虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

タンポポ と 理科の知識の問題

2011-04-30 21:16:53 | 日々思うこと 雑感

年長さんの★くんと、タンポポを摘んできました。

綿毛が開く前のつぼみは、どの子にもとても人気があるのですが、★くんも
「わぁ」とため息をついて、つぼみの中の様子を観察していました。


茎をはさみで切ってみると、中身が何もないストローの状態でした。

タンポポって白い液体出てくるんじゃなかったかな……?
植物の茎って、理科の本に出てくるみたいな水分が通る管とか、養分が通る管とかがつまっているもんじゃないの?

と、とにかくびっくり。

タンポポの花びらは何枚あるんだろう?
タンポポの種はいくつあるんだろう?
そんな問いを出しながら、花びらをばらしていくと、
ちょっと美しい花がかわいそうなのですが、
こんなに小さな花が、信じられないほど精密で独創的な作りになっているのがわかります。

こんな風にひとつな小さな自然としっかり関わると、
子どもたちはたいてい「自然に存在するものについてもっともっと知りたい」
という熱意を示します。
興奮して夢中になって、目をキラキラさせています。

そういえば、以前、NPO団体の小学校に出向いていく科学のイベントのお手伝いをしていたとき、こんな出来事がありました。
私は生きているアブラムシ(緑の小さい虫です)を子どもたちに顕微鏡で見せる担当でした。

小学生の子どもたちは、最初は悲鳴をあげて嫌がっていたのですが、
少しすると、アブラムシの生態に夢中になって、
「触らせて!」という子らが続出してびっくりしたことがあります。

子どもは、本物に触れるのが大好きなんですね。どんなものでも。

★くんのレッスンの話題に戻りますが、
小学校受験用のワークを使って、植物とその種を結ぶクイズや、果物の輪切りのクイズ、果物と果物の種を結ぶクイズをしました。
★くんは、算数が得意な子で、このクイズ以外の問題は満点だったのに、
易しく見える「ももの種はどんな形か」「りんごの輪切りはどのように見えるか」といった問題が解けませんでした。

プリント上では、「これが正解よ」と教えるのはやめて、
今回、タンポポを観察して楽しんだように
お家に帰ってから果物や植物ともっと親しんでもらうことにしました。

★くんは、教室の「忍者の箱」に夢中でした。
積極的にさまざまなものを作りたがりました。
剣、吹き矢、手裏剣などを作りました。

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親自身が「子ども」から「大人」に成長できていないと、数値で子どもを管理したがるのでは?

2011-04-30 15:24:55 | 日々思うこと 雑感

前回の続きは数日以内に書きますね。

『10代の子をもつ親が知っておきたいこと』水島広子  紀伊国屋書店
(この著書でクロニンジャーの「七因子モデル」を知りました。)

という著書の中で、「あれっ?」と感じる興味深い話を目にしました。

思春期の子を持つ親御さん向けの本ですが、幼児を育てている方にとっても
とても大切な話だと感じたので、簡単に要約して紹介しますね。

思春期の心の病である拒食症の治療の中心は、
対人関係療法で言うところの「役割の変化」になるそうです。

思春期の課題を消化して、「子どものやり方」から、
「大人のやり方」に変化を遂げることが
病の治癒につながるそうです。

「子どものやり方」というのは、「何でも自分の努力で解決する」というものです。

一方、「大人のやり方」は、「必要であれば他人の力を借りよう」と
考えられることです。

成績が上位になれない、という場合も、一人でさらに努力して自分を追い込んでいくのではなく、いろいろな人生があることを知って、
自分の存在を社会の中で相対化できるようになることです。


「何でも自分の努力で解決する、のが『子どものやり方』だなんておかしい……大人になっていくということは、
他人に頼らず、自分で責任を持っていろんなことをこなせるようになることではないの?」
と感じた方がいらっしゃるかもしれません。

世の中は、矛盾だらけで無秩序なところです。
「がんばったから、幸せになる」とか「努力に比例して成功する」という
単純なルールで成り立っているわけではないですよね。

すべての課題を自分の責任でこなそうとする人は、「秩序」によって安定するタイプが多いので、
「努力すれば成績が得られる」「親切にすればすかれる」というようなルール
で世の中が動いていないと不安になります。
そうしたタイプの人が、自分の秩序を乱す出来事に直面すると、パニックを起します。そのパニックへの対処のひとつの形が
拒食症という病なのだそうです。

