虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

子どもの好きなものに敏感になる

2022-12-08 22:38:55 | 幼児教育の基本

子どもが好きなもの。

好きなおもちゃ、好きな色、好きな感触、好きな活動、好きな展開、好きな景色、好きな言葉。

身近な大人がその子独自の「好き!」に敏感になることは、その子の潜在能力を最大限に伸ばす手助けとなります。

また、子どもにとって毎日がわくわくの連続となり、何にでも意欲的に真剣に取り組む態度がはぐくまれます。

 

子どもの「好き」に敏感になるということは、ただアニメのキャラクターが好きだとか、果物が好きといった漠然とした把握の仕方ではなくて、

「どんどん物を積んでいくときの……あっ今にも落ちそう、ヒヤヒヤするなぁといった場面で、この子いつも真剣な表情になっているな。崩れた時は大笑い。ヒヤヒヤドキドキするような手に汗握るような展開が好きなんだな~」

「この子は自分のアイデアに耳を傾けてもらった時、一生懸命になるな」

「この子は自然の美しさに敏感だな。落ち葉を踏みしめる感触まで楽しめる感性を持っているな」

「この子は虫や動物が大好きだな。その動きをいつまでも観察している。生き物がどんな暮らしをして、何を食べて、どんな活動をしているのか、喜んで想像しようとするな」

というように、子どもの好みをよりていねいに眺めることです。

子どもが好むものというのは、その子の感性や才能やその時期必要としている発達上の課題と結びついているものです。

たとえば、いつも道の縁の段差になっている部分を歩きたがる子がいるとすると、その「好き」は、その子の身体能力の高さを表しているのかもしれないし、ちょうどバランス感覚が急成長する時期なのかもしれないし、ちょっとドキドキするようなことが好きなチャレンジャーな性質がそうさせているのかもしれません。

そのいずれにせよ「またぐずぐずして!はやく、はやく!」と急かして進むのと、「この子は今、こういうことが好きなんだな」と気づくのとでは、その後のその子の成長はずいぶん違ってくるのです。

現実には、それは遊ぶものじゃないから乗ってはだめよ、と注意しなくてはならなかったとしても、子どもといっしょに、ヒヤヒヤする高いところを通っていく冒険の話をするとか、積み木で道路の段差を作っていってお人形を渡らせる遊びに発展するといった、楽しい遊びの発見につながりますから。

子どもは「どうしてそこまで面白いの?」と驚くほどに喜ぶことでしょう。

子どもにとって自分の好きなものとの出会いは、「自分らしさ」との出会いであって、個性を輝かせるチャンスでもあるのです。

 

こうした子どもの「好き」を見つけるのに、物作りほど最適なものはありません。

ダイナミックか、几帳面か。きれいな色使いが好きか、パワフルに大きなものを扱うのが好きか。

アイデア重視か、出来栄えに敏感か。

お手本を見る観察力があるのか、自分で考えて動く子か。

科学的な仕組みに関心があるのか、想像力を刺激するものが好きか、新しいルールを作りだすことが好きなのか。

子どもの作るものの出来栄えばかりに気を取られていると、子どもの「好き」は見えてきません。

まずいっしょに楽しむこと。作りたがらなければ作ってあげるのもいいです。

子どもが目をキラキラさせる場面があればどんなものを好むのか見えてきます。

「こんなものを作って!こういう風にして!」と注文を出すようになれば、いっそうはっきりするでしょう。

作るのが苦手だから難しいというときは、子どもといっしょに他の子の作品や、身近な物の仕組みや、動植物の姿を眺めて、感動するだけでもいいんです。

「すごいね。どうやって作ったらいいのかな?紙をくるくるってしたらできるかな?」と相談しあうだけでも、その子の心に響くものが何かわかってくるはずです。

 

身近な大人は、子どもの好奇心が世界の不思議に向かって開かれていくよう導いていくことができます。 

頭と手を使って、工夫し何かを生み出す喜びを伝えてあげることができます。

想像力を膨らませて人生を楽しいものにする方法を教えてあげることができます。

 

学ぶことの面白さ。

夢中になること、達成感を味わうことで満たされる気持ち。

世界中に自分の好きなことは溢れていて、好きなことはいつでも見つけることも探しにいくこともできるし、自分で作りだすこともできるということ。

 

そうした気づきはどれも、子どもが「好き」なものを通して身につけていくことができるものです。

 

最後に、わたしが子どもたちに向けて書いた詩を紹介させてくださいね。

子どもに贈りたいものを心に巡らせながら、ひとりひとりの子どもたちの幸福を願って書きました。

 

『小さな友へ』

 

世界をかけぬけ

手当たり次第につかみとるすべは

むずかしいようで 意外にやさしい

 

天指して地面にまっすぐ立つすべ

世界を味わいゆっくり抱きしめるすべは

当たり前のようで

本当にむずかしい

 

小さな友よ 

教えてあげようか

 

朝つゆで顔を洗えば

春を見ることができる

走りたいからと走り

笑いたいからと笑えば

夏に触れることができる

 

友を失って

再び得たなら

秋を感じることができる

未来の花が咲くまでの

ささやかな孤独を愛せるなら

きっと冬を知ることができる

 

あまたの貴重な宝のなかから

ひとつだけひとつだけ

小さな友への贈り物をえらぶとしたら

「答えのない問い」

それがいいだろう

 

 

↑大好きがいっぱい♪


数の敏感期と文化の敏感期

2022-10-18 13:22:14 | 幼児教育の基本

幼児期には、子どもが内側からの欲求で、数が好きでたまらなくなる数の敏感期が存在します。

大人が子どもを信じて、ゆったりと無駄な時間…子どもがぼんやりと想像の世界や思考の世界で遊ぶことを許してあげていたら、子どもは自分で数のルールを発見していきます。

また、幼児期の後半には文化の敏感期というものがあり、宇宙のこと、自然のこと、世界のことなどさまざまな身の回りの不思議や知識に強く惹きつけられる時期が存在します。

この2つの時期はとても不思議です。

 



