こぐまくんの知育日記♦︎虹色教室mini♦︎更新しました♪
よかったら覗いてみてくださいね。
『学校ってなんだろう』に登場する専門家たちは、学校を、「新しい知識を得、可能性を引き出し、選択肢を広げる場であり、社会性を育んだり、生活リズムを整えたりする意味でも、大事な役割を持っている」とする一方で、次のような意見も付け加えていました。
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学校は一つの学び場に過ぎず、本人が必要とするスキルが得にくい環境なら、他の場所も検討していい(前田佳宏さん)
対話を通じて相手を理解したり、自分の軸、スキルを持って行動したりする力を育めるなら、必ずしも形式的な「学校」にこだわる必要はない (鬼澤秀昌さん)
学校には役割があるものの代替えできないものではない(車 重徳さん)
無理してまで学校に行く理由は何もない。本人が安心できる場所で本人に合った学びができれば良い(政井マヤさん)
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また多くの方々が、学校の教育制度が、約150年間、ほとんど変わらないシステムで続けられてきたことを危惧していました。
そろそろ新しい教育システムへ変えていく時期ではないか、と考えておられました。
確かに、いくら何でも古すぎて、世の中の変化からも、海外の教育法の進歩からも遅れている日本の教育システムが、これから何十年も何百年も存続していくとは考えにくいです。
では、どんな風に変わっていけばいいのか考えを練っていく時、大切になってくるのは、今、不登校になっている子たちの存在なのかな、と感じています。
「学校に行きたくない」という子がいる時、ひどいいじめがあるとか、体罰があるとか、学校の管理が厳しすぎるとか聞くと、それは学校に行けなくもなる、と誰もが納得します。
その一方で、
「友達とも仲がいいし、先生も親切、勉強もそれほど大変でない、でも何となく行けない」とか、
「朝起きるのがしんどい、疲れた、電車通学がしんどい」とか、
「授業にずっと出るのはしんどい。体育や音楽といった好きな教科だけ学校に通って、友達と遊んで帰りたい」
と聞くと、
「甘えじゃないか? 怠けじゃないか? 将来、きちんと仕事に就けなくなるんじゃないか?」と、もやもやを抱えることになるのではないでしょうか?
虹色教室にも、“子ども”というざっくりしたくくりで眺めると、なぜ不登校になったのか、わかりにくい子らが何人かいます。
でも、じっくり一人一人の子と深く関わっていると、わがままという言葉だけで片付けられないさまざまな理由が見えてきます。
ある子は感覚が過敏で、繊細すぎて、ちょっとした刺激に圧倒されてしまうため、
ある子はディスレクシア、読字障害のハンディーキャップを抱えているため、
ある子は自分でじっくり考えるのが好きで、丸暗記で学んでいく学習が合っていないため、
ある子はずっと外の世界に合わせる暮らしを続けてきて、燃え尽き症候群の症状が出ているため(一時的に自分自身の内面を育む時間が必要となった)、
ある子はシックハウスのアレルギーがひどいため(学校で症状が悪化し、衝動性が増す)、
ある子はADHDによって、集団で椅子に座って学ぶという活動に、一般的な子の何十倍、何百倍も疲労を感じてしまうため。
そうした子たちは、その子に合った学びを提供すると、きちんと学ぶことができています。
そうした学び方の個性や身体的な特性などによって、知識を得ていく過程では、集団で学ぶのが難しい子たちも、友達を求めます。
友達と関わりながら、社会性や人間関係能力を育む必要もあります。
すると、「自分の好きな教科だけ授業に出る」、「学校は休んでいるけれど、放課後は友達と遊ぶ」と言う形で“登校”することとなります。
子ども側の「学校に行けない」に始まって、新しい学校との関わり方を模索していく中では、次々と課題が見えてくることもあるでしょうし、困った事態にぶつかることもあれば、心配することはなかったと胸を撫で下ろすこともあるでしょう。思わぬ成果もあるでしょう。
こんな工夫によって問題が解決した、とか、さまざまな外部の支援を利用した、とか、時には、子どもを取り巻く社会の暗部に気づくこともあるでしょう。
また、それまでに深い傷を負っている子には、まず心が修復していくまでの長い時間、見守る作業がいりますよね。
そうした時、寄り添う人も子どもも、何一つ前進しているように見えないかもしれません。
でも、「そこで足踏みしていること自体に価値があるのだ」とする精神的なものへのまなざしがいるのかな、と思います。何もしていないように見える時間の流れの中で、子どもも周りの大人も、きっと、深いところから変容していくのだと思います。
みんなに向けてパッキングされた教育を選ばないということは、不安や迷いを抱きながら、恐る恐る暗闇を探っていくようなものです。
他の人の投げかける言葉やまなざしに親も本人も傷つくことも多いはずです。
でも、そうした個別の歩みは、これから教育が変わっていく上で、よくも悪くも貴重な現場の声の蓄積となっていくんじゃないか、と感じます。それぞれの個性と向き合った工夫と努力の結晶ですから。
うちの息子は、不登校にはならなかったものの、学校のシステムにはかなり不満を抱いていたようです。
就職の際には、どのような働き方がしたいのか悩み抜いて、自分の個性に合った仕事を選んでいました。
学校が辛い子に知ってほしいこと の中で、就職して三年目に入ろうとする息子の言葉を綴っています。
前回までの記事に、★くんのお母さんからコメントをいただきました。
何一つ正解が見つけられない状況の中で、苦しみもがきながら、親としてできる最善を探っておられるのがよくわかりました。
★くんのお母さんも★くんも、今、真っ暗な闇の中にいるのでしょう。
そう思うと、ふと、ル・グウィンの「目をくらませる明かりの中ではなく、栄養物を与えてくれる闇の中で、人間は人間の魂を育むのです。」という言葉をお伝えしたくなりました。
長くなりますが、過去に書いた記事を貼らせていただきますね。
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ゲド戦記の著者として有名なル・グウィンの「左ききの卒業式祝辞」という文章を目にして、いろいろなことを考えさせられました。
誰もが一直線に成功を目指して、どのポジションについたか、何を獲得したかで人の優劣を判断したり、人生の価値を品定めしたりするのは、自分の持てるすべてで宝くじを買って、上位の当選を夢みて生きるようなものなのかもしれません。
宝くじが当たらなかった時、手元に残ったくじは、すべて紙屑と化してしまいます。
でも実際の人生では、成功という当たりくじは、親の期待やその時代の世間の見方が与えた幻想で、個人的な生きる喜びを感じることや自分を活かせる場、自分を高めていく機会は、はずれくじだと思っていたものの方にあるのでは……とも思います。
「目をくらませる明かりの中ではなく栄養物を与えてくれる闇の中で、人間は人間の魂を育むのです。」というル・グウィンの言葉が心に響き、ふいに、心理療法士のP・フェルッチのこんな言葉を思い出しました。
「(人生とは)試み、失敗、学習体験、そして成功などから成っている旅。より大きな意味と気づきへの進行形の旅。あるいは旅になり得るもの。」
「人は偶然や、間違いや、思いがけないことからトランスパーソナル・セルフ(生物的構造の中にある中核)を充分に実感することができません。
すべての注意を傾け、役立つものはすべて役立てる系統的なアプローチによってのみ、実感することができるのです。」
P・フェルッチは、境界、執着、所有、競争、死への不安などの上に築かれるわたしたちの通常の自己感覚に対して、トランスパーソナル・セルフにある自己感覚は、存在の純粋な気づきと「すべてのもの」との一体感に基づくものと説明しています。
ル・グウィンの「暗闇で生きてください」という言葉が、何について語っていたのか、想像するしかできませんが、わたしたちが「成功」のイメージをフェルッチのいう通常の自己感覚の枠内で設定するなら、ル・グウィンが語る暗闇とは後者の「すべてのもの」との一体感に基づく自己感覚が横たわっているところなのだろうと感じました。
暗闇といえば、まだ息子が小学生だった頃、息子の質問をきっかけに、こんな詩を書いたことがありました。
子どもたちと接していると、どの子にもいえることなのですが、自分の生きている世界や自分自身について深く考えるようになる年がくると、子ども時代の根拠のない万能感は失われていきます。
