虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

大好きなことばかり、ずっと続けてきた♪ (恐竜の解剖図)

2012-11-30 18:25:44 | 子どもの個性と学習タイプ

今日は、半年前に東京に引越していった小学2年生の◆くん、4歳の●くん

兄弟が教室に来てくれました。

お兄ちゃんの◆くんは、3歳の頃から引っ越す前月まで、毎月、虹色教室に来てくれていました。

弟の●くんも、生まれてまもない時期からお兄ちゃんといっしょに教室に来てくれていました。

ですから東京に行っても、ずっと「虹色教室に行きたい」と言い続けてくれていたそう‥‥‥。

 

お父さんの用事のついでに、

教室にも顔を出してくれることになりました。

 

「久しぶりに虹色で何をしたい?」とお母さんにたずねられた◆くんは、

「恐竜の解剖図が作りたい。前になおみ先生と作ったみたいなやつ」と言ったそうです。

 

そういえば2年ほど前、◆くんと図鑑を見ながら解剖図を作ったことがあったのです。

↑の左がかつての解剖図。

当時は◆くんが恐竜の絵を全て描いて、内蔵部分を作る時は、

わたしも少し手伝いました。

が、2年生になった◆くんは、材料だけ用意してあげると、

最初から最後まで

自分で作っていました。

 

 

 

↑◆くんが幼稚園の頃から作り続けている

恐竜の図鑑。

これまで何百枚、何千枚と絵を描いてきているので、

見本も見ずにさらさらと恐竜や世界地図を描いていきます。

◆くんは好きなことをずっと続けるうちに、

恐竜のことだけでなく、世界地図、体の内部の名前や仕組み、歴史、動物の生態など

それはさまざまなことを深く理解しています。

算数もとても得意です。

それに気持ちが優しく遊び上手なので、同年代の子からも、

年上の子や年下の子らからも好かれています。

 

こんな◆くんも、幼稚園時代は、「自分の好きなことはやりたいけど、好きじゃないことはしたくない」

と言い張って、「わがままな子にならないか」「お勉強ぎらいないならないか」

とお母さんをやきもきさせていた時期もありました。

 

◆くんのお母さんは、「大好きなことばかり、ずっと続けさせてきたけれど、それだけでいいんだなって

最近思うようになりました。好きなことを思う存分させることで、

他に何もしなくても何でもよくできるようになっています」

とうれしそうにおっしゃっていました。

↑今日は4歳になった●くんも恐竜の解剖図を作っていました。

下のイラストは●くんが描いた恐竜です。

 

今日のレッスンには、恐竜好きの5歳の男の子も参加してくれました。

 

3人でゲームをしたり、ストローでUFOキャッチャーのおもちゃを作ったりして

遊びました。

算数の学習にも3人とも集中してしっかり取り組むことができました。

 

 


飽きっぽい子、我慢が苦手な子に根気をつける方法 2

2012-11-29 21:21:28 | レゴ デュプロ ブロック

ブロック講座 10日目  (それぞれの子にとっての「魅力を感じるレベルの難しさ」) 1の続きではあるのですが、

ちょうど、飽きっぽい子我慢が苦手な子に根気をつける方法  の記事に

「他のタイプについても教えてください」という質問をいただいていたので、ブロック講座での出来事を書くついでに

書かせてください。

 

この日のブロック講座に参加してくれていた3歳5ヶ月の●くんは通常レッスンにも通ってくれている子です。

ものをじっくり考えることと工作が好きな落ち着いた性質で、思考が優れている子じゃないかな、と思っています。

●くんが飽きっぽく我慢が苦手な状態に陥るのは、

先が読めているような易しくて単調な作業をする時です。

 

そんなわけで、ちょっと難しい課題でも、できるまでしつこくやり続ける●くんなのに、

同年代の他の子らが面白がって取り組んでいることに

見向きもしないで、うろうろしている時もあります。

そんな時はお母さんが●くんの名前を読んでいても、自分で刺激的な面白そうなものを見つけることに

夢中になっています。

 

でも「これはちょっと頭を絞らなくてはならないぞ」というような物作りの見本を目にすると

すっ飛んできて身を乗り出して見ています。

「やってみる?」と聞くと、真剣な表情でこっくりして

作り上げるまでじっくり関わります。

 

また算数の問題に答える時も、

他の子らがさっさと答えを言ってしまって、

●くんも同じ答えだと思っているように見える時も、

「あっ、言われちゃった」という顔をして考えるのをやめたりしないで、

それからも慎重に考えていて、正しい答えを言います。

 

●くんのお母さんはとてものんびりした大らかな子育てをしている方なので

心配はいらないのですが、

●くんのように考えること自体に強い喜びを感じる子らを、

大人が「頭のいい子の親として評価されたい」というエゴイスティックな欲望を満足させる道具として

競争に駆り立てると、攻撃的になったり、飽きっぽくなったり、我慢が苦手になったりするのを

見かけます。

大人は安易に「考えることが好きなんだから、お勉強のようなことをさせて、よい点数をとらせたらいい」と

感じるかもしれませんが、

とても思考力の高い子の場合、最初から白黒つけて問いと答えが結びついている

ペーパー上の問題よりも、五感をフルに使って多面的に深く考えていくような

活動を好みます。

 

そうした体験の蓄積した上で、いずれ大きくなったら

ペーパー上で抽象概念を練っていく作業を心から楽しむようになるのだと思います。

 

 

 

 

直感が優れているの飽きっぽさ、我慢の苦手さと 根気をつける方法について書いた記事。

直感が優れた子に「アウトプットする手段」を設けるということ

 

感情が優れているの飽きっぽさ、我慢の苦手さと 根気をつける方法について書いた記事。

感情が優れている子とお勉強 1

感情が優れている子とお勉強 2

感情が優れている子とお勉強 3

感情が優れている子とお勉強 4

感情が優れている子とお勉強 5

感情が優れている子とお勉強 6

感情が優れている子とお勉強 7


100円ショップの時計で時間の学習

2012-11-29 19:11:58 | 算数

 

時計の学習がむずかしくなって
少し混乱していた2年生のふたり。

100円ショップの時計のカバーをはずしたもので
学習しました。
時計の学習用のおもちゃの時計は、
時計の読み方を学ぶ時にはよくても、
小学生の時計学習にはあまり向いていません。

その点、100円ショップの時計のカバーをはずしたものは、
大活躍します。

午前10時45分から、午後3時15分までは
何時間何分ですか?