虹色教室には、写真のような科学の本や図鑑類や学習漫画をたくさん置いています。それが、小学生になってから虹色教室に通っている子は、そうした本を読もうとすることはまずありません。
とても成績が良い子でもそうなのです。
でも、幼児期のこうした敏感期を大切にしてあげてきた子たちは、小学生になっても知識の本を借りたがり、休憩時間には図鑑を読みふけります。

この敏感期、良い早期教育によっては大きく花開き、まずい早期教育によっては壊されてしまうように思います。

良い早期教育というのは、子どもの好奇心に沿う大人からの期待を押し付けない教育です。

まずい早期教育とは、なぞなぞの答えを教えていってたくさんなぞなぞが出来る子にしようともくろむような、大人の考えを子どもに教え込む教育です。
なぞなぞの答えをたくさん教えると、他の子よりたくさんなぞなぞができるようになるように思えますが、子どもは発想を転換させ、イメージをふくらませ、自力で解くといった体験を失います。
足し算も、暗記させて解かせるようなことを繰り返すと、数の敏感期に自分で算数のルールを発見する力を失います。

また、しばしば早期教育は文化の敏感期をなくさせてしまいます。
どうしてそんなことが起こるのでしょう?

お年寄りは人生経験が豊富でも、算数の文章題や科学の問題を「そんなのできないわ」と言いますね。
すでにある知識が、純粋に自分で考える意欲を奪ってしまうこともあるのです。
子どもの学習への興味が、褒められることや大人を喜ばせることに占領されるときも、文化の敏感期はなくなるようです。

子どもは、知らないから、不思議だから、自分の身の回りの謎に惹きつけられます

早い時期に、大人の学習法で、世界をしらけた面白みのないものにしてしまってはいけません。
子どもは、実際見たり味わったり触ったり聞いたりしたものを、もっと知りたい、よく考えたいという子ども独特の心のあり方を持っています。


将来、才能が伸びていくかどうかは幼児期にわかる?

2022-09-29 13:53:39 | 幼児教育の基本

まだ発達途上の子どもの能力は、ゆっくり大きく育つ子、自分なりの順序で育つ子、優越機能と劣等機能の関係などから、目に見える部分で比べても、あまり意味がありません。

私は他の子よりできることが少ない子や物覚えの悪い子の方に、将来すごく伸びていくすばらしいものを感じるときがあるし、何でもこなせ、テストで測れるものでは良い成果をあげている子に先の伸びの不安を感じることもあります。

幼い頃、接していて、今大きく成長した子たちに会うことがあると、その予感があまりに的中していて驚くことがあります。

もちろん、物覚えが悪いほうがいい…できることが少ない方がいい…などという表面的な判断ではないのです。

幼児期に表に表れている能力より、その潜在意識のあり方や方向性が、その子を将来に導いていく部分が大きい気がしているのです。

さまざまなことが、周囲の子よりたくさんできても、ままごとでは「ペット役」や「赤ちゃん役」ばかりやりたがる子がいます。
また、自由な時間に、疲れたサラリーマンのような疲れを癒す活動にばかり向かう子がいます。
そうした子は、周囲の期待に必死で応えてはいるけれど、本人そのものは、常に退行的なムードにとらえられている印象があります。
自分でより大きな夢を見つけたり、目の前の課題をできそうもないことでも「やりたい!やりたい!」とごねたりはしないです。
そうした子は、小学校にあがったとき、最初は成績が良いけれど、だんだん下がってきて、親御さんは「知っていることばかりで、勉強が面白くないようです」とおっしゃるのですが、実際には、無意識の世界の「退行したい」というムードに流されている様子です。

一方、できることは少ないし、手先も不器用だけど、自分は何でもできるし、何でもやってみたい!という幼児特有の自分を大きく大きく成長させようとする意欲の塊のような子がいます。
自分の作品はぐちゃぐちゃでも自信満々。
他の子は字を書けていて、自分は書けてなくても、その違いには気づかず、自分も「書く!書く!」とさわいでぐちゃぐちゃ書きをした後で、自分の作品に惚れ惚れしている子。
そうした子は、「できるようになりたい!」という前向きな意志を成長とともに大きく膨らましている場合が多いです。

5歳くらいになると大人が褒めてくれるからとか、やりなさいと言われるから…となどとは関係なく自分の知的好奇心からいろいろ知りたがり、頭を使いたい要求からゲームや頭脳パズルを欲しはじめます。
虹色教室でも、ゲームや学習をやめたがらず、半べそをかく子はたくさんいます。
4歳くらいまでの大人の評価を下さない態度と自己肯定感を育てるあるがままを認めていく子育てが、5歳以降の自分で成長しようとする力の大きさを決めていくようです。

私は、子どもが「何ができるか」より、「何をやりたがっているか」にだけ大きな関心を向けています。
ただそうして子どもが「やりたい」気持ちさえあればOK!で育てている子たちは、幼稚園で知能指数を測ってくれば、IQ150以上あったりするので、大人の心のあり方、まなざしのあり方は、子どもの知能にも大きな影響を与えているように思います。

意欲があってやりたくてする子は、親が子どものこなすワークのページ数を決めていてさせている子と潜在意識のレベルでは目指しているものがぜんぜんちがっていて、1年生くらいでも「●●の学者になりたい!」といった大きな夢を自分の心の中心にすえていたりします。
そうした子は、小学校受験でトップの成績を収めている子より将来有望な気もします。

