花づくりの家のご夫妻とお会いしたのは前年の5月31日だった。
場所は田植えを終えた田園が広がる地だった。
自然観察会の指導先生の紹介もあってご挨拶をさせてもらった夫妻は存知している方々の名前を挙げられて驚いたものだった。
世間は狭いというのはこのことだ。
そのときにお願いした花づくりの取材である。
ほぼ一年ぶりにお会いする婦人はFBのトモダチになってもらっている。
2月27日付けの産経新聞に写真入りで紹介されていた薬師寺花会式・本尊薬師如来に供えられる花づくりをする家の記事を拝読して思わずメールを送った。
70年ほども関わってきた同家はこれまでにもテレビで紹介されたことがある。
ひとつは平成27年3月2日に放映されたNHK奈良のニュース番組だ。
「花びらの先が戻らないように、蝋で塗って固めた後、大きさの違う五種類の花びら十九枚を糊付けして重ねると完成です。山吹は黄色く染めた花びらを七枚から八枚を貼りあわせて小さな花を作ります」とアナウンサーが紹介する。
「みなさんが、お参りをされたときに綺麗な花やと思ってもらえるように気持ちを込めて作っています」と笑顔で応対していた婦人が突然に登場したので、大慌てで録画スイッチを入れたことを覚えている。
もう一つは翌月の4月2日に放送された読売テレビの「かんさい情報ネットten.」だ。
薬師寺花会式の様相を密着取材した特集にも花づくりの家が登場した。
「奈良西ノ京、薬師寺は天武天皇が皇后の病気平癒を祈って発願した大寺院だ。花会式の正式名は修二会と呼ばれ、古くは国家繁栄や五穀豊穣を祈る国家的行事だった。平安時代になって、堀河天皇の皇后が薬師如来に造花を供えたのがきっかけに花会式と呼ばれるようになった」と伝える。
「造花を十種類供えたときが、二月の修二会だったので造花会とも呼ばれていた。東大寺がお水取りというのに対して薬師寺は花会式」と解説されたのは山田法胤管主である。
特集は堂童子を務める長老を主に据えて紹介していた。
壇供にお身ぬぐい、造り花飾り付けを順に紹介する。
そこで登場したのが、花づくりをする前述のH家。
当主の奥さんが手のひらに乗せた黄色い花を広げていた。
糊を付けて互い違いに重ねていく。
同家の家族が揃って花つくりをしている。
代々が花を造ってきた家は五代目。
くちなしなど自然の染料を集めて、和紙を染める。
型抜きをして1本、1本の花は家族総出で半年間かけて作ってきたと紹介する。
出来上がった造花は薬師寺に納められる。
飾り付けは長老堂童子の指示のもと、青年衆と呼ばれる奉仕学生たちがしていた。
牛玉杖、荘厳を経て半夜、しゅし作法、結願、鬼追式で幕を閉じた一連の映像に感動していた。
この番組は撮ってはいるものの、花づくりの家族とはまだお会いしていなかった。
婦人を知ったのは放送後の2カ月先だった。
田園でお会いしたときに映ったお姿を思いだしたのである。
薬師寺に納める造花の種類は十種類。
椿、牡丹、梅、山吹、菊、藤、桃、桜、菖蒲、百合だ。
造花の花づくりは同家ともう一軒の家のM家が納めている。
花を作るのはすべての種類ではなく、分け合っているという。
同家は椿、牡丹、梅、山吹、菊、藤の六種類。
もう一軒が桃、桜、菖蒲、百合の四種類である。
すべての造花が出来上がれば薬師寺の僧侶に手渡される。
現在は薬師寺の僧侶が同家に来られてバンタイプのワゴン車に積み込んで運ばれる。
受け渡しの時期は薬師寺本尊、日光菩薩、月光菩薩のお身ぬぐいが行われる3月23日よりも前の日辺りになるそうだ。
かつては花づくり家の先代当主やインキョ(分家)の兄弟らが二人一組でオーコを肩に担いで運んでいたという。
自宅を出発して五ケ谷界隈の村を下る。
高樋、窪之庄を抜けて帯解に着く。
そこからは西方にあたる大和郡山市下三橋へまっすぐ進む。
北上して杏からはまたもや西方。
九条からはなら街道を経て薬師寺に着く。
距離は大よそにして片道13km。
途中で休憩する。
身体を休めて再び動くオーコ担ぎ。
重量はどれくらいか測っていないが、大きさから窺い知れる重さである。
届けてから自宅に向けて戻る。
そして次の造花を運ぶ。
一日に2往復。
数日かけて運んでいたと話す昭和6年生まれの現当主が子どものころに見た昭和27年以前の記憶である。
