マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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改善に至らない実状に退職勧告

2016年09月20日 09時02分07秒 | むびょうそくさい
週一ペースの心臓リハビリ運動。

運動すれば脈拍は上がる。

何もしない安静状態であれば38-42拍の脈拍。

急激な変化は認められない。

毎日の食後に測る血圧と脈拍だ。

それから1時間ほど経過してから自宅周辺を早足で歩く歩行リハビリ。

一回りして戻ればだいたいが45拍になる。

そんな状況の毎日に耐えられそうにない自分がいる。

この日も週一の心臓リハビリ運動に病院へ向かう。

バス、電車を乗り継いで外来棟に着く。

うけつけを済ませて備えつけの測定器で測る。

血圧は135-70で脈拍は42拍だ。

毎回、にこやかに接してくださるGリハビリ療法士。

開口一番に伝えられた前週8日の身体状況。

主治医の循環器内科医師に伝えられた状況は、肺に水も溜まっていたに映像は良し、ヘモグロビン値は12.3でこれもまたデータ良し。

すべて良しだったという。

特に、BNPの値が大幅に改善していると云う。

1月の診察時では496.1。

2月の状況は約半分の253.1。

8日は大きく下回って、なんと、なんとの二桁台の87.4になっていた。

決めては利尿剤の効用ではなく自分自身の心臓が元気を取り戻している証拠だそうだ。

2月3日から増強した利尿剤はラシックスとアルダクトンA。

昼食後に各1錠ずつ服用する。

その効果もあると思うのだが、そうではないとGリハビリ療法士が云う。

BNPは脳性ナトリウム利尿ペプチドの略。

心臓の負荷が増えるとか、心筋肥大が起こるとBNPの血液濃度が増加する。

値が高いほど心臓が良くない状態であるが、数値が二桁台になったということは心臓自身が負荷もかからず、身体的な負担が大幅に減少したということだ。

数値が示す通りに身体は軽く、足取りも伸びやかに動くようにはなったが、脈拍がねえということだ。

いつもの通りの準備体操にストレッチ運動。

脈拍は45-48拍に上昇する。

場合によれば50-55拍にもなることがある運動時の脈拍だ。

そうしてスタートしたウォーキングマシーン。

エルダーウォークタイプのルームランナー器械に乗る。

そのときの脈拍は48拍だ。

スロースタートした直後から時速4kmの早さで回転自走する。

脈拍は145-60で脈拍は57-59拍に上昇する。

ほどよくスタートして15分間。

身体はやや「楽」に反応する。

調子は良いということで時速4.5kmにアップされた。

血圧は133-59。

脈拍は58-61拍。

数分間経過して負荷がかかれば60-61拍にもなる。

ラストの3分間の血圧は145-62になったが、脈拍もそれに連れたのか61-64拍にもなった。

本日、やっとこさの汗がにじむ。

26分間の器械リハビリ運動を終えてフリーになる。

そのときの脈拍は48-52拍。

急激な落ち込みはなく、数分後も下がらず、もち続けていた。

本日の切り上げはいつになく早かった

。間に合うかもしれないバスダイヤ。

その前に済ませておく会計支払い。

受け取った整理番号は1636番。

そのときの時刻は午後2時40分。

会計済み番号は1593番だった。

ということは43人待ち。

結局待ったのは20分間だった。

大慌てで器械利用のクレジット支払いをする。

そしてバスの停留所に行く。

玄関を出たところにある停留所には待ち人多し。

間に合ったのだが、時間がきても到着しない。

3分遅れのバスに乗って電車駅に着いたとたんに発車した。

帰宅したら勤務先より電話があったとかーさんが云う。

院長からの電話があるということはおそらく・・。

前年12月初めにアブレーション焼却処置をしたものの脈拍の上昇は見られず車の運転は禁じられた。

前週に伝えられた主治医の指示。

近距離、単独運転、自己責任の条件で運転許可が出されたが、送迎の場合は許可されなかった。

万が一のことが発生する危険性があるということだ。

許可される目標脈拍値は50拍台だったが、未だに到達どころか、ほとんど変化していない状況にある。

仕事場には事情を伝えて待ってもらっていたが、そうはできなくなった。

相方のドライバーさんに負担をかけている状態は我慢できる範囲を越えたようだ。

私の復帰は願いたいところだが、もう待てない状況にきたということだ。

一旦は退職をしてもらいたいという通告である。

アルバイトの身では休職扱いは手続き上ない。

一身上の理由で退職届け(願い)を提出願いたいということだった。

そりゃそうだろと思う。

脈拍が正常に戻って復職願いは・・・相談に応じるが、そのときの事情で約束はできない。

それもそうだ。

送迎の仕事はすごくあっていた。

送迎しているときに話す患者さんとの会話でずいぶんと育ててもらったような気がする。

健康である限り、70歳の定年満了まではと思ってきたが、残念な勧告を受け止めなければならない。

不本意ではあるが、仕方がない。

よくぞ待ってくださったことに感謝する。

ただ、3カ月間もガンバってきたがぷつんと糸が切れたようだ。

その後の数日間。

勤めの執着心は薄れて、精神的な気持ちは吹っ切れた。

それから5日後の新聞チラシ。

送迎ドライバー募集が出ていた。

(H28. 3.15 SB932SH撮影)