幼児を育てる上での大人の仕事は、子どものあるがままを自分の潜在意識の部分からも肯定することにあるように思います。


競争心を刺激してがんばらせる幼児教育

2022-07-23 10:20:51 | 幼児教育の基本

早稲田大学名誉教授の加藤諦三氏の『妬まずにはいられない症候群』(PHP文庫)という著書では、競争意識をかき立てる家庭で育った子の不幸について、胸が痛くなるような内容でつづられています。

子どもが競争心を煽られて育つと言うことは、つまり、子どもが「自分が自分であることによって、家族に受け入れられていない」ことを感じて育つということです。つまり、自然な自分であってはいけないのです。

のんびりやだったり、運動嫌いだったり、想像力や創造力が豊かで、競争よりもクリエイティブであることを好んだりする子であってはいけないのです。

頭脳活動を好む子は、他の子と自分を比べるより、自分の内面の好奇心を追いかけてのんびり過したがる子が多いですが、それは許されないのです。

大人が望む運動での競争、基礎計算や文字を書くことをがんばるかどうか……で大事にされたり、邪険に扱われたりします。


カレン・ホルナイが、自己蔑視の心理的結果の特徴のひとつとして、強迫的に他人と自分を比較するという点をあげています。
自分に劣等感を持つと、競争意識が異常に強くなり、人より自分の方が優れているかどうか気になって仕方がなくなるのです。
親自身が自分で自分を受け入れられないで、心の葛藤を解決できないでいると、親は子どもを巻き込んで解決しようとします。

親が自分で自分を軽蔑していると、自分の子を幼いときから競争させたくてたまらなくなり、他の子との優劣が気になって仕方なくなるのです。

子どもは自分を守るために必死でよい子を演じます。
その結果、親の心が不安定で、競争を煽られている子たちは、外から見ると立派にしっかり育っているように見えます。

けれど、それは、そう見えているに過ぎません。

心の満足がないまま社会的に適応を強いられると、態度やできることは擬似的に成長しているように見えても、心理的な成長が幼児のままとまってしまうのです。

加藤諦三氏は、別の著書『「大人になりきれない人」の心理』で、「子ども時代に無責任に遊び楽しむことをしないで、大人になってから責任ある立場を全うするのは、ナポレオンがアルプスを越えるよりもきついことである。」と言っています。

人間は、無責任なわがままで許される幼児の時代があって、その時期に幼児的願望が満たされて初めて、責任ある大人に成長していくのです。
「幼児的願望が満たされない」という不満は、人間にとって[本質的な不満]となって一生ついてまわるのです。

『「大人になりきれない人」の心理』によると、
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子どもの時期に子どもにしか堪能できないことを十分堪能した大人と、したくないことを力ずくでさせられていた大人は、同じ年齢でも全然別次元に住んでいるそうです。
子どもの時期にしかできないことを、「もういい!」というほど堪能した子どもは、満足しているので、我慢を強いられて育った人が「辛い」と感じることも「楽しい」と感じることが多いのです。
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幼児はまだ、自分の意志でいろんなことをやってみて、自分が「楽しい!得意だ!」という面に気づいて、「そこで全力を出し切って友だちと競争してみよう」と考えることができるほどの体験もなければ、気づく力もありません。

幼児が競争の場で、必死でがんばるのは、自分を高めるためではなく、
「親に見捨てられたくない」
「愛されたい」
という根源的な不安感がもとになっています。
また発達障害のある子が勝ち負けへのこだわりから競争に固執している場合もあります。

もし大人が安易に子どもの競争心をあおってさまざまなことをさせたなら、子どもが人の弱さを許したり、妥協しあったり、仲良く協力し合って何かすることを学ぶ力は育ちません。

強迫的に競争ばかりに心を使うようになります。

しかしその競争は、自分のためになる自己実現を目指しているのではありません。
人に勝った負けた~あいつよりえらい~と感情的ないきさつばかりにとらわれる狭い世界でだけ生きて、自分の可能性を求めて、自分の人生を生きることができなくなってしまうのです。

子育てをするとき、親は自分の心をきれいに保っておく必要がありますよね。みんながしているから……と、子どもを競争に駆り立てているときは、自分の心を見つめなおす大事な機会ではないでしょうか?


遊びが長続きしない子が集中して遊べるようにするには

2022-01-05 09:22:21 | 幼児教育の基本

3歳のお子さんをお持ちの親御さんから、次のような質問をいただきました。

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うちの子は非常に気が散りやすいタイプで、遊びが長続きしません。おもちゃも次から次へと変えていきます。もう少し集中して遊び込めないものか・・・と悩んでおります。よろしくお願いします。

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3、4歳の子たちは遊びが長続きせず、おもちゃを次々変えていくことはよくあります。

一つの遊びで遊び込むことができるように導くために、次のような点に注意して

関わっています。

 

① それぞれの子の敏感期に注目する。

手作業で夢中になること。知能面で敏感になっていること。

 

② その子の好み。個性。

色、形、作業の好み。頭の使い方の個性。遊びの好き嫌い。

 

③ 最近の出来事。その日、関心を持ったものなどに注目する。

体験したことを遊びに取り入れる見本を見せる。

 

④ 遊びのさまざまなシーンで敏感期の活動を満喫できるようにする。

 

今日、レッスンに来ていた3歳と4歳の★ちゃん、☆ちゃんの遊びを例に挙げて、

もう少し具体的に説明させていただきますね。

 

教室に着いた当初、★ちゃんも☆ちゃんも、

次々と遊びを変えて落ち着かない様子でした。

☆ちゃんは椅子が好きな子で、2歳くらいの頃も、教室にある子ども用の椅子を

部屋中に並べたり、重ねたりして遊んでいました。

 

