイガニ」である。

「ズワイガニ」を充てる漢字は「楚蟹」」だ。

まっすぐ伸びた枝、ではなく、美味しい身が詰まったカニの長い手足。

木の枝に見えたことからその名がついたようだが、「スワエカニ」でもなく「ズワエガニ」でもなく「ズワイガニ」に落ち着いたのは何故なんだろう。

「ズワイガニ」はさておき、造花の大部分は和紙で作られているだけに、元に戻ろうとする特性がある。

山吹を作っておられた婦人が云うには、指で寄せた花びらの皺は放っておけば自然に戻ってだらーとする。

それを防ぐにはある程度の熱がいる。

熱によって温めるのであるが、それは炬燵の内部。掛け布団を開けて見せてくれる。

花びらも葉も火で炙る。

炙って薄く、ハクロウ(白蝋)でひく。

色染めしている部分に蝋をひくが、白梅とか白椿、白菊には蝋をひかない。

染めがある部分だけであるが、現在はその手段を施していない。

信者さんの声があった。

蝋をひけば和紙の値打ちが損なわれるという意見があった。

蝋ひきした和紙はひび割れするような感じがあったようだ。

例えば、であるが、パラフィン紙はパリパリ感もあって見た目はギラギラした光沢がある。

風が吹いて照りがあった日のようだった。

意見を受けたお寺さんからお達しがあった。

平成時代に入ったころだというから、30年近い前のことだ。

ただ、は戻り方が強いことから菊の花だけは蝋ひきをしているそうだ。

奥さんが面白い言葉を口にした。

茎にあたる部分は細く割った竹を使う。

部分によっては竹を曲げる場合がある。

その曲げることを「イタメル」という。

「イタメル」は力を入れて竹を曲げてときの「痛める」であろう。

半年間に亘ってさまざまな苦労をしながら調達や作業をされる花づくりの家の前身は成身院(じょうしんいん)と呼ばれる坊であった。

応永十二年(1405)五月に行われた春日社大般若会には正暦寺塔中(塔頭)寺院のうち、23院が出仕していたとある。

菩提院、福蔵院、寶蔵院、清浄院、十方院、中院、長勤院、妙厳院、光明院、松之坊、長観院、金蔵院、興善院、蓮華院、普門院、文殊院、大福院、福寿院、多聞院、西方院、成身院、金剛幢院、仏光院の二十三ケ院だったと平成6年7月に発刊された『五ケ谷村史』に書いてあった。