気長に待って一歩前進

2016年09月20日 08時43分25秒 | むびょうそくさい
毎日の自宅リハビリ運動は歩行訓練のみだ。

だいたいが自宅周辺の1.8kmを25分ぐらいで歩けるようになった。

つい先日のことだ。

奈良町へ行くに自宅から近鉄九条駅まで歩いたことがある。

距離は1.4km。

普段のリハビリと同様の早足で歩いた結果は21分だった。

サラリーマン時代は毎日が徒歩ででかけた通勤行程である。

夜になって戻ってきた九条駅。

そこからは坂道を登って自宅に着く。

時間は行きも帰りも同じ。

サラリーマン時代とほぼ同様になった。

先週までの通院はバス、電車の行程だったが、バスよりもゆっくり自宅を出ることができ電車駅までの徒歩を選択した。

携帯電話が示す万歩計距離は1.5km。

時間は25分だった。

必死さもなかったのでこうなった。

電車やバスを乗り継いで午前10時過ぎに着いた外来病棟。

総合受付は20人もの患者さんが並んでいた。

それから移動した採血の受付。

発行された整理番号は399番。

そのときの呼び出し番号は365番。

採血されるまでの待ち時間予想は25分だった。

これまで何度か同一時間帯に受付したことがある。

同じようにだいたいが待ち人多し、である。

なお、整理番号には血液検査の結果報告予定時間が書いてあった。

その時間は午後12時4分だった。

血液検査は例月と同じで4本。

この日の処置者は若い男性。

針はいつ挿したのかわからないぐらいに、まったく痛みを感じなかった。

次はレントゲン撮影。

立つ位置で正面、左側面の2枚。

そして心電図計測に場を移動する。

これらすべてが終わったのは午前10時55分。

とにかく午前中は駐車場も満杯なるぐらいに患者さんが多いゆえ、待つ時間も長くなる。

こうした検査を経て循環器内科の主治医師の診察を待つ。

受付を済ませば、いつもの通りの血圧に脈拍測定。

この値に驚いたのである。



これまでの測定は39~40拍であったが、やや上がって44拍であったのだ。

思わず、心のなかで「ウレピー」の声があがった。

続けてきた週一ペースの器械リハビリ運動中の脈拍は50拍台にもなっていた。

負荷をさらにかけて60拍台に達する。

だが、運動が終われば元の木阿弥の40拍台前半に落ち着く。

毎日の自宅周辺を歩く運動も繰り返す日々。

帰宅直後に測った脈拍はだいたいが45拍。

運動することによって心臓ポンプの回転数(脈拍)が上がる。

負荷をかけた運動が功を奏しているが、安静状態の脈拍は相も変わらずの38~40拍であった。

数日前からはその値も42~44拍になっていた。

ワクワクしながら待つ診察呼び出しである。

前月予約に入れた時間は11時半。

それより遅くなった呼び出し時間が11時55分だ。

結果的にいえば、血液検査受付の整理番号に書いてあった予想時間により近かった。

扉を開けるなりY医師は笑顔で応える。

運動中の脈拍状態についてはGリハビリ療法士より良好な状況にあると聞いている。

数値的にはまだまだの感があるが、早期の決断をせずに待った甲斐があったと喜ばれる。

脈拍は正常に戻りつつある。

週一ペースの器械的リハビリ運動が功を奏したのである。

結論からいえば、心臓ペースメーカーの埋設はしない、というか、免れたのである。

ただ、Y医師は若干気にかかる状態を説明された。

方眼紙チャートのマス目に描かれた心電図波形をみせて、この間の幅がやや広がっているというのだ。

Q・R・S波の間隔だ。

専門的なことは判らないが示した方眼紙チャートのマス目が4マスの間隔がある場合は危険余地聴講。

気になるのは4マス目の幅に広がるR・S波の間隔だ。

現状は3.5マス目ぐらいなので特に気にすることもなく、問題は発生していない。

めまいや気を失うこともない退院後の毎日に安心は禁物だが条件つきで車の運転を許可された。

安静状態の脈拍は決して正常ではないが、体内残留のアンカロン薬剤が徐々に効き目を落としているようだ。

K循環器医師の話しによれば、人にもよるが、薬剤残留は半年間の事例もあるそうだ。

利尿剤の効き目もあって、うっ血、浮腫み、膨満症状は見られないし、不整脈発症も少ない。

体重は安定、身体はしんどさも感じない。

坂道も難なく歩けるようになった。

退院後は一度もめまいを発症したこともない。

総合的に判断された医師は近距離・単独運転の条件つきで運転を認めてくれた。

あくまで自己責任で、ということだが、患者さんを送迎する仕事は万が一の可能性も否定できないので許可されない。

安静状態での脈拍が、常に50拍以上になれば、少しは安心できるが、見通しは断定できない。

常態が60拍になれば、安泰・・・。

そうなるように、リハビリ運動は今後も欠かせないと思った。

Y医師は今月末に退職されて新天地を目指す。

最後に尋ねたのは肺炎球菌予防接種のことだ。

市の通知は早いうちに届いていた。

期限は3月末だったので、まだまだと思って放置していた。

そのうちに発症した僧帽弁逸脱による弁膜異常である。

7月に入院、弁形成手術、退院後の経過観察を経て12月にアブレーション焼却処置。

退院後の経過観察も早や3カ月。

バタバタしているうちに年度末が近づいた。

このような状態で肺炎球菌の予防ワクチン接種が可能なのか。

不安なことは医師に聞く。

そういうことだ。

その接種は当院でも行うことができる。

手配をしましょうと云われたが、通知は住まいする大和郡山市の医療案内。

期限内であれば接種に補助金があるので、支払いは3千円で済むが、市外接種となれば補助金がでない一般的料金になる。

そういうことであるだけに慌てて予約する。

予約は奈良に住み着いてからずっと世話になってきた近くの上田診療所。

市が指定する診療機関である診療所は徒歩20分で着く。

リハビリを兼ねて予約した14日に接種をしてもらった。

用意されていたワクチンに問診票。

直近の身体状況について記入する。

呼ばれて入室したら先生がおられた。

久しぶりである。

問診票を見られた先生は驚かれた。

てっきりかーさんが伝えていたとばかり思っていたがそうではなかった。

一部始終をお話する時間はないから、ポイント詰めて発症から入院・手術などの状況を伝える。

先生は循環器内科が専門。

突然の僧帽弁損壊はやはり入浴であった。

原因は元々あった心不全であるが、弁を破壊したのは入浴で圧迫されたにほかならない。

術後の心房粗動もアブレーション処置も脈拍低下の原因も速攻で理解される。

現状の低脈拍であるが、特に問題を起こすことはないと想定されたことを付記しておく。

しかし、まーなんですな。

よくぞここまで復帰したものである。