といった問題を解いています。

まず、10時45分を作って
あと何分で11時か

といった問題を即答できるようにすることが、
こうした問題が得意になるコツです。


やる気のない態度 と あとから振り返る子育て

2012-11-29 16:48:26 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)
2歳、3歳のころから接してきた子どもたちが、
5歳、6歳、7歳と成長してから、
数年前の姿を思い返すと、教育にとって大事なことに気づきます。
わが子なんて0歳からいつも見てきて、もうすぐ社会に出て行こうという年に成長した年してるのですが、
そこから十数年前の姿を思い出すと、
そこで気づく大事なことというのも、それと同じです。

大事なこと……というのは、子どもの態度やノリについてです。
幼児を持つ親御さんは、
何か働きかけるたびに、特に教育的なことの場合、
目をキラキラさせて、意欲的で積極的で熱心な姿をしるすことを望んでいます。
そうして子どもからそういう態度が得られたときだけ、
価値がある時間を過せたと感じがちです。

また教えたことが、すぐさま結果としてあらわれて
何かを覚えたり、周囲を驚かせたり、目に見える数値で成果を確かめられる場合のみ、
子どもに正しいことができた、良いことをしてやれたと思いがちです。

とても短い期間に、子育てに近視眼的になればなるほど
そう感じがちです。

けれど、いったん、子どもがある年齢まで成長して
さまざまな年齢の子どもの姿を振り返ると、
何をするのも乗り気ではなくぐずぐずしていた時期も、
反抗ばかりして少しも成果が見えなかった時期も、
どちらも非常に重要で、

大人が食いついた~と評する状態で学んでいる時期
同様に

子どもを大きく成長させていたことがわかります。子どもにはさまざまな成長段階もあるし、
個性もあります。物との関わり方も、無関心を装いつつ、実は熱心に観察している子、頭の中ではあれこれ考えている子がいます。

たとえば、虹色教室には、5~6歳の3トリオさんが通ってきていますが、
この3人のうち、TくんSくんが3歳、4歳のときのレッスンなんて、
2時間、私のすることに1から10まで反抗して、
レッスンとしてなりたたないときもよくありました。かなりのやんちゃさんでしたから……。

それでも私は淡々とその時期の子の心にひびく
体験を用意していきました。子どもの態度にまどわされず、
その子に必要なものを与えていくのです。

反抗期がひどくなると、部屋にいることすら嫌がってかんしゃくをおこすので、
TくんとTくんのお母さんと私とで
外を散歩しながら、花を見たり、建物を見に行ったりしてレッスンとした日もありました。
それでも泣きつづけて機嫌をなおさないTくんに、根気良くつきあうTくんのお母さんの姿を見て、今さえ乗り越えれば、
1年もすればこの子はとてもしっかりしたお兄ちゃんになるだろうな~と感じました。

なぜそう感じたかというと、
Tくんを見てそう思ったのでなく、
Tくんの態度に動じないTくんのお母さんの姿を見てそう感じたのです。

そして、私が推測していた通り、1年たたないうちに、
Tくんの中から、自立していて、意欲的で、まじめで、がんばりやで勉強好きの性質がどんどんあらわれてきました。
お友だちとのグループのレッスンになってからは、
リーダーシップを取りながら、お友達の意見をよく聞き、自分の意見をきちんと表現し、大人の話にも集中して耳を傾ける「できすぎくん」となっていました。
態度が悪くて聞いていないように見えた時期の学習は、
なぜかすべて覚えていて、まじめに取り組んでいた子以上によくできます。
しっかり反抗期を超えているので、
依存的なところや、赤ちゃん返りがあまりなくて、
学んだり、何か技術をマスターすることにいつも心が集中しています。
幼稚園でも「根っからの優等生」と先生から評されているのだとか……。

Sくんも同じような経緯をたどっています。

またうちの子の子育てを振り返っても
娘はフランス語の暗唱でも英語の暗唱でも、4歳のころには、教えればすぐさま吸収して、アウトプットし、手先も器用で幼稚園時代から絵画で賞をもらったりしていました。
息子は、わが道を行く子で、私がすることをいっしょに楽しむものの、ふざけるだけで幼児期にはアウトプットはなし。
絵なんか、卒園時に棒人間でしたけど……。

でも大きくなれば、娘も息子も
私が働きかけたことは、その時期の子の態度や外からみえる成果にかかわらず
同じようにすべて吸収されていたんだな~と感じることが多々あります。

あとから振り返ると、子どもの中に生き続け
芽を出し、成長し続ける幼児体験というものがあるのです。

それは、子どもがどんな態度だったとか、乗り気かとか、何ができるようになったとか評価しないで、
ただ子どもの周辺を「質の良い学ぶことの喜びと美しさ」で彩る行為です。

子どもの環境を知的なものと友だちになれるように整える

ただそれだけです。

また子どもの中から、肯定的で前向きで好奇心あふれる姿勢があらわれてくるまで、
急いで評価を下したり、大人がふらふらせずに、
気長に楽しみながら待つことです。


自閉症等のハンディーがある子たちのユースホステルのレッスンに行ってきました 6

2012-11-29 13:23:29 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

トムくんの話の続きをする前に少し脱線させてください。

 

ユースホステルでのレッスンで、子どもたちが寝た後で

親たちのための勉強会を開きました。

話題に上ったのは会話や言葉の教え方について。

 

