虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

子どもは「星の王子さま」

2022-04-30 20:55:58 | 工作 ワークショップ

サンテグジュペリの『星の王子さま』は、「子ども時代、何度か読んだことがあるけれど、当時はよく意味がわかっていなかったな~、今だと心の深い部分でしっくりするな~」と感じる童話のひとつです。


サハラ砂漠に不時着した主人公が、星の王子さまに「羊の絵を描いて」とたのまれて、しまいに投げやりになって、簡単な箱を描いて、「君の欲しがっている羊はこの中にいる」と告げると、王子さまが顔を輝かせて「うん、こんなのが、ぼく、ほしくてたまらなかったんだ」と大喜びし、「このヒツジ、たくさん草をたべる?」とたずねるシーンがあります。

「ただの箱」の中に想像するものをありありと見て、心を躍らせるのって、子どもだからこそできるすごい才能だな~と思います。

虹色教室通信 別館 つくるんクラブ で、ティッシュ箱に折り紙2枚貼って、少し切り込みを入れただけ……という「へんてこりんなゴミ収集車の工作」を紹介したところ、次のようなコメントをいただきました。
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先日このごみ収集車を一緒に作ったところ、めちゃめちゃ喜ばれました~!ありがとうございます!
初めは、かなりいい加減な仕上がり具合になってしまい「こ…これを大好きなごみ収集車(息子はごみ収集車大好きなんです)だと言って納得するんだろうか」と心配しましたが、とんでもない!すごく喜んで遊びました♪そして今日またこのごみ収集車を出してきて「[息子]のごみ収集車…カッコイイ☆」とうっとりしたカンジで言ったんです~!つくづく簡単工作ってすごいな~と思いました。それにこの作品の魅力がイマイチ把握できてなかった自分…まだまだだなぁと思いました(笑)
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そうなんですよ!子どもって……
想像力で補う部分が多いほど目を輝かせるんです。
子どもって、どの子も星の王子さまそっくり!
おりがみをくるくる丸めて、「まきずし」「望遠鏡」なんて作品でも、とっても満足して、大事そうに持って帰りますから。

そういえば、今朝、うちの子たちと携帯のゲームについて話していたとき、息子がこんなことを言ってました。
「ゲームで自分の技を磨いて、攻略していくことに喜びを見出すのじゃなくて、誰かに自分の代わりに点数を稼いでもらって、とにかく得点だけ競いたいって子が増えているんだね。(私の話を聞いて言ってます)
最近さ、もうどの子も受け身な遊びには飽き飽きしてきてはいるんだよね。ゲームするのも、テレビ見るのもめんどくさい~て声もよく聞くから。
遊びって、結局、自分で主体的に創造的に関わらないと本気で楽しいって思えないものだよ。
でもさ、最近は、自分で何かしよって思うと、外遊びでもハードルが高くなってるよね。あれやってみよ、これやってみよって気楽に何かできない雰囲気があるじゃない……」

そうか……ハードルが高いのか……と考えていて、あっという間工作に子どもが目を輝かせる理由がちょっとわかった気がしました。
「またやりたい」「お友だちにできること見せてあげたい」「自分で遊びを提案したい」と子どもが思ったとき、ハードルが低いのですよ。簡単な工作は……!!
簡単実験もです。
たくさんこうした体験を積むと、自分自身で、自分の時間を豊かにしたり、自分の欲求を満たしたり、自分で自分を喜ばせることが上手になってきます。
それで、いつもいきいきとして意欲的で、情緒が落ち着いた子になってくるのです。
 
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工作を子どもの頃にするといい理由

様変わりした算数セット……算数セットを使わない学校もあるそうです

2022-04-27 23:03:42 | 算数

最近の小学校の算数セットは、ひと昔前のものと比べてずいぶん様変わりしたようです。

かつて、わが子の就学を控えた親たちをうんざりさせた算数セットの名前つけ作業も、今では、単語カード風に束ねてある計算カードとせいぜい10個までの具体物、プラスチックの時計などに名前をつければいいだけのようです。

算数セット自体、使わない学校すらあって、ないならないで授業が成り立つなら、算数セットなどという面倒な道具をどうして購入させていたんだろう、と古い教育の無駄なあり様を疑問に思う方もいらっしゃるようです。

 

確かに、授業中の手遊びのもとになるようなセットがあるのは面倒なだけかもしれないし、ちまちました小物は無くし物と忘れ物の元凶となることでしょう。

それでも、「1年生で教えるのはここまでだから……」という数の棒やチップの横で幅をきかせる計算カードを目にすると、もやもやした心配が頭をもたげてきます。

かつての算数セットはよかったとか、今の算数セットではダメだとか、そういうことではなくて、それは、世の中のお母さんの考えや先生の考え方を象徴しているようでもあるし、子どもの置かれている環境や子どもの脳内を具現化したもののようにも見えるからです。

 

教室に初めて来る年長さんや1年生の算数の力を見ていると、「3+1=」といった問いには、即答できるのに、★ちゃん、●ちゃんの前にドーナツのおもちゃを2個ずつ置いて、「★ちゃんのドーナツを1個、●ちゃんにあげるとどうなるかな?」といった質問には、首をかしげたままになってしまう子がけっこういるのです。

目の前の物を見ながら、「これをこっちに移動させたら、どんな風に変化するかな?」とイメージすることができないのです。

 

物を手で動かさないでもイメージできるようになるには、それまでに実際に物に触れて、手で操作した体験がたくさん必要です。

いくら計算カードで式を暗記しても、物をイメージして考えていく力が伸びていくわけではないのです。

計算カードを暗記する時、子どもによっては、まるで電話番号を丸暗記していくような理解で覚えていく子もいるのです。

また、3人の子どもたちがいる時に、「★ちゃん、☆ちゃん、●ちゃんの3人の子の手の中に3個ずつおはじきがあるよ。みんなのおはじきを合わせるといくつになる?」とたずねても、ひとりひとりの子を指さしながら、「1,2,3……4,5,6……」と見えないおはじきを数えあげていくことができない子もいます。

 

算数セットが貧弱になったから、具体物を操作したり、イメージしたりする力が弱くなったというわけではないけれど、できるだけ効率的に学習単元をマスターさせていくこうという考えを世の中の大人たちがこぞって目指すことには、意外な落とし穴があるのではないか、と考えてしまうのです。

 

 

2ケタの筆算はできるけれど、数の理解がほとんど進んでいない子たちといっしょに100を作っていく遊びをすると、それまで学校で何度計算プリントをしてもピンときていなかったことが、ハッとわかる時があるのです。

 

「小学1年生で学ぶのは、この数まで」と決まっていても、実際に目で見て、手で操作する数が、習う数の範囲だけだと、本当の意味で数について理解できるのでしょうか?

 

わたしは習うものが10までの足し算という時にも、目で見て、身体で数を知るには、100とか1000といった数を、見たり触れたりすることが大事だと思っています。

 

数というのが、どこまでも続く秩序として子どもの中に根付くには、たくさんの数を見たり触れたりする体験が必要ですから。

 

算数セットにまつわる変化について、もやもやとした思いをくすぶらせていた時に、内田樹氏の 子どもたちよ、英語のまえに国語を勉強せよ という文章を読んで、自分が何に対して気を揉んでいたのか腑に落ちました。

この文章、英語について書かれているものですが、学習全般に通じる、大事なことが述べられているのを感じました。

 算数セットの話題からは、少し逸れてしまうかもしれませんが……。

 

内田樹氏は、英語力が下がった理由は「英語を学ぶと将来的に有利」などと、英語力を実利に結びつけるようになったから」とおっしゃっています。

 

学習の“報賞”があらかじめ開示されると、子供たちはいかに効率よく“報賞”を手に入れるか、最小の学習時間で、最大の効果を求めるようになります。

頭のいい子ほど、「聞き流すだけで英語力が上がる」とか「居眠りしながら英語力が身につく」といった市場にあふれている「最小の学習努力で最大の効果」をめざしている学習法に傾倒しがちなのだとか。

 

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かつての「英語が好き」な子供たちは、誰に言われなくても英語の小説を読み、英語の音楽を聴き、英語の映画を観て、厚みのある英語力を身につけた。

そのようにして得た英語力は試験の点数にそのまま反映されるわけではない。

無駄が多すぎたからである。入学試験に出るはずのない「無用の知識」を大量に含んでいたからだ。

けれども、その「試験には出ない知識」が彼らの英語力の厚みを形成していた。

あらかじめ“報賞”を開示すれば、子供たちは必ずそこに至る「最短距離」を探すから厚みがない。

だから、「この教科を勉強すると、いいことがある」という誘導のしかたはしてならないのである。

             