その年から昭和30年辺りの記憶は自転車に積み込んで運んだそうだ。
自転車に乗せられる量は限りがある。
何度も何度も往復したのであろう。
そして、車になったがミゼットだった。
ミゼットは大阪のダイハツ工業が生産・販売していた小型の軽オート三輪トラックである。
タイプによって異なるが昭和32年販売のDK型や昭和34年販売のMP型がある。
同家がどちらのタイプを購入されて利用していたか判らないが、運ぶ時代の流れを想定するにDK型が色濃いと思われる。
昭和34年といえば、私は小学2年生くらいだろうか。
住んでいた地域には車を所有する家は唯一の一軒。
車種はマツダのR360クーペだった。
生産・販売は昭和35年。
ミゼットとともに暮らしに身近になった軽自動車だ。
決して金持ちの家でもなかった人が買っていたが、育った地域で見た車は極、極、稀にであった。
花づくりは稲刈りを終えたころから始まっている。
紙切り作業は11月。
型紙に合わせて印を入れた和紙は重ねて切断する。
昔は包丁で切ったが、今は鋏で切る。
和紙は十枚重ねだけに包丁を入れるのも力がいったことだろう。
部材によっては色付けをする。
染める型紙は和紙の大判紙。
市内ならまち辺りの紙屋さんで買っているそうだ。
白っぽいところは白抜き。
色は付けていない。
染料は色粉。
餅などに入れる材料と同じで食べられる色粉。
饅頭屋さんに出かけて買ってくる。
色粉は色々。
本日、拝見した造花だけでも赤、朱、黄、緑、桃色がある。
色分けしてパーツごとに染料を染み込ませる。
液体に「しゅっと入れたら」染み込むという。
そういう染めもあれば、筆で塗る菊の場合もあるという。
染めが済めば広げて干す。
牡丹の芯になる黄色は名高い漢方薬の陀羅尼助丸薬の原材料にも使われているキハダである。
キハダはオオバク(黄柏)。
大峰山から送ってもらったキハダを包丁で削って粉にする。
黄色い粉はそのままに造花の花粉にしているという。
藤の花の芯はタロ(地元ではタラの木をタロの木と呼ぶ)の木を使う。
山野に生えているタロの木を刈り取ってくる。
刈ったタロの木はトゲトゲがある。
手で直に持てば当然ながら痛いが、天ぷらにしたタロの新芽はとても美味しい。
最近は栽培されたタラの芽がスーパーでも売られるようになった。
春を味わう旬のものだといって揚げたて天ぷらにして売る店も増えつつある。
山菜の王様とも呼ばれるタラの芽は需要が高い。
新芽がなくともタラの木は樹皮のトゲ(棘)で見分けがつく。
初春の頃に山野を歩いておれば目につきやすい。
稀にトゲが少ないタラの木が見つかる。
それはモチタラのようだが、私は見たことがないので自信がない。
それはともかく、タラの芽の一番芽は摘んでも、二番芽は摘まずに残すと教わってきた。
一番、二番とも芽を摘んだら、いくら繁殖力が旺盛なタラの木であっても生育力が衰えて翌年の芽だちが少なくなるのは当然だが・・・。
タラの木の成長には陽あたり良好、つまり、人の手が入った処に育成する。
山道や林道沿い、或は伐採地などが適地。
繁殖、密生、高木化した処では陽があたらず育ちが悪くなり、いずれは消滅する。
これまでは自宅近くの山野道沿いに生えていた。
いつしか消えてしまったタラの木はどこにあるのか。
その求めを知った山添村住民のTさんが材料を調達してくれたという。
ありがたいことである。
有る処には有るものなのであるが、そこも将来に亘って生えることはないだろうと思う。
樹木の材利用は他にもある。
牡丹の花の芯部分は桐の材を使う。
桐の枝は軽い。
それを長さ数cmに切断して円形にする。
中心部に穴を開ける、いわゆる刳り抜きの形である。
藤の花は説明を聞くまでは和紙を丸めて形づくりをしていると思っていた。
愕片に見立てたと思われるその部分は緑色に染めている。
蕾花の部分は白い。
それはタロ(タラの木)の木である。
皮を剥いて真っ白な芯をだす。
それが蕾の部分になる。
なるほどと思ったタロの蕾は作り置きができない。
皮を剥いだ芯は日にちが経てば経つほど色が褪せて白さが消えるらしい。
タロの木は他にも梅の蕾や菊の蕾にも利用される。
梅の花は白梅と紅梅。
枝はしゅっと伸びた梅ずわい。
先の方はふとんとじの糸を巻き付けている。
つまりは綿糸。
