虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

台風や新幹線と戦いたい子は、50メートル走のタイムを教えてください♪

2016-10-31 10:18:14 | 算数

ポケモンの体重と身長バトルのはじまって、時速分速秒速カードでバトルするのも流行っています。

時速や秒速でエントリーしているのは、木星、チーター、台風、なまけもの……など。

 

台風23号がスカイツリーに何秒でのぼれるか知っていますか?

木星と500系新幹線はどっちが速いか知っていますか?

秒速を時速になおしたり、時速を秒速になおしたり、距離と速さから

時間を求める方法を覚えたら、いろいろわかって面白いですよ。

 

山に登ったことある子、高いタワーに登ったことある子もお知らせください。

 

木星や新幹線が、その距離をどれだけの時間で制覇できるか教室をあげてチェック中です。

 

50メートル走のタイムがわからない小さな子たちは、お家の人といっしょに3メートル走や2メートル走(無理なくメジャーで測れる距離でOK)のタイムを計ってみてください。

時速分速秒速バトルにエントリーできます。

 

遠方で夏休みしか教室に来れない子や教室に通っていない子で参加したい子は、名前かあだなと50メートル走のタイムと年齢と髪型をお知らせください。

カードを作っている子たちが、作ってくれると思います。


教育と学習方法について考えること (息子とおしゃべり)おわりです

2016-10-31 10:17:12 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

ゆとり教育世代の息子。

自分が受けた教育の質うんぬんより、教育の形がより良いものに洗練されていくのでなくその時々で、まるでファッションの世界の流行と衰退のように大きく揺れていくことに、疑問を抱き続けていたようです。

 

息子 「自分自身で学ぶ内面のプロセスに関する情報っていうのは、教える側にも、今の何十倍も必要だと思うよ。

だって、教師になる人は、例えれば箱の中にある青いボールについてすでに知っている側、わかっている側の思考プロセスで教えようとするけれど、教わる生徒は、箱の中に何色のボールがあるのかわからない側。

場合によっちゃ、ボールが入っているのかどうかさえつかめていない状態で学んでいるんだから。

そこで、青いボールについてどう説明するかとか、青いボールの次に何色のボールについて教え、その理解度をどうやってテストするかってこと以外に、

箱の中に何が入っているかわからない状態から、そこにボールがあり、その形と色を認識するために必要な思考のプロセスはどのようなものか、

わからないという状態にはどのようなわかる側からは理解しがたい盲点が潜んでいるのか、情報として把握しておく必要があると思うんだよ。」

 

 小学生の頃、ボードゲームやパズルを手作りするたびに、姉の友だちから、

「お前には初心者向けっちゅう発想がないんかーい」という突っ込みを入れられていた息子。

初心者側の視点に立つこと、学ぶ側、生徒側の理解度に配慮することの大切さについて、よく考えるようになっているようです。

教育問題については、次のような感想も言っていました。

 

「教育問題が議論されているとき、一番問題に感じるのは、小学校、中学校、高校のそれぞれの教員の立場、大学の研究所の立場、

企業の立場、臨床の立場、予備校や塾の立場、メディアの立場、子育て中の親の立場と、それぞれ別の切り口で論点の優先順位が目まぐるしく変化していて、会話がちぐはぐになっているよね。

ぼくは教育の世界を語りあうためには、その前提として、あらゆるマイノリティー側の意見も拾って、数学的な平等さで体系化された相関図のようなものと、

それらをどの立場にも偏らない視点から網羅してある百科事典のような情報が必要だと思うな」

 

母  「確かにそういうものがあると、教える際の立ち位置や自分の向かっていく方向がわかりやすいわね」

 

息子 「何のためにそうした情報が必要かっていえばさ。

身近な例でいくと、○○式といった体系学習と、お母さんが子どもに教えるときの教え方の優劣は、測れない種類のものだよね。

でも、多くの人はそうは思わないはずだよ。

メディアで成功しているか、有名であるかということが、まるで教育の質の良し悪しを測ることができるように錯覚するからね。

 

過去の時代に価値を持っていた教育観も平等に評価しなおして、子どもの生きている形について、できるだけ正確にバランスよく教育という面から捉えて体系化すれば、それぞれ教える側の人が、時代の流行に飲み込まれずに、個人としてかしこくなれるよね。

自分はどのように教えるのか、その子どもにはどのような教え方が適しているのか、一番いい方法が探りやすくなると思うよ。

それと、まず教育について議論するときに迷走しないですむよね」

外食ついでに教育と学習方法についていろいろと話しあった後で、まだ話し足りなくて、結局、翌日も翌々日もその続きをあれこれ言いあっていました。

 

息子 「算数オリンピックとか数学オリンピックのいいところってさ、自らアウトプットするってところにあるのかな?

学校の授業は一方通行にインプットされるばかりだし、定期テストはアウトプットとしては、価値が怪しいしね。

前から定期テストのために勉強するのってどうなのかなって思ってたんだけどさ。

そもそもテストってそういうものじゃなくて、勉強した成果がテストの成績であらわれるってのはわかるけど、その逆はちょっとさ……続けていれば必ず学習動機を見失うよ。

話しが戻るけど、アウトプットってとても大事だと思うよ」

 

母 「でも、アウトプットが大人たち……つまり親や教師の成果比べのために使われることもあるから、どうなのかと思うときもあるわ。

インプットの良い面、悪い面、アウトプットの良い面、悪い面を押さえておく必要があるのかもね」

 

息子 「確かに、コンピューター内って、誰もが気楽にできるアウトプットのスペースになっているけど、そこに問題がないといったら嘘になるしね。

アウトプットばかりだと、他人の意見を聞かずに自分側から好き勝手なことを言うだけになりがちだな」

 

母 「教育現場ではいい形で実現しにくいのかもしれないけど、インプットにもアウトプットにも偏りすぎないやっぱり相互交流という形の学びっていると思うのよ」

 

息子 「そうだな。相互コミュニケーションをしているときは、思考が断片化されないってメリットが大きいもんね。

最近、思うんだけど、テレビを見ていると頭が悪くなるってよく言われるのは、番組が低俗だからとか、脳内物質がアンバランスになるからなんてことより、思考が断片化されてくからじゃないかなって思うんだ。

あくまでもぼくが自分でテレビを見てて感じることで、何の根拠もないんだけどさ。

テレビの画面を目で追っていると、最初に自分の頭にあったことが、次には何の脈絡もない話題に切り替わるようなことがしょっちゅうあるんじゃん。

そのせいでテレビがついていると、理由もなく疲れていることがあるよ」

 

母 「断片化? あまり考えたことがなかったけどそうよね。

その断片化って、いろんなところで起こってきているように思うわ。教育現場なんかでも」

 

息子 「確かに、学校の授業は思考を断片化しがちだよね。

集団で学んでいるから仕方がない面もあるけれど、はい、次、はい、次……って、生徒の理解の度合いに関わらず進行していくからね。

どうりでどの受験向けの参考書にも学校の授業を聞かずに内職をすることを勧めているわけだな。

断片化しないようにきちんと思考をするには、いろいろ考えた後で、それをひとつに統合して、蓋をするって作業がいるんだろうけど、

ぼくは自分で勉強するときには、その都度、そうしたけじめをつけていくんだけど、学校ではそういうことを大事にしないよね。

断片化のメリットは、生徒の進み具合が明確にわかることだろうから、どれだけ進んでいるか、どこまで進んでいるかを教師や親が把握することが優先され過ぎて、むしろ思考を断片化していくことを良しとする風潮さえあるよ」


教育と学習方法について考えること (息子とおしゃべり) 続きの続き

2016-10-30 18:05:15 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

息子が学校の平等主義を批判していたのを受けて、わたしは息子に自分が小学校時代に体験したことと、それによって起こった自分の心に内部の体験と、それと関連する最近読んだ雑誌の記事について話しました。

 

