マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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岩船白山神社秋祭りの奉納おかげ踊り

2017年06月13日 08時54分05秒 | もっと遠くへ(京都編)
山添村室津の取材を終えて京都府に向かう。

京都府と云っても京都市内ではない。

奈良県寄りの京都府木津川市の加茂町岩船(いわふね)である。

岩船に行くには奈良市内からが早い。

奈良県庁東側の県道を北上する。

しばらく走って般若寺信号交差点を右折れして柳生に向かう街道である。

その信号を右折れせずに真っすぐ走れば京都に向かう道になる。

右折れした県道は369号線。

道なりに走れば奈良市中ノ川町に出る。

そうすれば三叉路にでる。

中ノ川信号を右に行けば柳生に出るが、目的地は加茂町岩船。

信号は左折れの33号線を走る。

そして奈良市の東鳴川町にでる。

さらに進めば信号無の三叉路に出る。

右折れすれば奈良市の北村町を経て須川町、狭川町だが、目的地は左折れにある。

しばらく走ればまたもや信号無の三叉路。

岩船は左折れである。

奈良県と京都府の県境を潜りぬける。

しばらく走れば岩船寺が見えてくる。

岩船寺がある地は近辺の浄瑠璃寺とともに名高い景勝地の当尾(とうの)の里。

ここら辺りに来れば無人の露天販売が見られる。

農家さんが栽培した野菜や手造りの漬物を安価で販売している。

買っていく人も多いが、その景観を撮る人も多い。

長閑な田舎風情を感じる地はなんとも言えない温もりを感じる。

20年ほど前はまだ40歳代。

自宅から自転車を漕いでやってきたことがある。

急な坂道が続く当尾の里までの県道はだらだら坂。

休憩はなんどしたことか、である。

今回はそのコースではなく山添村からのコースである。

室津から奈良市の須川町にでれば須川ダムが眼下に迫る。

そこからはすぐ近くにあるのが岩船。

笑い仏などがあるハイキングコースにもなっている里道を走れば幕をさっと開けたように現れた岩船の地。

目的地は岩船寺ではなく岩船寺境内に建つ白山神社である。

この日は神社境内で岩船のおかげ踊りをされる。

一度は見ておきたい岩船のおかげ踊りを知ったのは平成27年8月29日

心臓を手術して退院した2週間後に拝見したく訪れた京都府立山城郷土資料館企画展の「踊る!南山城-おかげ踊り・花踊り・精霊踊り-」である。

その企画展の一つに岩船のおかげ踊りを紹介していた。

岩船のおかげ踊りを知ったのは、それ以前。

桜景や仏像を主に撮っている写真家のKさんから伺っていた。

岩船寺境内社にある白山神社境内で踊られる。

企画展では資料館のA学芸員が記録した映像も公開していたからだいたいの感じは掴んでいる。

再興された踊りにシデや幣を振る姿も映していた。



それを見たくて訪れた白山神社に三本の御幣があった。

それも境内中央に設えたマイクやアンプ付近に、である。

その場に締め太鼓もあるから打ち鳴らしておかげ踊りを唄うのであろう。

楽器は拍子木もある。



それには「おかげ踊り」に「復活記念」とある。

京都府立山城郷土資料館が昭和59年10月に発刊した『祈りとくらし』の展示図録がある。

この図録は同年の10月9日から11月25日に亘って同資料館で開催された第3回特別展の「祈りとくらし」をまとめたもので、南山城地方における農耕儀礼を中心に紹介しているが、「岩船のおかげ踊り」は載っていない。

参照する本はもう一冊ある。

昭和50年3月に発刊された京都の民俗芸能京都府教育委員会編集の『京都の民俗芸能』である。

それには「岩船のおかげ踊」が紹介されているが、復活直後の調査報告にかつてあったおかげ踊りをどこまで伝えられるのか確言できないと締めくくっていた。

長らく中断状態であった岩船のおかげ踊りは昭和42年に復活した。

以来、毎年の10月16日に白山神社に奉納する形式で継承してきたのである。



その当時の記録であろう、記念の写真が神社参籠所に掲げている。

拍子木にある「復活記念」はその年のことであるのか存知しないが、そうであればこの年で50年。

伝統を紡いできた岩船住民のご努力の賜物に感謝するのである。

これら道具の囃子に合わせて輪になった踊り子たちがシデを振りながら踊る。

そういう具合だと思う。

しばらくすれば緞帳が上がって着物姿の踊り子たちが登場する。

尤も神社だけに緞帳はなく行列のように参進する。

先頭だったのか、それとも後ろについていたのか覚えてないが、白衣に青袴姿の3人がおられた。

その衣装から村神主のように思えたが、おかげ踊りの保存会でもあった。

始めるにあたって岩船の五穀豊穣、並びに参拝者のご健康とご多幸を祈年して奉納させていただくと挨拶をされた。

奉納にあたっては参拝者も含め、一同は社殿に向かって拝礼する。

これが神さんに対する心遣いである。

尤も神職宮司による神事は朝の9時に行われていたと聞く。

よーォッの声がかかって始まったおかげ踊り。

ドン、ドン、ドンと締め太鼓を打つ音にカチ、カチ、カチ音の拍子木に合わせて二人の歌い手が踊り唄を歌う。



歌い手は右手にシデをもって上下に振る。

調子をとっているのだろう。

その囃子唄に合わせて踊り子たちも右手にシデを振る。

右上に高く掲げて次は左下に降ろしながら払うように上へ向けて振る。

よく見れば下に振り下ろすだけの所作もある。

何度かそうして前に三歩ほど。



そのときのシデは上下によいよいよいという感じで前に振る。

振り返って逆向きに向きを替えてよいよいよい。

単純なようで複雑な作法につい見惚れてしまう。



一方、3人の男性は御幣を前方に高く突きだすような所作をしている。

踊り子と同じように囃子に合わせながら所作をしていた。

御幣を高く突きあげる所作とか踊り子の踊り方、もちろん囃子唄もそうだが、奈良県内で伝承されているおかげ踊りとたいへん良く似ている。

それは奈良市田原の里で行われているが、天を突くような所作は経御幣でなくシデの幣だった。

奈良県にあるおかげ踊りは山添村菅生にも伝承されている。

おかげ踊りはお伊勢さんの信仰における「御陰参り」に因むもの。

近世からなんどかの流行りがあった。

特に幕末に起こった爆発的な大流行した踊りである。



歌謡は伊勢音頭を流用したもので、踊り子がシデをもって振るのが特徴だ。

文政十三年(1830)に発生したおかげ踊りは奈良だけでなく近畿一円まで広がったそうだ。

田原も菅生も岩船と同様におかげ踊り保存会を結成されて現在に至っているが、歌詞はそれぞれである。

なお、調査報告によれば京都府相楽郡和束町や城陽市寺田に昭和40年代以降に復活されたものがあるらしい。

ちなみにシデをシナイと呼ぶ地域もあれば単に御幣と呼ぶ地域もあるが、岩船の場合は形式から相応しい「シデ」とさせていただいた。

岩船のおかげ踊りの詞章は六番まであるが、一番から五番までを延々と繰り返し。

最後に唄うのが六番であると踊り子たちは話していた。

その歌詞を以下に記載しておく。

一番は「ァァ ヨイザァァ おかげ踊りわァよ ヨイセ コラセ ァァ誰が来てェェおォォせた ァァヨイセ コレワイセ ァァ伊勢ェのョォォ大神宮さんが ヨイシヨ コラ 来ておォせェに ァァサッサァヤァトコセノヨオオイヤナ アレワイサッサ コレワイサッサ ササナンデェモセ」。

二番は「ァァヨイサ・・おかげ踊りわァよ ヨイセ コラセ ァァ岩船のォォ里ァァで アアヨイセ コレワイセ 古いョォォ歴史を ヨイシヨ コラ 受継てァァサッサヤットコセノヨオオイヤナ アレワイサッサ コレワイサッサ ササナンデェモセ」。

三番は「ァァヨイサァァさした盃わ ヨイセ コラセ ァァ中を見てェェのまれァァヨイセ コレワイセ 中わよォ鶴亀 ヨイシヨ コラ 五葉のォォ松 サッサヤァトコセノヨオオイヤナ アレワイサッサコレワイサッサ ササナァンデェモセ」。

四番は「ァァヨイサァァ伊勢わ津でもつよ ヨイセ コラセ ァァ津わ伊勢でもつァァヨイセ コレワイセ 尾張ョォォ名古屋わ ヨイシヨ コラ 城でェェもつァァサッサヤットコセノヨオオイヤナ アレワイサッサ コレワイサッサ ナァンデェモセ」。

五番は「ァァヨイサァァお前百まで ヨイセ コラセ ァァわしや九十九までァァヨイセ コラセ 共によォォ白髪のヨイシヨ コラ はえるまでァァサッサヤットコセノヨオオイヤナ アレワイサッサ コレワイサッサ ササナァンデェモセ」。

六番の「ァァヨイサァァ誰もどなたも ヨイセ コラセ ァァお名残りィィおしやァァヨイセ コレワイセ 又のョォォ御縁で ヨイシヨ コラ さようォォならァァサッサァヤトコセノオオイヤナ アレワイサッサ コレワイサッサ ササナァンデェモセ」で締める。

この年の踊り子に上手に所作する女児も混じって踊っていた。

岩船では将来を伝承する仕組みとして小学1年から6年生を対象に練習しているようだ。



岩船の白山神社には明治元年霜月に奉納されたおかげ踊りの絵馬がある。

幕末の慶応三年(1876)の「ええじゃないか踊」まで文政時代に流行ったおかげ踊りが伝えられたと想定できる絵馬に願主の名があるようだが破損しないように金属枠で固定されたので文字は見えない。