自分を客観視できるようになるほど、特別でも完璧でもない地球上に数えきれないほどいるちっぽけな自分が感じられるようになるのです。
そうして、身ひとつで、あちこちにぶつかりながら歩いていくことしかできません。
でも、そんな小さな存在が、頭の中に広大な宇宙を取り込んで思考していくこと、混沌から自然に立ち現れてくる秩序について気づき、夢想すること、自分の内奥を探っていく孤独な仕事に取り組みだす姿に触れると、人の不思議を思います。
人の中核にあるもの、能力や体験が生じてくる源を垣間見たような心地になります。
話が脱線しますが、トランスパーソナル・セルフについての話題が出たついでに、P・フェルッチが教育について述べている言葉をここに書いておこうと思います。
ここに書かれている教育について思う時、ただ、他者に勝利してよいポジションを勝ち取ることを教育のなかで後押ししていくことのむなしさに気づきます。
そこで自分の意志とは関係なく煽られる子どもたちはなおさらです。
成績で評価できるテストに合わせて、子どもの資質を価値づけして、伸ばしたり、無視したりしている現状をどうとらえるべきか、ひとりひとりの人の個性や才能を育んでいくには、どのような考え方を土台に据える必要があるのか、多くの人が、教育について、じっくりと考えをめぐらせていくことを願います。
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子どもや生徒のなかにトランスパーソナル・セルフの存在を認めることは、その人のなかの価値あるすべてのものにいのちを与えることを意味します。
本当の意味での教育とは、人がトランスパーソナルセルフへの道を歩むのを手助けすることなのです。
発明の才能、共感、勇気、集中、美の鑑賞、直観力、細部への注意、分析的な考え方や統合的な考え方、身体を通じて喜びを呼び覚ます能力、目に見えない世界への気づきと意識の広がり、苦痛への建設的な態度など、能力や体験はすべて、認知し、刺激することが可能なものです。
このような教育は、もはや単に情報を伝えるだけのものではなく、「ユニバーサル(普遍的)な人間」を呼び起こすものです。
『人間性の最高表現』P・フェルッチ 誠信書房 (一部を要約して引用しています)
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上のイラストは、子育て中(特に娘や息子の子育てで、困ったな〜という事態に遭遇した時)に書いた詩につけたものです。↓はその詩です。
『学校って何だろう』に寄せられたどの意見も、確かにそうだとうなずけるものでした。
中でも、臨床心理士の村中直人さんのこんな言葉が心に響きました。
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私は実は「絶対に学校に行かなくてはいけない」とは思っていません。
だから学校に“行かない・行けない“こと自体は、何も悪いことじゃないと考えています。
そして私は、学校に行くことよりも自分で学べる人になることのほうが、これからの時代を生きる子どもたちにとってとても大切だと思っています。
(中略)私は、これからの学校は、「一人ひとりの学び方を尊重できる」ようにならなくてはいけないと思っています。
(『学校ってなんだろう』ソクラテスのたまご編集部 編 P35 P36)
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村中直人さんによると、学校というのは、必要な学習カリキュラムを提供してくれる世の中にとって大切なシステムではあるけれど、100年前からあまり変わっていないため、さすがに古くなって時代に合わなくなっているそうです。
だから子どもたちに向けて、
いまの“学校”に違和感や問題点を感じたら、ぜひ「もっとこうして欲しい」と声をあげてください。
あなたが学校に合わせるのではなく、学校があなたの学びに合わせてくれる未来がきっとやってきます。
と声をかけておられました。
村中直人さんの「学校に行くことよりも自分で学べる人になることのほうが、これからの時代を生きる子どもたちにとってとても大切」という言葉を目にして、
★くんは自分で学べる子であり、今、★くんが学校に行くのが辛くなっている理由が、学校というシステムが、決まったやり方で決まった役割を子どもに押し付けるばかりで、子どもの中には、受動的に教わるよりも自分で考えながら学ぶ方が頭に入りやすい子がいたり、自分で学習計画を立てて進めたいと思う子がいたり、どの子にとっても自学する力を鍛える機会が必要だろうという想像力とか余白とかいうものがないからだとしたら‥‥‥それってどうなんだろう?と感じました。
ふと、かつて大学生だった息子と、学校のあり方についてこんな話をしたことを思い出しました。
(会話の記録を過去記事の中でアップしていました)
長くなりますが、よかったら読んでくださいね。
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息子 「学校が無作為に40人前後の人を集めて、人と関わる力を育てようという設定自体が、あまりに雑な対応で、無理があるよな。
もし、人に自分の思っていることを伝えたり、他人と協調して何か成し遂げていく力を育てるなら、同じ趣味を持ってる者同士とか、好きなものややってみたいことが重なる者同士とか、議論や会話や思いがそこそこ成り立つ前提と人数で、もう少していねいにそういった力を育てようとするべきでさ。
小学校の頃は、せめて、3年生までと4年生以降で、クラスの組み方を変えてほしいと思っていたな。
授業中は教科書を先に進んでもだめだし、わからないからと戻ってもだめって決まりが絶対だから、結局、クラスで最も理解が遅れている子のペースに合わせることになる。
そうしたことを6年間続けていて、学力にしても人間関係能力にしても、それだけの犠牲を払うほど何か得られるのかっていうと、疑問だな」
わたし 「確かに、海外在住の方が日本の学校を見学してまわった後で、今の小学校のあり方は、だれにとっても幸せではない、子どもにとっても先生にとっても。だれにとっても、実りの少ないものになっているって感想を言ってたわ。でも、改善するのは難しいわよね。A(息子)は、どんな方法を取ればいいと思うの?」
息子 「子どもの個性を大事にする教育と銘打って、どんなに公教育を改善しても、4,50人の生徒を無作為にひとところに押し込めて、急激に成長する時期にいつまでも同じスタイルで教育しようとしている限り、難しいよ。
そんな風に足し算しようと無茶するんじゃなくて、引き算の発想で、同学年の子全員に必要だと思う教育部分を減らして、午前中に基本の授業を終えたら、午後は、公民館、図書館、小さな学び舎などさまざまな学習の場を国が支援して、子どもの好みや学びの段階や学び方に合った教育をするとか、そうした選択をする人も認めるとか、週の半分くらいは自由選択の部分を作るとか。
子どもってだけでひとくくりにして、能力のちがいや好みのちがいや身体的なものや思考のちがいまで、ざっくりと大雑把にしか子どもの教育をとらえていないんなら、1から10まで自前でコントロールしようとするのをやめた方がいいんじゃないかな?」
わたし 「お母さんもそう思うわ。それに、教室に来る親御さんたちも、学校に対して、そうした考え方をする人が多くなったのを感じる。
というのも、勉強は2学年ほど先までできるし、友達も多い、社会性も育っている、でも、学校が苦痛で、学校に通えない、というこれまでと異なる不登校の子を教室でも何人か見るようになった。
不登校まで至らなくても、予備軍と言えるような同じ訴えをする子らが増えている。
支援級があるからかもしれないけど、勉強がわからないから学校に行きたくないという子は聞かなくなったけど、勉強が簡単すぎて、授業が苦痛でたまらないから学校に行きたくない、という話はよく聞くようになったわ。
学校がなくなればいいとまで思わないけど、共通に学ぶのが半日なら喜んで学校に通えるような子を不登校に追い込んでまで、今のあり方にしがみつく必要はないと思うわ」
息子 「学校はどうあるべきか、どんなに話しあったって、それはある子たちにとっていいあり方で、別のある子たちにとっては最悪のあり方かもしれないじゃん」
わたし 「そうよね」
息子 「周りが就活をするようになって、会社側は、何をやりたいのかという目的意識をしっかり持っているかどうかを求めてくるのを感じてさ。
学校で詰め込むような知識にしても、まず、先にその目的意識ありきで、そのために必要な知識を持っているかという順で見られるよ。
