虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

チュッパチャップスを回転させてなめるおもちゃ を 作ってみました♪

2014-08-31 18:17:07 | 工作 ワークショップ

地元の行事でチュッパチャップスをたくさんいただいたので、

チュッパチャップスをクルクル回転させてなめるおもちゃを作ってみました。

幼い子でも作れるように

工作手順をできるだけシンプルにする工夫をしました。

 

細めの曲がるストローの一方には縦に切ったストローを丸めて数センチ分入れ、

もう一方にはモールを入れて曲げています。

 

太めのストローに写真のような穴を開けます。

 

細いストローを太いストローに通した後で

チュッパチャップスの棒をストローの先に入れます。

 

ハンドルを回すとキャンディーがクルクル。

舌をキャンディーにあてるだけで、自動的にキャンディーをなめることができます

(めんどくさいおもちゃですが、子どもはこの発想の転換、とっても喜びます)。

 

 


子育ての迷いや悩みから抜け出すため の あれこれ 17

2014-08-31 08:22:06 | 日々思うこと 雑感

↑ ユースホステルのレッスンで。バッタを捕まえてきたAちゃんといっしょに

バッタのお家を作りました。ペットボトルに穴を開けてあげると、自分でテープを貼って

最後まで熱心に仕上げていました。壁面には大きな穴を開けて網を張っています。

好きなものをは何か質問されたAちゃんは、自信を持って、「虫!」と答えていました。

 

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アーキタイプ(元型)について書いた『英雄の旅』の著者、キャロル・S・ピアソンは、

著書の中で、アーキタイプの研究に取り組む大きな原動力となった、

こんな出来事について書いています。

 

それは、キャロル・S・ピアソンが大学教授だった頃。

三人の女子学生にある重要なレポートを書き直すように指導したそうです。

三人のうち一人は、即座に犠牲者モードとなり、自分を憐れみながら、

わたしはいつもこういう目にあうのだと不満をこぼし、

もう一人は、すぐに戦士モードに切り替わり、障害を乗り越えるための作戦を練り始め、

三人目の(幼子モードの)学生は、自分の書き方に問題があったことはまったく

気づいていないようで、教授を喜ばせるためだけにレポートを書き直したのだとか。

三人とも自分の元型的な物語に彩られているように見えたそうです。

 

言葉の力で思考の方向性を決めるのは、人間の意識の基本的な方法のひとつです。

自分の体験を音や言葉やイメージを使ってどう整理するかによって、

わたしたちの世界に意味が与えられるのは、誰もが体験的に知るところだと思います。

 

心理学者たちは、

ずいぶん前から、人の成長が阻まれたり、遅くなったりする原因は、

自分が目にしたものによって元型的な見方が形成されることが原因だと捉えていました。

もちろん、流派によってアーキタイプに対する呼び名は異なるでしょうが。

 

例えば、子どもの頃に虐待を受けていた人は、他人はいつ虐待者になるかわからない

存在で、自分は常に犠牲者だという見方をするものです。

そういう人の意識からは、

自分で設定した基本のパターンに合わないものは、こぼれおちていくのでしょう。

また、そういう人は、強迫的に自分が犠牲者になることを誘発するような行動を

繰り返すことで、何度も虐待の被害者の立場におかれてしまうことは、

世間でよく見聞きすることだと思います。

 

アーキタイプ(元型)とは、太古の昔から、美術品や文学、神話や宗教の中に

繰り返し登場する象徴のことで、あらゆる国や時代を超えて確認されています。

心理学者のユングは、人類の心の深い部分に共通の物語を生みだす層が存在すると考え、

この層を「集合的無意識」と呼び、

その物語の型を「アーキタイプ(元型)」と呼びました。

わたしたちの目に映る世界は、今のわたしたちの思考や行動が

どのアーキタイプに支配されているかによって変わってきます。

キャロル・S・ピアソンは、『英雄の旅』の中で、十二種類の元型を取り上げ、

それらが生活の一場面でどのように働くのか、こんな例を挙げています。

 

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十二種類(幼子、孤児、戦士、援助者、探究者、破壊者、求愛者、創造者、統治者、

魔術師、賢者、道化のアーキタイプ。それぞれに影としての存在もある)、

すべてのアーキタイプから何かを学びたいという気持ちになれば、

たった一日で、いやたった一時間ですべてのアーキタイプと遭遇することが考えられる。

たとえば、あなたの身に何か悪いことが降りかかった場面を想像してみてほしい—

病気になったとか、仕事や大切な人との関係が危機に瀕しているといったことだ。

 

最初の数分は、問題を直視したくないという思いにとらわれるが(影の幼子)、

それから生来の楽観主義が頭をもたげて戻ってきて(幼子)、

状況を正確に把握しようと努めるようになる。

次に待ちかまえているのは無力感と痛みであり、あなたは他人に助けを求める(孤児)。

次は、それまで蓄えてきたものを総動員して、問題に対処するための計画を練っていく(戦士)。

計画を実行に移す段階では、精神的な支えという意味で、

自分や仲間が何を必要としているのかにも注意を払うようになる(援助者)。

あなたは情報収集に励み(探究者)、

幻想や偽りの希望を手放し(破壊者)、

自分を変えるために新たな絆を求め(求愛者)、

解決策を見つけようとする(創造者)。

つまり自分自身の成長を促すようなやり方で危機に対処していくわけだ。

なんとか危機を脱することができたら、すぐに自分の態度が問題を誘発したのかどうか

を検証し(統治者)、

自分に原因があるとわかったら、二度と同じ状況を招かないために

原因となった部分を癒すように努める(魔術師)、

自分には非がなかったという結論に至った場合は、

ただ単に痛みを癒すこともあるだろう。

そうすることで現状から学ぶべきものが見えてくる(賢者)。

それを学ぶことで、再び人生を楽しむ余裕が生まれ(道化)、

人生のプロセスを信じる気持ちを取り戻すのだ(幼子)。

 

特定のアーキタイプを活性化させずにいると、それぞれの段階(ステージ)を

生きることができない。

戦士が活躍しなければ、計画を練って問題に対処する段階を体験できない。

賢者が現れないと、難局から教訓を得る体験がおろそかにされるかもしれない。

あるいは、それぞれのアーキタイプの影(シャドウ)が表に表われてしまうことも

あるだろう。計画を練る代わりに他人を非難するのに夢中になるとか、

教訓を得る代わりに自分や他人に裁断を下すといった具合だ。

十二種類のアーキタイプの段階を体験するのは、日々を生き抜くための貴重な

スキルを育んで行く、元型的なプロセスだ。

 

