『アナと雪の女王』のパズルを楽しみながらプログラミングを学べる
とても面白いサイトを紹介します。
http://studio.code.org/
の 『アナと雪の女王』のイラスト部分を押すと、英語での説明画面が
現れますが、×を押してそれを閉じると、日本語による易しいプログラミングのパズルが始まります。
ブロックを2、3個つなぐ要領で遊びます。
『アナ』ロボットを自分で動かしているようでとっても面白いですよ。
『アナと雪の女王』のパズルを楽しみながらプログラミングを学べる
とても面白いサイトを紹介します。
http://studio.code.org/
の 『アナと雪の女王』のイラスト部分を押すと、英語での説明画面が
現れますが、×を押してそれを閉じると、日本語による易しいプログラミングのパズルが始まります。
ブロックを2、3個つなぐ要領で遊びます。
『アナ』ロボットを自分で動かしているようでとっても面白いですよ。
教室には、「テレビの時代劇から歴史が好きになった」
「大阪城に出かけて以来、大のお城好きになった」
「幼稚園や学校で武士の話題が流行っている」
「忍者好きから歴史も好きになっていった」といったきっかけから、
歴史に関する話題が大好きになったという子らがたくさんいます。
上の写真は、3D立体パズル の大阪城と姫路城です。
この3Dパズルのシリーズは比較的安価ですがとてもしっかりした作りです。
作るのも楽しいし、作った後で、縄張り図を見ながら
ブロックや積み木でお城の周辺を再現すると遊びが広がります。
縄張り図を見ながら……といっても正確なものではなく、迷路作りの延長ですが……。
今は販売されていないと思いますが、『風林火山』ゲームです。
ルールを易しくして、幼い子や発達に凹凸のある子たちも楽しめるようにしています。
<ルール>
サイコロをふたつ振って、出た目の組み合わせが書いてある陣地に
自分の色の武士を置いていきます。
同じ陣地を取りあうことになったら、トントン相撲で勝負します。
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過去記事から歴史やお城やお寺に関する遊びの様子を
紹介しますね。
↑はブロックで作ったお城とお城の周辺。
敵が攻めてきた時に橋が落ちようにしています。
寺院好きの小2の女の子たちが作った三重の塔。
小1の城好きの男の子が発泡スチロールカッターを使って
作ったお城。お城の守りの方法を研究するのが好き。
小学3、4年の子たちの彦根城。
『狭間(さま)』 ↑ 戦闘の際、ここから鉄砲などで攻撃した
壁や塀に作られた三角形や四角形の隙間。
9~11歳の子らが協力して作った清水の舞台。
過去記事で自由研究と夏のおでかけに関連あるものをまとめました。
☆個性にあわせた自由研究のテーマ選び(小学生)
☆ 調べ学習にチャレンジ♪ と 「会話」の話
☆ 調べ学習にチャレンジ♪ と 「会話」の話 2
算数難問クラブの過去記事から、
問い合わせのあった「県の人口当てゲーム」を紹介します。
いただきものの地理カードでわたしが考えた適当なルールで遊んでいただけなのですが、
推理の好きな小学生たちのツボにピンポイントではまって
大盛り上がりでした。
このカードは、日本全国の県ごとに2枚ずつカードがあって、
1枚の表面は地図上に色を塗った形で描いてあり、
その裏面には特産品や県の特徴が4つイラストで描いてあります。
もうひとつの県のカードの裏面は、県の地図と、面積と人口が書かれています。
ゲームのルールです。
適当な県のカードを一枚選んで表面(人口が見えないよう)にして
場におきます。
このカードの県の人口を、それぞれが言い当てていって、
一番近い数字を言った人が勝ちです。
人口を当てる際に、その県の特産品のカードとヒントとなるカードを3枚指定して、
見ていいことにしています。またその県に行ったり、住んだりしたことが