江戸時代の中期以降、伊勢神宮への集団参宮が周期的に発生した。

特に宝永二年(1705)、明和八年(1771)、文政十三年(1830)のものは規模も大きく、江戸時代の「三大おかげ参り」と云われている。

おかげ踊りは、この文政十三年に付随して大流行したそうだ。

7月下旬に大阪の河内から始まったおかげ踊りはすぐに奈良大和に伝わった。

翌、天保二年(1831)までに、三重の伊賀、京都南部の山城、大阪の摂津、兵庫の明石にまで広まったというから、近畿一円は相当な賑やかさであったろう。

岩船のおかげ踊りの奉納はおよそ10分。

見応えのある踊りに拍手を送りたい。

舞台を片づけて直会に移る保存会の人たち。



参籠所でよばれる食事はかやくごはんとも呼ぶイロゴハンのおにぎり。

ナワブシで炊いたという。



手造り感が良いおにぎりやつまみのさつま揚げ天やコウコ、白菜などの漬物も。

下げていたお神酒に肴をいただく場に移った。

(H28.10.16 EOS40D撮影)

無残な大柳生のハナガイ

2017年06月12日 09時43分27秒 | 奈良市(東部)へ
平成28年10月16日現在、奈良県でもなく奈良市にも文化財指定されていない大柳生の祭り。

そもそも長老や太鼓踊りを復活させたいと云っていた自治会長はどう思っているのか・・・。

こんな怒りをもってしまった大柳生の祭りである。

この日に通りがかった奈良市大柳生は祭りの最高潮。

時間的に間に合ったので立ち寄った。

祭りの場は夜支布山口神社。

今や神事が始まろうとしていた場には長老らが並んでいた。

右広庭には大勢の人たちが集まっていた。

お酒も入っているのだろう。

怒号とまではいかないが、とても賑やかな様相である。

それはともかく社殿下の拝殿である。

神輿の前に並べていた神饌御供がある。

お参りをさせていただいてはっと気がついた。

目に入ったのは豪華な盛りである。

二段の重ね餅やとても大きな生鯛にも度肝を抜かれるが、稔りの盛りである。

柿の盛りに蜜柑やバナナの盛り。

とかく目立つ色合いの盛りではなく収穫したばかりと思える野菜などの盛りである。

左奥には枝豆の盛り。

その次は土生姜の盛り。

クリにシイタケもある。



その中央辺りにあった盛りはたぶんにもぎたて柘榴である。

奈良県内の神饌御供は数々あれども柘榴はとんと見ない。

大柳生に柘榴があったことを初めて知る日であった。

神事を終えたら仮宮に向かう行列がある。



その際に配られる花笠は青空に広げるように置いていた。

その下辺りに落ちていた紫色のヒラヒラがある。

これは氏神さんに神事芸能を奉納する8人のガクウチが装着するハナガイに付いている御幣である。



御幣が落ちていることはどういうこと。

神事芸能はこれより始まる神事中に奉納される。

落ちているということはもぎ取ったということか。

それとも・・・。これは数分後にわかった。

神事に並んだガクウチの何人かがよれよれなのだ。

酒に酔っているのがわかる。

着用している装束の素襖の着こなしがとんでもない状態だった。

一目でわかる上下が逆。

いったいどういうことなのか。

しかもだ。

噂に聞いていたハナガイの装着である。

「旧木津川の地名を歩く会」がアップしている平成24年の実施模様がある。

その年、すでにハナガイはハナガイの意味を失くしていたことを知って愕然とする。

それが異様とも感じないのが実に残念なことだ。

民俗行事を知らない人たちは始めて見るそれが本当だと思ってしまうことも残念なのである。

私が大柳生の祭りを取材した年は平成18年10月15日である。

青年たち入り衆が当屋家に素晴らしい「田の草取り」と呼ぶ田楽芸を所作していた。

拝見したハナガイはまさに牛の鼻につけるハナガイと同じようにしていたのである。

この姿に感動したこともあって平成21年9月28日に発刊した初著書の『奈良大和路の年中行事』に掲載させていただいた。

一年間の大役。

「廻り明神」の祭りである大柳生の秋祭りで紹介した。

祭りはハナガイを装着するガクニンの当屋入り衆、奉納神事スモウ、当屋家で行われる祝いのセンバンに練り込む太鼓台に祭りが明けたのちに行われる当屋渡しの儀式などだ。

発刊した『奈良大和路の年中行事』の160頁から163頁を見ていただきたい。

ハナガイの装着がまったく違うことに気づいて欲しい。

この年もそうであったが、なんとなんとである。

平成29年1月のことである。

この「大柳生の宮座行事」が奈良県の無形民俗文化財に指定されたのである。

指定文化財概要文書(PDF形式)がネッ上トに公開されているので参照されたい。

ハナガイは頭にするものではない。

誤ったままのハナガイを挿入写真に掲載していること事態に憤りを感じる。

醜い状態であるにも関わらず指定したこと事態が問題である。

答申担当者もさることながら文化財審議官はどこをどう見ていたのか、はなはだ疑問ばかりである。

祭りは余興イベント的になってしまった。

ハナガイはガクウチ全員がキャップ被り。

ガクニンも人足も服装があまりにも乱れすぎ。

そう話していた地元民の女性。

「長老たちは注意することもなく、神事を神事とも思わないようにしてしまった」と嘆いていた独白が胸に残る。

(H28.10.16 EOS40D撮影)

室津戸隠神社祭りのオドリコミ

2017年06月11日 08時35分39秒 | 山添村へ
村の祭りに神歌(ウタヨミ)を奉納した山添村室津の渡り衆は当屋とともに戸隠神社を離れて当屋家に戻ってきた。

例年であれば行きは歩きの渡りで戻りは車に乗せてもらって戻ってくる。

近隣の松尾や的野もそうである。

かつては往復とも歩きの渡りであったが、渡り衆の高齢化に伴って近年は車で送迎する場合が多くなっている。

距離もそうだが、当屋家が高地にある場合は急な坂道に苦労される。

そういう負担をなくすのも無理はないと思う。

この年の室津の当屋家は距離が短いこともあって宵宮、祭りのお渡りは往復とも歩きにされたことを付記しておく。

戻りのお渡りはリラックスモード。

奉納をし終えた渡り衆に囃子はみられない。

当屋家の門屋に着いた一行は何やら手にして入ってきた。

手にもっているのは笹である。



当屋を先頭に渡り衆も続いて参進する。

四人の渡り衆が楽器も持っている。

鳴らすのは玄関前に並んだときだ。



「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」を3回囃す。

そして、座敷に上がるのは縁からである。



これを「オドリコミ」と呼んでいる。

ブルーシートを敷き詰めていた座敷。

中央に置いているのは桝に盛った小豆入りの洗米だ。

座敷に上がった一行は笹を振りながら時計回りに廻る。



廻る際に謡う唄がある。

「あーきのくーにの いつくしまのかわぎしの べんざいてんのいざや たからをおがもうよ」と云いながら周回する。

笹の降り方は上下である。

そして、「なーんのたーね まーきましょ ふーくのたーね まーきましょう」と囃して小豆洗米を持って座敷にパラパラと落とす。



これを3回繰り返す。

3回目は「やー」と声を揃えて福の種を撒いた。

かつては10月1日に門屋に立てた注連縄の笹を手で折っていたらしい。

後日というか、半年後の5月に訪れて話を聞いた当屋家当主。

福の種撒きはおとなしかったやろという。

パラパラと落とすのではなく天井とまではいかなくとも元気よく撒くのだが・・と、当主が云っていた。

私もそう思っていたが、そうであっても写真は当屋家当主の記録はシャッターを押して撮らねばならない。

ちなみに渡り衆らがもつ扇子に詞章があるらしい。

平成26年3月に奈良県教育委員会の編集・発刊した『奈良県の民俗芸能―奈良県民俗芸能緊急調査報告書』によれば調査年の詞章は「安芸の国の 厳島の 弁財天の いざや 宝を 拝もうよ」であった。ところが今年は厳島のに続いて「川岸の」の詞章は失念せずにきっちり唱えていた。

また、「何の種 まきましょう 福の種 まきましょう」は「種播唱」と題していたそうだ。

参考までに大正四年調の『添上郡東山村役場 神社調査書』によれば「あきの国の厳島の弁才天の川岸の いざやたからを おかむやう」である。

「帰レバ先キニ座敷ノ中央ニ洗米ト小豆各壱升宛ヲ膳ニ盛リ準備シ置ケバ、各々其レヲ手ニツカミ座敷中廻リツヽ「福の種を蒔きませう」ト座敷中ニ捲(※撒)キツケルナリ。之ニテ儀式全ク了ルモノトス」ということで、当屋家に福の種を撒いた一行はすべての儀式を終えて慰労会が始まる。

参考までに現在に伝わる神歌の詞章も以下に記しておく。

壱番は「平(※西」洋の春の明日には 門に小松を立て並べ みおの治るしるしには 民のかまどに立つ煙り 松から松のようごうの松 住吉の松屋入道 ハァー」。

弐番は「ようごうのおうごうの 松から松のようごうのおうごうの松 暁おきて空見れば 黄金まじりの雨降りて その雨ようて空晴れて人皆 長者になりにけり 住吉の松屋入道 ハァー」。

参番は「おうまいなるおうまいなる 亀は亀 鶴こそふれて舞い休み 鶴の子の やしやまごの そだとうまでは ところはさかえたもうべき 久しかるべき ためしには 神ぞうべけん かねてぞうれ 住吉の松屋入道 ハァー」。

こうして宵宮、祭りの二日間に亘って奉納したウタヨミ。



当屋家では祝いの福を撒いて繁盛を祝った。

渡り衆への慰労は当屋家のもてなし。

お疲れさまでしたと乾杯する。



二日間とも渡り衆に寄りそうように付いていた子どもたちは普段着に戻ったようだ。

(H28.10.16 EOS40D撮影)