参加していた3歳の◆くんは、今、言葉の練習中です。

物の名前はぼちぼち言えますが、1語文から先になかなか発展しません。

お友だちのものを奪い取ったとき、◆くんのお母さんにうながされて、「ごめんなさい」と言ったり、「こんにちは、は?」

と言われて、「こん‥‥‥ちは」とあいさつしたりしています。

 

その様子を見ていたトムくんのお母さんのyoshikoさんが、

ご自分の失敗体験を踏まえて、

「ごめんなさいを言わせることやあいさつなんかより、まず要求語が先ですよ。

教えることが先立って、言葉を使う気持ちよさやその子にとっての意味が後回しになると、

その子にとって言葉を使う意味がなくなって、言葉が出にくくなってしまいますから」と

おっしゃいました。

その言葉は、わたしがその日ずっと気にかけていたことと重なりました。

 

日中、◆くんの遊ぶ姿からは、ひとつのことにじっくり関われるようになってきていること、

他の子らのしていることを観察して、それに興味を抱いて、自分の遊びに取り入れるこちができる

のがわかりました。

年上の子らがテレビと称して透明ケースにマジックで絵を描いて

背後から懐中電灯をあてて遊んでいたのを見て、お母さんに手伝ってもらって

自分も同じようにビーズ入れのケースに絵を描いて

テレビにしていました。

 

また、他の子らが、ブロックで作ったドールハウスに紙の人形に

★くん、なおみせんせい、●くん‥‥などと名前か書いて遊んでいるのを見て、

びりびり破った紙で人形を表現して、ブロックの家に詰め込んでいました。

 

また、小さな手芸用のポンポンが気に入って、いろんな遊びに使ってみいました。

 

そんな風に◆くんは、物を介した間接的なものとはいえ、

他人に興味を持ち、知恵をしぼっていきいきと遊んでいました。

傍らにいる大人ともいい関係を保てていました。

 

ただ気にかかったのは、他人への興味も、他人との関わり方も、頭の使い方も、

ひとつのことにじっくり取り組む力も、以前よりずっと増しているにもかかわらず、

◆くんの中に、他人に自分の思いを伝えよう、言葉で何か言おう、という意志のようなものが

これまでよりも消失しているように見えたことでした。

 

この「他人に自分の思いを伝えよう、言葉で何か言おう、という意志のようなもの」というのは、

何も言葉でなくても、「あっあっ!」という訴えでも、手をつきだして、「~だい!」と何かを

要求する仕草でも構わないのです。

 

取りあえず、近くで見守っている人に何かを伝えたい、相手の返してくるフィードバックを見たい、

という気持ちが高まっているか、弱まっているか、

とても重要なことだと思えたのです。

 

◆くんの遊びは自分ひとりの中で完結していて、

言葉がいらないままどんどん進行していくようでした。

 

次回に続きます。


自閉症等のハンディーがある子たちのユースホステルのレッスンに行ってきました 5

2012-11-28 20:39:30 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

自閉症等のハンディーがある子たちのユースホステルのレッスンに行ってきました 4

の続きです。

 

今回、ユースホステルのレッスンに参加してくれた☆くんも●くんも

他の人と会話をするようになる前に

テレビアニメに夢中になっていた時期がありました。

トムとジェリーやペンギンが出てくる海外アニメやおさるのジョージなどで、

自分の分身のように感じられるような魅力的な主人公が出てくるアニメでした。

 

同じようなアニメを何度も見ていると、

登場人物たちの会話を暗記してしまいますよね。

 

Aがこう言えば、きっとBはこう返事するんじゃないかな?

という推理が自然に浮かんでくるくらい大好きになって見ていると、

会話の予備知識のようなものが、その子の中にかなり溜まっているのかもしれません。

 

そうしたアニメ一辺倒の時期の後で

友だちのように接してくれる親戚の方や興味が近い同年代の友だちと遊ぶ機会を作って

サポートしながら楽しい体験を積んでいくと、

それまで自分の中に閉じこもっていた子も、

人と関わろう、会話していこう、という意志のようなものを持つことがある、

と感じてきました。

 

☆くんも●くんも、人と関わる前にバーチャルの自分やお友だちと

過ごした時間がたっぷりあって、それが外の世界の友だちを求める気持ちに

つながっていったように思います。

 

トムくんの場合、最近になってようやくアニメを見るようになったものの、

興味を持っているのは主人公や登場人物たちではなく

そこで動いている乗り物などのようです。

ですからアニメを見て、登場人物たちの会話に関心を寄せたり、

会話を真似てみることはないようです。

 

トムくんのお母さんのyoshikoさんと

テンポがゆったりしていて、会話が難しくなく、

トムくんがストーリーに興味を持てそうなアニメはないかと話しあいました。

すると、yoshikoさんが「トムはプーさんが好きだし、プーさんはわかりやすいです。

でも今まで見せていた映画版は長いので、もっと短いストーリーのプーさんアニメを探してきます」

とおっしゃいました。

確かにプーさんなら、トムくんがしゃべっている内容にも

興味を持てるアニメかもしれません。

家族も同じアニメを見て、そこで繰り返される会話をなるべく再現するようにするといいかもしれませんよね。

 

次回に続きます。

 


読書 と 対話 うちの子たちとのおしゃべり

2012-11-28 18:08:06 | 初めてお越しの方

(過去記事です。お忙しい方はスルーしてくださいね)

 

娘と息子に、「お母さんの仕事への熱中ぶりはスティーブ・ジョブズ並み」と笑われた後で、

口をそろえて、「うちには本がたくさんあるからいい」「うちの本の品ぞろえは最高!図書館よりいいのがある」

「専門的過ぎず、くだけ過ぎてもいない質が良くて読みやすい本って探すの大変だよ。図書館でも」

と褒められました。

主婦業ではダメ出しされっぱなしのわたしですが、

本棚の品ぞろえに関してはわが子から絶賛されております。(この本、ダンナからの苦情のもとでもありますが……)

 