小学6年生の時、ハンディーキャップを持っているひとりの女の子と同じクラスになったのです。

その子はたびたび教室を飛び出していき、担任の女の先生は、わたしたちに自習をするよう言い渡して、その子を追いかけていくことがありました。

わたしはその先生の担任になるまで、授業中に手遊びしているか、窓の外を眺めているか、ぼんやり空想に浸っているか、そんな困った生徒でした。

まぁ、その先生が担任の時も、クラスの友だち数名といっしょに授業中に交換日記を回していた容疑で『終わりの会』の裁判にかけられていたくらいですから、きちんとしているとは言い難かったのですが……。

 

その先生はただ教科書を教えるのではなくて、みなが自分の頭で考えるように促すように教える先生だったので、わたしなりにはちょっとはしゃんとして、夢中になって授業に参加するときが増えていました。

それはクラスの他の子らも同じで、クラスの中には勉強に対する、能動的にかかわろうとする態度や愛情のようなものが、満ちているように感じられました。

 

それで学力という面では、当時の親たちはおそらく不満を抱いてはいなかったはずですが、自習が増えている点へのクレームはたくさん出ていたようです。

何度か親たちと先生の意見交換の場や子どももいっしょに参加する形の説明会が持たれていました。

子どもたちも参加している説明会で、先生は黒板に2つの鍋の絵を描き、一方を塩の足りないスープ、もう一方を順調に煮立っている味が整っているスープなのだと言いました。

それから、わたしは一人ひとりの子を大切に思うし、一人ひとりの子の成長をていねいに見ていて、そこで、味が足りないものがあれば塩を足し、

おいしくできているものには塩は足さずに見守るようにしているのだと言いました。

先生がスープの比喩で、誰のことをどのように説明しようとしているのか、子どものわたしにもよくわかりました。

確かに授業は自習になることはあっても、放課後になると先生は、何だかしゃべりたい気持ちが溜まっている子がいるとそこに行ってゆっくり話を聞いていましたし、わたしたちが口げんかをして揉めると、どちらの言い分にも耳を傾けてくれました。

 

そんなわけで、わたしがその体験の中で考えていたことというのは、

「先生っていうのは、うちのお母さんとかより自分の考えとか信念ってものがあるんだな。灰谷健次郎のお話に出てくる人みたいだから。

うちのお母さんは、○さんのお母さん(自分の子を学校の劇の主役にするために、少しこすい手を使ったとうわさされていたクラスの子のお母さん)よりずっと普通のお母さんだと思っていたけど、ちょっと馬鹿なところがあるんだな。

その馬鹿ってどんな馬鹿かというと、「井の中の蛙大海を知らず」っていうことわざの蛙みたいな種類のお馬鹿加減で、いつも団地の前に集まってそこから見える世界が全ての世界のように思ってるから、あんな風に考えるんだな。

だって、学校に講演会に来た植村直己さんみたいに世界の果てまで冒険に出かけたとしたら、授業中に誰かが飛び出して行ったとか、自習が少し増えたくらいであんな大騒ぎするはずないもの。

先生が見ていないところで自習しているときも、みんなきちんと勉強しているのに。

わたしたちはもう6年生で、教科書を見れば字も読めるし、計算問題を解いていくくらい自分たちでできるのに。

それにきちんとしていなければ、クラス委員の子が騒いで学級会でみんなから責められるだろうに」

 

わたしは担任の先生が好きだったので、先生の肩を持つようなところがあったし、ちょうど思春期に差し掛かる時期で、それまで完全ですばらしい人のように見えた母の魅力が急に色あせて感じられるときでもあったので、そんな辛口批評が心に湧いたのでしょう。

 

ひと昔前のことでもあるので、先生が正しいのか親たちが正しいのか、賛否のほどは脇に置いておいて、この体験のなかで、わたしは、他人が見ていないところでもきちんと自分の義務を果たそうと思う責任感のようなものを意識しました。

また、少し視野や世界が広がったような気もしました。

 

親たちが危惧していたように、ハンディーキャップがある子がいっしょにいると、いっしょになって遊んだり怠けたりしたがるようなことはありませんでした。

先生のわたしたちに対する信頼感や期待にきちんと応えていこうとする気持ちがありましたから。

むしろ、わたしたち子どもにはそんな心など存在しなくて、人が見ていないところでは、まるでしつけのなっていない犬のように振舞うだろうと疑っている親たちに対して、ちょっと幻滅していました。

「じゃあ、わたしたちが国語の教科書で習っているものは何なんだろう?

わたしたちは、幼稚園のころ読んだ『ひとりでおるすばん』なんて絵本よりずっと複雑な心を扱った物語を習っているというのに……」

 

わたしは息子に、そんな子ども時代の体験と心で感じたことを話した後で、こんなエピソードも聞かせました。

「雑誌でこんな話を目にしたのよ。親の事情で病院での診断は受けていないものの、自閉症と読み障がいが重なっていると思われる子がいて、

養護教員が1年生のときから、教科書にふりがなをふる対応を続けていたそうなの。

それで、その子は4年生まで続けていたその対応のおかげで、何とか戸惑うことなく学校生活を続けていたんだって。

でも、それまで他の保護者から、どうしてその子だけ、ふりがなをふってもらえるのか? という苦情が届いていたらしくて、悪い対応例なんだけど、

特別支援教育コーディネーターの判断で、医療診断がないから特別な支援の打ち切り……ということになったらしいのよ。

診断がない子同士、不公平があっちゃいけないとかなんとか。

どんな平等感かって驚いてしまうんだけど。

 

同じ紙面に、生徒の学び合いを大事にしていた教師が授業中に解けた生徒が解けない生徒にわかりやすく教え合うという授業をしたところ、

他クラスより学習進度が遅れたそうで、親たちから、わからない子どもは放っておいて、授業を進めてほしい、と言われて辞職した話も載っていて、

勉強って、個別に他人より先に進むことなのか、子ども時代に学ぶことって、それだけなのかって、自分の子ども時代の親たちに

してもやっぱり心が狭かったな~と思いだして悲しくなったわ」

 

息子 「ぼくが小学生の頃、学校の先生たちは、勉強をさせたり、規則を守らせたりするために、年がら年中、損得勘定を刺激するようなことばかり口にしていてさ。

勉強しないければ……規則を守らなければ……将来、どんなに悪いことが起こり、他人から迫害されるような人生を歩むのか、繰り返し洗脳するように言い続けていたわけだけどさ。

そうして強迫概念を刷り込まれて成長していけば、そういう考えをする大人になるだろうし、そういう考え方をする大人に囲まれていれば、

勉強ができない人や規則を守れない人は迫害したっていい、切り捨てていけばいいと思うようになるよ。

でも、子どもって学校で習得する学習過程をこなしていく存在ってだけじゃなく、人間の活動全てに関わる無限の存在でもあるんだよね。

ひとことで子どもといったって、人間としての全ての要素を持っているんだから。

どんなに小さくたって、死ぬ苦しみも、生きるってことも、何が良くて何が悪いかと道徳的に判断していくことも、音楽も映画も、お金に関わることも、人とのつながりも、環境とのかかわりにしても……

そのどれもひとりの子どもに含まれているからね」

 

息子と話しこむうちに、息子自身はどのような学校教育を受けたいと感じてきたのか、どのようであればいいと考えているのか知りたくなって、それについてたずねました。

 

息子 「一度、勉強を損得勘定とつないでしまうと、そこから勉強自体の面白さ……つまりパズルを解くような学ぶ楽しさに気づいていくのは難しいもんだよ。

大人は、勉強しないと将来、こんな困ったことになる、こんな損をするといった損得勘定を刺激するような安易な動機付けをして、生徒たちを机に向かわせようとするけれど……

ぼくが学校で出会った先生たちのほとんどが、口を開けばそうした脅し文句を繰り返していたけれどさ。

 

現実に社会を見渡せば、頭がよくなることがそのまま幸福な人生を保障してくれるわけじゃないことくらい小学生にも見えているんだよ。

実際、かしこくなればなるほど厭世的な思いにとらわれて、無気力になっている人は多いよ。偉人の伝記を読んでも、ネットでの発言を見てもそれは顕著。

人と関わるのが億劫になったり、ささやかな善意を素直に喜べなかったり、日々の営みをつまらなくてくだらないことのように感じて、より単純なもので楽しめなくなっているんだ。

だからって頭がよくならない方がいいってわけじゃないけど、教える側や教育する側に、脅し文句に変わるもっと確かな教育のための哲学が必要だってことじゃないかな?」

 

母 「それなら、実際の教育現場はどのようになればいいと思うの?