室津戸隠神社祭りの神歌

2017年06月10日 08時36分59秒 | 山添村へ
古くは葛大明神の名で呼ばれていた山添村室津の戸隠神社の境内社は九社ある。

本社殿、戸隠神社がある二ノ鳥居内にもう一社ある。

それは春日神社である。

本社殿に上り下りする階段左右にそれぞれ4社。

右端から金毘羅神社、杵築神社、五穀神社、春日神社があり、階段を挟んで宗像神社、山神社、水神社、二柱神社の並びである。

拝殿は舞殿のような形式であるが拝殿である。

室津の祭りの神歌(ウタヨミ)を奉納する場は本社殿の前であるから階段下の建物が拝殿であることがよくわかる。

ただ、雨天の場合は本社殿ではなく拝殿で行われる。

そういうこともあって舞殿でもあるわけだ。

山添村室津と奈良市北野山町の戸隠神社は、戦国期の一六世紀初めに山添村桐山の戸隠神社から分祀された伝えがある。

大正四年調の『東山村各神社由緒調査』によれば、「往古本社ハ桐山村に鎮座シ、室津・北野山ノ三ヶ村共社タリシニ、永正五年間(1508~)に現在ノ社地に分離セシ事、口碑ニ伝ハル」とある。

元々は山添村桐山に鎮座する戸隠神社は室津と北野山町も関係する三村共同体の神社であった。

村別れするまでは桐山を中心に桐山はもちろん、室津、北野山の三カ大字が一年交替に桐山の戸隠神社に奉納する「神歌」であった。

その三村が交替奉納する形態は隣村の峰寺、松尾、的野も同じである。

峰寺に鎮座する六所神社の祭りに峰寺はもちろん、松尾的野の三カ大字が一年交替に、今もなお峰寺の六所神社に「ジンパイ(神拝)或は豊田楽」奉納しているのだ。

桐山から別れた室津、北野山の「神歌」の謡いの詞章がよく似ている。

詞章は長い年月を経て変化してきたと考えられる。

所作もそうだが、詞章に多少の違いがみえる。

それぞれが独自に発展した可能性もあるだろう。

平成26年3月、奈良県教育委員会が編集・発刊した『奈良県の民俗芸能―奈良県民俗芸能緊急調査報告書』にある青盛透氏の「奈良県の翁舞・田楽・相撲―東山中の秋祭りに伝承される中世的芸能の緒相―」、藤田隆則氏の「民俗芸能保存の仕組み―奈良県の民俗芸能から―」の各論が参考になる。

室津は19戸の集落。

南出、北出、下出の三垣内からなる。

村にはオトナと呼ばれる年長者が居る。昔は四人だったというオトナは氏子総代役目を終えて引退する。

引退した者の中から76歳までの上の者がオトナになる。

現在のオトナは5人。

「今日は滞りなく云々・・」と挨拶されるのがオトナ。

昔は一老が神主を務めていた。

そして、3人の氏子総代が宮さん関係の奉仕活動をする。

大正四年調の『東山村各神社由緒調査』によれば、「本村ニテハ一老ヨリ四老迄アリテ是レヲ俗ニ「オトナ」ト名ケ、各四老ハ壱年交代ヲ以テ三大祭、毎月々並祭ノ神饌物及御供物ヲ献納スル慣例ニシテ、神職ノ接待、渡式ニ列スル者ノ斡旋指揮ヲナス・・・中略・・・神社事務ニ付キテハ余リ四老ハ関渉セズ」である。

早朝に当屋家に集まった渡り衆は大御幣など祭り道具を作っている間、神社ではオトナや神社総代が忙しく動いていた。



オトナが作る御供にモッソがある。

蒸しご飯は五つ。

三升の餅米を二度も蒸したご飯を提供したのは村人の御供当番のモッソ当番。

一方、一年に5回も御供する白餅を提供する餅当番もいる。

いずれも一回辺りが三升になるという御供当番の役目。

前夜の宵宮に白餅を提供していたのは餅当番であった。

なだらかな山を想定できる円錐形に調えるモッソ作りに藁の紐でモッソ周りを締めてできあがる。

結び藁は七段、五段(2個)、三段(2個)とそれぞれ。

これを七・五・三と呼んでいた。

このモッソの形は桐山の祭りとほとんど同型である。



拝殿に並べたモッソ御供は左から7本、5本、3本、3本、5本。

違いがわかりにくいが、藁の先をピンと伸ばしたところに特徴がある。

モッソ状況を確認して当屋家に向かう。

それほど遠くではないが、お家に向かう道は急坂だ。

心臓リハビリの運動と思って力を込めて登った。

当屋家では神歌(ウタヨミ)の稽古を終えて祭り道具を作っていた。

当屋持ちの大御幣と渡り衆の一人が持つ中幣はできあがっていた。

テーブルを囲んで幣切り作業をしていた渡り衆。



緑色、黄色、赤色、白色、紫色の幣は5枚重ね。

すべて同じサイズに切る。

錐で穴を開けて通した紅白の水引で結ぶ。

これを渡り衆に当屋も被る。



形を調えてできあがり。

後ろから拝見するとこのように揺らいでいることがわかる。



この形式は峰寺の六所神社に参詣する峰寺、松尾、的野と同じように侍烏帽子(つば黒烏帽子)に付けるが、幣は赤紙一枚にそれを取り外せるようにピン止めしていた。

こうした作業を終えて祭り道具が揃ったら出発だ。



お渡りは始めに当屋家の玄関前に並んで楽奏する。

音色は「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。

これを3度繰り返す。

宵宮のときとの違いは御幣である。

当屋主人の息子さんが持つ御幣は大御幣。

渡り衆の一人は大御幣よりやや小型の中幣。

その次に並ぶのは擦り鉦、締太鼓、ササラ(※ビンザサラ)に横笛である。

御幣持ちは手前にやや下げて傾けるような角度で支えながら先頭を行く。

御幣の持ち方は捧持(ほうじ)。

高く奉げて持つことをそういう。

一同は下駄履き。



カランコロンとお渡りの音がする。

実はここでは映っていないが、実際は当屋主人の子供さんがついていた。

宵宮もそうした子供さんは正装である。

当屋家から出発して道中それぞれの箇所で「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」を3回打ち鳴らして囃す。

幾たびかの間を開けて楽奏する。



稲刈りを終えていた田園景観に祭りの音色が広がった。

当屋家は宵宮のときも映っていたが、辺りは真っ暗。

窓明かりだけが輝いていたが、この日は快晴。



美しい室津の山間の田園風景を写し込んで撮っていた。

石垣の上に鎮座する神社境内には村の人たちが待っている。



戸隠神社の鳥居下の階段前に着けば整列して「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。



階段を登って朱の鳥居も潜る。

参進はあっという間に着く拝殿前。



小社が並ぶ位置に並んでここでも3回打ち鳴らす「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。

この日の祭り御供はモッソと白餅である。

拝殿にもモッソ御供がある。



本社の神饌御供に献ずるモッソにコイモが三つ。

サイラ(開き)の生干しカマスが一尾。

一膳の箸を添えている。

かつてはカエデの木で作っていた箸であるが、今は市販品に替わったようだ。

ちなみに『添上郡東山村役場 神社調査書』には「十月十五日ハ毎年例祭ニテ當日ハ午前中ヨリ当屋ニ集リ御幣二本ヲ造リ午前十一時ヨリ神社ニ渡式スルモノトス。其儀式ハ宵宮祭りト同様ナリ。サレド当屋主人ト楽人最年長者ハ御幣ヲ捧持シテ渡ルモノナリ。式了ヘ皈(※帰)路左ノ歌ヲ繰返シ謡フ」と書かれていた。

下駄から草履に履き替えた渡り衆と当屋は本社に向かうために石段を上がる。

下からでは一切が見えないが、本社に捧持した大御幣と中幣は左右に振って高く突きあげたようだ。

この作法は神さんに御幣を奉げる奉幣振りの作法であろう。

宵宮と同様に神饌御供。

村神主によって献酒されたようだ。

それから始まる渡り衆による神歌奉納。

宵宮と同様に壱番、“せ(※へ)いやうの はるのあしたに(※わ)” (ハー) “かと(※ど)に小松をたてならべ 治る御代のしるしには たみのかまとにたつけむり 松からまつのようごーのまつ” <住吉のまつや入道>を謡う。

弐番は“ようごーのをうごーの松から まつのようごーのをうごーのまつ”  (ハー) “あかつきをきて そらみれば こかねませ(※じ)りの あめふりて そのあめやうて 空はれて 人みな長者になりにけり”  <住吉のまつや入道>だ。



参番は“をうまいなるをうまいなる かめはかめ” (ハー) “つるこそふりて まいやすみ つるのこのやしやまごの そた(※だ)たうまでは 所はさかへたまふべき 君か代が” (ハー) “ひさしかるべき ためしには 神ぞうゑ(※え)けん かねてぞうれし”  <住吉のまつや入道>。