ある人は、自分が見聞きしたその県についての印象を話します。
最初に「神奈川県」の人口を当てることになりました。
神奈川県の特産品や県の特徴は、次の4つ。
◎だいこん、箱根寄木細工、相模湾、ペリー来航。
◎だいこん畑とか海とか、人口が少なそうなイメージ。
ヒントとなるカードは、子どもたちが相談して決めています。
「近いから。都会だから」ということで、千葉県を選びました。
千葉県の人口、612万人。
もう一枚を選ぶ時点で、神奈川県のサイズが小さめなことに着目した子が、
同じくらいのサイズの県ということで、ヒントに富山県を選びました。
人口は110万人。
「110万人……?」とどよめきが起き、「それなら、神奈川県は、
110万人と612万人の間だろうと予測する子ら。
残り一枚のヒントを選ぶのに、「東京がいい」だの、
「東京は、人口が多すぎるよ。何千万とかいってるんじゃない?」と言う子がいて、
静岡県が選ばれました。
人口380万人。
本当はこれでヒントは終わりなのですが、どうしても東京も見ておきたいということで、
東京もチェックしました。
1284万人。
それから神奈川県の人口当てタイム。
270万人とか、450万人といった数値が出た後で、答え合わせをすると、
「892万人」でした。えっ?と驚く子たち。「やっぱり都会だから?」
その後、愛知県の人口当て。
ひとり愛知県から来て参加している子がいて、「市の人口なら知っている」と
ニコニコしていたのですが、考えてみると、愛知県に市がいくつあるのか
わからないし、愛知県内でも市によって人口がかなり異なるはずですよね。
単純に、その子の市の人口に市の数をかけたらいいわけでもないとわかって、
悩んでいました。
そこで着目したのが、自動車産業。
ひとりの子がヒントに広島県を選びたがりました。
「なぜ?」とたずねると、「名古屋で有名な自動車の工場の支店があるから……
とのこと。兵庫県なんかも候補にあがっていました。
こんなふうに進んでいく人口当てゲーム。
「旅行に行ったら、田んぼばかりで田舎だった」とか「住宅がいっぱいあった」とか
「都会だった」とか、自分の印象を語ったり、
テレビで見聞きした情報から推理したり、県の面積で判断したり、それぞれが推理するために
オリジナルのアイデアで挑んでいけるところがとっても面白かったです。
の記事に写真を送ってくださった★くんのお母さんから
こんなコメントをいただきました。
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以前の『書きだすことから始めよう』という本の紹介記事(2012/10/13)で、
天才が育つ理想の環境の項目の一つに、「興味の対象が毎日のようにころころ変わっても、毎回まじめに聞いてもらえる。
興味の対象をすべて試してみる機会が与えられる」とあったのがずっと心に残っていました。
今までの私は、無意識のうちに自分の価値観で子どもの要求を取捨選択してきたのだろうなあと、
今回意識的に自分の意見を控えてみて実感しました。
スペースシャトル作りでも、教室で作ったものをそっくりそのまま再現しようとする
息子に「せっかくならもっとと工夫すれば…」なんて言いたくなるのを
飲み込んで眺めていると、そのうち、翼はこうすればかっこいいとか、
屋根をつけてどうこうとか、どんどんパーツが増えて、
(蛇腹トイレもしっかりつけていました)秘密基地みたいに機能いっぱいのすごいものが
出来上がっていました。私の価値判断なんてほんとに
目先だけの狭いものですね。子どもの今やってることの次にくる発想は
思いもよらないもので、そういう広がりを一緒に楽しんでいきたいです。
ちなみにシャトルは今は完全に弟が乗っ取って、
自分の宝物をいっぱい持ち込んで要塞化しています。そんな弟にずいぶん寛大なお兄ちゃん。
やりたいことをやり切れて満足できたからかしら?
