年中さんと年長さんのレッスンの様子です。
幼稚園などの集団の場で「よくできる子」「しっかりしている子」とほめられることの多い適応力の高い子たちが、場の空気を読むことにあまりに長けているため、「考えない」癖を身につけてしまうことがあります。
先生や自分より上手にできる子を真似て吸収するのが上手で、いつも場の流れの先陣を切っている子たちです。
その場所で重要なキーマンとなる人物に即座に気付く力も持っています。
集団への適応力がいいことも、その場のカギを握っている人に気付くことも、他の人のすることを上手に真似ることができることも、とてもすばらしい能力です。
ですからその資質は大切にしてあげなくてはならないのですが、その資質が原因で、考えない癖がつきはじめたら、その子への関わり方や質問の仕方などを微調整して
「自分で考える」経験を積ませたり、自分が考えたからこそ味わえる喜びや達成感を体感させるように気をつけています。
「集団への適応力のいい子がつける考えない癖」と聞いても、ピンとこない方がいらっしゃるかもしれませんが、グループで子どもたちが活動する様子を見ているととてもよくある光景です。
集団での適応力がいい子は、どうすれば先生にほめられるのか、その場でリーダーシップをとっている子に認められるのかに敏感でよくわかっています。
またそこにいる「みんな」から好感を持たれる方法にも長けています。
常に変化する集団の行動や気持ちの流れにすばやく柔軟に対応することができます。
それらはどれも長所ではありますが、それらの長所が行きすぎると、次のような困った態度も生じてきます。
★何かを考える時に、自分では考えず、一番正しい答えを知っていそうな人に同調することに必死になる。
★集団の行動や気持ちの流れに敏感すぎて、物事の正しさより、「多数派」の意見を正しいと感じる。
★先生の言う通りにするのが一番と思い、自分では考えず、先生が言った通りにする。
「先生の言うとおりにする」ことは、正しいよいことでもあるのですが、それがそのまま「自分の頭では考えない」「思考のスイッチを停止する」ことにつながってしまう場合、少し体験を広げてあげる必要があると思っています。
物事は何でも模倣することから始まりますし、自分の頭で考えられるようになる前に、意味がわからなくても丸暗記して、身体で覚えてしまうことがその先の学習の基盤にもなります。
ですから、幼児や小学校低学年の子に、「自分で考えなさい」と言葉で繰り返すことは、勉強の仕方をわからなくする原因を作るかもしれません。
わたしが気にかけている「考えない」という状況は、次のようなものです。
先日、年中さんと年長さんのレッスンでこんなことがありました。
積み木を並べて形を作り、子どもたちの正面(反対側)に人形を置いて、その人形の目で積み木を見たらどのように見えるか、いくつかの選択肢の中から、上から見た図を選ぶという課題をしていました。
子どもたちは、「これ!」「これこれ!」と思い思いの図を選びます。
たいていの子が、自分の側からどう見えるかに引きずられて、間違った絵図を選んでいました。
その後、お人形の背後に回らせて、もう一度選択肢を見せると、子どもたちの間から、「あ~!!これだったんだ!」と歓声があがりました。
次の問題からは、「自分の見え方に簡単にだまされないぞ」という意気込みがあり、自分なりの推理を働かせていました。
この課題の最中、★ちゃんと●ちゃんは、ちょっと気になる態度をしめしました。
どちらも知能が高い集団への適応力が高い年中さんの女の子です。
大人の指示が通りやすくテキパキしていて、幼稚園では担任の先生や周囲の親御さんから絶賛されている子たちです。
お友だちからの好感度も抜群です。
わたしにしても、このふたり本当にかわいいなぁ、といつも感心してしまいます。
気になる態度というのは、「これと思う」と指さす時点で、自分が好きな子やいつも正解する子が「これ」と決めるのに、瞬時に反応して、「わたしもこれこれ!」と同調するように答えを選ぶので、
お人形の背後に回って、本当はどれが正しかったのか自分の目で確かめる段になっても、「あーそうだったのか!」とか「あれ?何でだろう?ちがうな」といった反応がないことなのです。
問題となっていた積み木は見ようともせず、正しい答えを確かめたとたん、急に意見を変え出したお友だちの表情ばかり気にしています。
「みんながこれだったのかーって言ってるから、これなんだな」と納得する様子です。
といっても、こんな態度をしめすからといって、問い方を工夫すれば、★ちゃんも●ちゃんも考える力が弱いわけでも、推理が苦手なわけでもないのがよくわかるのです。