この参番の所作だけが神前より右に廻りつつ四方に礼拝される。



神前に神歌を奉納し終えた一行は下って横一列に並び一礼して終える。

本殿にある当屋の御幣に向けてだろうか、拝礼して下がる。

そして、宵宮同様に公民館に移動する。



公民館の前に並んで囃す「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。

この作法を済ませてから公民館に上がる。

上がるのは玄関からではなく縁からである。

後に行われる当屋家に上がるときも同じく縁からである。

こうした在り方は近隣の桐山、峰寺、松尾、的野も同じである。

尤も当屋家を公民館に移した大字もあるが、いずれも縁から上がるのである。



御供下げしたモッソ御供は公民館に運んで調理される。

生干しカマスはコンロで焼いて直会の肴にだす。



上座の席についた一行を迎えるのはオトナや氏子総代、氏子たち。

女性はこの場に上がることはない。

白餅は高坏ごと下げて目の前に並べた。



一行が侍烏帽子(つば黒烏帽子)につけていた五色の幣を外して座に置いている。

この五色幣は参拝していた子どもたちに配られる。

実際は取りにくる子どももなく代理の者が受け取って直会が終わってから配るらしい。

オトナが一同を迎えて、「おめでとうございます」と口上を述べる。

それからよばれるモッソ御供。



手伝い役は御供台ごと持って酒を注ぎ回る。

その際にいただくモッソはカエデで作った箸摘まみ。



尤も現在はカエデで作ることもなく市販品の箸になったが、席についた村の人たちは手で受けていただいていた。

焼いたカマスは手で摘まむわけにはいかず用意された一般的な箸でいただいていた。



直会の肴はそれだけでなく宵宮と同様にジャコもある。

神さんに神歌をもって奉げてもらった渡り衆を慰労する直会である。

直会はおよそ20分間。

退座された一行は上がるときと同じ縁から下りる。

そしてお礼に「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。



神社鳥居下に並んで「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。

こうして村の祭りを終えて当屋家に戻っていった。

(H28.10.16 EOS40D撮影)

室津戸隠神社宵宮の神歌

2017年06月09日 10時07分39秒 | 山添村へ
ハザカケの形態が特徴的な山添村室津の宵宮に披露奉納される「神歌」がある。

「神歌」の呼び名でなく近隣村では「ウタヨミ」の呼称もある神事芸能である。

大正四年調の『添上郡東山村役場 神社調査書』によれば大字室津の例祭神拝(じんぱい)の儀式は豊田楽(ほうでんがく)の渡式があるという。

装束は素襖に侍烏帽子(つば黒烏帽子)を着用する五人の楽人と当屋主人と之にして当たり、当屋は毎年氏子の順番にて儀式一切の準備をなすものとするとあった。

毎年の10月1日。

「オトナ」はその年の当屋と楽人を集め神酒を供える。之を下げて幣串を渡して解散する。

当屋は祭りの日まで自宅に祭り、門口に竹を立てて注連縄を張る。

忌むべき者は屋内に入れざるようにするとあった。

その注連縄を立てているときに伺った当屋の当主は前述した大正四年調の『添上郡東山村役場 神社調査書』を現代文字に翻刻したO宮司だった。

O宮司が翻刻してくださった史料はたいへん役にたった。

奈良県の伝統芸能緊急調査員を務めたときは大いに活用させてもらった。

また、O宮司とは出仕される兼社地の取材もたいへんお世話になっている。

お世話になった宮司に礼を尽くしたく室津の行事はいかなることがあっても外せない。

先約していた吉田の行事には申しわけなかったが、そうさせてもらった。

『添上郡東山村役場 神社調査書』に沿って書き記しておこう。

10月13日、楽人は当屋家に集まり儀式の打合せ、並びに楽器および神歌の稽古をなす。

14日、午後6時より当屋家を出発し、神社に渡る。

其の儀式は笛、太鼓、櫂金、簀の四楽器を合奏し当屋を先頭に年長者順に整列し、神社に至れば拝殿の所にて神に向かい一列横隊となり、一同礼拝し其れより神前に進み、左右各三人宛別れ設けられたる座に付くものとする。

而して楽人の年長者の次の者より一人宛交代にて神前に進み、右手を前に延ばし掌を下にして扇子の中央を握り、左手は拇(おやゆび)を後に他を前にして腰骨上に置き、臂(ひじ)を左に張り、起立の侭(ことごとく)にて礼拝し、第一神歌を唱う。

第三次の楽人のみは、神前より右に廻り四方に礼拝し、神前に向かいしとき神歌を唱うるものとす。

了れば神酒神饌供えし参集所に下り、氏子と共に御酒を戴き当屋に帰り、酒肴の饗応を受けるものとする。

之を宵宮祭と云う。



午後6時ともなれば当屋家に参集される五人衆が宵宮に奉納される神歌の稽古をすると聞いて訪れた。

その時間までは当屋主人とともに歓談の会食をしていた五人衆。

室津はおよそ30戸の村落。

選ばれし五人衆である。

会食を済ませた一同は素襖に着替えて楽器を鳴らす。

楽器は締太鼓に横笛や擦り鉦、ササラ(※ビンザサラ)がある。



ビンザサラの名前もあるが、室津ではジャラジャラとも呼んでいた。

今では使っていないが古いジャラジャラもある。



年代を感じる風合いになったジャラジャラはモッソウ竹(孟宗竹)を割って作ったもの。

すべて同じ年代でもなさそうな虫食い状態のものもある。



また、これら楽器道具の箱もあれば装束を納めている箱もある。

その箱の蓋裏に「宮年寄 源三郎 小四郎 利七 重介 世話人 金四郎」。

その「金四郎」はひいひい爺さんの名前だ。



親父の父親から三代前の人物だったというのはこの日の渡り衆を務めるNさんだ。

室津は19戸の集落。

渡り衆を務めるが何度もあるという。

実際、「東山地区神事芸能保存会」会長のⅠさんは渡り衆でもあるし代表総代でもある。

今年は特別なことに春日大社の20年に一度の造替事業・奉祝行事に東山中で継承されてきた数々の神事芸能を奉納することになっている。

村を代表することもあって気合はもちろん入るが、大和高原にある大字ごとされている神事芸能が一挙に奉納されるもので、他村の在り方を初めて見ることになる。

それを楽しみにしているとⅠさんは云う。

ちなみに奉納された大字の神事芸能は山添村の北野、峰寺、的野、松尾、桐山、室津。奈良市は阪原、柳生、狭川、邑地。

他にも山添村菅生のおかげ踊りや奈良市田原の祭文音頭に同市大柳生の太鼓踊りが上演されたそうだ。

素襖を納めている蓋の表は「文政二年(1819) 室津村 青襖(※素襖) 六通 卯九月 氏子中」。

雨天の場合は傘をさしてお渡りをする。

隣村の松尾では宵宮、本祭とも雨天になったことがある。

その場合でも番傘をさしてお渡りしていたことをある。

室津もやはり同じであるが、その場合は古い衣装を使うそうだ。

神歌の詞章は三番ある。

前述の大正四年調の『添上郡東山村役場 神社調査書』に沿って詞章を並べる。

(※)印の箇所はさらに翻刻された補足であるが、先に挙げた素襖納め箱の蓋裏に詞章を墨書していた。

神歌壱番は“せ(※へ)いやうの はるのあしたに(※わ)” (ハー) “かと(※ど)に小松をたてならべ 治る御代のしるしには たみのかまとにたつけむり 松からまつのようごーのまつ” <住吉のまつや入道>

弐番に“ようごーのをうごーの松から まつのようごーのをうごーのまつ”  (ハー) “あかつきをきて そらみれば こかねませ(※じ)りの あめふりて そのあめやうて 空はれて 人みな長者になりにけり”  <住吉のまつや入道>

参番が“をうまいなるをうまいなる かめはかめ” (ハー) “つるこそふりて まいやすみ つるのこのやしやまごの そた(※だ)たうまでは 所はさかへたまふべき 君か代が” (ハー) “ひさしかるべき ためしには 神ぞうゑ(※え)けん かねてぞうれし”  <住吉のまつや入道>

稽古に就く当屋主人。

台詞もそうだが打ち鳴らす回数や所作などの指導にあたられるのも、祭りに登場はしないが室津の宮司の役目であるかもしれない。

席についた五人はこれより宵宮に奉納する社殿に座る位置にそれぞれがつく。

笛役が「ピッ ピピー ホーヘッ」の音色を吹けば、一瞬の間をとって締太鼓も横笛も擦り鉦もササラも同時に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」を三回打ち鳴らす。



これを三回繰り返したら一番目に謡う者が前に進み出て中央につく。

扇を横に右手で持って前に差し出し本殿に向かって立つ。

笛役が「ピッ ピッ ピー」と笛を鳴らせばそれに合わせて扇子も腰も三段階に下げつつお辞儀をする。

その姿勢のままで「せ(※へ)いやうの はるのあしたに(※わ)」を唱えたら、他の4人の渡り衆が「ハァー」と声を合わせて発声する。

続いて「かと(※ど)に小松をたてならべ 治る御代のしるしには たみのかまとにたつけむり 松からまつのようごーのまつ」と囃せば、これもまた他の4人の渡り衆が「住吉のまつやにゅうどー」に一呼吸開けて「ハァー」を囃す。

次の二番手も三回繰り返す「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」を合図に中央に出る。

そして二番を謡いながら所作をする。

最後は三番手。

一番、二番同様に「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」を合図に中央に出るが、ここからが若干の違いがある。

笛役が「ピッ ピッ ピー」と笛を鳴らせばそれに合わせて三段階に下げつつお辞儀をするのだが、正面だけではなく四隅に向かってそれぞれお辞儀をするのだ。

その作法からおそらく四方拝である。

「をうまいなるをうまいなる かめはかめ・・・・ひさしかるべき ためしには 神ぞうゑ(※え)けん かねてぞうれし」を謡って囃す「住吉のまつやにゅうどー」。

最後の最後に「ハァー」を囃すときも違う。

その「ハァー」に合わせて演者は右周りに一周するのである。

〆の舞のように思えた所作は最後に三回繰り返す「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。



和やかに稽古を終えた一行はお茶で一服。

当屋主人も席について出発前の緊張をほぐす。

当主は宮司を務めているだけに当屋主人は息子さんに委ねることになった。

息子さんも神職。

禰宜を務める身である。



出発する際には当屋家の玄関前に並んで一曲を披露する。

一曲といっても謡いの所作はなく楽奏のみである。

当屋主人は提灯を持って先頭を行く。

本来はそこまでであるが、当屋主人の息子さんも提灯を持ってさらに先頭を歩いていく。

息子さんは二人。

ときおり交代するなど提灯役を務めていた。



まこと珍しい光景に記念の写真を撮るが真っ暗な渡りにピントの合しようが難しい。

僅かに光る提灯の灯りをピント合わせ。

お顔もわかるようにストロボ発光させていただく。

当屋家から出発して道中それぞれの箇所で「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」を打ち鳴らす。