壊されたおかげで家でもっとすごいものが作れて、弟にも喜んでもらえて、
我慢した分いいことがあるという経験ができてよかったです。
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(虹色教室でのスペースシャトル作りの様子です。)
★くんのお母さんのコメントにあった2012年 10月13日の記事を紹介します。
娘や息子から心に響いた本やら音楽やら絵画(映画やゲームまで)なんかを
紹介してもらうことがよくあります。
子どもが大きくなってくると、親のわたしが聞いたことも見たこともないような……おそらく紹介してもらわなければ一生触れることも
なかったようなものに惹きつけられて、
自分の世界をどんどん広げていってる様に不思議な感動を覚えることが多々あります。
一方でわたしが紹介したものが、
娘や息子の「一番きれいな~」とか「最高~」という言葉で
口にのぼるのを耳にすると、親子ってやっぱり感性や好みが
似ているところがあるのかな~とうれしい気持ちになります。
娘は「美しさ」に敏感な子。
美術館によく足を運んでいて、
わたしにはピンとこないような古美術品や書のようなものからも、
その芸術的な価値を直接汲み取って、深く感じ入っています。
そんな娘がこれまで読んだ本のなかで最高傑作として
ヘッセの『デミアン』を挙げるのを聞いて、
最初はちょっと驚き、
後からは、妙に納得しました。
なぜ驚いたのかというと、『デミアン』は、
「若い頃夢中になった一冊」としてわたしが娘に薦めた本だったから。
娘の鑑識眼は本人のなかにある揺るぎない感性から来ていて、
他人が良いというから良いと思うタイプではないのです。
後から妙に納得したのは、
ヘッセの言葉の選び方とストーリー展開の仕方は
「美しさ」という点で完成度が高いからなぁ、とも、
娘は古い新しいにかかわらず「美しさ」に敏感だからなぁ、とも思えたからです。
先日、「同じような文を何度も目にしたことがあると思うけど」と前置きして、
娘が本のあるページを差し出しました。
『書きだすことから始めよう』という本の『アインシュタインはどうやってアインシュタインになったか』という章。
同じ種も、養分豊かな土地で水と太陽を浴びてスクスク育てば、
自信も規律も忍耐力もなしに、自然に花開き、
日陰や乾いた地で育つと必死に成長しようとしても弱々しい姿になるという話。
つまり天才と一般人の違いは、育つ環境にあって、
子どものころにどんなふうに育てられたかが、その後の人生を決めているとのこと。
ここで扱われている天才という言葉は
「世間的に大きな成功を収めた特別な才能を発揮した人」というより、
「自分の人生を心から愛してまっとうした人」という色合いが濃いようでした。
娘の興味を引いたのは、
「どうしたら天才になれるのか」というハウツーではなく
そのように人生を愛している人たちが育った環境として紹介されていた内容のようでした。
娘はこれから社会に出て、どのように生きていこうかと考えを巡らせる
時期にいますから、
この本の言葉は、自分のなかの大人の部分が、
夢を描く子どもの部分に
どのように対応すればいいのかを教えてくれるものなのでしょう。
また自分が自分に対して、
気長に根気よくつきあっていかなくてはならないことを学んでいるのかもしれません。
わたしも自分のこと、娘や息子のこと、教室に通ってくれている子どもたちのことを
思いながらそのページにあった『天才が育つ理想の環境』のリストに目を通しました。
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『天才が育つ理想の環境』
●才能を尊重し、大切に伸ばしてくれる。
●なりたいものには何でもなれるし、そのなりたいものが何であっても
変わらず愛しているし、選択も尊重すると常に応援してもらえる。
●好きなことを見つけられるようサポートし、夢を実現する具体的な方法を教えてくれる。
●興味の対象が毎日のようにころころ変わっても、毎回まじめに聞いてもらえる。興味の
対象をすべて試してみる機会が与えられる。
●物事が思い通りいかないとき、文句や不平を言っても受け入れられる。そして
「いやならやめなさい」と叱るのではなく、理解を示してくれる。
