虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

「遊園地」より「原っぱ」

2022-08-06 09:57:38 | 日々思うこと 雑感

『おせっかい教育(鷲田清一・釈徹宗・内田樹・平松邦夫 著/株式会社140B)』で、「遊園地」ではなく「原っぱ」的な遊びを……という提案があり、「現代の子どもたちのメタ認知力や地頭力が下がっているのは、これが原因だなぁ」と感じました。

同じ遊び場でも、遊園地というのは、そこに行ったら何をするかというメニューがすでにあって、その中でどれを選ぶか、どんな順番でやるかという場所です。

今の大学・学校もカリキュラムがあって、大学の授業は「勉強する遊園地」となっているそうです。

鷲田清一氏が、この著書の中で次のようにおっしゃっています。

「ぺんぺん草が生えて空き缶が転がっているだけという原っぱに、学校にも家にも居づらい子が、一人で来て空き缶を蹴ったりしていると、よそから同じような子がやって来て、お互いに意識しあう……。でも遊び道具もない、野球もできない。そんなときにちょっと空き缶をそいつの方向けて転がすと、向こうも手持ち無沙汰ですから、またポーンと蹴ってきたりして…そうやっているうちに二人の間で新しい遊びのルールを自ら作っていくんですよね。

子どもというのは別に遊び道具なんかなくても、石ころや棒切れなんかで、上手に、いろんなゲームを自分らで作っていく。

遊園地のように、その空間の意味があらかじめ決まっているんじゃなしに、自分たちが何かすることで空間の意味を作っていく。そんなふうにルールや意味を自分たちで作っていかないと、原っぱで遊べませんよね。

そういう教育の場所というのが今なくなってきているんです。「原っぱとしての遊びの場」がね。」


この話を読んで、『子どもの「遊び」は魔法の授業(キャッシー・ハーシュ=パセック他(アスペクト)』の著書にあったネズミの実験のことを思い出しました。

50年ほど前、ある教授が、研究室のネズミをわが子のペットとして数匹持ち帰ったそうです。それらが、研究所のネズミより素早く迷路をすり抜け、ミスが少ないことを発見しました。

その後、別の教授が、ネズミを取り巻く環境のさまざまな面がネズミの行動や脳の発達に影響を及ぼすかという研究をしました。

かごで1匹で暮らすネズミ、ほかの数匹と大きなかごで暮らすネズミ、おもちゃの滑り台や回し車のある遊園地のような環境で暮らすネズミを比べて調べました。

すると、遊園地のような環境で、ほかのネズミと一緒に暮らしているネズミは脳内にシナプスをたくさんこしらえていたそうです。

この話にはもう一つ重要な部分があって、この教授の報告によれば、遊園地のような環境で過していたネズミよりもっと脳が発達していたのは、自然の中で育ったネズミだったそうなのです。

自然の中の音、匂いといった刺激、遭遇する生き物、集団で群れる遊び、シラミやノミ取り、仲間とのはしゃぎあいなどは、研究者がかごの中に作ったディズニーランドよりずっと脳を発達させるものだったのです。

人間をネズミといっしょにするのは問題なのですが、人が人工的に作る豊かな環境は必ずしも何もない原っぱに勝るものではないことを、頭に入れておくとよいのかもしれません。

私が子どもだった頃は、広場はもちろん、街も学校も大人たちの作るコミュニティーも、『原っぱ』的な要素が十分にあった気がします。

過去記事ですが、よかったら読んでくださいね。↓

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<消費者ではなくて、製作者でもあったちょっと昔の話 >

マシュー・フォックスという神学者が次のような言葉を語っています。

私たちは本質的に 消費が好きな生き物だろうか?

そうは思えない。人間は製作者として存在してきたのであって、消費者ではないはずだ……。


年々、子どもをめぐる環境は変化し続けて、子どもの心のあり方や物の見方や関わり方が変わってきていますよね。

特に感じるのは、最近では、親がリードする形で、子どもがいつでもどこでも「消費者」になりつつあるということです。

私が子どもだった30年以上前、子どもの私が世界をどのように眺め、関わっていたかというと、良い消費者になりたくて、経済力をつけて、購入の際のセンスを磨こうと必死の大人たちと、現実には何もかもが未完成過ぎて、創作したり製作したり、自分で何とかしたりと……「製作者」の立場もとらざるを得ない現実の間でもがく大人たちの姿を……自分もその両方を模倣しつつ暮らしていました。

それで、当時の「製作者」側、「創作者」側、「発信する」側に、いざ素人の自分たちが立ったときの、何ともいえない危うさや面白さやワクワクや、がっくし……くる感じ……が、その「おしゃれ」とはほど遠くて、鈍くさくて面白すぎる風景が、子ども時代の私の脳裏に焼きついています。

どれを、思い出してもおかしくってしょうがありません。

そうしたことを急にだらだらと書いてみたくなりました。

 

私は大阪の吹田市の関西大学の近くで育ちました。

それで、子どもの頃はよく友だちと、大学の構内にもぐりこんで、乗馬クラブの馬のえさやりを手伝わせてもらっていました。

この関西大学の乗馬クラブは、毎日、私の住んでいる周辺の道路をきちんとした乗馬用の服で正装して、ぐるぐるまわっていました。

馬は千里山の駅前の信号機を確認しては、きちんと交通ルールを守って、かなり気取った姿で立っていました。

そこらあたりまでは、大阪のちびまる子ちゃん世代の日常として許せる風景だったのですが、近所に住んでいる地域の世話役の人が「子どもたちのために小さな動物園を作ろう!」と言い出したのです。

そこで、公園のそばの地域の集会所の前の広場でやぎと羊を飼いはじめたのです。確かうさぎもいました。

最初はよかったんですが、サラリーマンが多い地域……世話をする人も仕事があるし、大きな動物は世話が大変で、しまいには、どんどん開発の波が押し寄せてきている千里山の街中でやぎや羊を放し飼いすることになりました。

そこで、私は毎日、千里山の駅前で、きちんと交通ルールを守って立っている馬と、気の向くままに草を求めて移動するやぎや羊の姿を目にすることになりました。

おまけに当時、そのあたりはペットが野生化したワカケホウセイインコが大量発生していたので、夕方ともなると、カラスの大群なんて目じゃないほど、圧倒するような数の緑色の大型の鳥の群れが、空を移動していました。

そんなふうに、社会というか、環境が未完成でカオス……なので、私の通っていた公立小学校の校長の考えも自由そのもの。

宝塚歌劇のファンだからという理由で、学校のクラス名を、「雪組、星組、月組……」として、毎月クラスで劇を発表する日を作っていました。

子どもが育つ環境としてどうだったのか……というと、???なのですが、私も友だちも自分たちが頭で考えて、何かをすることに対して、躊躇しなかった気がします。

子どもなのですが、常に、「製作者」「作る側」の発想があるのです。

千里山の駅前には、ミスタードーナツとか、サンリオショップとか、「○○塾」とか、これから全国でチェーン展開していこうとする店舗が並びはじめていました。

その手前の道路には、自動車と一緒に馬やら羊やらヤギやらがごちゃごちゃしていたわけですから、子どもの目にも、世界はまだ未完成で混沌としているのだから、自分たちの参入する場はいくらでもある!

