虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

今の時代を生きるということをめぐって (わが子とおしゃべり)3

2022-04-14 16:46:37 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

息子 「お母さんがさ、表面的には似通っているし、見栄えとしたらその方が立派なのに、こういう体験は子どもに与えたくないって言うものについて聞いていると、シンプルに言いなおすと、親から子へ、大人から子どもたちへとも言えるけど、商業的な色づけをされたものを、あまり与えたくないってことなんじゃない?

マニュアル化されて、個人に向けたような格好を取りながら、集団に向けた画一的な価値観に色付けされた体験を与えたくないんだよね。

ぼくも、お母さんと近い気持ちで、子どもに向けて、個人に対する手紙のように体験が与えられるのがいいと思っているよ。

まるで社会に対して言いわけでもするように、子育てを完璧にする自分という像を作るために子どもを教育し、体験を与える親を見かけるし、そういう人は、言葉にしても、子どもに向けて言いながら実は子どもに向けて言っているのではないって感じだ。

そういう機械みたいな親のもとだと、子どもは孤独だよね」


私  「社会に対して言いわけでもするように……本当ね」


息子 「今の時代、ネットでも、テレビでも、本でも、情報に触れることはいくらでもできるのに、そうした物といくら対話しても、人間はそれだけでは満足できなくて、一人でいると、孤独になるよね。
そうした情報媒体は、やっぱり人間には勝てないから。
人間がそうしたものとどう違うのかというと、その人個人に宛てた体験させる目的で、伝えられるものがあると思うんだ。
人は人から自分独自で調理することができる個人的な体験を受け取るんだと思うよ」

私  「そういえば、お母さんの子ども時代の親も周囲の大人も、けっして今の時代の人より立派だったわけでも、子どもについてわかっていたわけでもないけど、自分らしい体験をすることを許してくれていて、ありがたいと思っていることがいくつもあるわ。

たとえば、読書ね。今みたいに、読書に子どもの学力を上げるための救世主のような役割が与えられていなかった時代で、どの本がどの年代の子にどんな成長をもたらすかなんてこともごく一部の専門家以外、考えもよらなかったから、本当に自由に、好きな物を読んでいたわ。

余計な干渉がないだけでなく、“この本を読む子の方がこの本を読む子よりもレベルが上”みたいな情報も入ってこないから、児童文学が気に入ったら、何年間も同じようなものを読み続けたり、6年生くらいになってから、急に幼児の頃に読んだリンドグレーンの本や世界の童話が読み返したくなって、大きな活字の本を何冊も読んでいたりしたわ。

もちろん、大人が全く関わらなかったわけではなくて、図書館司書の児童文学が大好きな方が親身になって読む本を選ぶのを手伝ってくれたりして、そのおかげで、ファンタジー一辺倒だった読書が、現代の社会問題を扱ったものに広がったこともあったの。

でも幸福だったと思うのは、本当は本好きでも、読書から多くを学んだ経験があるわけでもない人から、こんな本を読みなさいと勧められたり、読む本について干渉されたりしないで済んだことね。

おかげで、どの時期の読書も、私にとって本当に個人的なかけがえのない体験になったから。

大人になって振り返ると、たとえば、6年生の頃に活字の大きな本を読み返しはじめたことにしても、理由として、アイザック・シンガーの描く童話や星の王子様の童話のなんかから、ようやく作者の哲学的な思考や味わいを読み取れるようになってきたからでもあったのよ。

それを活字の大きさの変化や文学としての知名度だけで、子どもの読書のレベルを測るような大人に干渉されないで済んだことは、いくつになっても本への愛情を失わない原因にもなっていると思うわ。

今はね、子どもに、そんな風に純粋に個人的な体験を与えてあげることが難しいわ。外野がうるさすぎるから。
個人的な体験にどんな意味があるのかというと、今の自分の思考と幸福観を形作っていることね。

ただ他人の格付けした“良いもの”を消化していくだけでは、たとえ、読書が最高の学歴を授けてくれる助けになったところで、それが自分にとって個人的な体験でない限り、将来の自分自身の思考と幸福感につながるかというと、怪しいものね」


息子  「そういえば、お母さんが子どもたちにやらせている科学工作なんかも、あれって相手が自分自身の体験をするための場を提供していると言えるよね。

お母さんの工作は、それぞれの子どもに向けた手紙だよね。
お母さんの教える工作は、工作作品としても、工作技術としても、そこでの作品化を目指したものではないから。

今は学校でする運動会ですら、親たちの目を楽しませるための作品に仕上げられていて、本当の意味で、子どもたちの個人的な体験ではなくなっているよ。

事前に計画されすぎて、決まった価値が与えられすぎて、もうそこで、子どもが純粋に、かつての子どもたちが運動会でしたような体験をすることができないんだ。

前にさ、大阪の子への教育で、授業で携帯のゲーム機を活用したり、学校内に塾の講師を呼んだりして、子どもたちへの勉強を強化させる一方で、ごほうびの意味で、ユニバーサルスタジオの連れて行こうなんて教育案が出ていたじゃん。

あれに対する違和感というのは、勉強を耐えねばならない辛いものと想定して、子ども時代を通じて継続的に与えられる唯一の辛さであるかのように設定して、次には、遊園地のような受動的な楽しみを対局においてさ。

そうして、子どもにあるのは、たった一種類の辛さと、たった一種類の楽しさであるかのように錯覚させるところにあるんじゃないかな。

それは辛さというのを、1本だけの細い数直線上の乗せて捉えたために起こる錯覚だと思うよ。

だって、辛さといっても、人はかならず、それを嫌悪するわけじゃない。

世の中には我慢大会なんてものがある通り、お腹が減る辛さとか、けんかする辛さとか、スポーツで我慢する辛さとか、孤独の辛さとか、多種類の辛さを認めると、それにぶつかって、耐えきることも、自分から求めていくもののひとつでもあるよ。

それが大人から与えられたたつた一種類の辛さとたった一種類の楽しさだけしかないとしたら、その辛さは本当に逃げ出したいくらい苦しいものになると思うよ。
子ども時代が、プラス方向とマイナス方向へのどちらかに向けてのぶれでしかなかったら、遊園地のようなところで遊んでいる最中も、その矢印が逆戻りする瞬間と、楽しみ自体に飽きて、全てがマイナス方向の流れに変わるときを予感して、辛い憂鬱な気持ちになるだろうな」