それで、ふと、小学校の読書感想文のコンクールなんかで、そこでなぜ賞を与えるのかってことについて考えたよ」
わたし 「どうしてだと思うの?」
息子 「小学生なのに、文才があるとか、こんなことができてすごいってことじゃないなって。それだけが目的の審査員はダメだと思う。
なぜ、それがすごいのかといえば、小学生の時点で何かしらに興味を持って、それがパクリでもいいから、自分なりの解決策を探ってみる、という一連の流れを学ばされるための賞じゃないかと考えてさ。
小手先のテクニックを教えて、賞を取りまくっても、あんまり意味がないよね。
やっているうちに、自分の中にやりたいことが明確化されていくことが大事でさ。」
わたし 「わかる、わかる。お母さんも、教室の活動の中で、一番大事にしている点だから。お母さんがこういう風に子どもに能力をつけさせよう、作り上げよう、何かを目指させよう、とするんじゃなくて、いっしょに、手や頭を使って、いろんなことをやってみるうちに、心の底から自分がやりたいと思うものは何かが見えてくるし、それに一歩近づけるのよ」
息子 「そうだよね。お母さんの教室は、自分の興味から、自分のこれからの方向性をつかんでいけるようにって工夫してるしね。そういうの、どの子にとっても大切だと思うよ」
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「子どもってだけでひとくくりにして、能力のちがいや好みのちがいや身体的なものや思考のちがいまで、ざっくりと大雑把にしか子どもの教育をとらえていないんなら、1から10まで自前でコントロールしようとするのをやめた方がいいんじゃないかな?」という息子が大人たちに向けて投げかけた疑問は、大学受験を前にして、自分にとって必要な学習をする時間が取れずに焦り、疲弊していく★くんの「10のうち1でも2でもいいから、僕に自分で学ばせてよ!」という切実な気持ちと重なるのじゃないかな、と思いました。
不登校の子の声に耳を澄ます 3 に続きます。
(上のイラストは、周囲の期待に応えようとがんばるうちに、自分を見失い苦しんだ若い頃の私の詩につけるため描いたものです。★くんが環状線から降りること、それは脱落ではなく、再び自分の意志で乗りなおすか、別の線に乗り換えるのかの撰択に繋がっていると思っています。詩はこちら↓)
先生が予言されたとおり中学3年になったとたん猛烈に勉強を始め、無事希望の高校に入学しました。今年高3になります。順調に学校生活も進んでいたのですが、最近「学校は疲れた。朝早く起きて電車通学して、つまらない授業を受けて、緊張して」と言いだし不登校になりました。「受験勉強がしたいのに毎日学校へ行くと疲れて、何もできなくなる。そもそも朝なぜそんなに早く起きなければならないの?塾の自習室で勉強したほうがいい。でも高校卒業しないと大学へ行けないから卒業はする。学校は体育をしたり、友達に会ったり息抜きをするところだ」これが彼の主張です。
奈緒美先生はよく息子さんと人生の話をされていらっしゃいましたね。最近よくそれを思い出します。息子さんが大学受験のとき、友達とキラキラ語り合っていたことも思い出します。まさか、ここにきて、息子が不登校になるとは。
学校は○○高校、といって、息子にはもったいないほどの進学校です。進学校なのに校風は自由で、宿題もありません。でも、とても疲れるのだそうです。時間の拘束や集団授業など。でも私は学校を中退というのは避けたい。ただ、毎日行けないのなら、もう他に方法がないのか、すこしずつ話し合いながら、家族で考えていこうと思います。
九九タワーが流行っていた頃の記事です↓
夏休み向けの『難問 算数クラブ』
周囲の大人は、今何もせず、何も考えず、★くんが自分の内面の声に耳を澄ませ終わるのを待つべきだし、★くんが語り出したら、それを終わりまで自分の意見を挟まず聞くべきと思っています。これからどうするかは、そのあとだと思っています。
先の文章にこんなことを書きました。
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父も母も妹も、自分の親と自分自身がプログラムした思考の罠が、自分の人生を蝕んでいくことから、どんなにあがいても抜け出せなかったのに、どうやってわたしはそこから出たんだろうと考えると、いくつか思い当たる理由があります。
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ひとつ目の理由として、多くの親以外の大人たちから可愛がられてきたことを書きましたが、自分が囚われている認知の歪みから解放されるためには、それとは別に、自分が長年培ってきた技術のようなものも役立ったと感じています。
子どもの頃のわたしは、とにかく高いところに登るのが好きでした。
当時は、三輪車に乗っているような子も、団地の前の自転車置き場の屋根の上を遊び場にしていましたから、それはわたしに限ったものではなかったでしょうが、子ども時代の記憶の半分くらいは、どこか見晴らしのいい場所から、眼下を俯瞰して眺めた光景で占められています。
わたしの住まいは、山を切り開いて作られた公共団地で、周辺の道はたいてい斜面でした。
坂を上へ上へと登って行って、もうこれ以上登れないというところに着くと、突然、パアッーと視界が開けます。
それまでは見えなかった反対側の景色や、下からは見えるはずもない団地の屋根や、建物で刻まれていない空が目の前に広がるのです。
その瞬間がたまらなく好きで、来る日も来る日も、どこかに、何かに、登っていた記憶があります。
わたしは、そうやって何度も何度も高いところに登りながら、
「高いところに登るまで見えている風景は、自分の目で確かに確認し、できるだけ詳細に正確に捉えたところで、見晴らしのいい場所に着いたとたん、それまで見てきたものも信じていたものも、それは全体の一部に過ぎない。
自分が歩いている場所から見える景色が限られていたから、それが全てを覆っているように見えていただけなんだ」
ということを意識していました。
そうやって、高いところに登りながら身体で感じ取っていたものは、あらゆる物事を考える際にも影響して、
「わたしが見ていること、感じていること……は、実際に自分の五感で捉えているから、信用できる。自分の感覚が信じられないわけじゃない。
わたしは、自分の周りで起こっていることを見落としなく確認していく自信があるし、それについて客観的に判断をくだすこともできるはず。
その正誤が問題なのではない。
ただ、今という経過点で、自分が感じて、考えて、こうだと信じているものは、もう少し見晴らしのいいところに着くまで保留にしておかなくてはならない」
と、考えるようになっていました。
そんな風に考えるようになったのには、むさぼるように読んでいた児童文学の世界によるものもあるかもしれません。
児童文学の世界の主人公たちは、一生懸命、今を生きていて、真剣に自分で感じて考えて、世界にぶつかっていきます。
しかし、ほとんどの場合、いつしか、最初に信じていた小さな世界観を打ち砕かれて、より大きな視野から世界を眺めるように成長していくのです。
わたしはそうした主人公たちに自分を重ねながら、今、自分が「絶対にそうだ」と信じていることも、これから先、「そういう一面もある」という全体の一部へと変化していくかもしれないと予感して、よくよく考えた上で結論が出たら、その考えをいったん保留にしておく習慣を身につけていきました。
こうした考え方を身につけたのは、反面教師としてですが、父や母の影響が大きいのかもしれません。
父にしても母にしても、自分の感情を揺さぶるような何かを前にしたり、動揺する出来事にぶつかると、現実をていねいに検証しようとせずに、最初に「こうだ」と飛びついた考えに、ずっと、しがみついていることがよくありました。
趣味や遊びのルール上では、物事を緻密に分析し計算高い父が、同じ趣味や遊び上の「それは本当に確率的に得なのか」といった疑問には、まるで自分がクジを引いたら一等しか当たらないと信じている幼児のようにバカげた期待に執着していました。
母は母で、本当に心が柔軟で気持ちの優しい人なのに、妹や親戚の一部の人に対しては、どんなに説得しても、初めにつけた色眼鏡をはずして、相手の身に自分を重ねてみようとはしませんでした。
それは、子どもの目にも、「たったひとつの考え」が、「他のたくさんの可能性を考えない」ために利用されているように映りました。
また、ただの思いつきや決め付けのような「根拠のない考え」も、繰り返し心に刻み、自分に信じ込ませていけば、後から得たどんなに有力な証拠や疑いようのない現実も黙らせてしまうほど力を持つことがあるのを感じて、恐れました。