薬師寺が綿屋さんから集めてきた綿糸。
昔からそれを使っている。
今後は綿糸でなく本物の絹糸を使用することを考えているそうだ。
山添村北野に住む知人のTさんらが試験的に作り始めた蚕糸。
蚕を飼って繭にしてもらう。
繭は絹糸にする。
昔ながらの作業で作った絹糸を緑色に染めて梅ずわいの形づくりにする。
村の協力を得て材料を調達する。
蚕の生育には桑の葉もいる。
手間のかかる作業は数年前から始めたようだ。
試験的作業の場はだいたいわかる。
たぶんに訪れたあそこ(豊原公民館かも)であろう。
機会があれば覗いてみたい。
そんな話しを聞きながら出来上がった梅ずわいを拝見する。
ところどころに赤い点のようなものが見える。
梅の蕾であろう。
ところで梅ずわいの「ずわい」とはどういう意味があるのだろうか。
春日若宮おん祭において渡御式がある。
そのなかに赤衣を着た人が「梅の白枝(うめのずはえ)」と呼ぶ梅の木を携えて参進する光景を見ることができる。
「梅のずはえ」は桜井市多武峰の談山神社の神幸祭にも登場する。
お渡りに二の刀禰が若梅の木を持っていた。
ここでは若梅に厄除けの意味があると聞いている。
警固の意味をもつ社々の前駆けは、若宮おん祭の一番手先頭を参進する「日使(ひのつかい)」を先導する。
「梅のずはえ」の「ずはえ」とは梅の幹や枝からまっすぐに伸びた若枝の呼び名である。
若々しい枝を伸ばす梅の枝はこの「ずばえ」の他に「ずわえ」とか「すわえ」とも呼ぶことがある。
花づくりの家では細い梅の枝を訛って「ずわい」と呼んでいた。
充てる漢字は「楚」。
「すわえ」の詠み名がある。
これに清々しいの文字を連ねると「清楚」になる。
東京の大田花卉市場では取り扱う品種のなかに「ずばい」があるそうだ。
「ずばえ」でもなく「ずわい」が転じた「ずばい」である。
ちなみに「ずわい」の語彙に何かを思い出せないか。
「ずわい」といえば美味しい冬の味覚の「ズワイガニ」である。
「ズワイガニ」を充てる漢字は「楚蟹」」だ。
まっすぐ伸びた枝、ではなく、美味しい身が詰まったカニの長い手足。
木の枝に見えたことからその名がついたようだが、「スワエカニ」でもなく「ズワエガニ」でもなく「ズワイガニ」に落ち着いたのは何故なんだろう。
「ズワイガニ」はさておき、造花の大部分は和紙で作られているだけに、元に戻ろうとする特性がある。
山吹を作っておられた婦人が云うには、指で寄せた花びらの皺は放っておけば自然に戻ってだらーとする。
それを防ぐにはある程度の熱がいる。
熱によって温めるのであるが、それは炬燵の内部。掛け布団を開けて見せてくれる。
花びらも葉も火で炙る。
炙って薄く、ハクロウ(白蝋)でひく。
色染めしている部分に蝋をひくが、白梅とか白椿、白菊には蝋をひかない。
染めがある部分だけであるが、現在はその手段を施していない。
信者さんの声があった。
蝋をひけば和紙の値打ちが損なわれるという意見があった。
蝋ひきした和紙はひび割れするような感じがあったようだ。
例えば、であるが、パラフィン紙はパリパリ感もあって見た目はギラギラした光沢がある。
風が吹いて照りがあった日のようだった。
意見を受けたお寺さんからお達しがあった。
平成時代に入ったころだというから、30年近い前のことだ。
ただ、は戻り方が強いことから菊の花だけは蝋ひきをしているそうだ。
奥さんが面白い言葉を口にした。
茎にあたる部分は細く割った竹を使う。
部分によっては竹を曲げる場合がある。
その曲げることを「イタメル」という。
「イタメル」は力を入れて竹を曲げてときの「痛める」であろう。
半年間に亘ってさまざまな苦労をしながら調達や作業をされる花づくりの家の前身は成身院(じょうしんいん)と呼ばれる坊であった。
応永十二年(1405)五月に行われた春日社大般若会には正暦寺塔中(塔頭)寺院のうち、23院が出仕していたとある。
菩提院、福蔵院、寶蔵院、清浄院、十方院、中院、長勤院、妙厳院、光明院、松之坊、長観院、金蔵院、興善院、蓮華院、普門院、文殊院、大福院、福寿院、多聞院、西方院、成身院、金剛幢院、仏光院の二十三ケ院だったと平成6年7月に発刊された『五ケ谷村史』に書いてあった。
古くから塔中(塔頭)の一院であった成身院は現当主より二代前のかつて僧侶だった曾祖父の時代に院を降りて還俗。
