(過去記事です。お忙しい方はスルーしてくださいね)
娘と息子に、「お母さんの仕事への熱中ぶりはスティーブ・ジョブズ並み」と笑われた後で、
口をそろえて、「うちには本がたくさんあるからいい」「うちの本の品ぞろえは最高!図書館よりいいのがある」
「専門的過ぎず、くだけ過ぎてもいない質が良くて読みやすい本って探すの大変だよ。図書館でも」
と褒められました。
主婦業ではダメ出しされっぱなしのわたしですが、
本棚の品ぞろえに関してはわが子から絶賛されております。(この本、ダンナからの苦情のもとでもありますが……)
娘はこのところ『これからの「正義」の話をしよう』を繰り返し読んでいる模様。
正義感が強くて、経済に関心が強い娘。
この本は娘が自分で本屋で買ってきた本ですが、
「これから、ずっと傍らに置いておきたいくらい感動したわ」と
深く心に響いているようです。
息子は先日、仲のいい友だちの家にお邪魔してきて、
「気が合う友だちって意外な共通点があるもんだな」
と感じたそうです。この友だちは医学部を狙っている勉強好きの子です。
「どんな?」とたずねると、「友だちの部屋の本棚にも、うちと同じように
たくさん本があってさ。聞いたら、親から本だけはお金のことを考えずに
買うように言われているんだって。
親からどういうこと言われてるかってとこまで似てたりするんだなって思ったよ。
いろんな種類の本があって、哲学の本なんかも置いてたよ」と言っていました。
受験中でうろうろできないために内面と向き合う時間が長いためか、
人工知能の研究に興味を持っているため、それに関連する哲学の話題に惹かれるのか、
このところの息子の読書のブームは哲学関連の本です。
先日も、勉強の合間に『ハイデガー』について書かれて
いる本の一節とひとつの言葉にえらく感動していました。
よく聞いてみると、わたしも1ヶ月ほど前にその部分と、その言葉に
強く惹きつけられたのでした。
といっても、その文や言葉からイメージしたことは、
お互いかけ離れたものですが。
夕食後、のんびり本を読んでいた息子が、本から顔を上げて、
ブログを更新中のわたしに声をかけてきました。
「思考の祝祭って面白い言葉だね。
ハイデガーが円環の道って呼んでるどうどうめぐりし続ける論法を、
重要視した気持ちがわかるよ」
思考の祝祭というのは、説明すると長くなるのですが、
次のようなことです。
ハイデガーが考えた問題、
「芸術の本質はなにか」という問いを立てれば、
それを考えるために真の芸術作品を見なければならず、
ある作品が真の芸術作品かを決めるためには、
「芸術の本質がなにか」がわかってなくてはならない……
といった議論の循環論的構造、
つまりめぐりめぐってスタート地点に戻るような構造から
抜け出るのではなく、
この無駄な思考の運動に飛び込んでいき
「この道にとどまりつづけること」です。
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「思考の祝祭」とは、デュオニスの祭りのように、狂ったように
歌い踊るうちに、次第に陶酔が起こり、この陶酔のなかで
新たな知恵が開けるような状態を言います。
( 『ハイデガー 存在の謎について考える』 北川東子 NHK出版より)
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母 「思考の祝祭? あ~、お母さんもその部分、そこは、そうそうそう~ってうなずいたわ。
お母さんさ、前から、うまく言葉にできない解決不能の問題をもんもんと考え続けていて、
わからないまま問題の周りをぐるぐるめぐっている鬱々した状態が好きでもあるのよね。
前にブログでそんな暗い記事も書いた覚えがあるわ。
どうしてと問われてもうまく言えなかったけど、