始めが家を出発するとき。道中の数か所で「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。

真っ暗な中で楽奏される。

何度も何度も間を空けてされる楽奏である。

これもまた稽古のように思えたが・・・。

戸隠神社の鳥居下の階段前では整列して「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。



そして階段を登れば氏子たちが待っていた。

御神燈の灯りも迎えの灯り。

社殿には明かりもなく真っ暗である。

僅かに明かりがあるのは雨天の場合に所作をする舞殿になる拝殿である。

それがあってもやや暗い。



社殿に上がる階段下に整列して「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」を打ち鳴らす。

左右に小社が並ぶ。

そこには白餅を盛ったお供えがある。

予め供えていた小社の御供餅である。

そして献饌。

白衣の村神主は先に社殿にあがって当屋も登る。

渡り衆は階段にそれぞれが位置について参集所から運ばれる神饌は手渡し受けをして上げていく。



いわゆる御供上げであるが、神主、当屋、渡り衆全員は履いていた履物を階段下に並べていた。

村神主は一人であるが、実は白衣を着ている人は四人もいる。

前述の大正四年調の『添上郡東山村役場 神社調査書』を要約すれば「最年長者を一老と云い、其れより順次四人四老まであり。是を俗にオトナと名付け、各四老は一年交代にて三大祭、毎月の月並祭に神饌物を献供するの例にて神職の接待および渡式に列するものの斡旋指導をなすものとす」である。

つまり一老が村神主を務めていたのであった。

渡り衆は階段にそれぞれがついて献饌する。

神主は御神酒を供える。

そして神事芸能を奉納される。

社殿前に敷いたゴザの上に座る。

当屋家で稽古したときと同じ位置に座って一番の神歌を奉納する。

氏子たちは拝殿の後方から、或は周りから離れて拝見する。

暗闇の中で行われる所作は見ることもできない。

これは隣村になる奈良市の北野山町と同じである。

ましてや宵宮である。



申しわけないが、三番手が奉納される所作を階段下から撮らせてもらったが、ニノ鳥居の向こう側。

鳥居に括ったサカキの葉もあるので到底わかりようのない写真になった。

渡り衆が座る位置については平成26年3月に奈良県教育委員会の編集・発刊した『奈良県の民俗芸能―奈良県民俗芸能緊急調査報告書』を参照する。

その記述によれば左に向かって当屋がつく。

その横につく渡り衆は二番目、四番目。向かって右は一番目、三番目、五番目になるそうだ。

壱番、弐番、参番の神歌を奉納されたら撤饌。

献饌と同じように階段の立ち位置で御供を下げる。

そして降りてきた当屋に渡り衆は社殿に上がるときと同じように階段下に整列して「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」を打ち鳴らす。

壱番から参番までの時間はおよそ5分間。

それほど長くはない所作である。

神さんに捧げた次は村の人たちに慰労される公民館に移る。

廊下の扉を開放してそこから上がる一行。



上がる前に整列して「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。

御供下げした白餅とジャコを肴に直会の場が始まる。



まずは一行に宵宮奉納のお礼に頭を下げる。

感謝の気持ちを込めて頭を下げる。

お礼の儀式が終われば神社行事の世話をする何人かの「ドウゲ」が接待をする。



白餅を配ったり、お酒を注ぐ役目である。

まずは渡り衆が並ぶ前に御供を揃える。

しばらくしてからこれを下げて氏子に餅を配る。



それから神酒を注いで廻る。

ジャコも摘まんでお神酒をいただく。



こうした慰労の在り方は隣村の桐山も同じである。

しばらくという十数分後には退席される一行。



座を降りて慰労のお礼かどうかわからないが公民館に居る氏子たちに向かって「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。

こうして宵宮奉納神事を終えた一行は当屋家へ戻っていく。

室津の神社が建つ場は村落から下った位置にある。

お渡りの行きは歩きであるが、戻りは上り坂になるため、車利用になる場合が多いらしいが、宮司家でもある当屋家も急坂になる登りの道。

距離はそれほどないと判断されたのか、往復とも歩きの渡りにされた。

その戻る道中においても「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。

当屋家に着いて出発時と同じように整列して「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。



そうしてから玄関から上がっていった。

被っていた侍烏帽子(つば黒烏帽子)も素襖も脱いでようやく寛ぐ慰労の場は当屋家。

座敷に座って膳を配った席につく。



当屋家の当主であるO宮司が謝辞を述べて和やかな直会の場になった。

こうして夜は更けていく。

当屋家の灯りが消えるのは数時間後のようであるがそこまで滞在するわけにはいかない。



宴の灯りに礼をして帰路についた。

(H28.10.15 EOS40D撮影)

吉田岩尾神社の宵宮

2017年06月08日 09時32分00秒 | 山添村へ
石売りをする子どもたちは3歳児から小学生まで。

今年は4人になると聞いた1カ月前

立ち寄った山添村の吉田。

岩尾神社で行われる石売り行事の取材願いであったが、当日はどうしても都合がつかなくなった。

お詫びを申し上げるついでといえば叱られるが、祭りの前日の宵宮に伺った。

岩尾神社の石売り行事は平成24年10月21日に取材したことがある。

この日に石を売っていた子どもたちは5人だった。

同日、石売り行事を終えたら場を替えて座の饗膳が行われる。

それも取材させてもらった。

ところが前日に行われる宵宮は伺うことができずに数年経っていた。

座の料理は簡略化され、かつての面影もないと話していた。



こうして訪れた吉田は明日の祭りの場を調えていた。

神社に登る参道道には屋根付きの提灯立てに提灯を架けていた。

座の饗応の場になる会所の前に幕を張っていた。

昭和48年3月に寄進された白幕は岩尾大明神の御紋を染めている。



その場は外に設えた仮宮。

女性が座って膳をよばれる場である。

この日は宵宮。

会所の外では婦人たちが翌日の饗膳の汁椀に入れるサトイモを茹でていた。



プロパンの火力が弱いからなのか、それとも買ってきた冷凍のサトイモだからなかなか煮たらないのか時間がかかる。

もっと柔らかな感じにならんと云いながら火の番をしていた。

定刻時間ともなれば男の人たちは座に上がる。

本尊を安置する自作寺でもある会所の床の間は岩尾大明神。

正面に掲げる掛軸は天照皇大神。

お伊勢さんであるが、両側の神さんのうち左側が岩尾大明神のようで「岩尾大御神」が名号。

床の間に当屋の御幣を祭ってお神酒を供えた。

本殿に登ることなくこの場で祭典が行われる宵宮の日。

実は午前10時は宵宮。

次年度の当屋決めをしていたそうだ。

詳しくはお聞きしていないが、『やまぞえ双書』によれば、帳箱を開き、故人となった祭中の帳消しや新氏子の帳付けならびに次年度の当屋決めである。

今は会所になっているが、かつては大当屋の家で座をしていた。

当屋は長老というか年齢順に下っていた。

戸数が少なくなり、いつしか家並びの順になった。

婿入りの人も当屋になれば御幣を奉げる。

引き渡しの箱の中にはそういったことを書いている帳面があるらしい。

この場に集まった人たちは老大人(おとな)衆に一老の村神主、当屋である。

今年は服忌が多くて欠席の人が多いらしい。

石売りに登場する子どもの家も服忌で参列できない。

対象の子どもは13歳の小学生まで。

その家の49日も済んでおれば参列できるが、明日のことでは到底無理である。



参拝者は少なくなったが祭典が始まった。

特に拝礼もなく座中に差し出されるアゼマメ。



塩茹でした枝豆である。

膳に載った枝豆が廻ってくれば枝から千切って半紙を広げた我が席の場に置く。

そうすれば一献。

簡略化するまでは献に口上を述べていた。

これもまた『やまぞえ双書』の引用であるが、月番が「例年のとおり、お神酒をいただきましたので、回りましたらお上がりください」と述べる始まりの口儀であった。

が、これもまた改正されて口儀も廃止された。

廃止されるまでの饗膳料理は枝豆と塩漬けした大根青葉の重箱であった。

平成24年に訪れた祭りの日に塩漬けの大根青菜は辞めたと聞いていたから枝豆だけである。

その昔の平成4年当時の宵宮饗膳は小皿に盛った大根青葉に鰯の昆布巻きもあった。

牛蒡に芋、大根の煮しめもあったし、高盛りの蒸しあげ餅米のつくねに茄子の汁椀もあった。

手間のかかる膳料理は大幅に改正されたのである。

冷酒の一献が一回りすれば枝豆を食べる。



二献目は冷酒から熱燗に移る。

これは祭りと同じである。

そして、三献はとりあえずのダメ酒だと云って「あとはご自由に」の声に酒杯は延々と続く。

吉田の当屋は6人もいる。

当屋は寺行事も務める交替制の月当番当屋である。

昔は子供ができたときに村入り・氏子入りとなり祭帳に記帳される。

大字で生まれた子ども、婿入り養子も村入り・氏子になる。

その入り順に従う年齢順に3人の本当屋が決まる。

そのうちの年長一人が大当屋を務めていたそうだ。

大字吉田は40戸もあったが今は32戸。

春の3月に田楽講がある。

秋の11月はホンコ(本講)がある。

60歳の還暦を迎えた人は老大人(おとな)入りする。

老大人はおとな講がある。

うち一人が宮守を務める。

宮守はおとな講のなかでも最長老の神主となる。

その下に氏子総代が続くという。

床の間に奉った御幣は大当屋が祭りに渡るときにもつ。

会所に集まって9時半には岩尾神社を目指して出発する。

昔は大当屋の家からであったから遠い、近いで渡りの時間に左右する。

今は会所が大当屋の家に見立てているからすぐそこだ。

神社の裏手にあった道は伊勢街道であった。

山ももっていたし伊勢講もあった。

お伊勢さんに参って吉田に戻ってきたときは「オドリコミ」もしていた。

かれこれ20年前のことである。

その当時の伊勢講のヤドは家であった。

伊勢講は7、8軒が組んで一組の伊勢講を営んでいた。

講組織は吉田に3、4組もあったという。

今だからこそ言えるが昔は「どぶ」を作って飲んでいた。

「どぶ」はどぶろくの酒である。

そんな話題を提供してくれた宵宮の座もそろそろお開きである。

1カ月前に応対してくれたOさんは服忌で来られなかったが、4年前に務めた前区長のYさんや老大人、氏子総代、大当屋たちが温かくもてなししてくださった。

(H28.10.15 EOS40D撮影)