人形劇の劇場を取ってもらいたがったので、☆ちゃんに渡すと、劇場の前に椅子を

並べだしました。

以前、教室で人形劇の劇場を作って遊んだことがあるのを思い出したようです。

虹色教室では、子どもが何か新しい体験をしたときは、それを

おもちゃや工作で再体験できるようにしています。

 

↑  保育園の発表会の後で。

発表会の体験が胸に響いたのか、☆ちゃんは夢中になって、椅子を並べていました。

 

 

 

椅子は100円ショップで購入したグラグラゲームに入っていたものです。

☆ちゃんは真剣な表情で、「先生、前は小さい人が座って、後ろは大きい人が座るよ。

だって、前に大きい人が座ったら劇が見られなくなるから」と言っていました。

幼い子たちは、手と目を協応させて集中してやらなくてはならない作業を、

何度も何度も満喫するまで繰り返すのを好みます。

その子がやりたがる作業をたくさん行える環境を作ってあげることが大事だと

思っています。

また時折、イメージを育てるために、大人が体験を再体験できるような

見本を作ってあげることも必要です。

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★ちゃんに、「何がやりたい?何が好き?」とたずねると、「ビー玉」と答えました。

らせんにビー玉が転がっていくおもちゃにビー玉を入れて遊びだしました。

★ちゃんは感覚に訴えることが好きで、こうした遊びをはじめると

いつまでも続けています。

集中しているとはいえますが、こればかりでは発展しない上、知力や想像力をしっかり

使って遊ぶ満足感は得られません。

 

そこで、★ちゃんが熱中する作業の一つひとつを

次の段階に発展させたり、個々の遊びをつないで意味を作りだしたり

する方法をいくつか提案しました。

 

上写真の左は、★ちゃんが遊んでいたビー玉がクルクルとらせんに滑り降りていく

おもちゃです。高い位置に滑り台を作って、滑り台から飛び出したビー玉が

らせんに滑り降りるおもちゃの中に入るようにしました。

★ちゃんは放射線状に落下するビー玉の動きに大喜び。

滑り台の高さや位置を調整しながら遊んでいました。

 

ビー玉がポンッと跳びあがるおもちゃと、受ける道具の組み合わせでも、

十分楽しんだあとで、受ける側の穴を滑り台につないだり、

ビー玉を飛ばす道具を椅子の上に設置して遊びました。

 

ホースをゴムで椅子につないであげると喜んでいたので、最初は転がして受ける

遊びをし、途中から、それまで作っていた線路に貨物列車を作って、

ホースを使ってビー玉の荷物を荷台に入れて、運んで行くというごっこ遊びをする

ことにしました。

 

このように敏感期の作業的な活動と見立て遊びがつながると、

子どもはとても長い時間、夢中になって遊ぶことがよくあります。

 

 


遊んで育つという言葉が成り立つのは、普段の遊びのレベルが高い場合

2021-12-22 11:22:26 | 幼児教育の基本

KID´Sいわき・ぱふ代表、にほんこどもの発達研究所の岩城敏之氏が

『子どもの遊びをたかめる大人のかかわり』という著書のなかで、

「遊んで育つという言葉が成り立つのは、基本的には普段の遊びのレベルが高い場合です」

とおっしゃっています。

岩城氏はこんな例を挙げて説明しておられます。

 

大人が子どもたちに鶴の折り方を教えたとします。

上手な子はパパッと折って、下手な子は手伝ってもらいながら作ります。

もっと折りたいという子もいれば、もうこりごりという子もいるはずです。

 

そこで、もっと折りたいと思うときに折れる状況が大事で、折り紙コーナーが

きちんとあるという環境を設定します。

教わった折り紙が面白かった子は、そこに集まって自分たちでどんどん勝手に

遊びますし、もしひとりも集まらなかったとしたら、そこが幼稚園や保育園の場合、

教えていた先生だけが面白くて、子どもは先生が真剣だからお付き合いしていただけ

ということです。

 

それも悪くはないけど、遊んで育つという考え方からすると、

それは遊ばなかったということと同じ。

つまり技術も身についていないし、習熟しないということです。

 

岩城氏の文章を引用させていただくと、次のような遊びと育ちの関係があるのです。

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何回も何回も「もう一つ作ろう、もう一つ作ろう、こんなんも作ろう、

あんなんも作ってみよう」と思って遊んで、はじめて子どもは育つわけです。

遊んで育つということは、こういうくりかえしが大切です。

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たとえば、父の日に園でお父さんの絵を描くのはいいけれど、

普段から家族の絵を描いたり、ままごとコーナーにお父さんごっこがどれだけ

盛り上がるような仕掛けが置いてあるか、新聞とかたばことかお酒など……。

そういうことが本当の意味で子どもの成長を育む

「普段の遊びのレベルを上げる」ということだ、とおっしゃっているのです。

 


幼い頃に見えるその子の本質

2021-12-14 22:24:33 | 幼児教育の基本

人の本質というのは、そうそう変わるものではなくて、

一粒の種子が人生の全てを包むような核心を成しているのに似ているという

話を目にしたことがあります。

<特に子どもというのは、小さいがゆえに経験より想像力に頼るため、

その時期に「何を作りだし、何を垣間見たのか」が、

良くも悪くも深くその人の本質を形成してしまうのです。>

としめくくられていました。

 幼児と接していると、特に3歳以下の幼い子らといっしょにすごすと、

もうすでにその子にしかない個性のきらめきがあって、

心を打たれます。

そうしたその子らしさの芽を大事に見守っていると、

最初は欠点にしか見えなかったものや、誰にも気づかれない目立たないもので

あっても、その子にしかない核となるものがどんなに面白く

魅力的に展開していくのか、毎回驚かされます。

 