その本で思考の祝祭という言葉にぶつかって、妙に納得したのよ。
そういえば、工作イベントでも、あまりに計画的にして参加者の親の満足度を上げることに
興味がないのは、そこにもあるんだけど。
もんもんとした先が見えないカオスで不安定な状態のどうどうめぐりは、
そこからそれまで存在しなかった新しい価値が生まれてくるのを
待っている状態でもあるから。
子どもたちに物事の表面的な部分だけ、マニュアルにそうような経験はさせたくないのよ。
何かにどっぷり投げ込まれて、そこでもがいて、足踏みしながら、ゼロの状態に誘われて
自分の内部から価値のあるものを引き出すような心を体験してほしいの」
息子 「そう、この思考の祝祭ってさ、教育の世界でも……というか、
人間が成長するときに必ずっていっていいほど起こることでもあるよね。
知能の発達の性質上、こうした循環の構造に飛び込んでいって
とどまることって必須なのかもな。
根本的な問題を考えていこうとしたら、常に疑う心を手放せないし、
合理的に効率的に同じテンポで理解を進めていくのなんて不可能だからね」
息子 「これ読んでて思ったんだけど、哲学書を読むのってさ、会話なんだな。
ほら、哲学は理論を学ぶってものでもないし、
技術を身につけるものでもない。文学でも数学でもないからさ。」
母 「ソクラテスも対話のような議論で、哲学的な考えを深めてったし、
哲学の世界って対話していくイメージに近いのかな……?」
息子 「ん~そうだな。
哲学は具体的な形があるものでも、証明できる正解があるものでもないし
要は人間が作りだしたイメージと言えるんだろうけど、
学ぶための知識の集大成というより、
会話やコミュニケーション……というか、
……時間軸を超えた形の高次元のコミュニケーション……
といった捉えた方が
あっている気がするんだ。
あくまでもぼくにとって、だけど。
それと、コミュニケーションというのをかなり広義に解釈した場合なんだけどさ。
たとえば、ハイデガーの本にしても、読み始めたとたん
存在の謎について問いを投げかけてきて……
すると、読んでいる側は、ただ文字を追うんじゃなくて、
その答えを自分の頭の中で見つけ出そうとするじゃん……
そうしたら、本もいろいろと答えを模索しながら、
次の問いをこちらに出してくる。
哲学の本を読んでいると、ただ読んでいるという気がしなくて、
やっぱり会話なんだな」
母 「あ~、そういえばそうね」
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話が変わって‥‥‥
久しぶりにツタヤに行って、何本かDVDを借りてきました。
そのうち、
マイマイ新子と千年の魔法
は、小学生が主人公のアニメ映画ということもあって、最初はわたしひとりで見ていました。
日々の忙しさで、児童文学を書いていきたい自分の夢をついつい後回しにしがちなので、
自分の夢とどこかで触れていたい気もちでこんなDVDを借りてきたのです。
すると、思いもかけなかったほどいい映画でした。
バイトが休みでくつろいでいた娘はわたしの大絶賛ぶりを耳にして、「わたしも見たいわ」と言いだしました。
そこで、娘とふたりで再び『マイマイ新子と千年の魔法』を視聴。
この映画、出だしがちょっともたもたしたところがあってストーリーに入っていきにくいのです。
でも転校生が学校に現あらわれたあたりからは、ぐいぐい引き込まれて、
目が離せなくなる面白さなのです。
それで、「最初の5分、10分は、どうかなっと思っても見ていて!きっと面白くなってくるから」
と念を押してからDVDをスタート。
ストーリーが中盤にさしかかるころには、娘も夢中になって見ていました。
見終わった娘は、「よかったわ~面白かったわ~」と感激した様子でつぶやいてから、
「この映画のストーリー、まるでお母さんが書いたみたい!