『子どもたちよ 英語のまえに国語を勉強せよ』内田樹(プレジデントFamily 2013年7月号)

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「無駄が多すぎる学習方法に含まれる入学試験に出るはずのない大量の無用の知識がかつての英語力の厚みを形成していた。」というくだりは、自分の子たちを育てていて、強く実感しているところです。

無駄な過程を山ほど踏みながら、わが子たちが勉強したり、アルバイトして社会と関わったりする姿を見ていると、確かに、成功を約束された最短距離をひた走っていくのと違って、努力もしている、能力も十分あると思うのに、それに見合う成果になかなか結び付かないな、ともどかしい時期だってあるのです。

でも、「厚み」とか「深み」という言葉で、そうした無駄の多い体験を経たわが子たちと向き合うと、知恵にしろ、精神力にしろ、物事に対する深い理解にしろ、未来を思い描く力にしろ、わたしが20代の頃といわず、今のわたしも到底及ばないな、とも感じています。

無駄もいっぱい含んでいるような何か自分を投じることから得るものの大きさ、豊かさのようなものをわが子たちの成長から実感しています。

 

話がずいぶん脱線したので、算数セットの話題に戻りますね。

写真は、アスペルガー症候群の6年生の☆ちゃんの学習の様子です。

「1.3は0.1がいくつ分か?」という問いに、「1.3個」という答え。

そこで、「0.1が2個だと、0.2。0.3が3個だと0.3……0.1が10個だといくつ?」とたずねると、「0.01」と答えました。

また、「0.1が10個だと、1よ」と教えてから、「1.1は0.1がいくつ分?」とたずねると、「1.1」と答えていました。

これは、具体物を使って、何個なのかと数えているものと、0.1にあたるものを目で見て確認しておかないと、こんがらがっているな、と感じたので、キラキラした小物のひとつを0.1として13個並べて考えてみました。

そうやって、「0.1、0.2、0.3……と置いて行けば、それまでこんがらがっていた知識もきちんと整理できました。

 

「1枚8円のシールを6人に5枚ずつ配ると、いくらお金がかかるのか」という問題も、文章を読みながら具体物をセットしていってもらうと、「~枚ずつ」という言葉の理解につまずきがあることが判明。

「5枚ずつくばる」という文を読んで、人形にそれぞれ1枚ずつ、全部で5枚のシールを配り終えて、「できた。配れない人形もあった」と言って涼しい顔をしていたのです。

これまで☆ちゃんは「~枚ずつ」という記述が出てくる問題は解けてはいたのですが、「こういう言葉がでてきたら、掛け算をする」と覚えていただけで、意味を正しく理解してはいなかったのです。

 

「5個ずつ9皿に分けると、3個あまる」という問題を具体的に皿と小物で表してみるようにうながすと、ひとつの皿に9個、小物を乗せており、「3個あまる」という部分は、「3掛けるの?」とたずねて、計算式で紙に書こうとしていました。

 

☆ちゃんのように言葉と実際の物の扱いが結びついていない場合にも、学校で習っている期間は、計算ドリル等で同じ問題を繰り返し練習するので、パターンとして解けるようになっていることはよくあります。

学校の先生も、親も、そうして形だけでもできるようになって、テストで点を稼げたら良しとする風潮が蔓延しているように思われます。

それは、算数セットを従来のものに戻せば解決する問題でもないでしょう。

でも、物を扱わなくても、計算カードで暗記だけして、数式を扱えるようになれば問題なし……という方向に行き過ぎることには危機感を覚えます。

 

勉強は、学校で習う内容を訓練したかどうか、それができるようになっているかどうか、にだけ力を入れていても、それ以外の無駄とも思われるさまざまな体験を経なくては、きちんと力がついていかないし、正しく理解できないところがあります。

 

ゲームをして遊んでいると、頭の使い方をきちんと習得していないことに、成績が伸び悩みの原因が見つかることがあります。

写真のゲームは、「青、赤、緑、黄色、紫」の5色と、「猫、犬、馬、牛、豚」の5ひきの動物について、

「青い猫」、「赤い豚」、「黄色い馬」、「紫の牛」のように4ひきの動物、それぞれに色がついているカードを見て、そのカードにない色で、いない動物を場のカードから探す遊びです。

こういうゲームをする時には、まず、色か動物のどちらかを先に絞り込んで、色は緑がないから……猫でも豚でも馬でも牛でもない動物の犬と合わせて、答えは緑の犬ね……と判断すると、すぐに答えがわかるようになります。

そうした情報を処理が苦手だと、色の情報を覚えておくことができなくて、動物だけで判断したり、逆に色だけで判断したりしがちです。

 

カード遊びなんてテストには出ない……と思うかもしれませんが、そうした遊びの中で、手で物を操作しながら、「問題文を読んで、書いてあることを記憶した状態で、そこに描かれている図について判断する」とか、「文中にいくつかの情報が含まれている時、ひとつひとつの情報を整理して段階を踏んで解いていく」といった力が身に着いていきます。

「単元で習うことが、ちょっとでも早く労力を使わずにできるようになること」だけを目指すことには、いくら表面的な知識は詰め込んでも、そうした頭の使い方自体は身に付きにくいという難点があるのではないでしょうか。

 

幼児や低学年の子どもたちは、本人たちが、学習の“報賞”や将来の実利の意味も知らないうちから、「最小の学習努力で最大の効果」を与えようとする大人たちのレールの上に乗せられていきがちです。

それは、子ども自身が、自分の判断で、少ない努力で多くの効果を得ようと模索すること以上に、学びの根っこをスカスカにしてしまうのかもしれません。


10代の子とのチグハグなやりとり 2

2022-04-24 12:58:20 | 日々思うこと 雑感

「勉強中、外へ出て行ったのは、奈緒美先生が本の話を出したからだ」というAくんの言い分に、当初はあきれるやら、おかしいやら、開いた口が塞がりませんでしたが、時間が経つにつれて、Aくんを数キロ先まで向かわせるほど熱狂させている『ガフールの勇者たち』という本が気になりだしました。 

タイトルから、ゲームやマンガを小説化したような軽い冒険ものかと思っていたのですが、読んでみると、フクロウの生態の研究を土台にして描かれている正統派の児童文学でした。わたしもすっかり『ガフールの冒険』の世界に引き込まれました。

Aくんに、『ガフールの勇者たち』の感想を伝えて、他におすすめ本がないかたずねると、『ドンキホーテ』『三銃士』『ああ無常』『精霊の守り人』の名前が上がりました。『精霊の守り人』以外は、どれも、一昨年、クリスマスプレゼントとして両親からもらった文学全集に収められている本でした。

その文学全集について、Aくんは、こんなものいらない、もっと自分が欲しいものが良かったと文句を言ったり、罵ったりしていたそうです。でも、不平を言いながら受け取ったプレゼントは、いつの間にか、Aくんの心を強く捉え、これまでで最高のプレゼントだ、とAくんが称するほどになりました。

読書の質が変わるとともに、Aくんの友達に、読書の好きな子が加わりました。これまでの友達とは異なるタイプで、面白かった本を教え合っているそうです。

 

Aくんを外のルールに従わせようと躍起になると、ルールを覚えようとも守ろうともしない困った子ではあります。将来を案じて、人との関わり方や我慢することを教えなくては、と義務感に駆られもします。

でも、時間や環境にある制約を取っ払って、Aくんという子を改めて眺めると、「面白くて魅力的な子だな、いいセンスしてるなあ」と、しみじみ思うのです。

昆虫や鉱物に夢中で、暑さも寒さもものともせず、一日中、歩き回っても平気です。工作とスポーツが好きで、自分の好きなことを極めるためには、驚くほど我慢強いのです。

友達と一緒に、泥団子を作ったり、水遊びをしたり、きれいな石を探し回ったり、自然の中で野生味のある遊び方をします。

それに、最近のAくんは、自分の頭を鍛えてくれる本をよく読むようになってきました。Aくん自身の内部からちゃんと成長が始まっている、Aくんは大丈夫、そう確信しました。

 

数日してから、わたしはAくんの算数への取り組み方が、あの日以来、ずいぶん変わったことに気づきました。

Aくんは算数が苦手ではないものの、授業をきちんと受けていない上、最近、抽象度の高い問題が増えてきたので、つまずきが生じていました。「勉強なんて、やってもしょうがない」という態度が災いして、簡単な問題は解けるようにはなっても、2段階、3段階の思考を自分で追っていくような問題は、集中が持ちませんでした。
資質は十分なのに、じっくり考え抜いて解けた時の爽快さを味わってほしいけど難しいだろうな、と思っていました。