娘はこのところ『これからの「正義」の話をしよう』を繰り返し読んでいる模様。

正義感が強くて、経済に関心が強い娘。

この本は娘が自分で本屋で買ってきた本ですが、

「これから、ずっと傍らに置いておきたいくらい感動したわ」と

深く心に響いているようです。

 

 

息子は先日、仲のいい友だちの家にお邪魔してきて、

「気が合う友だちって意外な共通点があるもんだな」

と感じたそうです。この友だちは医学部を狙っている勉強好きの子です。

「どんな?」とたずねると、「友だちの部屋の本棚にも、うちと同じように

たくさん本があってさ。聞いたら、親から本だけはお金のことを考えずに

買うように言われているんだって。

親からどういうこと言われてるかってとこまで似てたりするんだなって思ったよ。

いろんな種類の本があって、哲学の本なんかも置いてたよ」と言っていました。

 

受験中でうろうろできないために内面と向き合う時間が長いためか、

人工知能の研究に興味を持っているため、それに関連する哲学の話題に惹かれるのか、

このところの息子の読書のブームは哲学関連の本です。

 

先日も、勉強の合間に『ハイデガー』について書かれて

いる本の一節とひとつの言葉にえらく感動していました。

 よく聞いてみると、わたしも1ヶ月ほど前にその部分と、その言葉に

強く惹きつけられたのでした。

といっても、その文や言葉からイメージしたことは、

お互いかけ離れたものですが。

 

夕食後、のんびり本を読んでいた息子が、本から顔を上げて、

ブログを更新中のわたしに声をかけてきました。

「思考の祝祭って面白い言葉だね。

ハイデガーが円環の道って呼んでるどうどうめぐりし続ける論法を、

重要視した気持ちがわかるよ」

思考の祝祭というのは、説明すると長くなるのですが、

次のようなことです。

 

ハイデガーが考えた問題、

「芸術の本質はなにか」という問いを立てれば、

それを考えるために真の芸術作品を見なければならず、

ある作品が真の芸術作品かを決めるためには、

「芸術の本質がなにか」がわかってなくてはならない……

 

といった議論の循環論的構造、

つまりめぐりめぐってスタート地点に戻るような構造から

抜け出るのではなく、

この無駄な思考の運動に飛び込んでいき

「この道にとどまりつづけること」です。

 

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「思考の祝祭」とは、デュオニスの祭りのように、狂ったように

歌い踊るうちに、次第に陶酔が起こり、この陶酔のなかで

新たな知恵が開けるような状態を言います。

       ( 『ハイデガー  存在の謎について考える』 北川東子  NHK出版より)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

母 「思考の祝祭? あ~、お母さんもその部分、そこは、そうそうそう~ってうなずいたわ。

お母さんさ、前から、うまく言葉にできない解決不能の問題をもんもんと考え続けていて、

わからないまま問題の周りをぐるぐるめぐっている鬱々した状態が好きでもあるのよね。

前にブログでそんな暗い記事も書いた覚えがあるわ。

 

どうしてと問われてもうまく言えなかったけど、

その本で思考の祝祭という言葉にぶつかって、妙に納得したのよ。

そういえば、工作イベントでも、あまりに計画的にして参加者の親の満足度を上げることに

興味がないのは、そこにもあるんだけど。

もんもんとした先が見えないカオスで不安定な状態のどうどうめぐりは、

そこからそれまで存在しなかった新しい価値が生まれてくるのを

待っている状態でもあるから。

子どもたちに物事の表面的な部分だけ、マニュアルにそうような経験はさせたくないのよ。

何かにどっぷり投げ込まれて、そこでもがいて、足踏みしながら、ゼロの状態に誘われて

自分の内部から価値のあるものを引き出すような心を体験してほしいの」

 

息子 「そう、この思考の祝祭ってさ、教育の世界でも……というか、

人間が成長するときに必ずっていっていいほど起こることでもあるよね。

知能の発達の性質上、こうした循環の構造に飛び込んでいって

とどまることって必須なのかもな。

根本的な問題を考えていこうとしたら、常に疑う心を手放せないし、

合理的に効率的に同じテンポで理解を進めていくのなんて不可能だからね」

 

息子 「これ読んでて思ったんだけど、哲学書を読むのってさ、会話なんだな。

ほら、哲学は理論を学ぶってものでもないし、

技術を身につけるものでもない。文学でも数学でもないからさ。」

 

母 「ソクラテスも対話のような議論で、哲学的な考えを深めてったし、

哲学の世界って対話していくイメージに近いのかな……?」

 

息子 「ん~そうだな。

哲学は具体的な形があるものでも、証明できる正解があるものでもないし

要は人間が作りだしたイメージと言えるんだろうけど、

 学ぶための知識の集大成というより、

会話やコミュニケーション……というか、

 

……時間軸を超えた形の高次元のコミュニケーション……

といった捉えた方が

あっている気がするんだ。

 

あくまでもぼくにとって、だけど。

それと、コミュニケーションというのをかなり広義に解釈した場合なんだけどさ。

 

たとえば、ハイデガーの本にしても、読み始めたとたん

存在の謎について問いを投げかけてきて……

すると、読んでいる側は、ただ文字を追うんじゃなくて、

その答えを自分の頭の中で見つけ出そうとするじゃん……

そうしたら、本もいろいろと答えを模索しながら、

次の問いをこちらに出してくる。

哲学の本を読んでいると、ただ読んでいるという気がしなくて、

やっぱり会話なんだな」

 

母 「あ~、そういえばそうね」

 

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話が変わって‥‥‥

久しぶりにツタヤに行って、何本かDVDを借りてきました。

そのうち、

 

マイマイ新子と千年の魔法

は、小学生が主人公のアニメ映画ということもあって、最初はわたしひとりで見ていました。

 

日々の忙しさで、児童文学を書いていきたい自分の夢をついつい後回しにしがちなので、

自分の夢とどこかで触れていたい気もちでこんなDVDを借りてきたのです。

すると、思いもかけなかったほどいい映画でした。

バイトが休みでくつろいでいた娘はわたしの大絶賛ぶりを耳にして、「わたしも見たいわ」と言いだしました。

そこで、娘とふたりで再び『マイマイ新子と千年の魔法』を視聴。

 

この映画、出だしがちょっともたもたしたところがあってストーリーに入っていきにくいのです。

でも転校生が学校に現あらわれたあたりからは、ぐいぐい引き込まれて、

目が離せなくなる面白さなのです。

それで、「最初の5分、10分は、どうかなっと思っても見ていて!きっと面白くなってくるから」

と念を押してからDVDをスタート。

ストーリーが中盤にさしかかるころには、娘も夢中になって見ていました。

 

見終わった娘は、「よかったわ~面白かったわ~」と感激した様子でつぶやいてから、

「この映画のストーリー、まるでお母さんが書いたみたい!