どこをとっても、お母さんそのものじゃない!!こんな映画がよくあったね~。
この映画に出てくる遊びって、わたしが幼児や小学生だったころ、
一通りやったことがあるものばかりよね。お母さんがやらせてくれる遊びって
ほんと、こういうんだったわ。
わたしが小さかった頃には、まだ、こんな風に思いっきり楽しさを満喫できることが
たっぷりあったけど、最近の幼児や小学生は、マクドナルド行ったり、習い事をはしごしたり、
忙しくって、この映画にあるような心から楽しめる遊びというか、一生、記憶に刻まれるような
遊びってしたことあるのかな?」
翌日、夕食時にこのDVDを見た息子も、見るやいなや「お母さんの世界観やなぁ」とひとこと。
子どもが幼い頃は、親の側から「この子はどんな子かな?」とわが子を眺めるものですが、
大きくなってくると、子どもの側に、「お母さんってこんな人やなぁ」と眺められています。
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前回の息子とのおしゃべりの続きです♪
哲学書を読むのって自分にとっては会話のようなもの……
言う息子に、わたしはその前日のネット上の
読書会で話題になっていた次のようなネタについて話をしました。
このネットの読書会、視覚優位派と聴覚優位派というか、
「同時処理」派と「継次処理」派というか、
物を見るとき、「まるっと」全体を捉えてから考え始めるタイプと、
順を追って、ひとつひとつ分析にながら考えていく派の2派に分かれていて、
会話を交わすごとに、お互いの得意不得意や考え方のちがいに驚くことが
多々あるのです。
わたしは、何でも、まず「まるっと」全体をつかんでから、
言葉で考えるより、映像で考えていく「同時処理」派です。
読書会でこの話題が出たとき、ひとりの「まるっと」派の方が、
「三党合意という言葉を聞いた時に何を思い浮かべますか?」と質問なさいました。
すると、「継次処理」派というか、言語を操るのが上手で、聴覚的な記憶力が優れている方は、
「映像はなしか、三つの丸のようなものが、ぼんやり」とおっしゃいました。
最初に質問した「まるっと」派の方は、
民主党や自民党っぽい代表が金屏風の前でがっちり握手して、カメラに向かって笑顔。
シルクのネクタイの感じ、脂ぎった額…そんな現実的な映像が浮かぶとおっしゃっていました。
その方の芸術関係のお仕事をなさっているご主人の場合、同じ映像でも、
もっと抽象的なメタファーで再構築されていて、三党ごとに色がついていて、
色の混ざり具合で「合意っぷり」を表現しているといった
半透明のアクリル板のようなイメージだったそうなのです。
同じように映像をイメージするといっても人それぞれ。
わたしの場合、「三党合意」という政治風の言葉に脳が反応したのか、たちまち
新聞の風刺漫画のような動物たちが、動物村で繰り広げるドタバタ
政治ストーリーが浮かびました。
ひとつの言葉を聞いて、どんなイメージが浮かぶかやってみる……というのは、これまで
したことがなかったので、たったひとつの言語を聞いただけで、
勝手にストーリーまで思い浮かべている自分にびっくり。
それと同時に、
「そういえば、小学校の頃、先生がひとことしゃべるたびに、
即座に、想像の世界に引き込まれちゃって聞いてなかったな~」とか、
「そういえば、本を読んでいるときも、活字に反応して、
どんどんストーリーを膨らませてしまいがちだな~」なんてことが、次々思いあたりました。
そこで、ふっと妙なことをひらめいて、こんなことをスカイプに書きこみました。
「Aさんの話でいろんな発見がありました。
ずっと不思議に感じていたことがあったんです。
視覚優位の人の不思議というか。
視覚優位の人のなかで、わたしと似た感覚の人の不思議なんでしょうけど。
視覚に関しては、直に触れる印象があるので、
目の前の現実をありのままに素直に見ることは簡単なんですよね。
でも、聴覚的な刺激に関しては、目で読む言語にしても、耳にしたとたん(目にしたとたん)
自分の視覚情報とイリュージョンで
加工してしまって……
ちょうど聴覚優位の方が目の前の現実を見るときに言語で加工して
素直に目の前のものを観察しにくいのと同じように、