「体重」は、食べなければやせるという体重計の数字にきちんと表れるので、
達成感と安心感が得られます。

思春期には、「自分の限界を知るということ」という
重要な課題があります。
努力すれば何でもできるようになるわけではない。がんばればみんながほめてくれるわけではない。運命や環境をすべて自分の力でコントロールできるわけではないと認めること。

その上で、自分にできる範囲で全力をつくせるようになることが、
大人になるための思春期の課題です。


「人間は努力すれば何でもできるし、そもそも人間は学力だけで評価される」
という狭い考え方は「子ども」としての役割から生じるものです。

大人になるということは、
「人間にはいろいろな限界があり、その中で支えあっていくことが人生」と
いう大人としての役割で考えることができるようになること
なのですね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『10代の子をもつ親が知っておきたいこと』で、
拒食症をはじめとする思春期の心の病についての話を目にするうち、
ちょっと怖くなったことがありました。

子育て中の親の中には、思春期の課題を超えそびれて、
まだ「長い思春期」の最中にいる方も多いです。

機能不全の家庭に育った私も、
ひとりめの娘の子育てでは、大人になれていない心のまま
良かれと思って子どもの自尊心を蝕むようなことを
平気でしていました。

「子ども」の心のままで、
心の病を引き起こすような世界観のもとで子育てをしていると、
目に見える安心感や数値上の上昇を確認することを求めます。

「努力すれば成績が得られる」「親切にすればすかれる」というような
安心できる秩序が守られている世界を
お金を払ってでも得ようとします。

それが教育産業が作り上げた
人工的な架空の世界であったとしても、
それを全世界のように錯覚した状態で子育てをしたいと願います。

子育ては、「すべてを自分の力でコントロールしたいという」
現実にはありえない考え方が
はびこりやすい場です。

なぜなら、「自分で努力はしたくないけれど、
コントロールして数値の確認をする作業だけをしていたい」と
いう本当は現実の世界で叶えられてはいけない
病特有の執拗な願いを
簡単に実現してしまうからです。

おまけに、教育産業の多くが、そうした親の考えを
正当化して、
さらに煽りがちです。
教育産業が、儲かることを最優先に考えるのは、
ビジネスだからしょうがない部分もあります。

利用する側が、親にとっての最優先課題はビジネスのそれと
重ならない場合が多いことを自覚することが
大切だと思います。


子どもの幸不幸は、
どんな能力の親のもとに生まれたかよりも、
ちゃんと思春期の自分の課題を済ませて、「大人」になっている
親に育てられているかどうかで決まるように感じています。

子どもの未来も、「大人」に育てられているかどうかで、
大きく変わってくるのではないでしょうか?

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変えられる性格 と 変えられない性格 1

2011-04-30 09:21:17 | 子どもの個性と学習タイプ
性格が遺伝によって決まるのか環境によって決まるのかについて、
一卵性双生児の研究によって、
どの部分が遺伝によるもので、どの部分が環境によるものか
わかってきたそうです。
米国の精神科医のクロニンジャーは、それを「七因子モデル」として
わかりやすくまとめています。
遺伝的な影響を強く受ける四つの因子と、
環境的な影響を強く受ける三つの因子に分けられます。

遺伝的な影響を強く受ける四つの因子は、基本的に変えられません。
生まれたときから持っているものですから。
ただ、そのどれもが長所としても生かせるし、
短所にもなりえるものです。

<生まれつき決まっている性格の因子>

①(新奇性追求)冒険好き……関連する神経伝達物質:ドーパミン。

好奇心が強くて積極的。我慢が苦手。

この因子が少ないと、思慮深く計画的。考えや行動を硬直化させやすい。


②(損害回避)心配性……関連する神経伝達物質:セロトニン。
身長で手堅いけれど、緊張しやすく将来のことで悩むことが多い。

この因子が少ないと、大胆な行動がとれるけれど、楽観的になりすぎて失敗することも。

③(報酬依存)人情家……関連する神経伝達物質:ノルアドレナリン。
共感的・情緒的。一方で、感傷的になったり、依存的になったりする。

この因子が少ないと、冷静で現実的。一方、他人に冷たく見られがち。

④(固執)ねばり強さ……関連する神経伝達物質は不明。
完璧主義の努力家。ひとつのことにこだわりすぎる欠点がある。

この因子が少ないと、ものごとにこだわらず、さっぱりしているが、諦めが早い。

上の4つは、先天的に決まっている無意識の気質なので、
変えようとしても、無意味なのだそうです。
たとえば、「ねばり強い」因子をあまり持って生まれていない子に、
もっとがんばりなさい」「どうしてあなたはそんななの?」と責めても、
根気や熱心さが身に付くどころか、
自己肯定感が低くなって、長所が少なくなっていくようです。