自分たちもクリエイティブにこの街作りに参加しようという気持ちがありました。

たとえば、道なども、はじめに覚えなくちゃならない道順があるのではなくて、到着地までの近道は自分たちで発見して作り出すものという思いがあったので、塀があれば登り、柵の下の穴を掘ってくぐれるようにし、他人の家の垣根のふちを、番犬を狂ったようにわめかせながら歩いていって、がけを斜めに渡っていって、団地の前の倉庫やら、自転車置き場の屋根やら、高いところがあれば必ず登って、そこも道の一つとして捉えて通っていくことに、何の疑問も抱いていませんでした。

子どもは、それぞれそうして自分で見つけて作り出した道や秘密の隠れ家をたくさん持っていました。

時間にしても、暗くなったら帰る時間というアバウトな捉え方で遊びまわってますから、曜日とか時間なんて気にかけたことがなかったです。

そんな中で、子ども同士、遊びでもルールでもどんどん自分たちで作り出して、考え出して、改善して遊んでいました。

人脈も開拓して、近所の人にお願いして犬の散歩をさせてもらったり、同じ団地に住むひとり暮らしのおばあさんに子どもたちで敬老の日のプレゼントを贈ったりしました。

運動オンチで内気な性格の私もどこでも登るし、もぐるし~を何ということもなくやってましたから、その頃の子どもたちは、躊躇なく何でもやっていたなと今になってびっくりしてしまいます。


とにかくエネルギッシュだし、自分たちの頭でよく考えていました。

よく考えていた~というのも、あんまり頭を絞ったので、40過ぎてる今でも幼稚園の頃、考えあぐねていた問題をはっきり思い出すことができるくらいです。

それで、最近の子どもたちが頭を使わないとか、昔みたいに小猿みたいな無茶をしろ……と思っているわけではないのですが、「それにしてもあんまりじゃないかな?」と思う現状があるのです。

今は幼い子でも習い事に通っている子が多いのですが、そうした人工的な場は当然、未完成さとかカオスからほど遠いものです。

時間の枠がありますし、することは決められてますし、場合によっては、どういう気持ちで、どういう態度で参加すべきかまで暗黙のうちに子どもに適応を求めてきます。

そこまでガチガチに固められた環境で、子どもたちが、自分が環境に影響を与えたり、変化させたり、作り出したりできる存在なんだって気づくことは皆無なんじゃないかな?と思えてくるのです。

それでもそんな現代っ子たちも、よくよく話に耳を傾けてみると、あれこれと考えていて、したたかで、ユニークで、面白いです。

何に関しても「消費者」としての受身な立場しか取ったことがない子は多いですが、一度「創作する」ことを覚えると、「買う」ことよりも、何倍もうれしそうな表情をします。

いったん、クリエイティブに創造性を発揮し始めると、どの子もいきいきとしてきます。

……ここまで、話してきて何を書きたかったのかというと、空間も時間もちょっと混沌としていてすき間が多いほうが、「何をしようかな? 面白いのかな? やってみようかな? やっぱりやめとこうかな? 私はそれがやりたいの? 好きなの?」と、自分で選んで、考えて、味わって、創造的に参加してみようという気持ちを、子どもの中から引きだしてくれるのじゃないかな? ということなのですが……。

 


10代の子とのチグハグなやりとり 2

2022-04-24 12:58:20 | 日々思うこと 雑感

「勉強中、外へ出て行ったのは、奈緒美先生が本の話を出したからだ」というAくんの言い分に、当初はあきれるやら、おかしいやら、開いた口が塞がりませんでしたが、時間が経つにつれて、Aくんを数キロ先まで向かわせるほど熱狂させている『ガフールの勇者たち』という本が気になりだしました。 

タイトルから、ゲームやマンガを小説化したような軽い冒険ものかと思っていたのですが、読んでみると、フクロウの生態の研究を土台にして描かれている正統派の児童文学でした。わたしもすっかり『ガフールの冒険』の世界に引き込まれました。

Aくんに、『ガフールの勇者たち』の感想を伝えて、他におすすめ本がないかたずねると、『ドンキホーテ』『三銃士』『ああ無常』『精霊の守り人』の名前が上がりました。『精霊の守り人』以外は、どれも、一昨年、クリスマスプレゼントとして両親からもらった文学全集に収められている本でした。

その文学全集について、Aくんは、こんなものいらない、もっと自分が欲しいものが良かったと文句を言ったり、罵ったりしていたそうです。でも、不平を言いながら受け取ったプレゼントは、いつの間にか、Aくんの心を強く捉え、これまでで最高のプレゼントだ、とAくんが称するほどになりました。

読書の質が変わるとともに、Aくんの友達に、読書の好きな子が加わりました。これまでの友達とは異なるタイプで、面白かった本を教え合っているそうです。

 

Aくんを外のルールに従わせようと躍起になると、ルールを覚えようとも守ろうともしない困った子ではあります。将来を案じて、人との関わり方や我慢することを教えなくては、と義務感に駆られもします。

でも、時間や環境にある制約を取っ払って、Aくんという子を改めて眺めると、「面白くて魅力的な子だな、いいセンスしてるなあ」と、しみじみ思うのです。

昆虫や鉱物に夢中で、暑さも寒さもものともせず、一日中、歩き回っても平気です。工作とスポーツが好きで、自分の好きなことを極めるためには、驚くほど我慢強いのです。

友達と一緒に、泥団子を作ったり、水遊びをしたり、きれいな石を探し回ったり、自然の中で野生味のある遊び方をします。

それに、最近のAくんは、自分の頭を鍛えてくれる本をよく読むようになってきました。Aくん自身の内部からちゃんと成長が始まっている、Aくんは大丈夫、そう確信しました。

 

数日してから、わたしはAくんの算数への取り組み方が、あの日以来、ずいぶん変わったことに気づきました。

Aくんは算数が苦手ではないものの、授業をきちんと受けていない上、最近、抽象度の高い問題が増えてきたので、つまずきが生じていました。「勉強なんて、やってもしょうがない」という態度が災いして、簡単な問題は解けるようにはなっても、2段階、3段階の思考を自分で追っていくような問題は、集中が持ちませんでした。
資質は十分なのに、じっくり考え抜いて解けた時の爽快さを味わってほしいけど難しいだろうな、と思っていました。

ところが、その後の学習のレッスンで、Aくんは難しい算数の問題を選んで、自分の全力を注いでしっかり解いていたのです。その姿から、算数が面白くなってきた、本気を出せるようになってきたな、と伝わってきました。

 

保育士の今井和子さんが、著書の中で、「子どもの言動は、それを見ている大人が自らの人間性や価値観で見とめ、聞きとめるわけです」と書いておられました。

(引用 『ことばの中の子どもたち』今井和子著 P38)

今井さんの言葉を噛みしめながら、Aくんと会った後、「Aくんは大丈夫!」と確信するのは、わたしがこれまでいろんな体験をしてきて、いろんな人と出会って、いろんな本を読んで、考えて、そうしたもの全てひっくるめた自分の心を通した上でのことなんだ、と自分自身を振り返るような気持ちで考えていました。

 

ちょっと話が脱線するのですが、以前、わたしは「Aくんに救われた」と心底感じた思い出があります。

集団生活になじめない子と過ごすかけがえのない時間  でも触れたのですが、わたしは長年、物語を書いてきました。若い頃のように作家になりたいと意気込んではいないけど、趣味と呼ぶには抵抗があるという心持ちで、書くことに向き合ってきました。

二年ほど前、長編を書き上げる際、途中でリタイアしないように、三人の知人に、二、三章書き進むたびに目を通してもらって、文章のおかしな点や誤字のチェックをお願いしていました。

そのうち二方にそれぞれ小学生の男の子がいて、どちらの子も定期的に届く原稿用紙の束に興味を持ち、原稿に目を通してくれるようになりました。男の子たちの「面白い!」「早く続きが読みたい」という声に励まされたものでした。

当時、原稿を読んでくれていた子の一人がAくんでした。 Aくんは真剣に、かつ夢中になって読んでくれました。物語が山場にさしかかった時には、「話の続きが読みたいから」と大好きなイベントごとに行くのをやめて、読んでくれたことがあったほどでした。

やっとのことで書き上げた物語は、児童文学のコンテストに送ったものの、落選してしまいました。構想を練るところから入れると三年あまり、全力をその物語に注いでいただけに、わたしはすっかり意気消沈してしまいました。そんな時、お世辞抜きに夢中になって読んでくれた子どもの読者の存在が、大きな心の支えとなって、悔いを残さず、気持ちを立て直すができました。