    『英雄の旅』 キャロル・S・ピアソン著/実務教育出版 P30 より引用 

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子育ての迷いや悩みから抜け出すため の あれこれ 16

2014-08-30 14:58:04 | 日々思うこと 雑感

子育ての迷いや悩みから抜け出すためのあれこれ 12 に、

こんなコメントをいただきました。

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うまくいえないのですが、内面の葛藤や悩みや、ネガティブな感情を

言語化できていない人って、大人でもたくさんいますよね。

言語化していないと、結局無意識にそれに振り回されたり、自分でも本意ではない

行動をとってしまったりすると思うのですが。

子育てでのつまづきをきっかけにその大切さに気づいて、意識して苦しんでる方は

ラッキーな方で、他の大半の人は、目に見える華やかさに意識はいっても、

内面のネガティブ感情なんて面倒で、すぐ結果の出ないことには興味がない。

もっといえば、そういうことに目を向けるチャンスがあっても、

かたくなに見ないようにするケースも。

なんていっていいか、難しいのですが、ひとことでいうと、二次元的な表面のことに

ばかり目がいってしまう生き方が、当たり前のようになってしまって、心の奥の空間を

大事にする生き方が忘れられてしまってる気がします。

例えば、こちらでも、自分で考える力をつけるには、子供たちだけで、知恵を絞るような

経験が必要かも、と先生が書かれてましたよね。

それにはすごく共感するのですが、一方で自然派子育てママの一部の人たちは、

ケンカもさせる方がいいっていって、確かにそうなんですけど、1,2歳の小さい子同士で

遊んでる場面でも、歳上の子が小さい子に対して叩いたり、おもちゃ取り上げたりする

場面でも、ニコニコ見てたり、放任みたいになってるのを見たことがあります。

なんかバランス悪いというか、表面的なことだけ取り入れてしまって、こうすべき!と

すごく対応が硬直化してしまうというか、ママが必死になればなるほど先生が前におっ

しゃられていたような近視眼的な感じになって、ゆとりのある状態にならない。

ゆったりと時間、空間をとってリラックスして考えてみれば普通にわかることが、

わからなくなってしまう、そういう傾向が、大人こども問わず蔓延している気がします。

じゃあ、どうしたらいいのか、ということは、考えてもなかなか答えは出ませんが、

ひとつ、こちらのブログにたびたびお邪魔しているうちに感じたのは、

子育て(またはそれ以外の問題でも)で壁にぶつかった時、というのが、大人も子どもも

チャンスなのかなと思います。

特に子どもは柔軟性があるから、大人より変化が起きやすいかもしれませんね。

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いただいたコメントにある通り、

「二次元的な表面のことにばかり目がいってしまう生き方が、当たり前のようになって

しまって、心の奥の空間を大事にする生き方がわすれられてしまってる」ことや、

「表面的なことだけ取り入れてしまって、こうすべき!と、すごく対応が硬直化して

しまう」こと、「ゆったりと時間、空間をとってリラックスして考えてみれば普通に

わかることが、わからなくなってしまう、そういう傾向が、大人こども問わず蔓延し

ている」ことが、さまざまな問題を生みだし、複雑にし、解決しづらくしている現実が

あるのだと思います。

コメント主さんの

子育て(またはそれ以外の問題でも)で壁にぶつかった時、というのが、大人も子どもも

チャンスなのかなと思います。

という言葉は、

それこそ二次元的な表面的な理解でスルーしてしまってはいけない大切な気づきとして

受けとめています。

前回までの話題の続きの解決の3つ目の糸口にあたるのは、おそらくコメント主さんの

答えが意図するような「抱えている問題を、親と子の変容の体験にシフトさせていく」

ことにあると感じています。

 

とはいえ、そうした言葉は、それだけだと、

世の中にありがちな「よさげな言葉」や「ステレオタイプな教訓」として、

共感を示すうなずきと共に忘れ去られるのがオチでしょう。

 「壁にぶつかった時がチャンス」といった知恵を現実の問題解決に役立たせるには、

具体的で取り組みやすいイメージが必要で、それにはアーキタイプ(元型)について、

話をするのがいいと感じました。

 

そこで、この夏のユースホステルで、わたしが問題に直面した時は、

「自分の思考や行動が、今、どんなアーキタイプ(元型)に支配されているのか、

他のもっと今の問題に適したアーキタイプの思考や行動のあり方を取り入れると

どうなるだろう、という思いをめぐらせて解決している」といった話をし、

「さまざまな問題解決の実例」を紹介すると、アーキタイプについて興味を抱く方が

多く、とても好評でした。

アーキタイプなんて聞き慣れない言葉かもしれませんが、どのようなもので、

それが親子の関係を良い形に変容させていくのにどんな風に働くのか、

わたしが理解できている範囲で言葉にしていこうと思います。

 


子育ての迷いや悩みから抜け出すため の あれこれ 15

2014-08-29 08:54:47 | 日々思うこと 雑感

解決の糸口のひとつ目について、まだまだ書き足りないものの

いったん先に進みますね。

 

ふたつ目は、「大人が受け止めて言語化を助けるものが、

子どもの心の中にあるものを素直に表現したものになっているか、

本音を言っても罪悪感を抱かなくてもいいか」ということです。

 

子育ての迷いや悩みから抜け出すためのあれこれ 7 の記事で、

勉強、いやだ~!」「勉強したくな~い!」「いやだ~!」とおふざけモードで

主張しながら、部屋に入ってきた男の子たちに、

わたしが「勉強のどんなところが嫌なのか」たずねる場面があります。


こういうときに、大人が、「勉強が好き!」と言う子になってほしいという理想形に

持っていく流れで、子どもの意見を促すというのはよくあると思います。

また、「勉強、いやだ~したくない~」なんて言うのは間違っているから、

その意見のどこがどう間違っているのか正してあげましょうというノリで、

子どもの話を聞くということもありますよね。


どちらにしても、子どもの内面の言葉を引きだしているようで、

大人が自分の意見をごり押ししているだけになるのかもしれません。

「教育的場面」と「自分の思いを言葉にするのを助ける場面」に、

線引きが必要なんでしょうね。


もちろん大人が子どもの意見に同調する必要はなくて、

大人は大人で、「わたしはこう思うよ、こう考えるよ」と自分の意見を主張すれば

いいのだと思います。

一方で、子どもの意見や気持ちの表現が大人の意にそぐわないものでも

興味を持って耳を傾けていると、

子どもが自分の意見や価値観を練って、育んでいくプロセスにつきあうことができます。


まるで自分の考えがないかのように

ふわふわと周りに動かされて行動する子のお母さんが、

矛盾点を突っ込むことができないような理路整然とした意見を持っている、

正しい方であることはよくあります。

その正しさの前で正しくない意見は持ちようがない雰囲気があるのですが、

子どもがする体験の中で抱く人間の弱い一面やネガティブな気持ちを

子どもが言葉にできるようになるには、

子どもと同じように完璧でない人間としての共感が必要なのかもしれません。

 