古くから塔中(塔頭)の一院であった成身院は現当主より二代前のかつて僧侶だった曾祖父の時代に院を降りて還俗。

現在地に落ち着いた。

当時、院にあった梅の木は現在地に移植した。

あれから百年にもなるという。

『五ケ谷村史』の記述に「正暦寺一千年の歴史」には正暦寺が衰退いく模様が子院の減少に象徴的にとらえられている」とある。

「文化十二乙亥(1815)年 有住十二軒寺株定帳 仲冬 沙汰人」書に十二院の名が連なる。

有佳子院、成身院、多聞院、福寿院、徳蔵院、宝光院、宝蔵院、仏光院、妙観院、返照院、大福院、吉祥院、他不明院の役料を割り当てた石高である。

詳しいことは省くが正暦三年(992)の創建、古くは八十六坊も所有していたとされる。

なお、史料によれば成身院の再建は明治八年。

明治二十八年の境内塔中院は成身院、徳蔵院、多聞院、吉祥院、福寿院の五ケ院になっていた。

当時、成身院の本尊は釈迦牟尼仏。

僧、森海道住職が務めていたようだ。

先々代の曾祖父とどのような関係だったのか不明であるが、曾祖父は薬師寺の僧侶でもあった。

その時代の花会式。

営みは当然だが、花づくりも僧侶がしていたと伝わるだけに、練行衆の役目であったのだろう。

理由は定かでないが、曾祖父は還俗(げんぞく)し自宅に戻った。

薬師寺の僧であったときに習得した花づくりの技術を持ち帰り子孫に伝授され現在に至る。

花づくり家はもう一軒あることは前述した。

実はこの家も薬師寺関係者であった。

薬師寺を守護する鎮守社の休ケ岡八幡宮がある。

薬師寺に参拝するときには、まず当社に参って身体を清めてからお寺に向かうのが正式な作法のようだ。

同神社には宮司を務める神職がおられる。

還俗した花づくり家は、当初1軒で十種類の造花を作っていた。

いつの時代か判らないが、宮司家も花づくりをするようになった。

2軒の家によって花づくりが継承された。

十種類の造花は両家が手分けして作るようになった。

伺った家は六種類。

もう一軒が四種類である。

椿、牡丹、梅、山吹、菊、藤の六種類に桃、桜、菖蒲、百合の四種類を協力しあって納めてきた。

元僧侶と元宮司の関係はたまたまだったのか存知しないが、両家とも家族総出で作っている。

花づくり家になった経緯がようやく判った。

時代は不明だが、徳川時代の頃。菩提山の領主について参勤交代していた。

そのときに着用していた裃があったようだ。

その関係であろう、徳川家から貰い受けた金箔のご朱印帳や扇は大切に保管しているという。

ちなみに還俗した際に氏姓を賜った。

同村より東方。峠を越えて山を下れば矢田原にでる。

その付近までが村内。

かつては離れた地にも住民がいた。

江戸時代に絶えた家の名字を継ぐような恰好で現姓を授かって現在に至る。

同家には2体の脇侍を携えた不動明王立像を安置している。

それはかつて成身院の尊仏であった。

先祖代々の位牌もたくさんある。

仏間であるが、今でも先祖さんには手を合わせていると当主が話す。

長居をしてしまった花づくり家の取材。

2月末はまだ半分ほどの出来だった。

3月に入って黄色い花づくりに移った。

息子さんのお嫁さんは動き回る幼女から目を離すことなく細かい作業をされていた。

話しを伺うことによって手を止めてしまった。

忙しいこの時期にありがたく取材させていただいたことに感謝する。

ちなみに昔は夜なべばかりの日だったようだ。

昼間はいろんな人たちがやってくる。

村の人もやってくる。

その度に手を止めて応対する。

そのような状況が続けば夜なべの作業になる。

夕飯を食べてから作業を続ける。

夜中の3時ころまで夜なべしたことも多々あったようだ。

今では人手も多くなり、効率的な作業で夜なべはしなくなったというが、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

そのような状況であるが、ときには夜なべをしたこともある。

なんでも薬師寺からの別注である。

会式に供える造花ではなく、特別な企画展に飾るものだったようだ。

ところで納めた造花は堂童子とともに青年衆が飾り付けをするが、呼ばれることはないという。

供えられた十種類の花は処分されるのだろうか。

燃やすこともないという造花は、どうやら寄附行為をされた信者講中(薬師講か)や参列した知事や県会議員が貰っているらしい。

(H28. 3.11 EOS40D撮影)

貰いもののタイワンホトトギス

2016年09月24日 13時09分52秒 | 我が家の花
昨年の11月2日。

T・らもさんがわざわざ自宅まで届けてくれたタイワンホトトギス。

持って来られた本人はこれが「ホトトギス」だと思っていたようだ。

たくさん増えた株を分けてくださったのが嬉しくて春の芽生えを待っていた。

貰ったときのまんまの状態で放置していた。

いつしかにょきにょきと出現した葉っぱ。

文様はたしかにホトトギスの部類でるが、艶があって照りもある。

日本産のホトトギスならギラギラ感もなく産毛があったように思える。



それから2週間後、葉っぱは益々たちどころに成長し鉢いっぱい溢れるように広がった。

斑紋様もはっきりしてきた。

(H28. 3.20 EOS40D撮影)
(H28. 4. 5 EOS40D撮影)

二度目咲きの我が家のシンピジウム

2016年09月24日 11時43分29秒 | 我が家の花
正月の1月初めに咲いた我が家のシンピジウム。

時期的におかしなときに咲いたので、異変咲きだった。

何本か蕾の枝が伸びていたが、1本は寒さで消えた。

もう1本は寒さに立ち向かって残った。

蕾が膨らんできたのを見ていた。

数日前に一つが開いた。

ここ両日は寒いが、その後の気温は20度にもたっするという天気予報。

期待して待つこの日は冷たい春の雨にうたれていた。

それから1カ月。



これほど長期間に亘って萎れず、枯れず、色褪せずにずっと咲いていた。

二度目の花咲きに意地を張っているのか・・・。

(H28. 3.14 EOS40D撮影)
(H28. 4.12 EOS40D撮影)

我が家のクリスマスローズ

2016年09月24日 09時37分54秒 | 我が家の花
年末に見積ってもらった我が家の小さな庭園。

大きく育ったキンモクセイは刈込鋏が届かない。

脚立を立ててしてもいいのだが、落下や倒れるなどで大怪我をして半身不随にもなれば元も子もない。

若いころはなんとも思わなかったが、歳が行くにつれ危険なことは避けたいと思うようになった。

この年は特にそう思う経過観察の身。

あまりに伸びた頃合いを見計らって頼む庭の植木の刈込は市のシルバー人材センターにお願いしている。

南側の庭は道路に面している。

通行人の視線を避ける樹木も綺麗であればいいのだが、毎年のように伐採するには費用もかかる。

大きく育てて纏めて伐採・除去・大型ゴミ処理の見積もりは南面だけで1万円。

中庭や北庭の樹木もこの際にと思って見積もりしたが、かーさんは却下した。

プラス5千円の費用が捻出できない家庭のやりくり。

早く仕事に戻りたいが、身体がそういうわけにはいかない。

すっかり感たっぷりになった南面の庭の景観が様変わり。

見通しがよくなり過ぎたが、一年経てばほぼ元の木阿弥状態になるであろう。

大きくなったキンモクセイの根元にひょっこり顔をだしたクリーム色の花。



前回は平成21年3月25日に咲いたクリスマスローズだ。

根元辺りがすっきりしたので7年ぶりに撮っておいた。

(H28. 3.10 SB932SH撮影)
(H28. 3.11 EOS40D撮影)