今回、二度も待ちぼうけをくっている間、ふと、「あの時はAくんに助けられたなあ」とわたしの送った原稿用紙に顔を埋めてくれているAくんの姿が浮かびました。 Aくんが周りのことなど頓着せず、気ままであるほど、「自分の興味のないことに見向きもしないAくんが、面白がって読んでくれたのだ」と、自分の書いたものの価値が増すような気さえしてきて、「コンテストがダメだった時以来、物語を書いていないな。賞を取るのが目的じゃなくて、書くことにワクワクするから、書くのが好きだから、続けてきたんだった」と、急に気持ちが吹っ切れて、書きたいという意欲が湧いてきました。

人と人が出会うと、異なる価値観が、ぶつかったり、浸透しあったりするためか、ずっと凝り固まってた思いがゆるんだり、壁になっていたところに風穴が生じたりします。停滞していた活動が動き出したり、新たな可能性が生じることもありますね。  

難しい年頃の子との関わりでは、そうしたことが、より起こりやすいように思います。


10代の子とのやりとりがチグハグになるのは、10代の子の心が「“今・現在”にいない」からなのかもしれません。

自分の生き方、考え方を新しく作っていく渦中の子らですから。これまでの「子ども」だった自分の思い込みや、身につけてきた態度を書き変えるために、現在にいながら過去に引き戻されていたり、心が未来に飛んだりするのかな、と思います。

それに振り回されながら、大人も、自分が過去に捨ててきたものに気付いたり、未来の新しい可能性を見つけたりもするのです。


10代の子とのチグハグなやりとり 1

2022-04-22 13:55:49 | 日々思うこと 雑感

思春期、またプレ思春期という時期の子に、周囲が、「こうしてあげよう」「ああしてあげよう」とその子に心を砕いても、身構えて殻を固くするだけだったり、心そこにあらずでそれどころじゃなかったりしますよね。
投げた善意のボールが、思わぬ激しい拒絶として打ち返されるのは、めずしくありません。
 
私は、そんなうまくかみ合わずに終わった関わりを心の中に置いて、遠ざかったり、近づいたり、さまざまな方向から眺めてみたりする癖があります。

わたしの好きな言葉に「たった一つのシーンに実は多くのものが眠っている」というものがあります。映画やアニメにもなった『守り人』シリーズで有名な児童文学者の上橋菜穂子さんの言葉です。

それは、心理学者の河合隼雄先生の「人間の体験は面白い。体験を語ろうと思ったら、ほんちょっとの短い体験でも、ものすごく長くかかる」という言葉とともに、いつも心の片隅にあります。

どんなにつまらない、無駄だったという時間でも、実際にはたくさんのことを含んでいるものですから。

子どもの混乱や葛藤に、こちらまで引きずり込まれて、計画していた予定も、望んでいた成果も底から引っくり返って、何が何やらわからない無力な状態でそこに一緒にいただけだった、なんて時に限って、振り返るうちに、興味深いことや、未来につながっていきそうなことがたくさん眠っていたと気づき、確かに人間の体験は面白い、と実感しもするのです。
  
先日も親しい知人のお家にうかがった際にこんなことがありました。

そのお家には、スポーツと読書と工作が好きな小学校高学年のAくんという男の子がいます。Aくんの算数のつまずきを何とかすることと、Aくんの工作にゆったりと付き合うのが、今回の訪問の目的でした。

Aくんには発達の凹凸のあり、学校の先生とのぶつかりあいをきっかけに一年ほど不登校となっていました。が、最近、理解のある先生にあたって、学校に通う日も増えてきました。

とはいえ、授業中に好きな本を読んでいたり、掃除に参加しなかったりと、気ままに振る舞っているようでした。知人は、学校に通うようになったとはいえ、こんなに自分のしたいようにさせるばかりでいいのだろうかと気を揉んでいました。

とりあえず、学校での問題は先生にお任せし、授業に遅れないように家を出す(切り替えが悪いので、これだけでひと騒動です)、悪い言葉を使わないように家族のルールを徹底するなど、親としてできることを積み重ねておられました。

この日、知人が私を駅まで迎えにきている間に、思わぬことが起きました。

知人宅に着くと、Aくんがふらっと遊びに出たまま、いなくなっていたのです。
知人と私が、驚いたり、腹を立てたり、心配したり、どう対処すべきか悩んだりしていると、何時間もしてからAくんが戻ってきました。
勉強さえすればいいんだろう、という態度でした。

勉強中、さらなる問題が起きました。
Aくんはこのところ夢中になっている続きものの本があって、図書館の予約を入れるよう知人に頼んでいたのですが、わたしがその本を話題にして、「自分の頼み事はお母さんに強要するのに、自分はお母さんとの約束を簡単に破るのはダメだよ」と注意したのをきっかけに、勉強を放り出して、外へ飛び出して行ったのです。

図書カードも持っていないのに、予約した本を取り寄せることになっている数キロ先の図書館まで行っていたようです。Aくんいわく、「出て行ったのは、奈緒美先生が本の話をしたからで、悪いのは先生」とのことでした。
 
Aくんが二度にわたって出て行ってしまったり、自分のしたことで叱られそうになると周囲を攻撃し、望みを叶えさせるためには、強要したり脅したりしていたのは、悩ましい限りでした。

たいした役には立たなかったものの、知人の顔を見れてよかったと帰宅しました。

それから何日も、私はAくんとの間で起こったこと、知人から聞いたこと、Aくんとした工作などを思い返していました。

これまでAくんは、年に一、二度、工作と算数遊びのワークショップに参加してくれていました。その都度、自動販売機や、とても長いビー玉コースターなど、工夫を重ねて、動きのあるダイナミックな作品を夢中になって作る姿がありました。 

それが、今回の訪問中にAくんが作っていたのは、段ボールを剣の形に切って重ねてビニールテープで巻いて作った剣で、拍子抜けするほどシンプルな作品でした。

Aくんに作りかけの剣を借りたわたしは、剣道でもするように何度か振り下ろしてみました。ビュンッと爽快な手応えがありました。段ボールでできているとは思えないほどでした。そういえば「最強の剣を作っている」と言っていたのを思い出しました。

「これ振ると本物の手応えがあるね。これは何度も作り直して、改良しないと作れないね。本物の武具みたい!」そう言ってから、

「これで剣道の練習とかしたら面白いんじゃないかな? 剣道習わなくても、楽しく振って型が身につくんならいいんじゃない?」とたずねました。

前々から、いつも練習しているサッカー以外に、このスポーツも面白いな、やってみたいな、というものあればいい、と感じていたから出た一言でした。

運動神経のいいAくんには、「サッカー選手になりたい」という夢があり、毎日、たくさんの練習を自分に課しています。ただ、強豪チームに入り、勝つための訓練が本格的なものになるにつれ、より高い協調性を求められるようになり、思い通りにいかないことも増えてきました。

これから先、がんばったから必ず、選手になれるわけではないし、凹凸を持つAくんには、団体競技の中で協力しあって戦うあり方に、越えられない壁を感じる日が来るかもしれません。

もし挫折することがあっても、自分は体を動かすのが好きだよな、他にもやってみたいスポーツがあったよな、そんな気持ちを抱けるといい。勝ち負けなんて気にせず自分の得意な面を鍛えて、ワクワクする気持ちを味わってほしい。そう思っていたのです。

「まあ、いいね。」とAくんもまんざらでもない様子でした。Aくんがなぎなたの舞いを見たという話から、「フェンシングとか弓道みたいに、スポーツとして正しい型を身につけて練習するなら、危険な武器に見えるものも自分を鍛える道具になるよね」といった話をしました。

Aくんとスマホで剣道の打ち込み稽古の動画をチェックし、竹刀を打ち込む台を作ることにしました。段ボールを切って椅子にヒモで固定させてから、Aくんは未完成だった剣にビニールテープを巻く作業に戻り、わたしは打ち込み台にビニールテープを巻く作業を手伝うことになりました。

実際にビニールテープを巻いてみると、テープがゆるまないよう注意しながら、まっすぐ貼り付けて行くのは、考えていたよりずっと難しいことでした。何でもやってみないとわからないものです。