話の途中なのですが、これからユースホステルのレッスンに行ってきます。

次回に続きます。

 

 

 


『ビジネスで一番、大切なこと』 と 関西人ファミリー

2014-08-28 16:49:58 | 初めてお越しの方

過去記事です。

 

テレビでハーバード白熱教室という番組が放送されていました。

政治哲学などという、やたら堅そうな授業の割に、ニュース・バラエティーかと

思うような話題がどんどん飛び出して……

かなり関西人のアンテナに引っかかる内容でした。

思わず家族中で見入ったあげく、番組終了後にああだこうだと長い議論になりました。

目ざとい娘は、その直後に、『これから正義の話をしよう』というその講義を

書籍化したものを買ってきていました。

それ以来、ハーバード大学のユーモアと遊び心にすっかり感服している私。

本屋に行っても、ハーバードという言葉が目に付くと、

取りあえず、中身をチェックするように……。

 

そんなわけで、ハーバード・ビジネススクールのヤンミ・ムン教授の

『ビジネスで一番、大切なこと(ヤンミ・ムン/ダイヤモンド社)』を

手にしたのですが、人間味と笑いに満ちた内容に立ち読みがやめられなくて、

そのまま棚に戻さずに売り場に向かいました。

 

このところ、私がビジネスの本をよく手にするようになったのは、

娘、息子、ダンナと私……と家族全員が、いつ何回話していても

飽きない話題というのが、このビジネス関連の話だからなのですが……

興味の範囲外の話でもビジネスがらみの話には即、反応してしゃべり出すあたり……

関西人(商売人?)の血が全員流れているんだなぁ~と感じています。

 

そのせいで、何のブログだかわからないような話題に、

幼児教育について学びにきた読者を無理やり引っ張り込んでいるのですが……

疲れたら遠慮なく読み飛ばしてくださいね……

 

話を 『ビジネスで一番、大切なこと』に戻すと、

私が一番共感したところは、著者の執筆スタイルに大きな影響を与えた本が、

大学生の頃読んだ『ご冗談でしょう、ファインマンさん(岩波現代文庫)』

だということ。

日々の生活や教師としての経験、研究をめぐるとりとめもないエピソードの集まりが、

読み進むにつれて心に入り込み、本を閉じる頃には科学の真髄をたくみに語った物語だと

確信するようになったそうです。

私も『ご冗談でしょう、ファインマンさん』 の大ファンなんですよ。

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研究者が物事の理解に貢献する方法は二種類ある。

一つはパワーポイント的アプローチ。

複雑な現象を取り上げ、そこから不要なものを取り除いて核心にたどり着く。

もう一つはその逆で、不要なものを取り除くのではなく、思いもよらない方向から

微妙なニュアンスをくみあげ、積み重ねていく。

これがファインマンのやり方だった。科学というテーマを日常生活に織り込み、

豊かさや味わい、深みを加える。

    『ビジネスで一番、大切なこと』ヤンミ・ムン/ダイヤモンド社 P6より

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私もブログで自分の思いを伝えるには、ファインマンのような方法でしたいと

憧れています。

どんなにあがいても、パワーポイント的アプローチはできそうにないから……

ということもありますが。

 

この本は、どこか遠くのビジネスの話題ではなく、

私の足元や心に光を当てて、「私はどんな時代のどんな環境で暮らしているのか?」

「私はどのように生きたいのか? 働きたいのか?」という思いを、

浮かび上がらせてくれる本でした。

興味深かったのは、「選択肢の増加イコール多様化、ではない。むしろ製品数が

増えるにつれて、違いは小さくなっていく」という話題。

 

ジュースにしろ、洗剤にしろ、店の棚では、どんどん最新の品揃えが増え続けているわけ

ですが、ある段階に達すると、もはや愛好家さえ区別がつかなくなるのだそうです。

カテゴリーが成熟すると、購買頻度の最も高い消費者さえ

比べる努力をむなしく感じはじめるのです。

ささいな違いに注目する愛好家が減り、

違いの意味に疑問を持つ顧客が増え始めるのだとか……。

この気持ちわかるんですよ。特にシャンプーを選ぶとき……新製品が出るほど、

「よいのを選んで買おう!」と意欲がなくなって、

適当に特価品をかごに放り込んじゃうんですが……。

 

ヤンミ・ムンは、

 多くのカテゴリーで差別化が難しくなっているのは、私たちが本来の競争ではない

「競争」に入り込んでいるからだ。

と訴えていて、でも「例外もある」と続けています。

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例外的な企業の優勢は、世界が変わりつつあること、古い知恵が新しい知恵に

とって変わられようとしていることの予兆である。

そこでは、神話を最初に手放したものが優位に立つ。

これらの異端児を調べれば、有益な教訓が見えてくる。

誰でも文章の書き方、絵の描き方、音楽の演奏法を学ぶことはできるが、

歴史に名を残した巨匠は常に、それぞれの分野の境界線を新たな方向へと広げてきた。

原則を十分に理解しているからこそ、それを打破しなければならないと知っている。

彼らが教えてくれるのは、暗黙の前提がどれほどもろいか、である。

ビジネスも同じだ。雑魚の集団から抜け出し、消費者と純粋な絆を生み出せる

傑出した企業は、残念なほど少ない。

しかし彼らは、私たちがとらわれているビジネスの原則なるものの限界を教えてくれる。

    『ビジネスで一番、大切なこと』ヤンミ・ムン/ダイヤモンド社 P29      

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食事時に、こういう話題がのぼると、家族全員、誰一人黙ってないのですよ。