元の状態に戻れないと決断していたら、この日は心臓ペースメーカーの埋設をお願いします、ということになっていたかも知れない。

私は当初に医師が伝えたアンカロン薬剤が切れる3カ月後の状態に期待していた。

期待が外れるかもしれないし、当たりになるかもしれない。

かーさんは云った。

私なら今後のことを考えて安心できる心臓ペースメーカーを選択していたというのである。

私は、右の道を選ぶのか、それとも左の道を選ぶのか、結果がどうであっても悔やまない決断をしたかったのだ。

2月10日に緊急電話が架かって残り一か月の猶予期間を待たずにペースメーカー宣告を受けた。

その日から眠れない日々を送った。

ペースメーカーは身体に装着したら絶対にもとには戻らない身体になる。

そのことを話してくれた体験者が居る。

先日にお会いした小林町のHさんだ。

ついこの前に処置をした心臓ペースメーカーの交換である。

7年前に行った体内埋込型の心臓ペースメーカーの処置入院は3週間に亘った。

それから7年経てば器械は交換を余儀なくされる。

そのときの処置・入院は10日間である。

しんどさ、苦しさはまったく感じさせない婦人話しぶりに頭はあがらない。

昨年にお会いした桜井市瀧倉の住民もそうだ。

病状の経緯は聞いていない両人。

心臓病の患者はそれぞれ異なるらしい。

医師の診断によって処置も異なるようだ。

将来的に考えれば、ペースメーカー選択が正しいかもしれないが、私の場合は弁の形成手術およびアブレーション処置によって発症した心不全。

しかも、服用していた薬剤が大いに関係していることだ。

薬に負けてたまるか、である。

次回の診察は6週目になる。

若干伸びたのは院内の都合である。

次回はY医師から主治医が替わる。

引き継ぐまではワーファリン錠の服用は続ける。

できるなら切りたいと考えるY医師は引き継ぐ医師に判断を委ねた。

利尿剤はどうするか、である。

前回に提示した条件は継続する。

体重が60kgを切れた場合は昼食後に服用しているラシックスとアルダクトンAを停止する。

体重が増えれば復活する。

これを自分自身が判断して服用をコントロールすることだ。

また、喉の渇きも判断にしてほしいと伝えられた。

いずれにしても診察は6週間後になる。

それまでも心臓リハビリ運動は週一ペースを守ってもらって運動につくK循環器医師の診断を仰ぐ。

経過観察はK循環器医師がついているので安心していると話すY医師が見送ってくれた時間帯は午後12時半。

次の心臓リハビリまでは食事時間。

コンビニみたいな院内施設のショップで寿司や弁当などを探してみる。

「ウレピー」日には寿司でも食べて祝ってあげようと思ったが、結局はパン二つ。

山崎製パンの焼きそば&マヨネーズ入りのコッペパンと懐かしいカレーパンだ。



コッペパンは120円でカレーパンは124円。

締めて合計価格が244円のパンは待合ソファに座って食べる。

院内ではこのような場で食事をする人が多い。

たいがいが弁当のようだ。

支払いにレジに並んでいたときのことだ。隣にある食堂に入っていったお二人に気がついた。

前回に会ったのは前年の11月17日であった。

二人は山添村大塩に住むY夫妻に違いないが、支払ったあとでレンジ操作をしているときに見失った。

レンジはパンを温める。

カレーパンはしたくない。

冷めたほうが美味しいのである。

レンジでチンをしたのは焼きそば&マヨネーズ入りのコッペパンだ。

たったの20秒であったが熱過ぎた。

冷めるまではカレーパンを食べる。

昨今は出来上がり造りたてのカレーパンを食する方が多くなった。

そういった店内製造・販売するパン屋さんが増えた。

そういう状況になるまでのカレーパンは山崎製パンだった。

一つでもよかったこの日の昼食。

ものは試しと思って買ったパンは焼きそばパン。

熱くなった袋から取り出す焼きそばパンは見た目のコッペパン。

どこから見ても焼きそばが見えない。

コッペパンの名であるが実に柔らかい。

ほくほくの出来たてのようになったパンを食べる。

中からでてきたのが焼きそばだ。

関西焼きそばソースで名高いオタフクソースの味が決め手。

マヨネーズ感はそれほどでもないが、ソースが旨いのである。

驚いたのは焼きそばの量だ。

食べても、食べても終わりにならないコッペパンに詰めた焼きそば。

中身はぎっしり詰まっており、例をあげればなんだかであるが、たい焼きの尻尾までというような詰め具合だ。

これまで食べた焼きそばパンよりも断然に違った詰め込み量に感動した。

さてさて次は週一ペースの心臓リハビリ運動に場を替える。

ここでも受付に血圧や脈拍測定をする。

気になるのは脈拍だ。

結果は42拍。

いつもなら、ここでもだいたいが39拍、40拍であるが、若干の上昇。

喜ぶほどでもない値だ。

リハビリ運動をする患者さんのほとんどは退院者。

稀に入院中の患者さんも居る。

私もそうだった。

年齢的にいえば私は若者の部類。

他の患者さんはすくなくとも75歳を超えたと思える人たちで埋まる。

身体に携行型の心電図計測器を装着する。

準備運動前の脈拍は44拍になっていた。

これもいままでと違う状態のやや上昇気味の値である。

準備体操からストレッチ運動に移る。

運動にもよるが、47~48拍のときもあれば53~54拍の場合もある。

そして始まる器械運動。

この日は再び自転車エルゴメーターのペダル漕ぎに戻った。

なんでも先約があって、ベルトコンベア型のエルダーウォークタイプのウォーキングマシーンは埋まっていたのだ。

前々回のワークは50で終えた。

そのときの血圧は148-69で、脈拍は一時的に50-51拍に上がった。

今回はどうなるであろうか。

早速のペダル漕ぎ運動は同様の50ワークを設定する。

血圧は136-73

。回転数は60ぐらいでペダルを漕いだ脈拍は48拍だ。

しんどさは感じない。

今回もさらに負荷をかけてワークw55に設定される。

ぐっと力が加わったペダル。

踏み込んでいくうちに軽く感じるようになる。

身体がついてきているように思える。

回転数は65で脈拍は57拍。

一向にハートマークの不整脈が見られない。

あってもぱっとついてすぐ消える。

場合によっては60拍から66拍になるときもある。

Gリハビリ療法士もK循環器医師も良好な状況に笑みがこぼれる。

25分間の器械運動のラストが気にかかる。

血圧はやや高めの155-56。

ラスト3分間はハートマークが点いたままだったが、スローダウンをしながら停止。

降りて心電図を見れば脈拍は54拍だった。

心電図波形に乱れは見られない。

波形幅が安定していたと療法士や医師が伝える。

あとは気長に上昇を待つだけだという。

(H28. 3. 8 SB932SH撮影)

