虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

こぐまくんの知育日記♦︎虹色教室mini♦︎更新しました。

2021-09-26 11:08:44 | 0~2歳児のレッスン ベビーの発達

こぐまくんの知育日記♦︎虹色教室mini♦︎更新しました。

絵本が大好きなこぐまくん

よかったら見てくださいね。


発達障害のある子の才能を伸ばすことと、その壁となる問題点

2021-09-20 21:03:08 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

発達障害のある子の才能を伸ばすことと、その壁となる問題点について書いた過去記事を紹介しますね。

かなり前に書いた記事なので、「才能」という言葉の扱い方が誤解につながるかも……と気にかけながらアップします。

「才能」というより「いいところ」「優れている点」という言葉の方が、合っているかもしれません。

 

映画監督のスピルバーグ氏が自身が、学習障害のひとつである読字障害であることを公表されました。

トーマス・エジソンやレオナルド・ダ・ヴィンチ、アルベルト・アインシュタインなども読字障害であったと言われています。

何かの機能がが劣ると、その分、他の機能が飛躍的に伸びることはよくあると聞きます。

凸凹のある子たちの自尊心を高めて、自分の人生を誇りを持って歩んでいくための助けになりたいです。

  

発達障害のある子の才能というのは、初めは、既存の価値観では測りにくい、漠然としたもののはずです。

何かの技術が長けているとか、その分野のテストの点が良いとかいったものではありません。

自分の好きな事への執着心だったり、同年代の子とは一風変った物…鉱石などへの関心だったり、働きかけるとどう変化するか(実験の基礎となるような)への飽きることない挑戦だったり、なぜなのか・どうしてなのかを知らずにおれないしつこさだったりします。

それは大人には見えにくく、それぞれが個性的であるため、周囲には無価値なものと映るかもしれません。

育てるよりもやめさせる対象となるのかもしれません。

 

虹色教室の小5の☆くんは、休憩時間に積み木でピタゴラスイッチを作ったり、工作をしたりして遊んでいます。

そうした遊び方を見ていると、ただ遊んでいるようにしか見えない☆くんの行動には、ある一貫したテーマが隠れていることがわかります。

☆くんは、ビー玉があるものにぶつかって、その力を2方向に分けることや、一つの力を多くの方向に分散させることに常に取り組んでいるのです。

それは扇形にドミノを倒すことだったり、ビー玉のレールの先に小さなチップを乗せて、それをはじくことでビー玉の方向を変えることだったりします。

また☆くんは、輪ゴムを使って、物を回転させることにも、熱心です。

ブロックを使って、からくりのあるおもちゃを作り、力の方向を転換させることに長けています。

その発想の豊かさと熱心さは研究者に通じるものもあるので、私は☆くんが機械の設計者や映画の世界の特殊撮影を考えるような仕事に就けないか、それか、それに近い自分の興味を追求していける仕事に就けないか…?と考えています。

また、それとは関係のない仕事に就いたとしても、自分の好きなことによって楽しみの多い生活をしてほしいと考えています。

そうした才能豊かな☆くんですが、能力を伸ばしていくには、いくつも超えなくてはならない障害物があります。

 

とにかく好きなこと得意なことに熱中して、子ども時代を通してチャレンジし続けることが、得意な分野で周囲に一目置かれた上で、極端な苦手があることを「人には得手不得手があるわよ~」…と大目に見てもらえるような適職に就くための近道でしょう。

どの職場もギスギスしていて、得意があっても大目に見てもらえるとは限りませんが、ひとつでも得意があることは、本人のモチベーションを保つためにも大切でしょう。

でも、そうした仕事に就くには学歴がいるし、公立の学校はいじめが心配。

子ども時代に夢中になれる事を我慢して、まず勉強が大事、今は受験に向けてがんばる!忙しい学校生活を何とかこなすのが一番!となりがちです。

私自身は受験をそれほど悪いものと思ってません。

目標に向けてがんばると、精神力や根気がつくし、がんばった事実が自信につながるからです。

ただ、受験という周囲も含めて一種の特別な精神状態を体験する中で、本末が転倒してしまって、得意なことを生かした仕事に就くための勉強が、自分の核となる得意な分野を軽視する、後回しにする、気晴らしのような楽しみにすり替えるきっかけともなってしまうのです。