「遺伝的な気質を変えられないなんて、絶望的だ」と感じるかもしれませんね。
でも、その気質を悪いものだから変えなくてはならないと判断しているのは、
その人の思いこみで、本来、どの気質も、
(ねばり強くないということにしても)長所として自分の人生をより良いものにしてくれるものなのです。

遺伝的な気質を長所に変えられるかどうかには、
環境的な影響を強く受ける三つの因子が関わっているそうです。

環境的な影響を強く受ける三つの因子は、後天的に身につくものです。


<後天的に作られる三つの因子>

①自尊心……自分という存在や自分のやり方に対する信頼感。
遺伝的に決められた性格を、長所にするのか短所にするかのカギを握っているもののひとつです。

②協調性……他人と同一化し、受容する際の個人差を説明する因子。
寛容、共感的、同情的。

③精神性……自然や宇宙への関心のようなもの。
全てのものは全体の部分であるという統一意識。

次回に続きます。

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小学校受験をするとしたら‥‥‥

2011-04-29 17:29:22 | 教育論 読者の方からのQ&A

小学校受験は、子どもの成長にとって、
とてもリスクが高いチャレンジだと思います。
たとえ上手く合格したとしても、プラス面よりもマイナス面の方が
大きくなる可能性があるのです。

それでも受験をさせたいと希望される親御さんはたくさんいますし、
そうしたご相談をいただいた場合、
虹色教室でもそのフォローをしています。

その場合、
親御さんといっしょに
受験という枠を超えた長いスパンでその子の成長を考えながら、
子どもの個性と長所をしっかり捉えて、
小学校受験をすることによる弊害をできるだけ減らす方向で話し合っています。


不合格だったとき、
途中で受験をやめたがったとき、
プリントをするのを拒絶したとき、
伸び悩んだとき、
不安や怯え、チック、無気力、攻撃性が強くなるなどの問題が起きたとき、
子どものことを一番に考えて対処できるかどうかといったことも、
とても調子が良いときにもしっかり考えておくテーマだと思っています。

いざ、受験勉強をはじめると、
さまざまな問題が起きます。

たとえば、プリント形式のテストは得意だけれど、
絵は苦手という子がいます。

そうした子に、「人はこう描くのよ」
「木はこんな風に描くの」「春の絵ならこんなものをこんな風に描いて、こういうバランスで配置するのよ」とお受験に受かるための描き方
を教えるのは簡単です。

「丸描いて、チョン~♪」という絵描き歌のイメージで教えたり、
ステレオタイプのお手本の絵を暗記させていけば、
絵が苦手な子も描けるようにはなるのです。

受験向けにそうした指導本やDVDも出ているようです。

受験に合格するためならやむえない……受験する子たちは、みんなしているし……と考えるかもしれません。

しかし、絵というのは、子どもの心身の発達と深い関わりがあるものなので、
そのような絵の教え方をすることは、
子どもの成長の核の部分や創造性の育ちを
壊すことにもなりかねないのです。

「たかが、絵でしょう? そんなオーバーな……」と思うかもしれませんね。

絵の教え方だけの問題ではないのです。

小学校受験を目指した働きかけにおいての、
大人の教え方や接し方は、
ひとつ間違うと、
後々まで、子どもの成長のバランスを崩してしまうかもしれない
危険を含んだものだと考えているのです。


乳幼児から大人まで、誰もが、
「自己の充実を求める気持ち」と
「大事な人と気持を繋ぎ合って安心感を得たい気持ち」のふたつを
欲求を持っていると言われています。

これらのふたつは、人間が抱える根源的な欲望で、
それらのバランスを取りながら、人の思いや行動が生まれてきます。

「自己の充実を求める気持ち」は、「私は私」という心で、
自分の思いを表現したり、自分らしくあることを望んでいます。
その気持ちの中で、
自己肯定感と自信が育まれ、アイデンティティーの自覚に通じている
そうです。
自己を表出する心です。

「大事な人と気持ちを繋ぎ合って安心感を得たい気持ち」は、
「私は私たち」という心で、相手の気持ちに気づき、認め、周囲の人を主体として受け止める心です。その気持ちの中で、信頼感と許容する気持ちが育まれます。
周囲と共に生きる心です。

