虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

機能不全家族について もう少し 終わりです

2022-03-18 10:31:00 | 機能不全家族・アダルトチルドレン

 

先の文章にこんなことを書きました。

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父も母も妹も、自分の親と自分自身がプログラムした思考の罠が、自分の人生を蝕んでいくことから、どんなにあがいても抜け出せなかったのに、どうやってわたしはそこから出たんだろうと考えると、いくつか思い当たる理由があります。

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ひとつ目の理由として、多くの親以外の大人たちから可愛がられてきたことを書きましたが、自分が囚われている認知の歪みから解放されるためには、それとは別に、自分が長年培ってきた技術のようなものも役立ったと感じています。

子どもの頃のわたしは、とにかく高いところに登るのが好きでした。

当時は、三輪車に乗っているような子も、団地の前の自転車置き場の屋根の上を遊び場にしていましたから、それはわたしに限ったものではなかったでしょうが、子ども時代の記憶の半分くらいは、どこか見晴らしのいい場所から、眼下を俯瞰して眺めた光景で占められています。

わたしの住まいは、山を切り開いて作られた公共団地で、周辺の道はたいてい斜面でした。

坂を上へ上へと登って行って、もうこれ以上登れないというところに着くと、突然、パアッーと視界が開けます。

それまでは見えなかった反対側の景色や、下からは見えるはずもない団地の屋根や、建物で刻まれていない空が目の前に広がるのです。

その瞬間がたまらなく好きで、来る日も来る日も、どこかに、何かに、登っていた記憶があります。

 

わたしは、そうやって何度も何度も高いところに登りながら、

「高いところに登るまで見えている風景は、自分の目で確かに確認し、できるだけ詳細に正確に捉えたところで、見晴らしのいい場所に着いたとたん、それまで見てきたものも信じていたものも、それは全体の一部に過ぎない。

自分が歩いている場所から見える景色が限られていたから、それが全てを覆っているように見えていただけなんだ」

ということを意識していました。

 

そうやって、高いところに登りながら身体で感じ取っていたものは、あらゆる物事を考える際にも影響して、

「わたしが見ていること、感じていること……は、実際に自分の五感で捉えているから、信用できる。自分の感覚が信じられないわけじゃない。

わたしは、自分の周りで起こっていることを見落としなく確認していく自信があるし、それについて客観的に判断をくだすこともできるはず。

その正誤が問題なのではない。

ただ、今という経過点で、自分が感じて、考えて、こうだと信じているものは、もう少し見晴らしのいいところに着くまで保留にしておかなくてはならない」

と、考えるようになっていました。

 

そんな風に考えるようになったのには、むさぼるように読んでいた児童文学の世界によるものもあるかもしれません。

 

児童文学の世界の主人公たちは、一生懸命、今を生きていて、真剣に自分で感じて考えて、世界にぶつかっていきます。

しかし、ほとんどの場合、いつしか、最初に信じていた小さな世界観を打ち砕かれて、より大きな視野から世界を眺めるように成長していくのです。

わたしはそうした主人公たちに自分を重ねながら、今、自分が「絶対にそうだ」と信じていることも、これから先、「そういう一面もある」という全体の一部へと変化していくかもしれないと予感して、よくよく考えた上で結論が出たら、その考えをいったん保留にしておく習慣を身につけていきました。

 

こうした考え方を身につけたのは、反面教師としてですが、父や母の影響が大きいのかもしれません。

父にしても母にしても、自分の感情を揺さぶるような何かを前にしたり、動揺する出来事にぶつかると、現実をていねいに検証しようとせずに、最初に「こうだ」と飛びついた考えに、ずっと、しがみついていることがよくありました。

趣味や遊びのルール上では、物事を緻密に分析し計算高い父が、同じ趣味や遊び上の「それは本当に確率的に得なのか」といった疑問には、まるで自分がクジを引いたら一等しか当たらないと信じている幼児のようにバカげた期待に執着していました。

母は母で、本当に心が柔軟で気持ちの優しい人なのに、妹や親戚の一部の人に対しては、どんなに説得しても、初めにつけた色眼鏡をはずして、相手の身に自分を重ねてみようとはしませんでした。

それは、子どもの目にも、「たったひとつの考え」が、「他のたくさんの可能性を考えない」ために利用されているように映りました。

また、ただの思いつきや決め付けのような「根拠のない考え」も、繰り返し心に刻み、自分に信じ込ませていけば、後から得たどんなに有力な証拠や疑いようのない現実も黙らせてしまうほど力を持つことがあるのを感じて、恐れました。

そうした両親の姿に胸を痛めるうちに、わたしは自分が見たり、感じたり、考えたりしていることを、できるだけ言葉にして整理しながら、先の記事に書いたように即断を避けて、いったん考えを保留しておくようになりました。

後でさまざまな別の視点から眺めなおしてみるためです。

 

子ども時代を通して、わたしが一番関心を持ち、何度も何度もさまざまな角度から観察し続けていたのは、自分の感情や思考の動きです。

児童文学の作家になりたい気持ちが強かったので、ピアニストを目指している子がピアノの練習に明け暮れるように、自分の心の中を移ろい続ける感情や思いをとにかく言葉にしなくちゃいけない、言葉で表現しなくてはいけない、言葉に変換する練習をしなくては作家になれない、という焦燥感に突き動かされながら、自分の心と対峙していたのを覚えています。

そうした癖は、ずいぶん小さい頃からあったのですが、それはわたしの自分の心を守る自衛手段でもあったからなのかもしれません。

そんなわけで、現実の世界で泣いたり笑ったりして生きているわたしの背後には、常に自分の心の中身をスケッチしようとしている観察者としてのわたしがいました。

 

大人になってそれら二人のわたしを統合する必要を感じるまで、幼稚で、逃避的で、ぼんやりと空想に浸っているか、感情に流されて衝動的に動いているかしている自分と、クールで大人びていて、いつも冷静沈着で、一風変わった考え方をする自分が、互いにあまり交わらずに、ひとつの身体に同居しているようなところがありました。

昔からささいなチャレンジにも尻込みして、やってみようともせずに逃げてばかりいる一方で、周囲の大人たちも茫然とするような困り事にぶつかった時には、『長靴をはいた猫』という童話の猫のように、何事も先回りして策を練っておいたり、『3枚のお札』という昔話の和尚さんのように、鬼婆をモチでくるんで飲みこみながら冗談を言ったりするような、途方もないアイデアやユーモアで解決を図ろうとする自分の別の一面が、突如、顔を現していましたから。

 

そうした自分の別の一面が顔を出す瞬間を感じた、8歳か9歳の頃の印象深い思い出があります。

 

母方の田舎で海水浴に行った際、ビーチボールごと波にさらわれて、ひとりで沖に出てしまったことがありました。

流されている原因である大きすぎるビーチボールを手放して、海底に足が届くところまで泳いでいく決心がつかないうちに、必死で水を蹴る力をはるかにしのぐ波の力に運ばれていました。

事の深刻さに気づいた時には、浜辺に戯れる人々の姿が小さすぎて、目で確認するのが難しいほどで、周囲は無音の世界でした。

それは流されているわたしがあちらからよく見えないこと、いくら大きな声で叫んでも、あちらには聞こえないことを意味してもいました。

足元には奈落へ落ちる裂け目のような黒い海がありました。

 

海面に巡らされたオレンジ色の浮きが作る境界線を目にした時、どうあがいても助かる見込みはないと悟った瞬間、わたしは泣き叫んだり、怖がったりするのをやめて、突然、頭を、ひどく合理的で冷淡にも思える考え方に切り替えました。

 「おそらくわたしは、このスイカ柄のビーチボールの空気が抜け次第、しばらくもがいて力つきて死ぬ。

死ぬのはとても怖いし、水が鼻や口の中にどんどん入っていく時は苦しくてしょうがないはず。

でも、泣いても、叫んでも、怖がっても、経過も結果も同じなら、万にひとつでも生き残れた時に、将来書く小説の一部に書き加えられるように、今の自分の目が何を見ていて、頭が何を考えていて、心が何を感じているのか、調べて言葉にしておこう」

そう考えて、浜辺を眺めると、小さな無数の光が、まるで夜景のキラキラした街の光の粒を切り抜いて、海と浜の隙間に埋め込んだように輝いていました。

 

「水をたくさん飲んで苦しんだ後には、もし天国とかあの世とかいう場所があるなら、黒い海の底でもう一度、こんなキラキラした光を見るのかもしれない。それともずっと死んでしまったままなのかな?