そこで改めてAくんが剣にビニールを巻いていく作業に注目しました。白いビニールテープを強くひいて、最大限に引っ張ったところで、その張りを保ちながら手慣れた様子で巻いていきました。本物の武具の取手部分に巻かれた紐のように一寸の隙もなく、思わずため息が出るほどきれいでした。

真っ白い剣で、Aくんは剣道の一人稽古を真似たり、日本刀やなぎなたを扱うように斜めに振りかぶったりしていました。

結局、完成した打ち込み台は、音が響きすぎるので室内で使うのはあきらめることとなり、剣道やなぎなたの型を練習するというアイデアは、Aくんの興味からこぼれ落ちていきました。

でも、「スポーツの世界での成功は、脇目も振らずに一つのスポーツで鍛錬し続ける先にある」といった考えとは異なる価値観に触れて何かしてみるのも、自分らしい考えを作っていく過程で大事なんじゃないかな、と感じました。

次回に続きます。


「見えない世界」の栄養

2021-10-23 21:00:25 | 日々思うこと 雑感

見えないものが見えるように 触れられるように 1

見えないものが見えるように 触れられるように 2

見えないものが見えるように 触れられるように 3

見えないものが見えるように 触れられるように 4

見えないものが見えるように 触れられるように 5

見えないものが見えるように 触れられるように 6

見えないものが見えるように 触れられるように 7

↑ 学生だった頃の息子との会話の記事へのコメントで、次のような二つの言葉をいただきました。

 

⭐️発見したのは、こどもにとって「見えない世界」の栄養がとても大事なんだな、ということ。

⭐️ひとつのキーワードとしては、心、頭、感性を自由に働かせる、それに夢中になって時間のないところまで行く、ということなのかなと思いました。

 

どちらも、とても味わい深くて大切な言葉ですよね。

 

「見えない世界」の栄養って具体的にどんなものでしょう?

すぐにピンとくる方は、子どもと過ごすあらゆる場面でそれを見いだしていることでしょう。

でも、わからない、という方は気づかないだけではなく、子どもにより良いものが与えたくて、「見えない世界」と「時間のないところまでいく」体験を減らすことに躍起になっているかもしれません。

そこで、レッスンの中から、子どもたちが「見えない世界」から栄養を得ているなと感じた瞬間をいくつか切りとってみることにしました。

今日は2歳9ヶ月のAちゃんのレッスンでした。

まだ冬休み中なので、年長のお兄ちゃん(Bくん)も付いてきていました。

「工作をしよう」という流れになって、わたしがビー玉コースターの簡単な作り方を披露しました。

2歳児さん向けの見本ですから、「できるレベルであること」「やってみたいと思うような感覚的な楽しみを伴うこと」「すでにできることをベースにすること」の3点が大事です。

幼い子には『興味があって自分ができそうなこと』しかきちんと見えていないようなところがありますから。

 

両面テープを画用紙に貼って、はがします。

 

上の写真のようなレールの作り方なので、大人が作ってあげようとすると、「先に画用紙を切って、両端に両面テープを貼る」という順序で作ってしまいがちです。

もちろん、その方が仕上がりがいいのですが、それだといきなり難易度が上がって、2歳児さんの想像力では作業の流れをつかむのは難しいのです。

また、もし訓練でそれができるようになっても、他の工作でできるようになったことを応用しにくいのです。

そこで、テープを貼って、はがして、はがした後にストローを乗せて貼ります。

それからはみ出している部分をはさみで切り取るのですが、その部分を大人がしてあげたとしても、見ていて、何をしているのかわかりやすいので、先の順序よりずっと学びやすいです。

 

わたしが両面テープを貼って見せて、先っぽを少しはがしてみせると、Aちゃんはそれをペリペリはがして上機嫌でした。

「ここをはがしてごらん」と教えるよりも、思わずはがしたくなるような状態を作る方がわかりやすいです。

Aちゃんは、うまくはがせたことで自信を得たのか、今度は自分で両面テープを貼り始めました。何本も。

こんな時に、大人が仕上げたいものを意識して、「ここにこうして貼って……」とか

「2本までね」とか指示しないで(年齢によって、きちんと手本や指示通り作るよう教えるのが大事な時もあります)、よほどの無駄使いでもしない限り、何度もやりたがることに熱中させてあげるのがいいと思っています。

次のアドバイスやお手本を見せるのは、本人が退屈しだした時でいいし、見本ではなく、大人は大人で自由に制作活動に興じるのもいいと思います。

Aちゃんは、ここまでこちらのお手本に添って作っていましたが、そこからは、自由にはさみであれこれ切りだしました。

Aちゃんが空き箱を切ろうとした時、お母さんが、「Aちゃん、それ固いよ」と注意したのですが、Aちゃんはどこ吹く風。ゆっくり着実に切っていきました。

Aちゃんは4歳違いのお兄ちゃんと同年代だと信じているような二人目ちゃん。

観察力の高く慎重に行動する一方で、

「それはAちゃんにはまだ難しいよ」というニュアンスの忠告をされると、

俄然やる気になるタイプなのです。

 

大人だって固くて切りにくい空き箱をチョキチョキした後で、得意気にそれを開いたり閉じたりしながら、「ご本ができちゃった」と言いました。

 

こんなふうに自分でやってみたことが何らかの形になって、おまけに自分で見立てることができた時、幼い子たちはどんなすばらしいものが手本通りできた時よりもうれしそうです。

わたしは、Aちゃんの作った本を開いて、読む真似をしました。

「Aちゃんが、おかいものにいきました。おしまい」とか

むかしむかしあるところに、うさぎさんとかめさんがすんでいました」という具合に。

すると、Aちゃんは笑顔をはじけさせて、切った箱のもう一方も開いてみて、それも本のように見えるのがうれしくてたまらない様子で作品をぎゅっと胸に抱きました。 

一回、真っすぐ切っていっただけで、二つもできた作品と呼べないような作品。

でもAちゃんにとっては、何も代えられないすごいもののようです。

  

「ご本ができた」と見立てたとたん、それまで箱だったものが、本に見えて、本として関わって遊ぶことができる、ということは、まさしく「見えない世界」の栄養分。

『星の王子様』の童話にあるような、王子様には見えるのに、『数字が好きで、一番大切なことは何も聞かない大人たち』には見えなくなってしまった世界からの贈り物なのです。

 

 

「Aちゃん、よかったね。2冊も本ができたのね」とお母さんが声をかけると、Aちゃんは目をキラキラさせて、次の箱を切り始めました。

 

切った後で、Aちゃんはセロテープをペタペタ。何枚も何枚も。

「切ったり折ったりした後で、セロテープでそれを覆うのが好きな2、3歳の子って多いんです。

紙を折って、テープで封印してテレホンカードみたいなものを大量に作ってから、『お手紙』と命名する子たちがいますよ」と言うと、

Aちゃんのお母さんが笑いながら、「そうなんです!うちでも折り紙を折って、テープで完全に貼り合わせてお手紙を作っています。

それも、内側が色がついている面になるように折るので、裏の白い面だけの同じようなものがいっぱいに……」と返しました。

 

Aちゃんの作品(切った後でテープで貼り合わせた紙)を使って手品ができるようにお菓子の箱に細工をしてあげました。

引き出し式になっている内箱を半分で切って、逆さまになるように貼り合わせると、入れた紙が、箱を逆さまにすると出てくるようになるのです。

引き出す際に小さな覗き穴から顔のマークが見えるようにして、その顔を押して、箱をひっくり返すと、上から入れたはずの紙が下からでてきます

……という仕掛け。

 

これはお兄ちゃんのBくんが、箱を覗きこんで不思議がって、「どうして?どうなってるのかなぁ?」と夢中になっていました。

模倣が上手なAちゃんは、手品のタネはいまひとつわかっていない様子でしたが、たちまち、手品の演じ方を覚えて披露してくれました。

 


センスのいい好奇心

2020-04-01 17:29:58 | 日々思うこと 雑感

100分名著というNHKのテキストで、SF作家のアーサー・クラークの特集をしていたので、

購入しました。

テキストの案内役をしていた作家の瀬名秀明氏の

こんな言葉が心に残ったので紹介しますね。

 