どこをとっても、お母さんそのものじゃない!!こんな映画がよくあったね~。

この映画に出てくる遊びって、わたしが幼児や小学生だったころ、

一通りやったことがあるものばかりよね。お母さんがやらせてくれる遊びって

ほんと、こういうんだったわ。

わたしが小さかった頃には、まだ、こんな風に思いっきり楽しさを満喫できることが

たっぷりあったけど、最近の幼児や小学生は、マクドナルド行ったり、習い事をはしごしたり、

忙しくって、この映画にあるような心から楽しめる遊びというか、一生、記憶に刻まれるような

遊びってしたことあるのかな?」

翌日、夕食時にこのDVDを見た息子も、見るやいなや「お母さんの世界観やなぁ」とひとこと。

 

子どもが幼い頃は、親の側から「この子はどんな子かな?」とわが子を眺めるものですが、

大きくなってくると、子どもの側に、「お母さんってこんな人やなぁ」と眺められています。

 

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前回の息子とのおしゃべりの続きです♪

 

哲学書を読むのって自分にとっては会話のようなもの……

言う息子に、わたしはその前日のネット上の

読書会で話題になっていた次のようなネタについて話をしました。

 

このネットの読書会、視覚優位派と聴覚優位派というか、

「同時処理」派と「継次処理」派というか、

 

物を見るとき、「まるっと」全体を捉えてから考え始めるタイプと、

順を追って、ひとつひとつ分析にながら考えていく派の2派に分かれていて、

 

会話を交わすごとに、お互いの得意不得意や考え方のちがいに驚くことが

多々あるのです。

わたしは、何でも、まず「まるっと」全体をつかんでから、

言葉で考えるより、映像で考えていく「同時処理」派です。

 

読書会でこの話題が出たとき、ひとりの「まるっと」派の方が、

「三党合意という言葉を聞いた時に何を思い浮かべますか?」と質問なさいました。

すると、「継次処理」派というか、言語を操るのが上手で、聴覚的な記憶力が優れている方は、

「映像はなしか、三つの丸のようなものが、ぼんやり」とおっしゃいました。

 

最初に質問した「まるっと」派の方は、

民主党や自民党っぽい代表が金屏風の前でがっちり握手して、カメラに向かって笑顔。

シルクのネクタイの感じ、脂ぎった額…そんな現実的な映像が浮かぶとおっしゃっていました。

その方の芸術関係のお仕事をなさっているご主人の場合、同じ映像でも、

もっと抽象的なメタファーで再構築されていて、三党ごとに色がついていて、

色の混ざり具合で「合意っぷり」を表現しているといった

半透明のアクリル板のようなイメージだったそうなのです。

 

同じように映像をイメージするといっても人それぞれ。

わたしの場合、「三党合意」という政治風の言葉に脳が反応したのか、たちまち

新聞の風刺漫画のような動物たちが、動物村で繰り広げるドタバタ

政治ストーリーが浮かびました。

 

ひとつの言葉を聞いて、どんなイメージが浮かぶかやってみる……というのは、これまで

したことがなかったので、たったひとつの言語を聞いただけで、

勝手にストーリーまで思い浮かべている自分にびっくり。

 

それと同時に、

「そういえば、小学校の頃、先生がひとことしゃべるたびに、

即座に、想像の世界に引き込まれちゃって聞いてなかったな~」とか、

「そういえば、本を読んでいるときも、活字に反応して、

どんどんストーリーを膨らませてしまいがちだな~」なんてことが、次々思いあたりました。

 

そこで、ふっと妙なことをひらめいて、こんなことをスカイプに書きこみました。

「Aさんの話でいろんな発見がありました。
ずっと不思議に感じていたことがあったんです。
視覚優位の人の不思議というか。
視覚優位の人のなかで、わたしと似た感覚の人の不思議なんでしょうけど。
視覚に関しては、直に触れる印象があるので、
目の前の現実をありのままに素直に見ることは簡単なんですよね。


でも、聴覚的な刺激に関しては、目で読む言語にしても、耳にしたとたん(目にしたとたん)
自分の視覚情報とイリュージョンで
加工してしまって……

ちょうど聴覚優位の方が目の前の現実を見るときに言語で加工して

素直に目の前のものを観察しにくいのと同じように、

自分の視覚映像を通して事実を考えようとしたり、それを勝手にストーリーに乗せようとしたりしていました」

それこそ、わたしが子どもの頃から抱えている困り感の最大要因のようなもので、

とにかくぼけ~っとして他人の話を聞けなかったのも、

連絡事項もたちまち忘れて叱られていたのも、まさに

これが原因なのです。

でも、わたしと同じ「まるっと」派のAさんは、

「奈緒美先生は本を読んで知識を得たとしても、

再加工するので、あらゆるお子さんに対応できるのではないでしょうか。

自慢じゃないですが、奈緒美先生のすごいところは正にそこだ!と思っていました。(笑)」と

言ってくださいました。

そういえば、どんな硬い文章を読んでも、瞬時に

笑いあり、ドラマありの映像に変換してしまうところは、

勉強には不向きだけど、使いようによっちゃ役に立ってるんですよね。

 