そうした両親の姿に胸を痛めるうちに、わたしは自分が見たり、感じたり、考えたりしていることを、できるだけ言葉にして整理しながら、先の記事に書いたように即断を避けて、いったん考えを保留しておくようになりました。
後でさまざまな別の視点から眺めなおしてみるためです。
子ども時代を通して、わたしが一番関心を持ち、何度も何度もさまざまな角度から観察し続けていたのは、自分の感情や思考の動きです。
児童文学の作家になりたい気持ちが強かったので、ピアニストを目指している子がピアノの練習に明け暮れるように、自分の心の中を移ろい続ける感情や思いをとにかく言葉にしなくちゃいけない、言葉で表現しなくてはいけない、言葉に変換する練習をしなくては作家になれない、という焦燥感に突き動かされながら、自分の心と対峙していたのを覚えています。
そうした癖は、ずいぶん小さい頃からあったのですが、それはわたしの自分の心を守る自衛手段でもあったからなのかもしれません。
そんなわけで、現実の世界で泣いたり笑ったりして生きているわたしの背後には、常に自分の心の中身をスケッチしようとしている観察者としてのわたしがいました。
大人になってそれら二人のわたしを統合する必要を感じるまで、幼稚で、逃避的で、ぼんやりと空想に浸っているか、感情に流されて衝動的に動いているかしている自分と、クールで大人びていて、いつも冷静沈着で、一風変わった考え方をする自分が、互いにあまり交わらずに、ひとつの身体に同居しているようなところがありました。
昔からささいなチャレンジにも尻込みして、やってみようともせずに逃げてばかりいる一方で、周囲の大人たちも茫然とするような困り事にぶつかった時には、『長靴をはいた猫』という童話の猫のように、何事も先回りして策を練っておいたり、『3枚のお札』という昔話の和尚さんのように、鬼婆をモチでくるんで飲みこみながら冗談を言ったりするような、途方もないアイデアやユーモアで解決を図ろうとする自分の別の一面が、突如、顔を現していましたから。
そうした自分の別の一面が顔を出す瞬間を感じた、8歳か9歳の頃の印象深い思い出があります。
母方の田舎で海水浴に行った際、ビーチボールごと波にさらわれて、ひとりで沖に出てしまったことがありました。
流されている原因である大きすぎるビーチボールを手放して、海底に足が届くところまで泳いでいく決心がつかないうちに、必死で水を蹴る力をはるかにしのぐ波の力に運ばれていました。
事の深刻さに気づいた時には、浜辺に戯れる人々の姿が小さすぎて、目で確認するのが難しいほどで、周囲は無音の世界でした。
それは流されているわたしがあちらからよく見えないこと、いくら大きな声で叫んでも、あちらには聞こえないことを意味してもいました。
足元には奈落へ落ちる裂け目のような黒い海がありました。
海面に巡らされたオレンジ色の浮きが作る境界線を目にした時、どうあがいても助かる見込みはないと悟った瞬間、わたしは泣き叫んだり、怖がったりするのをやめて、突然、頭を、ひどく合理的で冷淡にも思える考え方に切り替えました。
「おそらくわたしは、このスイカ柄のビーチボールの空気が抜け次第、しばらくもがいて力つきて死ぬ。
死ぬのはとても怖いし、水が鼻や口の中にどんどん入っていく時は苦しくてしょうがないはず。
でも、泣いても、叫んでも、怖がっても、経過も結果も同じなら、万にひとつでも生き残れた時に、将来書く小説の一部に書き加えられるように、今の自分の目が何を見ていて、頭が何を考えていて、心が何を感じているのか、調べて言葉にしておこう」
そう考えて、浜辺を眺めると、小さな無数の光が、まるで夜景のキラキラした街の光の粒を切り抜いて、海と浜の隙間に埋め込んだように輝いていました。
「水をたくさん飲んで苦しんだ後には、もし天国とかあの世とかいう場所があるなら、黒い海の底でもう一度、こんなキラキラした光を見るのかもしれない。それともずっと死んでしまったままなのかな?
わたしが死んでしまっても、この世界は今まで通り、そのままあるんだろうけど、わたしが死んだ次の日に、この世界が爆発して消えて無くなったところで、わたしからすると、どうでもいいこと、何でもないことになってしまうのは不思議だな。
生きている時はこんなに大切な世界なのに。
死んでから、今のこの世界があるのかないのか想像しようと思ったら、生きているわたしがあの世があるのかないのか想像するのと同じになってしまうのかな?」
空は青く澄んでいて、自分が牧場にいて、草を踏みしめながら空を眺めているだけなんだと、信じようと思えば、信じてしまえるほどのほがらかさでした。
その時、ふいに海水浴場の監視に回っているらしいボートが近づいてきて、わたしを引きずりあげるようにしてボートに乗せると、浜まで送ってくれました。
過去は変えられないものなのに、世代間連鎖を断ち切ることができた理由のひとつに、親以外の大人たちから注がれた愛情を挙げると、そうした縁に恵まれなかった方に対して、何のアドバイスにもなっていないようで心苦しいです。
でも、そんな方も、自分の子どもたちに負の連鎖をつなげないための方法として、こうした捉え方があることを知っていただきたくもあり書くことにしました。
機能不全家族で育つと、何に対しても強い責任感を持つようになる方が多いと思います。
子育てをするにしても、親のような子育てはしたくない、子どもには幸せな人生を歩んでほしい、世代間連鎖を断ち切りたいと強く望むため、親のがんばりだけで子どもの人生をコントロールしようとしてしまいがちです。
でも、そうやって、一生懸命がんばる方角に向けていた針を、あまり無理をせずに、自分が楽しく安心して暮らすことや、子どもがより多くの人と関わり、異なる価値観に触れることを受容するような方角に向けることが、長い間続いてきた問題を消滅させるカギとなることもあると、自分の体験から実感しています。
子ども時代を通して、わたしはいろいろな人から、可愛がってもらい、わたしの個性を大切に扱ってもらった記憶があります。
両親が自分の問題でいっぱいいっぱいの時も、わたしがわたしらしくあることを望み、ありのままのわたしを好きでいてくれる人たちをいつも身近に感じていました。
だから、わたしも教室の子や近所の子らと会う時は、ひとりひとりの個性の輝きとていねいに接していきたいと思っているのかもしれません。
また、自分の子ども時代のことをこうした記事に書くのも、他所の子もわが子と同じように愛せる素地のある人が、今の時代でもそうして良いと思うきっかけになればと期待しているのかもしれません。
今もはっきりと記憶に刻まれているこんな出来事があります。
友だちとおしゃべりしながら近所をぶらついていた時、やっと目が開くか開かないかくらいの子猫を見つけました。
わたしはそれまで何度も捨て猫を拾っては、さんざん周りに迷惑をかけてきたという自覚がありました。
一件家に住んでいる親友のお母さんは、わたしが何年かおきに拾っては押しつけた猫を飼うのに苦労していて、わたしに会う度に、「猫拾いさん、絶対、もう猫を連れてこないでよ。おばちゃんはもう猫は飼えないよ!」と苦言を呈していましたし、田舎に帰省した際は、わたしが子猫を拾ったために、母が駅前で子猫を入れた箱を抱え飼い主探しに奔放しなくてはならなかったこともありました。
そのため、普段なら、妹たちが捨て猫にエサを与えているのを見かけても、「団地じゃ、猫を飼えないのよ」と注意して、猫に近づくこともためらっていたはずでした。
ただ、その日、思わずその子猫のそばにしゃがみこんでしまったのは、子猫の皮膚がむき出しになった白い身体を、無数のゴマ粒のようなものが這っているのが目に着いたからでした。
それがあまりにむごたらしかったのと、>こんなに気味の悪い虫にたかられていたら、誰も子猫を拾ってくれないと心配でならなかったので、友だちとふたりで家の風呂場で洗ってやって、もう一度元の場所に戻しておこうと決めました。
母はパートに出ていて、留守でした。
まだふにゃふにゃした子猫ですから、最初はおそるおそる濡らしたタオルで拭いて虫を取ろうとしていたのですが、相手はしつこい猫ノミで、それではとても埒が明きません。
そこで、ベビーバスで赤ちゃんを洗うようなあんばいで、洗面器にぬるま湯をためて洗ってやりました。
すると、もともと弱っていた子猫が身体の力が抜けたように、くたっとなったのです。
自分のせいで子猫が死んでしまうのではないかと血の気が引きました。
それからタオルにくるんで移動する間も、子猫の容態が気になってしかたがありませんでした。