●困った事態に陥っても、叱らずに助けてもらえる。
小さな成功でも、両親をはじめ周囲の人々が心から喜んでくれる。
(『書きだすことから始めよう』 バーバラ・シェア アニー・ゴットリーブ著 Discover)
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現実の世界は厳しいところで、自分がなりたいと思ったものに
誰しもなれるわけではないのはひとつの事実です。
自分で天才を目指すにしろ、わが子を天才に育てあげようと目論むにしても、
おこがましくて口にするのもちょっとなぁ、という感じはします。
けれども、景気の悪化や就職難を目の当たりにして
将来に自分独自の夢を描くことすら躊躇してしまう若い子たちを見るのは辛いです。
人生は長いし、その長い道のりを世界にひとりだけの唯一無二の自分として
生きていくのですから、
自分の心を常に明るい方角に向かせてくれるような
オリジナルの夢を自分も持ち続けたいし、
子どもたちにも持っていてほしいです。
わざわざ天才なんて言葉を使わなくてもいいけど、人に生まれたからには、
生まれ持った自分の力を磨けるところまで磨いて、使いきりたいものです。
「店頭に並ぶ際、より高い値段をつけてもらうこと」をゴールにするような
人生なんて、やっぱりつまらない。
世間の人からは低く見積もられたって構わないから
自分らしさを見失いたくありません。
わが子たちににしても、社会のあり様に不平をこぼすよりも
自分の夢を胸のなかで大きく膨らませてほしいし、
一歩一歩前に進むための
ささやかな努力を楽しめるような朗らかさや知恵を持ってほしいです。
そのために親は何をすればいいのかというと、
やはり先の『書きだすことから始めよう』 で挙げられていたリストが重要なのでしょうか。
まず親自身が地に足をつけて自分をしっかり生きている上での話しでしょうが、
子どもがさまざまなことを試して、
たくさん失敗し、何度も選びなおし、何度でも1からスタートし、自分の弱さを受け入れる過程をしっかりサポートしていきたい、
どんな小さな成功もその子自身の心が選んだものなら祝福したい、
と感じました。
以前、「天才」という言葉について、あれこれ思うことを記事にしたことがありますから、貼っておきますね。
----------------------------------------------
<「天才」という言葉>
「天才」という言葉、日本ではタブーのように扱われている部分がありますね。
「英才」や「秀才」や「できる子」は目指せる、作れるけれど、
「天才」は生まれつきのもの
誰もが目指してはいけないもの
子どもが天才であってほしいと願うなんて、ずうずうしいにもほどがある…
そんな声をたびたび耳にします。
でも、私は、英才とか秀才とかできる子って言う言葉が、
あんまり好きではないんですよね。
受験戦争や競争社会という小さな枠のなかで
勝ち抜いていけるか…ていう
大人側からの期待や願望から生まれているような気がするからです。
そして「天才」は…というと、レオナルド・ダ・ウ゛ィンチとかアインシュタインのように、
学ぶことを愛してやまず
人生を自分の思うままに生き抜いたイメージ
が、大らか~で好きなんですよ。
「天才」とは、一般常識や他人の期待に振り回されずに、
「自分」の興味と夢を満喫して生きられる人でしょうし
幸運にも「天職」と呼べる仕事と出会えた人なのでしょう。
私は、周囲に認められるか、
その時代から「天才」という言葉を授けられるかは別にして、
子供たちには どの子にも天才のようにいきいきと生きいって欲しいなぁと思っています。あくまでも願望ですが…。
「天才を作る時間~どれぐらいあればいいのか」の記事のなかでは、
天才を作るのは、☆あなたも「天才」になれる? 10000 時間積み上げの法則という記事のリンクが貼られていました。
そこで「天才」が作られる法則としているのが、
1,10000時間を費やせる努力と情熱。開始年齢はあまり関係ないらしい。
2,時代と才能が一致するタイミング
なのだとか…。
1の10000時間を費やせる努力と情熱。
と言うと、エジソンの
「天才は1%のひらめきと99%の汗」という言葉が浮かびます。
本当は、エジソン自身はピピピッとひらめくことを
重視していたらしく、