息子 「さっき言った料理を作るときに、よりおいしいもの、いいものを作ろうとしてしまうことが、良いことだけでなく、近代人の問題にもなってしまうのってさ。

鑑賞する対象として、よりよくあることを目指した結果、受け取る側の体験が、その他大勢に向けられた受動的なものになりがちだってことだよね。
自分の体験にはならない。

今はテレビゲームも壮大な映画のような鑑賞の対象で、ぼくが小さい頃、遊んでいたピンボールのゲームみたいに、最初は純粋に玉が転がってくのが面白いってとろこから入っていって、自分の感受性を使って楽しさを広げていくような体験自体を味わえるものではなくなっているんだ。

ぼくが作りだしたいと思っているのは、作品として数値で評価されるものではなくて、誰かに宛てて、ワクワクする体験を提供する場になるものなんだ。
頭のいい人にはわかって、そうでない人にはわからなくてとか、映像やシナリオを数値化して他と比べて良いものを目指すのでなく、こんなことがしてみたかったんや!って感情が揺さぶられるようなものが作りたいんだよ」

私  「きっと、いいものができるわよ。いつも、作品作りのことを考えているんだから」


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美術館に出かける準備をしていたら、息子が勉強道具を抱えてクーラーの効く部屋に移動しながら、「大学への数学、年間購読するのに、かなりかかったけど、かかった投資以上の収穫だよ」と笑顔で言いました。

「今日も、新井紀子先生の対話を読んで、ラングの『解析入門』に載っていた問題を全部解いてみました、って話題があって、そんな風に、没頭するように勉強してみたいなって思ってさ。
受験での成功に凝り固まった勉強をしないことでさ、せめて、心の中はね。
大学に入ってから、遊びたいなんて気は少しも起こらなくなるよ。
こんな風に勉強したい」

そう言いながら、大学への数学の新井紀子先生の対談の記事をひらいて見せました。

私  「面白そうね」

息子 「数学って、より複雑で難しいものを目指している学問じゃなくて、複雑で難しい現実社会をいかに単純にするかを目的にしているものだと思うよ。
数学を使って、今の世界をよりシンプルにメタな視点から眺めていくと、いろいろな物事がだんだん易しくなっていくよ」


今の時代を生きるということをめぐって (わが子とおしゃべり)2

2022-04-12 16:03:19 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

数日前、
「現代の子どもたちの体験が、事前に何を得て、何を感じるべきか定められているような体験が増えていること。
習い事にしても、エンターテイメントの場にしても、1つのレールを走る列車に子どもを乗せてしまうような体験になっていて、その子は、その線路の方角にしか進めないし、そこで得られる価値は、どれだけの距離をどれだけの時間で移動できるかって価値に限定されてしまう」
ということについて、夕食時に話題になりました。

その時、私は、言葉にしたいことがあるものの、うまく言い表せなくて、何とか伝えようと、尻つぼみの意見を言いかけて、そのままになっていました。

すると、昨日、食後にのんびりipodタッチをいじっていた息子が、画面から顔を上げて、次のようなことを言いました。


「この間、お母さんが言ってた子どもを1本のレール上を進ませるような体験が増えているって話だけどさ。

現国の勉強しながら考えていたんだ。

子どもにそうしたすでに価値の体系が決まった体験を与えて、合理的に、ひとつの数直線上に乗せて育てていくことの弊害って何だろうって。

それで思ったんだけど、視点が数直線上の一点だけに限られるために、すべてを知った気になって、無知の知を経験することができなくなるんじゃないかな」


私  「確かに、そうよね」


息子 「世界そのものが、細い線内に狭まれば、知りようのない自分の未来や、自分を取り囲んでいる世界の何から何まで、把握できているような錯覚に陥るよね。

知ることは良いことばかりのように思われているけれど、知るということには、うれしさや楽しさと表裏一体で、毎回、悲しさやつらさというようなものも付きまとうものだと思うよ。

現国で読む問題で、近代人の抱える問題点についてよく取り上げられているけれど、そうした文を読むと、共感できるところもあるけど、ちょっと違うと感じるときもある。

ぼくが思う近代人の問題っていうのは、料理を作るときに、よりおいしいもの、いいものを作ろうとしてしまうってことだと思う」

私  「そうそう。まるで物事の価値を決める一本の数直線が存在しているという共通認識があるみたいよね。格付け可能な」

息子 「ほら、絵を描くときの楽しさは、ある意味で、どんな人にも無限の可能性が開かれているところがあるよね。

一番、最初に描き始めるときに、誰もが下手くそな状態からスタートするという点で。

それが、写真だと、もちろんそれも上手い下手の基準があって、最初は下手であることに変わりないけれど、初心者にも完成された風景をそのままの状態で撮れるという点で、体験の質がちがうと思うんだ。

ほら、もし、人間がみんな最初から写真を撮るように上手に絵が描けてしまったとしたら、誰もかれもが、写実的な写真のような絵を描けたとしたら、絵そのものって何なの?って疑問にもぶつかると思うんだ。

これは、前にお母さんが、合理的で体系化されたレッスンのシステムに乗りながら、幼稚園や小学校低学年のうちに、ある程度、上手にピアノが弾けるようになっている子が、あまりにそのシステムでの進歩状況にとらわれるあまり、その子個人としての音楽の楽しさや音楽から得る喜びで出会うことができるのかって、気にしていたことがあるよね。それに近いのかもしれない。

写実的に写真のように絵を描く能力を、最初から人が装備していたとしたら、それは同時に、今の絵の世界にある多様性や豊かさを生み出せたのか疑問だよね」


息子が絵について話すのを聞いて、ちょうどその日の年中さんたちのレッスンであった出来事を思い出しました。



私は息子に向かって、こんな風に話しました。

「教室にね。今日、レッスンに来ていた子だけど、幼稚園で絵が上手だとか下手だとかいう評価に触れて、ぼくは絵が下手くそだからかかないと言い張るようになった男の子が来ていたの。

その子は頭の良いしっかりした子なんだけど、それだけに、そうした他の子と自分の違いに敏感になっていて、何度もやりたがることと、絶対やらないって言い張ることの差が大きくなっていたのよ。

女の子たちが、てつぼう人形を作るんだといって絵を描きはじめたとき、その子は、緊張した様子で、ぼくは描かないよ。ぼくは絵が下手だもん。ぼくは嫌だからねって繰り返していたわ。

この男の子は、その日、家から戦隊物のおもちゃを持ってきていてね、女の子たちが、そんなのこわーい、って口ぐちに言うのを聞いて、ぼくは怖くないから、ぼくはね、おばけだって怖くないんだから、こんなのちーっとも怖くないんだよ、と言って得意そうだったの。

それで、私は、絵を描かないか誘うときに、■くん(その子)は勇気があるよね。
怖ーいものも、怖くないんだもの。おばけがてつぼうするの作らない?怖ーいやつ!
と言ったの。
すると、その子は、照れ笑いを浮かべながら、へぇ、みんなおばけが怖いんだ、ぼくは怖くないよ、と言いながら、画用紙に、一つ目のおばけを描いたの。