現実に足りないものや改善点は何だと思うの?」

 

息子 「小学生って、足し算習って、かけ算習って……と、次々、新しい知識を教えられていくけれど、後から振り返ると、そうして6年間に何がどこまでできるようになったかなんて進歩よりも、

本当は習う内容なんてどうでもよくて、それを通して自分なりの勉強のやり方をきちんと身につけることができたかってことが、その後の出来不出来を決めていくと思うんだよ。

ぼくは小学校であれほど漢字を大量に書かされてもいっこうに覚えることができなかったのに、ある時から漢字を覚えるのが簡単になったときに気づいたんだけど。

たとえ100回書いて苦しい訓練を積んだところで無駄な努力は無駄なままで、それよりも1個の漢字を、ああ、こうしたら覚えられる、こうやってできるようになるんだってことを、

1回のプロセスの成功から身体で学ぶことが必要だとわかったんだ。

1個覚えるときに、どういう手順で、どういうプロセスで覚えたかわかったのかということを、あいまいなままにせず、きちんと自分で了解すれば、その後は急速に勉強が楽になる。

もし、教育の現場で、ひとつだけなおしたらいいことを挙げるとすれば、自分自身で学ぶ内面のプロセスに関する情報を増やすってことかな。

教える側も、子ども自身も。

たとえば、足し算、引き算を大量に計算カードで練習している子たちは、足し算ってどういう意味なのか、引き算ってどんなことなのか、

どういうときに成り立って、どのような不思議さや不可解さが含まれているのか、足すことと引くことでどんな可能性が生まれてくるのかといった

「1+1」というひとつの数式に関する情報をほとんど与えられていないよね。

考える機会すらない。

そんなにも情報が少ないままに、大量に覚えていくことで、自分でそれをわかるってプロセスがつかめないままでいる子は多いと思うよ。

そこに、なぜ、という問いが入り込む余白がないから」


蜘蛛の巣を作ったよ♪

2016-10-29 20:41:37 | 理科 科学クラブ

年長のAちゃんとBちゃんのレッスンで。

今日、何をしたいかなかなか決まらないふたり。

そこで、「教室のなかを自由に歩きまわってみたら?作りたいものや実験したいことが見つかるかもしれないよ。

ほら、そこに飾っている遊園地のコーヒーカップなんてどう?くるくる回る面白いしかけが作れるよ。

それかゲームを作るのはどう?教室においているどのゲームも、同じようなものが作ってみたかったら作れるし、お家で遊べるよ」

というと、「コーヒーカップはやめとく、うーん」と言いながら、教室のおもちゃや実験道具を見てまわっていたふたりは、ハローウィン用に棚にかけていた蜘蛛の巣の飾りに目をとめて、「これが作りたい!」と言いました。

 

Aちゃんによると、少し前に『猛毒展』に行って、毒グモを見てきたそうです。

Aちゃんは猛毒展にいたひとつひとつの生き物についてそれはていねいに説明してくれました。

 

梅田のHEPファイブで開かれていた『猛毒展』はちょっとこじんまりしすぎかな……というものでしたが、子どもにとっては、少し想像力を膨らませないと楽しめないくらいの地味なイベントごとの方が深く心に響くものです。

わたしも子ども時代の思い出深い体験のベスト3は、野外で昆虫の科学ドキュメンタリーを見たこと(虫好きでも何でもなかったのに……)や、

自転車置き場の上や物置の上に登って遊んだことや、はじめて図書館に連れて行ってもらった時のことです。

サーカスや遊園地や珍しいレストランにも連れて行ってもらったけれどそちらはほとんど覚えていません。

 

「蜘蛛の巣を作りたい」と聞いて、『飼育と観察』という古い学研の図鑑を出してきました。

 1971年初版のものなので、子ども向けの図鑑とは思えない内容に、思わず笑ってしまうようなページもかなりあるのですが、(水槽の作り方とか、

カメのための池の作り方とか、ハチの観察の仕方とか、熱帯魚の飼育のための生餌のイトミミズを飼っておいたり、刻んだりする方法など)、最近の洗練された図鑑にない魅力も満載の本です。

 

この図鑑にオニグモがあみをはる手順が、初心者向けの編み物の本さながら、ていねいに解説してあります。

Aちゃん、Bちゃんもすっかり蜘蛛のあみのはり方に魅了されていました。

最初に自分の体重を利用して三角形を作って、木の枝などに枠糸をはってから、放射状に糸をはっていき、最後にうちがわからぐるぐる巻きの形に糸をはっていく様を一生懸命、真似していきました。

最後に、ねばり糸の「ねばり」をつける意味で、ピンクのビーズも貼っていきました。

 

Bちゃんは図鑑の索引が気に入って、調べたい文字を探しては、指定のページを見にいっていました。

 

生駒山に登ってきたというAちゃん。

さっそく教室の距離カードに加えることにしました。

高さは、642mです。

算数のレッスンでは、10のカードを作って、繰り下がりのあるひき算を学びました。

 

 


教育と学習方法について考えること(息子とおしゃべり)つづき

2016-10-29 08:16:27 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

わたしの話を聞いていた息子は、次のように言いました。

 

息子 「ぼくは言語には欠陥があって、その欠陥に無自覚なままで言語主体の話合いを続ければ、いろいろな誤解が生じてくるのは仕方がないように思うよ。

言語の欠陥を補うために、数学的な考え方や数学の世界の言語を議論に取り入れるといいように思うんだ。」

 

母  「言語の欠陥って?」

 

息子 「言語というのは、物と物と比較する上で勘違いを起こしやすいからね。

たとえば、ある政治家がひとこと言い間違いを犯して、メディアや国民からいっせいに非難を浴びるとするよね。

で、そのひとことの重さというのは、その政策全体の価値に対してどれくらいの汚点にあたるのか、言語はそうした数値的な比較を背景に遠のかせて、人々の関心や感情やメディアのその時期の注目度によってその価値を調整していくじゃんか。

数学の世界で名著と言われているものの場合、それを理解して良し悪しを決定するのは数学について、ある一定の理解の基準を満たしている人々になるから、名著と評されているものが正しく名著である確率は高くなる。

 

でも、国語の世界は母国語であれば、よくわかっていなくても、わかった風なことを言ったり、評価する立場になることは可能だよね。

場合によっちゃ、正しく理解している人が2割、わかっていない人が8割なんて状態で、物の良し悪しが決められることだってあるんだから。」

 

母 「言語は、錯覚や勘違いを含みやすいから、数学の世界の言葉を議論に取り入れるってどういうこと?」

 

息子は紙に一部が重なっている2つの円を描きました。

 

息子 「お母さんが、今、仕事上での考えている上での立ち位置っていうのは、集合のべん図で表すとこの重なっている部分にあたるんだよね。

それか、もうひとつ円を加えて、この3つ目のCの円を含む3つの円が重なる部分を除く、最初のAとBの円が重なっている部分ってことのなるのかもしれない。

つまり、数学の世界の図で描くと、それは当然過ぎるくらい当たり前のある部分なんだ。

 

でも、それが言語主体の話合いだけで進めていると、A派に属することが、そのままB派と重ならないことを意味するような関係しかないように受け取られがちなんだ。

 

数学は同時にいくつかの関係を表現できるけれど、言語はその都度、ひとつを選んで、表現するものだからね。

 

数学の世界ではAの方程式とBの方程式が存在するときに、問題によりけり、条件によりけりで、この場合はAで解くべきか、Bで解くべきか、

AB両方を複合させて解くべきか、AでもBでもダメなのか、AとBをベースにして全く新しいメタな解決法を必要としているのかっていう選択が、ごく当たり前の前提として存在している。

 

そこには流行も人の感情も、時代の空気も、その評価に参加する人々の能力のばらつきというものにも振り回されず客観的に物を考えていく道具としての数学の長所が生かせるんだ。