現在地に落ち着いた。
当時、院にあった梅の木は現在地に移植した。
あれから百年にもなるという。
『五ケ谷村史』の記述に「正暦寺一千年の歴史」には正暦寺が衰退いく模様が子院の減少に象徴的にとらえられている」とある。
「文化十二乙亥(1815)年 有住十二軒寺株定帳 仲冬 沙汰人」書に十二院の名が連なる。
有佳子院、成身院、多聞院、福寿院、徳蔵院、宝光院、宝蔵院、仏光院、妙観院、返照院、大福院、吉祥院、他不明院の役料を割り当てた石高である。
詳しいことは省くが正暦三年(992)の創建、古くは八十六坊も所有していたとされる。
なお、史料によれば成身院の再建は明治八年。
明治二十八年の境内塔中院は成身院、徳蔵院、多聞院、吉祥院、福寿院の五ケ院になっていた。
当時、成身院の本尊は釈迦牟尼仏。
僧、森海道住職が務めていたようだ。
先々代の曾祖父とどのような関係だったのか不明であるが、曾祖父は薬師寺の僧侶でもあった。
その時代の花会式。
営みは当然だが、花づくりも僧侶がしていたと伝わるだけに、練行衆の役目であったのだろう。
理由は定かでないが、曾祖父は還俗(げんぞく)し自宅に戻った。
薬師寺の僧であったときに習得した花づくりの技術を持ち帰り子孫に伝授され現在に至る。
花づくり家はもう一軒あることは前述した。
実はこの家も薬師寺関係者であった。
薬師寺を守護する鎮守社の休ケ岡八幡宮がある。
薬師寺に参拝するときには、まず当社に参って身体を清めてからお寺に向かうのが正式な作法のようだ。
同神社には宮司を務める神職がおられる。
還俗した花づくり家は、当初1軒で十種類の造花を作っていた。
いつの時代か判らないが、宮司家も花づくりをするようになった。
2軒の家によって花づくりが継承された。
十種類の造花は両家が手分けして作るようになった。
伺った家は六種類。
もう一軒が四種類である。
椿、牡丹、梅、山吹、菊、藤の六種類に桃、桜、菖蒲、百合の四種類を協力しあって納めてきた。
元僧侶と元宮司の関係はたまたまだったのか存知しないが、両家とも家族総出で作っている。
花づくり家になった経緯がようやく判った。
時代は不明だが、徳川時代の頃。菩提山の領主について参勤交代していた。
そのときに着用していた裃があったようだ。
その関係であろう、徳川家から貰い受けた金箔のご朱印帳や扇は大切に保管しているという。
ちなみに還俗した際に氏姓を賜った。
同村より東方。峠を越えて山を下れば矢田原にでる。
その付近までが村内。
かつては離れた地にも住民がいた。
江戸時代に絶えた家の名字を継ぐような恰好で現姓を授かって現在に至る。
同家には2体の脇侍を携えた不動明王立像を安置している。
それはかつて成身院の尊仏であった。
先祖代々の位牌もたくさんある。
仏間であるが、今でも先祖さんには手を合わせていると当主が話す。
長居をしてしまった花づくり家の取材。
2月末はまだ半分ほどの出来だった。
3月に入って黄色い花づくりに移った。
息子さんのお嫁さんは動き回る幼女から目を離すことなく細かい作業をされていた。
話しを伺うことによって手を止めてしまった。
忙しいこの時期にありがたく取材させていただいたことに感謝する。
ちなみに昔は夜なべばかりの日だったようだ。
昼間はいろんな人たちがやってくる。
村の人もやってくる。
その度に手を止めて応対する。
そのような状況が続けば夜なべの作業になる。
夕飯を食べてから作業を続ける。
夜中の3時ころまで夜なべしたことも多々あったようだ。
今では人手も多くなり、効率的な作業で夜なべはしなくなったというが、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
そのような状況であるが、ときには夜なべをしたこともある。
なんでも薬師寺からの別注である。
会式に供える造花ではなく、特別な企画展に飾るものだったようだ。
ところで納めた造花は堂童子とともに青年衆が飾り付けをするが、呼ばれることはないという。
供えられた十種類の花は処分されるのだろうか。
燃やすこともないという造花は、どうやら寄附行為をされた信者講中(薬師講か)や参列した知事や県会議員が貰っているらしい。