いざ、子猫を元の場所に置いて去ろうとした時、駆け寄ってきた女性から、猫を捨ててはいけない、捨て猫なんてとんでもない、とすごい剣幕でののしられました。
仕方なく、ふたたび子猫を抱いて歩きだしたわたしを、その女性はずっと睨みつけていました。
猫を抱いている間中、わたしの余計なおせっかいで猫が死んでしまうのではないかと思うと、頭がまっ白になって、足がガタガタ震えていました。
そうして近所中をぐるぐる歩き回った挙句、「絶対、もう猫を連れてこないでよ。」と言い渡されていた親友の家に向かいました。
わたしの姿を見て、呆れかえっていたそこのお母さんは、「飼えないよ」と繰り返し釘をさしていましたが、泣いているわたしの顔を見るに忍びなかったようで、しまいに、「猫拾いさん」と言って、わたしの頬を少しつねる真似をしてから、子猫を引きとってくれました。
しばらくしてから、遊びに行くと、部屋のあちこちに積み上げてある本の上を猫たちが占拠していて、そのそばにわたしが連れてきた子猫もいました。
そこのお家の気立てのいい母猫が世話を焼いてくれたようなのです。
親友の家のリビングは、壁一面が本棚になっていて、何の本が並んでいたのか定かではないのですが、分厚い百科事典がずらっと並んでいるコーナーがあったことは覚えています。
わたしが何かたずねると、そこのお母さんがいちいちそれを取りに行っては、事典の一節を説明してくれていました。
その内容はひとつも思いだせないのですが、百科事典を引き出す後ろ姿は記憶に焼き付いています。
わたしが本好きなのを知って、数駅先の図書館まで連れて行ってくれたのは、別の友だちのお母さんです。
遊びに行く度に、美しい色板や工作素材や質のいい児童文学に触れさせてくれる方でした。
ガラス張りのベランダでセキセイインコを放し飼いにしていました。
せっかく訪ねたのに友だちがいない日には、甘いミルクティーを入れてくれて、しばらくそこのお母さんとおしゃべりした後で、抱きしめてから家に帰してくれました。
前回の記事にこんなコメントをいただきました。(子どもさんのお名前があったので、非公開にしています)
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先生の猫拾いさんの記事を拝読して、子どもたちは地域社会でお育てする、その意味をかみしめました。
先生は幼いころの出来事を社会的な意味を見出して覚えておられるのです。私事ですが、ギャンブラーな父と宗教家の母という対照的な2人に育てられ最近までインナーチャイルドに苦しんできました。
誰でも、完璧な親になる必要はなくて、みんなで子どもをお育てする意識が潜在的にもあれば、うまくいく雰囲気になるのかなぁと思いました。
ここからは、個人的なことですが、先日小学校一の息子のクラスで絵本の読み語りをさせていただきました。私の感受性が強いのは中学生のころからですが教壇に立ったときのくらすの 雰囲気が異様で、イライラした感じの空気がクラスの真ん中にあって敏感な子どもたちはほかの子どもをけったり叩いたりしていました。そうでない子どもたちはどこか、ぼーっとしていて何も受け付けない様子。
絵本を読み始めると、ぼーっとしている感じの子たちは絵本を見つめているのですが、世界に入り込んでいる様子ではない感じの子もいて私には衝撃的でした。
うまく書けませんが、教室のイライラ感(雲?)はなんなのでしょう?謎です。こんな中で何を学ぶのかふしぎです。とりとめなくてすみません。
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わたしの記事から、地域社会で子どもを育てていく意味を見出していただきありがとうございます。
話が少し脱線しますが、うちの子らがまだ小学生だった頃、「地域で子どもを育てていく」大切さと難しさについてしみじみ感じたことがありました。
それを『本当に悪い子なの?』 という記事にしたことがあります。(時間がある方は読んでくださいね)
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『本当に悪い子なの?』
息子が小学3~4年生の頃、同じクラスに暴言をはいたり、暴力を振るったりすることが多く、クラスになじめない男の子がいました。息子とは正反対のタイプで、おまけに息子には他に仲の良いお友達が何人かいたのですが、その子は毎日のように息子と遊びたいから…と言って遊びに来ていました。せっかく遊びに来ても、数分もすると、その男の子のワガママが過ぎて、息子たちはよそで遊び始めてしまい、私とその男の子でいっしょにゲームをしたり遊んだりする日々が続きました。
この子は、私が友達でもいいんだな…と思うとちょっとおかしくもあり、時間が許せば遊んであげるようにしていました。
そのうち、6年生になったその子は、ますます問題行動が増えたようで、たびたび悪いうわさを耳にするようになりました。
その子のお母さんは、ずいぶん前に家出していて、暴走族に入っている兄と、粗暴な感じの父親と暮らしているという話もうわさの中で知りました。
その頃になっても、その子は私の元にちょくちょく遊びに来ては、兄のバイクに乗せてもらったことや、白バイへのあこがれなどを話して帰りました。
息子と同じクラスの他のお母さんたちは、その子の不良っぽい言動を気にして、子どもを近づけないように注意していましたが
私自身は、その子が息子に暴力を振るうとは思えないし、息子もその子に誘われたくらいで悪いことをするとは到底思えなかったので、気にせず遊ばせていました。
あるとき、その男の子が青い顔でやってきて「学校のガラスを割ってしまった…。」と言いました。
わざとやったのか、カッとなった時に乱暴が過ぎてしまったのか、事情はわからなかったけれど、「私も子どもの頃、妹とけんかしてトイレに飛び込んで隠れていたら、妹がどんどんトイレのドアを叩くもんだから、しまいにガラスが割れて、すごくびっくりしたことがあるよ。ガラスがある時はカッとしていても注意しなくちゃいけないね。」と言うと、少しホッとしたような涙目になって帰って行きました。 息子が6年生のある日、いつも何ヶ月か置きに演劇を見に連れて行ってたのですが、ちょうどチケットが一枚余ったので、その子を連れて行くことにしました。
誘ったのは、息子の仲の良いお友達はみんな塾で忙しく、その日に都合が良いのは その子くらいだったからです。
それで、親御さんに伝えていっしょに劇を見に行きました。
終始、予想以上のはしゃぎっぷりで、もう楽しくてしょうがない様子でした。
劇場で会った私のお友達は、その子を連れてきたことにひどくびっくりしてあきれ返っていましたが、思い切って誘ってよかったと思いました。
その時すでに年上の非行少年たちとの交流があったようですし、もう一年経ったら、道で会ってもそっぽを向くのかもしれません…。
ふつうに暮らしているだけで悪い道を進んでいきそうな環境で、その子の夢が「白バイに乗ること」だったことが救いで、少しでもいっしょにいれるうちに「がんばって警察官になってね。☆くんはきっと良い警官になれるよ。」と繰り返し言っておきたかったんです。
少しして6年生の修学旅行がありました。
息子の帰りを学校の校庭まで迎えに行くと、子どもたちが大きすぎるリュックをしょって帰ってきました。
引率の先生は、ひとりの生徒をつかまえて、がみがみと叱りながら歩いていました。
見ると、あの子なのです。
きっとよほど悪いことをしたのでしょう。
でも、どの子も迎えに来た親がリュックを持ってやったり、「どうだった?楽しかった?」と声をかけたりして楽しく帰宅していく中、その子ひとりお迎えがいないんです。
そんな心細い状態で、まるで見世物のように叱られているのです。
たまらなくなって、その子のそばまで行って「自転車にまだリュックを乗せれるから、乗せて送っていってあげるよ。」と言いました。すると、そばにいたさきほど怒っていた先生に「あなた、だれですか?」と冷たい口調で聞かれました。
「この子は息子の友達なので…。」と言うと、ちょっとイライラした様子で どこかへ行ってしまいました。
その日とても辛かったのは、他のお母さんたちの視線が冷ややかに感じられたことです。でも、おそらく、この子についての嫌なイメージが先行しすぎていたために、場の空気が凍り付いちゃっただけだと思うんですが…。
悪意があったわけでもないのに、しばらく落ち込んでしまいました。
その子の粗暴な行動は、発達障害にあるのか、環境のためなのかはわかりませんが、どちらも根本的にはその子に因があるわけではないと思うのです。
私は今も、その子について、「本当に悪い子なの?」と、疑問に感じています。
