グループでのレッスンも3年目の女の子たち。1年生になりました。
幼児期はちょっと頭を使う場面になると、
「疲れた~」と言いながらうろうろすることがよくあったAちゃん。
負けず嫌いでがんばり屋だったお姉ちゃんとの違いに
お母さんはとまどっておられました。
でもいつの間にか、頭脳パズルや算数遊びが大好きになっていました。
かわいい工作が大好きなBちゃんも
このごろ、頭脳パズルやボードゲームがブームです。
同じグループの年長のCちゃんと熱中しています。
グループでのレッスンも3年目の女の子たち。1年生になりました。
幼児期はちょっと頭を使う場面になると、
「疲れた~」と言いながらうろうろすることがよくあったAちゃん。
負けず嫌いでがんばり屋だったお姉ちゃんとの違いに
お母さんはとまどっておられました。
でもいつの間にか、頭脳パズルや算数遊びが大好きになっていました。
かわいい工作が大好きなBちゃんも
このごろ、頭脳パズルやボードゲームがブームです。
同じグループの年長のCちゃんと熱中しています。
『滅びゆく思考力(J.ハーリー著/大修館書店)』では、
思考力の向上と「メタ認知力」の関わりについて、
さまざまな重要な指摘がされています。
『メタ認知力』のキーワードは『方略』。
新しいことを学んだり理解したりするときに、
自分自身を援助するために用いる、知的なプロセスのことです。
現在の環境は心の混乱を引き起こし、子どもたちの内言を失わせています。
また、子どもたちが大人たちとあまり長い時間を過ごさない家庭や、
データーの記憶を学習(知識偏重の学習法)している学校は、
メタ認知力という脳の特別な長所を無視し、
注意の持続の問題で子どもたちを危機に陥れているそうです。
イスラエルのルーベン・ヒューエルスタインは、
変化する環境に対して人間をより抵抗力や適応力があるようにする
「メタ認知的方略の訓練」によって、脳はそれ自身も向上するもの
と確信しています。
ヒューエルスタインは次のように語っています。
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脳は、個人の自己保存を可能にする構成的な方法によって
変容することができるのです。人間は自分自身を変容させることができる点に
特徴があります。
私はこれを『自動的可逆性』と呼んでいます。
しかし、学校へ通うようになる前であっても、子どもたちは意味というものを
入力する大人を必要としています。
さもなければ、子どもたちは意味を捜し求めて世界をさまようことになるのです。
『滅びゆく思考力—子どもたちの脳が変わる(J.ハーリー著/大修館書店)P320
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ヒューエルスタインは、部屋におもちゃを置くだけで、あとは子どがそれで
遊ぶことを期待する親のもとでは、適切な思考技能が育たないと主張しています。
親も教師も子どもの理解を組み立てるように援助し、それを通して意味を教えていく
必要があるのだとか。
といっても、それは今の早期教育ありがちな、
一口サイズ刻んだ「思考技能」の要素を押しつけるやり方とは違います。
「思考」過剰に分割すると、創造性を犠牲にすることにつながるのです。
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虹色教室の年中さんと年長さんの子どもたちのレッスンの様子から
遊びの中で子どもたちが思考を広げ、柔軟に考えていく姿を紹介します。
年中のAちゃんが「葉っぱ」の形をしたブロックのパーツを見つけて
「畑を作りたいわ」と言いました。
ブロックで畑を作ろうというアイデアを思いついたのはAちゃんが初めてです。
家庭菜園をしている年長のBちゃんが
すぐにそのアイデアに飛びついて、いっしょに畑作りをはじめました。
「きゅうりとかミニトマトとか植えようよ」と話しています。
ブロックの穴にさせるサイズにストローを用意してあげると、
器用な年長のCちゃんがはさみで切っていきました。
めいめいブロックの穴にストローをさしては、「ほら、伸びてきているよ。