ところが、その後の学習のレッスンで、Aくんは難しい算数の問題を選んで、自分の全力を注いでしっかり解いていたのです。その姿から、算数が面白くなってきた、本気を出せるようになってきたな、と伝わってきました。

 

保育士の今井和子さんが、著書の中で、「子どもの言動は、それを見ている大人が自らの人間性や価値観で見とめ、聞きとめるわけです」と書いておられました。

(引用 『ことばの中の子どもたち』今井和子著 P38)

今井さんの言葉を噛みしめながら、Aくんと会った後、「Aくんは大丈夫!」と確信するのは、わたしがこれまでいろんな体験をしてきて、いろんな人と出会って、いろんな本を読んで、考えて、そうしたもの全てひっくるめた自分の心を通した上でのことなんだ、と自分自身を振り返るような気持ちで考えていました。

 

ちょっと話が脱線するのですが、以前、わたしは「Aくんに救われた」と心底感じた思い出があります。

集団生活になじめない子と過ごすかけがえのない時間  でも触れたのですが、わたしは長年、物語を書いてきました。若い頃のように作家になりたいと意気込んではいないけど、趣味と呼ぶには抵抗があるという心持ちで、書くことに向き合ってきました。

二年ほど前、長編を書き上げる際、途中でリタイアしないように、三人の知人に、二、三章書き進むたびに目を通してもらって、文章のおかしな点や誤字のチェックをお願いしていました。

そのうち二方にそれぞれ小学生の男の子がいて、どちらの子も定期的に届く原稿用紙の束に興味を持ち、原稿に目を通してくれるようになりました。男の子たちの「面白い!」「早く続きが読みたい」という声に励まされたものでした。

当時、原稿を読んでくれていた子の一人がAくんでした。 Aくんは真剣に、かつ夢中になって読んでくれました。物語が山場にさしかかった時には、「話の続きが読みたいから」と大好きなイベントごとに行くのをやめて、読んでくれたことがあったほどでした。

やっとのことで書き上げた物語は、児童文学のコンテストに送ったものの、落選してしまいました。構想を練るところから入れると三年あまり、全力をその物語に注いでいただけに、わたしはすっかり意気消沈してしまいました。そんな時、お世辞抜きに夢中になって読んでくれた子どもの読者の存在が、大きな心の支えとなって、悔いを残さず、気持ちを立て直すができました。

今回、二度も待ちぼうけをくっている間、ふと、「あの時はAくんに助けられたなあ」とわたしの送った原稿用紙に顔を埋めてくれているAくんの姿が浮かびました。 Aくんが周りのことなど頓着せず、気ままであるほど、「自分の興味のないことに見向きもしないAくんが、面白がって読んでくれたのだ」と、自分の書いたものの価値が増すような気さえしてきて、「コンテストがダメだった時以来、物語を書いていないな。賞を取るのが目的じゃなくて、書くことにワクワクするから、書くのが好きだから、続けてきたんだった」と、急に気持ちが吹っ切れて、書きたいという意欲が湧いてきました。

人と人が出会うと、異なる価値観が、ぶつかったり、浸透しあったりするためか、ずっと凝り固まってた思いがゆるんだり、壁になっていたところに風穴が生じたりします。停滞していた活動が動き出したり、新たな可能性が生じることもありますね。  

難しい年頃の子との関わりでは、そうしたことが、より起こりやすいように思います。


10代の子とのやりとりがチグハグになるのは、10代の子の心が「“今・現在”にいない」からなのかもしれません。

自分の生き方、考え方を新しく作っていく渦中の子らですから。これまでの「子ども」だった自分の思い込みや、身につけてきた態度を書き変えるために、現在にいながら過去に引き戻されていたり、心が未来に飛んだりするのかな、と思います。

それに振り回されながら、大人も、自分が過去に捨ててきたものに気付いたり、未来の新しい可能性を見つけたりもするのです。


10代の子とのチグハグなやりとり 1

2022-04-22 13:55:49 | 日々思うこと 雑感

思春期、またプレ思春期という時期の子に、周囲が、「こうしてあげよう」「ああしてあげよう」とその子に心を砕いても、身構えて殻を固くするだけだったり、心そこにあらずでそれどころじゃなかったりしますよね。
投げた善意のボールが、思わぬ激しい拒絶として打ち返されるのは、めずしくありません。
 
私は、そんなうまくかみ合わずに終わった関わりを心の中に置いて、遠ざかったり、近づいたり、さまざまな方向から眺めてみたりする癖があります。

わたしの好きな言葉に「たった一つのシーンに実は多くのものが眠っている」というものがあります。映画やアニメにもなった『守り人』シリーズで有名な児童文学者の上橋菜穂子さんの言葉です。

それは、心理学者の河合隼雄先生の「人間の体験は面白い。体験を語ろうと思ったら、ほんちょっとの短い体験でも、ものすごく長くかかる」という言葉とともに、いつも心の片隅にあります。

どんなにつまらない、無駄だったという時間でも、実際にはたくさんのことを含んでいるものですから。

子どもの混乱や葛藤に、こちらまで引きずり込まれて、計画していた予定も、望んでいた成果も底から引っくり返って、何が何やらわからない無力な状態でそこに一緒にいただけだった、なんて時に限って、振り返るうちに、興味深いことや、未来につながっていきそうなことがたくさん眠っていたと気づき、確かに人間の体験は面白い、と実感しもするのです。
  
先日も親しい知人のお家にうかがった際にこんなことがありました。

そのお家には、スポーツと読書と工作が好きな小学校高学年のAくんという男の子がいます。Aくんの算数のつまずきを何とかすることと、Aくんの工作にゆったりと付き合うのが、今回の訪問の目的でした。

Aくんには発達の凹凸のあり、学校の先生とのぶつかりあいをきっかけに一年ほど不登校となっていました。が、最近、理解のある先生にあたって、学校に通う日も増えてきました。

とはいえ、授業中に好きな本を読んでいたり、掃除に参加しなかったりと、気ままに振る舞っているようでした。知人は、学校に通うようになったとはいえ、こんなに自分のしたいようにさせるばかりでいいのだろうかと気を揉んでいました。

とりあえず、学校での問題は先生にお任せし、授業に遅れないように家を出す(切り替えが悪いので、これだけでひと騒動です)、悪い言葉を使わないように家族のルールを徹底するなど、親としてできることを積み重ねておられました。

この日、知人が私を駅まで迎えにきている間に、思わぬことが起きました。

知人宅に着くと、Aくんがふらっと遊びに出たまま、いなくなっていたのです。
知人と私が、驚いたり、腹を立てたり、心配したり、どう対処すべきか悩んだりしていると、何時間もしてからAくんが戻ってきました。
勉強さえすればいいんだろう、という態度でした。

勉強中、さらなる問題が起きました。
Aくんはこのところ夢中になっている続きものの本があって、図書館の予約を入れるよう知人に頼んでいたのですが、わたしがその本を話題にして、「自分の頼み事はお母さんに強要するのに、自分はお母さんとの約束を簡単に破るのはダメだよ」と注意したのをきっかけに、勉強を放り出して、外へ飛び出して行ったのです。

図書カードも持っていないのに、予約した本を取り寄せることになっている数キロ先の図書館まで行っていたようです。Aくんいわく、「出て行ったのは、奈緒美先生が本の話をしたからで、悪いのは先生」とのことでした。
 
Aくんが二度にわたって出て行ってしまったり、自分のしたことで叱られそうになると周囲を攻撃し、望みを叶えさせるためには、強要したり脅したりしていたのは、悩ましい限りでした。

たいした役には立たなかったものの、知人の顔を見れてよかったと帰宅しました。

それから何日も、私はAくんとの間で起こったこと、知人から聞いたこと、Aくんとした工作などを思い返していました。

これまでAくんは、年に一、二度、工作と算数遊びのワークショップに参加してくれていました。その都度、自動販売機や、とても長いビー玉コースターなど、工夫を重ねて、動きのあるダイナミックな作品を夢中になって作る姿がありました。 

それが、今回の訪問中にAくんが作っていたのは、段ボールを剣の形に切って重ねてビニールテープで巻いて作った剣で、拍子抜けするほどシンプルな作品でした。

Aくんに作りかけの剣を借りたわたしは、剣道でもするように何度か振り下ろしてみました。ビュンッと爽快な手応えがありました。段ボールでできているとは思えないほどでした。そういえば「最強の剣を作っている」と言っていたのを思い出しました。