ならまち・消防のある町

2016年09月23日 08時56分59秒 | 民俗あれこれ(消防編)
前月に訪れた奈良市の「ならまち」。

建ち並ぶ町屋のそこらじゅうに赤色の消火用バケツがあった。



経年劣化であろうか、バケツは日射によって色落ちしたと思われるやや薄桃色に変色しているものもある。





消火用バケツはブリキ製もあればポリバケツ製もあった。



置いてある場は門塀前もあれば、建屋、或はガレージ扉などなどだ。

あるお家の女性が話すには隣組、それとも隣町から出火したことがあり、その後において火災が発生すれば類焼しないように消火用バケツを置くようになったと話していた。



消火用バケツを置いてある町屋はどれほどあるのか、あるとすればどこまでの範囲なのか、この日に訪れる奈良町資料館に行くついでに調べることにした。

前回は平日だった。

時間帯もあるが、行き交う人はそれほど多くはなかった。

この日は日曜日。

「ならまち」を散策する人はまあまあ多い。



闊歩する人は間違いなく観光客であろう。

町屋を改築したフアッショナブルなお店や飲食店など、どこに落ち着こうかと散策していた。

通りがかる人はお店を見るが、私が求める消火用バケツには目がいかない。

まったくといっていいほど気がつかない。

ここにもある、あそこにもある。

見つけてはしばし立ち止まって町屋の景観を見る。

主役の消火用バケツを配してバックに町屋を置く。

観光客が闊歩する状況も画面説明上に写し込む。

狙い日は雨の日だった。

しとしと降る雨に傘をさす人を配置する。

そんな状況を撮りたかったが、降ったのは夜になってからだった。

消火用バケツは置いているが、他所に医院を構えたお家にも消火用バケツがある。

真横にもう一つのバケツもある。

それは甘味処のお店屋さん。

暖簾に気がつく観光客はいるが、バケツは目もくれない。

その場でシャッターを押していたら扉がガラガラと開いた。

少し開けた扉からお顔をだしたのは老婦人。

たしか、前月に訪れたときは赤いポリバケツがあったように思えた。

老婦人がいうには奥に移したという。

婦人は大正11年12月生まれの94歳。

生まれも育ちもこの町屋。

今でこそ北行き一方通行になっている町屋筋が目の前にある。

若いころは馬車が通っていたと思いだされた町屋筋はとても狭い道。

消防車が入れなければ火災は広がることになる。

そういうことで一方通行になった町屋筋であるが、家ごとに置いてある消火用バケツは初期消火が役目だ。

婦人が生まれたときから消火用バケツがあったわけではない。

女学生を経て大学生になった。

20年どころか、30年前。

ずいぶん前のことだ。

戦後の何年か、経ったころに隣組でボヤ火災が発生した。

類焼は免れたが、大火になれば町内に広がる恐れもあると判断されて消火用バケツを置くことにした。

決断されたのは老婦人の父親。

町内会の会長を務めていたときにボヤ騒ぎがあったと話す。

当時は町内会の会費を捻出してバケツを買ったそうだ。

水溜めをしているバケツは長年経過するうちに色落ち、穴あき、破損などで買い替えしていたが、軒数が多いだけに費用もかかる。

いつしか個人対応になったようだ。

それぞれの家が買い換えるようになれば、好みによってバケツの形状も変わる。

それが現在の状況になったようだと話すS婦人。

奥行きは拝見しなかったが300坪にもあるという。

週に何日間は茶道の稽古をされている。

とはいっても先生は婦人ではなく、若い男性だ。

普段はひっそりしているが、この日は稽古をする人で茶室が賑わうらしい。

それがいちばん嬉しいのですという高御門の住民に元気をもらった。

そこより南下する町屋筋。



ほぼ、どの家であっても消火用バケツがある。



そこより東へ抜ける町屋筋がある。



商売するお店にも供えていた。

西新屋町の奈良町資料館より南下する。



そこら辺りもバケツがあった。



日が暮れる時間帯が近づいてきた。

範囲はある程度判ってきたが、本日はこれまでだ。

ところでこの日は奈良町資料館で展示されている「私かとらえた大和の民俗~衣~」のサテライト展示状況を拝見するためである。

主たる担当は県立民俗博物館の学芸員。

初の展示会場に苦労したというから激励する意味もある。

会場の背景は黒っぽいから作品が映えるように見える。

落ち着き感もあってとても良い会場だと思った。

そう思っていたら施設管理者の南哲朗館長さんが声をかけてくださった。

なんでも秋に展示ブースの一部が空くらしい。

そこに写真などを展示してはどうかというお誘いである。

学芸員も本気になりかけたが時期的にも本業が目白押し。

併用するには荷が重いと断られたが・・。

何日間も悩んで私一人で受けることにしたのはほぼ二週間も経った17日だった。

(H28. 3. 6 EOS40D撮影)