(1%のひらめきさえあれば、99%の努力も苦にはならないというニュアンスでこの言葉を発言したらしいのですが…。)
竹のフィラメントを発明するのに1万回失敗しても挫折せずに努力し続けたエジソンの姿は、
英才くん、秀才くん、できるくんからすれば、「実験オタク」や、単なる「バカ」なのかも知れません。
天才を作る時間が10000時間という話の真偽の程はどうであれ、
「何かが好きでたまらないこと」
「心底、ひとつのことに夢中になって打ち込めること」
「誰かのためにでなく、自分で自分の人生を切り開いていること」
が天才の必須条件のようです。
2の、運…
私はこれは、偶然の産物ではなく、
宇宙とうまくシンクロできているかどうか…
SQ(精神的知能の略)…意味や価値という問題を提起して解決する能力を
人生のなかで十分高める事ができたかどうかに関わっているのだろうと
思っています。
SQを高めて行くことが、自分を個性的な人生へと導き、天職と出会わさせるのだと感じるからです。
SQとは、
広い豊かな視野に立ち、自分の行動や人生に意味を見出す能力のことです。
数あるなかから、より意味のある行動路線や
人生の道を選ぶための能力です。
「SQ 魂の知能指数」によると…
IQなら、コンピューターも高いです。
EQ(こころの知能指数)は、動物達も高いです。周囲の状況を察知する能力にたけ、過たずにそのルールに従うことができるのです。
しかし、コンピューターも動物も、
なぜそのルールがあるのかも、なぜそういう状況になっているかも
問うことがありません。
SQを持っている人間は、ルールや状況を変えることができます。
限界と遊び、識別し、道徳観を持ち、厳しいルールを理解と同情で
やわらげることができます。
同情や理解が限界に達したら、限界だと悟る事ができます。
IQは、脳内の「直列的な神経配線」にもとづいているそうです。
EQは、「連想を引き起こす神経配線」にもとづいているそうです。
SQは、脳全体のデーターを統一する神経の共振にもとづいているそうです。
「天才」という言葉から、ずいぶん脱線していますが…
SQテスト
柔軟である能力(積極的かつ自発的に適応できる能力)
高度な自己認識
苦しみに立ち向かい、苦しみを利用する能力
苦しみに立ち向かい、苦しみを乗り越える能力
夢や価値に触発される資質
不必要な危害を他人に加えたくないという気持ち
多岐にわたるものごとのあいだに関連性を見る傾向
「なぜ?」とか「もし何々だったらどうなる?」という質問をし、
゛根源的な”答をもとめる顕著な傾向
心理学者が、゛場独立性”と呼ぶものであること。つまり、因習に逆らう器量を持っていること。
↑のテストがたくさん当てはまるというSQの高い人は
世間の評価はどうであれ「天才」と言えるのかも知れません。
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「娘や息子から心に響いた本やら音楽やら絵画(映画やゲームまで)なんかを
紹介してもらうことがよくあります。」と書きました。
先日、息子のアイポッドタッチから流れている不思議なピアノ曲が気になったので
それについてたずねました。
「ニコライカプースチンだよ」と答えた息子は
ネットで検索した楽譜を示して、「やたら鍵盤をたたきた い人だよね。ほら、超絶技巧系の……!」と言って笑いました。
「確かに目が痛くなりそうな楽譜ね。指も!」
その譜面には、もし日本人が弾くとしたら親指と人差し指を広げるための手術を受けなくちゃならないのでは?……と
余計な心配をしてしまうほど、途方もない速度で鍵盤の上へ下へと移動する音符が
描かれていました。
音量を上げて「ニコライカプースチン」の演奏に耳を傾けていると、
何ともいえない美しいメロディーだとは思うけれど、どう表現したらいいのか
言葉が見つかりませんでした。
それで、「この曲のどんなところが好きなの?どこがいいと思う?」とたずねて、
感想まで息子の言葉を当てにすることに。
「一時期、ピアノソロにはまってさんざんいろんな曲を聴いてたんだけど、
しまいにソロの限界みたいなものを感じるようになってさ。
そんな時にニコライ・カプースチンのソロの演奏を聞いて、新たな境地を見せてもらったような衝撃を受けたんだ。