しゃべってしゃべって、しゃべりまくる……どれだけ関心があるのか……

こうした話がどこかの企業に向けられた話のように見えず、

うちのような平凡に暮らしている関西人の家族ひとりひとりに、

自分自身のこととしてリアルに響いてくるのも……そういう変化の時代に

生きているからなんだな~と感じました。

 

マイブームで……興味の赴くままにビジネス書を読み漁っていて感じるのは、

企業に向けて突きつけられている課題は、

一個人の……

私やうちの家族のメンバーひとりひとりのアイデンティティーを揺さぶるような内容

でもあるんだな~という事実。

 

「グローバル化」なんて言葉も、大きな企業の中でだけ語られる言葉じゃなくて、

うちの教室の幼稚園児にしたって、日々、「グローバル化」する世界でどう生きるか

という課題を受け止めて暮らしているんですよね。

テレビ画面には遠い国の紛争や地震の映像が流れ、

子ども部屋には、世界のどこの国で作られたのかわからない物があふれているような

環境で生活しているのですから。

 

 

『ビジネスで一番、大切なこと』に、著者のヤンミ・ムンが、

子どもの頃、ある教師に感じた「いらだち」と、

大人になった今その教師に抱いている「共感」について語っていました。

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子どもの頃、ヤンミ・ムンは

知性を何より尊ぶ ある根っからの教育者である先生に出会いました。

「知性とは何ですか」とたずねると、

「知性とは、赤ちゃんの最初の言葉よ」

「知性とは、三人兄弟が手をつなぐこと」と、

子どもたちが混乱するような答えを返します。

 

その答えは的外れでいらだたしくもありました。

なぜなら、それはIQテストでよい成績を取るとか、

向上心の的になるような、はっきりした行動を導いてはくれなかったからです。

 

でも大人になったヤンミ・ムンは

自分をいらだたせたその先生が、一度もそういう答えをくれなかったことを

感謝するようになりました。

 

知性や資質、成果、美しさといった理想については、

具体的で測定可能で、誰もが納得する定義があると、つい安心感を覚えてそれ以上、

深く考えようとしなくなるものですから。

先生はきっとそのことを理解していたのだろうと思ったからです。

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 わかりやすい定義がなければ、私たちは混乱する。

居心地のよい場所から一歩踏み出すときには、誰しも不安を感じるものだ。

しかし、長い目で見れば悪いことではない。

とりわけ目的が従順な模倣者の一群を生み出すことではなく、

多様な自発的思考を促すことにあるのであれば。

あなたが教師なら、まず、学生の能力を推定し、抽象的に表現することをやめよう。

学生たちにモノサシという権威に頼らずに、他から抜きん出ることの意味を

考えさせよう。やがてあなたは、学生たちが創り出す成果に目を見張るだろう。

学生たち自身も驚くに違いない。

           『ビジネスで一番、大切なこと』ヤンミ・ムン/ダイヤモンド社

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虹色教室で過ごす時間の多くは、子どもたちの自己判断に任しているのですが、

私自身にとっても、何を教え どんなふうに教えるかという面で外からの制約はほとんど

なくて自由そのものです。

そこは小さくてアットホームな教室の利点で、

それぞれの子が自分の内側にかけがえのない価値を見出し、最初は不器用だけど、

しまいには驚くほど流暢に自分の得意分野を伸ばしていく姿を見守ることができます。

私は、どの子も同じ基準で計測できる鋳型を使いません。それぞれが挑戦するレベルが

高い課題は用意するけど、それを比べる道具として利用していないのです。

そうすると、どの子もそれぞれが特別にすばらしいことが、

子ども自身にも親にも受け入れられていきます。

本当に子どもはどの子も個性的ですばらしいですから。

その「すばらしさ」に自分で気づくように手助けするのが、

大人の役目だと思って仕事をしています。

 

ヤンミ・ムンも、「画一的な測定法は、逸脱者や異端児、冒険家が生まれなくなる」と

指摘しています。

人は相違点を可視化すると、互いの違いを際立たせるのではなく、

無意識に解消しようとするのだそうです。

競争力を測るという前向きな努力が、結果的に均質化を促すムチとなるのです。

評価は、個性のない似たり寄ったりの人間を育て、独創性を奪い、議論を精彩を

欠いたものに変えてしまうそうです。

 

もちろん評価や画一的な測定法が必要な場もあるはずです。学校などもそうでしょう。

でも、そうしたものは親も子も「成績」教信者にしてしまうほど、

力を持ってはいけないはずです。

 

なぜなら、測定するということは、ある何かを重視しようと選んだに過ぎず、

それ以外のものを測定していないからです。

必ずしも重要なものから測定しているわけでなく、

非常に価値があるものでも、測定者に高い能力が必要だったり、

数値にしにくかったりすれば測らないのですから。

 

『ビジネスで一番、大切なこと』を読んでいると、

経済界を悩ましている矛盾が、教育の世界も同じように曇らせているのを感じます。

有名病院が死亡率の公表に同意すると、

死亡率を下げたくないから、重症患者を引き受けないということが起こります。

 

同じように教育の世界も、教師を評価し、

子どもを評価し、学校をランキングで比べるのにうつつを抜かしているうちに、

何が起こっているのでしょう?

私たちは大切な子どもたちを、

「市場にあふれかえる最新の性能を備えているにも関わらず、

選ぶ意欲を減退させる似たり寄ったりな商品」

のような立場に追い込んでいるのではないでしょうか。

 

先日、私が幼児の世界にまで画一的な評価が浸透して、個性がないがしろにされている

状況を嘆くと、息子からこんな言葉が返ってきました。

「さまざまなところで人を評価するシステムが進む一方で、

個性が大事、個性を伸ばすってこともよく言われるようになっているよね。

 

でも、無駄に個性を求めすぎて、『個性』と捉えられているものが、

画一的になってきているんじゃないかな。

一般化されたくない、個性的でありたいと思うあまり、他人が言葉に詰まるような

ショッキングな趣味や好みを言いたがる人がいるじゃん。

でもそれもまた画一的な既存の個性のイメージに無理やり自分を当てはめている行為で、

結局、自分の好きなものが自分でも認められていないように見えるんだよ。

つまり、個性を求めるあまり、自然に個性的であることを

自分にも他人にも認めていないように見えるんだ。

その原因のひとつに、言葉によって個性的であるよう

プレッシャーをかけられていることがあるんじゃないかな。

個性もまた画一的な見方を生む評価の対象になっている気がする。」

 