ふたりのこうした「考えない態度」は集団でのあり方でより有利であるために、わざわざ学習して身につけたもので、場面によって、それを少し解除する必要を実感させていくと、
対象をよく見て、そこから秩序やルールに気付く力を取り戻していくのです。
集団への適応力がいい子が、自分で考えようとせずに他人の意見に同調する姿を見て、親御さんから
「自分で考えなさい、と言った方がいいでしょうか」
「どのように言い聞かせたらいいでしょうか」
という質問をいただくことがよくあります。
「言えばわかる子だから」という思いが、こうした質問につながりやすいのかもしれません。
適応のいい子たちは、言葉で言い聞かすときちんと耳を傾け 、素直に従おうとします。
でも、どんな形であれ、こうしたタイプの子に「言い聞かす」のはあまり効果がないかもしれません。
こうしたタイプの子らは、「耳」を通して人を介して情報を得る態度に片寄りすぎて、自分の目で見ているものよりも、人が言っていることの方を信用しがちです。
また人の言葉から学びとろうとして、直接、自分で対象から何らかの秩序を引き出そう、見つけ出そうとする意欲がみられないことがよくあります。
前回の記事の★ちゃんは、「答えを確かめるために、人形の後ろから見てみよう」という誘いに、他の子らが好奇心ではちきれそうになって人形側に駆けよる時に、
「行かなくていいよ~、行かなくていい~もう答えがわかってるもん」と言いました。
人形側に回った子たちが、「これこれ!」と正しい答えを指すのを聞いたので、もう自分は知っているから、わざわざ見に行く必要はないと思ったようなのです。
また●ちゃんの方は、次の問題から、「わたしはここに座ってする」と、最初から人形の背後を陣取って、絶対ミスがない状態で、問題を解きたがりました。
ふたりとも、好奇心から、「推理したい」「言い当ててみたい」「当たるかな?」とドキドキする楽しさを味わうよりも、大人が評価するような「正解する」という結果に心を奪われているようでもありました。
といっても★ちゃんも●ちゃんも本来、知能が高くてしっかりした子たちですから、こちらが極力、言葉で言い聞かせるのを控えて、目で対象をよく眺めるようにうながしていると、
自分の力で「原因と結果」のつながりに気づきはじめ、たちまち考えることが楽しくなってもくるのです。
また「考えなさい」と注意するのではなく、その子たちの発する思いつきや論理に、こちらが強い関心をしめすと、
もともと人と人の間にある感情の流れに敏感な子たちですから、人が興味を持っている対象には、強い集中力を発揮するのです。
相手の心が自分の発言に興味を持っていると察すると、一生懸命、考えを伝えようとします。
気をつけなくてはならないのは、子どもが「大人は自分が正しいことを言うのに興味を抱いている」と思うか、
「大人は(間違っていようといなかろうと)自分が発言している内容に興味を持っている」と思うかにあるのです。
適応力のある子たちは、とても合理的で、結果主義の子が多いので、「大人が自分が正しいことを言うのに興味がある」なら、正しい答えを知ってそうな子の意見を真似るか、
先生の言うことを、わかっていてもわからなくても、そのまんま言う方がいい、と考えるからです。
小学3、4年生の子らのレッスンでこんなことがありました。
自由時間に何をするかは、「工作」か「実験」か「ボードゲーム」の中から子どもたちに選ばせています。
この日は「実験がしたい」という話でした。
科学の本を見ながら、「水」に関係する実験をいくつかして大盛り上がり。
好き勝手実験が行きすぎるのをちょっと締める意味もあって、帝塚山学院泉が丘中の「水の変化の実験」を扱った受験問題を、できる部分だけ実験を再現してみて、問題の答えを推理してみることにしました。
①試験管に水(5℃)を三分の一ほど入れる。
②この試験管をビーカーの中央に立て、まわりに水を入れる。
③水に食塩をまぜたものを氷にかける……
といった設問の実験手順を、ひとつひとつ子どもたちにやってもらいます。
教室にはスタンドや試験管に入れるタイプの温度計はありませんから、水に食塩をまぜたものを氷にかけた後は、「指、温度計で!」と冷たさの変化を指で確かめる適当実験ですが、
そんな適当な実験も、問われていることの意味を実感するのにはとても役立ちました。
「冷たー!!」「つ、冷たいー!!」と騒ぐうちに、どの子もすっかりこの実験の世界に入り込んでいました。
そんなわけで、実験そのものは、とても楽しく、していることをよく理解もしていて、水が氷になる際の体積の変化や重さの変化なんかも、
製氷皿で氷がプクッと膨らんでいる様子を手で作りながら「体積は冷えると増えるけど、重さは変わらないね」などと言いあっていました。