「これ振ると本物の手応えがあるね。これは何度も作り直して、改良しないと作れないね。本物の武具みたい!」そう言ってから、

「これで剣道の練習とかしたら面白いんじゃないかな? 剣道習わなくても、楽しく振って型が身につくんならいいんじゃない?」とたずねました。

前々から、いつも練習しているサッカー以外に、このスポーツも面白いな、やってみたいな、というものあればいい、と感じていたから出た一言でした。

運動神経のいいAくんには、「サッカー選手になりたい」という夢があり、毎日、たくさんの練習を自分に課しています。ただ、強豪チームに入り、勝つための訓練が本格的なものになるにつれ、より高い協調性を求められるようになり、思い通りにいかないことも増えてきました。

これから先、がんばったから必ず、選手になれるわけではないし、凹凸を持つAくんには、団体競技の中で協力しあって戦うあり方に、越えられない壁を感じる日が来るかもしれません。

もし挫折することがあっても、自分は体を動かすのが好きだよな、他にもやってみたいスポーツがあったよな、そんな気持ちを抱けるといい。勝ち負けなんて気にせず自分の得意な面を鍛えて、ワクワクする気持ちを味わってほしい。そう思っていたのです。

「まあ、いいね。」とAくんもまんざらでもない様子でした。Aくんがなぎなたの舞いを見たという話から、「フェンシングとか弓道みたいに、スポーツとして正しい型を身につけて練習するなら、危険な武器に見えるものも自分を鍛える道具になるよね」といった話をしました。

Aくんとスマホで剣道の打ち込み稽古の動画をチェックし、竹刀を打ち込む台を作ることにしました。段ボールを切って椅子にヒモで固定させてから、Aくんは未完成だった剣にビニールテープを巻く作業に戻り、わたしは打ち込み台にビニールテープを巻く作業を手伝うことになりました。

実際にビニールテープを巻いてみると、テープがゆるまないよう注意しながら、まっすぐ貼り付けて行くのは、考えていたよりずっと難しいことでした。何でもやってみないとわからないものです。

そこで改めてAくんが剣にビニールを巻いていく作業に注目しました。白いビニールテープを強くひいて、最大限に引っ張ったところで、その張りを保ちながら手慣れた様子で巻いていきました。本物の武具の取手部分に巻かれた紐のように一寸の隙もなく、思わずため息が出るほどきれいでした。

真っ白い剣で、Aくんは剣道の一人稽古を真似たり、日本刀やなぎなたを扱うように斜めに振りかぶったりしていました。

結局、完成した打ち込み台は、音が響きすぎるので室内で使うのはあきらめることとなり、剣道やなぎなたの型を練習するというアイデアは、Aくんの興味からこぼれ落ちていきました。

でも、「スポーツの世界での成功は、脇目も振らずに一つのスポーツで鍛錬し続ける先にある」といった考えとは異なる価値観に触れて何かしてみるのも、自分らしい考えを作っていく過程で大事なんじゃないかな、と感じました。

次回に続きます。


年少さん 学習の土台を作る遊び

2022-04-19 10:57:20 | 算数

4歳前後の子たちは、「数量概念の形成」を目的とした遊びが、とにかく大好きです。

将来の算数の力の土台となるパターンを自分の中にインプットしていこうとするような貪欲な遊び方です。

その年代の子のグループレッスンも、個人レッスンも、この「数量概念の形成」を促進させるような遊びが自然と生まれ、どんどん発展していく姿を見かけます。

そうした子どもの知能の成長を飛躍させる遊びが、いきいきと繰り広げられるようにするには、身近な大人が、「子どもがどのように数量概念の形成していくかを理解し、子どもの学習の妨害をするのをやめて、環境を整えていく」必要があります。

4歳前後の子たちのグループレッスンでは、お弁当を持ってピクニックに行く遊びの中で、自分から「氷を3個ずつコップに入れてジュースを作りますからね」と言って、ジュースを作っていたり、大小のサイズを比べる、配る、並べる、人数分用意する、バスの乗り降りと増減、水を移し変えて増減に気づいたりと、この年代の子たちがいかにそうした内容に関心が高いかわかる遊び方でした。

この時期に、こうした遊びに全く関心がない子には、いくつか理由が考えられます。

子どもが自由に同じような遊びをしていると、遊びに発展や学ぶことがないような気がして気持ちがせいてくる大人がいる場合

(お皿に、いろいろ乗せては楽しく遊んでいるよりも、かけ算が言えるようになることに価値を感じるような「結果を急ぐ大人」がそばにいると、遊びを、じっくりと時間をかけて展開していく姿が失われます。

そのため、考えなくなり、記憶に頼って反射的に何かしては、次の遊びを始めるという2歳前後の子の遊び方をし続ける子がよくいます。)

1~2歳半までに「探索してまわる」「いたずらを繰り返す」「たくさん歩く」「感覚を刺激する水遊び、砂遊び」などをあまりさせていない場合

(足りないと、どうしても次の年代に持ち越されるので、4,5歳の子が1,2歳児の遊びを強く求める姿をよく見ます)

できあがったおもちゃが多くて、算数遊びを展開する遊び道具が、教材教材しているか、少ない場合。

拡散思考が発達する前に、収束思考による考え方しかできないようなインプットをおこなう場合。

(幼児の遊びを見ていると、たくさんたくさんの拡散思考を自分の中から生み出していって、それを試したフィードバックから、微妙な正しさの違いを学んでいます。

この時期に、問いと答えがイコールで結ばれるようなインプットばかりしていると、自分で思いつくことや考えたことに自信を失い、大人から教わったことを丸暗記するようになるようです)

生活が慌しく、遊びを中断されがち。中断されることを繰り返すうちに、遊ぶこと自体がめんどくさくなっている場合。

自分で気づく前に大人が教えるので、自分で気づく喜びを味わったことがない場合。

親への愛着がきちんと形成されていない場合。

遊びなのに、遊び心がない場合。

(子どもだからといって、楽しい遊びを次々思いつけるわけではありません。身近な大人や年長の子のすることを見て、学ぶ必要があります。子どものお手本になる場合、楽しい気持ちがあふれてくるような遊び心が大事です)

子どもの世界に「できる」「できない」の評価が入っている場合。

(上手ね、すごいね、と褒めるのだって、大人が出来不出来の結果を気にしつつ褒めていると、子どもから純粋な楽しみやミスを気にせずに何にでもチャレンジしようという気持ちを奪います。幼児期に、もりもりプリントを進めるようなやる気につながっても、小3くらいからの無気力の原因となりやすいようです。

子どもが「できる」「できない」を意識しはじめると、想像力や創造性が阻害されて、遊びから知能を促進するような面が失われていきます。
子どもは、せめて遊びの世界では評価されることを避けようとして、幼稚な遊び方にこだわるのをよく見かけます。

「できる」「できない」への気づきは、子どもの中で無理のない形で自然に生まれてきますが、周囲は小学校に入るまで、子どもの世界に評価したり比べたりする「物差し」を入れない覚悟が必要です。)


変な例えですが、これからさまざまなシステムを構築していって、新しい製品を生み出していこうとしている工場があるとします。

まず、いろんな機械を作りだし、動かしてみて、チェックしていくべきところを、工場内の機械の電源は切ってしまって、できあがった商品をたくさん工場内に持ち込んでは、従業員総出で、他社の商品を使用してみることばかりしていたらどうなるでしょう?

テレビを作ってる工場なら、部品を作る前から、テレビ番組は楽しめるし、従業員は、試行錯誤して壁にぶつかることなく、忙しく「何か」をしているわけで、効率的に見えなくもない……でも、工場の機械は少しも作動していないのです。
数年後に何かが、生み出されてくるのでしょうか?

子どもにしても、大人がいくら外部の知識を与えても、自分の頭と身体を使わせていかないと、この変な工場のたとえと同じように、がんばってもがんばっても、(与える側も使う側も)何だかうまくいかないな~ということになっていくのではないでしょうか?