女の子たちが、おっかなびっくり覗き込むのに気を良くして、あと3つ目玉を描き加えて得意そうだったわ。
確かに出来栄えとしたら、筆圧が弱くてくにゃくにゃした絵ではあったけど、上手か下手かという一直線上の価値評価ではなく、怖さとかそんな絵が描ける勇気というか、独自の価値観が生まれたことで、その子はとても満足そうに自分の作品を眺めていたのよ。
自分の絵が下手だとも、もう絵を描きたくないとも言わなかったわ」


息子 「そうして、差別化すると、まったく別の視点から切り込んだ価値が与えられるよね。
お母さんは、子どもたちが、一本のレール上の決められた価値観の上を生き急ぐように育てられていくのを気にしているよね。

その問題について、子育てをしている人たちに懸命に伝えようともしている。

でも、それが一向に伝わらなかったり、伝わったとしてもごく一部だけ良いとこ取りした形でしか、受け入れてもらえない理由は、そうした数直線上の価値を1つに絞った育て方が、子どもの感情面を無視して考えれば合理的に成功しているからでもあるんだよね。

社会的に評価される結果を、いかに素早くたくさん子どもに与えるかが、子育ての唯一の意味だとしたら、親の存在は機械に取って変わられるのかもしれない。

親の存在が、子どもの成長促進マシーンのようなものだったら、人間は機械に育てられると、やっぱり上手くいかないんじゃないかな?

そこで、何が問題になってくるのかというと、子どもの孤独さなんじゃないかな?

子どものためと言いながら、時間ですら物のように換算して、4歳の時、子どもにこれこれこういうことをこんだけさせたら、20歳になったら、これだけの時間がかかるものがマスターできて、子どものためにたくさんの時間やすばらしい選択枝をプレゼントをしてあげることができる、なんて言う親は、機械となんら変わらなくて、言葉で何度、愛情を表現しても、そこに人間らしい愛情は感じられないよ。

子どもの側から、どんな親に育てられたいのかと考えると、親の愛情なんてわざとらしいものじゃなくて、子どもを相手にするとき、子ども自身を見て、自分自身を正直に出して人間味を感じさせてくれる親がいいんだって思う」


次回に続きます。


今の時代を生きるということをめぐって (わが子とおしゃべり)1

2022-04-11 13:59:00 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

当時、高校生だった息子と交わした懐かしい会話です。

(イラストは息子が学校の美術の授業で描いてきた絵です)

ブログやツイッターが盛んな今、好きな芸術家や学者の素顔や普段の生活に触れることができる一方で、「あれれ?」「うーん……」と困惑してしまうような失言や行動を目にすることも多くなってきました。

人間なんだし、完全完璧であるはずないし……と思いつつも、それをいっせいに攻撃する匿名の人々が、ネット内には、うようよいますし、誰かのファンとして心穏やかに、純粋なあこがれだけを抱いていくことは難しい時代のように感じます。

そんなことを息子と話しているとき、普段は、
「ぼくは作品重視だよ。ゴシップや失言と作品の価値とで、はっきり線引きしているんだ。作品や考え方のクオリティーしか見ない」
と言っていた息子が、慎重に言葉を選びながらこんなことを言いました。


息子  「作品以外のネタで、作品そのものの価値をゆがんだ先入観で眺める態度は嫌いなんだけど、尊敬している作者や学者のツイッター上での発言を見ると、どんなに完璧で論理的な考えを構築することができる人も……というか、そんな風に言葉の世界で表現できるものの完成度が高い人ほど、日常のさりげない営みに含まれているものとか、感情とかいったものを、軽視しているように感じられるよ。
みんながみんなってわけじゃないけどね。

学問の世界にどっぷり浸っていると、自分の追及している学問の奥深さに惹かれすぎて、対象であるそのものが人生より上だって思いこんでしまうのかもしれない。
それで成功している人はいるし、そう考えることが、悪いとは言いきれないけど。
クリエイターじゃなくても、社会的に成功している人にも同じようなことが言えると思うんだ」

私   「同じようなことって?」

息子  「成功は、すばらしいことではあるけど、人の人生に組み込まれている一部でしかないからさ。

ものすごく成功した人がいたところで、その成功という取りだした部分について言えば、誰からも注目されず平凡で無価値だと評価されるような生き方をしている人であっても、人の方が上だと思うんだ。

成功という対象と、人間という神秘的でどんな潜在的なものが隠れているかもわからないものとを比べれば、
成功がどんなにすごいものであっても、人がどんなにつまらない人に見えても、人が上ってことだよ。

学問にしても、作品にしても、成功した実績にしても、生きている人には、絶対、勝てないと思うよ。
どんなに感動する物語も、その人の生まれてから死ぬまでの軌跡には勝てない。

完璧な理論が発表されて、その内容が最高の出来栄えだったところで、その文章の上には、不完全さを持っている人間がいるよね。

論文の作者が、自分の関わっている世界にどれほど惹かれるあまり目の前にいる人間を軽んじてしまうって、本当によく見かけることだし、何かを突き詰めてくことにつきものなのかもしれないけど、そうすると生きている実感が薄れていくように思う。

ぼくは、その自分の関わる世界をとことんまで追及したいけど、同時に、人間らしい暮らしや感情を大切にしたいな。

完璧さを競うより、人間らしいファジーさとか、タイミングといったものが重要だと思うんだ」

私  「幼い子の世界からも、そうした人間らしいファジーさや、タイミングの大切さが奪われている気がして、何だかもやもやといやな気分になるときがあるわ。

子どもに習い事をさせるのも、小学生や中学生に受験させるのも、塾に行かせるのも、もちろん各家庭の自由で、それに対して、反対というわけではないんだけど……。

でも、現実にそうしたすでに出来上がっている価値の体系に巻き込まれて、子どもそのものから、未知のまだだれにも気付かれていない道を発見してやろう、自分の夢をつかみ取ってやろう、自分のしたいことを創り出してやろうという伸び伸びとした自由な感じが失われているのを見ると、こちらが窒息するような窮屈さを感じるときがあるの」


息子  「うーん。そうだな。テレビやネットの情報のせいかもしれないけど、する前からそれをすることによって何が得られるかとか、どんな気分を味わえるのかが決まっているような感じがあって窮屈だったりするよね。

幼い子たちがピアノと出会うにしても、ゼロの状態で鍵盤に触れて、あっきれいな音がする、とか、何べんも触ってみたいと感じたり、楽しい気分になったり、やっているうちにこれは自分に合いそうだと選ぶとかいう自分の中から湧いてくる思いのタイミングと、目標や夢を設定するタイミングがぴったり合うってことが少ないだろうね。

ピアノなら、最初から先の目的が大人の手で決定づけられていて、上手になるとか楽しむというすでに示されている目的をなぞりながら、楽しいって気持ちまで、予定通りの反応になってるよね。

そうなると、一見、能動的に見える活動も、テレビを見たり、ゲームをしたりするような受動的な活動とあまり変わりがなくなってくる気がするな」

 

息子  「実体験の大切さを耳にするけど、あらかじめ何を得るかも、どう感じるべきかも決まっている実体験って、どうなんだろう。

そいうものが増えているし、そういうものしか求められなくなりつつもある。
でも、それって、せっかく人生の一場面として素のままで体感できるはずだったものを、疑似体験に変えてしまわないのかな?