復帰に向けたリハビリ運動

2016年09月20日 08時31分55秒 | むびょうそくさい
運動をすれば心臓に気合が入る。

負荷をかければ心臓ポンプはさらに回転数を上げる。

その証拠に運動直後に計測した脈拍は45拍ぐらいになる。

もっと上がってくれと願っているリナビリ運動に気合が入るのだ。

毎週、欠かせない病院で行う心臓リハビリ運動。

受付段階の血圧は148-71。

脈拍は42拍だ。

いつもなら40拍か、39拍であるが、僅かに上昇していた。

この日のリハビリ患者は5人。

いつもより3人も少ない。

たまたまなのであろう。

少ないからというわけではないが、Gリハビリ療法士は運動の前に体力測定をするという。

前回の測定は1月21日だった。

前週辺りから運動量を上げつつある。

脈拍もそれなりに上昇している。

1カ月後の体力具合の経過を測定する。

長椅子に腰かけて足の蹴りや握力などを測る。

蹴りの測定は座った位置で右足を前方に押し出す。

その押す力を計測するためベルトを利用される。

右足は39.6kgで左足が40.5kg。だ。

前回の計測では右足18.9kgで左足が18.3kg。

筋力が圧倒的に上昇している状況がよく判る。

握力測定は右手が41.2kgで左手は34.7kgだ。

前回の計測は右手が41.2kgで左手は34.9kg。

ほとんど変化が見られない。

握力に関しては、前回同様に特に問題はないということだ。

握力測定を済ませたら廊下に出て歩行能力を測定する。

椅子に座ってからだ。

すくっ、と立ち上がって5数メートル先まで普段の速度で歩いて戻る。

自宅周辺をリハビリ歩行している速度で歩く。

瞬発的に椅子から立ちあがって早足。

今回の計測値は2.6秒だ。

前回が5.4秒だったのでおよそ2倍にもなった。

まさに瞬発力が戻ってきたのである。

もっと速度を上げて駆けるようにという指示が出た早足は2.0秒。

前回は4.2秒だったのでこれもまた倍速になった。

運動後のしんどさは感じない。

ゼイゼイも出ないし、息切れもない。

では、脚の筋肉はどうなのか。

高さ40cmの席に座って立ちあがる。

立ちあがりは両足で立つのではなく片足である。

これはキツい。

全体重を右足に載せてぐっと立ちあがる。

この高さはなんとかできたが、25cmではびくともしない。

健康体の人でも難しいのでは・・と思った。

体力測定に時間を要したので準備体操は終わりかけ。

続いてストレッチ運動。

難なくこなして看た心電図波形。

P波はくっきりはっきり。後続のQRS波とT波も綺麗な波形で出現する。

不整脈もほとんど出現していない安定型に、脈拍は47拍であった。

今回の機械運動は初めて体験するウォーキングマシーン。

ルームランナーというか、ベルトコンベア型の路面が周回稼動するエルダーウォークタイプの器械だ。

手すりは両手で掴む。

ベルトの上に乗って歩行する。

最初は普段程度の時速4kmに設定されて動きだす。

慣れない歩行に足がもたつく。

小走りのように始めたが、そうではなくやや大股ぎみに歩行する。

血圧はそれほど上がらない血圧は132-60。

脈拍は53拍程度だ。

前回まで使っていた自転車エルゴメーターのペダル漕ぎよりも遙かに脈拍は上昇する。

一時的に100とか110とかの拍数が表示される。

それは特に気にすることもないという筋力電気信号のようだ。

動き始めて15分。

しんどさは感じない。

「楽」と「やや楽」の間ぐらいだ。

発汗症状もあってやや汗ばむ。

ただ、顔には汗は見られない。

K循環器医師の診断もあって速度を0.5km上げた4.5kmに設定された。

ぐっと負荷を感じる時速4.5kmであるが、徐々に身体が馴染んで負荷も感じない。

血圧は142になるが、特に問題もなく脈拍は60拍手前までになった。

今回のリハビリで初めて体感する脈拍60拍だ。

肺は問題なく酸素を吸い込んで心臓に供給する。

心臓ポンプは体内に血液を送る

。一回当たりの量を増やす。

これはポンプの強さ。

それでも求められる量には達していない。

なければポンプの回転数を上げるしかない。

上げることによって血液の送る量を増やすということだ。

このように運動をすることでポンプが正常に働く。

脈拍数は、その状態を示す。

運動を終えても急降下しなかったのが嬉しい。

こうしてこの日のリハビリを終えたら支払い手続き。

受診したリストを会計受付に提出する。

すると整理番号が手渡される。

この日の番号は1458番。

前回よりも100番手前。

ほぼ同じような時間帯で100人も少ないということだ。

受け取ったときの時間帯は14時50分。

そのときに表示されていた整理番号は1430番。

待ち時間も少ないと思ったら、その通りであった。

天理駅行きの巡回バスは一台前のダイヤに間に合った。

間に合えば近鉄電車にも一台前。

近鉄郡山駅に戻る時間も早かった。

(H28. 3. 1 SB932SH撮影)

山陽マルナカで買って我が家で食べるかき揚げそば

2016年09月19日 09時12分57秒 | カンタンオリジナル
山陽マルナカで美味しいかき揚げを買う。

やや高さがある筒揚げのかき揚げは、その日によってゴボウがありーの、コエビがありーの。

この時期は春もので菜の花の場合もある。

筒かき揚げは売れ行きがまことに好調である。

買い物にでかけたときはたいがいが売り切れ。

店舗ができた数か月後はそうでもなかったが、最近は棚にないことが多い。

ここは店内奥で店員さんが揚げている。

筒かき揚げは姿、形で遠目からでも判別できる。

まだか、まだかと待ち続ける場合もある。

準備ができていなくて諦める場合もある。

そんな火はどこか寂しさを感じる。

揚げる油が美味しいので筒揚げのかき揚げはとにかく美味しい。

当然ながら他の天ぷらも美味しくいただける。

それはともかく、料理は丼にするか麺にするかである。

絶対的に旨いのは玉子とじを混ぜ込んだかき揚げ丼だ。

2番手は冷凍うどんである。

二つに一つではいずれ飽きるであろう。

そう思って、この日はソバにした。

乾麺のソバで十分だと思ってそうした。

意外や意外と云ったら失礼だが、かき揚げソバが美味しいのである。

うどんよりもソバが良い。

そう思った日であった。

(H28. 2.26 SB932SH撮影)

我が家のカレーうどんインスタント版

2016年09月19日 09時07分19秒 | カンタンオリジナル
何か月も前に食べたことがあるカレーうどん。

残ったカレーは翌日に食べるとコクを感じる。

ついつい鍋からよそって食べてしまう。

止まらない美味さの残りもんカレーだ。

あるときのことだ。

茹で麺が残っていた。

そうだ、カレーうどんを食べよう、である。

茹でたうどん麺を丼鉢に入れる。

そこに火を通した残りもんカレーを注ぐ。

どろっとした食感に麺がよく合う。

美味しいのである。

茹でうどんでなく乾麺もしたことがあるが、麺が細すぎて美味さが半滅する。

それならと考えたのが冷凍うどん麺である。

今まででも冷凍麺を食べたことがある。

麺はシコシコと歯ごたえがある四国うどん、ではなく昨今は讃岐うどんで通っている。

40年も前のことだ。

かーさんと食べにいった食事処は難波の四国うどん店だった。

太い麺はガッツリ。

あれほどの歯ごたえ感は味わえなくなった。

復活したら食べに出かけたいものだ。

それはともかく、この日は残りもんカレーはない。

たまたま買い置きしていたレトルトカレーがあった。

だいたいが1袋百円で売っている。

3袋、或は4袋のセットで売っている場合もある。

我が家ではそれを買い置きしている。

用意するのは片手鍋が二つ。

冷凍麺は湯揚げ。

レトルトは袋ごとの湯戻し。

麺とレトルトの出来上がり時間を計算して鍋に投入する。

二つが揃ったら麺を丼にいれてカレーを入れる。

レトルトを絞って残らないようにする。

私の場合はなんでもそうだが、袋を箸で挟んで絞るのである。

筒状のチューブでは無理だが、例えば山葵とか生姜でも難なく絞り出せる。

それでもすべてを出し終えたわけではない。

袋内に少しはこびりついているのだ。

これを出しきるには割り箸程度の箸が使いやすい。

袋を大きく空けて箸を突っ込む。

突っ込むのは片方だけで良い。

袋を手で挟んで箸を動かす。

開けたところから残りものがずるずると出てくる。

この快感がたまらないのだ。

それはともかくトッピングレベルではないが、ここに刻みネギを入れてがっつく。

意外と美味いのである。

冷凍うどん麺は5個入りで200円ほど。

インスタントのカレーうどんは140円で食べることができたが、炒めた牛肉、若しくは豚肉をトッピングしたらもっと旨さがでるかもしれない。

(H28. 2.21 SB932SH撮影)