しかし、温度変化のグラフを選ぶ際には、「これこれ」と適当に選んで、選んだ理由をたずねても、はっきりしません。
それでも選んだ理由についてあれこれ雑談する時間があって、「だんだん氷になっていくんだから、温度はだんだん下がっていくはずと思ったから」など無理やりでも理由を絞りだすと、
正しい結果を知った時に「ああ、そうだったのか」と心に響く度合いが違います。
この子たち、虹色教室で続けてきた算数に関わることでは、しっかり考えてから取り組むのですが、こうした見慣れないものだと、よく見たり推理したり考えたりせずに、
つまり自分では全く考えてみようとせずに、「これ!」と適当に選んで、「正しい答え」を教えてもらってから暗記すれば一件落着、という学び方があたり前となっているようなのです。
集団への適応力のいい子たちほど、「どうせあとで先生が答えを教えてくれるのなら、選ぶ時点で真剣に考えたら時間の無駄」という合理的な精神や、
「自分で考えたものが間違えてしまうと恥ずかしいから、最初に選ぶ時点では茶化してどれにしようかな神様のいう通り~という具合に適当に選んでおこう」
と周囲の友だちを意識して、わざわざ考えないで選ぼうとする姿が目立ちます。
確かに、ある時期までは記憶力さえよければ、原因や理由について論理的に考えなくてもよい成績が取れるのです。
でも、いくつかの選択肢から「どれが正しいか」と選ぶ時点で、自分なりの推理や考えを練って答えて、間違えて、正しい答えを知る子と、
適当に当てずっぽうで答えを決めて、間違えて、正しい答えを知る子では、同じように正しい答えを記憶したとしても、ずいぶん差が生じてくるのです。
ただ、小学校高学年くらいになるまでは、むしろ、場の空気を読むのが上手で、先生の指示が通りやすくて、
「適当に当てずっぽうで答えを決めて、間違えて、正しい答えを知る」ことに徹している子の方が、学校でも塾でも、有利に働くことも多いのです。
自分で推理すると、教わった後も、自分の考えにこだわって再度ミスすることもありますから。
ただ、身近な大人が、自分なりの推理や考えを練って答えて、間違えて、正しい答えを知る子と、適当に当てずっぽうで答えを決めて、間違えて、
正しい答えを知る子を全く同じように見るか、後者を優遇するようなことが続くと、ほとんどの集団への適応力のいい子たちが、その態度に染まっていくのもよく見かけます。
繰り返すようですが、集団への適応力がいいということは、良い資質です。
ですからそれ自体に問題があるわけではありません。
ですが、もともとの気質とさまざまな要因が重なると、「考えない」癖が身に着くことがある、という話をしました。
そこで、「考えない癖」を生じさせる要因と思われるものをいくつか挙げてみますね。
★ 周囲の大人が、結論を急ぎがち。結果を早く出そうとしがち。
知能が高めで適応のいい子が考えない癖をつけるのは、すばやく良い結果や答えに行きつくのには自分で考えない方が早いと思うからです。
わたしたち大人も、「よくわからない素人が余計なことするより、最初から専門家に頼んだ方がいい」と考えることがありますよね。
★ 「勉強」と名のつくものが、考えないものが中心なので、「考える」というのが、どういうことかわからない。
文字の読み書きにしても、計算練習にしても、知能系のドリルにしても、自分で考えず、先に答えを暗記しておいて解いていくスタイルに慣れている子で、「考える」というのがどういうことかわからない子がいます。
★ 1~3歳のころの接し方。
子どもに語りかけては、何でも解説してしまうと、子どもが自分で見たり体験したりするものを、大人のフィルターを通したものに変質させてしまいます。
子どもが大人に向かって話しかけたり、働きかけたりする量より、大人が子どもに向かって話しかけたり、働きかけたりする量があまりに多い場合、さまざまな問題が生じてくるのを感じます。
0歳の赤ちゃんだって、相互にコミュニケーションしようという気持ちは十分持っていますから、大人が「教えたい病」にかからないよう注意が必要だと思います。
バランスが悪い接し方を続けていると、子どもが自分で見ているものを信用せず、自分で行動した体験のフィードバックから学ばず、大人の言葉だけを頼りに世界を理解しようとするようになっています。
★ 幼稚園が年齢以上の過剰な適応を求めている。
幼稚園での生活が始まって、考えない癖がひどくなる子がたくさんいます。
年齢以上の過剰な適応を求めている園に過剰に適応しようとして、それができてしまうため、先生方からいつも褒められているという子に、考えない癖が定着しやすいです。