よく育っているねぇ」と本物の植物を眺めるような感情のこもった声で
話しあっていました。
このグループの子たちは、それぞれ独創的なアイデアを思いついては、
さまざまな場面で工夫を凝らす子たちですが、
お友だちと協調しあって、遊びをストーリーのあるものへ作りあげていくことも
とっても上手です。
畑を作ったお友だちの姿を見て、畑にかける水が出てくる水道を作っているAちゃん。
ビー玉の水が透明のホースを通って飛び出します。
アイデアマンのAちゃん。工作材料の網を見つけると、
「魚を捕まえる網にする」と言いました。
そこで、海に魚を捕るワナを仕掛けることにしました。
ワナの中にはパンが入れられていました。
すると、BちゃんとCちゃんが、さんまとたいの人形を手にして、
誤ってワナにかかってしまうストーリーで遊びだしました。
「先生、もっと魚はいないの?」とCちゃん。
「大きいまぐろならあるけど、これは一本釣りね。」と答えると、
「まぐろも捕まえたい!」と子どもたち。
別グループのやんちゃな男の子たちがやっていた
まぐろの一本釣り?(天井のフックに引っかけて、吊り上げています。)
「工作したい」という子らと、「たつまき」ができるおもちゃを作りました。
発泡スチロールの玉やスパンコールなどをペットボトルに入れて
工作するうちに、Bちゃんが、「粘土でキャンディーとか作りたい」と言いました。
以前、遊んだことがあるベルトコンベアーで
食べ物を移動させたことを思いだしたAちゃんが、工場の機械を作りたがりました。
写真を撮りそびれたのですが、空き箱に画用紙を挟んで動かす形で
面白いベルトコンベアーができました。
年中や年長さんのおしゃべりを聞いていると、自分たちはどんなことがしたいのか、
それには何が必要で、どんなことをすればいいのか、あることからどんなことが連想され
るのか、あるものの背後にはどんな意味があるのか、非常によくわかっているし、
互いのアイデアを響かせあって遊ぶ中で、それをどんどん広げていくのがわかります。
一方で、大人との会話や一緒にする活動を通して、意味の理解を深め、
内言を育み、さまざまな思考パターンを身につけていくのを感じます。
↑ 算数タイムの一コマ。
教室でさまざまな形でする数当て遊びの様子です。
最初の数が5と認識してから、子どもに目を閉じさせ、
その間にいくつかにトレイをかぶせて数を当てさせます。
はじめはとんちんかんな答えを言っていた子も
何度か遊ぶと見えている数から推理して中身をきちんと当てるようになちます。
下は答え合わせの瞬間。
間違っても気にせず、答え合わせを楽しみます。
次は最初の数を10にしてチャレンジ。
少し遊ぶと子どもたちは見えない数を推理するのがとても上手になってきます。
たし算やかけ算の結果も隠して推理して遊んでいると、
頭の中で見えない数をイメージして答えるようになってきます。
「いそげ、いそげ」と20ずつ色のキューブを置いています。
「あといくつ足りないか」瞬時に判断します。
答えるようになってきます。
↑ 無我夢中。
「釣り方じゃなくて
釣りを教える」
まさしくわたしが子どもの教育に最も大切だと感じているものを
的確に言い表した言葉だと思いました。
教室でレッスンをしていると、
レッスンの内容からそうした思いがきちんと子どもにも親御さんにも伝わっている場合もあるし、
そうでない場合もあります。
「そうでない場合」というのは、
とにかく親御さんは「テクニックを学びにこよう」「テクニックを子どもに学ばせよう」と考えていて、
子どもがレッスンでする課題を習得しているかどうかを
常に気にかけておられます。
その子が学んでいる内容に興味を抱いたり、活動に喜びを見出したり、うまく頭を使えて幸福そうにしている時に、
すかさず「それならもう1つこれがんばってみよう~」というプッシュをして、
子どもが常に最後には学習に対する少しイライラした感情と自分に対する自信のなさとを体感して
いるように見えます。
おそらくたくさんテクニックを教えれば教えるほど、テクニックを習得させればさせるほど