小林町・三月三日のオコナイ

2016年09月22日 08時32分04秒 | 大和郡山市へ
この日は桃の節句。

もしかとして電話が架かってくると思われた。

桃の節句といっても雛祭りではない。

オコナイと呼ばれる修正会の行事である。

「お水取り」の名で親しまれている一大行事が今月1日より始まっている。

東大寺二月堂で行われる修二会である。

本行は1日より14日まで。

お堂に上がる練行衆の足元を照らすお松明を見たさに出かける人は多い。

奈良観光の目玉でもあるが、本質的には念頭に国家安穏を祈る十一面悔過法要である。

正月初めに行われる修正会、或は二月に行われる修二会は東大寺だけでなく大寺の薬師寺や法隆寺、長谷寺などでも行われている、いわゆる本尊に対する悔過法要である。

有名な大寺だけでなく村々においても村の寺行事として行われる処は数々ある。

村の安穏、或は豊作を願う行事として広まったのだ。

村、或は寺行事のしきたりはまちまちである。

長年に亘って変化した地域も多々あるが、村では修正会の名でなく「オコナイ」と呼ぶところが多い。

会式は圧倒的に1月実施が多いが、稀に3月実施の地域がある。

大和郡山市の小林町では毎年の3月3日だ。

これまで数度の取材をさせていただいた新福寺・観音堂の行事。

前年の平成27年3月3日のオコナイ行事を最後に320年も建っていた新福寺・観音堂を4月中旬に解体し、新築することになったのだ。

今年の3月3日は宮大工がコツコツと作業をされていた。

本堂の完成は今年の秋になると聞いている。

落慶法要をするまではオコナイ行事の場がない。

仕方ないといえば、そうなるが、一時的な対応措置として前年の4月29日に落慶法要を済ませた「愛染」の名をつけた信徒会館で行うことになったと電話口で伝えられた。

電話の主は小林町住民のSさん。

なにかと連絡をしてくれる。

場は自宅からの距離が10kmも離れている。

現在は心臓リハビリ中の身。

脈拍が低空飛行をしている状態だけに車の運転は止められている。

それなら迎えに行ってあげると云われる。

ありがたいこともあるが、どうしても今回のオコナイ行事を見届けてほしいということだ。

寺行事の世話人は杵築神社の左座、右座の方々。

特に両座の長老である一老、二老、三老が務める。

お接待関係はこれもまた同神社の年番になる両座のトーヤ家。

Sさんの家は右座のトーヤ(当屋)になる。

家の近くまで迎えに来てくれた車には左座トーヤ(当屋)でもある三老婦人のHさんが同乗していた。

道案内役でもあるが、仲良し友達でもある。

ついこの前の婦人は10日ほど入院されていた。

7年前に身体に埋め込んだ心臓ペースペーカーの交換である。

今回の処置はペースメーカーの交換である。

7年前の処置は3週間も入院していたと話す。

親父さんも心臓の病気であった。

もっとも心臓弁の手術であったそうで「ブタベン」があるんやと話す。

「ブタベン」は、生体の人工心臓弁。

これらの病歴をもつお二人はいたって元気に接してくれる。

低空飛行に苦しむ程度で悩んでいても仕方がない。

もっとガンバレやと心(心臓)に言い聞かせた日であった。



寺施設の「愛染」には解体した観音堂本堂の鬼瓦を残している。

そのうちの一枚、16枚の菊花弁の紋をあしらった瓦には「法隆寺瓦大工 与次兵衛尉橋吉長 辛未元禄二二年(辛未暦から判断して二二年は四年と推定した西暦1691年であろう)三月吉日」と彫られた文字があった。