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文章の中では触れていないけれど、当時は、自分の選択でわが子たちを苦しめているんじゃないか、先々、わが子に危害が加わるようなことにつながらないか、という不安が頭から離れませんでした。
それでも、そうしたのは、その子の子ども時代は、今後、もう2度と体験しなおすことはできない、という焦燥感にかられたからですが、心配が取り越し苦労に終わってほっとしました。
話を前回の続きに戻しますね。
子どもの頃、さまざまな方から、単に地域の子として構ってもらうだけではなくて、人と人とのつながりや絆を感じるような可愛がり方をされていたのを思い出します。
高校時代、定期テストの前に「いっしょに徹夜でテスト勉強しよう」と誘ってくれる友だちがありました。
徹夜どころか、夜更けに散歩に出たり、繰り返し休憩を取ったりした挙句、早々と寝てしまうのですが、快く迎えてくれる友だちのお母さんに甘えて、度々お世話になっていました。
そこのお母さんは和装や手芸が得意な方で、ある時、わたしと友だちに浴衣の縫い方を教えてくださることになりました。
美しい色の布地を裁って、いざ縫い始める段になると、わたしも友だちもたちまち飽きて、仕事を放り出して、おしゃべりばかりしていました。
それで結局、2着の浴衣を仕上げていくのは、友だちのお母さんとなりました。
そこのお母さんは、何かたずねると、遠慮がちに笑って、穏やかな調子で、よく練られた思慮深い返事を返してくださる方でした。
わたしは悪びれもせずに、一針一針と自分の代わりにそのお母さんが縫い進めていく傍らで、あれこれと自分が聞いて欲しいことをしゃべり続けていた記憶があります。
高校生にもなって、ずいぶん幼い振舞いなのですが、家では母子の役割が逆転して、わたしは母の悩みの相談役であり、支え役と指南役も兼ねていましたから、こんな風にわがままな子どもの状態で過ごせる場所を必要としていたのだと思います。
結婚後、わたしと友だちはめったに会うことがなくなったのですが、友だちのお母さんは時折、こちらに連絡をくださいました。
数年前に母が亡くなる直前にも、田舎に療養に向かう母のことを心配して、親身になって相談に乗ってくださったことをありがたく覚えています。
数駅先にある図書館の司書の女性も、図書館に通い始めた小学校低学年の頃から、ずっとわたしを可愛がってくださった方です。
図書館に顔を見せると、貸出の受付の仕事を他の職員と交代して、わたしの本選びに長い時間つきあってくれていました。
その方がたびたびカニグスバーグの作品を勧めるのに、表紙の絵が暗いため、なかなか手に取りたがらなかったのですが、ある時、思いきって読んでみたら面白かったということがありました。
他のカニグスバーグの作品も探していたら、その方が駆け寄ってきて、こっちの作品はこんな話、あっちの作品はこんな話と説明しはじめて、その姿が本当にうれしそうで、はしゃいだ様子だったことが印象に残っています。
たまたまその方の新しい勤務先の図書館が高校の最寄り駅のそばだったので、そうした関係は高校生になっても続いていて、資格もないのに、司書の臨時アルバイトとして雇ってもらったこともあります。
こんな風に子ども時代に可愛がってもらった人々というのはまだまだいて、挙げているときりがありません。
面白いことに、自分が大人になって子どもと接する時には、そうして子ども時代に出会った大人の方々の語り口調や癖やユーモアや喜び方や好みなんかが知らず知らず、自分の内に蘇ってきて、自分の性格の一部のように感じられることがあります。
そんな時は、子ども時代の不思議に触れる気持ちになります。
これで終わりにしようと思っていたのですが、機能不全家族の問題にこれから向き合いながら子育てをしていこうとしている方からコメントをいただいたり、遠方に住んでいる親しい人からメールで苦しい胸の内を打ち明けられたり、レッスンの中で世代間連鎖を断ち切る難しさを相談されたりするうちに、あれでは少し不親切な答え方だったと思い直しました。
たいした力にはなれませんが、もう少しだけ、自分が当事者としてこの問題と関わり続けて、気づいたこと、理解したことについて書いてみようと思います。
先の記事を書いている最中に、次のようなコメントをいただき、
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いつも拝読させていただいております。
私は父がDV、母が家族に共依存しているという典型的な機能不全家族に育ち、3歳、1歳の育児をしています。
今、実家は家族の機能不全関係が表面化した問題に直面しており、私は、両親を手助けすれば重い依存がのし掛かってくることが予想され、常に実家が心配で育児は上の空、という状況です。
私が親として、母の優柔不断で家族の機嫌を取ってばかりの面、父のストレスが溜まると怒りという形で爆発する面を受け継いでしまっていないか、自信なく子育てしてます。
3歳の息子のわがままかんしゃくが、私の育ちを投影しているのではないかという心配があること、過去の記事から先生が機能不全家族に悩んでいらっしゃったお話を聞き、勝手に親近感を持っていたことから、今回の記事を興味深く読ませていただいています。
先生が、機能不全家族に悩まされながら、どのように精神衛生を保ち、子育てをされていたのか、どのようにして、世代間連鎖を断ち切ったのか、機会があればお聞かせ頂きたいと思っております。
先生とお会いできる機会があればとレッスンの応募を何度かしておりますが、ご縁がなく残念に思っています。
けれど、先生の記事に出会えただけでも育児の指針、心の支えとなり、とても有難い出会いと思ってます。これからもどうぞよろしくお願いします。
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その後、記事を書き終えた時、とてもありがたい感想をいただきました。
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先日コメントで質問をさせていただいた者です。
先生の記事、噛み締めながら拝読いたしました。
機能不全家族に悩まされたり、子育てをしながら自分の育った道を思い返して苦しむ中、有難く、心救われる気持ちがしています。
先生の優しさと強さの源を見せて頂いた気がしました。
自分の置かれた状況を被害的に捉えてばかりで子育てに自信を失っておりましたが、心を澄ませて自分らしく道を拓いていけたらという気持ちになりました。
心に染み入る素敵な物語のお話でした。私もいつか自分と家族の影を抱きしめて、最後に丸い円を描けるようになりたいです。
ありがとうございました。これからも記事を楽しみにしております。
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心を澄んだ状態に整えて、自分の生き方を考えておられる姿に、息を引き取るまで共依存の状態から抜け出すことができなかった母の人生が、誰かの未来の中で活かされるようでうれしく感じました。
しかし、同時にコメント主さんの前向きで純粋な思いが、わたしが書いた文章によってより傷つくことにならないか少し怖くもあって、数日間、この記事に続きを書くべきかどうか悩んでいました。
怖いという言葉をここで使うのは、残酷で奇妙に聞こえますが、わたしの正直な思いでもあります。
今から夜の登山をしようという人や、砂漠に入って行こうとする人に、そこを抜け出せた体験を語り、方法を伝えても、その方法とは、山を消す魔法でもなければ、砂漠から出る地図でもありません。
より過酷な状況になっても、自分を取り戻すために、一歩一歩歩みを進めるためのエールを送ることしかできません。
それでも、それをやり抜くための知恵なら、言葉にすることができるかもしれないと思い、続きを書くことにしました。
機能不全家族という言葉を耳にすると、それは家族間の関係の問題であって、前向きながんばりや純粋な意志や深い愛情によって、乗り越えていけるようにも思われます。
でも、その背景には、依存症の問題が隠れていて、少し頼りない性格程度に思われる共依存のようなものであっても、社会から敵視される薬物依存同様に、人の心や意志やがんばりだけではどうしようもないものがあることを、わたしはこれまでの数十年間の中で、心の深い部分で実感しました。
わたしは、先に紹介したコメント主さん同様、父のDVやギャンブル依存、母の共依存などの多くの問題を抱えた家庭に育ちました。
わたしも妹もそうした機能不全家族の中で割り当てられた役割……
