息子 「お母さんがさ、表面的には似通っているし、見栄えとしたらその方が立派なのに、こういう体験は子どもに与えたくないって言うものについて聞いていると、シンプルに言いなおすと、親から子へ、大人から子どもたちへとも言えるけど、商業的な色づけをされたものを、あまり与えたくないってことなんじゃない?
マニュアル化されて、個人に向けたような格好を取りながら、集団に向けた画一的な価値観に色付けされた体験を与えたくないんだよね。
ぼくも、お母さんと近い気持ちで、子どもに向けて、個人に対する手紙のように体験が与えられるのがいいと思っているよ。
まるで社会に対して言いわけでもするように、子育てを完璧にする自分という像を作るために子どもを教育し、体験を与える親を見かけるし、そういう人は、言葉にしても、子どもに向けて言いながら実は子どもに向けて言っているのではないって感じだ。
そういう機械みたいな親のもとだと、子どもは孤独だよね」
私 「社会に対して言いわけでもするように……本当ね」
息子 「今の時代、ネットでも、テレビでも、本でも、情報に触れることはいくらでもできるのに、そうした物といくら対話しても、人間はそれだけでは満足できなくて、一人でいると、孤独になるよね。
そうした情報媒体は、やっぱり人間には勝てないから。
人間がそうしたものとどう違うのかというと、その人個人に宛てた体験させる目的で、伝えられるものがあると思うんだ。
人は人から自分独自で調理することができる個人的な体験を受け取るんだと思うよ」
私 「そういえば、お母さんの子ども時代の親も周囲の大人も、けっして今の時代の人より立派だったわけでも、子どもについてわかっていたわけでもないけど、自分らしい体験をすることを許してくれていて、ありがたいと思っていることがいくつもあるわ。
たとえば、読書ね。今みたいに、読書に子どもの学力を上げるための救世主のような役割が与えられていなかった時代で、どの本がどの年代の子にどんな成長をもたらすかなんてこともごく一部の専門家以外、考えもよらなかったから、本当に自由に、好きな物を読んでいたわ。
余計な干渉がないだけでなく、“この本を読む子の方がこの本を読む子よりもレベルが上”みたいな情報も入ってこないから、児童文学が気に入ったら、何年間も同じようなものを読み続けたり、6年生くらいになってから、急に幼児の頃に読んだリンドグレーンの本や世界の童話が読み返したくなって、大きな活字の本を何冊も読んでいたりしたわ。
もちろん、大人が全く関わらなかったわけではなくて、図書館司書の児童文学が大好きな方が親身になって読む本を選ぶのを手伝ってくれたりして、そのおかげで、ファンタジー一辺倒だった読書が、現代の社会問題を扱ったものに広がったこともあったの。
でも幸福だったと思うのは、本当は本好きでも、読書から多くを学んだ経験があるわけでもない人から、こんな本を読みなさいと勧められたり、読む本について干渉されたりしないで済んだことね。
おかげで、どの時期の読書も、私にとって本当に個人的なかけがえのない体験になったから。
大人になって振り返ると、たとえば、6年生の頃に活字の大きな本を読み返しはじめたことにしても、理由として、アイザック・シンガーの描く童話や星の王子様の童話のなんかから、ようやく作者の哲学的な思考や味わいを読み取れるようになってきたからでもあったのよ。
それを活字の大きさの変化や文学としての知名度だけで、子どもの読書のレベルを測るような大人に干渉されないで済んだことは、いくつになっても本への愛情を失わない原因にもなっていると思うわ。
今はね、子どもに、そんな風に純粋に個人的な体験を与えてあげることが難しいわ。外野がうるさすぎるから。
個人的な体験にどんな意味があるのかというと、今の自分の思考と幸福観を形作っていることね。
ただ他人の格付けした“良いもの”を消化していくだけでは、たとえ、読書が最高の学歴を授けてくれる助けになったところで、それが自分にとって個人的な体験でない限り、将来の自分自身の思考と幸福感につながるかというと、怪しいものね」
息子 「そういえば、お母さんが子どもたちにやらせている科学工作なんかも、あれって相手が自分自身の体験をするための場を提供していると言えるよね。
お母さんの工作は、それぞれの子どもに向けた手紙だよね。