生きているのって、何かやって、発見することの連続だ。自分でそれを発見すれば、自分らしさが残るよね。
生きている実感って、その場その場に、そうして自分の存在を残していくことで感じるものだよ。

すでにわかっている……一定の結果を出すように求められ続ける時間が、大人の手によって人生とすり替えられているとしたら、むごいよね」


私  「そうよね。もちろん、そういう体験の全てが悪いって思うわけじゃないけど。
でも、子どものする体験が、親がカタログショッピングでもするように購入した○○コースの一過程ばかりだと……
それこそ、四六時中、そんな体験を梯子して過ごしている子もいるわけだけど……

さっき★(息子)が言ったように、そこから何を得て何を感じるべきか事前に決められているものを、ひたすら体験していく子が、そこで楽しそうにすることも、義務のようにやってみせつつ、ワクワクも好奇心も、ゆっくり自分の内面であたためていこうとせずに、その場その場で消費していく様を見ると、つらいのよ。

どの方向にも歩けるし、どんな歩き方もできるし、どんな利用の仕方もできた土地があったとして、そこに線路ができて、いったん子どもを列車に乗せてしまうと、もうその子は、その線路の方角にしか進めないし、そこで得られる価値は、どれだけの距離をどれだけの時間で移動できるかって価値に限定されてしまうわよね。

もちろん、ただ自由だけを与えたらいいと思っているわけじゃないわ。
でも、昔、大人が、お祭りやら、花火大会やら、夏休みの宿題帳なんかで、子どもに提供していた体験と、今の体験は、同じタイトルがついていても、どこか質が異なるように感じるのよ。
それは遊園地のアトラクションを、事前に情報に目を通して体験するようになった頃から変わってきたのかな?

未知の何が生まれてくるのか想像もつかないような日々の中にどっぷり放り込まれていく感覚とはずいぶん違うわね。」


そういえば、数日前も、これと似た会話をしたばかりでした。

息子  「文章にしても、映画にしても、ゲーム制作にしにても、音楽にしても、もうすでに良い手は出尽くされた感があって、まずはその先人の道を辿って訓練することが筋だとわかっていても、どこかで本気になれないな。

今のぼくたちの世代は、物心ついたときから、できあがってしまっている世界に触れ過ぎて、もう全く新しいものなんて生まれようがないんじゃないか、創造しようがないんじゃないかという冷めた気持ちを持っちゃいがちだな」

私   「全部、手は出尽くした!もうここで頭打ち! って時代の空気があるものね。でも、もう無理!限界!って時こそ、それまでと想像できなかったような新しい価値体系が生まれるんじゃないかしら。
★が前に言ってたでしょう? ネットの世界も、ネットだけっていう従来の遊びから、ネットを介しつつ、同時にリアルな体感を伴う遊びや新しいスタイルの人間関係を作るような遊びが増えてくるんじゃないかって」

息子  「そうだよ。ぼくも、すでに良いものは作られ尽くしているから、他の人の二番煎じじゃ嫌だ、もう新しいものは生まれそうにないからしらけてしまうって、ぼやいている年齢ではないんだよな。

それなら、自分は何ができるのか、創造的にそれを解決するにはどうすればいいのか、自分で考えることが求められる年になったんだよな~。
ぼやいてるだけじゃだめだな。やっぱ。
考えてるんだけどね、いつも。まぁ、がんばるよ」

次回に続きます。


学校が辛い子に知ってほしいこと

2021-06-08 11:57:45 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)
新型コロナウィルスの感染拡大の影響で、
東京で就職し、エンジニアとして働いている息子と1年以上会っていません。
時折かかってくる電話で、息子の元気な声を聞いては、
ほっと胸を撫で下ろしています。
 
先日、そんな息子から、LINEでメッセージが入っていました。
ペットボトルに懐中電灯を当てている写真と共に、
「ペットボトルに床用ワックスを入れて照らすと、夕焼けが作れるらしい。
空で起こっていることと同じレイリー拡散が起こるらしい」
とのこと。
 
「以前、教室でそんな実験をしたことがあるよ。
空の色のことにすごく興味を持っている子がいたからね」と返すと、
「さすが(笑)」という返事と一緒に、
「空や光のことに興味がある子がいたら、
パソコンでそういうのを再現する職業もあることを教えてあげると
大人がやっていることが見えてきていいかも」
と返ってきました。
 
そんなやりとりの後で、仕事の調子はどうかたずねると
「エンジニアは楽しいのと、自分のペースでできるのと
自由度が高いから、本当に楽でいいと思うよ。
朝起きれない・
人に指示されるのが嫌い・
マルチタスクができないタイプに天職」
とのことでした。
 
それから、
「働いているけど、落差で言えば小中高より今が楽。
宿題もなければ、
好きなことやっているだけでお金もらえるから、
学校が辛い子に知ってほしい」
と締めくくっていました。
 

息子とおしゃべり 『就活を通じて感じたこと、考えたこと』1 

2019-10-17 20:06:44 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

来年の春から東京のIT業界での就職を予定している息子。

就職活動を続けるうちに、以前は気にもとめていなかったウェブの

無料文化に問題意識を持つようになったそうです。

何にどんな問題を感じたのかあれこれたずねるうちに、ずいぶん

長いおしゃべりになりました。

 

息子「無料市場が大きくなりすぎて、ローコストで楽しめる娯楽が幅をきかせているよね。

何年か前にお母さんが『フリー』(フリー<無料>からお金を生み出す新戦略)っていう本を

買ってきた頃は、まだ無料のものってめずらしかったけど、

今じゃ漫画やゲームはもちろん、創作の発表の場も知りたい情報も

無料で手に入るようになってる。ウェブ業界は今は無料を売りにしたビジネスモデルが

市場を大きく独占している。

自分がそういったものを利用する側だけの視点から見ていた頃は、

安ければ安いだけいいし、無料ならなおいいと思って

フリーでできるサービスを進んで探す立場だったけど、

これからウェブの世界で仕事をしていくことを

意識して就活するうちに、そのビジネスモデルの不健全さのようなものが

気になりだしてさ」

 