そういえば、さまざまな矛盾する言葉に翻弄されながら

成長していく子ども側の気持ちに思いや感じ方に馳せるのを忘れていました。

息子の言葉をゆっくりと咀嚼しました。

 

 久しぶりの息子の登校日。

朝食の準備をしながら 音楽を聴いていると、起きてきた息子が、

あれっという表情で私が聴いているソニーのCDウォークマンを見て

「買ったの?」とたずねました。

「そうなのよ。この間 買ったCDラジカセ、1ヶ月もしないうちに壊れちゃったのよ。

交換に行かなくちゃならないんだけど、出先で買ったものだからめんどうなの。

それでちょうど小さいのも欲しかったから、近所(電気店)で買ってきたのよ。

CDラジカセね……これまで音楽系のものは神経質に国産品にこだわってんだけど、

外から見たら完璧に見えたもんだから、聞いたことがない海外のメーカーのものを

つい気が緩んで買っちゃったのよ。そしたら、たちまち壊れるんだもの……」。

すると、CDウォークマンについている小さなリモコンを面白そうに眺めていた息子が、

「やっぱり日本製のものって、このちっちゃい部品の部分まで完璧ってすごさが

あるよなぁ。」とつぶやきました。

「ぼくはさ、こういうさぁ、もっと日本人の職人気質のワザのすごさみたいなものが

見直されてもいいと思ってるんだ。

最近は、グローバル化って言葉がもてはやされるから、アイデアとかポジティブさ

とかが上で、これまで職人的に積み上げてきたワザ的なものは下みたいに捉えられて

いるところがあるじゃん。

もちろん、ぼくも努力努力……そればかりを強調する言葉は好きじゃないんだ。

でも、アイデアとかポジティブさとか人間関係上の能力と、

単に努力するってことの間に、そのどちらでもない日本が大事にしてきたことって

あるよね。

日本の良さって、職人レベルのすごいワザが、庶民層にあるってことだと思うんだ。

日本の場合、この技術すごいなぁって感動するような技術とクオリティーでは

ブランド名にできるくらいの中小企業がたくさんあるよ。

以前、日本で子どもがブランド物持つのはおかしいって叩く人々がいたけど、

そういう意見が出るのって、ブランド物じゃなくても、日本の品物は品質が保証されて

いるからっているのが前提にあると思うんだ。

海外だったら、お母さんが買ったCDラジカセみたいなのしょっちゅうつかまされて、

ブランド物を買わないと損をするかもしれないって不安があるよね。子どもだって。

お姉ちゃんが買った海外物のカバンも、すぐに留め金が壊れてひどかったじゃん。

確かに、これからの世の中は、そうした職人的技術だけで乗り越えていくのは

難しいのかもしれないけど、今は軽視しすぎている気がするよ」

「お母さんは、アイデアとかコミュニケーションとか、販売の新しい形とかを

開拓していける人と、そうした職人的な日本が築いてきたものを仲介する人……

つまり橋渡しをする人が、もっと必要だと感じているの」と私が答えると、

息子から次のような答えが返ってきました。

「そうだよね。ただ、ぼくが思っているのは、もう少し別のことで……

ほら、お母さんがしている仕事にしたって、アイデア勝負で自由にしているようで、

職人的なものが基本のところにあるじゃん。

中身の質の面で、かなり積み上げてきているというか……。

たとえば桜井章一さんなんか、麻雀なんだけど、運や発想だけではない、

職人的なワザを守ってきている人だと思うんだよ。

今は、アイデアだけ運だけで成功したとしても、お金さえ手にしていたら、

みんなで褒め称える風潮があるけど、そこに職人的な積み上げて築いていく

確かなクオリティーがないまま突き進んでいくのはしんどいと思うよ。

それは職人的な人を下請けにしていけばうまくいくもんでもないと思う。

日本人の職人気質のよさって、海外の職人さんに比べると謙虚なところじゃないかと

思うんだ。

海外の場合、職人気質がきつくて、時計職人は時計しかつくらないみたいな

プライドに固執することがよくあるようだけど、

日本の場合、質も極めるけど、他業種の物も模倣してていねいに作るってことも

するよね。

これからは、新しい世界の動きを取り入れつつ、

そういう日本の職人気質の良い面が生かせるような仕事のあり方を、

大きな視野から眺めなおして作っていかなきゃならないんだと思うよ」。

高校生くらいの子から見える社会は、そんなふうに映っているのか……

私も考え込んでしまいました。

 

続きを読んでくださる方は、↓のリンク先に飛んでくださいね。

『ビジネスで一番、大切なこと』 と 関西人ファミリー 4

 