絵は、子どもの内側からの衝動から生まれてきます。
それは自分自身を表現する行為だし、
自由や自分らしさを周囲の人々に宣言する行為でもあります。

でも、そうした創造的な活動が、
最初のスタート地点から、評価を目的とした「教える」ものだとすると、
「私は私」という心を表現する機会を失って、
「これをしなさい」「あれをしなさい」と指示を出してくる大人の願望を
実行していくのが子どもの生となってしまうのです。

ですから、もし小学校受験をさせることを決めたのなら、
がむしゃらに合格を目指して邁進するのではなくて、
子どもの「自己の充実を求める気持ち」と
「大事な人と気持ちを繋ぎ合って安心感を得たい気持ち」が
バランスを崩したり、抑圧されたりしていないか
細心の注意をしながら、
自然に愛情をこめて、遊び心をたくさん取り入れながら
受験の準備を進めていく必要があるのではないでしょうか。

他の子の進み具合を見て、心を乱されないよう自分のエゴに気をつけて、
もし受験がうまくいかなくても、
子どもにとって、「やってみてよかった」という
すがすがしい思いが残るようにする義務が、
まだ生まれて数年しか経っていない子に受験を強いる親には課せられると
思っています。

(一部に『子どもは育てられて育つ 関係発達の世代間循環を考える』 
鯨岡峻 慶応義塾大学出版会 を参照しています)


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小学校受験 『はぐるまのもんだい』 2

2011-04-29 14:19:01 | 幼児教育の基本

「一方のはぐるまを赤いやじるしの方向(時計回り)に回すと、
もうひとつのはぐるまは、どのような回り方をするか?」
という問題。

応用は、いくつかのはぐるまを並べて、回り方を考えます。



実際、手を使って回しながら、
「あっ引っ張られる~」とか、「髪の毛を引っ張ったらイタイイタイ!」などと、
はぐるまを擬人化して回るときの様子を表現すると、
すんなり理解する子たちがいます。



はぐるまは、紙皿を何枚か重ねて、
外側を切り抜いて作っています。




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小学校受験 『しほうからのかんさつ』 1

2011-04-29 12:46:38 | 日々思うこと 雑感
今日は年長さんたちのグループレッスンでした。
小学校受験を予定している子たちなので、
受験問題から、それぞれの子が苦手な分野を学びました。


『しほうからのかんさつ』

正面、背後、右横、左横からの見え方を
推理する問題です。

最初、子どもたちは、
どの位置からの見え方も、
自分が見ている正面からの見え方と同じだと考えていました。

そこで、紙箱の4面にのぞき穴を作って、
4面からの見え方の違いを体験してもらいました。



すると、それまで、「わからない」と言っていた子たちも、
しっかり理解することができました。

子どもにとって、『しほうからのかんさつ』の問題は、
実物を見せて教えても、
ピンとこないことが多いのです。

横からの見え方を教えていても、
本人はどの位置のときも、上から見ているということもあるのです。

ですから、箱に穴を開けて、見える範囲を狭くすると、
たちまち、すんなり理解する場合があります。

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「親ができるのは『ほんの少しばかり』のこと」という本 2

2011-04-28 16:17:04 | 教育論 読者の方からのQ&A
「親ができるのは『ほんの少しばかり』のこと」という山田太一氏の著書に
次のような文章がありました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
……そういう意味でいまの日本って、お人好し社会だと思うんです。お人好しで
なにがいけないかというと、人間の実態に鈍感ですから、たとえば、自分の実態を超えて過度にいい人になろうとするとか、他の人にもうんといい人であることを要求するとか、
子供に対しても、そんなことを要求しても無理だということを要求してしまったりして、
その無理がどこかで暴力的に表に出て、自他を傷つけてしまうというようなことがあるからです。

たとえば、子供の能力に関係なく東大に入れたいとか、幼児から慶応に入れて後をラクにしてあげようとか計画を立ててします。
子供は無力です。十歳くらいまでは、どうしても親の計画に合わせざる得ない。
東大へ入ったから、なんなの?という議論は別にしても、
その子の能力を考えない、無茶苦茶な計画である場合も多いわけです。
残念なことだし、なんかひどく頭の悪い人の計画というように感じてしまいます。
(省略)

親がどうぬけめのないプランを立てたって、子供がその通りにならなければ、手も足も出ません。
いい学校へ入れようとしても入れない子供もいるし、コネを総動員してなんとか入れたら、こんな学校行きたくない、と登校拒否してしまうという例も少なくないようです。

それが子供の素晴らしさだと思うしかないのではないでしょうか。
はじめに流行の教育コースがあるのではない。生身の子供がいるのです。子供に従うしかない。それが一番リアルなことだ、というように思います、
子供が「なにが好きか」を基準にする他はない。それを助けることしか、親のできることはない、と思います。