才能あふれる軽度発達障害の子が高学歴を手にした後、勉強に休みなく明け暮れた日々の後で、新しい世界に飛び込んで行く自信が持てなくて、ニートとなってしまった話を耳にすると、残念でなりません。

 

定型発達の子であれば、受験に熱中するうちに、自分の個としての特技を伸ばしそびれても、就職した先で、多数派と同じようなレベルなのですから、とりたててハンディに悩むこともなく、「好きなことを仕事にできる人なんてひと握りだなぁ~」なんて感傷にひたる日があっても、それなりに元気に楽しみを見つけながら働いていけることでしょう。

しかし発達障害の子は、いくら偏差値の高い学校を卒業しても、ある程度、周囲を潤すほどの得意な作業も含む仕事に就かなくては、周囲から浮いてしまったり、役立たずの烙印を押されたりして、どんどん自分に対する自信を失っていくことでしょう。

ですから、発達障害の子は、子ども時代~思春期を通じて、自分が他よりも得意なもの、したいこと、楽しいと思えること、がんばっても苦にならないこと、興味があることを追い続け、育て続け、将来を思い描き続ける必要があると思うのです。

たとえ本気で受験勉強に熱中している時でも、自分の中身を空っぽにしてしまってはいけない、一般的な外の価値観に完全に染まってしまってはいけないのではないでしょうか?

周囲の大人は、自分を見失いがちな発達障害の子に、常にその子が「一貫して持っているテーマ」を思い出させてあげなくてはならないと思うのです。

それは、そうしたテーマをきちんと見出して認めてあげること、個性を正しく評価することで、見栄えが良いそれっぽいことをさせることではありません(習い事やクラブなど)。

 

わたしは、発達障害の子の個性的な好奇心や才能とは、ほんの一時も消してはならない炎のようなもの、と感じています。

どんなに立派な学歴をまとっても、それがなければ、社会人となる一歩は、とまどうことや不安だらけではないでしょうか?

どこにもつき物の社会性や対人関係に弱さがあるのですから…。

しかし自分がずっと好きであり続けたことや、育て続けた能力がある子は、それを切り札に失敗を穴埋めしながら、何とか乗り切っていけるのではないでしょうか?

大成功だって夢ではないはずです。

 

「うちの子は、得意なことってない気がします…。才能が見つけられません…」というお話を聞きます。

そう伺って子どもに会ってみると、たいてい親御さんが見飽きていて、何も価値を感じていなかった行動の中に、その子その子の大きな可能性が隠れている気がします。

私がそうしたものに気づく時は、「あれ?この子の好むもの、見方、遊び方、質問の仕方、こだわり方は、同年代の子のそれとちょっと違うな…」と、気づくところから始まります。

ですから、わが子とそのお友だちくらいしか見る事が少ない親御さんが「見つけられません」というのも当然なのです。

 

算数にLDがあって、理解力も考える力も2年年下の妹さんより、かなりペースが遅くなってしまう3年生の☆ちゃんは、何をするのも自信がなさそうでした。

が、デュプロブロックを使って、ケーキ屋さんごっこをしはじめた姉妹を見て、ある事に気づきました。

☆ちゃんと妹さんのケーキを見ると、☆ちゃんの作ったものの方が見栄えがいいのです。

なぜなのかよく見比べると、妹さんは、色んな色のブロックをばらばらに組んでケーキを作っていますが、☆ちゃんは配色良く形もバランスの取れた作品を作っているのです。

また、熱心さという点でも☆ちゃんにはすばらしいものが感じられました。

ていねいで繊細な作業の様子を見て、ケーキなどのお菓子職人のように、何度も同じ作品をセンス良くていねいに作っていかなければならない仕事に向いている才能だと思いました。