「遊園地」ではなく「原っぱ」

2014-08-28 16:43:33 | 日々思うこと 雑感

この記事を探しているという声をいただいていたので、ひさびさにアップします。

『おせっかい教育(鷲田清一・釈徹宗・内田樹・平松邦夫 著/株式会社140B)』で、

「遊園地」ではなく「原っぱ」的な遊びを……という提案があり、

「現代の子どもたちのメタ認知力や地頭力が下がっているのは、これが原因だなぁ」

と感じました。

同じ遊び場でも、遊園地というのは、そこに行ったら何をするかというメニューが

すでにあって、その中でどれを選ぶか、どんな順番でやるかという場所です。

今の大学・学校もカリキュラムがあって、大学の授業は「勉強する遊園地」となって

いるそうです。

鷲田清一氏が、この著書の中で次のようにおっしゃっています。

「ぺんぺん草が生えて空き缶が転がっているだけという原っぱに、

学校にも家にも居づらい子が、一人で来て空き缶を蹴ったりしていると、

よそから同じような子がやって来て、お互いに意識しあう……。

でも遊び道具もない、野球もできない。そんなときにちょっと空き缶をそいつの方

向けて転がすと、向こうも手持ち無沙汰ですから、またポーンと蹴ってきたりして…

そうやっているうちに二人の間で新しい遊びのルールを自ら作っていくんですよね。

子どもというのは別に遊び道具なんかなくても、石ころや棒切れなんかで、上手に、

いろんなゲームを自分らで作っていく。

遊園地のように、その空間の意味があらかじめ決まっているんじゃなしに、

自分たちが何かすることで空間の意味を作っていく。そんなふうにルールや意味を

自分たちで作っていかないと、原っぱで遊べませんよね。

そういう教育の場所というのが今なくなってきているんです。

「原っぱとしての遊びの場」がね」。


この話を読んで、

『子どもの「遊び」は魔法の授業(キャッシー・ハーシュ=パセック他(アスペクト)』

の著書にあったネズミの実験のことを思い出しました。

50年ほど前、ある教授が、研究室のネズミをわが子のペットとして数匹持ち帰った

そうです。それらが、研究所のネズミより素早く迷路をすり抜け、

ミスが少ないことを発見しました。その後、別の教授が、ネズミを取り巻く環境の

さまざまな面がネズミの行動や脳の発達に影響を及ぼすかという研究をしました。

かごで1匹で暮らすネズミ、ほかの数匹と大きなかごで暮らすネズミ、

おもちゃの滑り台や回し車のある遊園地のような環境で暮らすネズミを比べて

調べました。

すると、遊園地のような環境で、ほかのネズミと一緒に暮らしているネズミは

脳内にシナプスをたくさんこしらえていたそうです。

この話にはもう一つ重要な部分があって、この教授の報告によれば、

遊園地のような環境で過していたネズミよりもっと脳が発達していたのは、

自然の中で育ったネズミだったそうなのです。

自然の中の音、匂いといった刺激、遭遇する生き物、集団で群れる遊び、

シラミやノミ取り、仲間とのはしゃぎあいなどは、研究者がかごの中に作った

ディズニーランドよりずっと脳を発達させるものだったのです。

人間をネズミといっしょにするのは問題なのですが、人が人工的に作る豊かな環境は

必ずしも何もない原っぱに勝るものではないことを、

頭に入れておくとよいのかもしれません。

私が子どもだった頃は、広場はもちろん、街も学校も大人たちの作るコミュニティーも、

『原っぱ』的な要素が十分にあった気がします。

過去記事ですが、よかったら読んでくださいね。↓


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<番外 消費者ではなくて、製作者でもあったちょっと昔の話 >

マシュー・フォックスという神学者が次のような言葉を語っています。

私たちは本質的に 消費が好きな生き物だろうか?

そうは思えない。人間は製作者として存在してきたのであって、

消費者ではないはずだ……。



年々、子どもをめぐる環境は変化し続けて、

子どもの心のあり方や物の見方や関わり方が変わってきていますよね。

特に感じるのは、最近では、親がリードする形で、子どもがいつでもどこでも

「消費者」になりつつあるということです。

私が子どもだった30年以上前、

子どもの私が世界をどのように眺め、関わっていたかというと、

良い消費者になりたくて、経済力をつけて、

購入の際のセンスを磨こうと必死の大人たちと、

現実には何もかもが未完成過ぎて、創作したり製作したり、自分で何とかしたりと……

「製作者」の立場もとらざるを得ない現実の間でもがく大人たちの姿を……

自分もその両方を模倣しつつ暮らしていました。

それで、当時の「製作者」側、「創作者」側、「発信する」側に、

いざ素人の自分たちが立ったときの、何ともいえない危うさや面白さやワクワクや、

がっくし……くる感じ……が、

その「おしゃれ」とはほど遠くて、鈍くさくて面白すぎる風景が、

子ども時代の私の脳裏に焼きついています。

どれを、思い出してもおかしくってしょうがありません。

そうしたことを急にだらだらと書いてみたくなりました。

 

私は大阪の吹田市の関西大学の近くで育ちました。

それで、子どもの頃はよく友だちと、大学の構内にもぐりこんで、

乗馬クラブの馬のえさやりを手伝わせてもらっていました。

この関西大学の乗馬クラブは、毎日、私の住んでいる周辺の道路をきちんとした

乗馬用の服で正装して、ぐるぐるまわっていました。

馬は千里山の駅前の信号機を確認しては、きちんと交通ルールを守って、

かなり気取った姿で立っていました。

そこらあたりまでは、

大阪のちびまる子ちゃん世代の日常として許せる風景だったのですが、

近所に住んでいる地域の世話役の人が「子どもたちのために小さな動物園を作ろう!」

と言い出したのです。そこで、公園のそばの地域の集会所の前の広場で

やぎと羊を飼いはじめたのです。確かうさぎもいました。

最初はよかったんですが、サラリーマンが多い地域……

世話をする人も仕事があるし、大きな動物は世話が大変で、

しまいには、どんどん開発の波が押し寄せてきている千里山の街中で

やぎや羊を放し飼いすることになりました。

そこで、私は毎日、

千里山の駅前で、きちんと交通ルールを守って立っている馬と、

気の向くままに草を求めて移動するやぎや羊の姿を目にすることになりました。

おまけに当時、そのあたりはペットが野生化したワカケホウセイインコが

大量発生していたので、夕方ともなると、カラスの大群なんて目じゃないほど、

圧倒するような数の緑色の大型の鳥の群れが、空を移動していました。

そんなふうに、社会というか、環境が未完成でカオス……なので、

私の通っていた公立小学校の校長の考えも自由そのもの。

宝塚歌劇のファンだからという理由で、学校のクラス名を、「雪組、星組、月組……」

として、毎月クラスで劇を発表する日を作っていました。

子どもが育つ環境としてどうだったのか……というと、???なのですが、

私も友だちも自分たちが頭で考えて、何かをすることに対して、

躊躇しなかった気がします。子どもなのですが、常に、「製作者」「作る側」の発想が

あるのです。

千里山の駅前には、ミスタードーナツとか、サンリオショップとか、「○○塾」とか、

これから全国でチェーン展開していこうとする店舗が並びはじめていました。

その手前の道路には、

自動車と一緒に馬やら羊やらヤギやらがごちゃごちゃしていたわけですから、

子どもの目にも、世界はまだ未完成で混沌としているのだから、

自分たちの参入する場はいくらでもある!