もちろんそうして全体を把握した上で思考するのも決断するのも人間なんだけど、議論の途中で言語の持っている欠陥によって問題の解決がうやむやになるなんてことはあまり起こらない。

 

ぼくが物を考えるときに、頭の中にマインドマップのようなものを思い浮かべるけれど、よくあるマインドマップのように中心があって、

それから枝葉を広げていくようなものではなくて、相関図のようにたくさんの中心があって、それらのどれが主体となるわけではなく矢印によって関係が示されてイメージなんだ。

そうしてまず、全てを平等に価値のある概念として、イメージ上に配置した上で、それらがどのような関係を創り出しているのか、矢印を行き来させて、考えていくんだよ。

社会学や世界情勢についてや、教育の問題なんかについて考えるときも、そうしや相関図やグラフや表やベん図や線分図なんかで、いったん感情を入れずに全ての情報を洗い出してみてから、

ファジーさや柔軟さを残した状態で、どのように感じて、どのように思うのか、考えを練っていくんだ」

 

夕食を取りながら、わたしは次のような思いを息子にこぼしました。

 

母 「教室で年上の子と年下の子が混ざっているグループを作ると、年下の子たちの親御さんは喜ぶけれど、年上の子の親御さんが不安になって、クラス替えを希望してくることが時々起こるのよ。

レッスンは、多くて4,5人という少人数制なので、学習内容は完全にそれぞれの子の個別の能力に対応しているし、それぞれの子の能力が最大限に伸びるように対応しているのに、それでも不安になる姿を見るとね……。

何でもお金で買える消費の時代になると、自分好みのお金で買うって経験ばかりが増えて、経験の幅が狭まるように思うわ。

 

たとえばね。教室で兄弟姉妹でレッスンに別々に来ている子を見ると、工作をしていると、上の子は誰に何を言われるでなく、上手にできたから妹や弟の分も作ってやりたいからもう一セット材料がほしいといったことを言うの。

それで、その子の妹や弟が来て工作作品を作ったときに、「上手にできたね~。お家でお姉ちゃんが貸してほしいなって言ったらどうしよう?」ってたずねると、口をとんがらせて、嫌だな~貸すの嫌~!と言うのよね。

いつも下の子の立場で可愛がられたり、もらったりする側しか体験したことがないから、自分が損をしてでも、自分以外の人の気持ちに配慮するなんて思いもよらないのよ。

 

一昔前なら、次々、自分より下のきょうだいは生まれるし、近所に年下の子がいるしで、年下の子と過ごす体験なんてどこにでも当たり前にあったんだけど……。

最近では、ひとりっ子や下の子として生まれたら、大きくなるまで、一度も年下の子たちと接する中で、年長者としての責任感に目覚めてリーダーシップを取ったり、年下の子に配慮したりする経験がないままで過ごす子も増えてきているのよ。

いろんな立場を体験するってね、時々、公園で年下の子と交流するときがあるといった程度では意味がないのよ。

さまざまな役割を体験するなかで、自分の義務や責任や誇りに目覚めてくるのに、今は、経験が買えるだけに、どの子も同年代の子と、自分が~!自分が~!と自分の得になるよう主張することしか体験できないのよね。

それでは、表面的な知能は伸びたように見えても、自分を律していく意欲が育たないわ。

そういうことが最終的には、学力が伸びない原因にもつながってくるはずよ」

そんなわたしの愚痴を聞いて、息子がこんなことを言いました。

 

息子 「うーん、お母さんのしている教室は特殊で、習い事というよりも大学とかの少人数のゼミとか研究室のようなところとか……といってぼくはまだ大学に通ったことがないから、ゼミがどんなものかちゃんと知らないんだけど、そんな特殊な場だからさ。

弓道部とか、美術部みたいな個人個人で能力を磨いていきつつ、集まっているクラブのような場でもあるじゃん。

でも、ごく当たり前の感覚として教室と名のつくところのイメージで、下の年齢の子たちと同じクラスで学ぶことに不安や不満を持つのは当然といえば当然の気持ちなんだと思う。

きっとそこには、学校の行き過ぎた平等主義が背景にあるんじゃないかな?

それが行き過ぎると、上から下に教える経験はあっても、上のものが下のものから学ぶ経験があるなんて想像もつかなくなるはずだよ。

お母さんの教室では、小グループで年上の立場を体験することで、リーダーシップを取ることや、尊敬を集めること、自己肯定感を高めること、

自分の立場を普段とは別の位置に置いて視野を広げること、自己コントロール力をつけること、

責任感に目覚めること、我慢や他者への配慮を学ぶことなんかが、その体験を通して得られるように工夫して、同時に個人的な能力は可能な限り伸びるようにしているんだよね。

その効果に対する実感をお母さんがいくら持っていたとしても、それを他の人に伝えるのは難しいように思うな。

だって、世の中にある教室と名つく場所が、学校のシステムに倣い過ぎていて、それ以外のイメージを想像しようもないところがあるから。

学校では、決まりきった形式を逸脱できないから、それぞれの能力に差がある子たちが集まっていたとしても、その場にいる子らに平等に同じ知識や課題を与えようとするよね。

生徒本位じゃないんだ。

だから、1回の講義で、ここからここまで学ぶと決まっているとすれば、それぞれの子がわかっていてもわかっていなくてもその内容はそれ以上にもならないし、それ以下にもならないよ。

そうした平等が、どこの世界にも浸透しているから、水泳教室のような子供向けの習い事にしても、輪切りにされて集められたクラスで、

もし自分より能力が下の子たちのクラスに入れば、やっぱり損をこうむることになるのは事実だし、リーダーシップの取り方や責任感を学べるわけでもないじゃん」

 

母 「そうね。そうしてどこもかしこも名目は違っても人としては同じような心の体験しかできない場ばかりになっているのは気になるけど……

でも、不安になる気持ちはきちんと理解しないとね」

 

息子 「教育って受けている側の立場から言うとさ、理想の子ども像や自分たちのあり方ってものが、その都度、流行や、メディアの報道や、

その時期の政治のあり方や考え方や事件や、その時期その時期の大人たちの気分のようなもので変わりすぎるからさ……

ほら、やんちゃでガキ大将のような子で冒険好きで面倒見のいい子をよしとしたかと思うと、

翌年には、物静かで読書好きで聞き分けのいい子をよしとして、次には創造力があって自由な発想ができるのがいいんだってしたりね。

そういう大人が子どもに求める像の変化を感じとりながらも、子どもが見ているものって、実際、生きている大人たちの姿でさ。

 

大人になれば勉強が必要ないって思って暮らしている大人が、いくら子どものときにしっかり勉強しないと将来、損をするからと脅したところで、

そこにある矛盾や大人の嘘くらいはどの子も、すぐに見抜いてしまうもんだよ。

大人にとって必要がない勉強が、子どもの自分たちにだけ必要だなんておかしすぎるってさ」


教育と学習方法について考えること (息子とおしゃべり) 1

2016-10-28 15:20:45 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

まだ息子が受験生だったころ、親子の会話を記事にしたものです。
(会話は、メモに残していたものを、ほぼそのまま載せていますが、話が脱線して長くなったところなど、少しだけ修正した部分があります)

 

息子といっしょに近所のイタリア料理の店に行った日のことです。

息子は夏の間、苦手科目の足踏み状態が続いていたらしく、焦る様子はないものの本人なりに苦しんでいたようなのですが、9月に入って、清々しいほど明るい表情で受験勉強に向かうようになっていました。

お店に向かう道すがら、こんな話をしました。

 

息子 「このところ夏の不調がウソみたいに調子がいいよ。あっ、そうだ。忙しくて国語が手つかずになっていたんだけど、久しぶりに赤本に目を通してみたら、急にできるようになっていてさ。

それが勉強とは別の問題でも、お母さんとひとつのことを突き詰めるまで、さんざん議論したのが良かったみたいなんだ。

メタな視点から問題を捉えて、どのように答えをまとめたらいのか見えるようになった。」

 

母 「そうそう、議論って本当にいいわよね。

今日もレッスンに来ていた年中さんたちと、『少し』とか『ちょっと』ってどれくらいのことなのかって議論をしていたんだけど、どの子も『たくさん』と捉える量は状況によって変わるから、