母(私)「不健全さ?」

 

息子 「無料で提供しているからみんなそれを使うってことを土台にしているがゆえの

構造の不健全さってことかな。無料サービスのもとは、広告費だから、

ウェブ上で何か創作するにしても、メインはいかにその中に広告を組み込んでいくか、途中でお金を

使わせるような形を仕込んでおくかっていう

創作物そのものの質とは関係ないところになるよね。

それは長い目で見ると、作る側も受ける側も不幸にしていくような気がするよ。

もし無料でなければ、いくつもの企業が

提供されている情報なり商品なりの質で独自性を出そうとするじゃん。

そうしたシンプルな構造で市場が成長しているなら、どの会社も、商品を使うお客さんが

幸せになれるような内容、つまり創るものの質だけに注意を向けられるわけでさ。

ネットの世界は本来いくらでも価値を生み出せる、あらゆるものを

無限に提供していける場なんだろうけど、そこが無料のビジネスで

独占されると、メインの仕事が生産することではなく

すでにある財産の取り合い、つまり

既存スペースの奪い合いと顧客の奪い合いになってしまうよ

無料でできることの域が発展し、有料が発展しないっていうのは、

創造的に新しいものを生み出していく力を奪うなぁて」

 

 

母 「確かにそうよね。これまで無料で利用できることに

何の疑問も感じずにきたけど。

 でも、それをなぜ就活していて感じたの?」

 

息子 「こうしたことを考え出したのは、

就活の準備を重ねるうちに、

お金を稼ぐ側、サービスを創り出す側の視点に移っていったこともあるけど、

ただ社会のあり方にどうのこうの言いたいっていうより、

これから自分がどういうポリシーを持って創っていきたいか

自分の中でじっくり考えを練っておきたいという思いが強いよ。

一昔前の映画監督とかいろんな分野のクリエイターは、売り上げとはかけ離れたところで

作品に魂を込めるといった感性があったよね」

 

母 「そう、そう」

 

息子 「そんな風に、作る側の人間が、作り出したものの価値を大事にしていくには

どうあるべきか、これから社会に出ていく個人として考えていきたいんだ。

社会を構成しているのは個人個人の働き方で、就活していても、

企業もけっこう、そうした個人のよりいい形の働き方を大事にしているし、

社会全体を幸せにしたくて、それぞれがビジョンを持ってる。

面接でも会社の上の方の役職の人ほど、こういう儲け方が蔓延している世の中はよくないんじゃないか、

とまで大げさなものじゃなくても、

ゲーム業界なら、自社の儲けを考えるだけでなく、ゲーム業界全体を活発にしていこう、

人の生活をよくする事業、現在の社会問題を解決し、不安を取り除くインターネット事業を

作っていこうと考えていることが、話をする中で伝わってくるんだ。

だから働く側も、個人は個人として、自分の中心によく考えて練った軸を持っていたいんだ」


内向的直観タイプの子のわかりにくさについて

2019-05-14 21:52:19 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

教室でひとりひとりの子とじっくり関わっていると

この子は感覚、感情、直観、思考の

どれを主にしてものを考えていくのかよく見えてきます。

とはいえ、見えやすいタイプ、見えにくいタイプというのはあって、

子どもの姿の一部分だけ捉えて、「この子は○○タイプだろう」と決め付けても

あまり意味はないと感じています。

「こういう面があるから、この子は○○タイプじゃないかな」という印象は持っても、

「やっぱり、○○タイプなんだろうな」と実感するのは、何年もの期間、遊んだり、物を作ったり、考えたり、

おしゃべりしたりする姿を見守り続けた後となります。

「この子は、○○タイプじゃないかな」と思っても、関わる時間が増えるにつれて、

「最初の印象とは別の○○タイプの子にちがいない」という確信を持つようになる子もいます。

 

教室でスーパーボールすくいのような遊びをする時でも,

性格タイプによって、何に熱中するか、何をもっとも面白いと感じているか、どんなことに気づくか、

そこから何を学びとるかなどはずいぶん違います。

わたしが、「ちょうど100グラムぴったりになるようにスーパーボールをすくってね」とはかりをだすと、

直観タイプの子たちは、コップに入れたスーパーボールを何度か試しに量ってみてから、

戦略的に100グラムちょうどになるような方法を編み出そうとします。

「スーパーボールをひとつ取り除くと、はかりの針がこれくらい後ろにさがるから、

3個くらい取るといいだろう」とか、「ボールがコップにいっぱい入っている時は100グラムのところより

このくらい過ぎているから、コップの半分と残りの半分の半分くらいまで入れたら100グラム」といった具合に。

遊んでいるうちに、新たな「こうしたい」を見つけて

熱中しだすことはあるものの、本人なりのねらいがあるあたり感覚タイプの子たちとの違いを感じます。

 

感覚タイプの子たちの子の場合、ひとつのねらいというより「網羅したい」「できるまでやりたい」という

あたりにモチベーションがあるので、

最初に「100グラムにぴったりになるように……!」と告げていても、

スーパーボールを乗せてははかることを繰り返して、1回、1回、「あっ、○グラムだった」「今度は○グラムだった」と

確認することが遊びのメインになっていきますから。

 

思考タイプの子たちは、活動そのもにには熱心でない場合が多いけれど、

はかった重さをまとめた表を見ながらデーターを分析したり、

原因や理由について考えさせる場面でいきいきしています。

感情タイプの子たちは、お友だちと同じ目標で動いたり、

他の子らをびっくりさせたり感心させたりすることにモチベーションにしやすいです。

見えにくいタイプのひとつに内向的な直観タイプの子が入ります。

 

外向的な直観タイプの子たちは、次々と新しいことに興味を移して

「ひらめいた!」とばかりに自分のアイデアを口にするけれど、

内向的な直観タイプの子たちは、頭の中は忙しくてしていても行動はおっとりしていたり、

直観の使い方にしても、自分の内面での「あっ、そうだったのか」というひらめきが

主なので、外からわかりにくいのです。頭の中で自分の考えを追っている時は、

フリーズしたようにボーッとしているので、考えている時ほど、何も考えていないようにも見えます。

 

わたし自身は内向的直観タイプなので、

「自分の内面の動きや頭の働かせ方に似ているから内向直観の子じゃないかな」と

感じるのですが、他のタイプの子たちに比べて、

はっきり目に見える判断材料がほとんどないので、「うちの子の性格タイプは?」とたずねられると、

幼児期は、「たぶん、……でしょうけど」「おそらく……でしょう」とあいまいな返事を続けることになりがちです。

たいてい小学校中学年くらいになると、読書の好みやおしゃべりの内容に

内向的直観の子らしさがはっきりしてきます。

 