妹は「スケープゴート」、つまり「悪い子」の役を、わたしは「プラケイター」と「責任を負う子」、
つまり親をなだめたり、支えたりする家庭内ソーシャルワーカーの役と、家庭内の混乱に秩序をもたらすために一生懸命がんばって親の期待に応える役を担って、子ども時代を過ごしました。
そのように子ども時代を子どもとして生きれなかった子は、心に慢性的な喪失を抱えたまま、健全な自己愛や自尊心を獲得できずに大人になっていくと聞きます。
自分を信頼し、「やれば何とかなる」といった前向きな姿勢で、人生を切り開いていくことが難しいとも言われています。
父母の思い出話から推測するに、おそらく父の父母もその父母も、また母の父母もその父母も、家族の関係の問題によって自分たちの人生を蝕まれてきたのだろうと思われました。
そして、父も母も、表現の仕方ほど異なるものの、アダルトチルドレンの特徴をたくさん持っていました。
父は、白黒、二極化した思考をしがちで、人を試す発言が多く、怒りを抑えられず、漠然とした不安感や空虚感をギャンブルへの依存で埋めていました。
母は、自己信頼感が希薄で依存心が強く、何でも人にたずねて、自分で判断することができませんでした。
いつも周囲に合わせばかりで、人からの頼みごとを断れず、自分の人生に希望を抱けないまま、何となく日々を過ごしていました。
そんな両親のもとで育ったわたしは、身体的にも精神的にも脆弱な子どもでしたし、実際に心が深く傷ついてもいたし、ずいぶん遠回りをしながら大人になりはしたものの、幼い頃から、どんな時も、父の考えにも母の考えにも染まらないところがありました。
たとえ一時期、両親の思考のあり方の影響を受けて認知に歪みが生じていたとしても、それに気づいて、自力でそこから抜け出す知恵も持っていました。
そして、今、生きづらさを感じずに生活しているし、わが子たちが自己愛や自尊心や自己信頼感を成長させていく過程を支えてあげることもできます。
父も母も妹も、自分の親と自分自身がプログラムした思考の罠が自分の人生を蝕んでいくことから、どんなにあがいても抜け出せなかったのに、どうやってわたしはそこから出たんだろうと考えると、いくつか思い当たる理由があります。
そのひとつは、両親の伺い知らないところで、両親や祖父母以外のさまざまな大人たちから、自分の子どもに対するような深い本物の愛情をかけてもらっていたからじゃないかと思っています。
また、大きくなるまで続いていた幼なじみとの心の絆も、両親との関わりに別の視点をもたらしてくれました。
次回に続きます。
父がどうして、少し話をするだけで、相手の弱みやコンプレックスや罪悪感のありかを嗅ぎ付けて、それを掌握してしまうことができたのかといえば、おそらく父にはちょっとした仕草や戸惑いや躍起になって弁解する瞬間や、言葉にしたこととあえて言葉にしなかったことから、相手の心の動きが手に取るように見えていたからでしょう。
また父には、何かを観察する時に、結論を急がず、ひとつひとつ詳細に分析していくところがありました。
学問の世界とは無縁で、仕事も肉体労働に終始していた父ですが、時折、「ああ、またか」と家族をうんざりさせる形で、父の頭の使い方を知る機会が何度かありました。
母の療養のため、父母が田舎に移り住むことになった時、「日曜ごとに競輪や競馬に通い詰めている父が、退屈な田舎暮らしに我慢できるのか」と心配していたところ、母から、「父さん、近所にいくつかパチンコ屋があるから、けっこう楽しそうに過ごしているわ。うまくある分でまわして、お金はほとんどかかっていないみたい。」という報告を受けたことがありました。
が、それから少しして、母が、「どのパチンコ屋にも出入り禁止になったらしい」と伝えてきました。
理由を聞いたところ、それぞれのパチンコ屋ごとの台の性質やどんなサイクルでどんな出方をするかといったことを細かく調べ上げていたようです。またそれらすべてを頭に納めて、出る台から出る台へ移っていたところ、あまり何日も勝ち続けるので、出入り禁止を言い渡されたそうなのです。
父は粗暴で毒のある性格で、母に手を上げることも多かったけれど、わたしは疎ましく思うことはあっても、あまり恐れてはいませんでした。
それこそ、父の顔が怒りで蒸気して、まるで射抜くような目でこちらを睨んでいるような時も、こちらはこちらでひるみもせずに父の顔を見返していた記憶があります。
気の強いはずの妹がまるで引きつけたように泣き叫んで父の剣幕におびえているのに、おっとりのんびりした性格の弱々しい感じの子だったわたしが、よくそんなことができたものと呆れるけれど、父が人の弱みやコンプレックスや罪悪感をすぐに嗅ぎつけるのと同じように、わたしには、虚勢の下に隠れた父の気の弱さやコンプレックスや罪悪感、空虚さや不安といったものが、はっきり見て取れたのです。
子ども時代の話を書くと、たびたび、「機能不全家族に悩まされながら、どのように精神衛生を保ち、子育てをされていたのですか」「どのようにして、世代間連鎖を断ち切ったのですか」といった質問をいただくことがあります。
簡単にまとめられそうになかったので、これまで、そうした質問にお答えしたことがなかったのですが、私的な話が長くなったついでに、それについてもわたしの思いを書いておくことにします。
機能不全家族やアダルトチルドレンという概念に出会ったのは、長女を産んで少しした頃です。
大人になって、穏やかで安定した暮らしを送るようになってから、わたしは自分の心がいかに家族の問題で深く傷ついていたのかを思い知ることになりました。
一時期は、凍結したり抑圧していた記憶がどっと押し寄せてきて、涙が止まらなかったり、不眠が続いたり、激しい吐き気や頭痛に悩まされたりしました。
特に母が問題行動が激しくなる妹を道連れにして自殺未遂を図った出来事は、自分もそれに加担されそうになったことへの怒りや罪悪感や、どんなことがあっても妹を守らなくてはという思いや、心が担える限界まで苦しんでいた母をかわいそうに思う気持ちや、自分の落ち着いた学生生活を奪われたことへの不満など、未消化の感情を呼び覚まして、思いだす度に、心が掻き乱されました。
そんな状態の中で、客観的に過去を見つめ直したり、感情を整理したり、自分の今の生活を大切に守っていくために、機能不全家族の問題を扱った著書の数々はとても役立ちました。
心身がかなりまいっていたとはいえ、わたしは自分の子どもを愛情をかけて育てるのには、何の努力もいりませんでした。
せいぜい過度の甘やかしを控えるのに苦労したくらいです。
たとえ未熟な関わり方でも、両親から強い愛情を受けてきたからなのでしょう。
機能不全家族とかアダルトチルドレンという言葉は、自閉症スペクトラムといった言葉同様、人の抱えている問題や困り感を明らかにして、苦痛を減らすための指針を与えてはくれます。
でも所詮、言葉で表せる概念は、便利なマニュアルや小道具にすぎなくて、そんな言葉の中に人の全てが収まりきるわけはありません。
わたしは父が相手のコンプレックスを自分が優位に立つために利用する姿を見て育つ中で、人が何に縛られているのか、何を恐れているのか、何を恥じているのか、何を見ようとしていないのかに敏感になりました。父とわたしはそうした部分で似ているところがあるのでしょう。
父はそれを利用したけれど、わたしは、それに気づくことで相手が囚われている何かから解放してあげることができるし、袋小路に迷い込んだり、悪循環に陥っている考えから抜け出す手助けもできます。
トラウマとなるものを、被害的にだけ捉えるのは、わたしの性に合わないので、毒のあるものも、自分なりの活用法を考えてきたのです。
人の心は多面的で豊かで、同じひとつの経験からも、一方では深く傷ついても、他方では、それをきっかけに自分の人生にとって大切な意図を見つけたり、自分の視野や限界を広げる役に立ったりすることもあります。
何もかも奪われることがあっても、それを機会に自ら生み出すこと、創り出すことを学ぶことはできます。
子どもの頃を振り返ると、確かに父が母に暴力をふるうことで心が引き裂かれそうになるほど傷つき、母と妹の争いに終始、胸を痛めていたけれど、それに触発されて、ずいぶん早い時期から、自分が人生でやり遂げたいことを意識して自分の夢を育んでいたことも事実でした。
目に浮かぶ子ども時代の光景は、暗いものより美しくて神秘的な輝きを放っているものがほとんどで、ひとりで過ごしている時の多くは、心配ごとよりも、ワクワクする思いや幸福な気持ちで満たされていました。
わたしの夢というのは、物語の作家になることでした。
聞くのも読むのも語るのも物語好きだったわたしは、ごく普通の子どもの好みそうなストーリーも好きだったけれど、ちょっと風変わりな自分なりの好みも持っていました。