どれだけを全体量とするかや、誰の視点で『1の量』を捉えるかで、少しやちょっとが相対的に変化することがわかっていて、それを道具を使ってきちんと説明してくれたのよ。

議論をすることって、とっても楽しいし知的ないい刺激になると思うわ」

 

息子 「そうだね。議論は大事だ。夏の一時期、受験のプランの王道ってのに無理に自分を合わせようとして、やってもやっても確実に伸びている実感が湧かなくて悩んでいたんだけど……。

この数週間で自分なりの方法を確立したら、ようやく勉強が軌道に乗りだしたよ。

自分なりの方法って、自分自身の内面でする議論のようなものなんだけど、問題の数をこなすのではなくて、ひとつのことについて、とことんしゃべるように分析するんだよ。

たとえば、この間、解いていた東大の数学に問題にしても、解答に行きつくまでに100のプロセスを踏まなくてはならないとしても、

そのひとつひとつを分析すれば、要は小学校低学年で学ぶような足し算でさ、最終段階からひとつひとつ遡るとすると、とてつもなく簡単なんだ。

それじゃ、そんな簡単な問題を解くのに何が求められているのかというと、それを導き出す思考のプロセスを思いつく力でね。

それには多量の問題をこなすよりも、ひとつの問題について、最小単位まで条件を分けていきながら分析してみると身についてくるよ。

たとえば、英語の文章を見たときにも、これは不定詞を使っていて、こうとも読み取れるし、こうとも言えるし……と、いった具合に、少量であっても、

これ以上分けれないってところまで分析して見ていけば、どの問題も結局はほとんど同じような構造でできていてさ。

よく考えもせずに、多量に問題をこなすことに気を取られずに、いったんそこに立ち止まることをよしとする気持ちの余裕さえ持てたら、難しい問題なんてただの見せかけなんだよ。

そうはいっても、現実の受験勉強はたやすいことじゃないけどね。時間も努力も能力もまだまだ足りない。」

 

母 「私もひとつひとつの経験を大切にするようにすると、そのひとつはどの物事にもつながっていくのを日々、実感している。

たとえそれがごっこ遊びでも、工作でも、ひとつの体験に深く自分自身を投じたら、そこから得るものは、何冊分ものワークに勝るわよね」

 

息子 「あれもしなくちゃ、これもしなくちゃという焦りを手放して、好きな数学に時間をかけてみたら、数学の勉強が他の教科の学習を急に簡単にしてくれるんだ。

最近、思うんだけど、数学って答えを出すものじゃなくて、ややこしく絡み合って見えにくくなって前面しか見えなかったものの背景からそのものを浮き立たせたり、シンプルにして見えやすくするものだなって。

数学は虫眼鏡のような道具にもたとえられるよ。

数学を解くというパズルのような対象ではなく、虫眼鏡のような物事を見えやすくする道具として利用するとさ、どの教科の勉強も急に扱いやすくなるんだ。

この頃、これは図やグラフにできそうもないというようなものも、嘘や適当なものでもいいからとにかく図やグラフや相関図なんかにしてみるようにしているんだ。

すると、これは解決しようもない、これは理解できないというややこしさを持ったものも、数学の言葉を使えば驚くほど簡単に説明できてしまうんだ。

そうなると勉強の敵は、そうした図やグラフにするような時間を無駄な時間として許せないような強迫観念でしかないよ。自由にひとつのことをじっくり考える時間があれば、難しいと感じていたことも一気に易しくなって、突破することはできるんだよ。

数学は勉強すればするほどいろんなことが見えてきて、本当に面白いよ。」

 

我が家の性格タイプを大きくふたつに分けると、主人と娘は似たところがずいぶんあって、私と息子は物を考えるときのプロセスや好きなものとの関わり方など共通点がたくさんあります。

主人も娘の社会に適応するのが上手で、多数派と楽しく、一方できちんと自己主張しながら渡り合えるタイプで、私と息子は人づきあいは苦手じゃないけど、たいがいが少数派に属していて、マイペースで何でも自己流にするのが好きなタイプです。

主人も娘も目的や目標が決まると、その達成に向けて、情報を集めて、それを見比べて、テキパキと選択していって、そこで浮上した問題点について話し合い、即座に判断して解決するやいなや、実行に移すためにさっさとその場を立ち去る……という忙しい方々。

その素早い動きに噛み合ったためしがない私と息子は、どう転んでも大差がないような話題で延々と議論しあって、行き着く答えが、息子の言葉を借りると、

「あらゆる物事に、ファジーさとか柔軟さといった不確かさを含めておく態度が大事だと思うよ」なんて、スパッと決断したい人々からすると『ふりだし』に戻ったような結論。

そんな不毛とも見える議論も、現代国語の成績アップにつながったというのなら、あながち無駄ではないのでしょう。

 

息子とわたしはユングのタイプ論で分類するなら、おそらく「内向的直観型」と思われますが、私はどちらかというと思考を使うよりも、感情で捉えたことを実践の場で使うのが得意なので、内向的直観型の感情寄りなんじゃないかと思っています。

 

息子は物事を直観で捉えると同時に、それらを思考で分析して、それを苦もなく言葉で言い表すことができるので、おそらく内向的直観型の思考寄りの子ではないかと思っています。

息子が、「あらゆる物事に、ファジーさとか柔軟さといった不確かさを含めておく態度が大事だと思うよ」と感じるようになったのは、受験で地理の勉強を進めるうちに、強くそう思うようになったのだとか。

 

息子 「地理を勉強しているとね、ルワンダとかナイジェリアとか……戦争が絶えず起こっている理由に、正しいか正しくないかひとつの答えを正しいものとして決定してしまうこと、

つまりAの民族には得になるけれど、Bの民族には損することが確定するような政策を正解として置いてしまうことにあると思うんだ。

正しさはある物差しを使えば確実に思えるものも、視点や立ち位置が変われば、その正誤のほどがあいまいになるものだよ。

お母さんもそうだろうけど、たとえば、UFOについての大発見があったとして、その情報の正しさに納得ができたとしても、それに対しての自分の考えはあいまいにしておきたい、

もう少し不安定がグラグラした部分で経過を眺めていきたいと思うんじゃないかな。

これはこうと決めつけずに、傍観者の立場でいたいときがあるんだよ。」

 

母 「それ、お母さんの仕事で今まさに感じていることよ。

お母さんは教育や子育てや療育の世界が、個体能力を伸ばそうとする発達促進の考え方傾き過ぎているために多くの問題が生じていると思っている側の人間よ。

関わりをキーワードにして、根本的な大人の子どもに対する構えや眼差しの見直しが必要だと思っている。

でも同時に固体の発達促進や子どもの社会に出てからの幸福のために、真剣に悩みつつ仕事をしてこられた方々の考え方を尊敬しているし、

私自身が子どもと1対1で接するときには、その潜在的な能力が最大限に開花することを願ってもいるの。

そんなお母さんの態度は、どちらを支持する方にとっても優柔不断で反対派と融合しすぎているように映るでしょうけど、お母さんの中にはひとつの物事に対する自分なりの態度があって、

いつも相反するふたつのものを微妙な加減で調整をしているの。可逆性ってわかる?」

 

息子 「うん、だいたい。矢印で言うと、こうでこう?」と息子は手で矢印を行き来させました。

 

母親 「お母さんは数学や物理の世界で、可逆性という言葉を捉えているわけじゃなくて、メルロ・ポンティーの本で可逆性とか両義性って言葉に触れて、想像を膨らませてその世界にひたっているとき、

あくまでも雰囲気で考えているんだけど、物事のどちらかひとつに賛成して、それと同時に別の立場を全否定してしまうってどうなのかなって思えてくるのよ。

現実はそんなに簡単に線引きできることばかりじゃないから」

 

次回に続きます。


ぐるぐる丸をかいたよ。 どんどん線路をつないで、広い地面と長い川を作ったよ。

2016-10-26 20:36:38 | こんなこと、やってみたい!