切幡の豆たばり

2017年06月07日 10時06分08秒 | 山添村へ
今夜は十三夜。

聞きなれない名であるが暦をみればよくわかるし、昨今は天気予報士が季節の情報として紹介することが多い。

十三夜は十五夜の中秋の名月に対してこの夜は旧暦の九月十三日。

「後(のち)の月」とも呼ばれる月夜である。

十五夜に次いで美しい月と云われる今夜は昔から月見をして楽しんでいた。

十五夜は中国から伝わった風習であるが、十三夜は日本古来から伝わる風習の一つ。

秋の収穫を祝う。

収穫は秋の稔り。

お米もあるが十三夜のお供えは豆や栗である。

その豆や栗にちなんでこの夜の月を「豆名月」とか「栗名月」と呼ぶようになった。

この頃の天候はといえば晴天が続く日。

「十三夜に曇りなし」という詞もある。

かつては旧暦の九月十三日だったという山添村切幡の豆たわり。

現在は新暦に移って10月13日。

13日という人もおれば「十三夜」の日にしているという人もいる。

今年は旧暦の十三夜にあたる10月13日。

いずれであっても合致した日になった。

尤も「豆たわり」とはどういう行事なのであろう。

「豆たわり」の「たわり」は賜るということだ。

各家が収穫した枝豆は茹でて家の玄関土間とか玄関前とかに置いておく。

暗くなれば村の子どもたちがその豆を一軒、一軒巡って貰いに来る。

「貰う」を敬語でいえば「賜る」である。

この「賜る」の詞が縮まって「たわる」になった。

やがてそれも濁り詞になって「たばる」になった。

「おばちゃんマメダワリしてや」と云って豆貰いに村の各戸を巡る

山添村の切幡の豆貰いの行事名は動詞連用形の「たばる」が名詞化した「豆たばり」である。

この行事をしていると知ったのは平成22年の10月16日、17日に訪れた宵宮祭、本祭のときだったと思う。

旧暦九月十三日の十三夜に村の各家が塩ゆでした枝豆や蒸した栗を十三夜の名月に供える。

切幡はかつて60戸の集落であったが現在は40戸。

その各家を上出、中出、下出と順番に巡る。

うち何軒かは稲刈りを終えて「カリシマイ」をしたという。

カリシマイ(刈り仕舞い)は平成24年9月25日にO家を訪れてその在り方を取材させてもらったことがある。

山添村など東山間の稲刈りは早い。

田植えもそうだが平坦よりも1カ月も早いから時期は必然的に稲刈りもそうなるのだ。

皆で決めていた集合場所にこれもまた決めていた集合時間に遅れることなく集まった子供たちは男女8人。

年長の子が下の子たちの面倒をみながら巡っていく。



ちなみに年長の子を子どもたちは「分団長」と呼んでいる。

いわゆる大将格になる子をそう呼んでいるが強面ではなく可愛い子たちだ。

行先、巡る順は分団長が決める。

その指示通りについていく下の子どもたち。

真っ暗な情景の村を巡る。

あっちの道の方が近いでと云いながら先の見えない里道に懐中電灯を照らして歩いていく。

集合場所から道路を隔てた北側を一歩、奥に入れば急な坂道に遭遇する。

右や左に点在する民家を巡っては「おばちゃんマメたわらしてー」と大声をあげる。

玄関土間に灯りが点いている家は屋内から家人の声が反応して顔をだしてきた。

用意していた枝豆や栗はお盆に盛っていた。



手が伸びる子どもたちにあっという間に消えてなくなる。

お家の人はすかさずこれもまた用意していたお菓子を手渡す。

すぐさま消えるのは子どもたちがもってきた袋に入れていくからだ。

枝豆や栗がお気に召さない子どもはお菓子に手が動く。

逆に枝豆や栗が好きな子どももいる。

その場で枝豆を食べる子どももいる。

それぞれがそれなりの嗜好に合わせて手や口が動く。

そうこうしているうちに子どもたちの姿が見えなくなった。

村の人たちに昔の様相などを聞いている間に見失ったのだ。

追っかけをするにも村内は真っ暗。

どこをどう行ったのかさっぱり掴めない。

もしかとしたら南の方に行ったのではと思ってそっちに行ったが声は聞こえず。

はぐれた処で時間を過ごしていたら声が聞こえてきた。

どうやらもっと奥の方まで巡っていたようだ。

見失ってからあっちこちの玄関辺りを見ていた。



何軒かは子どもたちがすぐに見つけられるよう玄関前に出していた家があった。

屋内の灯りがそれを照らしていた。

枝豆や栗は秋の味覚の収穫物。

床の間に置くことはない。

十三夜を愛でるお供えである。



中秋の名月の十五夜さんのようなススキやハギは見られない。

枝豆や栗は十三夜のお供えもの。

お盆に供えた枝豆や栗の名をとって、十三夜の夜は豆名月とか栗名月の行事名で呼ぶ地域もある。

ちなみに十五夜は芋名月。

収穫物は十三夜と異なるのである。

かつては男の子だけで巡っていた切幡の豆たばり。

家で供えた枝豆や栗を食べていた。

枝豆はクルミにして搗きたての餅にくるんで食べたという人もあれば、サツマイモを蒸して食べていたという人もいる。

40年前のことを思い出される村の人たちの記憶の証言であった。



そんな昔の体験談を伝えながらも今の子どもたちにはお菓子も袋に入れてやる。



かつては大勢いた子どもたち。

揃っていく場合もあれば人数を分けて巡っていたこともあったそうだ。

平成5年11月に発刊された『やまぞえ双書1 年中行事』に切幡の豆たわりのことが掲載されている。

調査ならびに編集は山添村年中行事編集委員会・同村教育委員会である。



切幡の氏神祭りを目前に控えた旧暦九月十三日の十三夜にしていると書いてあった。

当時の人数は20から30人の子どもたち。

この日の2倍、3倍にもなる人数だけに相当な量を準備していたことだろう。

各家では外庭に供える台を持ち出して、ススキなど秋の草花に蒸した栗に枝豆を供えたとある。

最近は子どもが喜ぶお菓子も供えるというから昔はなかったようだ。

やがて4、5人の小児グループが一団となってやってくる。

子どもたちは保育所園児から小学生まで。

年長の統領株を先頭に門口にやってきて「おばちゃん、豆たわらしてー」と声を揃えていうとある。



昔も今もかわらない呼び出し台詞である。

「何人や」と家人が尋ねる人数を返す。

聞いてからその人数に見合ったお供えをすれば、神妙に手を合わす。

そして統領が下の子どもたちに分けると書いてあった。

午後6時より始まった切幡の豆たばり行事。

すべての家を廻りきって終えた時間は夜の9時を過ぎていた。

途中ではぐれたが、およそ1万歩の行程を行く子どもたちは元気度が満ち溢れて笑顔は全開だった。



行き先々でお会いする村の人たちが作った枝豆に栗がとても美味しかったことを付記しておく。

(H28.10.13 EOS40D撮影)

上深川・大仏供養の題目立

2017年06月06日 08時37分18秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
毎年の10月12日の宵宮に古式ゆかしく題目立(だいもくたて)を奉納する奈良市旧都祁村の大字上深川。

氏神さんを祀る八柱神社に向かって奉納する。

例祭は10月13日。

かつては旧暦の九月九日であった。

宵宮の行事に奉納芸能として題目立が行われるのである。

八柱神社には座講・氏神講・オトナ講と呼ばれる家筋からなる22軒の宮座があった。

題目立は数え年17歳になった青年男子をナツケ(名付け)と呼ぶ座入り(村入り)した家筋の長男が奉納していた。

やがて、宮座は村座に改正された。

明治21年ごろのことである。

村座に改められ村人のすべてが座につくようになって現在に至る。

題目立の起源は明らかでないが、上深川に残る最も古い記録は演目「大仏供養」の詞書中の一冊「番帳并立所」のあとがきにある。

「豈享保拾八癸丑年(1733)二月吉旦、古本之三通者及百九年見へ兼亦ハ堅かなにて読にくきとて御ん望故今ひらかなにて直置申候御稽古のためともならハ浮身の本望と住(任)悪筆書写ものなり野洲(下野)沙門教智寛海当村於元薬寺書之者也」である。