 

4歳前後の子のままごとは真剣そのもの。

「3分待ってくださいね」「180度にセットして~焼きますからね」
時間や温度を取り入れて、リアルにするととても喜びます。
といっても、本当の意味で理解するのはまだ先のことでしょう。

市販のままごとセットにオーブンもあるでしょうが、「それらしく」見立てて遊ぶ方が喜ぶ上に、見立てるついでにさまざまな知的な要素を加えて楽しめます。

イスなどの隙間から、皿と食べ物を入れて、スイッチを入れてから、お皿をぐるぐるまわします。(電子レンジやオーブンらしくなりますね)写真では布をかけて、演出しています。(何かと布をかけたがる……この時期の子たちです)

4歳前後の子たちの前で、この黒い布を広げて、
「洞窟探検に行く人~?」
「宇宙旅行に行く子~?」
「夜の世界に行ってお化けを見てくる子~?」
などと、その都度適当な提案をすると、
「はい」「はい」と真剣な表情で手が挙がります。

懐中電灯を持って布の中にもぐったあとで、
「どうだった?」とたずねると、

「面白かった」「もう一回行きたい」という返事。
 
消防隊が大好きな★くんが、火災現場で放水しているところです。
「カンカン鳴らすのがいる」と言うので、天井からアルミの穴の空いたボウルを吊ってあげながら、
「どのくらいの高さに吊らすの?」とたずねました。
「これくらい」と、自分の肩あたりの高さを指して、「いや、もうちょっと下かな?もうちょっとだけ。」と答えます。
「ぼくが座るでしょ。カンカンするとき、ほらっ、この高さがいいんだ」と言います。
4歳くらいの子は、自分の背の高さや身体の位置から、長さや高さについて考えるようです。

「ぼくは消防士さんだから、前の席で、プーさんは後ろだよ」
「3丁目行ってきます!火事は11階です。」
「4丁目行ってきます!火事は、146階です!!」
と、位置や数字を取り入れた、遊びが楽しくてたまらない様子です。

この後、消防士さんは、火災現場から、ぬいぐるみたちを救い出し、無事消防署に帰りました。
とたんに「う~う~泥棒です!5丁目に泥棒です」とパトカーになって出かけ、悪そうな顔をしたクロネコのぬいぐるみを捕まえて、牢屋に閉じ込めていました。

怖いもの知らずで聞き分けのない2歳児。強く叱った方がいい?

2022-04-16 20:00:00 | 子育て しつけ

怖いものしらずで、聞き分けのない2歳3カ月の☆ちゃん。

そうした相談をママ友や祖父母にしたところ、

「まだ2歳だから言うことを聞かないのは当たり前。いちいち怒る必要はない」というアドバイスと、

「昔のように怖い人がいないから、大人の言うことを聞く気がない。もっと大きな声で厳しく叱った方がいい」

という正反対のアドバイスを受けて、どう接したらいいのかわからなくなったそうです。

 

叱られても知らんふりするか、笑い声をあげるかして、悪さを続ける☆ちゃんに対して、怖がらせるほど強く叱った方がいいのか、危ないことをしたときには体罰を加える必要もあるのか、まだわからないのだから、抱きしめて気をそらしてやればいいのか、迷っていたのです。

 

そんな相談をうかがいながら、わたしは☆ちゃんと☆ちゃんのお母さんと連れだって公園に遊びにいきました。

そうしていっしょに過ごすうちに、☆ちゃんのお母さんが叱り方に悩んでいる理由がよくわかりました。

というのも☆ちゃんは、道路で車が通りかかったとたん、突然、手を振り払って車の方に走っていこうとしたり、他所の家の郵便受けを開けることとか、汚いゴミを触ることとか、どうしてもやめさせなければいけないことばかりしたがる上、それにしつこく固執するところがあったのです。

抱いて連れて行こうとすると、反り返って激しく抵抗します。

アスレチック付きの滑り台にのぼっていく際、小学生のお兄ちゃんたちが滑り台の前のスペースでカードゲームをして遊んでいたのですが、ひるむことなくお兄ちゃんたちの輪のなかを横断すると、滑り台に上についている鉄棒にぶらさがりました。

その後、滑り台をいきおいよく滑ってきて、何度もそれを繰り返しました。

 

言葉でだけ説明すると、

「2歳児はまだものがわかっていないから、そんなの当たり前」

と言えばおしまいなのですが、どうも☆ちゃんには一般的な2歳児とは微妙な点で異なる面があって、☆ちゃんのお母さんを悩ませていることがわかりました。

それは「危険に対する警戒心のなさ」「危険そうなものに惹かれてこだわる傾向」といったものです。

 

「危ない、ダメ!」と強い口調でストップをかけたにも関わらず、子どもが突然、走っている自転車に近づこうとしてヒヤッとする……といった出来事が重なると、大人が大きな声で「ダメ!危ない!」と注意したら、ストップできるようにだけはさせておかなくちゃ、怖いものがないから言うことを聞かないのだから普段からこの人は怒ると怖いよっとわからせておかなくちゃ、と思うようになる気持ちはわかります。

また、☆ちゃんのように、わざわざ触って欲しくないものにばかりこだわったり、他人に迷惑をかけることをしつこくやりたがったりする場合、「怖がらせておかなくちゃ」という気持ちがだんだんエスカレートして、2歳児相手に一日中、怒り続ける行為にもつながりがちです。

 

☆ちゃんのようなタイプの子にはどのように接するのがいいのでしょうか?

☆ちゃんを見るうちに、叱ったり、怖がらせたりするより、先にするべきことがあるように感じました。

わたしが気になっていたのは、☆ちゃんのお母さんを求める気持ちの薄さです。

 

☆ちゃんは誰にでもすぐ甘えて人懐っこい半面、お母さんと他の人のちがいがわかっていないようにも見えました。

そのためか、転んだり、軽いけがをするような場面で、泣いてお母さんに甘えるのではなく、一瞬、泣き顔になって、放心したように突っ立っていたかと思うと、たちまちケロリとして動きだすことがたびたびありました。

痛みや不快な体験に対する鈍感さのようなものも感じました。

暗い部屋にひとりでスーッと入っていって遊んでいたり、ちょっとこれは危なそうだぞ、という人や場所にも躊躇せずに近づいたりする姿も目立ちました。

 

わたしには、☆ちゃんの問題は、厳しく叱る大人がいないため怖い物がなくて危険なことをするというより、人見知りをする時期の子が他人に見せる警戒心のようなものの足りなさや、「怖い」とか「不安」といった感情に対する鈍感さにあるように感じました。

そこで、☆ちゃんのお母さんに、☆ちゃんが、「お母さんじゃなきゃだめ。お母さんが一番好き」と感じるくらいたくさんスキンシップを取って、☆ちゃんにかかわるように勧めました。

 

また、日常の小さな体験を☆ちゃんの目線でいっしょに味わいながら、「そうっとそうっとね」とか「痛い痛い」「怖い怖い」など、感情を言葉やジェスチャーで表すようにもしました。

身体が固くて、背中を触られても気づかないような鈍感さが気になったので、ごろごろ転がったり、ピョンピョン飛んだりする遊ぶなど、感覚を統合する遊びを増やすことも提案しました。

 

それから2週間後、わたしを見るとすぐにだっこをせがんでいた☆ちゃんが、少し固い表情でわたしを見上げました。

そして、お母さんには何度も笑いかけながら、抱きついていきました。

 

そんな風に、お母さんが一番、他所の人はちょっぴり怖い……という人見知りに近い態度が出てくると、気になっていた鈍感さが、目に見えて減っていました。

まるで耳が聞こえないかのように振舞うことも多かったのに、呼ぶとパッと振り向いたり、「それ、ちょうだい」と指さして指示すると、ちゃんと指さしている先のおもちゃを取って渡してくれるようにもなりました。

「怖いね、怖いね」とか「どうしよう、どうしよう」など、感情をいっしょに味わうのも上手になって、おそるおそる覗きこんだり、怖がる真似をしてキャッキャッと笑い声をあげるようになってきました。

 

そんな風に、いろんな感情を感じとりやすくなってくると、危険なものに出会うと、ちょっと振り向いて、お母さんの表情をうかがうようになってきます。

そうした☆ちゃんの変化を見て、愛着の薄さが感じられるときに、叱って怖がらせて、さらに愛着がつきにくい状態にしなくてよかったとしみじみ感じました。

 

強く叱るべきかどうか迷ったときには、まず子どもの様子をていねいに観察してから、接し方を決めるといいですね。


今の時代を生きるということをめぐって (わが子とおしゃべり)3

2022-04-14 16:46:37 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

息子 「お母さんがさ、表面的には似通っているし、見栄えとしたらその方が立派なのに、こういう体験は子どもに与えたくないって言うものについて聞いていると、シンプルに言いなおすと、親から子へ、大人から子どもたちへとも言えるけど、商業的な色づけをされたものを、あまり与えたくないってことなんじゃない?