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そんな話を息子に長々とした後で、

「★が、哲学書を読むのは会話だって感じるのは、

★も、本を正しく理解するというより、読みながら

創造するというか、文字を見ると同時に再加工する習慣があるからじゃないの?」とたずねました。

 

息子 「確かに、本を読んでるんじゃないな。

全ての文からまんべいなく、ひたすら情報を集めて分析していくことが

読むことだとしたら。

哲学書にしても、文を読んでいるというより、本の内容は、

自分で考えていく上での道筋やひとつの歩きやすい方法を示してくれるものに

過ぎなくて、

再加工って言うんだろうか、

自分の考えを組み立てていく作業がひたすら歩いていくことだとしたら、

本の内容は読んでいる最中にも、背景のようなものでしかないよ。

もちろん、書いてあることをできるだけ正確に読み取ろうとは思っているけどね」

 

その答えを聞いて、

文を「背景」という映像的なイメージで捉えているあたり、

息子も「映像で物を考えていく」派や「まるっと」派の一員だな~としみじみ感じました。

 

息子 「今の時代は、まるで夢のようなコミュニケーションを実現するツールが次々と

作られているよね。数年前には不可能だと思われていたようなやりとりが

簡単にできてしまう。

でも、そこでできがっていくつながりや相互交流を見ていると、

コミュニケーションという面で、それらがきちんと機能しているようには見えないよ。

もったいない使われ方をしているというか、どこか中途半端だよね。

 

ぼくが将来作りたいと思っているもののひとつは、学問をリアルな形式で表現したものだけど、

学問そのものを表現するというより、

学問のためのツールに近いイメージなんだ。

学問に触れる方法が言語という枠に縛られているのが、

気にいらないってのもあるし、

学問の世界には、触れて触って、勉強を楽しさだけを

探索していくツールも必要だと思うからね。

 

何かに魅力的なものにするには、シンプルな芸術性とか人間の衝動のようなものを

抜きにして考えちゃいけないと思うよ。

 

学問にしたって、理詰めで理解するのも大事だけど、

音楽のように感性で味わう経験も必要だからね。

それを好きになっていく過程では。

そう考えていくと、勉強にしても、会話であってコミュニケーションなんだ」

 

それを聞いた瞬間、そういえば……昔、同じような言葉を目にしたような……という考えが

ふっと浮かびました。

考えてみると、息子が中学に入学したての時に学校で国語の時間か何かで

書いてきた作文が、よく似た言葉で締めくくられていたのでした。

「ぼくも作文という形で会話を書いた。そしてこれを読んで会話が成立するのを心待ちにしている。」

という一文。

創造的で生産的な何かを生み出す会話って?3

に載せていました。

まだ小学校を卒業したばかりであどけない顔をしていた当時にも、

今と同じようなことを考えていたなんて、人間、中身は変わらないもの……。

そうした思いつきが、枝葉を広げて、将来の夢へと育ってきているというのは

うれしい気がします。

 

教室の幼児さんたちにしても、小さくてもひとりひとりが、

自分の芯の部分から生じてくるテーマのようなものを抱いて生活しています。

その子の感性を大人の過干渉で鈍らせてはいけないな~と再度実感しました。

 


虹色オンライン教材についてのお知らせ

2012-11-28 17:55:30 | 虹色オンライン教材


「虹色オンライン教材」 動画のメンテナンス作業が完了しました。
(2011年5月より販売開始のTP版のみ。)
回数や時間帯の制限など無く、視聴していただけます。
ご購入いただいた方々には大変ご迷惑をおかけしました。
宜しくお願い致します。


大阪駅 と トワイライトエクスプレス

2012-11-28 12:35:12 | レゴ デュプロ ブロック

3歳3ヶ月の☆くんのレッスンで。

☆くんが大好きな大阪駅とトワイライトエクスプレスを

いっしょに作って遊びました。

改札口を通って、動く歩道に乗って駅内に。

 

 

今、☆くんは数にとても興味があります。

「もっともっとたくさん連結したい!」「3ほしい、5ほしい、10ほしい!」と

同じものをどんどん作って大喜びします。

 

算数タイムではUFOキャッチャーのおもちゃで

ビー玉を取りながら数について学びました。

ブロックをひっくり返して

ビー玉を乗せていたところ、

「あとブロック1個いるよ。それだけ(分)‥‥‥あと3つ、やりたい」と言い、

3つビー玉を取って、大満足していました。

 


自閉症の子に 遊びながら論理的に考える力をつける方法

2012-11-28 07:53:54 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

(今月の最初に紹介した記事です。この記事を「もう一度読みたいので探しています」

という非公開コメントをいただいたので紹介しています。もう読んだという方はスルーしてくださいね。)

 

ハンディーキャップがある子たちと過ごすときも、

ハンディーキャップがない子たちと過ごすときも、

私は「論理的な会話が生まれるような雰囲気」を大切にしています。

この「論理的な会話が生まれてくる雰囲気」という言葉は、『自閉症のDIR治療プログラム』の中で目にしたものですが、

この言葉に出会うずっと前から、わが子がまだ赤ちゃんだった頃から、

私はこの「論理的な会話が生まれるような雰囲気」というのを大切にしてきました。

 

活動の内容が、ごっこ遊びでも、工作でも、絵本を見ているときでも。

また、けんかが起きたり、おもちゃが壊れたり、ジュースがこぼれたりしたときにも、

それをきっかけに、論理的な会話が生まれるようにしていたのです。

うちの子とも、子どもの友だちとも、ハンディーキャップを持っている子たちとも。

ですから、この言葉を目にしたときに、自分の方法が認められたようなうれしい気持ちになりましたし、

この言葉によって自分の大切にしていることが、他の人に伝えやすくなるとも

感じました。

 

「論理的な会話が生まれるような雰囲気」とは、

子どもが何かしようとするたびに、大人がテストでもするように質問を投げかけて、

頭を使わせるようなことでは

ありません。

 