八柱神社下境内に建つ元薬寺(がんやくじ)の当時の僧侶である教智寛海が書き記した文である。

享保十八年より百九年前は寛永元年(1624)。

古本が三通あったということだ。

僧の教智寛海は難読のかたかな書きをひらがなに書き改めたということである。

上深川に残る題目立は三曲。「大仏供養」、「厳島」、「石橋山」を伝承しているが、今から四十数年前からは「大仏供養」、「厳島」の2曲を演じるようになっている。

史料によれば毎年交互に替わるとあるようだが、実際はそうでなく例年が「厳島」。

神社の造営(ぞーく)事業の前後のある年に「大仏供養」をしていると聞いた。

この件は今夏の7月3日に元薬寺で行われたゲー行事の際に聞いた。

今年の宵宮の題目立は久しぶりに「大仏供養」をされると知って訪れた。

前後といえば造営(ぞーく)事業であるが、直近は平成26年の4月26日である。

お伊勢さんのように20年に一度の造営(ぞーく)事業ではなく18年の廻りである。

造営(ぞーく)事業をされる3年前の平成23年に奉納された曲が「大仏供養」だった。

つまり、平成22年までは毎年が「厳島」だった。

翌年の平成23年が「大仏供養」。

24年、25年、26年(※造営)、27年の期間は「厳島」。

そして今年の平成28年が「大仏供養」であった。

平成18年3月に奈良地域伝統文化保存協議会が発刊した『都祁上深川・八柱神社の祭礼と芸能』によれば造営(ぞーく)事業があれば、その年から3年続いて「厳島」を奉納するとある。

奈良市のHPにも掲載されているが、ほぼ同文のような口調で書いてあったが実際は違っていた。

実は平成23年の際に以前に「大仏供養」を演じた年を聞いていた。

それは平成4年、6年であった。

造営事業は平成8年。

つまりそのときの状況によって固定でもなんでもなく村が決断されての事業年であったのだ。

こうしてみれば次回に「大仏供養」を演じられるのは15、6年後になることだろう。

そうであれば私が生きている可能性は低い。

この年の私の年齢は65歳。

仮に15年を想定したとしても80歳。

難しい年齢である。

「厳島」を演じる人数は8人。

ところが「大仏供養」は9人。

演じる台本も長編で2時間以上もかかる。

練習もさることながら演者の人数も確保しなければならない。

ずっと昔は隔年であったが、少子化の関係もあって現在は前述した期間を開けて演じている。

大仏供養に登場する人物役は(源)頼朝、梶原平蔵、はたけやま(畠山)、和田の吉盛、ほうせう(北条)、泉の小次郎、井原佐衛門、佐々木四郎、(平)景清の9人。

曲目は、とふ(どう)音に頼朝と梶原の入句を入れて三十八番まである。

ちなみに登場する語りの数が一番多いのは、8曲のはたけやま。

次が景清の7曲。

その次は5曲の泉の小次郎。

3曲は梶原平蔵、和田の吉盛、ほうせう、井原佐衛門。頼朝と佐々木四郎は2曲だ。

ベテランは何度も登場するが、入りたての若者は数曲。

とはいっても頼朝や梶原平蔵の台詞がとにかく長い。

短い台詞の3倍もある。

佐々木四郎もそうである。

はたけやまと景清は曲数も多いし長丁場の語り。

青年男子の立ち振る舞いを導く明かりが灯った。

火を点けた一本のローソクをもつ長老の「ミチビキ」が先導する。



八柱神社下に設えた舞台に向かって先導する。

写真を見ればわかるが、楽屋である元薬寺の出入口ではなく縁から出発したのである。



菰敷きの道は神聖な道であるだけに跨ぐことはあってはならない。

後続についた3人は白衣浄衣姿。

3人は舞台を見下ろす場に座って縁者の出番を役名で呼びだし役の「番帳さし」である。

舞台へ入場する道中に謡われる「ミチビキ」唄がある。

「わがちように 弓矢の大将はたれたれぞ よんのげにもさりさり 頼朝兵衛殿に まさる弓とりなかりけり ようそんのう」である。

演者は所定の位置につく。



長老は奉燃八王子大明神と記された燈籠にみちびきの火を遷す。

氏神さんに向かって拝礼すれば、すぐさま番帳さしの呼び出し第一声の「一番、頼朝」。「わーれーはこれー せぇーいーわーてーんのうのー じゅぅだーいーなーりー・・・」と長丁場の演目が始まった。

場を清めるような謡いぶりに耳を澄ませば奉納されていく特徴ある謡いの声が聞こえる。

一番の頼朝、二番の梶原平蔵、三番のはたけやま(畠山)だけでも15分かかる長回しの台詞に息をひそめる。

同じく白衣浄衣姿の神主は社殿前で耳を澄ませていた。

社務所の前に並べたお供えの数々。



大多数は献酒であるが、米一俵もある。

それは村の営農組合が奉納した奈良のお米である。

独特の謡いに特徴がある題目立。

例えば一番・頼朝の「・・・こーとーことくもーーようし そうーろうえやー やっ」である。

詞章は「・・・ことくもーーようし そうーろうえやー」であるが、最後に「やっ」と気合を込めた声があるのだ。



二番・梶原平蔵の「・・・じゅうーろーくーまん はーせんきーにーて そうろうなりぃ いっ」も最後に「いっ」がある。

つまり詞章の最後にその台詞の最後の詞と同じ同音を用いて気合の入った詞が付加されるのである。

その在り方は役目の終わりを示す詞なのであろうか。

「いっ」と詞があって次の三番・はたけやまが謡っていた。



4番は和田の吉盛、5番・ほうせう(北条)、6番・泉の小次郎、7番・とふ(どう)音。

8番・ほうせう(北条)、9番・梶原平蔵、10番・井原佐衛門、11番・はたけやま(畠山)、12番・佐々木四郎、13番・はたけやま(畠山)、14番・泉の小次郎、15番・頼朝、16番・泉の小次郎、17番・和田の吉盛、18番・はたけやま(畠山)、19番・泉の小次郎、20番・梶原平蔵、21番・はたけやま(畠山)、22番・井原佐衛門、23番・佐々木四郎、24番・景清、25番・はたけやま(畠山)、26番・景清、27番・は和田の吉盛、28番・景清、29番・はたけやま(畠山)、30番・景清、31番・ほうせう(北条)、32番・景清、33番・はたけやま(畠山)、34番・景清、35番・泉の小次郎、36番・井原佐衛門、37番・景清。



延々と謡い続ける大仏供養は既に2時間も経っていたころだ。

37番に続いて演じられるふしょ舞。

「そーよーやーよろこびに そーよーやーよろこびに よろこびに またよろこびをかさぬれば もんどに やりきに やりこどんど」の目出度い台詞の「よろこび歌」に合わせて所作をする。

37番までは延々と「静」かなる所作だった。

動きといえば口だけだ。

真正面を見据えて謡う演者たち。

それが、唯一動きがあるふしょ舞に転じる。

扇を手にした和田の吉盛が舞台に移動する。

手を広げて動き出す。



持った扇を広げて上方に差し出す。

上体も反らして顔は天に届くような所作を繰り返す。

そして38番の景清、梶原平蔵の二人が謡う入句で終えて退場する。

祝言の唱和は全員唱和の「・・・あっぱれーめんでー たーかりけるはー とうしやのみよにてー とどめたーり」。

戻っていくときも長老が翳すローソク1本。

入場と同様に「ミチビキ」を謡いながら元薬寺に戻っていった。



宵宮はこのあとの直会に移る。

演者を慰労する場でもある。

長丁場の演目をやりきった青年男子たちはスマホに熱中する時代。



室町時代から続く伝統行事をこの年も繋いだ一員でもある。

演目の「石橋山」は百年前の明治時代以降演じられていない。

演じた人もいなくなり、それを知る人もない幻の曲になっている。

(H28.10.12 EOS40D撮影)

米谷町白山比咩神社の祭り

2017年06月05日 10時00分26秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
前日に">宵宮を祭事された奈良市米谷町・白山比咩神社の行事はこの日がマツリになる。

白山比咩神社の年中行事は実に多彩で行事数は他の地区と比べてとにかく多い。

毎月1日は宮座十一人衆が寄り合う例祭がある。

1月2日は歳旦祭・四方拝も兼ねる新年祭(◇・☆)。

2月1日は小正月(☆)、3日は節分、4日は寺行事の薬師の行い(☆)、8日は神主渡し、9日は百座(☆)、22日は田楽飯(※)、3月1日は祈年祭(◇・☆)、5月は筍飯(※)、7月1日は農休みの麦初穂(◇・☆)、8月18日は風の祈祷(☆)、9月1日は八朔籠り、7日はトウヤ受けの唐指し、10月1日は龍田垢離、第二土曜日は宵宮祭り、第二日曜日は祭りや松茸飯(※)がある。