写真は2歳児さんふたりのレッスンの様子です。

2歳7か月のAくんは、教室に動物園のパンフレットを持ってきて、

うれしそうに見せてくれました。

そこでいっしょに紙コップで動物園を作って遊ぶことにしました。

Aくんは元気よく紙コップを切っていました。折り上げて、名前を書くと、

動物たちの家ができました。

Aくんのはお出かけ先のパンフレットを大事にしていて、何度も見ているようです。

これまでも教室にそうしたタイプの子がいたのですが、

そうした子は現実に見聞きしたことを、図鑑や本で確かめたり、

自分でも本や新聞を作ってみたり、地図を見ながら宝さがしをしたり、

説明書を見ながら何か作ったりするのが大好きな子に成長していました。

もっと大きくなると、自分の未来を思い描いて、「外国に行きたいからその国の言葉を勉強しよう」と

自発的に勉強をしはじめたり、自分の経験を振り返って、じっくり考えて言語化しようとしたり

する姿がありました。

この日、Aくんがやりたがったのは、ちょっとお兄ちゃん向けの教具でした。

以前、年上の子らが遊ぶ姿を見て、自分もしてみたいと思っていたようです。

 

Aくんは全ての面をひとりで埋めきってとても満足そうでした。

いっしょにレッスンしていた2歳3か月のBくんは

模倣が上手で要領がいい子です。

小学生のお兄ちゃんが立方体の展開図の学習でつまずいていたので、

お母さんがアドバイスをしていたところ、Bくんがすっかり覚えてしまって

先生気取りで解説していた姿に笑いました。はさみなどの道具も

大人が使う姿を見ていて、上手に扱っていました。

そうした姿の中で、Bくんらしさというのは、

ただ真似するのではなくて、物事の大事な要の部分を

ちゃっかりつかんで真似するところだな、と感じました。

おそらく、これから先、大きくなるにつれて、Bくんにとって、「あこがれる」ということが、

とても強いモチベーションになっていくんだろうな、と感じました。

 


「語りかけ育児」の弊害と「語らなさすぎる育児」の弊害

2021-09-11 09:18:30 | 幼児教育の基本

このブログの「0~2歳児のレッスン ベビーの発達」のカテゴリー内の記事で、これまで繰り返し書いていることなのですが、日本風?自己流?「語りかけ育児」(一方通行の教える形のインプット育児)が、乳幼児の発達に深刻な被害を及ぼしているように感じています。

語りかけていなくても、脳科学などの本を意識しすぎた、過剰な期待を伴う一方向のまなざしを主とする育児も、同様の弊害を生んでいるように感じています。

 

発達上は何の問題もないように見える子が、親御さんの接し方が原因で、次のような問題を抱えているケースによく出会います。

★ 人とコミュニケーションを取ろうする意欲が薄い。

★ まるで耳が聞こえていないような行動をすることが多い。(呼びかけても振り返らず、うろうろする) 

★ 言葉の遅れ。

★ 強迫的な性質になる。ハイテンションすぎる。物を壊すなどする態度が内側に潜在している怒りの表現のように見えることが多い。

★ 視野が狭まり、物の一部に反応して言葉を発し、周囲に関心を広げようとしない。

★ 物事全般に興味が薄く、浅い関わり方をする。感情の働きが鈍い。表情が固い。

★ 他の人や外の世界と関わることを極端に恐れる。

(ハンディーキャップを持っていない子の場合、親御さんに「自己流の語りかけ育児=教える形のインプット育児」をやめていただき、自然な双方向コミュニケーションを心がけていただくと、たいてい短期間に問題は消えていきます。)

 

↓ の記事は、「語りかけ育児」の誤用の問題について取り上げた過去記事のひとつです。

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赤ちゃんが早く言葉を覚えるように、「ママ」とか、「パパ、会社」など、たくさん言葉をかけている方はよく見かけます。
「それでも、うちの子、言葉が遅いんです」とおっしゃる方はたくさんいます。

そうした方のお子さんだけではないのですが……最近の傾向として、ちょっと気になっていることがあるのです。

それは、子どもに、大人に何かを伝えたいという意志があまり見られないということです。

ちょうどおしゃべりをはじめる前の子たちや、1語文が出はじめた子たちというのは、お母さんとの間で、ちょっと特別なコミュニケーションを取るようになります。

子どもの方は、自分の出す大きな声や、目で訴える欲求を、お母さんが気づいて受け止めてくれるのが、うれしい!おもしろい!もっとやりたい!と、感じているのが、外からもすごくわかるのです。
茶目っ気たっぷりに、しょっちゅう相手の反応を誘うような行動しています。

お母さん側は、子どもが「あ~」と言うだけで、何が言いたいのかピン!ときて、まだ、「○△□~」の宇宙語が、ちゃんとわかって聞こえているかのように返事をしながら、子どもと会話のキャッチボールができちゃっているのです。

ところが、最近、1~2歳の言葉をしゃべりだす前の子たちとお母さんが、会話の前段階とも言える、言葉のない世界でのコミュニケーションのキャッチボールをする姿をめったに見かけなくなって、あれれ???と感じることがあるのです。

子どもは自分が発する欲求を大人が敏感に察して、フィードバックが返ってきた~という経験を繰り返すうちに、お母さんの耳は自分の声が聞こえるのか~とか、自分から働きかけると、向こうからも返ってくるな~など、だんだん理解していきます。

ところが、そうした子どものサインをきちんと受け取らず、大人は大人で、本を指差して「りんご!」とか「イエロー!」とか自分が子どもに教えたいことを言うというコミュニケーションのキャッチボールではなく、<インプット>という一方通行の関わり方が多いように見えます。