(「親ができるのは『ほんの少しばかり』のこと」 山田太一 PHP)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「人間の実態に鈍感」という言葉を目にして、
このところ心に引っかかってもやもやしていたことが、
浮かびあがってきました。


最近、教室の能力の高いしっかりさんたちが、
小学校に通うだけでヘロヘロになって帰ってきて、
勉強に対しての不満や怒りを口にするようになりました。

親御さんたちにたずねると、少し前まで授業中に騒ぐ子がいて
親からのクレームが学校に集中したものですから、
今度は学校側が過剰に厳しいルールを徹底するようになって、
授業中は後ろに手を回して「聞く姿勢」というのを保つことを要求されることが多いそうなのです。

手遊びをさせないための配慮でしょうが、
低学年でも6時限まで授業がある日もあるので、
四六時中、緊張し続けていると、かなりストレスが溜まるようです。

おまけに、そうやって微動だにせずに
耳を傾けなくてはならない先生の説明が、
みんなが正解するレベルに設定した
「これとあれは、どっちが正しいでしょう?」といった簡単なものばかりなので、
授業が単なる苦行となっているようなのです。

一方で、文字がちょっとゆがんだり、はみだしたりするだけで赤で修正されるものですから、書き取りを嫌がったり、
細部に神経質になるあまり、それまで書けていた字も書けなくなったり
しているようです。


今の学校は、少しルールをゆるめると、
たちまち収拾がつかなくなるようなところがあるので、
学校の対応とすれば、ある面、仕方がないのかもしれません。
先生方も大変で一生懸命だ、ということもよくわかります。

それでも、もやもやした嫌な気分がくすぶるのは、
小学校での問題解決の方法が、
どんどん生身の子供とか人間というものの
実態からかけ離れていくように感じるからです。

人間は疲れるし、ストレスも溜まるし、
興味をそそられる話や自分が能動的に関われる場面では、
夢中になって集中しているけど、そうでないときは気がゆるむものです。

もちろん、小学校の授業を個々の子供の能力に合わせるのは
難しいですから、
それは仕方がないし、子供に常に先生の話に集中するように指導するのも
当然といえば当然です。

でも、そこに、人間というものを知っていて、
全体に向けての基本のルールは徹底するけど、そこにちょっと遊び心を含めたり、余白を設けておいたり、
感情の部分では、ストレス抱えてがんばっている子供の気持ちを理解していて、ある部分で見て見ぬ振りをするとか、大目に見るといった、
ささやかな個別対応があっていいと思うのです。

親の側も、
先生が自分の判断で、たまにはルールをゆるめたり、
一人一人の子にじっくり関わるのを、
人間というものへの理解から、
「ちゃんとしていない」とか「ひいきだ」とかいって
いちいち目くじらを立てずに、そっとしておくことも必要なのかもしれません。

山田太一氏が、
親に向けて、次のようにおっしゃっているのですが、
教育現場でもいえることだな、と思いました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
人生の先輩として、方向をリードしたり忠告したりしたくなるのも人情でしょう。
しかし、親は自分の人格以上のものを口先で子供に伝えることはできないし、
口で伝えるようなことは、黙っていても伝えてしまっているのが、親子というものではないか、と思います。
自分の毎日の姿で伝えるしかない。
教育的な言辞は無駄なことが多いと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



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やらなきゃいけないことをさっさとやる……ができない子。必要最低限のことをしてほしい

2011-04-28 10:28:54 | 教育論 読者の方からのQ&A
障害ではなく個性なのだとわかっていても、宿題をさせたり、遅刻させないだけで、毎日が修羅場。
わが子の良さはわかっているけれど、必要最低限のルールだけは守っほしいし、「やらなきゃいけないことならばさっさとやる」ということを、
いつになったら分かってくれるのか……心が折れそうです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
という悩みをうかがうことがあります。

修羅場となっている現状から抜け出し、
子どもが自分の問題に、自分で向き合っていくようになるには、
どうすればよいのでしょう?