(H28. 3.11 EOS40D撮影)
場所は田植えを終えた田園が広がる地だった。
自然観察会の指導先生の紹介もあってご挨拶をさせてもらった夫妻は存知している方々の名前を挙げられて驚いたものだった。
世間は狭いというのはこのことだ。
そのときにお願いした花づくりの取材である。
ほぼ一年ぶりにお会いする婦人はFBのトモダチになってもらっている。
2月27日付けの産経新聞に写真入りで紹介されていた薬師寺花会式・本尊薬師如来に供えられる花づくりをする家の記事を拝読して思わずメールを送った。
70年ほども関わってきた同家はこれまでにもテレビで紹介されたことがある。
ひとつは平成27年3月2日に放映されたNHK奈良のニュース番組だ。
「花びらの先が戻らないように、蝋で塗って固めた後、大きさの違う五種類の花びら十九枚を糊付けして重ねると完成です。山吹は黄色く染めた花びらを七枚から八枚を貼りあわせて小さな花を作ります」とアナウンサーが紹介する。
「みなさんが、お参りをされたときに綺麗な花やと思ってもらえるように気持ちを込めて作っています」と笑顔で応対していた婦人が突然に登場したので、大慌てで録画スイッチを入れたことを覚えている。
もう一つは翌月の4月2日に放送された読売テレビの「かんさい情報ネットten.」だ。
薬師寺花会式の様相を密着取材した特集にも花づくりの家が登場した。
「奈良西ノ京、薬師寺は天武天皇が皇后の病気平癒を祈って発願した大寺院だ。花会式の正式名は修二会と呼ばれ、古くは国家繁栄や五穀豊穣を祈る国家的行事だった。平安時代になって、堀河天皇の皇后が薬師如来に造花を供えたのがきっかけに花会式と呼ばれるようになった」と伝える。
「造花を十種類供えたときが、二月の修二会だったので造花会とも呼ばれていた。東大寺がお水取りというのに対して薬師寺は花会式」と解説されたのは山田法胤管主である。
特集は堂童子を務める長老を主に据えて紹介していた。
壇供にお身ぬぐい、造り花飾り付けを順に紹介する。
そこで登場したのが、花づくりをする前述のH家。
当主の奥さんが手のひらに乗せた黄色い花を広げていた。
糊を付けて互い違いに重ねていく。
同家の家族が揃って花つくりをしている。
代々が花を造ってきた家は五代目。
くちなしなど自然の染料を集めて、和紙を染める。
型抜きをして1本、1本の花は家族総出で半年間かけて作ってきたと紹介する。
出来上がった造花は薬師寺に納められる。
飾り付けは長老堂童子の指示のもと、青年衆と呼ばれる奉仕学生たちがしていた。
牛玉杖、荘厳を経て半夜、しゅし作法、結願、鬼追式で幕を閉じた一連の映像に感動していた。
この番組は撮ってはいるものの、花づくりの家族とはまだお会いしていなかった。
婦人を知ったのは放送後の2カ月先だった。
田園でお会いしたときに映ったお姿を思いだしたのである。
薬師寺に納める造花の種類は十種類。
椿、牡丹、梅、山吹、菊、藤、桃、桜、菖蒲、百合だ。
造花の花づくりは同家ともう一軒の家のM家が納めている。
花を作るのはすべての種類ではなく、分け合っているという。
同家は椿、牡丹、梅、山吹、菊、藤の六種類。
もう一軒が桃、桜、菖蒲、百合の四種類である。
すべての造花が出来上がれば薬師寺の僧侶に手渡される。
現在は薬師寺の僧侶が同家に来られてバンタイプのワゴン車に積み込んで運ばれる。
受け渡しの時期は薬師寺本尊、日光菩薩、月光菩薩のお身ぬぐいが行われる3月23日よりも前の日辺りになるそうだ。
かつては花づくり家の先代当主やインキョ(分家)の兄弟らが二人一組でオーコを肩に担いで運んでいたという。
自宅を出発して五ケ谷界隈の村を下る。
高樋、窪之庄を抜けて帯解に着く。
そこからは西方にあたる大和郡山市下三橋へまっすぐ進む。
北上して杏からはまたもや西方。
九条からはなら街道を経て薬師寺に着く。
距離は大よそにして片道13km。
途中で休憩する。
身体を休めて再び動くオーコ担ぎ。
重量はどれくらいか測っていないが、大きさから窺い知れる重さである。
届けてから自宅に向けて戻る。
そして次の造花を運ぶ。
一日に2往復。
数日かけて運んでいたと話す昭和6年生まれの現当主が子どものころに見た昭和27年以前の記憶である。