マニュアル化されて、個人に向けたような格好を取りながら、集団に向けた画一的な価値観に色付けされた体験を与えたくないんだよね。

ぼくも、お母さんと近い気持ちで、子どもに向けて、個人に対する手紙のように体験が与えられるのがいいと思っているよ。

まるで社会に対して言いわけでもするように、子育てを完璧にする自分という像を作るために子どもを教育し、体験を与える親を見かけるし、そういう人は、言葉にしても、子どもに向けて言いながら実は子どもに向けて言っているのではないって感じだ。

そういう機械みたいな親のもとだと、子どもは孤独だよね」


私  「社会に対して言いわけでもするように……本当ね」


息子 「今の時代、ネットでも、テレビでも、本でも、情報に触れることはいくらでもできるのに、そうした物といくら対話しても、人間はそれだけでは満足できなくて、一人でいると、孤独になるよね。
そうした情報媒体は、やっぱり人間には勝てないから。
人間がそうしたものとどう違うのかというと、その人個人に宛てた体験させる目的で、伝えられるものがあると思うんだ。
人は人から自分独自で調理することができる個人的な体験を受け取るんだと思うよ」

私  「そういえば、お母さんの子ども時代の親も周囲の大人も、けっして今の時代の人より立派だったわけでも、子どもについてわかっていたわけでもないけど、自分らしい体験をすることを許してくれていて、ありがたいと思っていることがいくつもあるわ。

たとえば、読書ね。今みたいに、読書に子どもの学力を上げるための救世主のような役割が与えられていなかった時代で、どの本がどの年代の子にどんな成長をもたらすかなんてこともごく一部の専門家以外、考えもよらなかったから、本当に自由に、好きな物を読んでいたわ。

余計な干渉がないだけでなく、“この本を読む子の方がこの本を読む子よりもレベルが上”みたいな情報も入ってこないから、児童文学が気に入ったら、何年間も同じようなものを読み続けたり、6年生くらいになってから、急に幼児の頃に読んだリンドグレーンの本や世界の童話が読み返したくなって、大きな活字の本を何冊も読んでいたりしたわ。

もちろん、大人が全く関わらなかったわけではなくて、図書館司書の児童文学が大好きな方が親身になって読む本を選ぶのを手伝ってくれたりして、そのおかげで、ファンタジー一辺倒だった読書が、現代の社会問題を扱ったものに広がったこともあったの。

でも幸福だったと思うのは、本当は本好きでも、読書から多くを学んだ経験があるわけでもない人から、こんな本を読みなさいと勧められたり、読む本について干渉されたりしないで済んだことね。

おかげで、どの時期の読書も、私にとって本当に個人的なかけがえのない体験になったから。

大人になって振り返ると、たとえば、6年生の頃に活字の大きな本を読み返しはじめたことにしても、理由として、アイザック・シンガーの描く童話や星の王子様の童話のなんかから、ようやく作者の哲学的な思考や味わいを読み取れるようになってきたからでもあったのよ。

それを活字の大きさの変化や文学としての知名度だけで、子どもの読書のレベルを測るような大人に干渉されないで済んだことは、いくつになっても本への愛情を失わない原因にもなっていると思うわ。

今はね、子どもに、そんな風に純粋に個人的な体験を与えてあげることが難しいわ。外野がうるさすぎるから。
個人的な体験にどんな意味があるのかというと、今の自分の思考と幸福観を形作っていることね。

ただ他人の格付けした“良いもの”を消化していくだけでは、たとえ、読書が最高の学歴を授けてくれる助けになったところで、それが自分にとって個人的な体験でない限り、将来の自分自身の思考と幸福感につながるかというと、怪しいものね」


息子  「そういえば、お母さんが子どもたちにやらせている科学工作なんかも、あれって相手が自分自身の体験をするための場を提供していると言えるよね。

お母さんの工作は、それぞれの子どもに向けた手紙だよね。
お母さんの教える工作は、工作作品としても、工作技術としても、そこでの作品化を目指したものではないから。

今は学校でする運動会ですら、親たちの目を楽しませるための作品に仕上げられていて、本当の意味で、子どもたちの個人的な体験ではなくなっているよ。

事前に計画されすぎて、決まった価値が与えられすぎて、もうそこで、子どもが純粋に、かつての子どもたちが運動会でしたような体験をすることができないんだ。

前にさ、大阪の子への教育で、授業で携帯のゲーム機を活用したり、学校内に塾の講師を呼んだりして、子どもたちへの勉強を強化させる一方で、ごほうびの意味で、ユニバーサルスタジオの連れて行こうなんて教育案が出ていたじゃん。

あれに対する違和感というのは、勉強を耐えねばならない辛いものと想定して、子ども時代を通じて継続的に与えられる唯一の辛さであるかのように設定して、次には、遊園地のような受動的な楽しみを対局においてさ。

そうして、子どもにあるのは、たった一種類の辛さと、たった一種類の楽しさであるかのように錯覚させるところにあるんじゃないかな。

それは辛さというのを、1本だけの細い数直線上の乗せて捉えたために起こる錯覚だと思うよ。

だって、辛さといっても、人はかならず、それを嫌悪するわけじゃない。

世の中には我慢大会なんてものがある通り、お腹が減る辛さとか、けんかする辛さとか、スポーツで我慢する辛さとか、孤独の辛さとか、多種類の辛さを認めると、それにぶつかって、耐えきることも、自分から求めていくもののひとつでもあるよ。

それが大人から与えられたたつた一種類の辛さとたった一種類の楽しさだけしかないとしたら、その辛さは本当に逃げ出したいくらい苦しいものになると思うよ。
子ども時代が、プラス方向とマイナス方向へのどちらかに向けてのぶれでしかなかったら、遊園地のようなところで遊んでいる最中も、その矢印が逆戻りする瞬間と、楽しみ自体に飽きて、全てがマイナス方向の流れに変わるときを予感して、辛い憂鬱な気持ちになるだろうな」

息子 「さっき言った料理を作るときに、よりおいしいもの、いいものを作ろうとしてしまうことが、良いことだけでなく、近代人の問題にもなってしまうのってさ。

鑑賞する対象として、よりよくあることを目指した結果、受け取る側の体験が、その他大勢に向けられた受動的なものになりがちだってことだよね。
自分の体験にはならない。

今はテレビゲームも壮大な映画のような鑑賞の対象で、ぼくが小さい頃、遊んでいたピンボールのゲームみたいに、最初は純粋に玉が転がってくのが面白いってとろこから入っていって、自分の感受性を使って楽しさを広げていくような体験自体を味わえるものではなくなっているんだ。

ぼくが作りだしたいと思っているのは、作品として数値で評価されるものではなくて、誰かに宛てて、ワクワクする体験を提供する場になるものなんだ。
頭のいい人にはわかって、そうでない人にはわからなくてとか、映像やシナリオを数値化して他と比べて良いものを目指すのでなく、こんなことがしてみたかったんや!って感情が揺さぶられるようなものが作りたいんだよ」

私  「きっと、いいものができるわよ。いつも、作品作りのことを考えているんだから」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
美術館に出かける準備をしていたら、息子が勉強道具を抱えてクーラーの効く部屋に移動しながら、「大学への数学、年間購読するのに、かなりかかったけど、かかった投資以上の収穫だよ」と笑顔で言いました。

「今日も、新井紀子先生の対話を読んで、ラングの『解析入門』に載っていた問題を全部解いてみました、って話題があって、そんな風に、没頭するように勉強してみたいなって思ってさ。
受験での成功に凝り固まった勉強をしないことでさ、せめて、心の中はね。
大学に入ってから、遊びたいなんて気は少しも起こらなくなるよ。
こんな風に勉強したい」

そう言いながら、大学への数学の新井紀子先生の対談の記事をひらいて見せました。

私  「面白そうね」

息子 「数学って、より複雑で難しいものを目指している学問じゃなくて、複雑で難しい現実社会をいかに単純にするかを目的にしているものだと思うよ。
数学を使って、今の世界をよりシンプルにメタな視点から眺めていくと、いろいろな物事がだんだん易しくなっていくよ」


今の時代を生きるということをめぐって (わが子とおしゃべり)2

2022-04-12 16:03:19 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

数日前、
「現代の子どもたちの体験が、事前に何を得て、何を感じるべきか定められているような体験が増えていること。
習い事にしても、エンターテイメントの場にしても、1つのレールを走る列車に子どもを乗せてしまうような体験になっていて、その子は、その線路の方角にしか進めないし、そこで得られる価値は、どれだけの距離をどれだけの時間で移動できるかって価値に限定されてしまう」
ということについて、夕食時に話題になりました。

