私の何でもありのお仕事のネタの記事読んでくださる方がたくさんいることに
気をよくして、もうひとつ。
子どもの頃、憧れていたもののひとつに『ファンシーショップ』があります。
千里山の駅前の坂道をのぼっていった先に、
こじんまりとしたサンリオショップができたのは、確か小学校中学年くらいの頃でした。
だれかの誕生会にお呼ばれすると、母から「プレゼント代」なるお金を預かって、
友だちと連れ立ってそこに足を運んだものでした。
当時のサンリオショップは、赤やピンクの女の子ワールドで隙間なく囲われた
穴倉風の店で、買い物すると、きれいな包装紙で包んでもらった上に、
プラスチックのグリコのおまけのサンリオバージョンとでもいったらいいような
ものを、プラ~ンと貼り付けてもらえました。
その安っぽいおまけ風のものに、何ともいえないお得感を感じたものです。
妹は、この店で香りつきティッシュのコレクションにはまってましたが、
買い物自体にさほど興味がなかった私は、いろいろ眺めた後は、
サンリオ新聞を購入して帰っていました。
小学生の私は、キティーちゃんのジュエリーボックスや、キキララのレターセットと
いったものに憧れるより、「こんなお店がしてみたいなぁ」という憧れる気持ちで、
店を細かくチェックしていたのです。
大人になって、わが子たちが小学生となって、えんぴつやノートを選びに
文具店に立ち寄るようになった頃、急に、この「こんなお店がしてみたいなぁ」
というファンシーショップに抱いた憧れが、胸に浮上してきました。
たまたまだんながリストラにあったので、これはチャンスとばかりに
「これから自営で食べていこう」と説得し、自宅のガレージを少しだけ改装し、
ママチャリに乗って、おもちゃや文具の問屋街まで仕入れに行きました。
仕入れ資金がないし、何が売れるのか見当がつかないので、
目もあてられないほど貧相な品揃えでスタートしたファンシーショップは、
たまたま、まだファンシー文具というのがめずらしかったため、
思いのほか売れました。
ダンナが仕入れてきた日には思わず絶句してしまった、初期のデザインの
セーラームーンの甚平や、変な犬のキャラクター消しゴムでさえ、
店頭に並べれば、完売する状態でした。
そこで、最初のうちは、3万円分仕入れて、5万の儲けなら、次は5万仕入れる。
5万仕入れて、7万儲かれば、次は7万仕入れるという具合に
仕入れ額を上げていくと、狭い店内をカバンや文具やおもちゃが埋め尽くす頃には、
4人家族で食べていくには困らないくらいの売り上げがでる店になっていました。
といっても、自営業は年金やら保険やら出費もかさむし、
売り上げは良い月も悪い月もありますから、店番の合間を縫って、
家庭教師をしたり、パートに行ったり、忙しく暮らしていました。
ダンナもあちこちのパートやバイトに顔を出していました。
そうするうちに、あまりに売れて品薄になるので、海外の卸と直で契約して
仕入れようかという事態になったディズニーグッズのブームやら、
キティーブームがやってきました。
それが去ったあとは、
韓国から卸屋がうちのような小さなファンシーショップにまでやってきて、
『ケロケロケロッピ』とか『みんなのター坊』といった
古いサンリオキャラクターをいっさいがっさい買い占めて帰っていくという
韓国でのサンリオブームの恩恵も受けました。
まぁ、ファンシー扱っているときほど、
めまぐるしく時代や流行の移り変わりを肌で感じたときはありませんでした。
テレビで、「子どもの間でこんなものが流行ってます~」なんて紹介される
ときには、ブームが下火で、流行が最後の残り火のようになっている時です。
実際、物が売れるのは、まだ口コミでの噂にさえのぼっておらず、
雰囲気とか、商売人のアンテナにだけ、力強く「これは売れそうだ」
「絶対いける」と響いてくる時期であって、それを逃して、
「売れているな」と気づいて後から参戦した店は、
どこも抱き合わせで売れないものまでセットで買わされたり、
大量の在庫を抱えたりして四苦八苦していました。
そんな1,2週間の読みのズレが命取りのファンシーの世界で、
ドラクエえんぴつブームとか、ビーダマンブームとか、
新しい小さなデザイン会社の文具のブームとか、たれぱんだブームとか、
遊戯王のカードブームとかの盛衰の波をサーフィンでもするように乗り移りながら、
店を続けていました。
ファンシーブームが最高潮の時期は、もう一軒、お店を構える予定で、
駅前の空き店舗を調べたこともあったくらいだけど、
次第に、ゆるやかにファンシー業界全体が元気がなくなっていきました。
店を始めた当初は、子どたちとの和気あいあいとした交流の場だったけれど、
しまいに、「商売の場」「消費の場」って感じになってきていました。