お母さんの教える工作は、工作作品としても、工作技術としても、そこでの作品化を目指したものではないから。
今は学校でする運動会ですら、親たちの目を楽しませるための作品に仕上げられていて、本当の意味で、子どもたちの個人的な体験ではなくなっているよ。
事前に計画されすぎて、決まった価値が与えられすぎて、もうそこで、子どもが純粋に、かつての子どもたちが運動会でしたような体験をすることができないんだ。
前にさ、大阪の子への教育で、授業で携帯のゲーム機を活用したり、学校内に塾の講師を呼んだりして、子どもたちへの勉強を強化させる一方で、ごほうびの意味で、ユニバーサルスタジオの連れて行こうなんて教育案が出ていたじゃん。
あれに対する違和感というのは、勉強を耐えねばならない辛いものと想定して、子ども時代を通じて継続的に与えられる唯一の辛さであるかのように設定して、次には、遊園地のような受動的な楽しみを対局においてさ。
そうして、子どもにあるのは、たった一種類の辛さと、たった一種類の楽しさであるかのように錯覚させるところにあるんじゃないかな。
それは辛さというのを、1本だけの細い数直線上の乗せて捉えたために起こる錯覚だと思うよ。
だって、辛さといっても、人はかならず、それを嫌悪するわけじゃない。
世の中には我慢大会なんてものがある通り、お腹が減る辛さとか、けんかする辛さとか、スポーツで我慢する辛さとか、孤独の辛さとか、多種類の辛さを認めると、それにぶつかって、耐えきることも、自分から求めていくもののひとつでもあるよ。
それが大人から与えられたたつた一種類の辛さとたった一種類の楽しさだけしかないとしたら、その辛さは本当に逃げ出したいくらい苦しいものになると思うよ。
子ども時代が、プラス方向とマイナス方向へのどちらかに向けてのぶれでしかなかったら、遊園地のようなところで遊んでいる最中も、その矢印が逆戻りする瞬間と、楽しみ自体に飽きて、全てがマイナス方向の流れに変わるときを予感して、辛い憂鬱な気持ちになるだろうな」
息子 「さっき言った料理を作るときに、よりおいしいもの、いいものを作ろうとしてしまうことが、良いことだけでなく、近代人の問題にもなってしまうのってさ。
鑑賞する対象として、よりよくあることを目指した結果、受け取る側の体験が、その他大勢に向けられた受動的なものになりがちだってことだよね。
自分の体験にはならない。
今はテレビゲームも壮大な映画のような鑑賞の対象で、ぼくが小さい頃、遊んでいたピンボールのゲームみたいに、最初は純粋に玉が転がってくのが面白いってとろこから入っていって、自分の感受性を使って楽しさを広げていくような体験自体を味わえるものではなくなっているんだ。
ぼくが作りだしたいと思っているのは、作品として数値で評価されるものではなくて、誰かに宛てて、ワクワクする体験を提供する場になるものなんだ。
頭のいい人にはわかって、そうでない人にはわからなくてとか、映像やシナリオを数値化して他と比べて良いものを目指すのでなく、こんなことがしてみたかったんや!って感情が揺さぶられるようなものが作りたいんだよ」
私 「きっと、いいものができるわよ。いつも、作品作りのことを考えているんだから」
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美術館に出かける準備をしていたら、息子が勉強道具を抱えてクーラーの効く部屋に移動しながら、「大学への数学、年間購読するのに、かなりかかったけど、かかった投資以上の収穫だよ」と笑顔で言いました。
「今日も、新井紀子先生の対話を読んで、ラングの『解析入門』に載っていた問題を全部解いてみました、って話題があって、そんな風に、没頭するように勉強してみたいなって思ってさ。
受験での成功に凝り固まった勉強をしないことでさ、せめて、心の中はね。
大学に入ってから、遊びたいなんて気は少しも起こらなくなるよ。
こんな風に勉強したい」
そう言いながら、大学への数学の新井紀子先生の対談の記事をひらいて見せました。
私 「面白そうね」
息子 「数学って、より複雑で難しいものを目指している学問じゃなくて、複雑で難しい現実社会をいかに単純にするかを目的にしているものだと思うよ。
数学を使って、今の世界をよりシンプルにメタな視点から眺めていくと、いろいろな物事がだんだん易しくなっていくよ」