3歳2ヵ月のAくんは言葉や社会性の発達に少しゆっくりな面のある男の子です。

専門家から「まだ丸をかくことができないので、先々、黒板を写す作業などで困るかも」という指摘を受けたというお話をうかがいました。

色画用紙を広げて、Aくんといっしょに工作をしようとしたところ、お母さんとわたしの話を聞いていたのか、Aくんがくるくると丸をかき始めました。

ぼくはちゃんと丸をかくことができるんだよと言いたげです。

 

Aくんがかいた丸がとってもすてきだったので、

「線路みたいね。電車を作って走らせよう」と誘うと大喜びしていました。

 

教室には、「夏休みの工作用の木材セット」を入れたケースがあるのですが、これがまだ手指を思うように使えない幼い子たちの工作に重宝しています。

 

マジックテープを連結部分に貼ると、電車になります。

棒をセロテープで画用紙に貼って、ふみきりも作りました。

今回の工作は、工作そのものが目的ではなくて、Aくんの「えんぴつでかくこと」へのモチベーションをあげるためへの関わりなので大人がかなり手伝ってあげています。

(Aくんも電車の窓をかくことに興味をしめしていました)

 

線路をどんどんつないで、道路をどんどん長くしていって、ブロックの基礎板を床に敷き詰めていくAくん。

 

Aくんがブロックの基礎板の方向を変えながら上手に敷き詰めていく様子を見て、『グローカルヘキサイト』というゲームを出してあげました。

すると、思った通り、大ヒット。一生懸命すべての形を埋めていました。

「パズルはしないんですが、これは好きみたいですね」とお母さんもうれしそうでした。

 

Aくんは算数の学習に強い興味をしめしていました。

数の玉がかいてあるボードを手で隠して、いろいろな数から「ひく1」をしてみるのが気に入って熱心に取り組んでいました。


4歳前後 学習の土台を作る遊び 

2016-10-24 20:23:45 | 3、4歳児

4歳前後の子たちは、「数量概念の形成」を目的とした遊びが、とにかく大好きでつまり、将来の算数の力の土台となるパターンを自分の中にインプットしていこうとするよう貪欲な遊び方です。その年代の子のグループレッスンも、個人レッスンも、この「数量概念の形成」を促進させるような遊びが自然と生まれ、どんどん発展していく姿を見かけます。そうした子どもの知能の成長を飛躍させる遊びが、いきいきと繰り広げられるようにするには、身近な大人が、「子どもがどのように数量概念の形成していくかを理解し、子どもの学習の妨害をするのをやめて、環境を整えていく」必要があります。

4歳前後の子たちのグループレッスンでは、お弁当を持ってピクニックに行く遊びの中で、自分から「氷を3個ずつコップに入れてジュースを作りますからね」と言って、ジュースを作っていたり、大小のサイズを比べる、配る、並べる、人数分用意する、バスの乗り降りと増減、水を移し変えて増減に気づいたりと、この年代の子たちがいかにそうした内容に関心が高いかわかる遊び方でした。

この時期に、こうした遊びに全く関心がない子には、いくつか理由が考えられます。

子どもが自由に同じような遊びをしていると、遊びに発展や学ぶことがないような気がして気持ちがせいてくる大人がいる場合

(お皿に、いろいろ乗せては楽しく遊んでいるよりも、かけ算が言えるようになることに価値を感じるような「結果を急ぐ大人」がそばにいると、遊びを、じっくりと時間をかけて展開していく姿が失われます。そのため、考えなくなり、記憶に頼って反射的に何かしては、次の遊びを始めるという2歳前後の子の遊び方をし続ける子がよくいます。)

1~2歳半までに「探索してまわる」「いたずらを繰り返す」「たくさん歩く」「感覚を刺激する水遊び、砂遊び」などをあまりさせていない場合

(足りないと、どうしても次の年代に持ち越されるので、4,5歳の子が1,2歳児の遊びを強く求める姿をよく見ます)

できあがったおもちゃが多くて、算数遊びを展開する遊び道具が、教材教材しているか、少ない場合。

拡散思考が発達する前に、収束思考による考え方しかできないようなインプットをおこなう場合。

(幼児の遊びを見ていると、たくさんたくさんの拡散思考を自分の中から生み出していって、それを試したフィードバックから、微妙な正しさの違いを学んでいます。この時期に、問いと答えがイコールで結ばれるようなインプットばかりしていると、自分で思いつくことや考えたことに自信を失い、大人から教わったことを丸暗記するようになるようです)

生活が慌しく、遊びを中断されがち。中断されることを繰り返すうちに、遊ぶこと自体がめんどくさくなっている場合。

自分で気づく前に大人が教えるので、自分で気づく喜びを味わったことがない場合。

親への愛着がきちんと形成されていない場合。

遊びなのに、遊び心がない場合。

(子どもだからといって、楽しい遊びを次々思いつけるわけではありません。身近な大人や年長の子のすることを見て、学ぶ必要があります。子どものお手本になる場合、楽しい気持ちがあふれてくるような遊び心が大事です)

子どもの世界に「できる」「できない」の評価が入っている場合。

(上手ね、すごいね、と褒めるのだって、大人が出来不出来の結果を気にしつつ褒めていると、子どもから純粋な楽しみやミスを気にせずに何にでもチャレンジしようという気持ちを奪います。幼児期に、もりもりプリントを進めるようなやる気につながっても、小3くらいからの無気力の原因となりやすいようです。

子どもが「できる」「できない」を意識しはじめると、想像力や創造性が阻害されて、遊びから知能を促進するような面が失われていきます。
子どもは、せめて遊びの世界では評価されることを避けようとして、幼稚な遊び方にこだわるのをよく見かけます。

「できる」「できない」への気づきは、子どもの中で無理のない形で自然に生まれてきますが、周囲は小学校に入るまで、子どもの世界にそうした評価したり比べたりする「物差し」を入れない覚悟が必要です。)


変な例えですが、これからさまざまなシステムを構築していって、新しい製品を生み出していこうとしている工場があるとします。

まず、いろんな機械を作りだし、動かしてみて、チェックしていくべきところを、工場内の機械の電源は切ってしまって、できあがった商品をたくさん工場内に持ち込んでは、従業員総出で、他社の商品を使用してみることばかりしていたらどうなるでしょう?

テレビを作ってる工場なら、部品を作る前から、テレビ番組は楽しめるし、従業員は、試行錯誤して壁にぶつかることなく、忙しく「何か」をしているわけで、効率的に見えなくもない……でも、工場の機械は少しも作動していないのです。
数年後に何かが、生み出されてくるのでしょうか?

子どもにしても、大人がいくら外部の知識を与えても、自分の頭と身体を使わせていかないと、この変な工場のたとえと同じように、がんばってもがんばっても、(与える側も使う側も)何だかうまくいかないな~ということになっていくのではないでしょうか?

4歳前後の子のままごとは真剣そのもの。

「3分待ってくださいね」「180度にセットして~焼きますからね」
時間や温度を取り入れて、リアルにするととても喜びます。
といっても、本当の意味で理解するのはまだ先のことでしょう。

市販のままごとセットにオーブンもあるでしょうが、「それらしく」見立てて遊ぶ方が喜ぶ上に、見立てるついでにさまざまな知的な要素を加えて楽しめます。

イスなどの隙間から、皿と食べ物を入れて、スイッチを入れてから、お皿をぐるぐるまわします。(電子レンジやオーブンらしくなりますね)写真では布をかけて、演出しています。
(何かと布を掛けたがる……この時期の子たちです)

4歳前後の子たちの前で、この黒い布を広げて、
「洞窟探検に行く人~?」
「宇宙旅行に行く子~?」
「夜の世界に行ってお化けを見てくる子~?」
などと、その都度適当な提案をすると、
「はい」「はい」と真剣な表情で手が挙がります。