料理、ビーズ細工、ミニチュア作り、フェルトの小物作りなど、☆ちゃんが興味を持つようなら、なるべくさせてあげるといいですよね。

その後、お家でお母さんといろんなことにチャレンジするようになった☆ちゃんは、自信に満ちてきて、勉強にも意欲的になりました。

以前、得意なことをお家でするようになるまでは、☆ちゃんは自分がない感じ……空っぽであるような表情をしていました。

 

落ち着きがなく、気分が高揚すると、寝ている弟のお腹をパチン!と叩いてしまったりする5歳の★くんは、しつこくいたずらをくりかえします。

例えば、小さなボールを手にしたら、高いところから落としたり、物にぶつけたり、カーブを転がしてみたり…です。

とにかくいつまでもしているので、お母さんが呼びかけて何かさせようとしても、聞く耳持ちません。

私は、★くんが、そうしたいたずらをするときに、「~なるよ、きっと」と言ったり、思ったとおりの結果にならないと、「なんでだろう~え~??」とつぶやいたりしているのを耳にしました。

★くんは、<推測する実験する結果を検証する>という流れを、憑き物にでも憑かれたようにいつでもくりかえしているのです。

それが、★くんの一貫したテーマのようです。

★くんにさまざまな実験道具を与え、<推測する実験する結果を検証する>をより意識的なものになるよう支援すると、☆くんは5歳児とは思えない集中力を見せました。

 

☆ちゃんの能力も、★くんの能力も、いつも身近にいる家族が、「これ」とわかる、外から見えやすいものではありません。

それにどちらも可能性の段階ですから、十分そうした能力を伸ばす時間を与えてあげることが大事ですね。

発達障害のある子は客観的に自分を見るのが苦手なので、周囲の一般論に基づいた価値観に振り回されてしまいます。

いつも大きな視点から子どもを眺めて、応援してあげることが大事だと思っています。


一番したいことをするための知恵

2021-09-15 18:58:00 | 通常レッスン

小学3年生の★くん。

いつも教室に着くなり、「こんなことがしたい!」「あんなことがしたい!」と目を輝かせて話します。

でも、必要な材料が十分でなかったり、時間の不足に気づくと、「そうだ、今日のメインはこれってことにしよう!こっちはまたできる時でいいや。まず、一番重要なのはこれ。これがメイン」と、さっぱりした口調で言って、集中して作業を始めます。

 

先日は、「先生、勉強は何時からするの?後から勉強があると思うと気になっちゃうから、先にしてしまって作ってもいい?」とたずねると、猛烈な勢いでその日の学習課題を終え、「それじゃ、今日は教室が終わるギリギリまで好きなことができるから、メインは自動販売機を作って、時間が余ってたら、学校の友達に解いてもらうテストを作ろう」と言っていました。

テストというのは、ローマ字でのキーボードの打ち込み方を覚えた★くんが、自作の算数プリントを作成するというアイデアでした。

実際に作ろうとすると、算数の記号の打ち込み方が分からなかったり、理想通りのプリントらしさを作るのが難しかったりして、試行錯誤の連続でした。

自分でできるだけのことをやってみて、どうしても分からない点を私にたずねて、きちんと学びとろうとする様子を感心して眺めていたら、★くんが、「今日のメインはまず最後までテストを作って、クラスの子の人数分印刷することだから、ここ(見た目の一部が少しまずくなった点)は、まあいいや」と言いました。

 思わず、「今日のメインは〜って考えて行動するのって誰に教わったの?お父さんかお母さん?学校の先生?」とたずねました。

すると、「誰にも教わってないよ。ぼくの考え」という私にとってちょっと意外に感じた答えが返ってきました。

★くんの「今日のメインは何か?」という口癖は、いつも、次から次へとしてみたいアイデアが湧いてくる★くんが自分なりに納得する何かを残していくための知恵だったんだ、と驚きました。