自分たちもクリエイティブにこの街作りに参加しようという気持ちがありました。

たとえば、道なども、はじめに覚えなくちゃならない道順があるのではなくて、

到着地までの近道は自分たちで発見して作り出すものという思いがあったので、

塀があれば登り、柵の下の穴を掘ってくぐれるようにし、

他人の家の垣根のふちを、番犬を狂ったようにわめかせながら歩いていって、

がけを斜めに渡っていって、

団地の前の倉庫やら、自転車置き場の屋根やら、高いところがあれば必ず登って

そこも道の一つとして捉えて通っていくことに、何の疑問も抱いていませんでした。

子どもは、それぞれそうして自分で見つけて作り出した道や秘密の隠れ家を

たくさん持っていました。

時間にしても、暗くなったら帰る時間というアバウトな捉え方で

遊びまわってますから、曜日とか時間なんて気にかけたことがなかったです。

そんな中で、子ども同士、遊びでもルールでもどんどん自分たちで作り出して、

考え出して、改善して遊んでいました。

人脈も開拓して、近所の人にお願いして犬の散歩をさせてもらったり、

同じ団地に住むひとり暮らしのおばあさんに子どもたちで敬老の日のプレゼントを

贈ったりしました。運動オンチで内気な性格の私も

どこでも登るし、もぐるし~を何ということもなくやってましたから、

その頃の子どもたちは、躊躇なく何でもやっていたなと今になって

びっくりしてしまいます。


とにかくエネルギッシュだし、自分たちの頭でよく考えていました。

よく考えていた~というのも、あんまり頭を絞ったので、

40過ぎてる今でも幼稚園の頃、考えあぐねていた問題をはっきり思い出すことが

できるくらいです。

それで、最近の子どもたちが頭を使わないとか、昔みたいに小猿みたいな無茶をしろ……

と思っているわけではないのですが、

「それにしてもあんまりじゃないかな?」と思う現状があるのです。

今は幼い子でも習い事に通っている子が多いのですが、

そうした人工的な場は当然、未完成さとかカオスからほど遠いものです。

時間の枠がありますし、することは決められてますし、

場合によっては、どういう気持ちで、どういう態度で参加すべきかまで暗黙のうちに

子どもに適応を求めてきます。

そこまでガチガチに固められた環境で、子どもたちが、

自分が環境に影響を与えたり、変化させたり、作り出したりできる存在なんだって

気づくことは皆無なんじゃないかな?と思えてくるのです。

それでもそんな現代っ子たちも、よくよく話に耳を傾けてみると、

あれこれと考えていて、したたかで、ユニークで、面白いです。

何に関しても「消費者」としての受身な立場しか取ったことがない子は多いですが、

一度「創作する」ことを覚えると、

「買う」ことよりも、何倍もうれしそうな表情をします。

いったん、クリエイティブに創造性を発揮し始めると、どの子もいきいきとしてきます。

……ここまで、話してきて何を書きたかったのかというと、

空間も時間もちょっと混沌としていてすき間が多いほうが、

何をしようかな? 面白いのかな? 

やってみようかな? やっぱりやめとこうかな?私はそれがやりたいの? 好きなの?

と自分で選んで、考えて、味わって、創造的に参加してみようという気持ちを、

子どもの中から引きだしてくれるのじゃないかな? 

ということなのですが……。

 


子育ての迷いや悩みから抜け出すため の あれこれ 14

2014-08-27 18:31:03 | 日々思うこと 雑感

 Bくんのお母さんは子どもの遊びを軽く扱う方ではありません。

また勉強以外のものへのBくんの興味にも心を配って、きちんと対応しておられます。

 

ここで、「扱いの差」と書いたのは、あくまでも

「Bくんはこんな子!」というお母さんの評価にそれがいかほど影響を与えているか、

という点での差異のことです。

 

 

わたしが小学生だった頃を振り返ると、かつてと今では、

『宿題』に対する大人のスタンスが、様変わりした印象があります。

 

教室の親御さんの話を聞いたり、小学生の子を持つお母さん方のブログを読んだり

していると、

低学年の子の宿題の話をしているのか、

納期までに完成品を納めなくてはならない仕事の話をしているのか

わからなくなることがあるのです。

 

宿題のみならず子ども自身についても、

ある時期、ある時期に、理想的な子どものあり様がある前提のもと、

それぞれの納期までに子どもの完成品を納めなくちゃならないのに……と、

(親が子どもの)宿題提出のたびに焦っているようでもあります。

 

それもそのはず。

就学前から通信教材のDMは、毎日、机に座る習慣をつけることがいかに大切か、

時に親の不安を煽りながら畳みかけてくるし、

ママ友仲間の掲示板やラインやブログでは、

「隣のクラスはこれだけ宿題が出ている」とか

「別のクラスはここまで進んでいる」といった、

これが理想形なんだという思いや不安感を刺激する情報が絶え間なく

流れているのです。

子どもがすることは何であれ、する前から親の頭の中は情報でパンパンになって

いることでしょう。

 

それこそ、「子どもの宿題」のような

 ネットや携帯がない時代なら、わざわざ本を買って調べるほどの情報でなし、

いちいち電話して確かめるほどの話題でなし、

子どもが学校に行けばもらってくるだろうし、もらってきたらどんなものか

わかるだろう……と適当に構えていたものにまで、

知らない間に頭でっかちになっていても誰も気づかないのかもしれません。

 

情報過多の何がまずいかというと、

レベル1段階の子を、

レベル10の視点でチェックしてしまう、ということがあります。

 

レベル1の課題に取り組んでいる子に、

最終段階の完成形を求めていじくって、

チャレンジ精神を枯らせたり、自分はダメだと思い込ませたりすることも

よくあることです。

 

たとえば、自由研究でしたら、

その子が無の状態からイメージして何かを作り出す力があるかいなかによって、

その子の今取り組めるレベルが決まってくるのでしょう。

言葉上で好き勝手なアイデアを出すのも難しく、

「何も思いつかない」とお手上げ状態なら、

わたしの子ども時代の子なら、友だちといっしょに宿題をして、

中身を少しだけ変えて真似をして、未完成なまま提出していました。

そうしたことが叶わない今の子なら、自由研究の本を見て、

できそうなものを選んで、その型にはめる形で、未完成ながら何とか空白を

埋めるくらいで十分なのでしょう。

 

大切なのは、取り組むのがレベル1の課題であっても、

レベル1内でしっかり身についていくものがあって、意欲や達成感につながったり、

責任感が生じたりするということです。

先生や外からの評価に合わせて、

本人の今のあり様とかけ離れたものを要求するよりも、

Bくんでしたら、自分が作ったラキューの作品やゲームの写真を撮って、

短い説明をつけて、ラキューやゲームについて調べたことを、書き添えておく……

くらいの自由研究が楽しくできたら、

Bくんの心の中に、「ぼくにもできるんじゃないか」「次もできそう」という

思いが芽生えるのでは? と思いました。

 

 


