前置きが長くなってしまいました。話をもとに戻しますね。
経験で培った知恵を経験や勘を通過していない人が使う時に
起こる問題ってどんなものでしょう?
一番に考えられるのは、経過を観察せずに、期待する結果を求めてしまうことかな、
考えています。また、現実を吟味する前に、先入観が刷り込まれてしまうという
きらいもあります。
「こういう問題で悩んだ時は、こうしたらいいよ」という外から与えられた
解決法を試してみて、うまくいかないと、
「これはよくないから別の方法を試してみよう」と次を探し求める気持ちに
向かいがちにもなります。
でも、実際にはそれがどんな問題でも、その問題の背後にあるものが
見えてくるくらいまで、じっくりそこで踏ん張ってみないことには、
その子ども自身が見えてこないし、理解もできないのです。
子どものことで気がかりなことがある時、親はその問題を解決して終わりとする
修理屋さんのような立ち位置ではなく、
問題というきっかけを通して、子どもと深く関わっていくようにすると、
子どもを知り自分自身もよりよく知ることになるし、
子どもと大人が相互に変容していくことにもつながります。
前の記事で、発達障害という言葉が普及したことで、
「全く経験のない人が、経験や勘で培ってきた方法の
マニュアルの字面だけをおってそのまま実行する」ことによる弊害が
蔓延しているんじゃないか、といったことを書きました。
それはどういうことかというと、
子どもとはどういうものかという子ども像を持たない人が、
(まだ子どもという人との付き合いが浅い人が)
発達障害という色眼鏡だけで、子どもの問題に
過剰な干渉をしてしまう、一場面、一場面をより大きな問題として
不安を感じて、子どもをより不安定にさせてしまう、
という問題につながるのではないか、と感じているのです。
また、周囲の人が、子どものことでうまくいかないことがあるごとに
発達障害かどうかというフィルターを通してそれを眺めるゆえに、
親が不必要に動揺したり傷ついたりして、
反抗期のような子どもにとって大切な体験をきちんと通らせてあげることができない、
ということも起こります。
子育てには不快なことやうまくいかないことがつきものです。
うまくいかないことが、即、子ども側に問題があるとか、
親側に問題があるということにつながるわけではありません。
子どもの成長にはさまざまな時期があり、性格もさまざまで、
集団の環境やいっしょに過ごす子たちや先生との相性というものもありますから、
どちらにも何の問題もなくても、あれこれあるのが子育てなんです。
たとえば、「幼い子が集団の場になじめない」という時、
子どもの状態が「今、その時の姿」で切り取られて、特性の有無をチェックされ、
発達障害かどうかという捉え方だけで処理されることは
危険なことだと感じています。
もちろん、発達障害であるリスクはあるし、
保険の意味で、療育的な関わりをすることが悪いわけではありません。
でも、初めから終始、子どもがなじめないことについて、
その子自身の問題として、つまりその子が発達障害なのかどうなのかという
切り口から問題を見るようになると、
集団の場自体が、子どもから学んで成長するあり様が、ゆがむのではないかと
思うんです。
子ども側に問題があるという前提条件が普通になると、
集団を管理する側にとって、それが自らのあり方を考えなくてすむ
逃げともなるし、
子どもという存在から学んでいく集団自身の成長が小さくなります。
たとえ、集団の場を発達障害の子たちのニーズに
沿うよう改善して、環境がより良いものになっているように見えても、
問題を子ども側だけに押し付けている
安易な手札を手にしていることに変わりなくて、
もっと根本的な保育なり教育なりの質の向上が難しくなってしまうように
感じています。
なぜなら、問題を発達障害という手札だけで眺める限り、
子どもとはどのようなものか、子どもにとって
良い環境とはどういうものか、を追究する心が
薄くなるからです。
次回に続きます。