 

この日のAくんの作品はロケット。

家族で飛行機に乗った後は飛行機を作り、音楽祭に参加した後は、ドラムを作っていたAくん。

最近、宇宙に夢中らしいです。

「絵の具はきれいに塗れないから」と大きな面も色鉛筆でていねいに着色するAくん。

でも、今回は、金色の絵の具にそそられて絵の具で塗ることにしていました。

本人も大満足な出来栄えだったようです。


「語りかけ育児」の弊害と「語らなさすぎる育児」の弊害

2021-09-11 09:18:30 | 幼児教育の基本

このブログの「0~2歳児のレッスン ベビーの発達」のカテゴリー内の記事で、これまで繰り返し書いていることなのですが、日本風?自己流?「語りかけ育児」(一方通行の教える形のインプット育児)が、乳幼児の発達に深刻な被害を及ぼしているように感じています。

語りかけていなくても、脳科学などの本を意識しすぎた、過剰な期待を伴う一方向のまなざしを主とする育児も、同様の弊害を生んでいるように感じています。

 

発達上は何の問題もないように見える子が、親御さんの接し方が原因で、次のような問題を抱えているケースによく出会います。

★ 人とコミュニケーションを取ろうする意欲が薄い。

★ まるで耳が聞こえていないような行動をすることが多い。(呼びかけても振り返らず、うろうろする) 

★ 言葉の遅れ。

★ 強迫的な性質になる。ハイテンションすぎる。物を壊すなどする態度が内側に潜在している怒りの表現のように見えることが多い。

★ 視野が狭まり、物の一部に反応して言葉を発し、周囲に関心を広げようとしない。

★ 物事全般に興味が薄く、浅い関わり方をする。感情の働きが鈍い。表情が固い。

★ 他の人や外の世界と関わることを極端に恐れる。

(ハンディーキャップを持っていない子の場合、親御さんに「自己流の語りかけ育児=教える形のインプット育児」をやめていただき、自然な双方向コミュニケーションを心がけていただくと、たいてい短期間に問題は消えていきます。)

 

↓ の記事は、「語りかけ育児」の誤用の問題について取り上げた過去記事のひとつです。

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赤ちゃんが早く言葉を覚えるように、「ママ」とか、「パパ、会社」など、たくさん言葉をかけている方はよく見かけます。
「それでも、うちの子、言葉が遅いんです」とおっしゃる方はたくさんいます。

そうした方のお子さんだけではないのですが……最近の傾向として、ちょっと気になっていることがあるのです。

それは、子どもに、大人に何かを伝えたいという意志があまり見られないということです。

ちょうどおしゃべりをはじめる前の子たちや、1語文が出はじめた子たちというのは、お母さんとの間で、ちょっと特別なコミュニケーションを取るようになります。

子どもの方は、自分の出す大きな声や、目で訴える欲求を、お母さんが気づいて受け止めてくれるのが、うれしい!おもしろい!もっとやりたい!と、感じているのが、外からもすごくわかるのです。
茶目っ気たっぷりに、しょっちゅう相手の反応を誘うような行動しています。

お母さん側は、子どもが「あ~」と言うだけで、何が言いたいのかピン!ときて、まだ、「○△□~」の宇宙語が、ちゃんとわかって聞こえているかのように返事をしながら、子どもと会話のキャッチボールができちゃっているのです。

ところが、最近、1~2歳の言葉をしゃべりだす前の子たちとお母さんが、会話の前段階とも言える、言葉のない世界でのコミュニケーションのキャッチボールをする姿をめったに見かけなくなって、あれれ???と感じることがあるのです。

子どもは自分が発する欲求を大人が敏感に察して、フィードバックが返ってきた~という経験を繰り返すうちに、お母さんの耳は自分の声が聞こえるのか~とか、自分から働きかけると、向こうからも返ってくるな~など、だんだん理解していきます。