その時、私は、言葉にしたいことがあるものの、うまく言い表せなくて、何とか伝えようと、尻つぼみの意見を言いかけて、そのままになっていました。

すると、昨日、食後にのんびりipodタッチをいじっていた息子が、画面から顔を上げて、次のようなことを言いました。


「この間、お母さんが言ってた子どもを1本のレール上を進ませるような体験が増えているって話だけどさ。

現国の勉強しながら考えていたんだ。

子どもにそうしたすでに価値の体系が決まった体験を与えて、合理的に、ひとつの数直線上に乗せて育てていくことの弊害って何だろうって。

それで思ったんだけど、視点が数直線上の一点だけに限られるために、すべてを知った気になって、無知の知を経験することができなくなるんじゃないかな」


私  「確かに、そうよね」


息子 「世界そのものが、細い線内に狭まれば、知りようのない自分の未来や、自分を取り囲んでいる世界の何から何まで、把握できているような錯覚に陥るよね。

知ることは良いことばかりのように思われているけれど、知るということには、うれしさや楽しさと表裏一体で、毎回、悲しさやつらさというようなものも付きまとうものだと思うよ。

現国で読む問題で、近代人の抱える問題点についてよく取り上げられているけれど、そうした文を読むと、共感できるところもあるけど、ちょっと違うと感じるときもある。

ぼくが思う近代人の問題っていうのは、料理を作るときに、よりおいしいもの、いいものを作ろうとしてしまうってことだと思う」

私  「そうそう。まるで物事の価値を決める一本の数直線が存在しているという共通認識があるみたいよね。格付け可能な」

息子 「ほら、絵を描くときの楽しさは、ある意味で、どんな人にも無限の可能性が開かれているところがあるよね。

一番、最初に描き始めるときに、誰もが下手くそな状態からスタートするという点で。

それが、写真だと、もちろんそれも上手い下手の基準があって、最初は下手であることに変わりないけれど、初心者にも完成された風景をそのままの状態で撮れるという点で、体験の質がちがうと思うんだ。

ほら、もし、人間がみんな最初から写真を撮るように上手に絵が描けてしまったとしたら、誰もかれもが、写実的な写真のような絵を描けたとしたら、絵そのものって何なの?って疑問にもぶつかると思うんだ。

これは、前にお母さんが、合理的で体系化されたレッスンのシステムに乗りながら、幼稚園や小学校低学年のうちに、ある程度、上手にピアノが弾けるようになっている子が、あまりにそのシステムでの進歩状況にとらわれるあまり、その子個人としての音楽の楽しさや音楽から得る喜びで出会うことができるのかって、気にしていたことがあるよね。それに近いのかもしれない。

写実的に写真のように絵を描く能力を、最初から人が装備していたとしたら、それは同時に、今の絵の世界にある多様性や豊かさを生み出せたのか疑問だよね」


息子が絵について話すのを聞いて、ちょうどその日の年中さんたちのレッスンであった出来事を思い出しました。



私は息子に向かって、こんな風に話しました。

「教室にね。今日、レッスンに来ていた子だけど、幼稚園で絵が上手だとか下手だとかいう評価に触れて、ぼくは絵が下手くそだからかかないと言い張るようになった男の子が来ていたの。

その子は頭の良いしっかりした子なんだけど、それだけに、そうした他の子と自分の違いに敏感になっていて、何度もやりたがることと、絶対やらないって言い張ることの差が大きくなっていたのよ。

女の子たちが、てつぼう人形を作るんだといって絵を描きはじめたとき、その子は、緊張した様子で、ぼくは描かないよ。ぼくは絵が下手だもん。ぼくは嫌だからねって繰り返していたわ。

この男の子は、その日、家から戦隊物のおもちゃを持ってきていてね、女の子たちが、そんなのこわーい、って口ぐちに言うのを聞いて、ぼくは怖くないから、ぼくはね、おばけだって怖くないんだから、こんなのちーっとも怖くないんだよ、と言って得意そうだったの。

それで、私は、絵を描かないか誘うときに、■くん(その子)は勇気があるよね。
怖ーいものも、怖くないんだもの。おばけがてつぼうするの作らない?怖ーいやつ!
と言ったの。
すると、その子は、照れ笑いを浮かべながら、へぇ、みんなおばけが怖いんだ、ぼくは怖くないよ、と言いながら、画用紙に、一つ目のおばけを描いたの。

女の子たちが、おっかなびっくり覗き込むのに気を良くして、あと3つ目玉を描き加えて得意そうだったわ。
確かに出来栄えとしたら、筆圧が弱くてくにゃくにゃした絵ではあったけど、上手か下手かという一直線上の価値評価ではなく、怖さとかそんな絵が描ける勇気というか、独自の価値観が生まれたことで、その子はとても満足そうに自分の作品を眺めていたのよ。
自分の絵が下手だとも、もう絵を描きたくないとも言わなかったわ」


息子 「そうして、差別化すると、まったく別の視点から切り込んだ価値が与えられるよね。
お母さんは、子どもたちが、一本のレール上の決められた価値観の上を生き急ぐように育てられていくのを気にしているよね。

その問題について、子育てをしている人たちに懸命に伝えようともしている。

でも、それが一向に伝わらなかったり、伝わったとしてもごく一部だけ良いとこ取りした形でしか、受け入れてもらえない理由は、そうした数直線上の価値を1つに絞った育て方が、子どもの感情面を無視して考えれば合理的に成功しているからでもあるんだよね。

社会的に評価される結果を、いかに素早くたくさん子どもに与えるかが、子育ての唯一の意味だとしたら、親の存在は機械に取って変わられるのかもしれない。

親の存在が、子どもの成長促進マシーンのようなものだったら、人間は機械に育てられると、やっぱり上手くいかないんじゃないかな?

そこで、何が問題になってくるのかというと、子どもの孤独さなんじゃないかな?

子どものためと言いながら、時間ですら物のように換算して、4歳の時、子どもにこれこれこういうことをこんだけさせたら、20歳になったら、これだけの時間がかかるものがマスターできて、子どものためにたくさんの時間やすばらしい選択枝をプレゼントをしてあげることができる、なんて言う親は、機械となんら変わらなくて、言葉で何度、愛情を表現しても、そこに人間らしい愛情は感じられないよ。

子どもの側から、どんな親に育てられたいのかと考えると、親の愛情なんてわざとらしいものじゃなくて、子どもを相手にするとき、子ども自身を見て、自分自身を正直に出して人間味を感じさせてくれる親がいいんだって思う」


次回に続きます。


今の時代を生きるということをめぐって (わが子とおしゃべり)1

2022-04-11 13:59:00 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

当時、高校生だった息子と交わした懐かしい会話です。

(イラストは息子が学校の美術の授業で描いてきた絵です)

ブログやツイッターが盛んな今、好きな芸術家や学者の素顔や普段の生活に触れることができる一方で、「あれれ?」「うーん……」と困惑してしまうような失言や行動を目にすることも多くなってきました。

人間なんだし、完全完璧であるはずないし……と思いつつも、それをいっせいに攻撃する匿名の人々が、ネット内には、うようよいますし、誰かのファンとして心穏やかに、純粋なあこがれだけを抱いていくことは難しい時代のように感じます。

そんなことを息子と話しているとき、普段は、
「ぼくは作品重視だよ。ゴシップや失言と作品の価値とで、はっきり線引きしているんだ。作品や考え方のクオリティーしか見ない」
と言っていた息子が、慎重に言葉を選びながらこんなことを言いました。


息子  「作品以外のネタで、作品そのものの価値をゆがんだ先入観で眺める態度は嫌いなんだけど、尊敬している作者や学者のツイッター上での発言を見ると、どんなに完璧で論理的な考えを構築することができる人も……というか、そんな風に言葉の世界で表現できるものの完成度が高い人ほど、日常のさりげない営みに含まれているものとか、感情とかいったものを、軽視しているように感じられるよ。
みんながみんなってわけじゃないけどね。

学問の世界にどっぷり浸っていると、自分の追及している学問の奥深さに惹かれすぎて、対象であるそのものが人生より上だって思いこんでしまうのかもしれない。
それで成功している人はいるし、そう考えることが、悪いとは言いきれないけど。
クリエイターじゃなくても、社会的に成功している人にも同じようなことが言えると思うんだ」

私   「同じようなことって?」

息子  「成功は、すばらしいことではあるけど、人の人生に組み込まれている一部でしかないからさ。

ものすごく成功した人がいたところで、その成功という取りだした部分について言えば、誰からも注目されず平凡で無価値だと評価されるような生き方をしている人であっても、人の方が上だと思うんだ。

成功という対象と、人間という神秘的でどんな潜在的なものが隠れているかもわからないものとを比べれば、
成功がどんなにすごいものであっても、人がどんなにつまらない人に見えても、人が上ってことだよ。

