エネルギーが分散してしまう…
そう感じた理由は、
子どもたちが、自分を、
肯定的で将来さまざまな可能性が花開いていく存在として
イメージしていないように
感じたからです。
小学生の中学年くらいで
30代後半の主婦のつぶやき…みたいな自分へのあきらめの
言葉があるのです。
またあこがれて自分の将来のイメージを重ねられる人物が、
いないようなのです。
自分という核がない感じ
これは現代の子に共通するものなのかもしれません。
勉強してがんばって自分を大きく成長させたい 夢を実現させたい
という意志のない子に勉強をさせることは、
難しいです。
エネルギーの方向が
これから訪れる未来の方向に向かわずに
今すぐ受けれる快感のところでとどまっている場合、
いくら周りが熱くなっても、本人のやる気は年々冷めていくのではないでしょうか。
多くの親御さんは
子どもが何かできるようになることにはとても興味を持っています。
能力が他人からどう評価されるかにも関心があります。
けれども
子どもの心が何を欲しているか
夢見ているか
あこがれているかに無関心な方は多いです。
学習に対する意志や意欲を高めるよりも
義務でがんじがらめにして、やらねばならない状態を作って
子どもを操作する方が手っ取り早いと感じている方もいます。
子どもを操作したくはない
それに操作してもうまくはいかない…
ならどうすればいいの? と悩んでしまいますよね。
私は学習に対する意志や意欲は、
適度な飢餓感から生まれるように感じています。
食での飢餓感ではありません。
さまざまなものが与えられすぎたり、環境が整いすぎたり、何でもできすぎたり、ほめられすぎたり、やることが最初から決まっていたりせずに
ちょっと足りない、物足りないという経験から生まれる飢餓感。
それが
足りないものを補おう、欠如感を埋めようという気持ちや、
より良い状態にあこがれる気持ちを育くむように思うのです。
刺激が強くて、何でもすぐ満たされる生活をしていると、
地味な活動には少しも心が動かなくなります。でも勉強って本当に地味な作業の連続でもあるんですよね。
例えば、質のいい学習ソフトが出てるので、DSで勉強すると手っ取り早く知識を吸収することができます。
けれども、そうした学習法を繰り返していると、
地味に紙工作をするときのように、刺激が少ない対象に自分から創造的に関わっていこうとする態度が失われるように思うのです。
とにかく勉強って、
どこまでいっても『地味』な相手です…。
それを好きになって、何年間も努力し続けよう…と思うなら、
自然の不思議に心を動かされたり、
手作業をすることに心地よさを感じたりするような
今の時代を逆行するような地味~な感性が必要だと思うのです。
みんなからスポットライトを浴びて表彰されなくても、
親から認めてもらったり、好きな先生からちょっと褒められることに
喜びを感じられる感性が必要だと思うのです。
知りたいな~なぜだろう!という欲求が満たされたときの満足感。
自分のできるようになったことを、お友だちから「教えて~」と頼まれるときの誇らしい気持ち。
ひとりだけできなかったことを、何とかがんばってできるようになったときの達成感。
教育産業の都合や大人のエゴに絡んだものが、子どもの世界を引っ掻き回さなければ、いつの時代の子も、学習にリンクしていくそうした地味~な喜びを、心地よく感じる存在です。
でも、今の時代、先に強すぎる刺激を受けすぎると、(食前にお菓子を食べてしまったときのように)地味~な喜びを感じる感性が鈍ってしまうのではないでしょうか。
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