ところが、そうした子どものサインをきちんと受け取らず、大人は大人で、本を指差して「りんご!」とか「イエロー!」とか自分が子どもに教えたいことを言うというコミュニケーションのキャッチボールではなく、<インプット>という一方通行の関わり方が多いように見えます。

そのため、子どもの中に、おしゃべりしたい!なんとか声を出して訴えたい!欲求を表現して得したい!という溢れるような意欲が育っていないようなのです。

言葉の発達は個人差があるので、早い遅いをそれほど気にしなくてもいいですが、コミュニケーション自体への意欲が薄い場合は、お散歩の際も、できるだけベビーカーには乗せずに、手をつないだり、抱っこしたりして移動して、会話の前の段階といえるような気持ちと気持ちがスムーズに行きかう時間をたっぷり取るようにすると良いと思います。

子どもは言葉を教えたからしゃべるのではなく、子どもの中にしゃべりたい!伝えたい!共感し合いたい!
という意欲が育ってきてはじめて、言葉が急速に発達することに大人が気づくと、子どもの姿に大きな変化が見られますよ。

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ずいぶん前から、私は、親子で遊んでいるときに、まるで親の気持ちが子どもの内面に侵入していくかのような強い一方通行の圧力を親御さんの態度から感じることがたびたびありました。

それが子どもに対して愛情深い、周囲から微笑ましく見られるような接し方の場合にも結構あるため、それを親御さんに伝えるのに非常に苦心していました。

親御さん側にすると、何をどのようにダメ出しされているのか、さっぱりわからないのです。

ただ一生懸命子育てしているだけなのですから。

 

優しい口調で愛情をこめて、シャワーのように言葉を降り注ぐことは、子育ての基本だと思っておられる方はとても多いのです。

でも、それが私の目からすると、一方通行に相手に侵入するように接しているように見える理由は、親御さんがそうした良い親としての接し方に夢中になっている間、子どもの返すフィードバックが親御さんに正しく受信されておらず、子どもの言動が次第に不快さに耐えているものに変わっていくのがわかるからなのです。

 

また、親子間でとても親しげにコミュニケーションが交わされ続けていても、それが原因で子どもの興味が外の世界から閉ざされていたり、親御さんのように対応してくれない他の人々に対する無関心や恐怖心につながっている可能性があるケースもあります。

 

といっても、子どもが健常児の場合、不快な刺激をうまくかわすことも上手ですから、親御さんが話しかけはじめたとたん、それがたとえ不快だったとしても、無視して好き勝手な遊びに興じるとか、緊張して張り詰めた様子で、親御さんの顔色をうかがいながら、自分の手元を見ずに活動するとかするだけで、発達上の目立った遅れが生じるわけではありません。

親御さんの前ではいい子で、子どもだけになると破壊や暴力的な行為を繰り返すとか、にこやかにほほ笑みかける親御さんを試すように、お友だちに乱暴を働いたり、おもちゃを乱雑に扱うといった程度の、どの子にもありがちな成長の一過程のように見える行動が主です。

 

こうした発達障害を伴わない子の母子関係による気になる行動は、幼稚園などではそこそこうまく過ごせるために問題が先送りされやすく、就学前や就学後に、顕在化することが多いようです。

 

「相手から求められている活動をするエネルギーがほとんどない」とか、「目の前の活動にしっかりコミットメントできない」とか、「先生の話に集中できない」「自分の身体と心が調和しておらず、何事もやる気がない」「多動気味で、まるで心で何も感じていないかのように動く」といった状態としてあらわれます。

 

それって、もともと発達障害がある子だったのでは?と思う方もいるかもしれませんよね。

もともと発達障害があってこうした気になる行動をする子と、発達障害がないのにこうした問題を抱えていると思われる子の違いは、場面や相手次第で、できたりできなかったりするか、親御さんが母子関係を改めたとたん急速に問題行動が減るかどうかでだいたい判別できるように思います。

(きちんとした診断は専門の病院を受診してすることをお勧めします)

 