いったん、これまでの経緯と今の様子と、今後の可能性を
整理して考えてみると良いかもしれません。


上の悩みを打ち明けてくださった方によると、
お子さんは園で何度か先生から指摘を受けて、発達検査を2度受け、
発達障害はないと診断されたそうです。

ここで大事なのは、子どもさんの気がかりを、
たくさんの子どもの世話をしている園の先生も指摘しているという点です。

つまり、この子に必要最低限のことをさせることは、保育や幼児教育のプロにとっても困惑するものだったはずなのです。


ですから、この子に必要最低限のことをさせるだけで
ヘトヘトになっている親御さんというのは、

一般的な親御さんより神経質なわけでも、
子どもに過剰に期待しているわけでも、
しつけが下手なわけでもないことが
わかります。

そのことを、親御さん自身が納得して、
それでも子育ての責任を果たしている自分を
ねぎらってあげる必要があると思うのです。

発達検査を2度受けて、発達障害ではないと診断されたとすれば、
ゆっくり成長している部分はあったとしても、
それは時間の問題であって、いずれできるようになっていく希望は大きいです。
検査をして明らかなハンディーキャップがなかったということですから、
気持ちを切り替えることの難しさや、
不器用さからくる作業の遅さや、嫌なことを後回しにしようとする態度や、
時間にルーズで動作が鈍かったりするところは、
一朝一夕には直らないけれど、
本人が自分で自覚して直していかなくてはならないところです。

同じ親御さんが、次のようなエピソードをつけくわえておられました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
それでも、入学と同時に一番問題が少なくて簡単そうな通信教育を始めて、そちらは週3回ほどやっていますがそれなりに楽しそうに取り組んでいます。知らない間に理解力もついていました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
このエピソードからわかるのは、
ゆっくりではあるものの、できることはがんばっていこうという前向きな努力はする子だということです。
でも、できないことがある……ということです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
必要最低限のルールだけは守っほしいし、「やらなきゃいけないことならばさっさとやる」ということを、
いつになったら分かってくれるのか……
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
と親御さんが、子どもの愚図ぶりにやきもきするとき、
親御さんの外の人間から、
「親が、最低限のことを子どもにきちんとやらせてほしい。ちゃんとした親をしてほしい」と
期待されると苦しくなることと思います。

もし、学校から帰宅するなり、
ランドセルから連絡帳と宿題を取り出して、テキパキとすることを済ませ、
ついでに明日の時間割まで合わせてしまって、
「宿題は少ないから、お家のワークもしたいな」と言うような子を
育てているとすれば、
誰だって楽して立派な親ができるわけです。
そうでないから、毎日、苦労をしても、苦労をしても、
報われなくて、親としての自信がぐらつくのですから。

でも、この状況は、子どもの側にも言えることなのです。
「やらなきゃいけないことならばさっさとやる」ことを心地よく感じて、集中することが苦にならないような脳に生まれて、
手先も器用で、テキパキ動ける体に生まれたならば、
自分から進んで、するべきことをこなしているはずですから。

「あぁ、割にあわない……」と感じても、
自分の身体も脳も取り替えることは不可能ですから、
思い通りにならない身体や脳を持って生まれても、
それを受け入れて、がんばっていくしかありません。

宿題の塗り絵をグズグズするようなとき、
「これくらいのことができない」と冷たく突き放すのではなく、
塗り絵くらいは少し手伝ってあげて、
そうした温かい雰囲気の中で、ほんの少しだけでも成長した部分を見つけて
いっしょに喜び合っていると、
子どもの側も、小さな進歩に気がつくようになって、
自分を励ましてがんばれるようになっていけるかもしれません。

苦しい努力をしている子を攻撃しても、
0か100かの捉え方になって、全てを投げ出してしまうのがオチですから。
イヤイヤやっている子には、
嫌な作業の中にも、小さな楽しみや進歩の喜びや面白いところがあることを、
身近な大人が関わることで、
気づかせてあげることが大切だ思っています。



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発達障害ではないけれど 集団行動が苦手な子

2011-04-27 22:26:14 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

教室をしていると、育児書通りに成長しなくて大いに親をやきもきさせるタイプの子たちをよく見かけます。

特に「発達障害ではないけれど、集団行動が苦手な子」の親御さんは、心配が絶えないようです。

「発達障害ではないけれど、集団行動が苦手な子」は、感覚が優れている内向型の子に多いです。

その子特有の美意識が強くて、同年代の子と異なる自分の好みにこだわります。
五感が敏感で、自分のペースで動きたがり、集団行動を頑なに拒絶するときがあります。
そうした特徴を言葉でだけ表すと、発達障害の子のこだわりと間違われることがあるのですが、実際に子どもと接していると、発達障害のある子のこだわりとは、かなり異なることがわかります。

感覚が優れている内向型の子は、自分のやりたいことに固執して、他人から誘いかけられたことをどれも嫌がったりしますが、少人数の慣れた人々の間では、コミュニケーションを取るのも上手だし、メタ認知力が高く、心の理論も一般的な子と同じ時期に理解しています。