わたしが死んでしまっても、この世界は今まで通り、そのままあるんだろうけど、わたしが死んだ次の日に、この世界が爆発して消えて無くなったところで、わたしからすると、どうでもいいこと、何でもないことになってしまうのは不思議だな。

生きている時はこんなに大切な世界なのに。

死んでから、今のこの世界があるのかないのか想像しようと思ったら、生きているわたしがあの世があるのかないのか想像するのと同じになってしまうのかな?」

空は青く澄んでいて、自分が牧場にいて、草を踏みしめながら空を眺めているだけなんだと、信じようと思えば、信じてしまえるほどのほがらかさでした。

その時、ふいに海水浴場の監視に回っているらしいボートが近づいてきて、わたしを引きずりあげるようにしてボートに乗せると、浜まで送ってくれました。


機能不全家族について もう少し 続きです

2022-03-18 00:16:00 | 機能不全家族・アダルトチルドレン

 

過去は変えられないものなのに、世代間連鎖を断ち切ることができた理由のひとつに、親以外の大人たちから注がれた愛情を挙げると、そうした縁に恵まれなかった方に対して、何のアドバイスにもなっていないようで心苦しいです。

でも、そんな方も、自分の子どもたちに負の連鎖をつなげないための方法として、こうした捉え方があることを知っていただきたくもあり書くことにしました。

 

機能不全家族で育つと、何に対しても強い責任感を持つようになる方が多いと思います。

子育てをするにしても、親のような子育てはしたくない、子どもには幸せな人生を歩んでほしい、世代間連鎖を断ち切りたいと強く望むため、親のがんばりだけで子どもの人生をコントロールしようとしてしまいがちです。

でも、そうやって、一生懸命がんばる方角に向けていた針を、あまり無理をせずに、自分が楽しく安心して暮らすことや、子どもがより多くの人と関わり、異なる価値観に触れることを受容するような方角に向けることが、長い間続いてきた問題を消滅させるカギとなることもあると、自分の体験から実感しています。

 

子ども時代を通して、わたしはいろいろな人から、可愛がってもらい、わたしの個性を大切に扱ってもらった記憶があります。

 両親が自分の問題でいっぱいいっぱいの時も、わたしがわたしらしくあることを望み、ありのままのわたしを好きでいてくれる人たちをいつも身近に感じていました。

だから、わたしも教室の子や近所の子らと会う時は、ひとりひとりの個性の輝きとていねいに接していきたいと思っているのかもしれません。

また、自分の子ども時代のことをこうした記事に書くのも、他所の子もわが子と同じように愛せる素地のある人が、今の時代でもそうして良いと思うきっかけになればと期待しているのかもしれません。

 

今もはっきりと記憶に刻まれているこんな出来事があります。

友だちとおしゃべりしながら近所をぶらついていた時、やっと目が開くか開かないかくらいの子猫を見つけました。

わたしはそれまで何度も捨て猫を拾っては、さんざん周りに迷惑をかけてきたという自覚がありました。

一件家に住んでいる親友のお母さんは、わたしが何年かおきに拾っては押しつけた猫を飼うのに苦労していて、わたしに会う度に、「猫拾いさん、絶対、もう猫を連れてこないでよ。おばちゃんはもう猫は飼えないよ!」と苦言を呈していましたし、田舎に帰省した際は、わたしが子猫を拾ったために、母が駅前で子猫を入れた箱を抱え飼い主探しに奔放しなくてはならなかったこともありました。

そのため、普段なら、妹たちが捨て猫にエサを与えているのを見かけても、「団地じゃ、猫を飼えないのよ」と注意して、猫に近づくこともためらっていたはずでした。

ただ、その日、思わずその子猫のそばにしゃがみこんでしまったのは、子猫の皮膚がむき出しになった白い身体を、無数のゴマ粒のようなものが這っているのが目に着いたからでした。

それがあまりにむごたらしかったのと、>こんなに気味の悪い虫にたかられていたら、誰も子猫を拾ってくれないと心配でならなかったので、友だちとふたりで家の風呂場で洗ってやって、もう一度元の場所に戻しておこうと決めました。

母はパートに出ていて、留守でした。

まだふにゃふにゃした子猫ですから、最初はおそるおそる濡らしたタオルで拭いて虫を取ろうとしていたのですが、相手はしつこい猫ノミで、それではとても埒が明きません。

そこで、ベビーバスで赤ちゃんを洗うようなあんばいで、洗面器にぬるま湯をためて洗ってやりました。

すると、もともと弱っていた子猫が身体の力が抜けたように、くたっとなったのです。

自分のせいで子猫が死んでしまうのではないかと血の気が引きました。

それからタオルにくるんで移動する間も、子猫の容態が気になってしかたがありませんでした。

いざ、子猫を元の場所に置いて去ろうとした時、駆け寄ってきた女性から、猫を捨ててはいけない、捨て猫なんてとんでもない、とすごい剣幕でののしられました。

仕方なく、ふたたび子猫を抱いて歩きだしたわたしを、その女性はずっと睨みつけていました。

猫を抱いている間中、わたしの余計なおせっかいで猫が死んでしまうのではないかと思うと、頭がまっ白になって、足がガタガタ震えていました。

そうして近所中をぐるぐる歩き回った挙句、「絶対、もう猫を連れてこないでよ。」と言い渡されていた親友の家に向かいました。

わたしの姿を見て、呆れかえっていたそこのお母さんは、「飼えないよ」と繰り返し釘をさしていましたが、泣いているわたしの顔を見るに忍びなかったようで、しまいに、「猫拾いさん」と言って、わたしの頬を少しつねる真似をしてから、子猫を引きとってくれました。

しばらくしてから、遊びに行くと、部屋のあちこちに積み上げてある本の上を猫たちが占拠していて、そのそばにわたしが連れてきた子猫もいました。

そこのお家の気立てのいい母猫が世話を焼いてくれたようなのです。

 

親友の家のリビングは、壁一面が本棚になっていて、何の本が並んでいたのか定かではないのですが、分厚い百科事典がずらっと並んでいるコーナーがあったことは覚えています。

わたしが何かたずねると、そこのお母さんがいちいちそれを取りに行っては、事典の一節を説明してくれていました。

その内容はひとつも思いだせないのですが、百科事典を引き出す後ろ姿は記憶に焼き付いています。

 

わたしが本好きなのを知って、数駅先の図書館まで連れて行ってくれたのは、別の友だちのお母さんです。

遊びに行く度に、美しい色板や工作素材や質のいい児童文学に触れさせてくれる方でした。

ガラス張りのベランダでセキセイインコを放し飼いにしていました。

せっかく訪ねたのに友だちがいない日には、甘いミルクティーを入れてくれて、しばらくそこのお母さんとおしゃべりした後で、抱きしめてから家に帰してくれました。

 

前回の記事にこんなコメントをいただきました。(子どもさんのお名前があったので、非公開にしています)

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先生の猫拾いさんの記事を拝読して、子どもたちは地域社会でお育てする、その意味をかみしめました。
先生は幼いころの出来事を社会的な意味を見出して覚えておられるのです。私事ですが、ギャンブラーな父と宗教家の母という対照的な2人に育てられ最近までインナーチャイルドに苦しんできました。
誰でも、完璧な親になる必要はなくて、みんなで子どもをお育てする意識が潜在的にもあれば、うまくいく雰囲気になるのかなぁと思いました。

ここからは、個人的なことですが、先日小学校一の息子のクラスで絵本の読み語りをさせていただきました。私の感受性が強いのは中学生のころからですが教壇に立ったときのくらすの 雰囲気が異様で、イライラした感じの空気がクラスの真ん中にあって敏感な子どもたちはほかの子どもをけったり叩いたりしていました。そうでない子どもたちはどこか、ぼーっとしていて何も受け付けない様子。
絵本を読み始めると、ぼーっとしている感じの子たちは絵本を見つめているのですが、世界に入り込んでいる様子ではない感じの子もいて私には衝撃的でした。
うまく書けませんが、教室のイライラ感(雲?)はなんなのでしょう?謎です。こんな中で何を学ぶのかふしぎです。とりとめなくてすみません。

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わたしの記事から、地域社会で子どもを育てていく意味を見出していただきありがとうございます。

 

話が少し脱線しますが、うちの子らがまだ小学生だった頃、「地域で子どもを育てていく」大切さと難しさについてしみじみ感じたことがありました。

それを『本当に悪い子なの?』 という記事にしたことがあります。(時間がある方は読んでくださいね)

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 『本当に悪い子なの?』 

息子が小学3~4年生の頃、同じクラスに暴言をはいたり、暴力を振るったりすることが多く、クラスになじめない男の子がいました。息子とは正反対のタイプで、おまけに息子には他に仲の良いお友達が何人かいたのですが、その子は毎日のように息子と遊びたいから…と言って遊びに来ていました。せっかく遊びに来ても、数分もすると、その男の子のワガママが過ぎて、息子たちはよそで遊び始めてしまい、私とその男の子でいっしょにゲームをしたり遊んだりする日々が続きました。
この子は、私が友達でもいいんだな…と思うとちょっとおかしくもあり、時間が許せば遊んであげるようにしていました。

そのうち、6年生になったその子は、ますます問題行動が増えたようで、たびたび悪いうわさを耳にするようになりました。
その子のお母さんは、ずいぶん前に家出していて、暴走族に入っている兄と、粗暴な感じの父親と暮らしているという話もうわさの中で知りました。

その頃になっても、その子は私の元にちょくちょく遊びに来ては、兄のバイクに乗せてもらったことや、白バイへのあこがれなどを話して帰りました。

息子と同じクラスの他のお母さんたちは、その子の不良っぽい言動を気にして、子どもを近づけないように注意していましたが
私自身は、その子が息子に暴力を振るうとは思えないし、息子もその子に誘われたくらいで悪いことをするとは到底思えなかったので、気にせず遊ばせていました。