もちろん、発達障害を持っている子も、母子関係を改めると、急速に発達が促進されていきますが、やはり、障害がないのに問題行動が出ている子とは経過がずいぶん異なるように感じています。

 

「語りかけ育児」 (一方通行の教える形のインプット育児)から生じる問題は、「知識を教えるからよくない」とか、「英語は母国語ではないからよくない」という「何かをたくさん与えすぎる」弊害というより、乳幼児が言語を習得し、身の回りの世界を理解していくために必要不可欠な、後から取り返しがつかない種類の学習が、「足りなくなる」「なくなる」弊害と言えるのではないかと思っています。

 

「おやつを与えすぎたら、子どもが食事を食べなくなる」とか、「水を与えすぎたら、植物が枯れる」といった話は、誰もが過剰さの害を認識していることと思います。

 

けれども、言葉や知識のように、目で見ることができないものに関しては、それこそ知識と言葉をシャワーのごとく降り注げば、子どもはたくさんの語彙を得て、天才児のように賢くなり、たくさん質問すればするほど、よく考えるようになると捉えておられる方が多いようです。

 

でも、実際には、そうした、もっともっと知識を与えよう、もっともっと子どもを考えさせよう、英語に慣れさせ、数字を教え、文字の読み書きが早くできるようにしようとする、どこか強迫的な、まるで「情報という怪物に憑かれているかのような親たちの関わり方」は、子どもの脳の成長にとって「今、その時期に必要不可欠な体験」「後から二度とやりなおすことができない大事な学習」を奪ってしまうことが多々あるようです。

 

赤ちゃんは、時間の経過とともに勝手に脳が成長していって、言葉が話せるようになる印象があります。

でも、現実には、そうじゃありません。

 

『そだちの科学』創刊1号 日本評論社 に、大正大学人間学部教授の滝川一廣氏が『「精神発達」とはなにか』という記事を寄稿されています。

その中に次のような記述があります。

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1ヶ月半からに2ヶ月月を過ぎた乳児は、「あー」とか「くー」とか一音節だけの声をあげはじめる。

これはご機嫌なときなどに独りで発せられる声で、科学的にはコミュニケーションの意味や意図はないとされる。

しかし、養育手はそうは感じないだろう。

ここでも「思い入れ」によって、親はそれが「おしゃべり」かのように応答している。

その応答に導かれるように、やがて「だーだーだー」「ばぶばぶ」など複数の音節からなる発生、つまり喃語をまねして応答したり、相槌をうってみたりさかんに応答し、またそれを歓び楽しんでいる。

そのうちに乳児のほうも親の応答を期待している様子が明らかになってくる。

声を出してから、応答を待つように声をとめ、親が応答するとまた声を出すという「やりとり」がはじまるのである。

このやりとりはリズミカルで親和的な、互いの発生が溶けあうような波長の重なりをみせる。

スターンという研究者が「情動調律」と名づけた現象で、そのやりとりのなかで、それぞれに生じている情動が重なり合い、同じものとして「共有」される現象である。

(略)

この時期から、外界のさまざまな事物に自分からあれこれはたらきかけはじめる。

おもちゃを振ってみる、しゃぶってみる、ひっぱってみる、眺めまわしてみる、など。

(略) 子どもはまわりの事物を自分なりに知ろうと調べているわけである。

この調べを通して、外界の事物はひとつひとつのもの(実体)で、それぞれに性質やかたちが備わっているらしいこと、同時にひとつのものでもいろいろな側面や性質をかね備えているらしいことなどを理解していゆく。

この間、養育手のほうも、おもちゃを子どもの前で動かしてみたり「ほらほら、ごらん」と注意を促したりして探索行動をしじゅう手助けしている。

またこのとき、社会的に共有されるべき有意味性へと子どもの注意や理解をリードをしているはずである。

(略) 子どもが世界を知ってゆくとき、まわりと共有できる形で知ってゆくこと、つまり「認識(理解)」の発達は、このようなかかわりに支えられている。

(『そだちの科学』創刊1号 日本評論社 p7.8)                    