11月1日は例祭、12月1日はあから頭の名もある新嘗祭(◇)、15日はチンジサンの呼び名がある鎮守祭、22日はくるみ餅(※)である。

うち、田楽飯、筍飯、松茸飯、くるみ餅は宮座の四大行事(※)。

また、新年祭、祈年祭、麦初穂、新嘗祭は四大節(◇)。

麦初穂を除く三行事は宮司の参詣を得て式典を斎行される。

また、寺行事の薬師の行いはもとより、上ノ坊寿福寺住職(☆)は五穀豊穣、家内安全の祈祷のため一年に6回の神社行事に参列される。

その行事は新年祭、小正月、百座、祈年祭、麦初穂、風の祈祷である。

これら行事について詳しく調査・報告された史料がある。

平成6年7月、五ケ谷村史編集委員会が発刊した『五ケ谷村史』である。

村史によればかつては4月3日の神武祭、6月5日の節句にチマキ、8月7日は七月七日之事とする七日盆もあったそうだ。

前日の宵宮はお渡りの出発直後からの取材であったが、本祭はお渡りに間に合った。

集会所でお渡り前によばれていた数々の食事料理を拝見する。

ズイキの煮ものにサバのキズシ、タコの酢もの。

ダイコンとニンジンにドロイモと牛蒡のさつま揚げを煮たもの。

ほうれん草の和え物に豆の甘煮や香物である。

出発直前に記念の写真を撮ってから白山比咩神社に向かうお渡り。

宵宮は大唐屋のトウニンゴ(唐人子)が先頭に就いていたが、本祭は小唐屋が大きな御幣を抱えて神社に向かう。



後続に村神主、十一人衆、氏子総代が就いて平服の氏子たちも村道を下っていく。

出発食後に発声した「トウニン トウニン ワハハイ(ワーイ)」の唱和。

その1回だけであったような気がするが、どうやら数回は発声したようで声が聞こえなかったようだ。

大、小の両唐屋は舟形侍烏帽子を被り黒色の素襖を身にまとう。

村神主は立烏帽子被りの狩衣姿。

宮座十一人衆も烏帽子を被るが服装は紋付き袴にそれぞれ風合いのある和装姿。

下駄を履く人もあれば雪駄草履の人も。

うちお一人がイネニナイ(稲担い)である。

イネニナイ(稲担い)が担ぐ稲束は前方が一束で後方は二束だった。

鳥居は2カ所。



石の鳥居に朱塗りの鳥居を潜って神社に着く。

着いたら直ちに御幣とイネニナイを供える。



鎮守さんの名がある社殿や遥拝所に神饌を供えるのは村神主の役目。

サイラのサンマや小豆入り洗米、栗の実、コーヤドーフ、梨、パンに別皿に盛った3個のサトイモもある。



本祭の神事に神職は登場しない。

参拝を済ませて十一人衆は宵宮同様に拝殿に着座、ではなく、本祭は村神主に両唐屋が座る。

十一人衆のこの日は参籠所の間である。

隣の間に座ったのは氏子たち。

宵宮と同様に男性も女性も並んで座っている。

これより始まるのは七献である。

供えたお神酒を下げて酒を飲む。

宵宮同様に酒を注ぐのは佐多人だ。



まずは拝殿に居る村神主と唐屋に注ぐ。

給仕の佐多人が「一献 まいりまーす」の声を揚げる。



その声が届いたら参籠所に居る十一人衆に酒を注いで飲む。



それを済ましてから氏子に酒を注ぐ。



そのときに食べる肴が味付けした半切り牛蒡と煮物のカシライモ。

形は三角形である。

『五ケ谷村史』によれば米谷では宵宮に枝豆を。

本祭はドロイモに牛蒡のクルミ和えや里芋の子芋を楊枝で3個つないだものを供えるとある。

直会にはいずれもこれらを食することから宵宮をマメドウヤ、本祭をイモドウヤと呼んでいると書いてあったが、直会の場に出された料理は若干の変化があったように思える。

しばらくしてから二献目。

またもや大声で「二献 まいりまーす」が参籠所に届く。

「献」が届けば肴をアテに酒を飲む。

そのころだったか時間を氏子総代が動いた。



たくさんの子芋を盛ったお重を抱えていた。

神さんに供えた御供を下げて参籠所に運ぶ。

見てはいないが先に拝殿に居る村神主と唐屋が食べる分は取り分けていたと思う。

三献、四献・・・とだいたいが5分おきに注がれるようだ。

献は七献で終える。

さて、七献の七つはどういう意味であろうか。

話しによれば米谷の神さんは七柱であるからという。

その間はずっと献の接待に忙しく動き回っていたのが世話人の佐多人。

休む間もなく動き回る重要な役割を担っていた。

「あんたも食べてみやんと味がわからんだろう。座に上がって食べてください」と氏子総代に云われて七献の肴をよばれる。



牛蒡はクルミ和えでなく煮物。

楊枝でつなぐこともない三角形に包丁を入れたカシライモ。

別皿に盛ったのが丸い3個の子芋である。

形はどうであれ、カシライモはやや甘。

シンプルな味付けだと思った。

一方の牛蒡は薄味醤油で煮たもの。

柔らかく煮ているので食べやすい。

牛蒡そのもの味がする。

別皿の子芋はぬるぬる。

柔らかくてとろけるような舌触り。

モチっとした食感にお味は好みの味。

懐かしいではなく我が家で食べている味と同じようだと思った。



『五ケ谷村史』に安政六年(1859)十一月、それ以前の宝暦六年(1756)書写本があると書いている。

上之坊の僧の荻英記す「宮本定式之事 米谷村 社入中」の翻刻はたいへん貴重な史料となるだけに以下に記しておく。

当時の行事日は旧暦九月九日と十日。

宵宮に本祭であるが、当時は三日間。

八日の調達より始まっていた。

一.九月八日之定、頭屋買物覚

先上延紙壱束 上半紙壱帖赤土器大六まい 小五拾まい 

杉箸百膳白箸三拾膳 酒宮樽壱荷石の買物両頭屋立会調べし

一.八日 三社の御供餅米京ばんに三升つき壱升の御膳に 小餅八ツ大餅壱ツかさ餅と云て壱ツ上二おく 大小合九ツ也又水神の餅壱膳二七ツヅヽ添備べし 合小餅四拾五大餅三ツ調 都合よし但シ 豆粉少々入用

一.白餅 馬草いね大たば三把 肴の枝 なずび 豆用意有べし右ハ大頭屋の仕立なり

一.幣ふぐり京ばん壱升 みゆの布施七合三升 生初穂 京ばんに六升両頭屋添備べし 但し片頭屋二三升ヅヽ也 右之三口ハ両頭屋より出すべし

一.八日 朝飯献立之事

△汁二 いも たうふ(※豆腐) 大根

△坪(※ひら)二 八切のたうふ二切もり

△壺二 いも ごぼう こんにやく

△生酢 だいこん にんじん こんにやく はす しやうが

引たり はす ごうぼう こんにやく

右の三重の肴出置べし

一.夕飯献立の事

△汁 ざくざくに たうふ入べし

△菜ハ 大根葉のあゑ(※え)もの斗

三重の肴あるべし 以上

一.九月九日之事

三社鎮守御供赤飯斗り備べし神主仕立にて候

一.十日神事之事

先三社の御供二うる米三升白餅 豆五合<こんにやく三丁> かます四枚 生ノいも拾五つぼ

馬草いね大たば三把右小頭屋の仕立なり

又三社江牛蒡のくる(※みは加筆)あゑ(※え)三ばい此たけ四寸二切高さも四寸二盛べし

いものくるみあゑ(※え)三ばいも是も高さ四寸二もるべし

次二下座ノ人之立候ハヽ社人拾壱人の衆江酒二献出へし

三重肴出すべし外二やき物壱ツ引出す

一.次夕食之献立之事

△箸ハ 壱尺二寸の白はしなり

△汁ハ 鯛のしる

△焼物ハ 壱尺弐寸の鮧(※えそ)なり

△壺ハ 五色此内へ魚るい壱色入べし

△引たり牛蒡 たうふ たこ也

△酒三献三重の肴有べし 以上

△次二平座茶のミ飯汁わん二一杯」茶斗

一.入酒之定
  先頭人壱人の時ハ味噌代ハ其時の相場にて宮本評儀二任出べき事

  但シ頭人弐人是有年ハ座衆壱人前に黒米宮本の京ばん五合飯の会大頭人の所にて勤申べき事五合ヅヽの都合二たらず候ヘバ宮本方 たし可申候頭人数多ある時ハ その出シ米残りし年ハ宮本江請取社人預り置べき事

  次に献立之事

  △汁ハ ざくざくに たうふ入べし

  <菜ハ ねりみそ いわし一引 しゃうじん人二こんにゃく半丁こうのもの二切そゑ(※え)べし>

  <一 社僧座人の定>

  <先 座衆壱人に三合飯壱杯>

  <汁ハ ざくざくにたうふ入べし>

  △菜ハ ねりみそ こんにやく半丁 こう物二切そゑ(※え)る 酒なし

  次二平茶のミ汁わん二飯一杯茶斗也 以上   であった。

宝暦、安政年間における米谷の社僧や社人こと十一人衆が食事する献立がよくわかる史料である。

(H28.10. 9 EOS40D撮影)

頭屋ねぎらい柿の葉ずしヤマトの盛り寿司

2017年06月04日 07時40分40秒 | あれこれテイクアウト
榛原石田の頭宿(屋)座には次の頭屋に引き継ぐ儀式がある。

が、である。

始まるのは直会が終わってからだ。

直会はカラオケ大会に転じていた。

昔はずっとずっと酒がなくなるまで飲んでいて、引継ぎは夜になったという。

それまで待てない事情がある。

これから行く取材先の行事が始まる時間には間に合わない。

仕方ないと諦めて先を急ぐ。

昼の時間帯はとうに過ぎていた。

もう、我慢ができないお腹ペコペコ。

一年間務めてきた頭屋はこの日が最後。

村の人たちに感謝するとともに一年間も務めさせてくださったお礼に配られる柿の葉ずしヤマトの盛り寿司を、私までいただくことになった。

心のこもったお礼のお寿司は上井足辺りの空き地に車を停めていただく。

ヤマトの盛り寿司はどこかでよばれたことがある。

とにかく美味しかったことは覚えている。

上品なパッケージの紐を解く。

パッケージデザインは秋の稔りである。

ここら辺りはすでに稲刈りを終えていた。

豊作だったに違いない。

蓋を開けたらそこにあった盛り寿司。

甘いお寿司の香りが漂ってきた。

巻寿司、稲荷寿司、エビの押し寿司に柿の葉寿司のパックにパクついた。

美味しい、美味い、旨い、の連発に口が唸る。

これぐらいの量がイチバン最適。

今の私の身体にあっている。

(H28.10. 9 SB932SH撮影)