子どもが人形を座らせるために椅子を並べ出したとたん、

「一脚の椅子に2人ずつ座ったら、3脚だと何人座れると思う?」とか、

「椅子と同じ数だけテーブルを用意できるかな?」といった質問を投げかけてばかりいたら、

子どもは「どんな風に遊びを展開しようかな?」と想像をめぐらせたり、

「面白いことをひらめいたぞ」と思って、自分のアイデアを遊びに生かしたりすることが

できなくなってしまいますよね。

 

論理的な会話は、大人が子どもに考えさせたいことを問うのではなくて、

子どもが「どんな風に遊びを展開しようかな?」と想像をめぐらせているときに、

そのイメージにぴったりあう言葉を投げかけて、子どもの具体的な興味に

耳を傾けながら、いっしょにその内容を深めていったり、

「面白いことをひらめいたぞ」という子どものアイデアについて、興味しんしんでつきあって、

どんな材料がいりそうか、大人は何が手伝えそうか、

どうすれば次の発展につながっていくか推理したり、話しあったりすることです。

 

また、トラブルが起こっているとき、トラブルの全貌がそこにいる誰にもくわしくわかるように

具体的に説明して、問題を解決するために

子どもの考えるレベルにあったコメントを入れることです。

 

といっても、相手が広汎性発達障害の子だった場合、

「どんな風に遊びを展開しようか?」とか「面白いことをひらめいたぞ」とか

「このトラブルをどうやって解決しようか」といった考える作業を子どもからスタートさせていくことが

難しい場合がありますよね。

 

『自閉症のDIR治療プログラム』に次のような一文が載っていました。

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2~3人の子どもがゴッコ遊びや工作や塗り絵などで

お互いに関わりながら遊んでいる場合、

周囲が心がけることは論理的な会話が生まれるような雰囲気作りです。

ライアンとメリッサが遊んでいるとします。

メリッサが「ブーッ!トラックが学校に向かっています」と言っても

ライアンは無視しています。

周囲はメリッサに「ライアンはあなたの言っていることは耳に入っていないと思うよ」

と言ってあげます。

メリッサは声を張り上げて「ブーッブッー! 僕はそっちに行くぞ!」と言うでしょう。

そこで初めてライアンが「こっちには来れないよ!」と言えば、相互のコミュニケーションが

成立したことになるのです。

 

何年生であろうとも、頭を働かせて想像力豊かに、かつ論理的に考える力を身につけさせることを

真っ先に行わなくてはなりません。これまで述べてきた発達段階、つまり言語力や視空間認知の能力が

5歳レベルに到達していない場合は、国語や算数などの学習は始めるべきではありません。

記憶力がよく課題に興味を示す子どももいるかもしれません。しかしその場合でも、論理的に考えられるか、

空間認知能力は十分か、新しい発想ができるかなどをチェックしてください。

低学年で身に着いている能力の背後に本当の問題が隠れているかもしれません。

1つの観点から議論させたり、隠れているテーマを推論させたり、算数の応用問題をさせたり、

文学作品を読ませたり、自由作文を書かせたりすればできないことは一目瞭然です。

                『自閉症のDIR治療プログラム』S.グリーンスパン S.ウィーダー著  広瀬宏之訳 創元社

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広汎性発達障がいの子たちと、論理的な会話をしていくには、

子どもと遊びや工作で過ごすさまざまなシーンで、

子どもにわかるレベルの原因と結果や、先に起こりそうなことについて、

考えさせたり推理させたりするきっかけを作ってあげる必要があるのですね。

また、考えるのの良さそうなシーンを見逃さないことも大事だと

思います。

 

虹色教室のグループレッスンでは、

幼い子たちと、遊びや工作の時間に、

 1つの観点から議論したり、隠れているテーマを推論したりすることがよくあります。

また、学習タイムに具体物を使って算数の応用問題を解いています。

どの子も遊びや物作りのなかで、論理的に考えていく基盤を作っていっていることがよくわかります。

考える力を養うより先に、どうして算数や国語を教えるといけないのかというと、↑の著書によると、

「自分で考えずに知識を丸暗記する癖」や「物事を白黒はっきりつけて理解する癖」がついて、

グレイゾーンの、より高度な考え方を身につけるのが難しくなるからのようです。

 

広汎性発達障がいの子らは、何でも字義通り受け取りがちで、真意を把握したり微妙な差異を理解することが

困難です。

推論し見通しを立てたり、物事にいろいろな側面があることを理解したり、

多因子的な考えやグレーゾーンの相対的な考えや深い内省的に考える力を身につけたりするには、

ペーパー上の訓練ではなく、遊びや会話を通して考える経験をたくさんする必要があるのです。

 

子どもと関わるお仕事をしている方々と交流していると、

最近、物事を○×、白黒で判断する方法を身に付けた子どもたちが、

ハンディーキャップなどはないにも関わらず、

推論、多角的な見方、多因子的な考え方、グレーゾーンの相対的な考え方、内省的に考える力などが、

極端に弱いことにとまどっているというお話をうかがいます。

いつも参考にさせていただいているブログの

 e-子育て.comのスタッフブログ~子育て、教育ヒントをお届け~の羊さんの

半分と四半分が解る?解らない?