同本堂には再建当時の棟札が残されている。

それには「元禄九年(1696) 法隆寺傳兵衛同九兵衛同龍田忠兵衛 二月廿五日・・・」の墨書がある。

であれば、先に発注があったと思える瓦製作の年号表記に謎が残る。

鬼そのものの鬼瓦の側面にも彫りがあった。

右側の文字は「谷田石見尉橋忠□」で、左側面は「□□八月吉日」である。

もう一つの鬼面にも彫りがあった。

右側面は「□□八月日」で左側面が「南東□□」だ。

年代は不明だが、もしかとすれば再建時代が何度かあったのでは、と思った。

鬼瓦は他にも五枚あるが、今回の調査は見送った。

さて、オコナイをするには主役が来ないと始まらない。

主役は旧村小林町在住の子供たちだ。

平日ならば小学校が終わる時間に始めたいと話していた住職や座中。

期待は外れて2歳の女児と3歳の男児の二人。

母親やひいばあちゃんが連れてきた。

大昔は何十人もの子供たちで本堂が溢れるぐらいだったという長老たち。

他所では外孫を、という地域もあるが、ここでは地元住民を重視する。

この子らが小学校を卒業するまでは十何年。

当分は安泰である。

前年までは内陣の床をフジの木で叩くランジョーであったが、寺域にあったフジの木はなくなった。

オコナイ特有にある祈祷札を挟むヤナギの枝木も入手することが困難になった。

仕方なく、この年は代用品となった。

住職が相談された奈良市旧都祁村の針の観音寺住職の答えは「竹」であった。

旧都祁村や山添村では叩く木を竹でしていると聞いて座中に相談された。

結果は太目の孟宗竹を二つ割りにして座敷に置く。

赤い絨毯、それとも毛氈、ではなく、厚めのビニール製を敷かれた。

叩く竹も青竹。両座トーヤの知り合いに矢田在住のTさんにお願いして入手したという。

翌年の3月3日は本堂も完成して内陣で叩かれることになるが、材はおそらく青竹になりそうだが、次のトーヤになれば難しいかも知れない。

一年限りのランジョーの叩き道具もそうだが、今回は祈祷札を挟む材は青竹。

行事が始まる前、予めお性根を入れておいたお札。

青竹鋏もまた一年限りになるかもしれない。

オコナイの一時的な場に安置されている本尊は蓮華坐に座る一面六臂愛染明王だ。

獅子頭の宝珠冠を被る愛染明王は六手に五鈷鈴、五鈷杵、弓、矢、蓮華などの持物をもつ。

伝わる話しによれば大和小泉藩二代目・片桐石州(貞昌)が寄進したようだが真偽は判らない。



背面に三段構えで設置したバックライトが美しく照らす。

本尊下に配したお札は住職が墨書する。

右に牛頭天王、左に新福寺。中央は寶印の文字に朱印の宝印を押している。

朱印は不動明王の姿。

魔除けのお札だという。

「牛頭天王」の文字は境内併設する杵築神社の祭神が牛頭天王。

神仏習合のお札がここにある。

初祈祷の勤行はご真言から始まる。

昨年までの本堂は扉を締めて真っ暗ななかで行われていた。

灯し火はローソクの灯りだけだった。

堂板の隙間からは外の明かりが差し込む。

それがなんともいえない情景であったが、今回は臨時の場の愛染会館。



明るい窓や電灯の灯りもあって荘厳さんは別世界の様相だ。

新福寺は真言宗豊山派、創建はそうとう古いとされるが、物的証拠は前述した棟木と鬼瓦だけ。

それ以前を物語る史料は残されていない。

ご真言を唱えているときだ。



住職が「ランジョー」を発せれば青竹を持つ座中は横に置いた半切り孟宗竹を叩く。

カタカタカタカタカタ・・・。

甲高い音が鳴り響く。

半切りした孟宗竹の内部は空洞だけに乾いた音で鳴り響く。

これまではフジの木で内陣の床板を叩いていた。

まさに木片の音だった。

激しく叩きつける音は魔除け。

村から悪霊を追い払う意味もあるが、世界平和・村民安全、五穀豊穣をも願う所作である。

そのことを願った表白を唱える住職は何度も何度も「ランジョー」を発せられる。

カタカタカタカタカタ・・・の竹叩き。

おリンを鳴らせば打ち止める。

表白の次は神名帳を詠みあげる。

「・・・春日大明神、大和、広瀬、龍田、大神、・・・ダイミョウジュン、ダイミョウジュン・・・・ランジョー」。

カーンと鉦を打てば、けたたましくカタカタカタカタカタ・・・。

悪霊はこれでもか、これでもかと追い払われた。

私がこれまで拝見してきた奈良県内の一般的なオコナイの「ランジョー」は2回、或は3回程度である。

小林町では、十数回、いやそれよりもっと多く数えきれないほどの「ランジョー」である。

住職曰く、これは子供たちに対する愛情でもあるし、村民が平和に暮らし、村の繁栄、五穀豊穣を願うためにあるという。

本来ならば本尊の聖観音<平成24年3月3日撮影>に祈るオコナイ行事であるが、この年は特別版の愛染明王に願った。

祈りが終われば、般若心経を唱える。

身体堅固、諸願成就、三界万霊、功徳など念仏を唱えて最後に身体堅固。



古くから伝わる本尊の観音さまの牛玉寶印を参列者の頭に押す真似事をする。

「オンソワカ」、手を合わせてありがたく受ける。

(H28. 3. 3 EOS40D撮影)