あるとき、その男の子が青い顔でやってきて「学校のガラスを割ってしまった…。」と言いました。
わざとやったのか、カッとなった時に乱暴が過ぎてしまったのか、事情はわからなかったけれど、「私も子どもの頃、妹とけんかしてトイレに飛び込んで隠れていたら、妹がどんどんトイレのドアを叩くもんだから、しまいにガラスが割れて、すごくびっくりしたことがあるよ。ガラスがある時はカッとしていても注意しなくちゃいけないね。」と言うと、少しホッとしたような涙目になって帰って行きました。 息子が6年生のある日、いつも何ヶ月か置きに演劇を見に連れて行ってたのですが、ちょうどチケットが一枚余ったので、その子を連れて行くことにしました。
誘ったのは、息子の仲の良いお友達はみんな塾で忙しく、その日に都合が良いのは その子くらいだったからです。
それで、親御さんに伝えていっしょに劇を見に行きました。
終始、予想以上のはしゃぎっぷりで、もう楽しくてしょうがない様子でした。
劇場で会った私のお友達は、その子を連れてきたことにひどくびっくりしてあきれ返っていましたが、思い切って誘ってよかったと思いました。

その時すでに年上の非行少年たちとの交流があったようですし、もう一年経ったら、道で会ってもそっぽを向くのかもしれません…。
ふつうに暮らしているだけで悪い道を進んでいきそうな環境で、その子の夢が「白バイに乗ること」だったことが救いで、少しでもいっしょにいれるうちに「がんばって警察官になってね。☆くんはきっと良い警官になれるよ。」と繰り返し言っておきたかったんです。


少しして6年生の修学旅行がありました。
息子の帰りを学校の校庭まで迎えに行くと、子どもたちが大きすぎるリュックをしょって帰ってきました。
引率の先生は、ひとりの生徒をつかまえて、がみがみと叱りながら歩いていました。
見ると、あの子なのです。
きっとよほど悪いことをしたのでしょう。
でも、どの子も迎えに来た親がリュックを持ってやったり、「どうだった?楽しかった?」と声をかけたりして楽しく帰宅していく中、その子ひとりお迎えがいないんです。
そんな心細い状態で、まるで見世物のように叱られているのです。

たまらなくなって、その子のそばまで行って「自転車にまだリュックを乗せれるから、乗せて送っていってあげるよ。」と言いました。すると、そばにいたさきほど怒っていた先生に「あなた、だれですか?」と冷たい口調で聞かれました。
「この子は息子の友達なので…。」と言うと、ちょっとイライラした様子で どこかへ行ってしまいました。
その日とても辛かったのは、他のお母さんたちの視線が冷ややかに感じられたことです。でも、おそらく、この子についての嫌なイメージが先行しすぎていたために、場の空気が凍り付いちゃっただけだと思うんですが…。
悪意があったわけでもないのに、しばらく落ち込んでしまいました。

その子の粗暴な行動は、発達障害にあるのか、環境のためなのかはわかりませんが、どちらも根本的にはその子に因があるわけではないと思うのです。

私は今も、その子について、「本当に悪い子なの?」と、疑問に感じています。

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文章の中では触れていないけれど、当時は、自分の選択でわが子たちを苦しめているんじゃないか、先々、わが子に危害が加わるようなことにつながらないか、という不安が頭から離れませんでした。

それでも、そうしたのは、その子の子ども時代は、今後、もう2度と体験しなおすことはできない、という焦燥感にかられたからですが、心配が取り越し苦労に終わってほっとしました。

 

話を前回の続きに戻しますね。

子どもの頃、さまざまな方から、単に地域の子として構ってもらうだけではなくて、人と人とのつながりや絆を感じるような可愛がり方をされていたのを思い出します。

 

高校時代、定期テストの前に「いっしょに徹夜でテスト勉強しよう」と誘ってくれる友だちがありました。

徹夜どころか、夜更けに散歩に出たり、繰り返し休憩を取ったりした挙句、早々と寝てしまうのですが、快く迎えてくれる友だちのお母さんに甘えて、度々お世話になっていました。

 

そこのお母さんは和装や手芸が得意な方で、ある時、わたしと友だちに浴衣の縫い方を教えてくださることになりました。

美しい色の布地を裁って、いざ縫い始める段になると、わたしも友だちもたちまち飽きて、仕事を放り出して、おしゃべりばかりしていました。

それで結局、2着の浴衣を仕上げていくのは、友だちのお母さんとなりました。

 

そこのお母さんは、何かたずねると、遠慮がちに笑って、穏やかな調子で、よく練られた思慮深い返事を返してくださる方でした。

わたしは悪びれもせずに、一針一針と自分の代わりにそのお母さんが縫い進めていく傍らで、あれこれと自分が聞いて欲しいことをしゃべり続けていた記憶があります。

 

高校生にもなって、ずいぶん幼い振舞いなのですが、家では母子の役割が逆転して、わたしは母の悩みの相談役であり、支え役と指南役も兼ねていましたから、こんな風にわがままな子どもの状態で過ごせる場所を必要としていたのだと思います。

結婚後、わたしと友だちはめったに会うことがなくなったのですが、友だちのお母さんは時折、こちらに連絡をくださいました。

数年前に母が亡くなる直前にも、田舎に療養に向かう母のことを心配して、親身になって相談に乗ってくださったことをありがたく覚えています。

 

数駅先にある図書館の司書の女性も、図書館に通い始めた小学校低学年の頃から、ずっとわたしを可愛がってくださった方です。

図書館に顔を見せると、貸出の受付の仕事を他の職員と交代して、わたしの本選びに長い時間つきあってくれていました。

その方がたびたびカニグスバーグの作品を勧めるのに、表紙の絵が暗いため、なかなか手に取りたがらなかったのですが、ある時、思いきって読んでみたら面白かったということがありました。

他のカニグスバーグの作品も探していたら、その方が駆け寄ってきて、こっちの作品はこんな話、あっちの作品はこんな話と説明しはじめて、その姿が本当にうれしそうで、はしゃいだ様子だったことが印象に残っています。

たまたまその方の新しい勤務先の図書館が高校の最寄り駅のそばだったので、そうした関係は高校生になっても続いていて、資格もないのに、司書の臨時アルバイトとして雇ってもらったこともあります。

 

こんな風に子ども時代に可愛がってもらった人々というのはまだまだいて、挙げているときりがありません。

面白いことに、自分が大人になって子どもと接する時には、そうして子ども時代に出会った大人の方々の語り口調や癖やユーモアや喜び方や好みなんかが知らず知らず、自分の内に蘇ってきて、自分の性格の一部のように感じられることがあります。

そんな時は、子ども時代の不思議に触れる気持ちになります。

 


機能不全家族について もう少し

2022-03-14 19:29:00 | 機能不全家族・アダルトチルドレン

 

これで終わりにしようと思っていたのですが、機能不全家族の問題にこれから向き合いながら子育てをしていこうとしている方からコメントをいただいたり、遠方に住んでいる親しい人からメールで苦しい胸の内を打ち明けられたり、レッスンの中で世代間連鎖を断ち切る難しさを相談されたりするうちに、あれでは少し不親切な答え方だったと思い直しました。

たいした力にはなれませんが、もう少しだけ、自分が当事者としてこの問題と関わり続けて、気づいたこと、理解したことについて書いてみようと思います。

 

先の記事を書いている最中に、次のようなコメントをいただき、

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いつも拝読させていただいております。
私は父がDV、母が家族に共依存しているという典型的な機能不全家族に育ち、3歳、1歳の育児をしています。
今、実家は家族の機能不全関係が表面化した問題に直面しており、私は、両親を手助けすれば重い依存がのし掛かってくることが予想され、常に実家が心配で育児は上の空、という状況です。
私が親として、母の優柔不断で家族の機嫌を取ってばかりの面、父のストレスが溜まると怒りという形で爆発する面を受け継いでしまっていないか、自信なく子育てしてます。

3歳の息子のわがままかんしゃくが、私の育ちを投影しているのではないかという心配があること、過去の記事から先生が機能不全家族に悩んでいらっしゃったお話を聞き、勝手に親近感を持っていたことから、今回の記事を興味深く読ませていただいています。

先生が、機能不全家族に悩まされながら、どのように精神衛生を保ち、子育てをされていたのか、どのようにして、世代間連鎖を断ち切ったのか、機会があればお聞かせ頂きたいと思っております。

先生とお会いできる機会があればとレッスンの応募を何度かしておりますが、ご縁がなく残念に思っています。
けれど、先生の記事に出会えただけでも育児の指針、心の支えとなり、とても有難い出会いと思ってます。これからもどうぞよろしくお願いします。

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その後、記事を書き終えた時、とてもありがたい感想をいただきました。