スーパーサンコーで買ったかき揚げで作る我が家のかき揚げうど

2016年09月19日 08時53分55秒 | カンタンオリジナル
我が家で人気のかき揚げ丼がある。

かき揚げはお店で買ったもの。

出汁を少し煮立ててかき揚げを入れる。

そこに玉子とじをとろとろ入れる。

炊飯器で炊いたご飯を丼によそって出来たてかき揚げを盛る。

それで出来上がる。

毎回が丼となれば飽きてくる。

たまにはうどんでも、と思って先日買った冷凍讃岐うどんを使用する。

今回のかき揚げはスーパーサンコーで売っていたものだ。

揚げる油で味が決まるかき揚げは平べったいものではなく、高さがある。

厚みがある一枚は横から包丁を入れて半分にする。

かーさんと私のかき揚げはいつもこうしている。

厚みがあるかき揚げは富雄南のイオンタウンこと山陽マルナカのマックスバリューでも売っている。

商品名は筒かき揚げで高さは5cmぐらいか、である。

こういう商品は大起水産でも売っている。

高さは10cmぐらいで、100円ちょっとで売っている。

また、昨年暮れ辺りに営業を始めたマツ源もある。

ここの値段はやや高めだ。

いずれのお店であっても美味しくいただける厚めのかき揚げが食欲を旺盛にする。

ところで、我が家のかき揚げうどんの味はどうなの、である。

出汁は白だしを使った。

冷凍うどんをやや硬めに茹でて、温めた出汁を入れる。

カマボコ2枚を添えてネギをトッピング。

これはこれで旨いかき揚げうどん。

コシが強い讃岐うどんにひたひたかき揚げの旨みに絡まれて食が進む。

だが、である。

出汁が濃い丼の方に軍配を挙げたい、と思った。

(H28. 2. 7 SB932SH撮影)

七条西町1丁目の地蔵尊

2016年09月18日 09時32分19秒 | 奈良市へ
行きつけの歯医者さんは奈良市六条町にある。

リハビリを兼ねて自宅から徒歩で向かう。

歯医者さんは実に8カ月ぶり。

毎月一回は歯の掃除をしてもらっていたから入院した病院の歯科医師は「綺麗にしてはるね」と云っていた。

入院したのは7月初め。

その月の月末辺りに掃除治療をする予定だった。

急な入院に電話をしたのはかーさんだ。

歯科医院長はそれを聞いて慌てて電話。

心臓病を患った院長も気にかけてくださった。

その歯科医に向かう道は新興住宅街を利用する。

ゆっくり歩くリハビリ徒歩では20分もかかる。

その道中に地蔵尊がある。

いつもなら車で通る。

停めることもないからじっくり拝見したこともない地蔵尊は住宅街の一角にある。

背後に見える大池は奥甚池だ。

謂れがあるような池の名だ。

池の奥では工事車両が動き回る。

県立病院の新築工事である。

次第に全容が見えつつある。



それはともかく、やや小型(10cm)の青銅製の鰐口を吊るしている地蔵尊に名があるのか・・。

青銅製の鰐口は古いように思えた。

裏側(刻印はなし)を拝見したかったが、捲るわけにはいかないので諦めた。



地蔵尊は地蔵堂の内部に安置している。

石造りの地蔵尊もなんとなく古いように思える梵字がある。

判読はできない。

この地蔵堂の左側外にあるものが吊るしてあった。



近づいて拝見したら、それは穴を開けた二つの小石に藁草鞋であった。

藁草鞋は一対でなく片足だけだ。

足痛封じの願掛けではないだろうか。

穴を開けた小石もまじないの一種。

耳を患った人が耳病平癒を願って吊るした。

同一人物であるのかどうか、判らないが、これもまた願掛けである。

発掘調査報告に奈良市七条西町所在の奈良時代祭祀遺跡の一ノ谷遺跡があるらしいが、場所は判らない。

地蔵尊も含めて聞取りをしたいと思うが、ここら辺りには旧村の家は見当たらない。

地蔵尊には真新しいお花を飾っていた。

信仰する人はこの近くだと思うが、アテはない。

(H28. 2. 5 SB932SH撮影)

高御門町の防火システム

2016年09月17日 08時10分48秒 | 民俗あれこれ(消防編)
展示物を拝見して史料保存館を出た。

滞在時間は1時間40分だった。

長時間に亘ってお話してくださったならまちの民俗に終わりはない。

さまざまな角度から見つめた町屋の民俗がある。

館を出て歩いてきた道を戻る。

ある家の門扉前に置いてあったバケツ。

色はくすんでいるが、元々は目立つ赤色の「消火用」バケツである。

バケツには満々と水を溜めている。

その情景に遭遇してすぐさま頭の中に斑鳩町の西里集落の映像が蘇った。

西里の各家ではここと同じように門屋前や門扉辺りに消火用バケツが置いてあった。

西里の集落中央に火伏せの神さんである愛宕さんの石塔がある。

同地区の総会において決まった二人は正月明けに京都の愛宕神社に参ってお札をもらってくる代参がある。

門屋に置いてあった消防バケツは火事を起こしてはならないという地域全体を守る防火活動の一貫である。

どの家も防火バケツを置くようにしたのは集落の火の用心の決議事項。

バケツ一つで火事を消すのではなく、火事は起こさないという防火の心構えなのだ。

ならまちの消火用バケツに意味があるのか・・。

丁度その時、玄関から婦人が所用で出てこられた。

話しを聞けば、平成になったころに隣組が火事になった。

それから地域を火事から守る防火用水バケツを門塀前に置くようになったというのである。

バケツの意味を教えてくださった家を後にして戻っていけば次々と目に入った消火用バケツ。



型に決まりはなく、一般的なブリキのままのバケツもある。



ブリキのバケツに混じって赤いバケツも置いてある家もある。



筋道両側に建つ家のほとんどにある消火用バケツ。

色がくすんでいることから何十年も経っているのだろう。



バケツに溜めた水は満水。

水面に埃が見られないことから毎日は入れ替えをしているように思えた。

よくよく見れば、そこにもヒイラギイワシがあった。



節分の風習と消火用バケツに関連性はない、はずだ。

稀にブリキ製でないポリバケツの消火用バケツもあるし、役目を終えたと思われるひしゃげたバケツもあった筋道は、後日に調べた地図では高御門町のように思える。

(H28. 2. 4 SB932SH撮影)

奈良町正月行事の春日講企画展示in奈良市教育委員会史料保存館

2016年09月16日 10時57分40秒 | 民俗を観る
FBで氷室神社の大宮守人宮司が紹介していた京終の春日講(別称に充てる漢字が親日講;しんにちこう)のトウヤ祭(当屋祭)。