子どもは伸びるはずで、そのために多少、子どもが気分を壊したり、学習に対する愛着を失うくらい
どうってことなくて、
きっと良い成績さえ取れたら、そんなの全て忘れてやる気が出てくるはず……と思っている
みたいです。
子どもから学ぶことの楽しさや意義を奪ってしまう親御さんたちがいるのは
とても残念です。
とはいえ、それもこれも子どもへの愛情がなせるわざでもあるのです。悪気があるわけじゃありません。
幼い子らを育てている親御さんたちが、子どもから学ぶことの楽しさや意義を奪ってしまうこともあります。
ひとりの子が「風船欲しい!」と言って、わたしがその子に風船を選ばせて
膨らましてあげているとしますよね。
すると、すかさず、「先生が風船くれるよ。もらっといで」
と子どもをプッシュする2、3歳児のお母さんがいるのです。子どもが無関心だと
無理にでもらいにいかせようとします。
でも幼い子は、
「あっ風船だ、いいな、ぼくも欲しいな」と考える時間を与えてもらえなかったら、
ほんの少しの飢餓感を味わうことも、
「何かをほしい」「やってみたい」という気持ちが自分の内部から湧きあがってくるのを
経験することもできません。
そこで、「この風船は赤色よ」とか「ありがとうは?」などと
テクニックだけ教わっても、自分がない感じを味わうだけですよね。
もしそこで少し親御さんが待ってあげたら、子どもは
風船をもらいにいったとしても
もらいにいかなかったとしても経験からさまざまなことを学ぶはずなのです。
たとえば、ぼんやりしていて自分の分がなくなたとしても、
「ある」ということと「ない」ということ、
「自分から積極的に働きかけていく大切さ」「お友だちがしていることへの関心に
つながっていたかもしれないのです。
今学校で穴あき九九という割り算学習の準備をしているという小学3年生の子たち。
ビンゴゲームで数字が出てくるたびに、
「答えがその数字になる九九を言う」「どんな数字で割れるか言う」という
遊びをしていたら、
喜んで取り組んでいました。
特に34=17×2や38=19×2といったちょっと面倒な計算も
ビンゴカードを押すという楽しみがあるので
嫌がらずにしていました。
たまにひとつひとつの数字に集中する遊びはいいですね♪
今日は1歳後半の★くんと☆くんの初めてのベビーレッスンの日。
弟である★くんのレッスンではあるのですが、
★くんのお母さんからは、
「発達障がいはないようだけど神経質で何でも人のせいにしてキレがち」という
困ったちゃんの数歳上のお兄ちゃんについて相談をお受けしました。
わたしは直接会ったことはないので、お兄ちゃんについて
よくお話しをうかがうくらいしかできませんでした。
が、レッスンを初めて少しすると、わたしはお兄ちゃんが困ったちゃんになっている原因についても
それを改善していく方法についても
何となくわかったような気がしました。
どうしてそんな気がしたのかといえば、
★くんのお母さんの言動や考え方の癖のなかに
子どもを困ったちゃんにさせる要素がたくさん潜んでいるように思ったからです。
★くんのお母さんは礼儀正しくて人の良さそうな常識的な方です。
子どももとても可愛がっています。
そんなステキなお母さんではありますが、わたしがちょっと問題だな、と感じたのは、
次のような内容です。
★くんはまだ1歳代だとはいえ、とても集中力がある子です。
ボール転がしやボールを回転させるおもちゃで遊ぶ様子を見ていると、
何度も何度も目的を定めてスタートして、最後まで見届ける熱心さから
今後の思考力の伸びが期待できました。
また情緒が安定していて、集中して真剣な顔をしている時以外は
いつもニコニコして可愛らしいことこの上ないのです。
しっかりハイハイした後で歩きはじめたそうで
「(運動面で)少しゆっくりさん」というお母さんの弁でしたが、
椅子の上に乗ってバランスを取ろうとしたり、
重い物を持ち上げて移動しようとするなど
自ら身体を使うさまざまな活動にチャレンジしようとしていて(同時に多動っぽくもなく)
運動機能の発達も順調そのものです。
工作の活動でも、チョコンと椅子に座って
長い時間、しっかり関われていました。
わたしはこの子の目の使い方や何をするか目的を定める様子、