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言葉の発達は、紹介した文の中にあるような、子どもの発信するものに引き寄せられるように育てる側が反応を返して、その反応によって、次第に自分が発信したものにある意味や使い方を理解していくという関わりの中で育まれていくものです。

言葉や認識の学習過程は、子どもが先に始めて、大人が自然にそれに付き合って、大人との関わりの中で学ばれていくもので、大人が先に教えようとして、子どもが学ぶものではないのですね。

 

そうした自然の学習過程に逆らって、「教えよう、教えよう」という知識のインプットの姿勢で子どもに接し続ければ、最初に書いたように、乳幼児が言語を習得し、身の回りの世界を理解していくために必要不可欠な後から取り返しがつかない種類の学習が、「足りなくなる」「なくなる」弊害というのが起こってくるのではないでしょうか。

私が、危機的に感じているのは、幼い子を育てている親御さんの多くが、子どもをあやしたり、喃語でおしゃべりしたり、目と目や表情と表情で会話を交わしたり、子どもの態度や雰囲気から気持ちを察したり、子どもの感情の高ぶりを鎮めるためにそっと抱きしめたりすることがほとんどないか、ぎこちない点です。

 

まだ2,3語しかしゃべれない子と長い間おしゃべりしたり、いっしょにいろいろなものに指をさし合って、同じ物を見ている感動を分かち合ったり、子どもが小首をかしげて考え込んでいる様子を見て、そっと黙って見守っていて、子どもの考えている世界にいっしょに引きこまれていって、うなずきながら子どもの発見に耳を傾ける姿が少ないということです。

 

その代わりに育児雑誌で見た情報や、他所の子の発達状況や、子どもに教えたい知識は、大人の頭の中にパンクするほど詰め込まれていて、それこそ、子どもの前でちょっとでも早くそれを吐きださないと耐えられないといった切迫した緊張感があって、子どもの側はテレビのスイッチを切るかのように、耳で聞くことや、心を外に向かって開くことを定期的にストップさせて、その緊張感から逃れているように見えます。

 

私たちが今暮らしている現代の消費社会、情報化社会の中で子育てしようと思うと、「毒抜き」(消費者的感性抜き、情報抜き)とでもいったらいいような本来の自然な自分に返る作業が必要なのかもしれません。

 

赤ちゃんが、「あー」と言えば、それが科学的には勘違いだろうと何だろうと、「あっ、私のことを呼んでるのね」と感じて、「はーい、なあに、あーあーね」と思わず返してしまうような自然な語りかけ育児が自分の内部から生じる状態に戻るように。

 

子どもと大人のバランスのいい関係は、大人の側が一度自分の心の中にあるさまざまな思いをリセットして、子どもとともにいる今という瞬間と場に、ゆったりと自分をゆだねてみる、楽しんでみるという心の調整から生まれてくるのかもしれません。

なぜなら、子どもというのは、感覚の過敏さなどがない限り、今という瞬間と場所にしっかりコミットメントしていくことはとても上手だからです。

大人がそれを乱さない限り、子どもは、本能的な力で、そうして最大限に時間と場所の資源を使いながら、自分が成長するために必要な大人の関わりや働きかけを引き出してサポートしてもらおうとしています

 

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「語らなさすぎる育児」の弊害については、↓のリンクに飛んでくださいね。

「語りかけ育児」の弊害と「語らなさすぎる育児」の弊害 3

「語りかけ育児」の弊害と「語らなさすぎる育児」の弊害 4

「語りかけ育児」の弊害と「語らなさすぎる育児」の弊害 5


後々まで影響する幼児期の接し方

2021-09-05 22:13:04 | 幼児教育の基本

子どもの月齢や発達の時期によって、後々まで影響を及ぼすような大事な接し方があると感じています。

3歳の子たちは、いろいろな形で自分の頭を使いはじめるものの、常識の伴わないでたらめともいえる考え方をします。

人は、「重要そうに見えて正しいこと」は、尊重するけれど、「無意味に見えること」「どうでもいいような思いつき」「つじつまがあわない考え」などは、軽んじたり、適当に受け流したりしがちです。