ジャズ要素が入ってるから、音楽の構造がさ、音の流れをつかみかけたかなと思うたびにいい意味で予想を裏切られて、
くずしているイメージを感じさせずにくずれていってさ、とにかく転調の進み方が面白いんだ。」とのこと。
息子は大の音楽好きで、暇さえあればピアノやギターやシンセサイザーの演奏を聴いたり、
電子ピアノを弾いたりしています。
そんな姿を見ると、やはりピアノを習わせてあげたらよかったのか、
本人が頑として習い事に乗り気じゃなかったんだから
わたしが後悔することでもないのかと
いまだに迷いが残っています。
自己流に勝手に鍵盤をたたいて覚えた息子のピアノの腕前と、
3歳のヤマハに始まって中学3年までの十数年間、先生について
みっちりピアノを習っていたわたしの腕前は、ほぼ同レベル。
今は息子の方が楽器に触れる回数が多い分少し上です。
私自身はピアノ教室でまぁまぁ進みがいい方で、
周囲を見渡しても先生の教わったからといって
ピアニストのように流暢に演奏する子もいなかったことを考えると、
最終的には習っても習わなくてもいっしょで、レッスン費用と時間の節約になったと
軽く捉えていていいものか、
やはり「このひとつだけは」と正しい訓練を受けさせてあげたら
生まれ持った音楽好きの資質に磨きをかけることができたのかもしれないなどともやもや考えて、
わが子のこととなると歯切れが悪いです。
でも、子どもが成長するにつれて、もし「○○をやらせていたらこんな結果を得ていたかもしれない」という皮算用と、
「結局、子どもの自由に選択させて、○○をやらせずに終わった」という事態を比べると、
何かをさせないということは、ゼロでもマイナスでもなくて、
「その子にとって重要な別の何か」をガッチリ伸ばす時間になっていたことを実感してもいるのです。
習い事ゼロで過ごしていた小学校時代に、たっぷりある時間を利用して
紙工作したり、RPGツクールやハイパーカードでゲームを作ったり、映画もどきをを撮影してみたり……
とにかく好奇心に火がともったら、とことん熱中して作り倒す日々があったから、
6年生になると自分から受験勉強に熱中したのだろうし、
今、将来したいことを思い描くことができているのでしょうから。
受験勉強にしても本人に勝手にやらせずに
塾なり家庭教師なりを利用するか
せめて親のわたしがもう少し手助けしてあげれば
もっと効率的に成功路線に乗れていたのかもしれないけれど、
そうしなかったことは、それはそれで、受験自体には不利だったとしても、
自発性とか意欲とか責任感とか打たれ強さとか持続力いった
精神的な資質を高めてくれたのは間違いないのです。
子どもの好きなようにさせてきて
失敗も遠回りもたくさんあったかもしれないけれど、
そうした遠回りは生きることを楽しむ能力と
自ら進んで自分を高め続ける持続力をつけてくれたな、
とわが子たちの成長していく姿に心から満足してもいるのです。
好きなことを応援するのは大事でも、必ずしも才能を見つけ出して
より早期からよりよい教育を施すのがいいとは限らなくて、
そうしないことから得る恩恵は、わが子を将来の夢に導いてくれるようにも思えるのです。
何でもかんでもすべて伸ばしきるのではなくて、
伸ばさなかったことによってできる枠組みが、他の才能を熟成させて、
自分がやりたいことややるべきこと、やり遂げたいことを
際立たせたり、自分の運命を形作ってくれたりもするのです。
息子にしても音楽や絵が好きでたまらないけれど
技能としては訓練をつんでいないことがかえって
どんな既存のレールにも乗ることがないだけに、
自分が本当にやりたいことにはしっかり活かしていけるようなところがあるのです。
将来、自分がクリエイターとして何かを作っていきたいと夢想するときに、
他人の評価や注目でいじられていれていない
そうしたものひとつひとつへの強い愛情を取り入れて統合させながら
最も自分が得意とするものを主に据えて「こういうことがしていきたい」「ああいうことがしていきたい」
と本当にやりたいオリジナルの道を探っていくことができているのです。
そんなことを考えるうちに、
親は前回のリストにあったように、
「なりたいものには何でもなれるし、そのなりたいものが何であっても
変わらず愛しているし、選択も尊重するよ」
「夢を実現する具体的な方法を見つける手助けをするよ」