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先日コメントで質問をさせていただいた者です。
先生の記事、噛み締めながら拝読いたしました。
機能不全家族に悩まされたり、子育てをしながら自分の育った道を思い返して苦しむ中、有難く、心救われる気持ちがしています。
先生の優しさと強さの源を見せて頂いた気がしました。
自分の置かれた状況を被害的に捉えてばかりで子育てに自信を失っておりましたが、心を澄ませて自分らしく道を拓いていけたらという気持ちになりました。
心に染み入る素敵な物語のお話でした。私もいつか自分と家族の影を抱きしめて、最後に丸い円を描けるようになりたいです。
ありがとうございました。これからも記事を楽しみにしております。

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心を澄んだ状態に整えて、自分の生き方を考えておられる姿に、息を引き取るまで共依存の状態から抜け出すことができなかった母の人生が、誰かの未来の中で活かされるようでうれしく感じました。

しかし、同時にコメント主さんの前向きで純粋な思いが、わたしが書いた文章によってより傷つくことにならないか少し怖くもあって、数日間、この記事に続きを書くべきかどうか悩んでいました。

怖いという言葉をここで使うのは、残酷で奇妙に聞こえますが、わたしの正直な思いでもあります。

今から夜の登山をしようという人や、砂漠に入って行こうとする人に、そこを抜け出せた体験を語り、方法を伝えても、その方法とは、山を消す魔法でもなければ、砂漠から出る地図でもありません。

より過酷な状況になっても、自分を取り戻すために、一歩一歩歩みを進めるためのエールを送ることしかできません。

それでも、それをやり抜くための知恵なら、言葉にすることができるかもしれないと思い、続きを書くことにしました。

 

機能不全家族という言葉を耳にすると、それは家族間の関係の問題であって、前向きながんばりや純粋な意志や深い愛情によって、乗り越えていけるようにも思われます。

でも、その背景には、依存症の問題が隠れていて、少し頼りない性格程度に思われる共依存のようなものであっても、社会から敵視される薬物依存同様に、人の心や意志やがんばりだけではどうしようもないものがあることを、わたしはこれまでの数十年間の中で、心の深い部分で実感しました。

 

わたしは、先に紹介したコメント主さん同様、父のDVやギャンブル依存、母の共依存などの多くの問題を抱えた家庭に育ちました。

わたしも妹もそうした機能不全家族の中で割り当てられた役割……

妹は「スケープゴート」、つまり「悪い子」の役を、わたしは「プラケイター」と「責任を負う子」、

つまり親をなだめたり、支えたりする家庭内ソーシャルワーカーの役と、家庭内の混乱に秩序をもたらすために一生懸命がんばって親の期待に応える役を担って、子ども時代を過ごしました。

 

そのように子ども時代を子どもとして生きれなかった子は、心に慢性的な喪失を抱えたまま、健全な自己愛や自尊心を獲得できずに大人になっていくと聞きます。

自分を信頼し、「やれば何とかなる」といった前向きな姿勢で、人生を切り開いていくことが難しいとも言われています。

 

父母の思い出話から推測するに、おそらく父の父母もその父母も、また母の父母もその父母も、家族の関係の問題によって自分たちの人生を蝕まれてきたのだろうと思われました。

そして、父も母も、表現の仕方ほど異なるものの、アダルトチルドレンの特徴をたくさん持っていました。

 

父は、白黒、二極化した思考をしがちで、人を試す発言が多く、怒りを抑えられず、漠然とした不安感や空虚感をギャンブルへの依存で埋めていました。

母は、自己信頼感が希薄で依存心が強く、何でも人にたずねて、自分で判断することができませんでした。

いつも周囲に合わせばかりで、人からの頼みごとを断れず、自分の人生に希望を抱けないまま、何となく日々を過ごしていました。

 

 そんな両親のもとで育ったわたしは、身体的にも精神的にも脆弱な子どもでしたし、実際に心が深く傷ついてもいたし、ずいぶん遠回りをしながら大人になりはしたものの、幼い頃から、どんな時も、父の考えにも母の考えにも染まらないところがありました。

たとえ一時期、両親の思考のあり方の影響を受けて認知に歪みが生じていたとしても、それに気づいて、自力でそこから抜け出す知恵も持っていました。

そして、今、生きづらさを感じずに生活しているし、わが子たちが自己愛や自尊心や自己信頼感を成長させていく過程を支えてあげることもできます。

 

父も母も妹も、自分の親と自分自身がプログラムした思考の罠が自分の人生を蝕んでいくことから、どんなにあがいても抜け出せなかったのに、どうやってわたしはそこから出たんだろうと考えると、いくつか思い当たる理由があります。

 

そのひとつは、両親の伺い知らないところで、両親や祖父母以外のさまざまな大人たちから、自分の子どもに対するような深い本物の愛情をかけてもらっていたからじゃないかと思っています。

また、大きくなるまで続いていた幼なじみとの心の絆も、両親との関わりに別の視点をもたらしてくれました。

 

次回に続きます。


機能不全家族について 3

2022-03-11 12:48:35 | 機能不全家族・アダルトチルドレン

 

父がどうして、少し話をするだけで、相手の弱みやコンプレックスや罪悪感のありかを嗅ぎ付けて、それを掌握してしまうことができたのかといえば、おそらく父にはちょっとした仕草や戸惑いや躍起になって弁解する瞬間や、言葉にしたこととあえて言葉にしなかったことから、相手の心の動きが手に取るように見えていたからでしょう。

 

また父には、何かを観察する時に、結論を急がず、ひとつひとつ詳細に分析していくところがありました。

学問の世界とは無縁で、仕事も肉体労働に終始していた父ですが、時折、「ああ、またか」と家族をうんざりさせる形で、父の頭の使い方を知る機会が何度かありました。

 

母の療養のため、父母が田舎に移り住むことになった時、「日曜ごとに競輪や競馬に通い詰めている父が、退屈な田舎暮らしに我慢できるのか」と心配していたところ、母から、「父さん、近所にいくつかパチンコ屋があるから、けっこう楽しそうに過ごしているわ。うまくある分でまわして、お金はほとんどかかっていないみたい。」という報告を受けたことがありました。

が、それから少しして、母が、「どのパチンコ屋にも出入り禁止になったらしい」と伝えてきました。

理由を聞いたところ、それぞれのパチンコ屋ごとの台の性質やどんなサイクルでどんな出方をするかといったことを細かく調べ上げていたようです。またそれらすべてを頭に納めて、出る台から出る台へ移っていたところ、あまり何日も勝ち続けるので、出入り禁止を言い渡されたそうなのです。

 

父は粗暴で毒のある性格で、母に手を上げることも多かったけれど、わたしは疎ましく思うことはあっても、あまり恐れてはいませんでした。

それこそ、父の顔が怒りで蒸気して、まるで射抜くような目でこちらを睨んでいるような時も、こちらはこちらでひるみもせずに父の顔を見返していた記憶があります。

気の強いはずの妹がまるで引きつけたように泣き叫んで父の剣幕におびえているのに、おっとりのんびりした性格の弱々しい感じの子だったわたしが、よくそんなことができたものと呆れるけれど、父が人の弱みやコンプレックスや罪悪感をすぐに嗅ぎつけるのと同じように、わたしには、虚勢の下に隠れた父の気の弱さやコンプレックスや罪悪感、空虚さや不安といったものが、はっきり見て取れたのです。

 

子ども時代の話を書くと、たびたび、「機能不全家族に悩まされながら、どのように精神衛生を保ち、子育てをされていたのですか」「どのようにして、世代間連鎖を断ち切ったのですか」といった質問をいただくことがあります。

簡単にまとめられそうになかったので、これまで、そうした質問にお答えしたことがなかったのですが、私的な話が長くなったついでに、それについてもわたしの思いを書いておくことにします。

 

機能不全家族やアダルトチルドレンという概念に出会ったのは、長女を産んで少しした頃です。

大人になって、穏やかで安定した暮らしを送るようになってから、わたしは自分の心がいかに家族の問題で深く傷ついていたのかを思い知ることになりました。

一時期は、凍結したり抑圧していた記憶がどっと押し寄せてきて、涙が止まらなかったり、不眠が続いたり、激しい吐き気や頭痛に悩まされたりしました。

 

特に母が問題行動が激しくなる妹を道連れにして自殺未遂を図った出来事は、自分もそれに加担されそうになったことへの怒りや罪悪感や、どんなことがあっても妹を守らなくてはという思いや、心が担える限界まで苦しんでいた母をかわいそうに思う気持ちや、自分の落ち着いた学生生活を奪われたことへの不満など、未消化の感情を呼び覚まして、思いだす度に、心が掻き乱されました。

 

そんな状態の中で、客観的に過去を見つめ直したり、感情を整理したり、自分の今の生活を大切に守っていくために、機能不全家族の問題を扱った著書の数々はとても役立ちました。

 

心身がかなりまいっていたとはいえ、わたしは自分の子どもを愛情をかけて育てるのには、何の努力もいりませんでした。

せいぜい過度の甘やかしを控えるのに苦労したくらいです。

たとえ未熟な関わり方でも、両親から強い愛情を受けてきたからなのでしょう。

 

機能不全家族とかアダルトチルドレンという言葉は、自閉症スペクトラムといった言葉同様、人の抱えている問題や困り感を明らかにして、苦痛を減らすための指針を与えてはくれます。