幼稚園のお話の時間に語られたグリム童話や怪談話や冒険物語を妹や従妹に語って聞かせるのが好きで、特に少し残酷な『ネズの木』の話が十八番でした。
カトリックの幼稚園だったので、園長先生に勧められるまま日曜日に、園の隣に併設されている日曜学校に通っていました。
おそらく大人向けの話の中にあったのでしょうが、そこで耳にした『放蕩息子』のたとえ話が、深く心に響きました。
こんな話です。
「ある人のふたり息子の弟の方が、放蕩して財産を使い果たした父の元に戻ってきます。それを父は喜んで迎え入れます。
さんざん好き勝手した上、ちやほやされる弟にずっと父のそばでつくしていた兄が不満を抱くと、父は、お前の弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから、一緒に祝おうではないかとたしなめるという話。
教会では、この話は、神の愛の偉大さを諭したもので、放蕩息子とは神から離れた罪深い人のことでわたしたちのことだと説明されましたが、わたしは牧師の解釈では気に入らず、「もし牧師さんの意見と違う考えで、どんどん考えていっても、放蕩息子が帰ってきたのを喜ぶ神様なら許してくれるはず」と考えて、自分なりにあれこれとイメージを膨らませたり、解釈してみたりしながら、ずっと心にとどめていました。
小学生になって、『ゲド戦記』を読んでからは、先の放蕩息子の話と自分の影と対決するゲドの姿が重なりました。
ゲド戦記は面白かったけれど、わたしには、自分自身の暗部である影と戦うゲドのストーリーは少し物足りませんでした。
「わたしなりの影をテーマにしたストーリーを作り上げたい」というのが、それからのわたしの終始変わらぬ願望でした。
できれば、放蕩息子のたとえ話のように、最終的には自分の影を抱きしめるような、最後に丸い円を描くようなイメージで終わる物語にしたいと思っていました。
高校生になると、ユングの元型やシャドウの話や荘子の詩に惹かれました。
その頃から自分でも詩を書き始めました。
『数えきれない太陽』というホームページに載せている 出逢い という詩と 友情 という詩は、実は、どちらも妹に向けて書いたものなのです。
わたしと妹が歩んできた道と自分が描きたいと思い続けているテーマが、その詩の中に結晶されているのを、今、読み返すと感じます。
結局、物語はどうなったのかというと、「これから書きあげてみたい」という思いもあれば、自分の今暮らしている生活の中で、子ども時代に旅立たせた物語の主人公たちの帰還をすでに味わっているような気持ちも感じています。
母の子育てに特別な問題がなかったとすれば、問題の根は妹にあったのかというと、そうとは思えませんでした。
妹の感情の起伏の激しさや情熱的で真っすぐなところや単純さ、愛情に飢えているところ、お調子者で自信家で称賛を欲しているところ、物に釣られやすく、扇動されやすいところが、常に、父と母にいいように使われていることをわたしはずっと知っていました。
妹の心は、父と母の意識に上らせることができない憎しみあいやら、愛情の駆け引きやら、わたしの奪い合いやら、心の空虚さを埋めることやら、自分たちの影を投影することやらに利用され続けていました。
それに最初に気づいたのは、ひとつ違いの従妹が泊まりにきた時です。
わたしは従妹の心が、ちょっとしたやり取りの間に、父の思うがままに動かされるようになっていくのを見てハッとしました。
わたしの父というのは、自分自身、非常にコンプレックスが強い分、人の負の一面に勘が働きやすく、少し話をするだけで、相手の弱みやコンプレックスや罪悪感のありかを嗅ぎ付けて、それを掌握してしまうことができました。
従兄弟たちが集う時、父はしょっちゅう、ちょっとした小銭を与えたり、物を買い与えたりしながら、もっともっと欲しい、他の子よりたくさん欲しい、という思いで自分を見失うような子がいると、その子にだけより多く与えるふりをしたかと思うと、じらしたり、無視したり、自分だけ損をするんじゃないかという不安を与えて、結局、父のまなざしひとつ、言葉ひとつで言いなりになる子に仕立て上げていました。
賭博好きの父は、荒っぽい性質の人々と付き合いがありましたが、相手がどんなに恐ろしい外見をしていても、気の弱さが潜んでいるのに気づくと、睨みをきかせたり、脅したりして、自分の支配下に置いていました。
ひとつ下の従妹は、食べることが大好きで、遊びの途中で駄菓子屋に寄っていました。
年が離れた温和な兄がいるだけの従妹は、ほとんどひとりっ子のように育てられていて、そうして買ったお菓子を分け合うという考えがなくて、よく妹と揉めていました。
父は、よく従妹とわたしと妹を連れて散歩に出ると、わざわざ従妹が買ってもらいたくてうずうずしているドーナツ屋の方に向かうことがありました。
従妹の期待が高まって、「どこに行くの?」と繰り返えしたずねるのに、「まぁ、いいところだ」と言葉を濁しておいて、どんどんドーナツ屋に歩を進めたかと思うと、素知らぬふりをしてドーナツ屋の前を通りすぎて、ただぶらりと散歩をしているだけだという格好を決め込みました。
従妹が不安になって、父に懇願しはじめると、「そんなものが欲しかったんなら言えば買ってやったのに」と言いながらも、戻る気はないふりをし、従妹が父の一挙一動に心を躍らせたり、期待したり、不安になったり、絶望したりする様子を楽しんでいました。
最終的に父はドーナツを買って帰るのですが、その頃には、従妹は父に対して弱い立場になっていました。
おそらく父は、買ったお菓子を分けあうことができない姿から、従妹の弱みを察したのでしょう。
わたしは従妹の父のやり取りを見ながら、妹もまた、常に父から、また母からもそうやって心を揺さぶられたり、操られたり、ある感情や行動に駆り立てられたりしていることが思い当たりました。
妹の気持ちも態度も決して妹の中からだけ出てくるものではなく、外からの力が掻き乱し翻弄し続けていたことを悟りました。
わたしが育てにくさを持つ子のお母さんたちの相談に乗ったり、そうした記事を書くのに熱心なのは、癌で亡くなった母が、壮絶な痛みと戦っている最中も、子育ての失敗を悔いる気持ちに苛まれていたことが、今も心から消えないからなのかもしれません。
母は情にもろくて、人の話によく耳を傾ける共感する力に富んだ人でしたから、もし、子どものわたしではなく、大人になった現在のわたしが、妹との関係に悩む若い日の母を支えてあげられたら……母の陥っている子育ての迷宮から抜け出す指針を与えてあげられていたら……自分の生きてきた道を否定したまま、罪悪感を抱えたまま、逝ってしまうことはなかっただろうに……
たとえ非行に走っている時だって、矯正することばかり考えなくても、バカ親ってののしられるような愛し方をしたっていいし、世間から責められても、親なんだから愛するくらい許されているはず、と子どもの口からでなく、大人の言葉で安心させてあげたかった……
妹との和解を願って、結局、病気の母を追い詰めることしかできなかった自分に寂しさを覚えるのです。
表面上、妹は父の、わたしは母のお気に入りで、父は妹を、母はわたしを溺愛していました。
母はよく、妹は性格も顔もすることなすこと父とそっくりだと言い、わたしは母に似ていると言っていました。
どちらにしろ、目で見て確認できる範囲では、その言葉通りでした。
けれども、それはほんの一面的な捉え方に過ぎなかったのかもしれません。
父は妹に対して、どう成敗しても妹に非がある場面で、やたら妹の肩を持ってみたり、妹が母に叱られたからという理由で、何もしていないわたしにげんこつを落としたりするような支離滅裂で非常識な溺愛の仕方をしていました。
そうした猫っかわいがりは、妹かわいさからしているというより、わたしの心を乱して、自分を注目させよう、関心を引こうとしているのがありありとわかる時がありました。
父は常にわたしが何を欲しがっているのか知りたがっていました。
わたしはなかなかそれを明かしませんでした。
自分の欲しいものにしても、願望にしても、胸の内にしまって、父に気づかれないようにしていました。
でも、わたしが何かに興味を持つと、母が勝手に察して、父に伝えることがありました。
すると、父は給料2ヶ月分ほどの呆れるような金額で、それを買ってくることがたびたびありました。
安価なラジカセを欲しているような時に、最高級のステレオセットをそろえてやろうとするのです。
そうしてわたしに貸しを作っておこうという気持ちもあったのでしょうが、お金に細かい面も持っていた父は、妹や母には、一度もそんな高価なものを買うのを見たことがありませんでした。
次回に続きます。