あるもので工夫する面白さ と 無から生みだす喜び。 自分で気づいて考えて動く時の満足感。 4

2014-08-27 09:41:24 | 日々思うこと 雑感

ユースホステルのレッスンに持っていけるものはしれていますから、

毎回、ちょっとした飢餓感を体験します。

材料が足りない、道具がない、遊び道具がない……それこそ、お家にあるような

テレビや携帯ゲームや毎日のルーティーンに埋め込まれた時間を潰す何かもありません。

 

必要は発明の母じゃないですけど、そんな時に各々が知恵を絞って

「面白さ」を生みだそうとする試みが、何ともいえずワクワクして楽しいのです。

想像力、思考力、創造力、推理力、表現力、言葉の力等、自分の内面にある目に見えない

道具をフルに使って、胸が高鳴るような時間を創造していくプロセスを共有することは、

物にあふれて自分の内面の力とアクセスできなくなっている現代の子どもたちへの

最高のプレゼントです。

 

70枚入り100円の茶封筒。

底をつまむと生じる三角形が、猫や犬の耳になります。

そんな発見を子どもたちに見せると、「どうやるの?」「すごいすごい」という声と

ともに、お人形作りが始まりました。

わたしの手本通りに作る子、羽根やくちばしをつけてみみずくを作る子、

危険生物を作る子……とめいめいオリジナルのアイデアを盛り込んで作っていました。

 

飽きるくらいたくさん作ったあとで、子どもたちの間から自然発生的に、

封筒人形を使った人形劇遊びは始まりました。

 

和室の作りは、観客席と舞台と舞台裏をイメージさせるものだったようです。

 

居住まいを正して劇の開始を待つお客さんに、

「しゃべらないでください~!」等、劇場でのマナーを訴えるAちゃん。

「~しないでください」「~はダメです~」という前振りばかりで、

いっこうに劇が始まる気配なし。

 

この日、虹色教室で、自分で作った物語を人形劇にして演じるのが

大好きな男の子たちも参加していたので、

お客さんたちがお腹を抱えて笑い転げる姿もありました。

 

 

封筒の底を切って、もう一枚の封筒を(端を折ってサイズを調整しています)、

その中に入れて引き出したり押し入れたりすることを使って、

いろいろな遊び道具を作っています。

 

答え部分を引き出すあみだくじ。

 

テレビ。

 

テレビの作り方のアイデアを目にしたBちゃんが、

イラストを文字に変えて、電飾掲示版を作りました。

 


子育ての迷いや悩みから抜け出すため の あれこれ 13

2014-08-24 06:46:37 | 日々思うこと 雑感

前回の記事で書いた「常に意識の焦点を当てて言語化している悩み」が、

「ステレオタイプな外から与えられる情報か、他者からの評価にかかわるもの」

絞られている……って、

何のことやらわかりにくいですよね。それについて、もう言葉を添えることにしますね。

 

夏休みの宿題をめぐって繰り広げられたBくん宅の一大騒動。

 あまりの宿題のやらなさに、「習い事も減らそう、塾もやめていいし、

学校も変わったらいい」とまで考えたお母さんも、宿題の手伝いに借り出された

お父さんもさぞかし大変だったことと思います。

 

ただ夏休みの宿題を終わらせることだけが目的なら、

強制的に机に座らせるなり、本人の好きな遊びやおもちゃやテレビ視聴を取り上げて

脅すなりの強硬手段に出れば何とかなるのでしょう。

また、Bくんの苦手な時間配分に配慮して、時間を視覚化するツールを利用し、

目標を小分けにし、早いうちに自由研究を自分でさせるのは諦めて、

親がした下書きを写せばいい状態にして追い立てれば間に合ったのかもしれません。

 

でも、Bくんのお母さんがそれをしないのは、

Bくんの自己肯定感を高めたいという思い、

自発的に!意欲的に!能動的に!自分から動いてほしい、

自分の意見を持って、自分で感じ考えてほしい、という思いがあったからでしょう。

それと何より、どんなに子どもとぶつかったとしても、

「学校が嫌い、習いごとが面倒、人と関わりたくない、日々が面白くない」という

気持ちにはさせず、

「学校は大好き」「宿題をする時以外はずっと楽しいことばかり」とBくんに言わせる

ような関わり……つまり、どんな時も最低限の子どもの人権を守り、温かく辛抱強く

より良いものを与えようとする接し方を続けてきたからなのでしょう。

 

Bくんのお母さんから、宿題騒動のコメントをいただいたとき、同時に、

 「ユースレッスンで遊んでいたゲームの名前を教えていただけないでしょうか?

外国製ということで、同じものはないかもしれませんが・・・。

相当気に入ったみたいで、欲しい欲しいと言っていました。

ひとまず、自分で盤と駒を作っていましたが・・・。

それでいいかな、とも思いますが、教えていただけるとありがたいです」

という質問もいただきました。


わたしは「ひとまず、自分で盤と駒を作っていましたが」のくだりがうれしくて、

「そうそう、Bくんは、こんな子だな。こういうとき、自分で能動的に動いて

創意工夫することができる。

なければないで、あの並べるだけでも面倒なほどたくさん駒があるゲームを手作り

しようって言うんだから。

Bくんのお母さんも、Bくんのそうした才能や魅力は知っているし、認めてもいるのに、

それがBくんの自己肯定感を上げることに寄与してないのは

残念……」と考えていました。

何もそこで、ゲームを買わずに自分で作らせた方がいい、などという表面的な話を

したいわけではないのです。

 

どうにも、学校の宿題のように外の評価が関わるものと

こんなふうに生活の一場面で本人が自発的に動いてすることの扱いの差が

大きすぎるようにも感じたのです。

 

 


番外 妖怪ウォッチの灯ろう

2014-08-23 15:48:33 | 日々思うこと 雑感

地蔵盆向けの灯ろうに妖怪ウォッチのイラストを描いていたダンナさん……。

5年前の冬に、和凧にヤッターマンのイラストを描いた時と同じく写し絵です。

 

久しぶりのお休みとダンナさんの話

(↑この頃のブログは、身近な方に絵文字入りメールを送る気分で書いていたので、

ちょっと見苦しいです)

当時、わが子のみならず、教室に来た小学生みんなから、

「写し絵はあかんやろー!」「ズルーッ!大人やのに写し絵してる!」とブーイングの

嵐だったにもかかわらず、今年も全く進歩なし。

写し絵+自慢……。

メラメライオンはかわいかったので、わたしも欲しくなりました。

 

わたしも一枚、ブシニャンを描いてみました。適当に色を塗ると、

本物とは似ても似つかぬヘンブシニャンになりました。