最後まで見届けて理解した上で再び取り組む姿、注意散漫でなくじっくりやりたいことに取り組み、それをもとにして
次の活動を選ぶ姿、他の子との関わり方などから、
「思考力」に強みを持った考えることが好きな子だろうと感じました。
そして、それをお母さんに伝えました。
その後、いっしょに遊んでいた☆ちゃんについても
感じたことをお母さんに伝えました。
☆ちゃんは手と目を協応させることが上手で、頭を使うことと身体を使うことを同時に行うことが
できる器用な子のように見えました。
「何をしようかな」と考えながら、右手にも左手にもボールを持っていて、
瞬時にその両方を玉を入れる口に投入したかと思うと、
次に何をしようかとそれ以外のアイテムをさっさと持ってきて
うまい具合に遊びに加えます。
「運動も勉強もどちらも得意」という子にありがちな
器用さだと感じました。
おもちゃを介してニコニコ笑いながら他人に働きかけて、
上手に遊びを作りだしていく姿
からは創造性の豊かさや社会性の高さも感じられます。
★くんは、ひとつのことに集中しはじめると、
いったん外への関心を遮断して、それにじっくり取り組む子です。
☆くんは、同時にいくつものことをしながら集中できて、
外のものも創造的に取り入れて遊ぶ子です。
そのどちらもそれぞれが魅力的ですばらしい個性です。
でも、★くんのお母さんは☆くんが運動も得意そうという話を聞くと、
それで頭がいっぱいになってしまって、
★くんが得意な物事にしても、
☆くんはけっして運動が苦手なのではなく自分から積極的にさまざまな
身体を使う活動に取り組んでいるという事実にしても
どこか遠いところへ行ってしまったようです。
それで、★くんの欠点であるかもしれない(とお母さんが思っている)
短所の運動を伸ばすことばかり、
「どうすればいいですか」と心配そうに相談しておられました。
わたしは、「どの子も長所があって、短所があります。
短所があることで、長所が守られているという面だってあります。
最初の時点では、たいていの子が長所も短所も同じような割合なんですが、
その後、親御さんが、その子の長所に注目しがちな性質でしたら、長所の割合が大きくなって
短所は底上げされて小さくなっていくでしょうし、
親御さんが短所にばかり注目して、長所はさらっと流しがちでしたら、
短所が膨らんで大きくなり、長所の割合はだんだん小さくなっていくはずです」
と伝えました。
子どもが困ったちゃんぶりを発揮するのには、
時期や環境や本人の問題やその他のさまざまな
理由が複雑に絡み合ってるでしょうから、
それをお母さんの言動や考え方のせいだと決めつけるのは
まちがっていますよね。
でも、どの子にとってもお母さんという存在は大きいですから、
お母さんが子どものどの部分にスポットライトを当てて、
どの部分を無視するかによって、
子どもの困った行動はだんだん消えていくこともあれば、
こじれにこじれて激しいものになることもあるな、と感じてもいます。
★くんのお母さんは心配性で
良いことと悪いことがあると、どうしても悪いことの方ばかり
考えてしまうそうです。
まだ1歳の★くんに対して、運動能力のことを気にかけてしまうのは、
★くんのお母さんが小学生の頃、
運動が苦手でいじめられている子を目撃したことが原因なのだとか。
子どもの頃に見た光景は心に深く刻まれますよね。
とはいえ、
子どもは「お母さんの目に自分がどのように映っているのか」「お母さんが自分のことをどのように感じているか」
を参考にしながら、自分の内面にあるものを育てていきますから、
子どもの短所にばかりに注目していると……
(★くんの場合、まだ短所にもなっていないような未知の不安要素ですが)
自分に自信が持てなくなって、短所だけが目立つようになってしまうかも
しれません。
幼い子たちの世界には、心配とか不安といったものは
あまりそぐわないものだと思っています。
小さな身体にそんな重荷を負わすわけにはいきませんよね。
子どもの長所や魅力的な点について
もっともっと知ろうという気持ちを大事にして、
短所については
心に少し留めておく程度でいいのではないでしょうか。