ぼくは本書をお読みの皆様に、「センスのよい好奇心」を育み続けることが

生きる上で何より大切なのだ、とお伝えしたいのです。

 

という言葉です。

こうも語っておられました。

 

たんに「好奇心を持つ」だけでは充分ではありません。

「センスのよい好奇心」こそが科学や文学の垣根を取り払って

未来を作ることができる、ぼくたち人間のかけがえのない力だ

といいたいのです。誰もが「センスのよい好奇心」を育むことができる、

とぼくは考えます。

 

「センスのよい好奇心」とはどのようなものだと瀬名氏が捉えておられるかは、

このテキストを最初から最後まで読み通さないときちんと伝わってこないかもしれません。

が、この「センスのよい好奇心」という言葉、

確かに誰にとっても大切で、

どの子の中にも育んであげたいと感じました。

教室で子どもたちの物作りにつきあっていると、

「これが面白い」「こんなことがしてみたい」

「これにわくわくする」「これにすごく興味がある」という思いは、

十人十色で、ひとりひとり異なるのです。

電子工作が好きで好きで、自分の部屋をスパイの部屋のようにしたい

という願いを、アルデュユーノを使って実現した小1の男の子がいれば、

植物の作りに非常に興味があって、食虫植物を動きまでそっくり再現して作った

小二の女の子もいます。宇宙が好きな子、発掘に興味がある子、古代文明が好きな子、

形に関心が高い子、他人に何かを伝える方法を模索する子、ボードゲームが大好きな子

など、好奇心のアンテナが何をキャッチするか、子どもによって

よくもまぁ、こんなにちがうものと驚くほどに異なります。

教室では、それぞれの子の好奇心とていねいにつきあっていくことを

ずっと大事にしてきたのですが、それでいいんだな、と思える言葉に出会って

うれしくなりました。

 

 

 


遊べない子は、遊びに必要な技術を習得していない

2020-02-25 21:06:35 | 日々思うこと 雑感

また過去記事のアップで申し訳ないのですが、

その前に先日、小さい集まりをして、(コロナへの心配から、ぎりぎりまで

するかどうか迷っていて、

室内の消毒や体調などにかなり気を使った集まりになりました)

ちょっと感動した出来事があるので紹介しますね。

お母さんがトイレに入っている間、二歳後半の男の子と洗面所で待っていた時のこと。

ちょうど手にしていた材料でペットボトルの水鉄砲を作ってあげました。

二か所に穴を開けて、それぞれの穴にストローを通すとできあがりという一分工作です。

この工作の魅力は、ペットボトルが透明なところにあるんです。

「息を吹き入れると、空気で

水が押されてもう一方のストローから水が出てくる」という

子どもをワクワクさせるしかけが外から見えるのです。

おまけに二歳の子にとって、ふーっと息を吹くことは

「自分でできる」し、できた時に、心底、「できた!」という

満足感を味あわせてくれるものでもあります。

 

この二歳の男の子がストローに息を吹き入れると、

無事、ちゃんと水が出てきました。その瞬間の表情というのが、

喜んではしゃぐとか、うれしそうにするというのを超えて、

ものすごく大きな仕事をやり遂げた!という感じの

凛としたお腹の底から感動を味わっている顔でした。

 

その後、洗面所にあらわれたお母さんに

水鉄砲で水が出るところを披露してから、

「年長のお兄ちゃんにもこれを見せてあげよう」という

流れになりました。

お兄ちゃんがいる部屋までは長い廊下を通っていかなければなりません。

それに水鉄砲に入っている水は、揺れるとストローからあふれ出そうになるのです。

ですから二歳の子にすると、水鉄砲を自分の手で持ってその距離を移動することは

本当に大変なことでした。

でもその子があんまり真剣で、

水が出ないようにストローの先を手で押さえてみたり、

ひっくり返さないように慎重に慎重に歩いたり、

そのくせ、お兄ちゃんに見せたい一心で目がキラキラ輝いていて、

心が高ぶって前のめりになって進んでいる様子が伝わってくるので、

手だしせずに、そっと寄り添ってついていきました。

廊下を歩きながら、小さな子の大きな本気を眺めていると、

子どもの頃読んだ、さまざまな絵本や童話の山場シーンが浮かんできましたよ。

ようやく着いた先で、お兄ちゃんと他の年上の子どもたちが

水鉄砲を見て、わっと集まってきました。

みんな大興奮で洗面所に向かいました。

まるで二歳の子の真剣な思いが他の子らにも移ったかのようで

興味深かったです。

 

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「子どもは遊びの天才」なんて言われますが、

実際には、遊ぶのが苦手な子、遊び方が不器用な子がたくさんいるんじゃないかな?と

思います。

 

子どもたちが心の底から楽しそうに真剣に遊び込むことができるようになるには、

いくつか体得していかなければならない

技術のようなものがあると感じています。

 

遊ぶのに技術を体得しなくちゃならないなんて

おかしなことを言うように聞こえるかもしれませんね。

でもやっぱりいると思うんですよ。上手に遊ぶためのワザ!

 

目新しいおもちゃをちょっと触ってはうろうろするだけだったり、

 

遊び方の説明を聞いて、ちょっとうまくいかなくても何度か試してみるほどに

ひとつの物に根気よくつきあうエネルギーが乏しかったり、

 

遊びがワンパターンだったり、

幼なかったり、

依存的だったり、

友だちとふざけたり物を取り合ったりするばかりで遊びが発展しなかったりする子っていますよね。

 

そうした遊び方は性格や能力に起因しているように思われがちです。

もちろん、それらの影響も大きいはずです。

 

でも、それとは別に、

「遊びに必要な技術を持っているかどうか」というのも

遊びの質と密接に関わっているのではないでしょうか。

 

では、「遊びに必要な技術」って、どんなものなのでしょう?

 

★  まず最初に大事なのは、「何かとしっかり関わっていける力」をつけることかもしれません。

ひとつの遊びに愛着を抱いて、ひとつの活動を通して、

「面白いな、楽しいな」という気持ちを持続していくことができるようになることです。

 

★ 遊びというのは、おもちゃがあって、それをいじってさえいれば

発展していくわけではありません。

楽しく遊ぶには、「いろんな形で想像力を使ってみる」という

実際に自分の頭と心を使って遊んだ体験が必要です。

遊びの世界で自分の頭を使えるようになっておかないと、

おもちゃがあるから、遊具があるから、楽しめるわけではないのです。

子どもは、自然に、物を何かに見立ててみたり、ごっこ遊びに興じたりするものですが、

大人の接し方やおもちゃが子どもの想像力を枯らせてしまったり、奪ってしまったりすることも

よくあることです。

また、もともと想像力に弱さがあって、ていねいに育んでもらわないと、

自分から使おうとしない子もいるのです。

 

環境と大人の役割は大きいです。

 

 
 
★ 想像力だけでなく、思考力を遊びの中で活かしていく方法を習得すれば、
遊びはどんどん魅力的なものに発展していきます。
 
 
それでは、写真のブロック遊びをしている子どもたちを例に挙げて、
これまで書いてきたことを具体的に説明させてくださいね。
 
5歳と3歳の子たち、5人の遊びの風景です。
 
ひとりの男の子が電車のおもちゃを出してきて、ただ前後に動かしたり、好きな電車を集めたりして
遊んでいました。
遊んでいました……といっても、電車をいじっているだけなので、
それほど面白そうでじゃないのですが、飽きると新しいおもちゃを探しに行って
お気に入りに加えることで、本人の中では遊びが成り立っているようでした。
 
お家で、そうした遊びを遊びと思っている子がたくさんいます。
 
おもちゃをしばらくいじっていると、「片付けなさい」とお母さんに言われ、
片付けると、次のおもちゃが出したくなり、
出してきて触っているうちに、次の「片付けさい」という指示が来るということを
エンドレスに繰り返すうちに、「遊び」という活動が、「赤ちゃん時期の見て触って満足」という
段階から、少しも発展していない子がたくさんいるのです。
電車のおもちゃを出してきて、ただ前後に動かしたり、好きな電車を集めたりして
遊んでいた子に、「ブロックを使って、その電車の駅や線路を作らない?」と誘うと、
少しとまどった顔をしながらうなずきました。
 