大学生の息子と話をしていると、「この子はやっぱり内向的直観タイプだな。

内向きの直観をよく働かせるんだな。」と実感することが多々あります。

物事が行き詰った時にしろ、普段のちょっとした問題解決にしろ、

自分の内面に光を当てることで答えを見いだす姿がありますから。

先日もこんなことがありました。

学校で自分の名前をテーマにした作品をプログラミングで作る課題があったそうです。

他の課題の提出時期と重なっていたため、一夜漬けで、

「自分以外の人(友人等)の名前の集合体が、クリックボタンを押す度に

まぜあわさって、だんだん自分の名前に確率的に近づいて行き、最終的に何クリックかで

自分の名前ができあがる」というアルゴリズムを組んでいました。

評価自体はよかったようですが、その出来に、

短い時間で慌てて作ったのと、何かが足りないという不全感を抱えていました。

そこで、他の作品提出の機会にそれをもう少しいい形で練り直して出すことにしたようです。

再度、作品に手を加えるにあたり、息子なりに、何が足りないのか、これから何に最も力を注ぎ、

どういう方向性で作っていったらいいのか、もんもんと考えていました。

というのも、親しい友人に、「○○くん(息子)が60%の力で作ったものは、周囲から絶賛されるけど、

100%の力を注いだものは、理解されないよな」と冗談交じりに指摘され、

「そういやいつもそうだなぁ」と苦笑しつつ、単純に、だったら肩の力を抜いて作ればいいんだなとも取れなかったようです。

 それについて、息子とこんな会話をしました。

 

息子 「大学にしろ、学会にしろ、評価の場ではあって、現時点に終始していて、

すでにどれだけ完成されたものかだけで考えるからさ。もちろん、社会に出ても、

それが重要なのはわかっているけど、作品発表での評価基準が、どうしてもパッと見の受けのよさや外から見た印象……

宣伝広告で扱われるような部分だけに

重きがおかれててさ、中身の質とか、アルゴリズムの新奇性とか、実際に使っていくなかで引き込まれていく部分なんかは

ほとんど注目されないのは残念だな。

ぼくが全力を出す時は、自分のなりのビジョンを追ってて、

未来に価値を置いているからなぁ……これから面白くしていきたいいろいろな可能性を見ながらさ」

 

わたし 「自分のビジョンの価値に気づいて、守って、温めていけるのは自分しかないんじゃない?」

 

息子 「そうだけど、これまで何か納得できなかった理由は、

そうした評価のあり方に不満や不信感を抱いていたというより、あまり考えずに全面的にそれをよしとしてしまって、

そうした評価と自分の関係のとり方についてよく考えてこなかったからじゃないかと思ってるよ。

 

ぼくが中身のアルゴリズムや内容を一番重視するのは、

今後、どうあったって変わらない部分だけど、同時にデザインや周囲にどう印象づけるか、外から見て

魅力的なものに感じられるようにするのかだって、すごく大事だと思ってることなんだ。

そして、内部になんか少しも興味がないっていう

一般的な人が、パッと見で惹きつけられるようなものを作っていく上で、今、先生から得られる

アドバイスはすごく役立つし、ぼくに足りない部分だ。

ただ、自分のあり方について何も考えないまま学んでいると、周囲の価値観を取り込みすぎて、

自分が一番重要だと思うものが侵食されていくのも事実でさ。

そうすると、成功すればするほど、自分を苦しめる悪循環が生じるよ。

 

だから、自分の強みであって、長い時間をかけて自分のなかで育てていきたいものを持ちつつ、

外の意見に耳を傾けて、足りない部分を学びとっていこうと思って」

 

息子 「名前の作品をもう一度見直してみて、内容はそう悪くないんじゃないかと思って。

これまでもの作品もそうだけど、

言葉で説明したり、自分の表現したいことを正確な言葉におきかえる面で全然足りていないんだ。

デザインとか使いごごちの修正も

もちろんするつもりだけど……。

たとえば、タイトルを、『他人と自分の境界線』ってのにして、他人の名前だけから自分ができていく様子を、

アイデンティティーがあいまいになっていく状態とするとか。

まぁ、これはちょっと行き過ぎたタイトルだけどさ。

『情報から生成される自分』くらいがちょうどいいかな?」

 

息子の話を聞きながら、問題を解決する時に、

自分の内面を探索するのは、内向きの直観ならではだな……と妙に納得しました。

 


これからの小中学校がどうであってほしいか  息子とおしゃべり

2019-02-05 13:14:51 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

 

適度な「しばり」が生む学ぶ意欲と喜び と 数学について  息子とおしゃべり

教育と自由  息子とおしゃべり 続き

の会話の続きです。

 

息子 「学校が無作為に40人前後の人を集めて、人と関わる力を育てようという

設定自体が、あまりに雑な対応で、無理があるよな。もし、

人に自分の思っていることを伝えたり、

他人と協調して何か成し遂げていく力を育てるなら、同じ趣味を持ってる者同士とか、

好きなものややってみたいことが重なる者同士とか、議論や会話や思いがそこそこ

成り立つ前提と人数で、もう少していねいにそういった力を育てようとするべきでさ。

小学校の頃は、せめて、3年生までと4年生以降で、

クラスの組み方を変えてほしいと思っていたな。

 授業中は教科書を先に進んでもだめだし、わからないからと戻っても

だめって決まりが絶対だから、

結局、クラスで最も理解が遅れている子のペースに合わせることになる。

そうしたことを6年間続けていて、学力にしても人間関係能力にしても、それだけの犠牲を払うほど

何か得られるのかっていうと、疑問だな」

 

わたし 「確かに、海外在住の方が日本の学校を見学してまわった後で、

今の小学校のあり方は、だれにとっても幸せではない、子どもにとっても先生にとっても。

だれにとっても、実りの少ないものになっているって感想を言ってたわ。

でも、改善するのは難しいわよね。A(息子)は、どんな方法を取ればいいと思うの?」

 

息子 「子どもの個性を大事にする教育と銘打って、どんなに公教育を改善しても、

4,50人の生徒を

無作為にひとところに押し込めて、急激に成長する時期にいつまでも同じ

スタイルで教育しようとしている

限り、難しいよ。そんな風に足し算しようと無茶するんじゃなくて、

引き算の発想で、同学年の子全員に必要だと思う教育部分を減らして、

午前中に基本の授業を終えたら、

午後は、公民館、図書館、小さな学び舎などさまざまな学習の場を国が支援して、

子どもの好みや学びの段階や学び方に合った教育をするとか、

そうした選択をする人も認めるとか、

週の半分くらいは自由選択の部分を作るとか。

子どもってだけでひとくくりにして、能力のちがいや好みのちがいや

身体的なものや思考のちがいまで、

ざっくりと大雑把にしか子どもの教育をとらえていないんなら、

1から10まで自前でコントロールしようとするのを

やめた方がいいんじゃないかな?」

 