という記事も、軽く流せない内容だと感じています。

30÷2はできるけれど、30の半分はわからない……という小学生を

公教育が増産しているとすると、

子どもたちの日常の体験や遊びの質や人との一対一の関わりのあり方などについて、

真剣に考え直さなければならない気がしています。

 

『自閉症のDIR治療プログラム』(創元社)

には、広汎性発達障がいの子たちの「論理的に考える力」を伸ばす

具体的な方法がていねいに書かれています。

 

でも、実際、双方向のコミュニケーションが難しい広汎性発達障がいの子たちを相手に

本に書いてある通りにしてみようと思っても

うまくいくことは少ないかもしれません。

 

そこで、わたしが広汎性発達障がいの子たちと過ごしたとき、

こんなことに気をつけたら、うまく通じあえた、大事なことを伝えることができた

と感じたポイントを書かせていただきますね。

 

気をつけるといいと思う点は、次の6つです。

 

 

 

★原初的知覚のなかの代表的なものとされる

「力動感」をいきいきと感じることができる

遊びを増やして、子どもとその知覚を共感しあうこと。

(遊び道具に何を選ぶか。遊び道具の扱い方の工夫。身体によって感じとるように子どもを観察する。

その際、京都大学大学院人間環境学研究科教授の鯨岡峻氏の著書にある

間主観的に「分かる」という察し方を大事にしていくと、子どもとの距離が縮まりやすいと思います。

間主観的という言葉についても後でもう少していねいに説明しますね)

(「力動感」については大正大学大学院人間学研究科の小林隆児氏の著書で、何度もくわしく取り上げられています。

私も後でもう少していねいに説明しますね)

★こだわりに、よりフォーカスして遊ぶ。話題も、その子が注目してこだわっている部分に

より近づいて、話す。

 

★教えるより先に関係作りを優先する。

大人の意図する方に子どもを動かそうとせずに、まず、子どもにリードさせる形で

遊びを始める。

子どもが心地よさを感じるような関係を作る。

 

★工作にしても、学習にしても、

まずアフォーダンスの視点から子どもと物との関わり方を観察して、それをヒントにして

活動の環境を整える。

「アフォーダンス」とは、環境が人や動物に与える「行為の可能性」のことです。

これについても、後でもう少しくわしく説明しますね。

 

★シングルフォーカスに陥りやすいと思うので、そこから抜け出すまでの時間や、

どのような場所やどのような流れで気分を切り替えることができたのか、

過去の体験を整理しておく。

 

★普段、その子の生活でタブーとなっている言葉や振舞いなどを、

あえて遊びの場で使っていって、内にこもっていたものを

外に出させる。

 

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上の6つは、私が広汎性発達障がいの子らと工作をしたり、

ごっこ遊びをしたり、勉強をしたりするときに、

その時間を楽しく有意義なものにするのに役立ったポイントです。

次回に、もう少し具体的に説明させていただきますね。

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<間主観的にわかるということ>

「間主観的にわかる」という言葉は、鯨岡峻先生の著書で目にした言葉です。

特別な「わかる」ための技法といったものではなく

私たちが普段、幼い子に接するときに、意識しないで自然とおこなっている

感じ方のようなものです。

鯨岡峻先生の言葉を借りると、

「観察者に相手の思いがまさに直接的に伝わってくるように、

あるいは観察者であるわが身に沁み込んでくる形でわかる」というわかり方です。

「間主体的にわかる」ときには、身体と身体が共鳴し、通底するように

間身体的に通じ合うことが下地となっているそうです。

たとえば、子どもに離乳食を食べさせるとき、母親の方が無意識に先取りして「あーん」と

口を開いてしまうことってありますよね。

子どもが苦いものを食べて、ウッとなったとき、

見ているだけのこちらの口の中まで苦い味が広がってウッとなるときや、

子どもががんばって鉄棒にぶらさがっているとき、

こちらまで力んで、まるで自分がぶらさがっている当事者であるような身体感覚を

覚えたことは経験は誰にもあることと思います。

(「間主観的にわかる」という言葉について、よりくわしく知りたい方は、

『関係発達論の構築』『ひとがひとをわかるということ』『子どもは育てられて育つ』などの

鯨岡峻先生の著書によりくわしく解説してあります)

 

私はこの「間主体的にわかる」という言葉を知った時、

それまで感じていた「間主観的にわからない」という状態に対する

「私の理解のなさ」から

解放されることになりました。

 

乳幼児への接し方にぎこちなさがある親御さんから、

「子どもにどのように接するといいのかわからない」という相談を受けるとき、

たいていが、子どもに良い接し方をしよう、子どもをより賢くしよう、たくさん写真を撮ろう、

ひとり遊びをしてくれないから家事ができない、発達が気になる等々……という

親御さん側の強い構え方や心の声に邪魔されて

「間主体的にわかる」という感じ方が全くといっていいほどできなくなっている

ことが多いのです。

 

以前は、曖昧模糊としたイメージや感覚で受け取っていたものに

「間主体的にわかる」という言葉が与えられたことで、

より鮮明に問題点が見えるようになり、困った状態から抜け出す手立ても打ちやすくなりました。

 

「間主体的にわかる」という状態は、

緊張感とか焦りとか情報をできるだけ手放して、

リラックスして、子どもと過ごす今を楽しんでいると、自然にそのような

わかり方になってくるものだからです。

 

ただ、相手が広汎性発達障がいを持っている子だった場合は、

「間主体的にわかる」には、

少し工夫がいるかもしれません。

でも、もし「間主体的にわかる」という身体と身体が共鳴し、通底するような関わり方が

広汎性発達障がいを持っている子と自然にできるようになってきたら、

いっしょに活動する楽しみが倍増することと思います。

私も、自分の側を調整することで、

広汎性発達障がいの子と心と心で直接通じ合うような

時間が持てるようになって、

「この子は自分からこんなに笑いかけてくるのか」

「この子はこんなに会話を続けることができるのか」

「この子はこんなに創造力があって積極的なのか」と、

その子の意外な面をたくさん発見して驚くことがたくさんあったのです。

 

自分の側を調節するという方法については、

次の記事で具体的に説明させていただきますね。

 

続きを読んでくださる方は次のリンク先を呼んでくださいね。

 

現代っ子 と 広汎性発達障がいの子 と 論理的に考える力  4

現代っ子 と 広汎性発達障がいの子 と 論理的に考える力  5

現代っ子 と 広汎性発達障がいの子 と 論理的に考える力  6

現代っ子 と 広汎性発達障がいの子 と 論理的に考える力  7

現代っ子 と 広汎性発達障がいの子 と 論理的に考える力  8

現代っ子 と 広汎性発達障がいの子 と 論理的に考える力  9

現代っ子 と 広汎性発達障がいの子 と 論理的に考える力  10