その年から昭和30年辺りの記憶は自転車に積み込んで運んだそうだ。
自転車に乗せられる量は限りがある。
何度も何度も往復したのであろう。
そして、車になったがミゼットだった。
ミゼットは大阪のダイハツ工業が生産・販売していた小型の軽オート三輪トラックである。
タイプによって異なるが昭和32年販売のDK型や昭和34年販売のMP型がある。
同家がどちらのタイプを購入されて利用していたか判らないが、運ぶ時代の流れを想定するにDK型が色濃いと思われる。
昭和34年といえば、私は小学2年生くらいだろうか。
住んでいた地域には車を所有する家は唯一の一軒。
車種はマツダのR360クーペだった。
生産・販売は昭和35年。
ミゼットとともに暮らしに身近になった軽自動車だ。
決して金持ちの家でもなかった人が買っていたが、育った地域で見た車は極、極、稀にであった。
花づくりは稲刈りを終えたころから始まっている。
紙切り作業は11月。
型紙に合わせて印を入れた和紙は重ねて切断する。
昔は包丁で切ったが、今は鋏で切る。
和紙は十枚重ねだけに包丁を入れるのも力がいったことだろう。
部材によっては色付けをする。
染める型紙は和紙の大判紙。
市内ならまち辺りの紙屋さんで買っているそうだ。
白っぽいところは白抜き。
色は付けていない。
染料は色粉。
餅などに入れる材料と同じで食べられる色粉。
饅頭屋さんに出かけて買ってくる。
色粉は色々。
本日、拝見した造花だけでも赤、朱、黄、緑、桃色がある。
色分けしてパーツごとに染料を染み込ませる。
液体に「しゅっと入れたら」染み込むという。
そういう染めもあれば、筆で塗る菊の場合もあるという。
染めが済めば広げて干す。
牡丹の芯になる黄色は名高い漢方薬の陀羅尼助丸薬の原材料にも使われているキハダである。
キハダはオオバク(黄柏)。
大峰山から送ってもらったキハダを包丁で削って粉にする。
黄色い粉はそのままに造花の花粉にしているという。
藤の花の芯はタロ(地元ではタラの木をタロの木と呼ぶ)の木を使う。
山野に生えているタロの木を刈り取ってくる。
刈ったタロの木はトゲトゲがある。
手で直に持てば当然ながら痛いが、天ぷらにしたタロの新芽はとても美味しい。
最近は栽培されたタラの芽がスーパーでも売られるようになった。
春を味わう旬のものだといって揚げたて天ぷらにして売る店も増えつつある。
山菜の王様とも呼ばれるタラの芽は需要が高い。
新芽がなくともタラの木は樹皮のトゲ(棘)で見分けがつく。
初春の頃に山野を歩いておれば目につきやすい。
稀にトゲが少ないタラの木が見つかる。
それはモチタラのようだが、私は見たことがないので自信がない。
それはともかく、タラの芽の一番芽は摘んでも、二番芽は摘まずに残すと教わってきた。
一番、二番とも芽を摘んだら、いくら繁殖力が旺盛なタラの木であっても生育力が衰えて翌年の芽だちが少なくなるのは当然だが・・・。
タラの木の成長には陽あたり良好、つまり、人の手が入った処に育成する。
山道や林道沿い、或は伐採地などが適地。
繁殖、密生、高木化した処では陽があたらず育ちが悪くなり、いずれは消滅する。
これまでは自宅近くの山野道沿いに生えていた。
いつしか消えてしまったタラの木はどこにあるのか。
その求めを知った山添村住民のTさんが材料を調達してくれたという。
ありがたいことである。
有る処には有るものなのであるが、そこも将来に亘って生えることはないだろうと思う。
樹木の材利用は他にもある。
牡丹の花の芯部分は桐の材を使う。
桐の枝は軽い。
それを長さ数cmに切断して円形にする。
中心部に穴を開ける、いわゆる刳り抜きの形である。
藤の花は説明を聞くまでは和紙を丸めて形づくりをしていると思っていた。
愕片に見立てたと思われるその部分は緑色に染めている。
蕾花の部分は白い。
それはタロ(タラの木)の木である。
皮を剥いて真っ白な芯をだす。
それが蕾の部分になる。
なるほどと思ったタロの蕾は作り置きができない。
皮を剥いだ芯は日にちが経てば経つほど色が褪せて白さが消えるらしい。
タロの木は他にも梅の蕾や菊の蕾にも利用される。
梅の花は白梅と紅梅。
枝はしゅっと伸びた梅ずわい。
先の方はふとんとじの糸を巻き付けている。
つまりは綿糸。
薬師寺が綿屋さんから集めてきた綿糸。