学問にしても、作品にしても、成功した実績にしても、生きている人には、絶対、勝てないと思うよ。
どんなに感動する物語も、その人の生まれてから死ぬまでの軌跡には勝てない。

完璧な理論が発表されて、その内容が最高の出来栄えだったところで、その文章の上には、不完全さを持っている人間がいるよね。

論文の作者が、自分の関わっている世界にどれほど惹かれるあまり目の前にいる人間を軽んじてしまうって、本当によく見かけることだし、何かを突き詰めてくことにつきものなのかもしれないけど、そうすると生きている実感が薄れていくように思う。

ぼくは、その自分の関わる世界をとことんまで追及したいけど、同時に、人間らしい暮らしや感情を大切にしたいな。

完璧さを競うより、人間らしいファジーさとか、タイミングといったものが重要だと思うんだ」

私  「幼い子の世界からも、そうした人間らしいファジーさや、タイミングの大切さが奪われている気がして、何だかもやもやといやな気分になるときがあるわ。

子どもに習い事をさせるのも、小学生や中学生に受験させるのも、塾に行かせるのも、もちろん各家庭の自由で、それに対して、反対というわけではないんだけど……。

でも、現実にそうしたすでに出来上がっている価値の体系に巻き込まれて、子どもそのものから、未知のまだだれにも気付かれていない道を発見してやろう、自分の夢をつかみ取ってやろう、自分のしたいことを創り出してやろうという伸び伸びとした自由な感じが失われているのを見ると、こちらが窒息するような窮屈さを感じるときがあるの」


息子  「うーん。そうだな。テレビやネットの情報のせいかもしれないけど、する前からそれをすることによって何が得られるかとか、どんな気分を味わえるのかが決まっているような感じがあって窮屈だったりするよね。

幼い子たちがピアノと出会うにしても、ゼロの状態で鍵盤に触れて、あっきれいな音がする、とか、何べんも触ってみたいと感じたり、楽しい気分になったり、やっているうちにこれは自分に合いそうだと選ぶとかいう自分の中から湧いてくる思いのタイミングと、目標や夢を設定するタイミングがぴったり合うってことが少ないだろうね。

ピアノなら、最初から先の目的が大人の手で決定づけられていて、上手になるとか楽しむというすでに示されている目的をなぞりながら、楽しいって気持ちまで、予定通りの反応になってるよね。

そうなると、一見、能動的に見える活動も、テレビを見たり、ゲームをしたりするような受動的な活動とあまり変わりがなくなってくる気がするな」

 

息子  「実体験の大切さを耳にするけど、あらかじめ何を得るかも、どう感じるべきかも決まっている実体験って、どうなんだろう。

そいうものが増えているし、そういうものしか求められなくなりつつもある。
でも、それって、せっかく人生の一場面として素のままで体感できるはずだったものを、疑似体験に変えてしまわないのかな?

生きているのって、何かやって、発見することの連続だ。自分でそれを発見すれば、自分らしさが残るよね。
生きている実感って、その場その場に、そうして自分の存在を残していくことで感じるものだよ。

すでにわかっている……一定の結果を出すように求められ続ける時間が、大人の手によって人生とすり替えられているとしたら、むごいよね」


私  「そうよね。もちろん、そういう体験の全てが悪いって思うわけじゃないけど。
でも、子どものする体験が、親がカタログショッピングでもするように購入した○○コースの一過程ばかりだと……
それこそ、四六時中、そんな体験を梯子して過ごしている子もいるわけだけど……

さっき★(息子)が言ったように、そこから何を得て何を感じるべきか事前に決められているものを、ひたすら体験していく子が、そこで楽しそうにすることも、義務のようにやってみせつつ、ワクワクも好奇心も、ゆっくり自分の内面であたためていこうとせずに、その場その場で消費していく様を見ると、つらいのよ。

どの方向にも歩けるし、どんな歩き方もできるし、どんな利用の仕方もできた土地があったとして、そこに線路ができて、いったん子どもを列車に乗せてしまうと、もうその子は、その線路の方角にしか進めないし、そこで得られる価値は、どれだけの距離をどれだけの時間で移動できるかって価値に限定されてしまうわよね。

もちろん、ただ自由だけを与えたらいいと思っているわけじゃないわ。
でも、昔、大人が、お祭りやら、花火大会やら、夏休みの宿題帳なんかで、子どもに提供していた体験と、今の体験は、同じタイトルがついていても、どこか質が異なるように感じるのよ。
それは遊園地のアトラクションを、事前に情報に目を通して体験するようになった頃から変わってきたのかな?

未知の何が生まれてくるのか想像もつかないような日々の中にどっぷり放り込まれていく感覚とはずいぶん違うわね。」


そういえば、数日前も、これと似た会話をしたばかりでした。

息子  「文章にしても、映画にしても、ゲーム制作にしにても、音楽にしても、もうすでに良い手は出尽くされた感があって、まずはその先人の道を辿って訓練することが筋だとわかっていても、どこかで本気になれないな。

今のぼくたちの世代は、物心ついたときから、できあがってしまっている世界に触れ過ぎて、もう全く新しいものなんて生まれようがないんじゃないか、創造しようがないんじゃないかという冷めた気持ちを持っちゃいがちだな」

私   「全部、手は出尽くした!もうここで頭打ち! って時代の空気があるものね。でも、もう無理!限界!って時こそ、それまでと想像できなかったような新しい価値体系が生まれるんじゃないかしら。
★が前に言ってたでしょう? ネットの世界も、ネットだけっていう従来の遊びから、ネットを介しつつ、同時にリアルな体感を伴う遊びや新しいスタイルの人間関係を作るような遊びが増えてくるんじゃないかって」

息子  「そうだよ。ぼくも、すでに良いものは作られ尽くしているから、他の人の二番煎じじゃ嫌だ、もう新しいものは生まれそうにないからしらけてしまうって、ぼやいている年齢ではないんだよな。

それなら、自分は何ができるのか、創造的にそれを解決するにはどうすればいいのか、自分で考えることが求められる年になったんだよな~。
ぼやいてるだけじゃだめだな。やっぱ。
考えてるんだけどね、いつも。まぁ、がんばるよ」

次回に続きます。


作るものが変化すると、考える力も変化してくる

2022-04-09 07:44:34 | 子どもたちの発見

工作が大好きな小1のAくん。

これまでは、車や駅などを見える通りに仕上げたいという作り方だったのに、急に、着眼点が変わってきました。

今回は、教室にある二進法のおもちゃを作りたがって、「レバーを右にやったり左にやったりすると、ビー玉がこっちの道にいったり、あっちの道に行ったりするようにしたい」と言っていました。

Aくんが、こうしたからくり部分の働きに注目して作りたがるのはめずらしかったので、

「こういう風に、作る時の着眼点が変わるとき、考える力がとても伸びる子が多いんですよ」

と、お母さんにお伝えすると、

「そうなんです。家でも作るものが変わってきて、しかけのある工作を作りたがるようになってきたんですが、確かに、急に考える力が伸びてきた気がします。実際のお金を少し扱わせるようにすると、おつりの計算までパパッとするようになりました」

という返事をいただきました。

 

Aくんはいつもお家で作ったものを持ってきてくれます。

前まではイラストを中心にした平面作品が多かったのに、今回は、白い紙を使ってゴミ収集車、バス、自動車などの立体作品でした。

 

Aくんはいつも1年生のAくん、Bくん、Cくんと3人でグループレッスンをしています。

今回はCくんがお休みで、代わりに1年生の女の子のDちゃんがひとり参加しています。

 

算数のレッスンでは、電卓を使って平均値を出す遊びや、カビゴンの体重はピチューの体重の何倍にあたるかをわり算で求める問題などをして遊びました。

 

電卓遊びのひとつ。

さんいちがさん、さんにがろく……と唱えながらブロックを3つずつおいていってから、18こ置いたところで、こんな問題を出しました。

「18このお菓子があります。3人で同じ数ずつわけます。ひとりいくつずつになりますか?」

お友だちふたりはブロックを分けて、「6ずつかな?」と答え、Aくんは電卓で「18÷3」と計算しました。

「あってる!6になった!」と感動。

電卓で出した値が、考えた答え通りになるとうれしいものです。

 

Bくん作、恐竜カード。

 

海賊に夢中のAくんは、地図を見ていろいろな想像を膨らませるのが大好きです。

今回の工作では、忍者屋敷の落とし穴を作っていました。

 

Dちゃんが作っているのはハローウィンの世界。

ハローウィンの世界を作っているところです。

Dちゃんも平面から自在に立体に変化させる工作(最初の作品は水筒でした)を作るようになってから、急に思考力がついてきました。