★くんとの関係作りのなかで、
子どもの性質への焦点のあて方を学んでいくと、
自然と★くんのお兄ちゃんとお母さんの関係もいいものになっていくのではないかな、
と思いました。
ハッピーセットの空き箱をいくつかいただきました。
それを見つけた年長のAちゃんが、「お家に似てるからお家作る」と言いました。
じゃばら折りで階段を作り、ベランダを作りました。
ベランダ作りで覚えた「形のまわり」を囲って側面を作るのが気に入ったAちゃんは
お庭にも囲いを作っていました。
チューリップなのだそうです。
とてもかわいい二階建てのお家ができました。
一から紙で工作するのもいいけれど
こんな風にすでにある形を利用して工作するのも
楽しいです。
身の回りにあるものの形に敏感になります。
(↑年中のAくんの作った絵本です。絵とストーリーはAくん。文字はお母さん)
この土、日、月の間に、レッスンに来ている子たちの劇的な成長を感じることが
重なりました。
そうした子の多くは、他の同年代の子に比べて、
ちょっとしたやりすぎ行き過ぎが目だっていた子なんです。
「さあ、勉強の時間です」と告げて、気持ちを切り替えさせるということに、
小学校の中学年を超えるまでかかっていた子たちです。
その子たちが、非常に高い知的な能力を発揮しだしただけでなく
精神的にも制御のきくしっかりした子に成長してきたことで、
親御さんたちが非常に喜んでおられました。
そこで親御さんたちと、何がこの子たちをこれほど成長させたのか、
という話になりました。
その子たちの出した成果に関しては、持って生まれた能力ということもある思います。
また親御さんが子どもがその子のペースで成長していく間、
自己肯定感を下げないよう教室と協力して親の心を調整してきたこともあるはずです。
でもそれとは別に、そうしたタイプの子たちのこんな一面も成長の追い風と
なったのではないかと感じています。
それについて書く前にちょっと脱線させてください。
私事ですが、私が物語を書いていることは何度か書かせていただきました。
実は若い頃から小説家志望だったため、自分なりに一生懸命、
章修行に励んでいたものの、
長い間、なかなか最後まで物語を書ききることができずにいました。
それが最近になってスムーズに書き進めて、自分の書きたい物語を
最後まで仕上げることができるようになってきました。
単純に力がついてきたのもあるのですが、思うように書いていけるように
なったのは、これのおかげかな、と思いあたることがひとつあるのです。
直観的にひらめくのは得意でもじっくりねばり強く考え抜くのは苦手な私は、
もともとは自力で難しい課題を突破できないところがあるんです。
でも、だからといって難しい局面を避けていては、
長編の小説を書くことなど不可能です。
それで、物語を書いていく時、私は今書いている原稿について、
自分の思考が行き詰まるところを目指して、考えられるところの
境界線ぎりぎりまで行って、
そこでどんなことについて自分は答えがでないで困っているのか、
自分の思考の先端までいって確認したら、それで眠るんです。
すると、朝になると、自分でも思いつかない最適な答えや
新しいアイデアが浮かぶんです。
考えを練って苦しむということはないんですが、
必ずといっていいほど、考えあぐねるよりはいい答えを得ます。
この頃は浮かぶ解が鮮明になり、質が向上し、
気づきを得るのも早くなったと感じます。
こうしたイメージ世界で行き止まりまで行く作業は、
子どもの問題を相談されたり、他の生活上の問題を考えたりする時もしていて、
そこで得られた答えは、意識の中でわたしが考えあぐねて
出した方法による結果より
ずっとうまくいくと感じています。
この話、先ほどのちょっと難しい子たちが劇的に成長していく姿と
とどこか重なるところがあります。
日常のさまざまな場面で一筋縄でいかないというのは、
それはしばしば大人の管理からのはみだし、抵抗、衝突を生んだり、
シンプルな大人がしくレールからの脱線、停滞を生み続けるタイプのことです。
そうした子らというのは、見方を変えると、
