虹色教室通信では、
子どもたちが工作やブロック遊びといった物作りを楽しんでいる姿を紹介しています。
そうした画像を見るうちに、「うちの子は工作やブロックが好きじゃないけど、
好きじゃない子にもやらせなきゃいけないの?」と悩む方がいるようです。
もちろんやりたがらないものを無理にやらせる必要はないはずです。
ただ、「やりたがらない」の背後にあるものを、安易に、好き嫌いの問題とだけ捉えて、
「うちの子にはあってないようだから、させなくていいわ」と白黒つけちゃうのは
どうかな、と思っています。
別に工作じゃなくてもいいし、ブロックじゃなくてもいいけれど、
子どもには、おもちゃに遊んでもらうんじゃなくて、
自分で遊びを作りだしていくようなシンプルな素材との付き合いが必ず必要だと
思っているのです。
わたしが子どもの頃は、地面や草木や外の世界にある、ありとあらゆるものが
子ども自身が創造的に遊びを生み出していくための素材として利用されていました。
「子ども時代、工作もブロックもしたことがない」という方も、
地面に円を描いて石けり遊びをしたり、線を引いてドッチボールをしたり、
階段を上り下りしながら、じゃんけん遊びをしたり、どろだんごを作ったり、
草花でままごとの料理を作ったり、フェンスを上って新しい道を開拓したりした
覚えはあることと思います。
そうした自ら作りだしていく遊びの場では、子どもから子どもへ、
伝承されていく学び合いが常に行われていたし、自分の気持ちを表現したり、
自分の考えを伝えたり、黙々と素材の感触と触れ合うゆったりした時間が
ありました。
「こういうふうに遊びなさい」と大人に遊びを決められたり、
「こういう遊び方しかない」とおもちゃに遊び方を限定されたすることなく、
その日の気分と自分という個性とひらめきや想像の全てをオールマイティーに
受け入れて、さらなる発展をうながしてくれるような遊びの世界は、
今の時代、大人が意識して環境を整えてあげないと
存続できないようなところがあります。
もちろん現代の子どもの周りにも土や草花やフェンスや階段はあります。
でも、それらに自由に働きかけることは
今の子に許されていないし、そうした遊びの手本もありません。
異年齢の子どもたちが自由に外遊びをする姿が減り、兄弟姉妹が減り、
遊び時間が減り、
遊びを伝承する子どもの文化が衰退し、
子どもの世界に大人が良かれと思うあれやこれやが侵入しているのが、
今の子の現実です。
自分で判断したり、考えたり、工夫したり、
「わたしはこういう子だ」とか
「今はこういう気持ち」というものを表現したりするもの。
「やーめた、やっぱりこうしよう」と自分の意のままに変更したり、
破壊したり、塗りたくったり、ちまちました作業に没頭したり、
巨大なものを完成させる夢を抱いたりできるもの、していいもの。
物と物を会話させたり、他の子のすることに興味を持ったり、感動したり、
自分の作り上げたものに感激したり、称賛されたりするような
人と人とをつなぐ役割を果たしてもくれるもの。
そうした変幻自在に子どもの力で創り上げていく遊びは、
どの子にとっても大切なもの、重要なものだと感じています。
もちろんそれを「工作」や「ブロック」に限らなくてもいいのです。
でも子どもにはそういう遊びの経験がいる、ということは現代の子育てでも
心に留めておく必要があるのではないでしょうか。
もし「工作」や「ブロック」に興味がない子なら、
「知育玩具」や「パズル」や「絵本」でいい……というのではなく、
やはり「工作」や「ブロック」ぐらい自由度が高く、能動的に働きかけられるような
「ごっこ遊び」「劇遊び」「お姫様ごっこ」とか「秘密基地作り」とか「冒険遊び」
などが楽しめるような環境を用意してあげることが大事かな、と思っています。
以前、近所の児童館で工作教室をしていた時のこと、児童館の館長さんから、
「とにかく遊びというと、物を破壊したり、投げたり、足蹴りしたりすることだけ
で終始する子があまりに多いので、どうしたものかと思っています」
という相談をいただいたことがあります。
児童館には毎日、大勢の幼児や小学生が集まっていたのですが、
どの子も成長して子ども同士で遊ぶようになったとたん、
おもちゃを破壊して遊ぶことしか興味を示さない……ということを
危惧しておられたのです。
「破壊が創造の第一歩ということはわかります。