わたし「お母さんもそう思うわ。それに、教室に来る親御さんたちも、

学校に対して、そうした考え方をする人が多くなったのを感じる。

というのも、勉強は2学年ほど先までできるし、友達も多い、

社会性も育っている、でも

学校が苦痛で、学校に通えない、というこれまでと異なる

不登校の子を教室でも何人か見るようになった。

不登校まで至らなくても、予備軍と言えるような同じ訴えをする子らが増えている。

支援級があるからかもしれないけど、勉強がわからないから学校に行きたくないという子は

聞かなくなったけど、勉強が簡単すぎて、授業が苦痛でたまらないから

学校に行きたくない、という話はよく聞くようになったわ。

学校がなくなればいいとまで思わないけど、共通に学ぶのが半日なら喜んで学校に

通えるような子を不登校に追い込んでまで、今のあり方にしがみつく必要はないと思うわ」

 

息子 「学校はどうあるべきか、どんなに話しあったって、それはある子たちに

とっていいあり方で、別のある子たちにとっては最悪のあり方かもしれないじゃん」

 

わたし 「そうよね」

 

息子 「周りが就活をするようになって、会社側は、何をやりたいのかという目的意識を

しっかり持っているかどうかを求めてくるのを感じてさ。

学校で詰め込むような知識にしても、まず、先にその目的意識ありきで、

そのために必要な知識を持っているかという順で見られるよ。

それで、ふと、小学校の読書感想文のコンクールなんかで、そこでなぜ賞を与えるのか

ってことについて考えたよ」

 

わたし 「どうしてだと思うの?」

 

息子 「小学生なのに、文才があるとか、こんなことができてすごいって

ことじゃないなって。それだけが目的の審査員はダメだと思う。

なぜ、それがすごいのかといえば、小学生の時点で何かしらに興味を持って、それが

パクリでもいいから、

自分なりの解決策を探ってみる、という一連の流れを学ばされるための

賞じゃないかと考えてさ。

小手先のテクニックを教えて、賞を取りまくっても、

あんまり意味がないよね。

やっているうちに、自分の中にやりたいことが明確化されていくことが

大事でさ。」

 

わたし 「わかる、わかる。お母さんも、教室の活動の中で、

一番大事にしている点だから。お母さんがこういう風に子どもに能力をつけさせよう、

作り上げよう、何かを目指させよう、とするんじゃなくて、いっしょに、

手や頭を使って、いろんなことをやってみるうちに、心の底から自分がやりたいと

思うものは何かが見えてくるし、それに一歩近づけるのよ」

 

息子 「そうだよね。お母さんの教室は、自分の興味から、

自分のこれからの方向性をつかんで

いけるようにって工夫してるしね。そういうの、どの子にとっても大切だと思うよ」

 

 懐かしい記事が出てきたので貼っておきます。

番外 息子の話

 

 

(規則性について考え中 ↑ )

 


メディアアートをめぐっての息子とおしゃべり 2

2019-02-02 13:41:01 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

前回のような話をした数日後、結局、息子は別の作品を発表した

そうです。

 

私  「どんな作品になったの?」

 

息子 「カメラとスクリーンを使った

インスタレーション作品だよ。

アートの鑑賞者がスクリーンの画面の前に座ると、鑑賞者を囲むようにたくさん

設置してあるカメラが、さまざまな方向から鑑賞者の動きをとらえるように

しておくんだ。

鑑賞者には、大型店舗などで監視カメラを管理している人と同じような

碁盤の目状に分割されたカメラの映し出す自分の姿をスクリーン上に見ることになる。

 

映像の中には、多方向からの自分の動きをとらえるカメラの映像にまじって、

自分の姿、服装とか持ち物とか、ポーズとか、動きとか、そうしたものから

AIが類似のイメージとして想起した映像をまぎれこませておくんだ。」

 

私 「フェイスブックが、この人は知り合いですか?と聞いてくるのも

似た感じ?」

 

息子 「そうだよ。今、コンピューターが、自分の購入履歴から判断して、

自分が購入しそうなものを勧めてくる

ということや、AIが履歴書を読み取って雇用を判断するといった

コンピューターによって自分がどのように見られているか、

どのようにカテゴライズされているかが気になるようになった

という社会的な背景があるよね。

自分自身をコンピューターが即座に、自分に似ている別の人を想起し、

自分をあるカテゴリーの中の一員として評価していくことへの違和感のようなものを

作品を体感する中で感じ取ってもらえるようにしたいんだ。」

 

私 「違和感を伝えるための工夫というのはあるの?」

 

息子 「何台かあるカメラは、それぞれ別のアルゴリズムで、鑑賞者を

カテゴライズするようにするんだ。

特徴の異なる古いアルゴリズムを使ったものや、

最近よく使われているものなど、別の分類の仕方で、鑑賞者からイメージされる

映像が本人の姿とともに映し出されていくことで、

自覚している自分との違いやコンピューター内の記号という

言葉によって操られてしまう自分の幻影を味わうという作品にしたいんだ。」

 

私 「言葉によって操られてしまうって、どういう意味?」

 

息子 「人工知能は、人間をどれだけ記号化できるか、ということを

突き詰めていくことで、進歩しているといえるんだ。

コンピューター内は、データーでできた世界だから、

昔の人々が使った言霊という言葉が、実際に機能するような世界でも

あるんだ。ひとつの言葉、ひとつの記号が、

魔法のような力を持つように見えることもある。

コンピューターが一昔前のように通信手段や単なる

コミュニケーションツールではなくなって、

ネット内で自分自身を表現するツール、

自分という像を作り上げた上で、コンピューター内の自分像で

他者とコミュニケーションする時代になったからこそ、

自覚している自分とコンピューターが作り上げていく幻影としての自分との

間にある違和感のようなものを鑑賞する面白さやざわざわした感触が

あるんじゃないかと思ってさ。」

 

 

 

 