「興味の対象が毎日のようにころころ変わったって真剣に聞くよ。
興味があるなら何でも試してごらん」
「思い通りいかないときは、文句や不平を言いたくなるものよ。そんな日もあるよ」
「困ったときにはいつでも助けるよ。
あなたの成功はどんな小さなことだってうれしいわ」
といったちょっとゆるめの能天気なエールを送り続けるだけで十分なのかな
と思えてくるのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
続きを読んでくださる方は、よかったら次のリンク先に飛んでくださいね。
「子どもの頃にどんな風に育てられたかが、その後の人生を決めている」という言葉 続き
せっかく博物館や科学館にお出かけしても
その場所での感動が
知的な興味やもっと知りたいという思いにまでつながらない、ということって
ありますよね。
そこで、今回の国立民族博物館への遠足の後で
教室でやってみようと思っている活動をいくつか紹介しますね。
① ごっこ遊びの世界バージョン
イヌイットの暮らしやモンゴルの移動式の住居での暮らしや船上での暮らしを
再現して遊びます。図書館で借りてきた『世界の家』や『世界の子どもたちの暮らし』を
見ながら、部屋を飾りつけたり、料理や生活様式などを真似たりして遊びたいです。
アフリカの散髪屋さんごっこ。
大きな布やバスタオルをサリーのように巻いてみるのも楽しいですね。
②新聞、雑誌、絵本 作り
自分たちが撮った写真を使って、
教室のみんなで共有して楽しめる新聞や雑誌や絵本などを作ります。
民博でそれぞれの子が撮ってきた写真は
もうすぐ完成する虹色教室のマンガ雑誌の巻頭のスクープ写真のページでも
取り上げる予定です。
③民博で見てきたものを工作で表現します。
トーテムポールや楽器やビーズとねんどで作る人形は
誰でもすぐ作れて楽しめます。
↓こんなものが作りたい!」と人気があった民博の展示物です。
動く影絵の人形。
↑ 土笛
↑
↑野菜でできています。
和紙にぬりえをして背後から光を当てると美しいでしょうね。
全て陶器のお皿や湯飲みなどでできていた人形。
アルミハクでこんな美しい作品を作りたい。
金色のペンやモコリンペンで書ける……?
まつぼっくりや木のつるなどでできている巨大な展示物。
↑ この全てがまつぼっくりや木の皮やつるなんかでできているんです!
金箔を貼って、こんなものを作りたい……という子も。
④ 五感で味わう
民族料理のお店に食事に行ったり、
お土産に買ってきたマゲイシロップやモンゴルの岩塩キャンディーなどを味わいます。
うちの子たちが小学生の頃、
遠出した後はよく図書館に行って、
体験した出来事に関連する絵本や図鑑を借りていました。
本が好きになるきっかけにもなるし、
見聞きしたことについて、より深く知ろうとするモチベーションにつながりました。
科学館に行ったら宇宙やロボットや実験の本を借り、植物園に行ったら
草木染めの本や植物の面白い話が載っている絵本などを借り、
美術館に行ったら造形関連の本を借りてきました。
同じ関連で8冊ほど借りると、読み比べるのが楽しいですよ。
(図書館といえば、
『保育士おとーちゃんの子育て日記』の
という記事で、小学生になったお子さんに読んであげているという本を紹介してくださっていました。
わたし自身が子ども時代に読んだ本やうちの子たちが好きだった本があって
うれしくなりました。)
この春休みに国立民族学博物館に行った子たち向けに
↑の本を借りてきました。
いろいろと書きかけの記事が続いているのですが、春休み中はまとまった時間が取れないため、
生活が少し落ち着いてから続きの記事を書いていきますね。
国立民族学博物館で、ごいっしょしたお母さんのひとりが、
こんなことをおっしゃっていました。
「子どもの頃、親といっしょに田舎に行ったり、家族で出かけたりしたけれど、
ただその場所にポーンと連れて行かれる感じで、その後で、どこに行ったのかという説明も
なかったから、その土地の名前やなんかに興味を持つことってなかったんですけど……。
でも、自分の子には、出かけた先のことをちょっと話題にするだけでも、
よく覚えているし、それをきっかけに地名なんかに興味を持つようになるんですよね」
とお話していました。