城下町・酒屋さんの古今雛

2016年09月21日 08時22分14秒 | 大和郡山市へ
テレビのニュース報道で大和郡山市商工会が主催する「大和な雛まつり」を紹介していた。

平成23年から始まった城下町イベントは今回で5回目。

年々、訪れる雛飾り観光客が増えているように思える。

テレビや新聞でも取り上げられる効果は大きいが、どこへ行けば良いのか案内人が要るようにも思える。

展示会場、日程や時間などは「てくてくMAP」で紹介しているが、それもまた入手先は・・・。

市内を始めて訪れる人はウロウロしているようにも感じる。

いずれにしてもゆったり拝見するには土・日曜日よりも平日。

そう思っていた。

この日は心臓リハビリ運動の日。

リハビリを終えて降り立った近鉄郡山駅。

改札口を出て東に向かう道はJR郡山駅と結ぶ商店街道。

午後12時半ころ、病院へ行くときに見た観光客は団体や小グループがぞろぞろ。

昨年末に新装開店した「旬味和膳 季乃庄」がある。

開店してからほぼ4カ月。

客足は衰えることのない人気の和食ダイニング。

一度は入って食べてみたいと思うが日替わり膳が800円。

悩ましき価格帯に躊躇して未だに味わったことがない。

駅から降りてバスロータリー。

発車時間までの待ち時間が長い。

その合間に拝見したかった酒屋さんお古きお雛さん。

南北にある柳町商店街との交差点十字路の一角にあるのが目的地の米澤酒店だ。

奈良NHKの夕方報道番組の「ならナビ」で紹介された江戸時代後期の「古今雛(こきんびな)」を一目拝見したく立ち寄った。

この地に酒屋さんがあるのは知っていたが、未だに買ったことがない。

入店すれば先客がおられた。

お雛さんに魅せられて販売していた日本酒を買われた客人は奈良に住んでいながら明日から始まる東大寺二月堂の修二会を知らなかったと話す。

目と鼻の先でされているお松明を知ったのは関東の知人からだったそうだ。

足元に目が行かずに知らなかったというのはいくらでもある。

昨年の夏、内蔵を整理していたら偶然に発見したという今回初のお披露目となった古今雛もそのようだ。

整理する機会があっても発見に至らない場合もあるだろう。

酒屋婦人の話しによれば古今雛を直接的に発見したわけではなく、導きをしたのは百年前の白い犬。

もちろん生きた犬ではなく置物の犬だ。

ここ掘れワンワンと鳴いたわけでもない置物犬が古今雛の上に居たそうだ。

出てきたお雛さんは秋になってから奈良県立民俗博物館の学芸員に鑑定してもらった。

その結果が江戸後期の作になる古今雛だった。

江戸中期の(享保年間(1716~)に流行した享保雛以後に新しく工夫されたお雛さん。

明和年間(1764~)から安永年間(1772~)にかけて、江戸十軒店の原舟月が創作されて作り上げたお雛さんは「古今雛(こきんびな)」の名で広まったとされる。



やや面長なお顔の古今雛は店内奥に特別に作ったひな壇に並んでいた。

享保雛を今でも飾る家がある。

この年の開帳期間は3月1日から3日まで。

米澤酒店より東。

JR郡山駅に向かって歩けば薬園八幡神社が鎮座する。

その向かい側の家がそうである。

幾度か訪問、取材させてもらった鈴木やよひさんは高齢であるにもかかわらず今でも元気に活動をされていると米澤久美子さんが話していた。

昨年の11月28日にも訪問、取材させてもらった葉本家婦人らとともに大和な雛まつり推進委員を務めている。

葉本家もお雛さんを飾っている。

明治時代の作とされる御殿飾りに圧倒されたことを覚えている。

実は葉本家も内蔵から発見されたのである。

さて、米澤酒店である。

同店で展示されたお雛さんは古今雛の他、同壇横に並んだ三人官女も並べた。

お顔つきや装束の様相から古今雛と同時代のように思える。

また、店内中央には大正時代の初め(1912~)のころの雛飾りも並べられた。



五人囃子も含めてお顔はやや丸顔が愛くるしい笑顔で客人を迎えてくれる。



当時の女児たちが遊んでいたと想定されるままごと道具もある。

懐かしい道具に女の子の人形も。

「この人形は歯もあるし、舌もあるのです」と紹介される。

男の子の大型市松人形も蔵にあった。

収めていた蓋の裏に「安政七庚申年(1860)二月恭日 新米之 (柳町丁喜調 □岡寶拾□五□)」の墨書があった。

これらの展示品はストロボ厳禁。

これからも大切にしていきたいと話す米澤酒店には次から次へと拝観者がやってくる。



入れ代わる度にお雛さんの説明をされる婦人は座る間もない。

なぜか私の顔をどこかで見たという婦人。

鈴木家、葉本家の関係もあってついつい長居をしてしまった。

なかにはよく存じ上げている客人とともにTさんも拝観にこられた。

ついこの間の前週日曜日。

カメラのキタムラ奈良南店に立ち寄ったら写真展があって見惚れていたという。

それは私の作品の「食を干す」だ。

魚を干している映像に興味をもったという。

カラープリント用紙で解説したシートが綺麗だったので、ありがたく持ち帰ったという。

(H28. 3. 1 EOS40D撮影)