春日講中は9軒ほどのようだ。

春日講は春日曼荼羅や鹿曼荼羅、春日赤童子像などの掛軸を掲げて春日信仰する講中である。

江戸時代、奈良町界隈には、すべてではないが町ごとに春日講があったようだ。

やがて近年になって解散した講中もあり、ご本尊の掛軸や古文書などを奈良国立博物館、奈良市教育委員会史料保存館に寄託、大切に保管・保存されている。

京終の春日講を始めて知ったのは随分前のことだ。

平成20年1月21日に取材された奈良女子大准教授の武藤先生がとらえた映像を拝見させてもらった。

その映像にはトウヤ(当屋)家の床の間に掲げた鹿曼荼羅図もあれば、傍にはヤカタも置いてあった。

その場は杉の葉で覆った竹の垣を設えていた。

しかも、だ。

それは下にもあれば上にもある珍しい形態に感動したものだ。

なんとなく奈良市大柳生の廻り明神の頭屋家で拝見した垣とよく似ていたが、大柳生は床の間の上だけだった。

昨年の平成27年10月5日に訪れた奈良市北京終町の京終天神社。

花切祭に奉納された梅の枝花を本殿に奉ってあると大宮守人宮司がFBで紹介していた。

一度は拝見しておこうと思って立ち寄ったのだ。

花切祭を務めたのは当座(当家座)であるが、たまたま神社に来られた男性の話題提供から知るに、京終の春日講(しんにちこう)の講中は、同神社周辺に住む人らのようだった。

もしかとすれば、であるが、何人かは春日講の籍もあれば当座(当家座)でもある可能性が高いと思われた。

聞き取りはしたかったが、仮停車した車のことが気がかりでやむなく断念したことを覚えている。

大宮守人宮司がFBで紹介していた史料に「史料保存館」の名があった。

館の所在地はならまち界隈の脇戸町にある。

南に少し歩けば鳴川町。

サンハライ念仏踊りでお世話になった徳融寺がある筋道にある。

実は史料保存館の館長は存じている方だ。

なにかと気にかけてもらって私が調査している民俗に関する史料を提供してくださる。

展示に関するお話しが聴けたらと思って施設を探して歩いた。

扉は自動扉。

手で触れたら開く。

一歩、足を踏み込んだら受付があった。

お声をかけて入館料はおいくらですか、と尋ねたら無料の返答。

そうだったのだ。

かくかくしかじかで企画展の展示物を拝見したいとお願いしたら、学芸員が下りて来られた。

まさかと思った館長さんは写真家のご主人ともよく存じているKさんだった。

企画展示物は壁に掲げた春日曼荼羅や鹿曼荼羅などであるが、いずれも撮影された複製もの。

本物は寄託された奈良国立博物館にある。

展示コーナーに置かれた列品は古文書。

ガラス越しに拝見する。

K館長は今回の企画展に際して京終の春日講行事を取材していたという。

企画展に春日講を推薦したのは市教育委員会の岩坂七雄さん。

民俗や行事ごとなどに詳しい。

京終の春日講はトウヤ(当屋)の家に講中が集まって垣を作る。

曼荼羅図を掲げて作った垣を設える。

トウヤ祭は氷室神社の大宮守人宮司によるお祓いがある。

それが終われば膳を囲んでしばらくは直会の場。

そして、春日の若宮さんまで出かけてお参りをする。

それから春日大社の神楽殿に行く。

春日大社の巫女さんが舞う神楽を京終の春日講が奉納するのである。

この様子は同行取材していた写真家Kさんからも後日に聞いた。

トウヤ(当屋)の家で上・下の垣作りをして床の間に設営する。

神饌を供えて宮司がお祓いをする。

ささやかに直会を済ませてお参りに出る。

参り始めは鹿煎餅を差し出して鹿に食べてもらう。

神さんの遣いということのようだ。

次は参道。

両脇に並ぶたくさんの灯籠がある。

そのなかに京終が寄進した灯籠がある。

そこを参拝したら春日若宮社へ参る。

次に春日大社へ向かう。

ここでは神楽殿にて春日巫女による神楽奉納する。

参拝を終えたら直会。

場は老舗料亭の菊水楼のようだ。

直会以外の一部始終をとらえたKさんが云うには御供の祭り方に違和感をもったらしい。

この年は垣の内部に御供があったというのだ。

一方、史料保存館が作成した資料写真では御供は垣の外側にある。

奈良女子大准教授の武藤先生がとらえた平成20年1月21日の映像では御供は垣の内部にある。

もしかとすれば資料保存のときに撮った写真は体裁を考慮して垣の前に並べたのかもしれない。

現在もなお営みをされている春日講は京終以外に2地域がある。

一つは奈良市東城戸会所で行われる東城戸の春日講である。

大国主命神社を併設する会所床の間に奈良国立博物館に寄託されている春日宮曼荼羅の掛軸を掲げてお参り。

そして氏神さんの御霊神社に参る。

要件は別だったと思うが、ネットで若干ふれていたブログで拝見した。

それはいつしかどこにあったのか判らなくなった。

再び、東城戸の春日講を知ったのは平成25年3月17日のことだ。

奈良市今市に私は居た。

その日にされると知った今市のコネンブツだ。

場所が判らず、池周りを歩いていた。

ある家の前で二人の老婦人が居られた。

場所を探していたチバミ墓地を尋ねれば、今からそこへ行くという。

もう一人の婦人はその家の知人。

たまたま出合ったその人とも伝統的な行事を調査していると話せば、その婦人が云った。

婦人の住まいは今市ではなく、奈良市東城戸だった。

今でも会所に寄り合って春日講を営んでいるというのだ。

お伺いは可能かどうか聞いて見たら、是非と云われた。

S婦人が住まいするのは会所付近の辻の家らしい。

探してみたいが、未だ訪問できずにいる。

現に今でも春日講の行事をしているのは奈良市東九条町の春日元講だ。

東九条町字宮ノ森に鎮座する八幡神社がある。

前年の平成27年10月21日22日に訪れたことがある。

数年前より斎行されている作宮司を訪ねてでかけたことがある神社だ。

東九条町の八幡神社は、かつて辰市村に鎮座。

奈良県庁文書の『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』によれば八幡神社に宮座があると書かれていた。