懐中電灯を持って布の中にもぐったあとで、
「どうだった?」とたずねると、
「面白かった」「もう一回行きたい」という返事。
 
 
消防隊が大好きな★くんが、火災現場で放水しているところです。

「カンカン鳴らすのがいる」と言うので、天井からアルミの穴の空いたボウルを吊ってあげながら、
「どのくらいの高さに吊らすの?」とたずねました。
「これくらい」と、自分の肩あたりの高さを指して、「いや、もうちょっと下かな?もうちょっとだけ。」と答えます。
「ぼくが座るでしょ。カンカンするとき、ほらっ、この高さがいいんだ」と言います。
4歳くらいの子は、自分の背の高さや身体の位置から、長さや高さについて考えるようです。

「ぼくは消防士さんだから、前の席で、プーさんは後ろだよ」
「3丁目行ってきます!火事は11階です。」
「4丁目行ってきます!火事は、146階です!!」
と、位置や数字を取り入れた、遊びが楽しくてたまらない様子です。

この後、消防士さんは、火災現場から、ぬいぐるみたちを救い出し、無事消防署に帰りました。
とたんに「う~う~泥棒です!5丁目に泥棒です」とパトカーになって出かけ、悪そうな顔をしたクロネコの人形を捕まえて、牢屋に閉じ込めていました。

集団への適応力がいい子が考えない癖をつけないための微調節

2016-10-23 16:13:59 | 教育論 読者の方からのQ&A

年中さんと年長さんのレッスンの様子です。

幼稚園などの集団の場で「よくできる子」「しっかりしている子」とほめられることの多い適応力の高い子たちが、場の空気を読むことにあまりに長けているため、「考えない」癖を身につけてしまうことがあります。

 

先生や自分より上手にできる子を真似て吸収するのが上手で、いつも場の流れの先陣を切っている子たちです。

その場所で重要なキーマンとなる人物に即座に気付く力も持っています。

 

集団への適応力がいいことも、その場のカギを握っている人に気付くことも、他の人のすることを上手に真似ることができることも、とてもすばらしい能力です。

ですからその資質は大切にしてあげなくてはならないのですが、その資質が原因で、考えない癖がつきはじめたら、その子への関わり方や質問の仕方などを微調整して

「自分で考える」経験を積ませたり、自分が考えたからこそ味わえる喜びや達成感を体感させるように気をつけています。

 

「集団への適応力のいい子がつける考えない癖」と聞いても、ピンとこない方がいらっしゃるかもしれませんが、グループで子どもたちが活動する様子を見ているととてもよくある光景です。

 

集団での適応力がいい子は、どうすれば先生にほめられるのか、その場でリーダーシップをとっている子に認められるのかに敏感でよくわかっています。

またそこにいる「みんな」から好感を持たれる方法にも長けています。

常に変化する集団の行動や気持ちの流れにすばやく柔軟に対応することができます。

 

それらはどれも長所ではありますが、それらの長所が行きすぎると、次のような困った態度も生じてきます。

 

★何かを考える時に、自分では考えず、一番正しい答えを知っていそうな人に同調することに必死になる。

★集団の行動や気持ちの流れに敏感すぎて、物事の正しさより、「多数派」の意見を正しいと感じる。

★先生の言う通りにするのが一番と思い、自分では考えず、先生が言った通りにする。

 

「先生の言うとおりにする」ことは、正しいよいことでもあるのですが、それがそのまま「自分の頭では考えない」「思考のスイッチを停止する」ことにつながってしまう場合、少し体験を広げてあげる必要があると思っています。

 

物事は何でも模倣することから始まりますし、自分の頭で考えられるようになる前に、意味がわからなくても丸暗記して、身体で覚えてしまうことがその先の学習の基盤にもなります。

 

ですから、幼児や小学校低学年の子に、「自分で考えなさい」と言葉で繰り返すことは、勉強の仕方をわからなくする原因を作るかもしれません。

 

わたしが気にかけている「考えない」という状況は、次のようなものです。

 

先日、年中さんと年長さんのレッスンでこんなことがありました。

積み木を並べて形を作り、子どもたちの正面(反対側)に人形を置いて、その人形の目で積み木を見たらどのように見えるか、いくつかの選択肢の中から、上から見た図を選ぶという課題をしていました。

 

子どもたちは、「これ!」「これこれ!」と思い思いの図を選びます。

たいていの子が、自分の側からどう見えるかに引きずられて、間違った絵図を選んでいました。

その後、お人形の背後に回らせて、もう一度選択肢を見せると、子どもたちの間から、「あ~!!これだったんだ!」と歓声があがりました。

次の問題からは、「自分の見え方に簡単にだまされないぞ」という意気込みがあり、自分なりの推理を働かせていました。

 

この課題の最中、★ちゃんと●ちゃんは、ちょっと気になる態度をしめしました。

どちらも知能が高い集団への適応力が高い年中さんの女の子です。

 

大人の指示が通りやすくテキパキしていて、幼稚園では担任の先生や周囲の親御さんから絶賛されている子たちです。

お友だちからの好感度も抜群です。

わたしにしても、このふたり本当にかわいいなぁ、といつも感心してしまいます。

 

気になる態度というのは、「これと思う」と指さす時点で、自分が好きな子やいつも正解する子が「これ」と決めるのに、瞬時に反応して、「わたしもこれこれ!」と同調するように答えを選ぶので、

 お人形の背後に回って、本当はどれが正しかったのか自分の目で確かめる段になっても、「あーそうだったのか!」とか「あれ?何でだろう?ちがうな」といった反応がないことなのです。

 

問題となっていた積み木は見ようともせず、正しい答えを確かめたとたん、急に意見を変え出したお友だちの表情ばかり気にしています。

「みんながこれだったのかーって言ってるから、これなんだな」と納得する様子です。

 

といっても、こんな態度をしめすからといって、問い方を工夫すれば、★ちゃんも●ちゃんも考える力が弱いわけでも、推理が苦手なわけでもないのがよくわかるのです。

ふたりのこうした「考えない態度」は集団でのあり方でより有利であるために、わざわざ学習して身につけたもので、場面によって、それを少し解除する必要を実感させていくと、

対象をよく見て、そこから秩序やルールに気付く力を取り戻していくのです。

 

集団への適応力がいい子が、自分で考えようとせずに他人の意見に同調する姿を見て、親御さんから

「自分で考えなさい、と言った方がいいでしょうか」

「どのように言い聞かせたらいいでしょうか」

という質問をいただくことがよくあります。

 

「言えばわかる子だから」という思いが、こうした質問につながりやすいのかもしれません。

適応のいい子たちは、言葉で言い聞かすときちんと耳を傾け 、素直に従おうとします。

 

でも、どんな形であれ、こうしたタイプの子に「言い聞かす」のはあまり効果がないかもしれません。

 

こうしたタイプの子らは、「耳」を通して人を介して情報を得る態度に片寄りすぎて、自分の目で見ているものよりも、人が言っていることの方を信用しがちです。

また人の言葉から学びとろうとして、直接、自分で対象から何らかの秩序を引き出そう、見つけ出そうとする意欲がみられないことがよくあります。

 

前回の記事の★ちゃんは、「答えを確かめるために、人形の後ろから見てみよう」という誘いに、他の子らが好奇心ではちきれそうになって人形側に駆けよる時に、

「行かなくていいよ~、行かなくていい~もう答えがわかってるもん」と言いました。

 

人形側に回った子たちが、「これこれ!」と正しい答えを指すのを聞いたので、もう自分は知っているから、わざわざ見に行く必要はないと思ったようなのです。

 

また●ちゃんの方は、次の問題から、「わたしはここに座ってする」と、最初から人形の背後を陣取って、絶対ミスがない状態で、問題を解きたがりました。

 

ふたりとも、好奇心から、「推理したい」「言い当ててみたい」「当たるかな?」とドキドキする楽しさを味わうよりも、大人が評価するような「正解する」という結果に心を奪われているようでもありました。

といっても★ちゃんも●ちゃんも本来、知能が高くてしっかりした子たちですから、こちらが極力、言葉で言い聞かせるのを控えて、目で対象をよく眺めるようにうながしていると、

自分の力で「原因と結果」のつながりに気づきはじめ、たちまち考えることが楽しくなってもくるのです。

 