私がイメージの世界でしている「自分のできることの先端まで、
境界線のところまで行く」
という行為をいろいろな場面で試してみる子でもあるんです。
そうした子らと関わる時、わたしは自由を許し、
自由が暴走する手前で叱る、余白を作り、
余白の中で迷いや混乱に呑み込まれる前に創造の波に乗せる、
自分を外で出し切らせることで、外から伝えたいことをその子に届ける、
そうしたやりとりを続けます。
その難所で長い間、停滞するもので、周囲に余裕がなかったり
不安が強かったりすると、子どもの自己肯定感がとことんダメになるまで
追い詰めてしまいがちですが、
少し気を楽にして、他の子と同じように成長させよう、
すぐに問題を解決しよう
とせずに、子どもがさまざまな場面でぶつかる問題の前で、いっしょに
会話したり慰めたり叱ったり、ていねいに教えたりして足踏みします。
そして、実際にその問題を何とかしようとして手を尽くすのではなく、
ちょっと寄り道して、
また子どもの好奇心のアンテナが立った方向に、結果を気にせず行ってみる、
親子関係がよりよいものになるように調整する、ということをしていると、
ある一定の時間が経つと、不思議なほど問題が解決していることに気づくのです。
この子って天才だろうか、この子にこんなすごい潜在力が隠れていたのかと
目を見張るような成長があるのです。
何を書きたかったのかというと、成長過程に難しさを持つ子、
できるできないにばらつきを持ちつつ育っていく子が、
どこもかしこも四面楚歌のように、
行きついた果てで行き止まりにぶつかっているように見える時も、
それは現状の最適でないことすべての先端までいききったうえで、
それらすべてを解決するより大きな成長を成し遂げることがあるな、
ということなんです。
環境に適応しやすい子たちが、大人の求めるものを早くから発達させる傍ら、
環境への適応が難しい子たちは、経験であれ、感情であれ、
探索活動であれ、試行錯誤であれ、
想像であれ、失敗であれ、とにかくしつこく行きつくところまで行って
境界線上でちょっとした嵐を巻き起こしているんですから、
いったんそれらが収束するなり統合するなりすると、
思いがけない価値が生み出される、
とも感じているんです。
↑ 薬の容器の中に色水を作りました。
この記事をお探しの方がいたのでもう一度アップします。
『敏感すぎて生きづらい人の明日からラクになれる本』(十勝むつみのクリニック院長 精神科医 長沼睦雄 )
によると、感覚刺激に対する過敏性を持った「HSP](非常にセンシティブな人)と
自閉症や多動症という発達障害と呼ばれてきた人々(現在は社会の中で生活できる人も多いことが判明したため
神経発達症群と呼ばれるようになったそうです)
はとても似ているところがあるそうです。
不安が強く敏感すぎるHSPは自閉症に、
好奇心旺盛で新しいもの好きのHSS(遺伝的な気質のひとつで、新しくて強い刺激や激しい刺激を求める
タイプで、HSPであり、HSSでもあるという人はけっこういるそうです)
平面が苦手で立体に強い学習症はHSP・HSSに
似ているところがあるそうです。
発達障害(神経発達症)もHSPやHSSも
生まれ持った神経の特性で、生まれた後の影響を強く受け、客観視が弱く、
主観的なものの見方が強く、対人関係やコミュニケーションに弱さを持つところが共通しているのだとか。
でも、明らかに違うところもあるそうです。
それは共感性をつかさどるミラーニューロンシステムの働きや感情や感覚に使われ方が
HSPでは強く、
自閉症で弱いことだそうです。
さまざまな神経ネットワークの結びつきがHSPでは強く、
自閉症で弱いことが予想されるそうです。(HSPと発達障害を合併しているような子もいるそう)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ほとんど引用ばかりの文章で申し訳わけありません。
関心がある方はぜひ先に紹介した著書を手にとってみてくださいね。
過去記事なので、現在の状況(ソフトの監督の話や児童館の話は過去のことです)
と異なる記述もあります。
★手を出さず 口を出さず がまんするための施設?