(1万円札とか持って、高学年や中学生の子が店で荒い買い方をするのは
苦手なので……ちょっと教育上よくない店になってきたし
終わりにしようと感じてました。)
私自身の「ファンシーショップしてみたいなぁ」の夢はもう十分
おなかいっぱい満たされたから、もう終わりにしよう、次にやりたいことが
いろいろ出てきたし、とある時、お店としては、まだ調子のいいときに、
店を閉めることにしました。
卸屋を自転車ではしごして回る売れる商品にやたら鼻のきく年配女性とか、
ファンシーショップをあちこちに展開している男性とか、
店を始めたばかりの若い夫婦とか、お店をしている間は
いろんな人との付き合いの輪が広がって、互いに情報を交換しあって面白かったです
大阪でおもちゃや文具の卸屋といえば、まっちゃまち筋商店街が有名ですよねまぁ、
たいてい「卸ですよ」と目立つ場所で店を構えているところは、
夏祭り用の景品を買出しに来るPTAか、的屋さんか、花火やお菓子を買出しに来る
地方のみやげ物やさんを相手の商売です。
このごろよくある、一般の人にも入店カードを作ってくれるデパートのような
卸屋ししても、実際、そんなところで仕入れをする小売店はまずありません。
卸値で売っているといっても、たいてい流行遅れの売れない商品か、
卸値で売るために高めに売値を設定して作ったような
中途半端なものしか扱っていないからです。
なら、うちのような関西の小売業者はどこで仕入れていたかというと、
問屋街を中心に、かなり広い範囲に点在する路地裏の小さな店から、
入店カードを作る際のチェックが厳しい閉鎖的な店、
乱雑に散らばった大量の商品の中から掘り出し物を漁る
バーゲン会場のような卸屋まで、ありとあらゆるタイプの店を、
流行や時期に応じて使い分けて利用していました。
ファンシーグッズが飛ぶように売れていた頃は、
学校指定の文具しか扱っていなかったようなスーパーが
ファンシーコーナーを設けたり、新しく店を構えるファンシーショップが
あちらこちらでできたりしました。
「絶対、売れる」と確信してたり、「絶対、うまくいくから」と
太鼓判を押されて始めたのでしょう。
けれど、商売って、端から見るのと、するのとは大違い。
他所の成功を見て、「あれ」と「これ」とを仕入れてきたら売れるなぁ~
とわかっていても、
その「あれ」と「これ」とが、売れ出したときにはどこにも見つからないのです。
ようやく見つけても、それを買うには他のどうでも良い品といっしょに
うん十万円分のパックとして、セット販売でなきゃ受け付けないと言われます。
そんなふうに、人気商品は、抱き合わせといって、売れないものといっしょに、
混ぜて売られるか、高額を仕入れるお得意さんにしか売ってもらえないという
厳しい現実があったのです。ですから、華やかだったファンシーの流行の影で
泣いた人々もたくさんいたことと思います。
そんな中も、関西の商売人根性満々の小売店たちは、
そう簡単に引き下がっていませんでした。
問屋街一帯に張り巡らされている裏の情報網をたよりに、あっちこっち飛び回って、
お目当てのものを手にしていました。
私も、ファンシーショップを始めて、数ヶ月もする頃には、
すっかりこうした情報通となり、抱き合わせにされる流行商品をいち早く
手に入れておく方法や、
人気が出て品薄になっても、卸してもらう方法や、売れる品をいち早くキャッチして、
商品の回転率をよくして、在庫をなくしておく方法に磨きをかけていました。
まず、私もダンナも毎日、店番をしていますから、お客さんの生の声や反応、
流行っているアイドル、流行語、おしゃれアイテムなどの変化をつぶさに
感じ取ることができました。ファンシーの世界では、
ファンシーのイメージで彩られている「幼児」に流行るときというのは、
流行の終わりを意味していました。
新しいもの好きで、あらゆることにアンテナはっている女子中高生あたりの
カバンや小物で見かけ出して、そこからだんだん年齢が降りて来て
流行っていくのです。
また時代の空気のようなものにうまく呼応して、進学塾がたくさんできたり、
どこも慌しくって「癒しが足りないな」というときには、リラックスしたり、
たれっとしたキャラクターが流行るなど、
今世間で主流となっているものを補うようなものが流行しがちなのです。
ですから、実際流行っちゃったら手に入らないものも、
まだ大方の人が気づいていない流行の芽ばえが感じられた時点で、
迷うことなく数万円分仕入れておくという勇気が必要でした。
うちの場合は、お客さんの近くで、いっしょにおしゃべりしながら店をしている
小さい店舗の強みで、そうした読みがはずれたことは一度もありませんでした。
商売にしても、教育にしても、「人」とじかに接して得られるものが大事だなぁと
感じています。続きを読んでくださる方はリンク先にどうぞ。