そのため、子どもの中に、おしゃべりしたい!なんとか声を出して訴えたい!欲求を表現して得したい!という溢れるような意欲が育っていないようなのです。

言葉の発達は個人差があるので、早い遅いをそれほど気にしなくてもいいですが、コミュニケーション自体への意欲が薄い場合は、お散歩の際も、できるだけベビーカーには乗せずに、手をつないだり、抱っこしたりして移動して、会話の前の段階といえるような気持ちと気持ちがスムーズに行きかう時間をたっぷり取るようにすると良いと思います。

子どもは言葉を教えたからしゃべるのではなく、子どもの中にしゃべりたい!伝えたい!共感し合いたい!
という意欲が育ってきてはじめて、言葉が急速に発達することに大人が気づくと、子どもの姿に大きな変化が見られますよ。

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ずいぶん前から、私は、親子で遊んでいるときに、まるで親の気持ちが子どもの内面に侵入していくかのような強い一方通行の圧力を親御さんの態度から感じることがたびたびありました。

それが子どもに対して愛情深い、周囲から微笑ましく見られるような接し方の場合にも結構あるため、それを親御さんに伝えるのに非常に苦心していました。

親御さん側にすると、何をどのようにダメ出しされているのか、さっぱりわからないのです。

ただ一生懸命子育てしているだけなのですから。

 

優しい口調で愛情をこめて、シャワーのように言葉を降り注ぐことは、子育ての基本だと思っておられる方はとても多いのです。

でも、それが私の目からすると、一方通行に相手に侵入するように接しているように見える理由は、親御さんがそうした良い親としての接し方に夢中になっている間、子どもの返すフィードバックが親御さんに正しく受信されておらず、子どもの言動が次第に不快さに耐えているものに変わっていくのがわかるからなのです。

 

また、親子間でとても親しげにコミュニケーションが交わされ続けていても、それが原因で子どもの興味が外の世界から閉ざされていたり、親御さんのように対応してくれない他の人々に対する無関心や恐怖心につながっている可能性があるケースもあります。

 

といっても、子どもが健常児の場合、不快な刺激をうまくかわすことも上手ですから、親御さんが話しかけはじめたとたん、それがたとえ不快だったとしても、無視して好き勝手な遊びに興じるとか、緊張して張り詰めた様子で、親御さんの顔色をうかがいながら、自分の手元を見ずに活動するとかするだけで、発達上の目立った遅れが生じるわけではありません。

親御さんの前ではいい子で、子どもだけになると破壊や暴力的な行為を繰り返すとか、にこやかにほほ笑みかける親御さんを試すように、お友だちに乱暴を働いたり、おもちゃを乱雑に扱うといった程度の、どの子にもありがちな成長の一過程のように見える行動が主です。

 

こうした発達障害を伴わない子の母子関係による気になる行動は、幼稚園などではそこそこうまく過ごせるために問題が先送りされやすく、就学前や就学後に、顕在化することが多いようです。

 

「相手から求められている活動をするエネルギーがほとんどない」とか、「目の前の活動にしっかりコミットメントできない」とか、「先生の話に集中できない」「自分の身体と心が調和しておらず、何事もやる気がない」「多動気味で、まるで心で何も感じていないかのように動く」といった状態としてあらわれます。

 

それって、もともと発達障害がある子だったのでは?と思う方もいるかもしれませんよね。

もともと発達障害があってこうした気になる行動をする子と、発達障害がないのにこうした問題を抱えていると思われる子の違いは、場面や相手次第で、できたりできなかったりするか、親御さんが母子関係を改めたとたん急速に問題行動が減るかどうかでだいたい判別できるように思います。

(きちんとした診断は専門の病院を受診してすることをお勧めします)

 

もちろん、発達障害を持っている子も、母子関係を改めると、急速に発達が促進されていきますが、やはり、障害がないのに問題行動が出ている子とは経過がずいぶん異なるように感じています。

 

「語りかけ育児」 (一方通行の教える形のインプット育児)から生じる問題は、「知識を教えるからよくない」とか、「英語は母国語ではないからよくない」という「何かをたくさん与えすぎる」弊害というより、乳幼児が言語を習得し、身の回りの世界を理解していくために必要不可欠な、後から取り返しがつかない種類の学習が、「足りなくなる」「なくなる」弊害と言えるのではないかと思っています。

 

「おやつを与えすぎたら、子どもが食事を食べなくなる」とか、「水を与えすぎたら、植物が枯れる」といった話は、誰もが過剰さの害を認識していることと思います。

 

けれども、言葉や知識のように、目で見ることができないものに関しては、それこそ知識と言葉をシャワーのごとく降り注げば、子どもはたくさんの語彙を得て、天才児のように賢くなり、たくさん質問すればするほど、よく考えるようになると捉えておられる方が多いようです。

 

でも、実際には、そうした、もっともっと知識を与えよう、もっともっと子どもを考えさせよう、英語に慣れさせ、数字を教え、文字の読み書きが早くできるようにしようとする、どこか強迫的な、まるで「情報という怪物に憑かれているかのような親たちの関わり方」は、子どもの脳の成長にとって「今、その時期に必要不可欠な体験」「後から二度とやりなおすことができない大事な学習」を奪ってしまうことが多々あるようです。

 

赤ちゃんは、時間の経過とともに勝手に脳が成長していって、言葉が話せるようになる印象があります。

でも、現実には、そうじゃありません。

 

『そだちの科学』創刊1号 日本評論社 に、大正大学人間学部教授の滝川一廣氏が『「精神発達」とはなにか』という記事を寄稿されています。

その中に次のような記述があります。

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1ヶ月半からに2ヶ月月を過ぎた乳児は、「あー」とか「くー」とか一音節だけの声をあげはじめる。