また、3歳の子が口にすることよりも、世間一般で良いとされていることや大人にとって価値があることを優先することが多々あります。

 

でも、この時期は、無意味に見え、どうでもいいことばかりで、つじつまのあわない考え方をするからこそ、まだ生まれたばかりの思考の芽として、その弱さを守ってあげなくてはならないと実感しています。

大人が軽んじて無視すれば、子どもは自分が考えようとしていたことすら忘れて、大人の思考の誘導に従ってしまうからです。

大人が否定すれば、ただイライラする感情だけが残って、ぐずってイヤイヤいうことに終始するかもしれません。


2、3歳児の「へりくつ」に対する関わり方については、こちらの記事に詳しく書いています↓

2、3歳児の「へりくつ」や「意味のわからない要求」にどのように関われば良いのでしょう?

 

上の写真は1歳3ヵ月のAちゃんの写真です。

1年生のお兄ちゃんがいるので、写真のクラッシュアイスゲームを購入したところ、お兄ちゃんとお母さんがピースをはめて氷面をセッティングして、Aちゃんが氷面を一撃で壊すという関係が繰りかえされているそうです。

教室でお家と同じクラッシュアイスゲームを見つけたAちゃんは、氷のピースをお母さんとわたしに手渡しては、早く氷面を完成させるよう催促していました。

 

1歳の子たちは、「はい、どうぞ」とお母さんや身近な大人に何かを手渡すことが好きです。

1歳ちょうどの子たちは、自分の持っていたものを相手の手に落としていくか、押し付けていくような感じですが、1歳3ヵ月くらいになると、「はいどうぞ」と手渡すと、相手がそれをどう扱うかよく知っていて、それを期待して渡すようになります。

Aちゃんの場合、「いくつもいくつもピースを渡すうちにお母さんが順番にそれをはめていくので、最終的に氷の面ができがって自分がそれをたたいて遊べるな」とかなり先のことまで見通した上で遊んでいます。

Aちゃんのように相手からフィードバックを期待して働きかけるようになる時期、子どもが何を期待しているのか、こちらの行動から何を読み取っているのかに思いをはせながらていねいに接していると、その後の他者から学ぶ力に大きな影響を与えるのを感じています。

 

上の写真は、1歳1か月のBちゃんが、自分の靴下をくつの中に入れようとしているところです。

Bちゃんのお姉ちゃんのひとりが、いったん脱いだ靴下を、なくならないように靴の中に入れておく習慣があるそうなのです。

それで、Bちゃんも自分の靴下を手にすると、玄関の靴に向かっていくのです。

こうした真似っこは、繰り返すうちに、次第に<真似する相手の意図を読み取りつつ模倣する>という1ステップ進歩したものへ変化していきます。

 

1歳前半の子たちは、小さいものをつまんで、ひっぱるのが大好きです。

↑の写真は、Bちゃんのために作った「ひっぱるおもちゃ」で遊ぶBちゃんとお母さんの姿です。

こういういたずらのような遊びは、「遊んでいるな」と、ただ見守る場合が多いと思うのですが、大人が返すフィードバックと環境をわかりやすいものにする(主に情報を減らして、子どもが違いや用途に気づくようにすることです)と、1歳児さんたちは、大人とのやり取りに興じながら、相手の考えていることに関心を寄せ始めます。

「こっちは長い」「こっちは短い」「こっちはストローをさしておいて引き抜く。なぜなら、そういう形だから」「こっちは指で押さえる。」といったことを、模倣しながら理解していくだけでなく、相手の行動と理由の結びつきに敏感になっていきます。

 

子どもたちの育ちを観察していると、この時期の関わり方が、3歳頃の理由への関心や問題解決能力に影響を及ぼしているのではないかと感じています。