わかる、わかる……わたしの子どもの頃も同じ……と感じました。
子ども時代、本好きだったわたしは、本から仕入れた知識はたくさん持っていても、
そのほとんどが現実の世界の事物とリンクしていないところがありました。
そうだったのには、もともと、できることできないこと、
わかることわからないことの凹凸が大きいという
特徴を持っていたということもあるのですが、
母の影響も大きい気がしています。
母は子どもに習い事をさせることには興味があったのですが、
自分が見聞きしたことや体験したことに知的な関心を寄せることは、
ほとんどありませんでした。
当時のわたしといえば、地方をテーマにした民話や物語を
たくさん知っていたにも関わらず、
毎年のように四国の愛媛県に帰省しながらも、
愛媛県が地図のどこに位置しているのか知らなかったし、地図を調べてみることも思いつきませんでした。
親が精を出して子どもに知識を与える必要もないけれど、
教育は外注するものと決め付けるの寂しい気がします。
身近な大人の物の見方や考え方やちょっとした配慮で、
子どもをめぐる世界も日々の体験も
知的な好奇心を刺激し、学習意欲を高め、
物事を探究する方法を身につけるチャンスになるのですから。
↑ 国立民族学博物館に出掛ける子たちとのトーテムポールを作り。
ねんどにビーズを埋め込む手芸も人気。
(国立民族学博物館は写真撮影Okです)
楽器作り。
国立民族学博物館 内はとても広いです。
子どもたちの興味にあわせて進んでいたら、
最初の方のパプアニューギニアやオーストラリアやチリなどの
先住民の道具や宗教用ののあたりでかなりの時間を使ってしまいました。
巨大なモアイ像や千と千尋の物語に出てくる顔なしに似た
怪しげな仮面の数々や
「下品なやつがある!」と子どもたちを大騒ぎさせていた
トーテムポールらしきもの(巨大な神様のお○っこを豚が飲んでいるという巨大展示物です。
天地のめぐみや循環を表現したものなのでしょうか?)等に
2、3歳の子らまで大興奮。
ここだけで体力気力を使い果たすほど真剣に眺めていました。
その後、宗教関連の祈祷用の道具なんて子どもたちは軽くスルーしていくだんだろうと思いきや、
小さな飾り物のひとつひとつを写真に収めたり、
「これを作ってマンガ雑誌のプレゼントに使おう!」なんて言ってますから……
民博の半分あたりまで亀の歩みでした。
↑熱心にメモを取っている子までいました。
半分きたあたりから、とても美しくて見応えのあるコーナーに入っていくのですが、
空腹を訴えだした子どもたち。
それでも、触れて学ぶコーナーで、めずらしい楽器を弾かせていただいたり、
影絵の人形を動かしたり、
韓国のチヂミのお店の展示の室内に入らせていただいたりして
元気いっぱいにすごしていました。
↑教室のままごと道具をこんな風に積んでみようと
約束して帰ってきました。
が、最後の最後に、目を見張るような美しい展示物の数々があったにも関わらず、
それらに強い関心をしめしていた子はわずかで、
子どもたちの空腹はピークとなるし、博物館の終了時間がくるしで、
結局、ていねいに見ることができないまま外に出ました。
家に帰って帰ってから、子どもたちの空腹対策をしていなかったことと、
もう少し時間配分に気を配って進まなかったことを悔やんでいたら、
「お腹すいちゃったのはかわいそうだったけど、
時間配分は、それが一番よかったんじゃない?」と息子が言いました。
「最後の立派な展示物に子どもたちがあまり関心をしめさなかったのは、
時間がなかったからやお腹がすいていたからだけじゃないはずだよ。
ぼくも小学生の頃に民博に行ったら、
最初の先住民の仮面あたりが一番面白かったからね。
最後の方のは確かに立派だしきれいだけど、
今の生活でけっこう目にするじゃん。テレビなんかでも見るし。
それより先住民の作り出すものって独特のオーラというか
エネルギーに圧倒されそうになるよね。
それに見るだけで、目的や暮らしがわかる。
自分たちの根っこの部分、つまりルーツとか、人間の知恵とか生きる営みとか恐れや願いといったものとか、
そういうものが、ひとつひとつの展示物から直球で心に飛び込んできて
ゆすぶられるように感じたからね。」とも付け加えました。
それを聞いて、計画で縛りすぎなかったことも
それはそれでよかったのか……と感じました。