 

でも所詮、言葉で表せる概念は、便利なマニュアルや小道具にすぎなくて、そんな言葉の中に人の全てが収まりきるわけはありません。

 

 わたしは父が相手のコンプレックスを自分が優位に立つために利用する姿を見て育つ中で、人が何に縛られているのか、何を恐れているのか、何を恥じているのか、何を見ようとしていないのかに敏感になりました。父とわたしはそうした部分で似ているところがあるのでしょう。

父はそれを利用したけれど、わたしは、それに気づくことで相手が囚われている何かから解放してあげることができるし、袋小路に迷い込んだり、悪循環に陥っている考えから抜け出す手助けもできます。

トラウマとなるものを、被害的にだけ捉えるのは、わたしの性に合わないので、毒のあるものも、自分なりの活用法を考えてきたのです。

 

人の心は多面的で豊かで、同じひとつの経験からも、一方では深く傷ついても、他方では、それをきっかけに自分の人生にとって大切な意図を見つけたり、自分の視野や限界を広げる役に立ったりすることもあります。

何もかも奪われることがあっても、それを機会に自ら生み出すこと、創り出すことを学ぶことはできます。

 

子どもの頃を振り返ると、確かに父が母に暴力をふるうことで心が引き裂かれそうになるほど傷つき、母と妹の争いに終始、胸を痛めていたけれど、それに触発されて、ずいぶん早い時期から、自分が人生でやり遂げたいことを意識して自分の夢を育んでいたことも事実でした。

目に浮かぶ子ども時代の光景は、暗いものより美しくて神秘的な輝きを放っているものがほとんどで、ひとりで過ごしている時の多くは、心配ごとよりも、ワクワクする思いや幸福な気持ちで満たされていました。

 

わたしの夢というのは、物語の作家になることでした。

聞くのも読むのも語るのも物語好きだったわたしは、ごく普通の子どもの好みそうなストーリーも好きだったけれど、ちょっと風変わりな自分なりの好みも持っていました。

幼稚園のお話の時間に語られたグリム童話や怪談話や冒険物語を妹や従妹に語って聞かせるのが好きで、特に少し残酷な『ネズの木』の話が十八番でした。

 

カトリックの幼稚園だったので、園長先生に勧められるまま日曜日に、園の隣に併設されている日曜学校に通っていました。

おそらく大人向けの話の中にあったのでしょうが、そこで耳にした『放蕩息子』のたとえ話が、深く心に響きました。

こんな話です。

「ある人のふたり息子の弟の方が、放蕩して財産を使い果たした父の元に戻ってきます。それを父は喜んで迎え入れます。

さんざん好き勝手した上、ちやほやされる弟にずっと父のそばでつくしていた兄が不満を抱くと、父は、お前の弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから、一緒に祝おうではないかとたしなめるという話。

教会では、この話は、神の愛の偉大さを諭したもので、放蕩息子とは神から離れた罪深い人のことでわたしたちのことだと説明されましたが、わたしは牧師の解釈では気に入らず、「もし牧師さんの意見と違う考えで、どんどん考えていっても、放蕩息子が帰ってきたのを喜ぶ神様なら許してくれるはず」と考えて、自分なりにあれこれとイメージを膨らませたり、解釈してみたりしながら、ずっと心にとどめていました。

 

小学生になって、『ゲド戦記』を読んでからは、先の放蕩息子の話と自分の影と対決するゲドの姿が重なりました。

ゲド戦記は面白かったけれど、わたしには、自分自身の暗部である影と戦うゲドのストーリーは少し物足りませんでした。

「わたしなりの影をテーマにしたストーリーを作り上げたい」というのが、それからのわたしの終始変わらぬ願望でした。

できれば、放蕩息子のたとえ話のように、最終的には自分の影を抱きしめるような、最後に丸い円を描くようなイメージで終わる物語にしたいと思っていました。

 

高校生になると、ユングの元型やシャドウの話や荘子の詩に惹かれました。

その頃から自分でも詩を書き始めました。

『数えきれない太陽』というホームページに載せている 出逢い という詩と 友情 という詩は、実は、どちらも妹に向けて書いたものなのです。

わたしと妹が歩んできた道と自分が描きたいと思い続けているテーマが、その詩の中に結晶されているのを、今、読み返すと感じます。

 

結局、物語はどうなったのかというと、「これから書きあげてみたい」という思いもあれば、自分の今暮らしている生活の中で、子ども時代に旅立たせた物語の主人公たちの帰還をすでに味わっているような気持ちも感じています。


機能不全家族について 2

2022-03-09 21:20:33 | 機能不全家族・アダルトチルドレン

 

母の子育てに特別な問題がなかったとすれば、問題の根は妹にあったのかというと、そうとは思えませんでした。

 

妹の感情の起伏の激しさや情熱的で真っすぐなところや単純さ、愛情に飢えているところ、お調子者で自信家で称賛を欲しているところ、物に釣られやすく、扇動されやすいところが、常に、父と母にいいように使われていることをわたしはずっと知っていました。

 

妹の心は、父と母の意識に上らせることができない憎しみあいやら、愛情の駆け引きやら、わたしの奪い合いやら、心の空虚さを埋めることやら、自分たちの影を投影することやらに利用され続けていました。

 

それに最初に気づいたのは、ひとつ違いの従妹が泊まりにきた時です。

わたしは従妹の心が、ちょっとしたやり取りの間に、父の思うがままに動かされるようになっていくのを見てハッとしました。

わたしの父というのは、自分自身、非常にコンプレックスが強い分、人の負の一面に勘が働きやすく、少し話をするだけで、相手の弱みやコンプレックスや罪悪感のありかを嗅ぎ付けて、それを掌握してしまうことができました。

従兄弟たちが集う時、父はしょっちゅう、ちょっとした小銭を与えたり、物を買い与えたりしながら、もっともっと欲しい、他の子よりたくさん欲しい、という思いで自分を見失うような子がいると、その子にだけより多く与えるふりをしたかと思うと、じらしたり、無視したり、自分だけ損をするんじゃないかという不安を与えて、結局、父のまなざしひとつ、言葉ひとつで言いなりになる子に仕立て上げていました。

 

賭博好きの父は、荒っぽい性質の人々と付き合いがありましたが、相手がどんなに恐ろしい外見をしていても、気の弱さが潜んでいるのに気づくと、睨みをきかせたり、脅したりして、自分の支配下に置いていました。

 

ひとつ下の従妹は、食べることが大好きで、遊びの途中で駄菓子屋に寄っていました。

年が離れた温和な兄がいるだけの従妹は、ほとんどひとりっ子のように育てられていて、そうして買ったお菓子を分け合うという考えがなくて、よく妹と揉めていました。

 

父は、よく従妹とわたしと妹を連れて散歩に出ると、わざわざ従妹が買ってもらいたくてうずうずしているドーナツ屋の方に向かうことがありました。

従妹の期待が高まって、「どこに行くの?」と繰り返えしたずねるのに、「まぁ、いいところだ」と言葉を濁しておいて、どんどんドーナツ屋に歩を進めたかと思うと、素知らぬふりをしてドーナツ屋の前を通りすぎて、ただぶらりと散歩をしているだけだという格好を決め込みました。

従妹が不安になって、父に懇願しはじめると、「そんなものが欲しかったんなら言えば買ってやったのに」と言いながらも、戻る気はないふりをし、従妹が父の一挙一動に心を躍らせたり、期待したり、不安になったり、絶望したりする様子を楽しんでいました。

最終的に父はドーナツを買って帰るのですが、その頃には、従妹は父に対して弱い立場になっていました。

おそらく父は、買ったお菓子を分けあうことができない姿から、従妹の弱みを察したのでしょう。

 

わたしは従妹の父のやり取りを見ながら、妹もまた、常に父から、また母からもそうやって心を揺さぶられたり、操られたり、ある感情や行動に駆り立てられたりしていることが思い当たりました。

妹の気持ちも態度も決して妹の中からだけ出てくるものではなく、外からの力が掻き乱し翻弄し続けていたことを悟りました。

 

わたしが育てにくさを持つ子のお母さんたちの相談に乗ったり、そうした記事を書くのに熱心なのは、癌で亡くなった母が、壮絶な痛みと戦っている最中も、子育ての失敗を悔いる気持ちに苛まれていたことが、今も心から消えないからなのかもしれません。

 

母は情にもろくて、人の話によく耳を傾ける共感する力に富んだ人でしたから、もし、子どものわたしではなく、大人になった現在のわたしが、妹との関係に悩む若い日の母を支えてあげられたら……母の陥っている子育ての迷宮から抜け出す指針を与えてあげられていたら……自分の生きてきた道を否定したまま、罪悪感を抱えたまま、逝ってしまうことはなかっただろうに……

たとえ非行に走っている時だって、矯正することばかり考えなくても、バカ親ってののしられるような愛し方をしたっていいし、世間から責められても、親なんだから愛するくらい許されているはず、と子どもの口からでなく、大人の言葉で安心させてあげたかった……

妹との和解を願って、結局、病気の母を追い詰めることしかできなかった自分に寂しさを覚えるのです。

 

表面上、妹は父の、わたしは母のお気に入りで、父は妹を、母はわたしを溺愛していました。

母はよく、妹は性格も顔もすることなすこと父とそっくりだと言い、わたしは母に似ていると言っていました。

 

どちらにしろ、目で見て確認できる範囲では、その言葉通りでした。

けれども、それはほんの一面的な捉え方に過ぎなかったのかもしれません。

 

父は妹に対して、どう成敗しても妹に非がある場面で、やたら妹の肩を持ってみたり、妹が母に叱られたからという理由で、何もしていないわたしにげんこつを落としたりするような支離滅裂で非常識な溺愛の仕方をしていました。

 

そうした猫っかわいがりは、妹かわいさからしているというより、わたしの心を乱して、自分を注目させよう、関心を引こうとしているのがありありとわかる時がありました。

 

父は常にわたしが何を欲しがっているのか知りたがっていました。

わたしはなかなかそれを明かしませんでした。

自分の欲しいものにしても、願望にしても、胸の内にしまって、父に気づかれないようにしていました。

でも、わたしが何かに興味を持つと、母が勝手に察して、父に伝えることがありました。

すると、父は給料2ヶ月分ほどの呆れるような金額で、それを買ってくることがたびたびありました。

安価なラジカセを欲しているような時に、最高級のステレオセットをそろえてやろうとするのです。

そうしてわたしに貸しを作っておこうという気持ちもあったのでしょうが、お金に細かい面も持っていた父は、妹や母には、一度もそんな高価なものを買うのを見たことがありませんでした。

 

次回に続きます。


機能不全家族について 1

2022-03-08 21:26:08 | 機能不全家族・アダルトチルドレン

 

(わたしの子どもの頃の話です。)

 

小学校低学年頃だったと思います。

わたしは妹と近所の年下の子らを連れて、坂を5分ほど上って行って給水塔のそばの広場で遊んでいました。

 

そこは駐車場でもあるのですが、昼間の車の出入りはなく、四葉のクローバー探しの穴場でした。

小さな子たちを連れて、大人の目のないこんな場所まで遊びに行っていたのも、団地の前の庭には、じめじめした雑草が生い茂っていて、やぶ蚊やムカデや蛇がいるので、遊びといっても、探検ごっこか落とし穴作りしかしようがなかったからなのです。

 

ひとしきり遊んで、みんなでぞろぞろ来た道をくだりはじめた時、郵便配達人の格好をした20~30歳くらいの男性がこちらに近づいてきました。

優しい口調で話しかけてきましたが、その雰囲気や表情からは、気味が悪いような恐ろしいような得体の知れないものが感じられました。

 

当時、その地区では幼い子どもをターゲットにする変質者が出没するという噂が繰り返しささやかれていました。

また、そうした事件で、カッターで切りつけられたり、首を絞められたりして死んだ子がいるとニュースでやっていた、というこそこそ話が、子どもたちの間をまわってもいました。

 

わたしは見知らぬ人が近づいてきて、何かすごく楽しいことがあるような口調で団地の裏の人気のない場所に誘おうとしているのを聞くと、ゾクッと背筋が凍るような思いがして、警戒心をあらわにして、年下の子たちを催促するように押しながら帰りを急ごうとしました。

 

すると、その男性は、わたしの緊張した疑り深そうな目つきを避けるように無視したまま、少し離れたところにいた妹と妹の友だちの前にかがみこんで、朗らかで親切なお兄さんという様子で声をかけていました。

そして何気なくふたりの手を取ると、どこかへ連れて行こうとしました。

 

妹は快活で怖いもの知らずなところのある気の強い子でした。それと同時に、母との関係がうまくいっていなかったからか、(そうした事情については、「親のコンプレックスと子どもの困った行動 」という記事の中で書いています)自分に構ってくれる甘えられそうな相手に、強く惹きつけられるところがありました。

 

他の子らも、その男性と妹たちの後ろをぞろぞろと付いて行こうとしていました。

誰といっしょだったのかはっきり覚えていないのですが、おそらく妹たちよりももっと幼い子らだったのだと思います。

 

わたしは後ろずさりをしながら、近くの団地の階段をかけのぼってドアを叩いて大人の助けを得ようか、母のところまで知らせに戻ろうかと思いをめぐらせていました。

でも、周囲はひっそりと静まり返っていて他の大人の気配がありませんでした。

母を呼びに行って戻ってくるまでは途方もないほど時間がかかるようにも思えました。

 

そんなことを迷っている間にも、妹たちは団地の裏に消えようとしていました。

あの人はカッターを持っているのかもしれないし、いきなり両手で首を絞めようとするのかもしれない……。

 

恐怖心で声も出せずにガタガタ震えていたわたしは、ふいに覚悟を決めて、その人に向かって突進していきました。

それから妹たちの手を握るとグイグイと引っぱりました。

 その剣幕に驚いて、その男性はふいに妹たちの手を放すと近くにとめていた自転車で走り去っていきました。

 

それからどうなったのか、記憶はそこで途切れています。

ですが、自分が自分でないような不思議な感じがした覚えがあります。

というのも、その頃のわたしは、内気過ぎるほど内気で、弱々しい子どもだったのです。

鼻が悪かったり、喉や胸がぜいぜいして息をするのも苦しかったりして、疲れると身体を引きずるようにとぼとぼ歩く癖を、近所の人に笑われたこともあります。

人と関わる時に強く出れなくて、隣の席の子に下敷きで繰り返し頭を叩かれても言い返すことも逃げることもできなくて、その場にフリーズしていたり、近所の年上のいじめっ子に繰り返しだまされて、留守宅に閉じ込められたりしていました。

 

そんな風に自分で自分を守る力すらないのに、妹のこととなると、カミナリが怖くて震えあがっているのに、激しくカミナリが鳴るどしゃぶりの中を駆け抜けて迎えに行った記憶もあります。

 

わたしと妹は特に仲のいい姉妹というわけではなく、性格も遊びの好みも違う上、「妹は困った子、悪い子」という母のまなざしに同調しなくてはならない雰囲気の中で、親戚の子たちや友だちよりも遠い存在でした。

親戚の子たちや友だちよりも遠い存在であった妹のことで、どうして自分はいつも躍起になるのか、我を忘れて、恐怖の中に飛び込んでいったりするのか、ずっと自分でも不思議でした。

このブログの記事(ワガママな振舞いが目立つ子にどのように接したら良いでしょう? )を書く中で、「そうした激しい気性や気難しさや過敏さを持っている子たちを、特別にかわいく思い……」と書いてから、「これだと、育てやすい子は、特別には、かわいく思っていないようでよくないな」と躊躇しつつも、なぜだか削りたくありませんでした。

 

迷った挙句、言葉をそのまま残した瞬間、どうして自分が妹に関することでは、強い衝動に駆り立てられることが多かったのか、理由がわかったような気がしました。

 

妹は要求が多くて妥協を知らない育てにくさのある子で、どんなささいな衝突もとことんエスカレートさせて、長丁場の戦いに持ち込まずにはおれない性格でした。

 

 わたしは、赤ちゃん時代に始まって、何年経っても母が妹とぶつかり続けたことや、結局、妹が大人になるまで互いに歩み寄らなかったことに腹を立てる一方で、それがどうしようもなかったことも承知していました。

 

 母はその時代の子ども観やしつけ観の中で精いっぱい誠実に子どもを育てようとしていただけで、妹に対する愛情も優しさも本物でした。

 

わたしは母と揉めてばかりいる妹に、「どうして1つもらったら10欲しがるのか」

「どうして今、この状況では我慢すべきだと納得できないのか」とやきもきしていました。

昼寝の時に、母の両隣にわたしと妹が寝ることを、妹は絶対に許しませんでした。

毎回、母の全てを独占したがって、わたしに噛みついたり、髪の毛を引っぱったりしていました。

 

 次回に続きます。


親のコンプレックスと子どもの困った行動 おわりです

2017-01-12 15:35:27 | 機能不全家族・アダルトチルドレン
末っ子の母を、「ぜひ養女に欲しい」と子どものない親戚がせっついていた話を、母はよくしていました。
それもまた、母を良い子のカラに閉じ込めた思い出だったのでしょう。

母は自分の欲望を極端に我慢して、家族に奉仕する一方、いったん家族のためと言う大義名分ができると、怪しい商法の健康器具やら、鍋セットやらに簡単に大金をはたいてしまったり、そうしたものに対しては、妙に我慢がきかないところもありました。

そんなことなら、お母さんの好きなものに、自由にお金を使ってくれたら、どんなに家族は気持ちが良くてうれしいか…と思うのに、「私はボロで良いの…」とやたら自分にはケチケチするのです。

その点、妹は世界は自分を中心に回っている!と大らかに宣言しているような生き方考え方をする性格で、母にすると妹のすることなすこと気に入りません。
妹の悪い素行をしつけなおそうというより、性格を根こそぎ改造しようとでも思っているような態度でしつけをしていました。

そのため妹は、母にべったり甘えていたかと思うと、口汚くののしったり、暴力をふるったり、だめと言われていることをわざとやったりしていました。

すると母の方も本気になってしつこく妹を叱ります。
 
妹も妹で、一日中でもごねて、母を思い通りに操ろうと必死でした。
 
そんな毎日が、一年中、いえ、何年も…妹が結婚して家を出たあとも、冷たい親子の憎しみあいの形で続きました。

母は妹との関係を良いものにしたいと思っていなかったのか…?というとそんなことはありません。
 
母はいつも子育てに悩む母で、懸命に良い母になる方法を学んで自分を変えようと反省する母でした。
 
しかし母がいつも手付かずのままけっして変えようとしないものがありました。

自分が良しとする価値観…
 
「控えめで、温和で優しく、物を欲しがらず、自慢せず、自分のことよりまず人を思いやるような性格」だけを良しとする考え方です。
 
妹の「積極的で強気で自信家で快活な性質」をあるがままに認めて尊重することは決してなかったのです。
 
「コンプレックス」は、ある種の抑圧が原因となるそうです。
 
「本当は、こうしたかった」という素直な気持ちを、対人関係の中で抑圧され続けると、不満が増大し、「理性から外れたこだわり」となるようです。

子どもの願いに反した価値観を押し付けたり、よかれと思っていた教育方針が、子どものコンプレックスの原因となります。

人間関係って、本当にトラブルが多くて、傷つけ、傷つけられることが日常茶飯事ですが、相手の立場を考えず、想像力や優しさの欠けた発言をしてしまうとき、そこにはコンプレックスが関係しているように思います。

虹色教室に来ている軽度発達障害が疑われる男の子が小学生の頃、お母さんと楽しそうに笑いながら自転車で移動している時、学校の担任と会ったそうです。
 
担任は、うれしそうに微笑んで、
「こんな風に家族で仲良く過されている時もあるのですね、安心しました……」というようなことをおっしゃったそうです。
 
男の子の表情が乏しく、たびたび学校で問題をおこすので、担任は、親の愛情不足と決め付けていたようなのです。
 
現実には、男の子のお母さんはたいへん子どもを大切にする方なのです。

先生が自分の育ちの中で作ってきたコンプレックスに無自覚だと、たびたびこうした事実と異なる発言をして親や子を傷つけたり、生徒の問題を大きくしてしまうように思います。

また、親は自分のコンプレックスを見つめていく勇気を持たなければ、どんなに愛情を持って努力していても、自分のコンプレックスをわが子の中に投影して、わざわざ子どもの悪い部分を引き出して育ててしまうようです。

「投影」とは、意識が「自分のものじゃない!」と否定したがっている自分の心を、他人の心のように解釈して、相手を否定し、攻撃することです。

嫌がらせやいじめをする人の心には、この投影が働いているのでしょうね。

そうして、自分の心を守っているのです。

辛いのは、しらずしらずに大切なわが子に、この投影をしてしまうこと。

自分の先延ばし癖を見たくない親が、わが子を「ぐず!」とののしったり…
 
自分の中の怠けたい願望を無視している親が、子どもを無理な勉強に駆り立てたり…
 
自分への自信の無さを、子どもの短所と重ねて、くりかえしぐちったり…
 
なんかがそうです。

また人の心の中には、コンプレックスとは別に「シャドー」というものが存在するそうです。

人の無意識の中には、その人の性質として振舞っているのと反対の性質や考え方があるそうで、それをシャドーと言います。
 
シャドーとは当人が嫌って否定する悪で、その人の心の一部です。そのシャドーも無自覚だと、子どもに投影されます。

そして、それが原因となって、子どもの問題行動が誘発されだんだんエスカレートしていくことは、よく起こることのようです。

それでは、どうしたらそんな悪循環を絶つことができるのでしょうか?

以外に簡単なのだとか…。こうした他人の中に自分の嫌な部分を見てしまう「投影」を利用して、自分の心の闇をしっかり見ることです。
 
「私にはそんな嫌な心はないんだ…」という思いを乗り越えて、他人に見ているものが投影だと気づけば、悪い循環を終わらせることができるそうです。

親のコンプレックスと子どもの困った行動 続き

2017-01-11 13:53:21 | 機能不全家族・アダルトチルドレン
私の母は大家族の末っ子として生まれました。
 
もうこの子で終わりにしたい、もう子どもはいらない…そうした願いのもとで、はじめは、「すえこ」とか「しゅうこ」なんて名前が考えられていたようです。
でも、それはいくらなんでもかわいそう…ということで、静かでいておくれ、世話をかけないでおくれ…という母(祖母)の願望にちなんだ名前がつけられたそうです。

母は家族の中で一番幼い子として、兄弟姉妹にも母親からも特別に愛され大切にされて育ったようです。

母の両親、祖父と祖母は、きちんとお互いの顔も見ないまま、会話をかわすこともなく、お見合い結婚をしました。
祖父は芸能に秀でてハンサムで女性にもてた人らしく、結婚してからも、女性との付き合いも多い自由で気ままな暮らしをしていたようです。
祖母はとても劣等感が強い性質で、地味でまじめで働き者で、結婚してからは次々生まれる子どもと家事と畑仕事に明け暮れていました。
そんな対照的な両親のもとで、母はいつも苦労の多い母(祖母)のことを気遣い、決してワガママを言わず、心労をかけたり手を煩わせたりすることがないように、常に優しく気がつき我慢強い良い子としての子ども時代、少女時代を送ったようです。

母が子ども時代の話をする時、きまって繰り返されるのは次のような話でした。

私のすぐ上の姉は、病気をして熱を出すたびに、映画に行きたい、おいしいものが食べたいとねだって、聞き入れてもらっていた。
私は、病気になったときも、母(祖母)がかわいそうで、そんなことはとても言えなかった…。

母(祖母)はよく子ども達に「これを手伝ってくれたら、○○をあげるよ。」と言った。それで、一生懸命手伝ったけれど、一度も何もくれたことはなかった。
 
でも、母(祖母)は父(祖父)に苦労ばかりかけられて、自分のことを気遣うこともできずに、子育てに追われてばかりで、本当にかわいそうな人だった。
 
だから、一度も恨んだことはなかったし「○○はいつくれるの?」とたずねることもなかったのよ。

父(祖父)は子役のようにかわいらしい姪っ子を連れ歩くことが好きで、本当の子である私を散歩に連れて行くことは、ほとんどなかった。
父(祖父)が一度だけ優しさを見せたのは、私が大病して死にかけた時くらいだった。

母が学校の参観日に来ると「おばあちゃん?」と友だちにたずねられてたまらなくはずかしかった。しかし母が気の毒で気にしない振りをしていた。

というものです。
 
 
母は器用で、きれいなものが好きな人です。
子どもの頃、新聞の日曜版(?)だったかに、画家や切り絵作家の作品が、印刷されているのを毎週溜めていて、ある時、それを部屋のふすま一面に丁寧に貼ってました。ちょっと天然なのか…?
とても美しかったです。ベニヤ板でお人形用の立派な家を作ってくれもしました。

また、私と妹の服を、手作りするのが趣味でした。
何人か母のお気に入りのデザイナーがいて、そのなかなか洗練されたデザインの型紙で手作りするので、今のファッションにも通じるようなかわいらしさがありました。
 
私の場合ずんぐりむっくりな体型で、あまり似合うとは言い難かったのですが、父似で目が大きくて、きゃしゃな体型の妹は、「お人形さんみたい!」とよく褒められていました。
母は近所の人や、道で出会う人から、そうして褒められ認められることが、無上の喜びだったようです。
しかし、妹が堂々と自分をかわいい!と言ったり、服や持ち物を自慢するそぶりをすると、相手が幼稚園児でも容赦なく上から押さえつける時がよくありました。
私にすると、母も妹もふたりとも、だれかれなしに服を自慢したいのだなぁ…と感じていました。

私はしょっちゅう仮縫いで針がついた服を着せられるし、木にのぼったり穴をくぐったりするとき不便なので、おしゃれをするのがきらいでした。
それに、近所の人が何となく怖かったので、突然褒められると居心地が悪くてたまらなかったのです。
それで、母や妹の気持ちはさっぱりわからないし、何だか似ているな…と思っていたのです。

父は乱暴でギャンブル中毒の人(もとは子煩悩なので怒っていないときは面白くて優しいところがありました。)でしたが、仕事でほとんど家にいないので、家の中は母の夢で彩られていました。
手作りのお菓子やパンや飲み物、手芸や絵本やクラシック音楽や楽しいゲーム…イベントいっぱいのお誕生日会…などなどです。
しかし妹は目ざといタイプで、母の作るものより、友だちのように買った服がいい!買ったお菓子がいい!外食に行きたい!と何時間もごねて泣き続けることが多かったのです。

すると、母の方も意固地になって、ちょっと機嫌を取ったり、気をそらすために何か提案したりもしないで、どこまでも戦闘態勢で対応していました。
そして妹の性格や好みをことごとく批判していました。