子どもだってストレスもあるでしょうし。
でも、破壊しかしなくて、遊びが生まれないというのはどうしたものか……」
館長さんは、そう言って、ため息をつかれました。
児童館の館長さんの心配は、ある地域の限られた子どもたちの姿ではなくて、
ごく普通の大多数の子らが大人の管理を離れて、
自由な遊び時間を手にした時に陥る姿だと思います。
虹色教室では、子どもの創造的な活動に対する意欲が生まれやすいように、
お友だち間の学び合いや協力が起こりやすいように
さまざまな工夫を凝らしています。
物作りの技術を身につけつつ、
人と響き合う楽しさ、アイデアを出し合う面白さ、
自分の全エネルギーを無駄にも思えるような何かに投入してみる満足感、
問題を解決した時のスカッとする気持ちなどを味わうことができるような
環境を物の面でも人の面でも整えるようにしているのです。
そうした種まきや地道に心を耕す過程があってこそ、
子どもたちが主体的に遊びを生み出して、お互いの心を共鳴させあいながら
楽しい時間を作りだすことができているのです。
また遊びがそのまま学びの好奇心になり、学ぶ時の姿勢になり、学習動機や意欲にも
つながっているのです。
子どもたちはみんな現代っ子ですから、もともと想像力や創造力が豊かで、
自分で考えて遊びを作りだし、お友だちと協調して遊び、問題が起これば
解決することができる子というのはごくわずかです。
教室に来ている小学生にしても、こちらが遊びを豊かにする方法を伝え、
子どもの心に「豊かさのある面白い遊び」という火を灯さなければ、
それぞれ好き勝手に自分で完結する遊びをしようとしたり、
遊びもしないのに教室を散らかしてまわったり、室内でボール投げをしたりして
ゲラゲラ笑い転げる……という児童館の先生が嘆いておられた「破壊する遊び」だけに
興じるところがあります。
それが幼児期に聞き分けよく育ってきた小学生たちが好む遊びだからです。
そんな子どもの遊びの世界の質の低下を目にすると、大人たちは教育のことばかり
語り合っていていいのかな、と疑問を抱きます。
子どもの遊び世界とはそのまんま子どもたちの内面世界の現れではないか、
と感じるのです。また、子どもの生きている世界の投影でもあると思われるからです。
子どもの遊びの世界が衰退し、瀕死の状態にあるということは、
子どもの内面世界が枯渇し、子どもを取り巻く環境が寂しいものとなっていることを
伝える、SOS信号とも受け取れるからです。
幼い男の子たちが車や電車のおもちゃが気に入ると、
「何が楽しいのかしら?」と呆れるほど、
来る日も来る日も、ミニカーを前に動かしたり、後ろに動かしたりしながら、
遊び続ける姿がありますよね。
親御さんに、「この1月ほど、どんな遊びをしていましたか?興味を抱いていたものや、
好きになったものはありますか?」とたずねると、
目の前の子が車を前後に動かす姿に視線を投げながら、
「ずっと、あればっかりです。いつも車でしか遊ばないから、別のおもちゃも……
と思うんですが、それしかしたがらないんです。ひとりで遊んでくれるし、
つい楽なんで放っといちゃうんですが、
もうちょっと遊んであげた方がいいでしょうか?」
「プラレールを買ってあげたところ、毎日、レールをつないで電車が走るところを
いつまでの眺めています。それ以外の遊びがないので気になるのですが、
誘ってもそれしかしたがらないのです。
いっそのこと、好きなおもちゃ類を片付けちゃった方がいいんでしょうか?」
という質問が返ってくることがよくあります。
本人が好きなことを存分にしているのですから、いいにはいいのでしょうが、
遊べば遊ぶほど、遊びの幅が狭くなって、
親御さんやお友だちがその遊びに参加する隙もなくなってしまうのは、
ちょっと気になりますよね。
遊びのパターンが固定されて、柔軟性が失われると、
いつも同じことが、一貫したテーマで再現されないと落ち着かなくなるし、
遊びが、外の世界を遮断する道具になってしまうこともあります。
車の好きな子には思う存分、車で遊ばせてあげたいけれど、
遊び道具や遊び方の一部に、創造的に変化させたり、
自分の思いを表現できるような柔軟性のある素材や方法を
取り入れるようにするといいな、と考えています。
一つのおもちゃや一つの遊び方にこだわりが強くなると、
お友だちが近づこうものなら、「自分の遊びを邪魔される」