このタイプの子たちは、男の子も女の子も、年長さんの半ばくらいまで、親が何か教えようとすると、頑固に拒絶することがよくある割に、就学までには小学校受験用のワークなどもきちんとできるようになっています。

また、外向型の子も内向型の子も、直観が優れている子は、集団行動が苦手な場合がよくあります。
他人の指示で動くより、自分の興味の移るままに、次々、好きなことがやりたいのです。

こだわりは少ないけれど、飽きっぽくて、コツコツがんばるのが苦手で、不器用な子が多いです。

自分の考え事を追うのに忙しくて、他人の話を聞いていないことがよくあります。
文字の練習は嫌がるけれど、算数は得意という子が多いです。


感覚が優れている内向型の子も、直観が優れている外向型の子も、内向型の子も、自分でやりはじめることには集中して、高い能力を示すのに、するように指示されたことはやらないか、おざなりです。

幼児期は、他人から誘われたり、指示されたことを無視することがよくあるけれど、成長をていねいに観察していると、就学までには、集団のルールに従えるようになっています。

集団のルールに従うようになるのは、そんな風にゆっくり身につけますが、それだけに自分の個性的な才能を伸ばすことには熱心な子たちです。

心配しすぎたり、無理強いしたりせずに、その子らしさをあるがままに愛してあげることが大事だと思っています。


個性のように思えても、発達障害の疑いがある場合は、きちんと病院で診断してもらうことが大切です。

でも、子どもにはそれぞれ独自の性質があるので、みんなと同じ行動が取れなかったり、成長に凸凹があるからといって、必ずしも発達障害があるとは限りません。
幼児期の短所は、長所の裏返しである場合もよくあります。

 

子どもの性格タイプ(内向型・外向型・直観・感覚タイプ…など)について書いた記事のリンクをまとめました。

→ 子どもの性格タイプについてまとめました

 

<関連記事>

発達障害に似ているけれど、発達障害ではない子 ちがいの決め手

発達障害なのかどうか気になるけれど、やっぱりちがうかなぁ~とも思う子を育てている方に

相談<発達の凸凹が気になる子。専門家からは個性の範疇と言われました>

 

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「親ができるのは『ほんの少しばかり』のこと」という本

2011-04-27 10:23:59 | 日々思うこと 雑感
「親ができるのは『ほんの少しばかり』のこと」
山田太一  PHP研究所

という本を読みました。

まえがきに次のような文章が綴られていました。

「うまれて来る子の性別も選べない。容姿も頭のよさも性格も健康も、あるがままに受けとめるしかない。

その上で『親ができること』をさぐりさぐり、
なんとか一緒に生きて行く。

その一緒の歳月では無論、親は子供に影響をあたえるけれど、その影響の大半は意識的な『子育て』によるものではなく、親の『存在』が避けようもなく
あたえてしまう影響だというように思います。

いくら『教育方針』などというものを持って教育に励んでも、結局その親の器量以上のものを、子供に伝えることはできない。

ほうっておく親とそれほど大差はないどころか、ほうっておいた親の方が
『よき影響』をあたえてしまうというようなことが、
いくらでもあるのが子供と親との関係だと感じています。」


「うまれて来たときから、子供は他ならない『その子』です。
他の子と交換可能な個性のない存在ではありません。(略)

親ができることは『ほんの少しばかりのこと』です。親の力の限界を知り、
その中でどう生きるかというのが、子供との関係の基本だと思います。」


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子供は個性をもってうまれてくる存在だから、
どこまで行っても、その子はその子。

子供には親の持っている以上のものを伝えることはできない。

そうした言葉を目にすると、
がっくりして、子育てに励む気力が失せる方がいるかもしれません。
一方で、「そんなネガティブな意見は信じない、親の努力次第で子供の将来は豊かになっていくはずだ」と憤慨する方がいるかもしれません。

私は、たくさんの子供に会えば会うほど、
「確かに子供は、交換可能な個性のない存在ではないな」と感じています。

0歳児でも、はっきりとした
どの子とも交換することができない個性を放っていますから。

それなら、「いくら『教育方針』などというものを持って教育に励んでも、結局その親の器量以上のものを、子供に伝えることはできない。」という
考えに対してどんな思いを抱いたのかというと、
「それは真実なのだろうな。
子供をこれこれこういう風に育てたいと思ってがんばっても、
何もしない方が良い結果が待っているのかもしれない。