昔からそれを使っている。
今後は綿糸でなく本物の絹糸を使用することを考えているそうだ。
山添村北野に住む知人のTさんらが試験的に作り始めた蚕糸。
蚕を飼って繭にしてもらう。
繭は絹糸にする。
昔ながらの作業で作った絹糸を緑色に染めて梅ずわいの形づくりにする。
村の協力を得て材料を調達する。
蚕の生育には桑の葉もいる。
手間のかかる作業は数年前から始めたようだ。
試験的作業の場はだいたいわかる。
たぶんに訪れたあそこ(豊原公民館かも)であろう。
機会があれば覗いてみたい。
そんな話しを聞きながら出来上がった梅ずわいを拝見する。
ところどころに赤い点のようなものが見える。
梅の蕾であろう。
ところで梅ずわいの「ずわい」とはどういう意味があるのだろうか。
春日若宮おん祭において渡御式がある。
そのなかに赤衣を着た人が「梅の白枝(うめのずはえ)」と呼ぶ梅の木を携えて参進する光景を見ることができる。
「梅のずはえ」は桜井市多武峰の談山神社の神幸祭にも登場する。
お渡りに二の刀禰が若梅の木を持っていた。
ここでは若梅に厄除けの意味があると聞いている。
警固の意味をもつ社々の前駆けは、若宮おん祭の一番手先頭を参進する「日使(ひのつかい)」を先導する。
「梅のずはえ」の「ずはえ」とは梅の幹や枝からまっすぐに伸びた若枝の呼び名である。
若々しい枝を伸ばす梅の枝はこの「ずばえ」の他に「ずわえ」とか「すわえ」とも呼ぶことがある。
花づくりの家では細い梅の枝を訛って「ずわい」と呼んでいた。
充てる漢字は「楚」。
「すわえ」の詠み名がある。
これに清々しいの文字を連ねると「清楚」になる。
東京の大田花卉市場では取り扱う品種のなかに「ずばい」があるそうだ。
「ずばえ」でもなく「ずわい」が転じた「ずばい」である。
ちなみに「ずわい」の語彙に何かを思い出せないか。
「ずわい」といえば美味しい冬の味覚の「ズワイガニ」である。
「ズワイガニ」を充てる漢字は「楚蟹」」だ。
まっすぐ伸びた枝、ではなく、美味しい身が詰まったカニの長い手足。
木の枝に見えたことからその名がついたようだが、「スワエカニ」でもなく「ズワエガニ」でもなく「ズワイガニ」に落ち着いたのは何故なんだろう。
「ズワイガニ」はさておき、造花の大部分は和紙で作られているだけに、元に戻ろうとする特性がある。
山吹を作っておられた婦人が云うには、指で寄せた花びらの皺は放っておけば自然に戻ってだらーとする。
それを防ぐにはある程度の熱がいる。
熱によって温めるのであるが、それは炬燵の内部。掛け布団を開けて見せてくれる。
花びらも葉も火で炙る。
炙って薄く、ハクロウ(白蝋)でひく。
色染めしている部分に蝋をひくが、白梅とか白椿、白菊には蝋をひかない。
染めがある部分だけであるが、現在はその手段を施していない。
信者さんの声があった。
蝋をひけば和紙の値打ちが損なわれるという意見があった。
蝋ひきした和紙はひび割れするような感じがあったようだ。
例えば、であるが、パラフィン紙はパリパリ感もあって見た目はギラギラした光沢がある。
風が吹いて照りがあった日のようだった。
意見を受けたお寺さんからお達しがあった。
平成時代に入ったころだというから、30年近い前のことだ。
ただ、は戻り方が強いことから菊の花だけは蝋ひきをしているそうだ。
奥さんが面白い言葉を口にした。
茎にあたる部分は細く割った竹を使う。
部分によっては竹を曲げる場合がある。
その曲げることを「イタメル」という。
「イタメル」は力を入れて竹を曲げてときの「痛める」であろう。
半年間に亘ってさまざまな苦労をしながら調達や作業をされる花づくりの家の前身は成身院(じょうしんいん)と呼ばれる坊であった。
応永十二年(1405)五月に行われた春日社大般若会には正暦寺塔中(塔頭)寺院のうち、23院が出仕していたとある。
菩提院、福蔵院、寶蔵院、清浄院、十方院、中院、長勤院、妙厳院、光明院、松之坊、長観院、金蔵院、興善院、蓮華院、普門院、文殊院、大福院、福寿院、多聞院、西方院、成身院、金剛幢院、仏光院の二十三ケ院だったと平成6年7月に発刊された『五ケ谷村史』に書いてあった。
古くから塔中(塔頭)の一院であった成身院は現当主より二代前のかつて僧侶だった曾祖父の時代に院を降りて還俗。