自分の視覚映像を通して事実を考えようとしたり、それを勝手にストーリーに乗せようとしたりしていました」
それこそ、わたしが子どもの頃から抱えている困り感の最大要因のようなもので、
とにかくぼけ~っとして他人の話を聞けなかったのも、
連絡事項もたちまち忘れて叱られていたのも、まさに
これが原因なのです。
でも、わたしと同じ「まるっと」派のAさんは、
「奈緒美先生は本を読んで知識を得たとしても、
再加工するので、あらゆるお子さんに対応できるのではないでしょうか。
自慢じゃないですが、奈緒美先生のすごいところは正にそこだ!と思っていました。(笑)」と
言ってくださいました。
そういえば、どんな硬い文章を読んでも、瞬時に
笑いあり、ドラマありの映像に変換してしまうところは、
勉強には不向きだけど、使いようによっちゃ役に立ってるんですよね。
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そんな話を息子に長々とした後で、
「★が、哲学書を読むのは会話だって感じるのは、
★も、本を正しく理解するというより、読みながら
創造するというか、文字を見ると同時に再加工する習慣があるからじゃないの?」とたずねました。
息子 「確かに、本を読んでるんじゃないな。
全ての文からまんべいなく、ひたすら情報を集めて分析していくことが
読むことだとしたら。
哲学書にしても、文を読んでいるというより、本の内容は、
自分で考えていく上での道筋やひとつの歩きやすい方法を示してくれるものに
過ぎなくて、
再加工って言うんだろうか、
自分の考えを組み立てていく作業がひたすら歩いていくことだとしたら、
本の内容は読んでいる最中にも、背景のようなものでしかないよ。
もちろん、書いてあることをできるだけ正確に読み取ろうとは思っているけどね」
その答えを聞いて、
文を「背景」という映像的なイメージで捉えているあたり、
息子も「映像で物を考えていく」派や「まるっと」派の一員だな~としみじみ感じました。
息子 「今の時代は、まるで夢のようなコミュニケーションを実現するツールが次々と
作られているよね。数年前には不可能だと思われていたようなやりとりが
簡単にできてしまう。
でも、そこでできがっていくつながりや相互交流を見ていると、
コミュニケーションという面で、それらがきちんと機能しているようには見えないよ。
もったいない使われ方をしているというか、どこか中途半端だよね。
ぼくが将来作りたいと思っているもののひとつは、学問をリアルな形式で表現したものだけど、
学問そのものを表現するというより、
学問のためのツールに近いイメージなんだ。
学問に触れる方法が言語という枠に縛られているのが、
気にいらないってのもあるし、
学問の世界には、触れて触って、勉強を楽しさだけを
探索していくツールも必要だと思うからね。
何かに魅力的なものにするには、シンプルな芸術性とか人間の衝動のようなものを
抜きにして考えちゃいけないと思うよ。
学問にしたって、理詰めで理解するのも大事だけど、
音楽のように感性で味わう経験も必要だからね。
それを好きになっていく過程では。
そう考えていくと、勉強にしても、会話であってコミュニケーションなんだ」
それを聞いた瞬間、そういえば……昔、同じような言葉を目にしたような……という考えが
ふっと浮かびました。
考えてみると、息子が中学に入学したての時に学校で国語の時間か何かで
書いてきた作文が、よく似た言葉で締めくくられていたのでした。
「ぼくも作文という形で会話を書いた。そしてこれを読んで会話が成立するのを心待ちにしている。」
という一文。
創造的で生産的な何かを生み出す会話って?3
に載せていました。
まだ小学校を卒業したばかりであどけない顔をしていた当時にも、
今と同じようなことを考えていたなんて、人間、中身は変わらないもの……。
そうした思いつきが、枝葉を広げて、将来の夢へと育ってきているというのは
うれしい気がします。
教室の幼児さんたちにしても、小さくてもひとりひとりが、
自分の芯の部分から生じてくるテーマのようなものを抱いて生活しています。
その子の感性を大人の過干渉で鈍らせてはいけないな~と再度実感しました。