でも、親が子供との関わりの中で、自分の視野を広げ、
人への理解を深めて、学ぶことへの愛情に目覚めていくなら……
そうして自分自身の器量を大きく育てていくなら、
自分があたえることができる最上のものを伝えていくことができるだろう」
というものでした。


虹色教室で期待通りに成長してくれない子にやきもきして、
悩んだり、叱ったり、あれもこれもといろいろなことを試したり、
イライラしたり、愚痴をこぼしたりしていた親御さんが……

(たいていの場合、親御さんが困惑するのも、ごもっとも……と思われる
子供のやる気のなさや頑固さや困ったちゃんぶりがあるものですが)

この子は、こういう子なんだなとあるがままに納得するときがあります。


その上で、「気持ちが優しいし、素直な性格だ」「こういうときは、きちんとしている」「ユーモアがあって、明るい」などと、子どもの良い面を見つけて、
自立をうながしながら、適度に手助けしはじめる方がいるのです。

すると、それまでダラダラ~グタグタ~していた子が、突然、意欲的にがんばりだすことがあります。

いきなり良い成績を取り出すまでにはならなくても、
その子の個性的なすばらしさが輝き出して、子供のグループの中でも
一目置かれる存在になりはじめることがあるのです。


「親ができるのは『ほんの少しばかり』のこと」の中で
山田太一氏が、次のように書いておられました。

「歩き出したら、片時も目をはなせない。そんな厄介な存在と暮らして
幸福感があるのが不思議でした。
勿論、うんざりして、いなくなってくれないかな、と願ったことも
何十回かはありましたが、何十回ぐらいですんだのは、
子供の可愛さでした。
子供の可愛いのには、何千回も感嘆しました。
すべてが小さくて、しかしぜんぶそなわっていて、無力すぎる故に
抗しがたくて、
ほんとうに生物というものはよくできている、
ちゃんと親の苦労にむくいるように
子供をこんなに可愛くつくってあるんだ、と見惚れました。」

子供って、生きているだけで、
そこにいるだけで感嘆するほど可愛いものです。
でも、子供に、今この場で、いろんなものを求めてしまったり、
自分の子育てに自信が持てなかったり、
親が自分自身の価値を認めて、自分を大切に扱えないときには
子供を可愛く感じられなくなるかもしれません。


でも、そういうときは、「子供がこんな風にしてくれたら……」とか、
「子供がこんな子だったら……」と思うのでなく、
まず子供を可愛く思えない自分の気持ちを認めて
自分をいたわってあげるといいのかもしれません。

そうして自分に素直に向き合えば、
自分の器量が少しだけ大きくなりますよね。
そうすれば、少し大きくなった器量で、
子供に接することができるでしょうから。

私は前にも書きましたが、ADDの特徴をたくさん持っているので、
調子が良いときに限って、自分でも信じられないようなミスをしがちです。
私が調子が良いときというのは、いろんなことを抱えすぎて、
頭の中がいっぱいいっぱいになっているときでもありますから。

そうしたミスをするたびに、
自分で自分に裏切られたような気持ちになるし、
何をしても無意味だという気持ちに飲み込まれそうにもなります。
でも、私は自分がそういう特徴を持っていなかったら、
もっと子育てで間違った方向に進んでたんじゃないかな
とも感じているんです。
うちの子たちも、遺伝なんでしょうけど、同じような失敗が多い子なので、
小学生くらいの頃は、
「何度言ったらわかるの?」「何回ミスすれば気がすむの?」
と喉元までそんな言葉が上ってくるような失敗をたくさんしていました。

でも、私は責める代わりに、
失敗が続いたとき、「どうしたら自分はダメな人間だとやけを起しそうになるときにも、正直に自分の欠点を見つめて前向きにがんばれるのか」
「どうしたら、何度失敗してもチャレンジし続ける勇気が持てるのか」
を伝えるようにしてきました。

それは私がADDの特徴があるからこそ、何度も何度も、
自分の能力に絶望しながら、
その度に、
何とか気持ちを立て直して、自分にとっての最善をつくす方向に
一歩踏み出そうとしてきたからなのです。
それがどんなに苦しいことが、よくわかっているので、
わが子がつまずいたときには、
子供が自分で問題を見つめて、欠点を乗り越えていくまで
大らかに待ってあげることができました。

それで、私の子にすれば、同じ年齢のころの私よりずいぶんしっかりしているし、それぞれの子が何にひるむことなく
自分の可能性を広げ続けることに一生懸命なので、
うれしく感じています。


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