左座・右座からなる十二人衆。

年長の者より一﨟(ろう)、二﨟と呼んでいたとある。

座であれば、春日元講も兼ねているかもしれない。

K館長の話しによれば東九条町の春日講は三つあるらしいが、講元までたどり着けずに取材は断念したそうだ。

史料保存館の資料によれば東九条町の春日元講が所有する天正六年(1578)作・春日鹿曼荼羅は奈良国立博物館に預かってもらい大切に保管しているという。

が、である。

講中11軒の営みの日だけは戻してもらって拝んでいるそうだ。

一日限りの礼拝に貴重な鹿曼荼羅に手を合わせるらしい。

館長が云うには、ならまち界隈以外にも県内各地に春日講があるらしいが、担当することもなく調査もされていないようだ。

遠く離れた大和高田市や広陵町にもあったともいう春日講の分布は広い。

私は奈良県内で行われている数々の伝統行事を取材している。

取材対象ではなかった春日講のことをときおり耳にすることが増えていた。

一つは奈良市法蓮町の法蓮会所で行われる。

4月半ばの講中が集まりやすい日を選んで営まれる。

会所の床の間に春日曼荼羅を掲げて講中はタケノコ料理をよばれる。

昭和40年代までは4組もあった春日講は1組に合体して行事をしている。

春日祭は柳生から石田武士宮司に来てもらって神事をしていると法蓮町の人たちが話していた。

ちなみに法蓮町の春日講は平成24年12月現在で68軒(以前は77軒)。

東脇地区、東西の南脇地区、西地区の4講中が5月ころに集まるとか・・・。

二つ目に奈良市佐紀中町に鎮座する釣殿神社の年中行事に新日講の名がある行事がある。

新日講(しんにちこう)は春日講(しゅんにちこう)が訛ったよう行事名だ。

新日講の講中は上・下の六人衆および引退者である。

2月11日に行われる場は神社でなく料理屋である。

掛軸の有無は聞いていないし、料理屋での会食が中心になる取材は講中に迷惑になるであろうと判断して断念した。

三つめに春日神社が鎮座する川西町上吐田がある。

年中行事を執行しているのは宮座の春日講の宮十人衆と五人衆だ。

2月15日に地区で行われる大とんども担っているが、ならまち界隈に見られるような春日講ではないようだ。

四つ目は同じく宮座の春日講に斑鳩町北庄がある。

鎮座する春日神社の年中行事を務めるのは元宮座十人衆

春日講とも呼んでいる座であるが、ここもまたならまち界隈に見られるような春日講ではない。

五つ目は天理市和爾町北垣内の和爾坐赤坂比古神社のオンダ行事をされていた座中・大老の話しだ。

詳しくは聞いていないが、2月21日辺りの土曜か日曜日に親日講があると話していた。

これもまた春日講(しゅんにちこう)が訛った親日講(しんにちこう)の呼び名である。

六つ目は珠光忌で名高い奈良市菖蒲池町にある称名寺だ。

平成24年5月15日に訪れたときのことだ。



本堂東側に建つ地蔵堂に目がいった。

鰐口を鳴らす垂らした鉦の緒の布に「北市春日講」の文字が書いてあった。

地蔵堂は北市の地蔵尊だった。

真新しいお花を立てていたから今でも北市の人たちが参っているのだろう。

称名寺にはかつて鎮守社の春日社があったようだ。

その証しかどうか判らないが、春日曼荼羅(鹿曼荼羅)が同寺に収められている。

なお、『奈良町コミュニテイ』資料によれば、行事の詳細は判らないが、北市町に北市戎神社が鎮座し、春日講日待ちがあると書かれてあった。

称名寺に建つ地蔵尊との関連性があるのかも知れない。

館長は春日講についてさまざまなことを教えてくださる。

史料保存会に寄託された元興寺町旧蔵の明治三年から記載された『爆竹之日記』の裏表紙に春日講の世話役となる年預(ねんよ)の名前があるそうだ。

史料によれば江戸時代の春日講は新年初参会を皮切りに、新しく町入りする人を在住民に紹介する。

子供の誕生、結婚、代替わり、還暦などの緒祝儀を披露することまでしていた。

春日講の営みだけでなく町の自治や町内運営の集金・費用入用の会計までこなす。

任期は何年か判らないが、今では考えられないくらいの大役である。

企画展には春日大社の参道に建つ灯籠まで紹介していた。

実物は参道に出かけて探さなければならないが、写真で紹介していた。

一つは万治二年(1659)に寄進、東九条村春日社講中が奉納した灯籠だ。

もう一つは元和三年(1617)に寄進、京終町春日講中各々が奉納した灯籠である。

参道に建之された灯籠にはこの二基の他、奈良町界隈の各町や大坂、江戸の名もあるらしい。

同館資料の『井上町 町中年代記の世界―町記録にみる信仰―』によれば、井上町の春日講が寄進した灯籠は三基もあるそうだ。

『町中年代記』は延宝二年(1678)より<※ 享保十五年(1730)~宝暦六年(1756)まで欠損>現代まで年寄(ねんよ)と呼ばれる代々の年役が連綿と書き記してきた貴重な史料である。

前述した元興寺町の年預(ねんよ)でも紹介した大役。

井上町の年寄(ねんよ)も同じように、「十分一銀」と呼ぶ新たに家を買って町入りをする際に町へ納めた祝儀や代替わりの「面替り」、元服披露の「刀酒」、婚姻祝儀の「水酒」・「よめ入り」、誕生子披露祝儀の「子酒」、還暦祝儀の「官途」などに記載は興味深い。

最も古いのは寛文四年(1664)。

この灯籠は享保十一年(1726)に再興されたとあり、「御師(おんし)櫟本庄左衛門~燈明料1年分新銀二両宛渡した」とあるそうだ。

一年分の燈明料は春日大社に預けたことは判るが、どなたが灯籠に火を灯していたのか、火点けは毎日だったのか・・・。

寄進した灯籠はもう二基ある。

一つは正徳五年(1716)に寄進された灯籠には24名の講中名が刻まれているそうだ。

二つ目に宝暦十四年(1764)三月に寄進した灯籠である。

『井上町 町中年代記の世界―町記録にみる信仰―』に「春日太々神楽(だいだいかぐら)の奉納」が書かれている。

この件についても館長が解説してくださった。

奈良町界隈の町では町ごとの春日講の他に奈良町全体で組まれた大規模な組織体となる春日社神楽講があった。

内侍原町の医師である瀧野梅雲が願主となって同町が講元として安永六年(1777)に始めたそうだ。

春日大社の神前に奉納する神楽は神楽、太神楽(だいかぐら)、太々神楽(だいだいかぐら)の三つだ。

梅本組は太々神楽を奉納していたようだ。

奉納日は決まった日で6月16日。

当番町は毎年交替して務めた。

神楽奉納の後は鳥居横の車舎で直会を催していた。

当番町の役目は奈良町中から大和郡山方面まで出かけて寄進を集めることから始まって、社家の富田家と拝殿五郎左衛門に神楽料を納める。

一方、当番町では祭場を設ける。

臨時というか一時的な鳥居を建てて飾り付けをする。

14日から16日に掲げる提灯を隣町にお願いもする。

文政元年(1818)の記録によれば、祭場周りに柴(しば)で玉垣を巡らし、参拝者に楽しんでもらうため、3ケ所に立山人形を、さらには作りもの<※橿原市八木の愛宕まつりに立てる御供と同じように感じる>を5ケ所に揃えた。