そこで、「ほら、前に、長い長い道路を作ったことがあるわね。どんどん板をつないでいって」と言うと、
横でそのやりとりを聞いていた子が、パッと顔を輝かせて、
「あぁ、前にやった。もっといっぱい板がいる。もっともっと長くなくちゃ」と言いながら、
ブロックの板を並べだしました。
 

↑と↓は前にブロック用の板を並べた時の写真です。

↑ こんな風に道路を作って遊んだ楽しい体験を思い出したようです。

わたしが列車を走らせるためにブロックを横につないでいく見本を見せると、他で遊んでいた子らも

集まってきて、長い線路を作り始めました。

 

こうして手を使ってする作業に没頭し始めると、子どもの態度は素直で落ち着いたものになっていき、

同時に頭の中はいきいきと活発に動きだすようで、

意欲的でよく練られた考えや言葉が出てくるようになります。

 

線路をつなぎ終えたとたん、Nゲージを走らせてみてから、

「そっちとこっちとで発車したら衝突しちゃうよ。

こっちの線路は、こっちからあっちに行って、あっちに着いたら

戻ってくるようにして、

あっちの線路は、あっちからこっちに行って、戻ってくるようにしたら?」と

言う子がいました。

すると別の子は自分の好きなように走らせたかったようです。

線路に1台だけ走らせるのでは嫌らしいのです。

 

そのため何度かNゲージが衝突することになり、言い合いになりかけたものの、

「それなら、連結したら?」という意見が出て、問題が解決しました。

Nゲージをどんどん(セロテープで)連結すると、長い1台の列車になるので、

1台ずつを行き来させているのと同じになったのです。

 

そうして遊び出すと、ここが終点、こうやって切符を買って……とごっこ遊びを広げる子、

駅で電車に乗る人が住んでいるお家を作ってストーリーを膨らませる子などが出てきて、

遊びが広がっていきました。

 

遊びって、ある程度、「ああ疲れた」「やるだけやった」というところまで

自分の身体なり、頭なりを使いきらないと、

楽しさが湧いてこないものなのです。

その「やるだけやった」は、その時期その時期の子が

やっているうちにどんどん楽しくなっていって、「もうちょっともうちょっと」と

自分の限界までやり遂げないと気がすまなくなっちゃうような活動であること、

五感にとって気持ちいいこと、目で見て満足できるものであることが大事です。

 

だからといって、わざわざこういうおもちゃを買いそろえなくちゃいけないということはなく、

お家にあるもので十分だと思います。

 

今回の「つないでつないで長く長くしていく」という活動は、

子どもにとって楽しくて達成感のある活動のひとつですが、

ブロックの板がなくても、下の写真のように「柵だよ」と言いながら

ブロックを置いていくだけでも、子どもにしたらさまざまな想像力を

掻き立ててくれりものなのです。

 

↑の写真の作品を作った子は、教室の端から端まで柵を付けた後で、おもむろに立ちあがると、

しみじみと自分の作り上げた作品を眺めながら、

「どうして、こんなにすごいのが作れちゃったんだろう?」とつぶやきました。

置いていくだけ、並べていくだけ、囲むだけでも、道路ができ、線路ができ、工事現場ができ、公園ができます。

そうした作業に熱中するうちに、想像力がいきいきと働き始めます。

 

「新しいおもちゃを出して、ちょっと触ってはお終い」という遊び方をしていたら、

自分の想像力を使うところまで行きつかないのです。

 

そうして想像力を働かせて遊んでいると、次には、

「上から電車を眺める駅を作りたいな」「これは特急で、こっちは回送で……」

「こういう風にしたい」「ああいう風にしたい」と

今度は思考力を働かせて、遊び始めます。

↑ 電車をくぐらせようとしたら、人形がトンネルの屋根にあたってしまうから

トンネルを高く作り直しました。

どんどんどんどん線路を長くしていく遊びから、

「地下鉄が上の駅のところに登って行くようにしたい」という願望が生まれ、

苦労してだんだん高くなっていく高架を作りました。

 

どんどんつないでいく楽しみも、お城のなわばり図を作るという意味を意識しながら作ることで、

昔の人の知恵への関心が高まり、自分たちもあれこれ知恵を絞って遊びこむことができました。

↑通ろうとすると、橋が崩れる仕掛け。

どんどん並べて、どんどん乗せているうちに、いろいろな物語が生まれていました。

どんどんどんどんつないでつないで……に熱中していると、こんな素敵な街になった

こともあります。

 

夢中になって遊ぶには、簡単にすぐできて、何度も繰り返したくなるような作業を

思い存分やることができる環境が大事だと思います。

公園でする砂遊びでも、お花を絞って作る色水遊びでも、何でもいいのです。

そうした身体を使って集中する活動を洗練させていきながら、

それがごっこ遊びにつながっていって、

想像力をたっぷり使う機会が生まれるようにサポートしてあげることが大事だと思っています。

また思考力を使って

次々生まれてくる願望を言葉にしたり、それを達成したり、問題を解決したりする楽しさを

たくさん体験させてあげるのも

とても大切な身近な大人の役目だと考えています。

 

 

 

 

まるで強盗が入ったような……

2020-02-07 20:52:47 | 日々思うこと 雑感

書きたいことがたまっているのに

なかなかブログの更新ができずにいます。

大工さんに棚を作っていただいてから、そこに教室のものを

入れていく作業をしていたのですが、

とりあえず一通りおさまった……というところで、

棚にニスを塗ることにし、

入れたものをとりだして↓の惨状です。

まるで強盗が入ったかのよう。

 

ニスが乾いてから

せっせと本、ゲーム類、工作道具、実験道具、積み木などを棚にもどしていきました。

床一面を埋めていた物、物、物がそれぞれの物のサイズに作っていただいた

棚に収まっていきました。よくまあ、これほどたくさんの物があるものと

呆れるほどの量でしたが、何だか、すっきり。

ちょっとした驚きです。

 

↓もう一方の壁。

明日はレッスンの後で親しい友人の家に遊びに行く予定です。

こうしたバタバタした生活が一段落したら、

またがんばってブログを更新していきたいです。


2020年のカレンダー 

2020-02-03 11:06:17 | 日々思うこと 雑感

今日、幼児期から教室にききてくれていて、

虹色教室を卒業した後も時々教室に遊びに来てくれていた

★くんから、「第一志望の逗子開成に合格しました❗️」と

いううれしいコメントをいただいたんです。

「受験期間中、大変すぎて嫌になってしまう事はあったものの、

★は算数が好きでした。

★の算数好きは、虹色教室のお陰です。」

という★くんのお母さんの

言葉がとてもありがたかったです。

 

話は変わって、

教室のAくんとBちゃんのきょうだいが2020年のカレンダーを

作ってきてくれました。

本当にていねいに描かれていて、

感動しました。

 

1月

 

2月

3月

4月

 

 

5月

6月

7月

8月

9月

10月

11月

12月

 

2月

 

3月

 

4月

5月

 

6月

7月

 

8月

 

9月

 

10月

 

11月

12月

 

 


追記   集団生活になじめない子と過ごすかけがえのない時間

2019-11-05 13:19:21 | 日々思うこと 雑感

前回の時期の続きは今日明日中に書くつもりです。

 

『集団生活になじめない子と過ごすかけがえのない時間』という過去記事にコメント

をいただいたついでに読み返してみたら、この頃は

お友だちとの関わりやひとつのことに集中して取り組むことが本当に難しかったAくんが

今年のユースホステルでのレッスンではお友だちを大切にしながら仲良く遊ぶ姿や

落ち着いて創作活動に励む姿があったことを思い出し、

(「ゆったり子どもとの時間を過ごすので大丈夫ですよ、というコメントへのお返事もかねて)