これはご機嫌なときなどに独りで発せられる声で、科学的にはコミュニケーションの意味や意図はないとされる。

しかし、養育手はそうは感じないだろう。

ここでも「思い入れ」によって、親はそれが「おしゃべり」かのように応答している。

その応答に導かれるように、やがて「だーだーだー」「ばぶばぶ」など複数の音節からなる発生、つまり喃語をまねして応答したり、相槌をうってみたりさかんに応答し、またそれを歓び楽しんでいる。

そのうちに乳児のほうも親の応答を期待している様子が明らかになってくる。

声を出してから、応答を待つように声をとめ、親が応答するとまた声を出すという「やりとり」がはじまるのである。

このやりとりはリズミカルで親和的な、互いの発生が溶けあうような波長の重なりをみせる。

スターンという研究者が「情動調律」と名づけた現象で、そのやりとりのなかで、それぞれに生じている情動が重なり合い、同じものとして「共有」される現象である。

(略)

この時期から、外界のさまざまな事物に自分からあれこれはたらきかけはじめる。

おもちゃを振ってみる、しゃぶってみる、ひっぱってみる、眺めまわしてみる、など。

(略) 子どもはまわりの事物を自分なりに知ろうと調べているわけである。

この調べを通して、外界の事物はひとつひとつのもの(実体)で、それぞれに性質やかたちが備わっているらしいこと、同時にひとつのものでもいろいろな側面や性質をかね備えているらしいことなどを理解していゆく。

この間、養育手のほうも、おもちゃを子どもの前で動かしてみたり「ほらほら、ごらん」と注意を促したりして探索行動をしじゅう手助けしている。

またこのとき、社会的に共有されるべき有意味性へと子どもの注意や理解をリードをしているはずである。

(略) 子どもが世界を知ってゆくとき、まわりと共有できる形で知ってゆくこと、つまり「認識(理解)」の発達は、このようなかかわりに支えられている。

(『そだちの科学』創刊1号 日本評論社 p7.8)                    

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言葉の発達は、紹介した文の中にあるような、子どもの発信するものに引き寄せられるように育てる側が反応を返して、その反応によって、次第に自分が発信したものにある意味や使い方を理解していくという関わりの中で育まれていくものです。

言葉や認識の学習過程は、子どもが先に始めて、大人が自然にそれに付き合って、大人との関わりの中で学ばれていくもので、大人が先に教えようとして、子どもが学ぶものではないのですね。

 

そうした自然の学習過程に逆らって、「教えよう、教えよう」という知識のインプットの姿勢で子どもに接し続ければ、最初に書いたように、乳幼児が言語を習得し、身の回りの世界を理解していくために必要不可欠な後から取り返しがつかない種類の学習が、「足りなくなる」「なくなる」弊害というのが起こってくるのではないでしょうか。

私が、危機的に感じているのは、幼い子を育てている親御さんの多くが、子どもをあやしたり、喃語でおしゃべりしたり、目と目や表情と表情で会話を交わしたり、子どもの態度や雰囲気から気持ちを察したり、子どもの感情の高ぶりを鎮めるためにそっと抱きしめたりすることがほとんどないか、ぎこちない点です。

 

まだ2,3語しかしゃべれない子と長い間おしゃべりしたり、いっしょにいろいろなものに指をさし合って、同じ物を見ている感動を分かち合ったり、子どもが小首をかしげて考え込んでいる様子を見て、そっと黙って見守っていて、子どもの考えている世界にいっしょに引きこまれていって、うなずきながら子どもの発見に耳を傾ける姿が少ないということです。

 

その代わりに育児雑誌で見た情報や、他所の子の発達状況や、子どもに教えたい知識は、大人の頭の中にパンクするほど詰め込まれていて、それこそ、子どもの前でちょっとでも早くそれを吐きださないと耐えられないといった切迫した緊張感があって、子どもの側はテレビのスイッチを切るかのように、耳で聞くことや、心を外に向かって開くことを定期的にストップさせて、その緊張感から逃れているように見えます。

 

私たちが今暮らしている現代の消費社会、情報化社会の中で子育てしようと思うと、「毒抜き」(消費者的感性抜き、情報抜き)とでもいったらいいような本来の自然な自分に返る作業が必要なのかもしれません。

 

赤ちゃんが、「あー」と言えば、それが科学的には勘違いだろうと何だろうと、「あっ、私のことを呼んでるのね」と感じて、「はーい、なあに、あーあーね」と思わず返してしまうような自然な語りかけ育児が自分の内部から生じる状態に戻るように。

 

子どもと大人のバランスのいい関係は、大人の側が一度自分の心の中にあるさまざまな思いをリセットして、子どもとともにいる今という瞬間と場に、ゆったりと自分をゆだねてみる、楽しんでみるという心の調整から生まれてくるのかもしれません。

なぜなら、子どもというのは、感覚の過敏さなどがない限り、今という瞬間と場所にしっかりコミットメントしていくことはとても上手だからです。

大人がそれを乱さない限り、子どもは、本能的な力で、そうして最大限に時間と場所の資源を使いながら、自分が成長するために必要な大人の関わりや働きかけを引き出してサポートしてもらおうとしています

 

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「語らなさすぎる育児」の弊害については、↓のリンクに飛んでくださいね。

「語りかけ育児」の弊害と「語らなさすぎる育児」の弊害 3

「語りかけ育児」の弊害と「語らなさすぎる育児」の弊害 4

「語りかけ育児」の弊害と「語らなさすぎる育児」の弊害 5


後々まで影響する幼児期の接し方

2021-09-05 22:13:04 | 幼児教育の基本

子どもの月齢や発達の時期によって、後々まで影響を及ぼすような大事な接し方があると感じています。

3歳の子たちは、いろいろな形で自分の頭を使いはじめるものの、常識の伴わないでたらめともいえる考え方をします。

人は、「重要そうに見えて正しいこと」は、尊重するけれど、「無意味に見えること」「どうでもいいような思いつき」「つじつまがあわない考え」などは、軽んじたり、適当に受け流したりしがちです。