変位が見られない

2016年09月20日 09時22分47秒 | むびょうそくさい
毎週欠かさずでかける心臓リハビリ運動。

毎日の動きは血圧や脈拍計で値は認知している。

朝食後の脈拍はだいたいが38-39拍。

まれに41-42拍の場合もあるが、大きな変位はない。

それから数時間後はいつもの歩行リハビリ運動。

自宅周辺を1.7kmから1.8kmをおよそ25-27分程度で戻ってくる。

周辺は住宅街。

適度な勾配の坂道がある。

平均ベースでいえば時速4.5mぐらいで歩く。

特にしんどさは感じない。

この日の午前中も歩行していた。

なんとなく歩かないと不安になるのだ。

外来棟に着いて受付。

その次は先週より計測場を替えた。

リハビリ運動する受付に血圧・脈拍測定器はあるのだが、印刷はされない。

いちいちメモするのがめんどくさいし・・。

循環器内科受付にも血圧・脈拍測定器はある。

こちらはスイッチを押せば印刷してくれる。

データはメモしなくとも印刷された情報をケータイ電話の画像で記録しておく。

メモは毎日の記録手帳に書くが、公にする場合は数値データの書き込みになる。

このブログでもそうだった。

記録印刷されたものであれば、誤記もないし、ねつ造もない。

そう思って前週より計測する場を替えたのである。

で、着いたときのデータは血圧150-74。

脈拍は42拍だ。

血圧がやや高めになっているが気にしない。

気にしても仕方がないのだ。

次に行う運動時の値が重要なのである。

心臓リハビリ室の受付を済ませて入室する。

毎週の顔ぶれはお馴染みさん。

それぞれが運動に励んでいる。

心電図機器を取り付ける。

準備段階の計測が始まった。

脈拍は48-49拍。

波形は乱れもなく淡々と映し出す。

P波も後続のQRS波とT波もくっきりはっきり。

綺麗な波形で出現する。

不整脈は出現していないが、なぜか胸はドキドキ感だ。

準備運動からストレッチ運動。

49-50拍だった脈拍は56-59拍にもなる。

MAXは60-63拍まで上昇した。

運動をやめれば一挙に下がって50-51拍。

そして始まったベルトコンベア型エルダーウォークタイプのウォーキングマシーン運動。

最初の速度は時速4km。

なんとなくのろさを感じる速度。

自宅周辺を歩行する方がもっと早い。

後に速度を上げるが、このときの血圧は12-60で脈拍は51-55拍になった。

順調な滑り出しだ。

ときおり脈拍が99拍とか110拍とかいきなり上昇する。

K循環器医師曰く、ノイズを拾っている関係のようだ。

ノイズを除いたデータはだいたいが60拍手前の脈拍になっているという。

なんとなく心電図を貼った箇所が問題のような気がする。

それからしばらくしてリハビリ療法士が云った。

心電図を貼り換えましょうである。

やはり・・。

速度は4.5kmにアップされた。

血圧は124-54で脈拍は51-55拍に上昇する。

しんどさは感じないと申し出たら、速度をさらにアップされる。

ラストは時速5km。

血圧はあまり変わらずの120-64だが、脈拍は61-64拍にもなる。

発汗もある。足の脹脛はだるくなるが、しんどさは感じない。

「楽」の一歩手前である。

前週も同じような状態で、終わったら一挙に下がって47-48脈拍で終えた。

こうして週一のリハビリ運動を終えたら場を移す。

印字される血圧計に腕を入れてスイッチポン。

ぐわ、グワ、上がって終わったデータは血圧が135-68。

脈拍は44拍だった。

今週は変位が見られない。

ずっとこのままの状態が続くのだろうか。

不安な気持ちが揺れ動く。

会計の整理番号は1130。

待ち時間は15分だった。

割合早く済んだようで、駐車時間は入庫が午後1時5分の出庫は午後2時56分だった。

これまでバス、電車を乗り継いで帰宅したが、時間がうまくいかずに待ってばかり。

無駄な時間ばかりを費やしていた。

前週より乗り始めた自家用車。

帰路にイオンスーパーで買い物をして帰っても同時間になる。

(H28. 3.29 SB932SH撮影)