また「考えなさい」と注意するのではなく、その子たちの発する思いつきや論理に、こちらが強い関心をしめすと、

もともと人と人の間にある感情の流れに敏感な子たちですから、人が興味を持っている対象には、強い集中力を発揮するのです。

相手の心が自分の発言に興味を持っていると察すると、一生懸命、考えを伝えようとします。

 

気をつけなくてはならないのは、子どもが「大人は自分が正しいことを言うのに興味を抱いている」と思うか、

「大人は(間違っていようといなかろうと)自分が発言している内容に興味を持っている」と思うかにあるのです。

 

適応力のある子たちは、とても合理的で、結果主義の子が多いので、「大人が自分が正しいことを言うのに興味がある」なら、正しい答えを知ってそうな子の意見を真似るか、

先生の言うことを、わかっていてもわからなくても、そのまんま言う方がいい、と考えるからです。

 

小学3、4年生の子らのレッスンでこんなことがありました。

自由時間に何をするかは、「工作」か「実験」か「ボードゲーム」の中から子どもたちに選ばせています。

この日は「実験がしたい」という話でした。

科学の本を見ながら、「水」に関係する実験をいくつかして大盛り上がり。

好き勝手実験が行きすぎるのをちょっと締める意味もあって、帝塚山学院泉が丘中の「水の変化の実験」を扱った受験問題を、できる部分だけ実験を再現してみて、問題の答えを推理してみることにしました。

 

①試験管に水(5℃)を三分の一ほど入れる。

②この試験管をビーカーの中央に立て、まわりに水を入れる。

③水に食塩をまぜたものを氷にかける……

といった設問の実験手順を、ひとつひとつ子どもたちにやってもらいます。

教室にはスタンドや試験管に入れるタイプの温度計はありませんから、水に食塩をまぜたものを氷にかけた後は、「指、温度計で!」と冷たさの変化を指で確かめる適当実験ですが、

そんな適当な実験も、問われていることの意味を実感するのにはとても役立ちました。

 

「冷たー!!」「つ、冷たいー!!」と騒ぐうちに、どの子もすっかりこの実験の世界に入り込んでいました。

 

そんなわけで、実験そのものは、とても楽しく、していることをよく理解もしていて、水が氷になる際の体積の変化や重さの変化なんかも、

製氷皿で氷がプクッと膨らんでいる様子を手で作りながら「体積は冷えると増えるけど、重さは変わらないね」などと言いあっていました。

 

しかし、温度変化のグラフを選ぶ際には、「これこれ」と適当に選んで、選んだ理由をたずねても、はっきりしません。

 

それでも選んだ理由についてあれこれ雑談する時間があって、「だんだん氷になっていくんだから、温度はだんだん下がっていくはずと思ったから」など無理やりでも理由を絞りだすと、

正しい結果を知った時に「ああ、そうだったのか」と心に響く度合いが違います。

 

この子たち、虹色教室で続けてきた算数に関わることでは、しっかり考えてから取り組むのですが、こうした見慣れないものだと、よく見たり推理したり考えたりせずに、

つまり自分では全く考えてみようとせずに、「これ!」と適当に選んで、「正しい答え」を教えてもらってから暗記すれば一件落着、という学び方があたり前となっているようなのです。

 

集団への適応力のいい子たちほど、「どうせあとで先生が答えを教えてくれるのなら、選ぶ時点で真剣に考えたら時間の無駄」という合理的な精神や、

「自分で考えたものが間違えてしまうと恥ずかしいから、最初に選ぶ時点では茶化してどれにしようかな神様のいう通り~という具合に適当に選んでおこう」

と周囲の友だちを意識して、わざわざ考えないで選ぼうとする姿が目立ちます。

 

確かに、ある時期までは記憶力さえよければ、原因や理由について論理的に考えなくてもよい成績が取れるのです。

 

でも、いくつかの選択肢から「どれが正しいか」と選ぶ時点で、自分なりの推理や考えを練って答えて、間違えて、正しい答えを知る子と、

適当に当てずっぽうで答えを決めて、間違えて、正しい答えを知る子では、同じように正しい答えを記憶したとしても、ずいぶん差が生じてくるのです。

 

ただ、小学校高学年くらいになるまでは、むしろ、場の空気を読むのが上手で、先生の指示が通りやすくて、

「適当に当てずっぽうで答えを決めて、間違えて、正しい答えを知る」ことに徹している子の方が、学校でも塾でも、有利に働くことも多いのです。

自分で推理すると、教わった後も、自分の考えにこだわって再度ミスすることもありますから。

 

ただ、身近な大人が、自分なりの推理や考えを練って答えて、間違えて、正しい答えを知る子と、適当に当てずっぽうで答えを決めて、間違えて、

正しい答えを知る子を全く同じように見るか、後者を優遇するようなことが続くと、ほとんどの集団への適応力のいい子たちが、その態度に染まっていくのもよく見かけます。

 

繰り返すようですが、集団への適応力がいいということは、良い資質です。

ですからそれ自体に問題があるわけではありません。

ですが、もともとの気質とさまざまな要因が重なると、「考えない」癖が身に着くことがある、という話をしました。

 

そこで、「考えない癖」を生じさせる要因と思われるものをいくつか挙げてみますね。

 

★ 周囲の大人が、結論を急ぎがち。結果を早く出そうとしがち。

知能が高めで適応のいい子が考えない癖をつけるのは、すばやく良い結果や答えに行きつくのには自分で考えない方が早いと思うからです。

わたしたち大人も、「よくわからない素人が余計なことするより、最初から専門家に頼んだ方がいい」と考えることがありますよね。

 

★ 「勉強」と名のつくものが、考えないものが中心なので、「考える」というのが、どういうことかわからない。

文字の読み書きにしても、計算練習にしても、知能系のドリルにしても、自分で考えず、先に答えを暗記しておいて解いていくスタイルに慣れている子で、「考える」というのがどういうことかわからない子がいます。

 

★ 1~3歳のころの接し方。

子どもに語りかけては、何でも解説してしまうと、子どもが自分で見たり体験したりするものを、大人のフィルターを通したものに変質させてしまいます。

子どもが大人に向かって話しかけたり、働きかけたりする量より、大人が子どもに向かって話しかけたり、働きかけたりする量があまりに多い場合、さまざまな問題が生じてくるのを感じます。

0歳の赤ちゃんだって、相互にコミュニケーションしようという気持ちは十分持っていますから、大人が「教えたい病」にかからないよう注意が必要だと思います。

 

バランスが悪い接し方を続けていると、子どもが自分で見ているものを信用せず、自分で行動した体験のフィードバックから学ばず、大人の言葉だけを頼りに世界を理解しようとするようになっています。

 

★ 幼稚園が年齢以上の過剰な適応を求めている。

幼稚園での生活が始まって、考えない癖がひどくなる子がたくさんいます。

年齢以上の過剰な適応を求めている園に過剰に適応しようとして、それができてしまうため、先生方からいつも褒められているという子に、考えない癖が定着しやすいです。


忍者の知恵を工作で再現

2016-10-23 16:09:55 | 工作 ワークショップ

小3の男の子たちのレッスンで。

「工作がしたい」というものの、なかなか作りたいものが決まらなかったAくん、Bくん、Cくん。

この年齢の男の子たちは歴史に興味を持つ子が多いです。

「昔の人の知恵を工作で再現してみたらどうかな?」と言いながら、『もののはじまり図鑑』や『忍術・手品のひみつ』『忍者の大常識』といった本をいっしょに眺めるうち、何だかワクワクしてきた様子。

「こんなの作ってみたい」「これ試してみたい」と声があがりました。

一番人気は『水ぐも』で、「本当に水の上を歩けるものが作りたい!」と意欲を燃やすものの、材料と実演する場の問題から、もう少しこじんまりした作品にチャレンジすることにしました。

 

『かめ筏(いかだ)』。

ちゃんと浮かんだ時は感動しました。

 

 

『折りたたみ式の船』

 

『がないでお城の堀に、なわばしごをかける方法』

なわまき機をふたつ用意し、なわの中央になわばしごをつけて2手のなわまき機を巻いて、なわばしごを城に近づける。

忍者のひとりは、ピンと張ったなわをつたってなわばしごを取り付けに行く。