また、3歳の子が口にすることよりも、世間一般で良いとされていることや大人にとって価値があることを優先することが多々あります。

 

でも、この時期は、無意味に見え、どうでもいいことばかりで、つじつまのあわない考え方をするからこそ、まだ生まれたばかりの思考の芽として、その弱さを守ってあげなくてはならないと実感しています。

大人が軽んじて無視すれば、子どもは自分が考えようとしていたことすら忘れて、大人の思考の誘導に従ってしまうからです。

大人が否定すれば、ただイライラする感情だけが残って、ぐずってイヤイヤいうことに終始するかもしれません。


2、3歳児の「へりくつ」に対する関わり方については、こちらの記事に詳しく書いています↓

2、3歳児の「へりくつ」や「意味のわからない要求」にどのように関われば良いのでしょう?

 

上の写真は1歳3ヵ月のAちゃんの写真です。

1年生のお兄ちゃんがいるので、写真のクラッシュアイスゲームを購入したところ、お兄ちゃんとお母さんがピースをはめて氷面をセッティングして、Aちゃんが氷面を一撃で壊すという関係が繰りかえされているそうです。

教室でお家と同じクラッシュアイスゲームを見つけたAちゃんは、氷のピースをお母さんとわたしに手渡しては、早く氷面を完成させるよう催促していました。

 

1歳の子たちは、「はい、どうぞ」とお母さんや身近な大人に何かを手渡すことが好きです。

1歳ちょうどの子たちは、自分の持っていたものを相手の手に落としていくか、押し付けていくような感じですが、1歳3ヵ月くらいになると、「はいどうぞ」と手渡すと、相手がそれをどう扱うかよく知っていて、それを期待して渡すようになります。

Aちゃんの場合、「いくつもいくつもピースを渡すうちにお母さんが順番にそれをはめていくので、最終的に氷の面ができがって自分がそれをたたいて遊べるな」とかなり先のことまで見通した上で遊んでいます。

Aちゃんのように相手からフィードバックを期待して働きかけるようになる時期、子どもが何を期待しているのか、こちらの行動から何を読み取っているのかに思いをはせながらていねいに接していると、その後の他者から学ぶ力に大きな影響を与えるのを感じています。

 

上の写真は、1歳1か月のBちゃんが、自分の靴下をくつの中に入れようとしているところです。

Bちゃんのお姉ちゃんのひとりが、いったん脱いだ靴下を、なくならないように靴の中に入れておく習慣があるそうなのです。

それで、Bちゃんも自分の靴下を手にすると、玄関の靴に向かっていくのです。

こうした真似っこは、繰り返すうちに、次第に<真似する相手の意図を読み取りつつ模倣する>という1ステップ進歩したものへ変化していきます。

 

1歳前半の子たちは、小さいものをつまんで、ひっぱるのが大好きです。

↑の写真は、Bちゃんのために作った「ひっぱるおもちゃ」で遊ぶBちゃんとお母さんの姿です。

こういういたずらのような遊びは、「遊んでいるな」と、ただ見守る場合が多いと思うのですが、大人が返すフィードバックと環境をわかりやすいものにする(主に情報を減らして、子どもが違いや用途に気づくようにすることです)と、1歳児さんたちは、大人とのやり取りに興じながら、相手の考えていることに関心を寄せ始めます。

「こっちは長い」「こっちは短い」「こっちはストローをさしておいて引き抜く。なぜなら、そういう形だから」「こっちは指で押さえる。」といったことを、模倣しながら理解していくだけでなく、相手の行動と理由の結びつきに敏感になっていきます。

 

子どもたちの育ちを観察していると、この時期の関わり方が、3歳頃の理由への関心や問題解決能力に影響を及ぼしているのではないかと感じています。


遊べない子は遊びに必要な技術を習得していない 2

2021-06-13 20:57:37 | 幼児教育の基本
電車のおもちゃを出してきて、ただ前後に動かしたり、好きな電車を集めたりして
遊んでいた子に、「ブロックを使って、その電車の駅や線路を作らない?」と誘うと、
少しとまどった顔をしながらうなずきました。
 
そこで、「ほら、前に、長い長い道路を作ったことがあるわね。どんどん板をつないでいって」と言うと、
横でそのやりとりを聞いていた子が、パッと顔を輝かせて、
「あぁ、前にやった。もっといっぱい板がいる。もっともっと長くなくちゃ」と言いながら、
ブロックの板を並べだしました。
 

↑と↓は前にブロック用の板を並べた時の写真です。

↑ こんな風に道路を作って遊んだ楽しい体験を思い出したようです。

わたしが列車を走らせるためにブロックを横につないでいく見本を見せると、他で遊んでいた子らも

集まってきて、長い線路を作り始めました。

 

こうして手を使ってする作業に没頭し始めると、子どもの態度は素直で落ち着いたものになっていき、

同時に頭の中はいきいきと活発に動きだすようで、

意欲的でよく練られた考えや言葉が出てくるようになります。

 

線路をつなぎ終えたとたん、Nゲージを走らせてみてから、

「そっちとこっちとで発車したら衝突しちゃうよ。

こっちの線路は、こっちからあっちに行って、あっちに着いたら

戻ってくるようにして、

あっちの線路は、あっちからこっちに行って、戻ってくるようにしたら?」と

言う子がいました。

すると別の子は自分の好きなように走らせたかったようです。

線路に1台だけ走らせるのでは嫌らしいのです。

 

そのため何度かNