先の文章にこんなことを書きました。
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父も母も妹も、自分の親と自分自身がプログラムした思考の罠が、自分の人生を蝕んでいくことから、どんなにあがいても抜け出せなかったのに、どうやってわたしはそこから出たんだろうと考えると、いくつか思い当たる理由があります。
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ひとつ目の理由として、多くの親以外の大人たちから可愛がられてきたことを書きましたが、自分が囚われている認知の歪みから解放されるためには、それとは別に、自分が長年培ってきた技術のようなものも役立ったと感じています。
子どもの頃のわたしは、とにかく高いところに登るのが好きでした。
当時は、三輪車に乗っているような子も、団地の前の自転車置き場の屋根の上を遊び場にしていましたから、それはわたしに限ったものではなかったでしょうが、子ども時代の記憶の半分くらいは、どこか見晴らしのいい場所から、眼下を俯瞰して眺めた光景で占められています。
わたしの住まいは、山を切り開いて作られた公共団地で、周辺の道はたいてい斜面でした。
坂を上へ上へと登って行って、もうこれ以上登れないというところに着くと、突然、パアッーと視界が開けます。
それまでは見えなかった反対側の景色や、下からは見えるはずもない団地の屋根や、建物で刻まれていない空が目の前に広がるのです。
その瞬間がたまらなく好きで、来る日も来る日も、どこかに、何かに、登っていた記憶があります。
わたしは、そうやって何度も何度も高いところに登りながら、
「高いところに登るまで見えている風景は、自分の目で確かに確認し、できるだけ詳細に正確に捉えたところで、見晴らしのいい場所に着いたとたん、それまで見てきたものも信じていたものも、それは全体の一部に過ぎない。
自分が歩いている場所から見える景色が限られていたから、それが全てを覆っているように見えていただけなんだ」
ということを意識していました。
そうやって、高いところに登りながら身体で感じ取っていたものは、あらゆる物事を考える際にも影響して、
「わたしが見ていること、感じていること……は、実際に自分の五感で捉えているから、信用できる。自分の感覚が信じられないわけじゃない。
わたしは、自分の周りで起こっていることを見落としなく確認していく自信があるし、それについて客観的に判断をくだすこともできるはず。
その正誤が問題なのではない。
ただ、今という経過点で、自分が感じて、考えて、こうだと信じているものは、もう少し見晴らしのいいところに着くまで保留にしておかなくてはならない」
と、考えるようになっていました。
そんな風に考えるようになったのには、むさぼるように読んでいた児童文学の世界によるものもあるかもしれません。
児童文学の世界の主人公たちは、一生懸命、今を生きていて、真剣に自分で感じて考えて、世界にぶつかっていきます。
しかし、ほとんどの場合、いつしか、最初に信じていた小さな世界観を打ち砕かれて、より大きな視野から世界を眺めるように成長していくのです。
わたしはそうした主人公たちに自分を重ねながら、今、自分が「絶対にそうだ」と信じていることも、これから先、「そういう一面もある」という全体の一部へと変化していくかもしれないと予感して、よくよく考えた上で結論が出たら、その考えをいったん保留にしておく習慣を身につけていきました。
こうした考え方を身につけたのは、反面教師としてですが、父や母の影響が大きいのかもしれません。
父にしても母にしても、自分の感情を揺さぶるような何かを前にしたり、動揺する出来事にぶつかると、現実をていねいに検証しようとせずに、最初に「こうだ」と飛びついた考えに、ずっと、しがみついていることがよくありました。
趣味や遊びのルール上では、物事を緻密に分析し計算高い父が、同じ趣味や遊び上の「それは本当に確率的に得なのか」といった疑問には、まるで自分がクジを引いたら一等しか当たらないと信じている幼児のようにバカげた期待に執着していました。
母は母で、本当に心が柔軟で気持ちの優しい人なのに、妹や親戚の一部の人に対しては、どんなに説得しても、初めにつけた色眼鏡をはずして、相手の身に自分を重ねてみようとはしませんでした。
それは、子どもの目にも、「たったひとつの考え」が、「他のたくさんの可能性を考えない」ために利用されているように映りました。
また、ただの思いつきや決め付けのような「根拠のない考え」も、繰り返し心に刻み、自分に信じ込ませていけば、後から得たどんなに有力な証拠や疑いようのない現実も黙らせてしまうほど力を持つことがあるのを感じて、恐れました。