記事を再アップしておきたくなりました。

それとこの記事を書いたころからすると、私の文章修行も新しい方向性が見えてきました。

前年までにいくつか長編を最後まで書き上げてはいたのですが、

三人称で書く際の文章のルールなどをよく知らないまま書いていたのです。

それで、これまで書いてきたものを自分で扱いやすい一人称の型に書きなおす作業を始めると、

これまでよりずっと楽に自分の強みを生かして書いていけることがわかりました。

子どもたちといっしょに私も日々精進しています。

お時間のある方は読んでくださいね。

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『集団生活になじめない子と過ごすかけがえのない時間』

いきなり個人的な話から入って悪いのですが、わたしは子どもの頃からの夢だった

こともあり、虹色教室の合間に物語を書いているんです。

これまで3作書いたのですが、そのうち2作は原稿用紙300枚を超える

長編になってしまい、字数制限の厳しい新人向けの公募先が見つからず、

いつかチャンスがめぐってくるまで家で寝かしておくことになりました。

そうやって物語を書きながら、子育てについて感じたことがあるんですよ。

物語書いていると、書いているうちに、「生む」行為に夢中になって、

だんだん何が何やらわからなくなって、

どこか客観的に自分の書いているものを見ていない

親バカ状態になるんです。すごくいいとか思っているわけじゃないんです。

わが子だから、どんなだってかわいい!という心境です。

そんなことを考えるうち、実際の子育てでも、そして物語の創作でも、

夢中で生んで育てている間、

子どもが自立しはじめて、世の中に出ていく準備を自分で始めるくらいまで、

それでいいのかな、という感じがしたんです。

物語の場合も、書きあがるまでの自分と自分の創作物との蜜月は、

一度、誰かに読んでもらう段になると、ぎくしゃくし始め、ゆっくりと終わりを迎えるんです。

それからは自分もそうした外にある客観的なまなざしで、自分の作品を眺め始めるので、

「ここもだめ」「あそこもだめ」とダメな部分も大いに出てきて、欠点を底上げしていく

作業に四苦八苦するわけなんです。

でも、そうやって四苦八苦できるのも、長い親バカな期間がしっかりあったからなんですよ。

とにかく自分の作り出したものが愛しいという気持ちがベースにあるからこそ

そうした厳しさを自分に課せるし、創作物自体がそれ固有の命を持っているかのように

私の予測を超えた成長を遂げてもくれるんです。

 

虹色教室の「私も親バカ万歳の1人です」とおっしゃるやんちゃくんのお母さんが、

「ダメなところというかきっと外の世界では?でしょうけど、

その時までゆっくり温かく育んでいくことが、

外に出た時の力になるのだろうなと思います。

かといって甘やかせば良いのではなくて、その子の力を見くびらないで、

接するようにしたいです。

うちの子の中心は輝いています。大切に育つよう見守りたいと思います。」

とおっしゃっていました。

 

その時、うかがった「中心の輝き」という言葉が、

その通りだな、と強く心に響きました。

教室にはいろんな子が来ていて、まるで台風の目のように、

周囲のいっさいがっさいを投げ飛ばしていくような

荒っぽいエネルギーを持った子もいるんですが、

その中心にはその子固有の命が輝いています。その子だからこそ、その子にしかない

輝きがあるのです。

密にずっとつきあっていると、困らされることも含めて

全てが愛おしくなってくるから不思議です。

 

 教室にはいろいろな理由で、(単に時間の調節の難しさなどからの子もいます)

グループから離れて、個別で見ている子がいるんですけど、

たとえ、最初の理由が「困りごと」を発端にしていても、

ひとりの子とじっくり関われるということは、ありがたいことだな、

と感じているんです。

先に書いた物語を生み出す過程にも似ていて、

その子の存在を自分の世界にいったん取り込み、

外の世界から離れた狭い暖かな世界で、育み守っていく期間を持つようなところがあって、

子どもと自分の間にまるで親子のようなきずなが生まれることも多いのです。

 そうした閉鎖空間の中で、ただただ親バカならぬ教師バカの期間を経ると、その後で、

その子は自分の置かれている外の環境を生きていこうとする力が

ついているのがわかるんです。

子育て期間で、子どもが他の子や環境と合わなくて、

外の世界から引きこもってしまう時期があるとしたら、

それはそれで、そうした秘密の庭のような自分たちだけの世界で、

子どもと過ごすことが許されている特別な時間でもあると思ってもいいのかな、

と教室で個別レッスンの子どもと私だけの至福の時間を味わうたびに、そう感じもしたんです。

「許されている」という言葉を使ったのは、

たとえ親が望んでも、子どもが新しいチャレンジや同年代の子との関わりを

求めて動き出す時には、自分たちだけの世界で遊ばせておくわけにはいかないでしょうから。

 

子どもが、環境にあわない時期は、

同時に個性的な才能なり

その子が愛情を注ぐものとの関係なりが、育つ時期でもあります。

 

ですから、子どもが幼稚園や学校で集団活動がうまくいかないような時に、

まるで戦地にわが子を送り出すような気持ちで集団に適応することだけを目標にして、

親も子も追い詰められる必要はなく、

その期間が許してくれる特別な時間を満喫してみるのもいいんじゃないかと思ったんです。

園や学校に通えなくなっている場合はもちろんですが、園や学校でうまくいっていない

わが子を見て、やきもきする場合もそうです。

 

そういえば、先日も、「うまくいかない状況」が作ってくれたこんな時間に

子どもも私もふたりで元気をもらいました。

 

その子は昨年まで、他の子の物を奪ったり、

他の子に手をあげたりすることが多かったので、

ひとりでレッスンに通ってもらうようになった子です。

それで、この1年ほど、親御さんにも席をはずしていただいて、

わたしとふたりきりで、ひとつひとつの物事にじっくりていねいに関わることや

想像力や思考力を使って遊んだり学んだりする時間を過ごすようにしてきました。

 

その日も、教室に着くなり、次々と目移りし、おもちゃを出して遊ぼうとするので、

「まず、気に入ったおもちゃをいくつか出してきていいけど、それを見て、

こんなものがほしいな、あんなものがあればいいな、

と思ったら工作して作ろう」と言うと、おもちゃを

あれもこれもと両手に抱えるように取ってきて、

「セブンイレブンを作ろうよ」

「それからマクドナルドと駐車場のところとダンプカーを作ろう」

と言いました。「それなら町を作ろうか」といって紙工作の道具や材料を用意したところまでは

よかったのですが、「そうだ、ケーキ屋さんもいるね」「それから公園も作らないと」

「それからコンクリートミキサー車も」と次々と作りたいものが膨らむ中で、

本人は、ちまちまと緑の紙を切って、「草」を作り、

その後、灰色の紙もちまちま切って「レンガ」を作って、

それまで作ろう作ろうと言っていた

セブンイレブンやらマクドナルドなどは、

「先生、作っとき」と私に丸投げしようとするんです。

「さぁ、マクドナルド、作らないと」と私を催促します。

思いや言葉と実際にすることとできることの落差のようなものが大きくて、

困り感を抱えているのです。

それで、「Aくんの工作はAくんが作るんだよ。先生じゃないよ。

どうしても難しいところはお手伝いしてあげる。さぁ、

お店の形を作る方法を教えるから、ちゃんと見ていてよ」

というと、「うん、わかった」と返事はいいものの、目はそわそわと空を動いていて、

「次は、駅を作ろう」

「次は、工事現場作ろう」と作りたいものばかり増えていきます。

私が簡単な工作の手本を見せている間も、新しくひらめくアイデアに夢中で、

こちらの手元に注意をとどめておくことはできませんでした。

Aくんは、この頃、園であまり問題を起こさなくなったようですが、

まだ互いに思いを通わせて遊びを共有する

にはもう少し時間が必要なようです。

(虹色教室で、こうした困り感を抱えていた子らは、小学校の2,3年

ごろには、友達を大事にするようになり、

仲良く楽しく遊ぶようになっています)