現在地に落ち着いた。
当時、院にあった梅の木は現在地に移植した。
あれから百年にもなるという。
『五ケ谷村史』の記述に「正暦寺一千年の歴史」には正暦寺が衰退いく模様が子院の減少に象徴的にとらえられている」とある。
「文化十二乙亥(1815)年 有住十二軒寺株定帳 仲冬 沙汰人」書に十二院の名が連なる。
有佳子院、成身院、多聞院、福寿院、徳蔵院、宝光院、宝蔵院、仏光院、妙観院、返照院、大福院、吉祥院、他不明院の役料を割り当てた石高である。
詳しいことは省くが正暦三年(992)の創建、古くは八十六坊も所有していたとされる。
なお、史料によれば成身院の再建は明治八年。
明治二十八年の境内塔中院は成身院、徳蔵院、多聞院、吉祥院、福寿院の五ケ院になっていた。
当時、成身院の本尊は釈迦牟尼仏。
僧、森海道住職が務めていたようだ。
先々代の曾祖父とどのような関係だったのか不明であるが、曾祖父は薬師寺の僧侶でもあった。
その時代の花会式。
営みは当然だが、花づくりも僧侶がしていたと伝わるだけに、練行衆の役目であったのだろう。
理由は定かでないが、曾祖父は還俗(げんぞく)し自宅に戻った。
薬師寺の僧であったときに習得した花づくりの技術を持ち帰り子孫に伝授され現在に至る。
花づくり家はもう一軒あることは前述した。
実はこの家も薬師寺関係者であった。
薬師寺を守護する鎮守社の休ケ岡八幡宮がある。
薬師寺に参拝するときには、まず当社に参って身体を清めてからお寺に向かうのが正式な作法のようだ。
同神社には宮司を務める神職がおられる。
還俗した花づくり家は、当初1軒で十種類の造花を作っていた。
いつの時代か判らないが、宮司家も花づくりをするようになった。
2軒の家によって花づくりが継承された。
十種類の造花は両家が手分けして作るようになった。
伺った家は六種類。
もう一軒が四種類である。
椿、牡丹、梅、山吹、菊、藤の六種類に桃、桜、菖蒲、百合の四種類を協力しあって納めてきた。
元僧侶と元宮司の関係はたまたまだったのか存知しないが、両家とも家族総出で作っている。
花づくり家になった経緯がようやく判った。
時代は不明だが、徳川時代の頃。菩提山の領主について参勤交代していた。
そのときに着用していた裃があったようだ。
その関係であろう、徳川家から貰い受けた金箔のご朱印帳や扇は大切に保管しているという。
ちなみに還俗した際に氏姓を賜った。
同村より東方。峠を越えて山を下れば矢田原にでる。
その付近までが村内。
かつては離れた地にも住民がいた。
江戸時代に絶えた家の名字を継ぐような恰好で現姓を授かって現在に至る。
同家には2体の脇侍を携えた不動明王立像を安置している。
それはかつて成身院の尊仏であった。
先祖代々の位牌もたくさんある。
仏間であるが、今でも先祖さんには手を合わせていると当主が話す。
長居をしてしまった花づくり家の取材。
2月末はまだ半分ほどの出来だった。
3月に入って黄色い花づくりに移った。
息子さんのお嫁さんは動き回る幼女から目を離すことなく細かい作業をされていた。
話しを伺うことによって手を止めてしまった。
忙しいこの時期にありがたく取材させていただいたことに感謝する。
ちなみに昔は夜なべばかりの日だったようだ。
昼間はいろんな人たちがやってくる。
村の人もやってくる。
その度に手を止めて応対する。
そのような状況が続けば夜なべの作業になる。
夕飯を食べてから作業を続ける。
夜中の3時ころまで夜なべしたことも多々あったようだ。
今では人手も多くなり、効率的な作業で夜なべはしなくなったというが、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
そのような状況であるが、ときには夜なべをしたこともある。
なんでも薬師寺からの別注である。
会式に供える造花ではなく、特別な企画展に飾るものだったようだ。
ところで納めた造花は堂童子とともに青年衆が飾り付けをするが、呼ばれることはないという。
供えられた十種類の花は処分されるのだろうか。
燃やすこともないという造花は、どうやら寄附行為をされた信者講中(薬師講か)や参列した知事や県会議員が貰っているらしい。
(H28. 3.11 EOS40D撮影)