「自分のおもちゃを奪われる」と身構えたり、威嚇したり、人を避けたり、
不安のあまり放心したようにボーっとなってしまう子がいます。
お友だちからお気に入りのおもちゃを奪われないかと緊迫した様子で遊ぶ子は、
お友だちが持っているおもちゃが目に付くと、
「それを自分のものにできないんだったらこの世の終わり」とでも
言いたげな態度に転じることがよくあります。
お友だちと過ごしている間中、
「自分のおもちゃを触られたくない」という気持ちと、
「ほかの子の持っているおもちゃが欲しい」という気持ちの間を行き来していて
その中間がないのです。
すると遊びがいつまでも発展しないし、
遊びが発展しないということは、精神的な成長が停滞することにだってつながります。
虹色教室では、
子どもの遊びの世界が、外の世界のあり様を受け入れやすい状態を保つよう、
また遊びが身の回りの環境への開かれた窓の役割を担うように……という意味もあって、
1歳、2歳という幼いうちから、遊びに物作りを取り入れています。
具体的な例を挙げると、たとえば、電車でひとり遊びをしている子がいれば、
ブロックで隙間を作ってもいいし、空き箱に穴を開けてもいいし、
椅子の隙間をそのまま利用してもいいのですが、
それを切符の券売機に見立てて、切符が出てくる遊びを加えるようにするのです。
工作といっても、紙を乱雑にチョキチョキするのが楽しい時期の子もいるでしょうし、
細い紙を用意してあげて、一回、はさみを開閉するだけで
チョキンチョキンと切符ができていくのを喜ぶ時期の子もいるでしょう。
お母さんに切ってもらいながら、紙だったものが自分の見立てる力で
切符に様変わりしてしまう魔法に夢中になる子もいます。
「切符!切符!」と遊んでおきながら、ふいに紙をパラパラ散らして、
「雪!」と命名して笑みを浮かべる子もいます。
そのように物作りを遊びに取り入れたとたん、自分の頭の使い道が広がり、
「今日、駅で~した」と自分の体験をもっと遊びに入れてみようとしたり、
「切符だけじゃなくて、お金もいるよ」と知恵を披露してみたり、
「ジュースが出てくる機械とアイスが出てくる機械とトーマスの出てくる
ガチャポンも作る!(作って!)」と創作することと想像力を使うことで、
たちまち億万長者なみに自分の欲するものが手に入る喜びに浸る子もいるのです。
↑の写真はビー玉をセロファンで包んで信号機を作っている様子です。(色の順番は
間違っていますが、本人の好きなように)
駅で信号機を発見した男の子の感動を、遊びの中で再現しているところです。
100円ショップのプッシュライトを当てると、信号を順番に光らせて遊べます。
こんなふうに、遊びにいつでも物作りを取り入れられるようにしていると、
「駅に信号があった!」という子どもの感動が、光の性質や信号機の仕組みといった
ものに広がっていくきっかけにもなるのです。
また物作りを遊びの世界に取り入れると、「お手本をよく見て真似る」
という学びの姿勢を身につけさせる機会が増えます。
できるようになったことを、お友だちに教えてあげるようにもなります。
そのように物に固執しなくても、さまざまな心を満たしてくれるものがあることを
知るにつれ、子どもたちはお友だちと過ごすのが楽しくなり、
上手に遊べるようになってきます。
既成の完成されたおもちゃには、
たいてい子どものアイデアや想像が入る余地がありません。
↑の写真はブロックでケーキを作った子の作品。
これから、お友だちとそれぞれ作ったケーキを持ち寄ってパーティーをする予定です。
プレゼントを包み、ろうそくを立ててご機嫌の女の子。急に思いついたように、
赤い部分をはずして、「火が危ないから、ろうそくを消しておくわ」と言いました。
自分が今、思いついたこと、知っている知識、想像したこと、願い事、
自分の中に生まれた物語……。
そうしたものを、遊びの世界にリアルタイムに活かしていくには、
自由に作り変え、自由に見立てることができる素材が必要ですよね。
工作やブロックのように自由度の高い遊びは、子どもの頭と心の可動領域を広げます。
子どもの内面世界を目で見て触ることができるスペースを作りだします。
工作やブロックが好きじゃない子も工作やブロックをしなきゃいけないの?4
工作やブロックが好きじゃない子も工作やブロックをしなきゃいけないの? 5
工作やブロックが好きじゃない子も工作やブロックをしなきゃいけないの? 5補足