★手を出さず 口を出さず がまんするための施設? 2
の続きで、
またまた、うちのダンナさんの話ですが……
少し前まで、近所の小学生のソフトボールチームの監督をしていました。
(ソフトがうまいからではなく、世話する人が少ないので、借り出されてます~)
それが、毎度、同じパターンのぼやきで悪いのですが……
監督をし始めた頃から、年を重ねるごとに、
新しいタイプの子が増え出して、「ちょっとな~う~ん、これは困った」という
事態に遭遇していました。
どんな風に新しいかと言うと、
最初から、「1からきちんと学ぼうとする子」というか……
親が「1から正確に学ばせようとする子」が多くなってきて、
大きな子の真似っこをして、
バットを適当に振ったり、ボールをでたらめに投げたり、友達同士でスポーツにはならないけどそれの真似事のようなことをしていた
だらだら期間……あこがれたり、失敗したりする期間がないまま、
「最初から上達目指して習い事のようにスポーツを始める子」が増えてきたということなのです。
それのどこが困るのかというと、
本当は大人にあれこれ指図されず、適当にボールやバットを扱ううちに、
「自分はお兄ちゃんたちのように上手にできていないな」と気づき、
「上手になりたいな~」という憧れが生まれ、
「どうやったらできるようになるのか」と試行錯誤して、
しまいに、大人のアドバイスを聞いてきちんときいて、やってみようとする態度が生まれてくるものなのです。
が、この「適当」な、「子どもに自由にさせる」
種まき期間というのがないままに、
最初から大人の指導が入るものですから、
「こういう風にしてごらん」と言われると面白くなくて反抗するか、
一生懸命、教わろうとはするものの、
ちっとも楽しそうじゃないのです。
「ソフトボールは好き?」とたずねると、首を振るそうです。
そうやってイヤイヤやっているので、親が叱ります。
すると、余計に
スポーツ全般が大嫌いという態度になって、
結局、上達しないままやめてしまうのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私は児童館などで、絵や工作を教えていたのですが、
子どもに自由にめちゃめちゃな作品を作る時期を通らせず、
「さあ、先生に教えてもらいなさい。先生のするのを見なさい」という
親御さんの子で、
最終的にすばらしい作品を製作するようになった子はいませんでした。
上手に作るようになる子は、
下手な期間が長いのです。それでも、自分ではとても満足していて、
ぐちゃぐちゃしたゴミのような作品を、
大切そうに抱えて帰るのです。
教室をしていたとき、いきなりすごい作品を作り出したのは、
上の子の教室に付き添ってきていた妹ちゃん、弟くんたちです。
この子たちは自由に好きな遊びをしていただけですが、その間にも、
大人の指導が入らない種まき期間を
たっぷり体験していたのでしょう。
時計の読みにしても、長い期間でたらめな読み方を続けつつ、
時計を読む振りをして遊んでいた子は、
時計を読むだけでなく、時間を扱う難しい計算もできるようになっています。
スポーツでも、絵画でも、学習でも、
子どもの中に、「できるようになりたい」「上手になりたい」「どうすれば上手になれるかな」という
あこがれが育ってくる前に、
上手にさせよう、教えようとするのは急ぎすぎではないでしょうか?
私たちにしても、食べたくもないのに、勝手に口に食べ物をを運ばれて、
買いたくもないのに、無理やり買わされれば、
意欲自体が薄れていくことでしょう。
私は、0~3歳の子用の算数教室もしていますが、
それは乳幼児に「どうやって算数を教え込むか」というテクニックを教える教室ではありません。
子どもの中に自然に発達していく数学的な感性を、どうすればつぶさないでいられるのか、
育んでいけるのか、を伝えるものです。
子どもが本来持っている「学びたい」「成長したい」という気持ちに寄り添うには、どのように接すればよいか
を学んでいただくクラスです。