日々の動きに一喜一憂

2016年09月20日 09時09分28秒 | むびょうそくさい
前週に出かけた心臓リハビリ運動。

効果はてきめんといって云いのかどうか判らないが上昇機運にのっていた。

16日、朝食後にゆったり寛ぐ時間帯の脈拍は41拍。

それから1時間後は自宅周辺を早足で歩くリハビリ運動。

戻ってきて測った脈拍は45拍だ。

17日はこれが41拍の46拍。

18日は43拍の49拍。

徐々ながら値も少しずつだが上を向く。

その間に発生した異常とも思える脈拍数は52拍。

症状がでたのは17日の寝しなである。

床に就いてしばらくすれば鼓動の動きが気持ち悪い。

早さを感じて眠りにつけない。

測った脈拍は、なんと、なんとの52拍だった。

驚くべき数値になっていたのだ。

翌日の18日の朝は43拍で運動後は49拍にも上がる。

その晩も寝つかれない。

測った脈拍は前日同様の52拍であった。

どこかで変化が起きていると思った。

翌日の19日の朝は57拍になっていた。

ひっくり返るほどに喜んだ。

この日はそれから久しぶりの下見取材。

一日に3カ所も訪れて聞取りをしていた。

その晩も寝つきが悪い早い脈。

なんと57拍にもなっていた。

元の身体の状態になるのだろうと大きな期待を寄せて就寝した。

20日の翌朝は48拍。

40拍台であるが50拍台に近い脈拍が嬉しい。

この日も取材で3カ所を訪れた。

就寝時の脈拍はなぜか40拍になっている。

どういうことなのかさっぱりわからない自分自身の身体。

我が心臓が不満を伝えているのだろうか。

21日の朝はこれまで同じ40拍になった。

二日前までの状態はどこへいったのか。

ひとつ用事を済ませて自宅を周回するリハビリ歩行後の脈拍は49拍だ。

特に問題はない。

気がかりなのは翌日22日の朝の脈拍だ。

元の木阿弥に落ち着いた39拍。

悲しい値を表示する。

若干、気にしたのは体重増だ。

数週間に亘った体重の増減がみられない66.2kg。

昨日の21日は67.2kg。

本日の22日は67.6kg。

脈拍とは逆に上昇している。

今後も状況観察を繰り返すしかない。

そして向かった通院病院の外来棟。

三日間は何事もなく運転をすることができた。

30分もかかる病院行きは車が行きやすい。

遠慮することもなく走らせて、一週間ぶりの心臓リハビリ運動をする。

受付段階の血圧は142-80の脈拍は45拍だった。

心電図を身体につけて脈の動きを観察する。

波形は特に問題はみられない。

心配されていたp波も出ている。

波形を映し出す画面はやや粗い。

ときにはp波が見えない場合もある。

運動開始前の脈拍は40-41拍。

今までの傾向からすればやや下がり気味。

しんどくなれば運動を止めるようにとリハビリ療法士が云う。

やや不安定な低脈拍数で準備運動を開始した。

伸びるゴムを利用するストレッチ運動ともなれば一気に上昇する脈拍。

数値は46-50拍だ。

ときどきおかしな波形もでるが心電キャッチの貼付けの問題だろう。

それは機械的ルームランナー運動のウォーキングマシーンのときに判明した。

歩く速度は時速4kmを設定される。

楽々歩けるスピードである。

そのうちに足が軽々状態になる。

回転運動が身体に馴染んでくるのだ。

もっと負担をかけましょうと伝えられたGリハビリ療法士は4.5kmに設定を上げた。

そのときの血圧は125-60で脈拍は45-48拍である。

脈拍値は50拍台までは届かないが、ときおり100拍を越えて120拍にも達するときがあった。

どうやら身体に貼り付けた心電キャッチ部の一部が上手く貼れていないと判断されたGリハビリ療法士。

運動途中であったが貼りかえられて再スタート。

異常な数値はまったくでない。

貼る箇所がどうやら間違っていたようだ。

まだまだ力が余っていることを確認したGリハビリ療法士はさらに速度を高めて時速5kmを設定した。

早い速度に身体が反応する。

血圧は137-50で脈拍は61-65拍に上がった。

大台に乗ったのである。

身体はしんどくないが、若干の足だるさを感じる。

そう思ったときが終了時間。

26分のリハビリ行程を終えた。

最後のほうでやっと汗を感じる日だった。

運動をすれば問題はない身体になってきたが、運動を終えたら40拍台に戻る。

まだまだそんな状態であるが、K循環器医師は大丈夫と云った。

毎日が一喜一憂の脈拍数。

上がってもいつかは下がる、そう思うほど不安を感じる日々であるが、大丈夫と伝えられてもやもやしていた気分がやや落ち着いた。

こうした運動を終えてもう一度の血圧・脈拍測定をした。

測定結果が印刷される器械は循環器内科にある。



フロアを移動してまたもや測った結果は143-69の45拍だった。

なんのことはない、ほとんど変わりがないのだ。

なんとなくほっとして会計清算に入る。

会計の整理番号札は852番。

いつもより少ない数であるが、待ち時間はほぼ同じの25分間だった。

そろそろ清算が完了するであろうと思っていたときのことだ。

椅子に腰かけていてふと顔をあげたときのことである。

見たことのある男性が通り過ぎすぎろうとしていた。

お顔の主は天理市藤井在住のKさんだ。

2年ぶりにお会いしたKさんもすぐに思いだされた。

2年前に会いした同大字で行われる子供の涅槃だった。

あれからお会いしていないが、桜井市の萱森に住む妹さんとは度々の行事取材でお邪魔していた。

特に前年度は太夫さんでもある旦那さんのNさんは頭屋も務めることになったので何度も伺った。

その太夫さんの奥さんは、この日にお会いした藤井の男性の妹だったのだ。

奇遇なつながりを知ったのは平成25年10月に訪れたときのことだ。

そんな話題にK夫妻が云った。

前回に務めた頭屋のときは親戚筋として応援したという。

ところで男性はなぜにこの病院へ。

詳しいことは書けないが、35年前に心臓を患ったという。

脈拍が42拍にもなったというから、もしかと思ってペースメーカー処置について聞いてみた。

ご主人は大病をされてペースメーカーを装着した。

当時の病院は当院ではなかった。

随分前のことである。

器械は大型で5年しかもたない。

交換なんぞは何度もしたという。

今では小型で交換時期も長くなった。

いい時代になったと笑顔で話される。

この日は安全運転で往復する。

外来棟に停めた駐車時間は午後1時5分から午後3時8分。

わずか3分越えで料金は100円プラスの200円になった。

(H28. 3.22 SB932SH撮影)