メディアアートをめぐっての息子とおしゃべり 1

2019-02-01 12:40:00 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

趣味としてですがメディアアートに興味がある息子。論文が一段落したら、

メディアアートの作品を作ってコンテストに応募しようと考えているそうです。

大学院でもメディアアートの授業も取っていました。

夕食時に、「メディアアートの授業の課題で、こういう作品が作りたいと思っていて~」と

息子が話していたのが面白かったものの、

「コンテストに応募しようと思っているアイデアを

ブログで先に公開するわけにいかないし、もう大人の世界に足を踏み込みつつある

息子との会話を記事にするのも難しくなってきたな」と感じました。

授業での発表が終わったと聞いた時、「発表では、最初に考えていたものより

もう少しパッと見てわかりやすいものにしたら、伝わりやすかったよ。

といっても、今回の課題は、作品を作るとこまで必要はなくて、

アイデアと構想だけなんだけどさ。」と言った後で、

「前にお母さんに話したのとは別のアイデアで発表したんだけど~」と付け足しました。

私は思わず、「その新しいアイデア、確かに、誰でも目で見るだけで、

伝えたいものを体感できるって点で

いいかもね。でも、お母さんは前のがすごく面白いって思ってたんだけど、

あれはボツにしたの?おしいな」と残念がりました。

そしてダメもとで、「お母さんのブログで、高校生の頃にSとした会話を載せた記事が

いくつかあるのよ。

この間、東京で会った人達が、そうした対話の記事が好きって言ってくれたんだけど、

このごろは、S(息子)との会話も、修士論文のことやら、本格的な研究の話やらが

ほとんどだから、メモは取っても記事にすることができなくなったのよ。

もし、前のアイデア、ボツにしちゃっていいなら、その話書いてもいい?」とたずねました。

息子の顔にクエッションマークが浮かんでいましたが、あれこれ細かいことを気にするタイプ

ではないので、(娘なら即ダメ出しされていた申し出でしょうが)

「えっ? 記事? 何? まぁ、いいよ。

発表した分も、もう終わってるからいいよ。」と言っていました。

アイデアはいくらでも思いつくとのこと。

 

お許しをいただいたので、先日の会話を♪

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息子 「メディアアートの授業で、アート作品のアイデアと構想を発表するんだけど、

こういうの考えるの面白いな」

私  「もう思いついたの?」

息子 「あぁ。こんなのどうかなって、考えているのはある」

私  「どんなの?メディアアートって、ビデオとかコンピューター技術を

使った芸術ってことでしょ?」

息子 「そうだよ。考えているのは……。

アイトラッキングっていうパソコン上の人の視線の方向を

推測する方法があるんだけどさ、それを使うと、

アート作品としてのパソコンの前にいる人が、

パソコン画面の時計に注目している間は、その時計が正しい時を刻むようにして、

時計ではない画面上の別の情報に注目している時は、時計が何倍速かで進むようプログラミング

しておくことができると思って。

 ネットに依存して生活しがちな現在、

今が昼なのか夜なのか、どんな天気なのか、ネット上の情報から仕入れることも大いにあるから、

そうした情報も、そのパソコンの特殊な時計の進みに連携させておくと、

自分自身の実生活や体内を通して感じる時間感覚と

コンピューターを通してインプットされる時間感覚のずれが生じるよね。

そうしたコンピューターを通した自分と

コンピューターを通さない自分の違和感のようなもの、

アイデンティティーのゆらぎのようなものを

体験型のアート作品として作れないかと思っているんだよ。」

 

次回に続きます。


量子力学について 息子とおしゃべり

2019-02-01 09:41:36 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

2年前に息子とした雑談の記事がでてきたので、再アップします。

子どもたちというのは単純なもともとのもの、プリミティブなもの

原始的なもの、根源的なもの、初期の、太古の、未発達な、素朴な、粗野な、原形)に、

全身全霊で、直に触れていこうという存在だな、と感じていたところなので、

この記事を読み返し、息子の言葉が2年経った今、心に響きました。

 

春休み中で読書とプログラミングに明け暮れている息子。

昨日の夕食後、こんな会話をしました。

(娘とはあいかわらず人間関係についての会話ばかりで、プライバシー上、

記事にできず残念……。)

 

息子 「量子力学って、シュレーディンガーの猫とか二重スリット実験の話を聞くと、

これまでの考えがくつがえされるような発見を扱っているように見えるけど、

いろいろ本を読んでみると、新しいものさし、解釈を手に入れたという感じなんだな。

発見したのはあくまでも道具だから、何でも測ろうとしたらいけないっていうかさ。」

 

わたし「お母さんも量子力学について書かれた本……数式の部分は抜かしながら

読んだことがあるけど、理解するには能力的にしんどいものがあるみたい。

摩訶不思議な印象だけが残ってよくわからなかったわ」

 

息子 「わからないって状態でいいんじゃないかな、これについては。

大学で勉強するまで、どうして高校以降の勉強はもっと比喩を用いて噛み砕いて

説明しないのか、わざと小難しい用語を使ってわかりにくくしているんじゃないかと

思っていたんだけど、いざ学んでみると、そうするのが妥当って理由が見えてくるんだ。

大学で扱うような最先端の学習内容になるほど、学んだあるひとつの物事が、

何にでも通用するわけじゃなくなるから。

大学数学は、『真』と確信できる正しさがあって、それを理解しようとするんじゃなくて、

これこれこういう仮説を当てはめてみたらうまくいくから、

このことについてはこの計算式を使って考えていけばいいんじゃないかっていう

逆説的な考え方で成り立っている部分がずいぶんあるんだ」

 

わたし 「それじゃ、比喩を使って異質なもの同士を結び付けるのはまずいわよね。

それにしても、二重スリットの実験の話を考えると、わからないながらに、どうして

そんな結果が生じるのかとキツネにつままれたような気持ちになるのわ」

 

息子 「光は粒子なのか波なのかって考えていくと、

確かに摩訶不思議な気分を味わうわけだけど、そもそも粒子や波の概念に勘違いが

あったとしたら、話は別だよね。

量子力学の世界に伴う不思議さは、もともと自然に潜在していたプリミティブなものの

側にある。

この何年かの量子力学の話題で、スゴイ、新しい、って話題を目にすると、

どれも学者にとってスゴイのであって、一般人が感動するような新しい事実の発見とは

別もので、新しいものさしを作ったという種類のものだよ」

 

わたし 「知った結果が、手品の種を明かされたようなものでも、

誰にも想像がつかないとされていた未知のものが明かされていくのは

わくわくするわ。ここのところ、今の仕事に関連する本しか読んでなかったけど、

量子力学の本、わからないながらに、わかるところまで本を読んでおきたいわ」

 

息子 「それもいいけど……。

前まで、学んでるものの先端に向かうほど価値があるように思っていたんだけど、

いろいろ学ぶほど、難しそうに思える量子力学にしても、

プリミティブなもともとのものの組み合わせであることがわかってきて、

単純なもの……すごくプリミティブなもののすごさを再確認することになるんだ。

そうした『もとのもの』を軽んじていると、よくわからない方向に

考えていっちゃうんだろうなと思うようになったよ」