 

それで、私は2,3度紙を折って、切りこみを入れたら、

建物の形になる作り方の見本を見せました。

すると、「そうだね、そうだね!」と機嫌よく見ていたAくんは、

「じゃあ、火山と川と公園を作らないと」と作るものを3つも増やしていました。

これでは、いっこうらちがあかないので、タイミングを見て、

「次から次へと作りたいものが増えているけど、

先生に全部作っときっていうのはバツです。

ダメダメダメダメ。Aくんが自分でちゃんと作ってください!」とはっきり言うと、

はじめて、気づいたように、ちょっと考え直して、ぼちぼち作りだし、

しまいにすごくうれしそうに創作に関わっていました。

というのも、最近、文字の練習をしているので、「まくどなるど」とか

「せぶんいれぶん」などの

看板を作って、紙に貼り付けると、自分の作りたいものになると

発見したようなのです。また、トラックの作り方を習った後で、

荷台に自分がちまちま切り刻んだ

紙のレンガを乗せるうちに、だんだんやっていることに

興味が出てきたようなのです。

 

私が弟くんがお母さんと公園に行くための地図を

描いてあげたことを思い出した様子で、「そうだ、地図を描こう」と言いながら、

町にする画用紙の土台に、道や「公園の裏の壁になっている家」

(お母さんと私の話を聞いていたんです)や

駐車場の車を乗せるスペースを描いて、満足そうな笑みを浮かべていました。

 そうして、工作をしあげた後で算数のプリントをする時、

本人にすると120%くらいの集中力を注いで、一生懸命取り組んでいました。

こうした子どもとふたりだけで過ごす時間というのは、こちらが子どもに教えるだけでなく、

子どもの発想や知恵、今超えようとしているものなどが、ごくごくささやかなものでも

見えてくるような余裕があるし、そのひとつひとつに感動や喜びという

フィードバックをしっかり返してあげることもできるんです。

ちょっと話が脱線するのですが、先の「中心の輝き」という

言葉を使っておられた親御さんが、

「子供のやっている遊びが一見生産性のない遊びだったりしても、

その中に広がりを感じることがあります。

子供の行為の裏に、面白いという感情を感じたり誰かのために一生懸命だったり。

そういうものを感じると、ムダだとか、それをしてくれなくて良いとか、

とてもいえなくなります。歓迎されないものであっても」とおっしゃっていたことがあるんです。

子どもの行為の中に「広がりを感じる」という子どもとの繊細な関わりは、

集団の場ではなかなか叶わないもので、ちょっとそこから引きこもった

のんびりおっとりした無駄のあふれる時間の中でこそ、見出せるものかもしれません。

 

たとえば、「看板作り」は、次々思いつくけれど、ひとつひとつに

関わるのが難しいAくんが、今、自分ができる力で、

自分の思いついたものに一通り関わったという自信を

与えてくれる飛び切りの秘策だと思いました。そこにも広がりがありますよね。

Aくんは、絶え間なくおしゃべりしていて、作業の方は亀の歩みで進んでいるわけですが、

そうしておしゃべりしながら、いっしょに行動を調整するうちに、

次第に自分の言葉で自分を励まして、やらなくてはいけないことに

方向を見出す力を蓄えているんです。それは、

算数のプリントをしている最中に

わからないところにぶつかるたびに、言葉で自分を導きながら、乗り越えていく姿に

垣間見ることができました。

環境への不適応は、ある意味「負け」のようで、

一度は撤退を余儀なくされることもあるけど、

そこに適応している方が優れていて、適応できていないから劣っているとか、

適応していることが正しくて、適応していない状況が間違っている

わけではないな、と感じています。

そこにある豊かさのようなものを味わう余裕があってもいいな、と。

 

子どもが元気で「そうしたい」という意志を持てば、

親がどんなに子どもとふたりきりの時間を過ごしたくても、

手を放していかなくてはなりません。

子どもに必要なのは安全な膜で、安全な壁ではないんです。

でも、不適応という機会が、特別な不思議な時間を作ってもくれるのだと感じたんです。

私はそうして教室の子らとふたりっきりで遊ぶ時、

お互いを癒してくれ、成長させてくれる

魔法のようなプロセスが展開していくのを実感する時があります。

 


親御さんへのダメ出し 3

2019-08-02 19:56:33 | 日々思うこと 雑感

親御さんに「ダメ出し」をするときに、親御さんの子どもへの接し方なり教育なりが

間違っているのかというと

そんなことはないのです。

子育てはこうあるべきとか、こうすべきとか、

いろいろ言う人がいるけれど、どのような関わり方が良いのかというと

子どもの性質によりけり、親御さんの感性によりけりで、

関わり方だけを取り上げて善し悪しを比べられるものでも、「こうすればいい」と言い切れるものでもないですよね。

それなのにどうしてダメ出しをするのかというと、

子どもといっしょに工作や勉強や遊びをしていると、

「この子の知力や人と関わる力や語彙力を見ていると、

この場面で、もう少し親と交渉して意見をすり合わせていくような態度があってもいい感じなのに、

プイッと無言で移動することが多いのはなぜなんだろう?」

「親御さんはたくさん言葉をかけているし、語彙力も多いし、恥ずかしがり屋の子でもないのに、

他の人や他の子に接するときに、

妙に不器用になって、何を言ったらよいのか途方に暮れていることが多いけれど

なぜだろう?」といった疑問を抱くときがあるのです。

その後、親御さんと子どものやり取りを見ていると、

これは子どもの性格や能力の問題ではなくて、親御さんとの関わりのなかで

生じている問題ではないかと思われるような

親と子の言葉と言葉、表情と表情、気持ちと気持ちのキャッチボールにぎこちなさを感じる場合があるのです。

親御さん側は、ごく普通に子どもに話しかけているのだけど、

それを受け取る側の子どもの表情が固かったり、うわの空だったり、反抗的だったり、聞こえているように見えなかったりして、

返事に覇気がなかったり、自分の意志や意欲が感じられなかったりすることが多い場合、

「ちょっと接し方や言葉かけを変えた方がいいかな?」と感じることがあります。

そして具体的に対応法をアドバイスすると、

 急速に関係が改善し、気になる子どもの行動が減っていくことがよくあります。

 

そんなわけで、余計なお世話で、「ダメ出し」をするのですが、

あくまでも親御さんの対応が「正しい」か「正しくないか」、「良い」か「悪いか」という話でないことは

お断りしておきます。

 

たとえば、調理ひとつとっても、素材や分量、作る料理などで塩加減も火加減も変わってきますよね。

「○グラムだからいい」「○度だから正しい」というものではなく、

その都度、微妙な調整していくとおいしい料理ができがるはずです。

 

人の場合、生命があるもので、日々変化し成長していくものですから、

もっともっと場合によりけり相手によりけりの加減が必要で、

言動に善し悪しのレッテルを貼るのでなくて、

「前に行って、下がって、くるっとまわって、おじきして……」とダンスでも踊るように、

気楽に微調節しながら付き合っていく必要があると思うのです。

 

私がこれほど長々と前置きしてから、「ダメ出し」の話に入っていこうとしているのは、

親子の会話場面の一部や遊びの場面の一部に

「こうしたらいいのでは?」というところがある親御さんも、

別の場面での接し方や子どもへの愛情や

お家での環境の作り方などトータルすると、尊敬できる部分をたくさん持っている方である

場合がほとんどだからです。

子どもさんの気になる点についても、ある一部では気になっても

別の面では親御さんの接し方の良い面を反映して、平均的なその年齢の子より

ずっとしっかりしているところがあったり、親切だったり、大らかだったり、知的好奇心が豊かだったりして、

私が上から「こうしなさいね」と指導できるような立場ではないのです。

 

そう繰り返し前置きした上で、

スポーツのフォームを整えたり、お料理の味つけを習ったりするように、

親子関係のちょっとした「ずれ」を微調節することを学んでいただきたいなと思っています。

そうすることで、

子どもの態度や知的な力が目に見えてよくなることを実感しているからです。