そうした両親の姿に胸を痛めるうちに、わたしは自分が見たり、感じたり、考えたりしていることを、できるだけ言葉にして整理しながら、先の記事に書いたように即断を避けて、いったん考えを保留しておくようになりました。
後でさまざまな別の視点から眺めなおしてみるためです。
子ども時代を通して、わたしが一番関心を持ち、何度も何度もさまざまな角度から観察し続けていたのは、自分の感情や思考の動きです。
児童文学の作家になりたい気持ちが強かったので、ピアニストを目指している子がピアノの練習に明け暮れるように、自分の心の中を移ろい続ける感情や思いをとにかく言葉にしなくちゃいけない、言葉で表現しなくてはいけない、言葉に変換する練習をしなくては作家になれない、という焦燥感に突き動かされながら、自分の心と対峙していたのを覚えています。
そうした癖は、ずいぶん小さい頃からあったのですが、それはわたしの自分の心を守る自衛手段でもあったからなのかもしれません。
そんなわけで、現実の世界で泣いたり笑ったりして生きているわたしの背後には、常に自分の心の中身をスケッチしようとしている観察者としてのわたしがいました。
大人になってそれら二人のわたしを統合する必要を感じるまで、幼稚で、逃避的で、ぼんやりと空想に浸っているか、感情に流されて衝動的に動いているかしている自分と、クールで大人びていて、いつも冷静沈着で、一風変わった考え方をする自分が、互いにあまり交わらずに、ひとつの身体に同居しているようなところがありました。
昔からささいなチャレンジにも尻込みして、やってみようともせずに逃げてばかりいる一方で、周囲の大人たちも茫然とするような困り事にぶつかった時には、『長靴をはいた猫』という童話の猫のように、何事も先回りして策を練っておいたり、『3枚のお札』という昔話の和尚さんのように、鬼婆をモチでくるんで飲みこみながら冗談を言ったりするような、途方もないアイデアやユーモアで解決を図ろうとする自分の別の一面が、突如、顔を現していましたから。
そうした自分の別の一面が顔を出す瞬間を感じた、8歳か9歳の頃の印象深い思い出があります。
母方の田舎で海水浴に行った際、ビーチボールごと波にさらわれて、ひとりで沖に出てしまったことがありました。
流されている原因である大きすぎるビーチボールを手放して、海底に足が届くところまで泳いでいく決心がつかないうちに、必死で水を蹴る力をはるかにしのぐ波の力に運ばれていました。
事の深刻さに気づいた時には、浜辺に戯れる人々の姿が小さすぎて、目で確認するのが難しいほどで、周囲は無音の世界でした。
それは流されているわたしがあちらからよく見えないこと、いくら大きな声で叫んでも、あちらには聞こえないことを意味してもいました。
足元には奈落へ落ちる裂け目のような黒い海がありました。
海面に巡らされたオレンジ色の浮きが作る境界線を目にした時、どうあがいても助かる見込みはないと悟った瞬間、わたしは泣き叫んだり、怖がったりするのをやめて、突然、頭を、ひどく合理的で冷淡にも思える考え方に切り替えました。
「おそらくわたしは、このスイカ柄のビーチボールの空気が抜け次第、しばらくもがいて力つきて死ぬ。
死ぬのはとても怖いし、水が鼻や口の中にどんどん入っていく時は苦しくてしょうがないはず。
でも、泣いても、叫んでも、怖がっても、経過も結果も同じなら、万にひとつでも生き残れた時に、将来書く小説の一部に書き加えられるように、今の自分の目が何を見ていて、頭が何を考えていて、心が何を感じているのか、調べて言葉にしておこう」
そう考えて、浜辺を眺めると、小さな無数の光が、まるで夜景のキラキラした街の光の粒を切り抜いて、海と浜の隙間に埋め込んだように輝いていました。
「水をたくさん飲んで苦しんだ後には、もし天国とかあの世とかいう場所があるなら、黒い海の底でもう一度、こんなキラキラした光を見るのかもしれない。それともずっと死んでしまったままなのかな?
わたしが死んでしまっても、この世界は今まで通り、そのままあるんだろうけど、わたしが死んだ次の日に、この世界が爆発して消えて無くなったところで、わたしからすると、どうでもいいこと、何でもないことになってしまうのは不思議だな。
生きている時はこんなに大切な世界なのに。
死んでから、今のこの世界があるのかないのか想像しようと思ったら、生きているわたしがあの世があるのかないのか想像するのと同じになってしまうのかな?」
空は青く澄んでいて、自分が牧場にいて、草を踏みしめながら空を眺めているだけなんだと、信じようと思えば、信じてしまえるほどのほがらかさでした。
その時、ふいに海水浴場の監視に回っているらしいボートが近づいてきて、わたしを引きずりあげるようにしてボートに乗せると、浜まで送ってくれました。