私は、母が言うほど妹がひどい子だとは思えませんでした。
 
というのも、妹は活発で明るくてさっぱりしているので、近所中の子に好かれていたのです。
 
子どもが多い地域だったので、私も友だちに不自由することはなかったけれど、みなに好かれているとはいい難かったのです。
それで、妹は子どもの私の目からすると、とても魅力的な子に映っていました。

しかし母は、アンデルセン童話のアニメで、「ふたりのエルダ(エルガ?エルザ?)」という悪い魔法で日中、悪魔のような性格に変えられていて、夜になるともとの姿にもどる盗賊の娘の物語を見ながら、
 
「○○(妹の名前)のようだ…。寝顔だけはこんなにかわいいのに…。」とつぶやいていました。
 
母の話には、子役のようにかわいらしくて、いつも父(祖父)に散歩に連れて行ってもらっている姪の話がよくでてきました。
この姪は母よりいくつか年下で、母と同じように都会に出てきて結婚していました。
先に都会暮らしを始めていた母は、その姪を大事にして親しく付き合っていました。
その様子からは、母がこの姪に強い嫉妬心やコンプレックスを抱いているようには見えませんでした。

しかし母の妹に対する子育てには、この美しい姪に対するさまざまなもやもやする思いが含まれているのは確かでした。
母は妹が周囲から容姿のことで褒められたり、ちやほやされたりするのをすなおに喜ぶことはあまりありませんでした。
「でも、わがままで…」と付け加えたり、横にいる私を引き合いに出して、「この子は心がきれいで、頭が良いんです」と言ってみたりで…
その複雑な思いがうかがえました。

おそらく母は、姪に嫉妬している思いを認めたくなかったのではないでしょうか?
 
というのも、姪と祖父の散歩の話は、何かの折には必ずといって良いほど、母の口にのぼったのです。
 
しかし、母はだからと祖父や姪を悪く言うことは一度もありませんでした。
 
母の言葉にならない思いは、無意識の奥にしまいこまれて、自分でも気づかないうちに現実を少しずつゆがめていたのではないか…?と私には思われました。

第一、きちんと言葉にして考えることができれば、姪を連れていつも散歩していた父(祖父)は、愛情からではなく、単なる見栄えのする持ち物やペットのようにその子を扱っていた事実に気づくでしょう。
 
そして、そうした子ども時代の悲しい気持ちに決別できれば、妹に対する自分でも理解できないようなイライラした思いに悩んだりかと思えば特別扱いして甘えを助長させたりしなかったのではないか…?と思えるのです。
 

親のコンプレックスと子どもの困った行動 おわりです に続きます。

親のコンプレックスと子どもの困った行動

2017-01-10 18:25:49 | 機能不全家族・アダルトチルドレン
 
 
母は、私が物心ついた頃から、子育てに悩む人でした。
その悩みの8割が妹の素行、2割が私のぜんそくです。
 
それで、家には図書館で借りてきた、「母原病」やら「親業」やら育児に悩む親のための本が、何冊も積んでありました。
 
それで、私も小学校の高学年頃には、片っ端からそういう本に目を通すようになっていました。
 
ただ不思議なことに、母はそうした本を読むには読んでも、肝心な部分をすぽっと抜かして読んでいるような、自分の言いように歪曲して読んでいるようなところがありました。
 
それで、小学生や中学生時代は、私が母に本の内容を解説し、母が納得する…ということが、たびたびありました。
どうして母が、本を読んでもすぽっと抜けたり歪曲して解釈したりするのか、私には長い間謎でした。

母は子ども好きで優しい性格でしたが、私を評価する時と、妹を評価する時では、明らかに基準がちがいました。
母は私の事となると、きちんと現実を見ていないところがあって、1から10まで良い様に解釈していました。
 
私の内気なところは、おとなしくていい子だ、と言い、友だちが少ないと、この子はひとりの友人を大切にする、と言うような調子です。
 
一方妹の場合、活発で友だちが多いところに、気づいて褒めているのを見たことがありません。
 
時に妹は、強い愛情深い性質が溢れるようなところがありましたが、母は「この子には困った」というばかりです。

どうしてなのか、なぜなのか、私にはよくわかりませんでした。
何度、母にその疑問をぶつけてみても、他の事なら何でも親身になって聞いてくれる母が、その部分だけまるで見えない聞こえない人のように、感じられたものです。
 
母が妹をかわいがっていなかったか…?と言うと、そうでもなくて、母は妹が駄々をこねるのに根負けして、たびたび妹にだけ高価なおもちゃを買い与える時がありました。
 
駅前の店のショーケースに飾られていたピンクのうさぎのぬいぐるみもそのひとつでした。
 
私は、そのぬいぐるみを目にするたびに、うらやましくて頭がぼーっとするほどだったのですが、母はそんな私を指して「この子は欲のない子で、何か欲しいとわがままを言ったことがないんですよ。この子は、本当にいい子なんです。」と知人に説明するのです。
 
私には確かに、物への執着が薄くて、流行に疎いところがありましたが、それでも目の前で妹におもちゃを見せびらかされるともう欲しくて欲しくてたまらなくなって、夢にも出てくるほどでした。
 
 
 
けれど、母が裏表のある複雑な性格だとも思えませんでした。
というのも、母は純粋な少女のまま大人になったようなところがあって、他人の陰口をたたいたり、嫌味を言ったりすることは、まずなかったからです。
それでも、普段、非常に寛大な判断を他人にくだす母が、なぜか妹にだけは、ちょっとした反抗に腹を立てたり、することなすこと悪く解釈してみたり、かと思うと、
「お母さんは○(妹)のことが、一番気にかかる。あの子を誰より愛しているのかもしれない…。」と、まだ子どもの私が傷つくかもしれない…と配慮することも忘れた様子でつぶやいたりすることは、何だかざわざわする不安を私の心に生じさせました。

私は、そんな子育てに悩み続ける母のもとで、子育て本やら、教育書やらを覗き見していたため、高校に上がる頃には、そうした興味がもっと深い意味を求める思いに変って、ユング心理学に関する本を熱心に読むようになっていました。

そうして、ユングの著書を中心に、そのお弟子さんたちの考え方や、他の心理学者たちの考え方に触れるうち、母と妹の不思議な関係の謎が、次第に自分に理解できるものに変ってきました。

母と妹の問題だけでなく、私が疑問を持ち続けてきたおびただしい問いが、心の中でストンストンと納得できるようになりました。

幼いときから、私の頭の中は次々湧き上がる疑問で満杯状態でした。

いつもいつも不思議に感じたことを考え続けているので、実際、とんでもなく物覚えが悪くて、小学校の先生が、「明日○○を準備してくるように…。」と命じた言葉なんかを、覚えていたためしがありませんでした。
目の前にあるものにしょっちゅうつまずいたり、身体をぶつけたりするどんくさいところも目立ちました。
そんなわけで、身の回りの世界はとても生きづらくて、困難な場所のように感じていました。

ユング心理学で扱われている「コンプレックス」というのは、単なる劣等感という意味ではありません。
客観的に判断できる事実とは異なり、事実と関係なく当人が気にしている…のがコンプレックスなのだそうです。

コンプレックスとは、世間一般の考えから外れて、こだわっちゃうこと…当人の意識の外…
すなわち無意識の中のこだわりと言えます。

「無意識の産物」であるコンプレックスは、その人の理性的な言葉や行動を邪魔します。
親切に言ってくれる人に怒鳴って返しちゃったり、自分の理想を他人に押し付けてしまったりします。

コンプレックスの原因はその人の体験と人生の中にあります。
しかし、コンプレックスになったのには、「思い出したくない、知りたくない、意識で自覚したくない。」と思える辛い経験がもとになっています。
ですから、自分で自覚するのは、難しいようです。

しかしこのコンプレックスを放っておくと、人生に暗い影を落とし、心の病にまで発展することがあるようです。

コンプレックスを克服するには、
「私はこんなこだわりを持ってしまう人間だ」と理解することと、
「だからしかたない」と妥協したり、
「でもこの場ではコンプレックスを抑えなくては」と努力したりすることが大切なのだそうです。

親の影響がコンプレックスを植えつける原因となる場合が、多いそうです。
親の過剰な期待や理想の押し付けが子どものコンプレックスを作ります。

有能な父と、父を慕って勉強を頑張る娘…といったほほえましい間柄も、父が娘の成績を褒め続けた場合「成績が優秀でない子は、褒められる価値も愛される価値もない」という娘の感じ方につながり、
娘の人生を困難にする父親コンプレックスを植えつける原因となったりするそうです。
そして、娘のコンプレックスは、「自分の能力以上の努力をしない人間」に反発して、激しい攻撃をさせ、人間関係を困難にさせるのだそうです。

親の子に与える影響大きいですね。

もし、この女性が、自分の人間関係を混乱させ、人生を破綻させかけているコンプレックスを克服して、豊かな人生を作ろうと思うなら、コンプレックスと向き合って、自分の人間観の偏りを修正し、「父親が自分のコンプレックスを生み出した」事実を受け入れなくてはならないようです。

このコンプレックスというキーワードは、それまでずっと謎だった母の不可思議な言動や物の見方を、私の理解できるものに変えてくれました。

長くなったので、次回に続きます。
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