たぶんに手作りと思われる当番町内が製作した立山人形の前には立花を飾って華やかさを演出した。

平成28年1月29日から2月2日までの短期間に平城京跡で行われた奈良県主催冬季誘客イベントの大立山まつりが開催された。

集客は5万人にもなったと県庁発表をニュースが伝えていた。

大立山まつりのメインイベントは造り物の四天王の人形像。

まるで青森ねぷたのような仕組みであったようだ。

製作費は税の2億円。

その造り物をとらえるカメラマンも多かったようだ。

県初の大イベントは厄祓いが主旨とかをどなたかが云ったというようだが真相は判らない。

ところがだ、会場の一角、といっても会場門外の片隅にあった本物の「立山」があった。

広陵町三吉・大垣内が製作した立山が展示していたそうだ。

それを紹介していたのは名高いカメラマンの今駒清則氏だった。

三つの展示は今回の大イベントに合わせて作ったそうだ。

三つの内訳は「天平の貴族」、「あまのいわと」に広陵町らしい町の伝説を表現した「かぐやひめ」だった。

大立山まつりは江戸時代から続く地域の伝統行事を足蹴りするように展示をしつつ、メインの四天王の人形像が映える会場作りをした。

「立山」の主旨も意味合いもまったく違うことが江戸時代にあったのに、である。

立山を今尚継承してきた地域は御所市東名柄、広陵町三吉、橿原市八木町、の3ケ所である。

田原本町以外はニュースなどで取り上げられることもある。

私は未だ拝見していないが、津島神社の氏子の話しによれば、その昔に「立山」と呼ばれる世相をおもしろおかしく表現した人形の造りものがあった。

本町、材木町、市町などの町内ごとに立山の世話人が、空き家を利用して子どもらと一緒に作って飾っていた。

今でもしている可能性があると思っていたが・・・どうやら平成20年ころに途絶えたようなことをネットで公開している記事を拝見して愕然としたことがある。

かつて立山があった地域に住んでいた人たちの聞き取り調査である程度が判ってきた。

仕事柄、送迎している患者さんたちの声によれば、大和郡山市の横田町、天理市の櫟本町・南六条町・二階堂などである。

櫟本町では氏神の和爾下神社の祇園祭のときだ。

川沿いに並んだ店の数か所に立てた。

南六条町では鎮守社の杵築神社の秋のマツリだ。

二階堂は街道筋の民家の広い場に設えていた。

横田町では横田町に鎮座する治道の和爾下神社前の電器屋や南の辻など5か所に立てていた。

いずれも80歳以上の老婦人が子供のころを思いだされた記憶にある。

横田町の村人たちが記憶する様相はよく判る。

祇園さんの祭りとも称さる夏祭りだ。

青年団があった50年以上も前、村の辻々に提灯を掲げて立山を行っていたという。

5軒ほどの納屋を開放して、ムギワラで人形を作り飾ってその年の世相を表現した。

舞台を組んで芝居もしていた。

それを見に行くのが楽しみだったと子どものころの様相を懐かしそうに話されたことを思いだす手作りの立山はだいたいが夏祭りだったようである。

立山は盆地平坦だけでなく山間地にもあった。

『やまぞえ双書』によれば大字箕輪にあったと伝わる。

9月12日に行われていた村行事の毘沙門会式に若衆(若中)が工夫を凝らして作った立山を披露していたようだ。

同村には女子部があり、箕輪組、八丁組、堂前組のそれぞれが競い合っていた。

戦時中に途絶えた立山(山づくり)は昭和22年に一時的に復活。

再び長らく途絶えて平成3年に復活するも続かずにこの年を最後に途絶えた。

なお、吉野町にも立山がありそうだ。

実見はしていないので何とも言えないが、日程は7月末の土曜日、吉野町上市の花火大会の日である。

平成26年に行われた資料がインターネットにあった。

後日に消えてしまった興味ある情報だった。

場所は上市の六軒町の金川工業所辺りになるようだ。

その場であるのかどうか判らないが、その日は祭文踊りもあるようやに、書いていた。

この件については実態調査をする考えにある。

あれば県内事例に数えられる貴重な立山行事である。

平成28年7月末の土曜日

探した六軒町の立山は実際にされていたのである。

ここでは詳しく触れまいが、たしかにあったことを先に書いておく。

『井上町 町中年代記の世界』の編集後記に「年代記を書き継いだ人々」と題して次のことがかかれている。

「宝暦七年(1757)、町役になった美濃屋喜右衛門は年代記の引継ぎに、一、年代記にいたみのあるところを修理して箱を新調、二、年代記、券文借家請状などは箱に納めて年役に廻す、三、珍しい出来事は何によらず年代記に記録、四、火事のときは第一に年代記に気を配る、五、年代記の書き込みが延引したり、年号や日付が前後する場合であっても、また聞き伝えなども含めて記録、以上のことを踏まえて書きおくことは後のために役立つときもあるだろう、と書き残している」の記述があった。

まことに示唆される未来に亘って永く続けて書かれていくことを願った文だ。

私の民俗探訪記は村人の代理人の立場になって、後世に伝え、役立てられるものを、と思って取材・執筆してきた。文だけではなく、写真も、である。

写真も後世に伝えたい記録である。

還暦を迎えて5年。

身体的、年齢的にも動ける範囲は限られるようになったが、今後も一歩、一歩、取材地へ足を運びたいと思っている。

(H28. 2. 4 SB932SH撮影)

高御門町・町屋の鬼避け

2016年09月15日 08時28分44秒 | 民俗あれこれ
史料保存会が建つ場を探してならまち界隈の筋を歩いていた。

ここは鳴川町から脇戸町へ行く筋道だ。

ふと目線に入ったヒイラギイワシ。

前日は節分でこの日は立春。

春を呼び起こす目覚めの境界日でもある。

この家は軒下というか、木塀に括った紐で取り付けていた。

トゲトゲ葉のヒイラギは家に入ろうとする鬼の目を突く。

イワシは匂いに敏感な(そうかどうか判らないが)鬼を撃退する。

平安時代に宮中で始まったヒイラギイワシ(あながち間違いではないが、他の呼称にヤイカガシがある)はやがて町屋や村々に広がったまじないの風習。

傍には「菊水鉾」の文字がある厄難除けのチマキ(粽)もある。

「菊水鉾」は京都の伝統行事である祇園祭の山鉾の一つだ。

このお家には施餓鬼のお札も見られた。

史料保存館の館長によれば、この筋にはけっこうな数のヒイラギイワシがあったが、今は少ないと話していた。

考えるに家を新築建て直しする場合にそのような風習を止めたのかも知れない。

県内各地の取材先でそういう事例は多々あると聞いている。

(H28. 2. 4 SB932SH撮影)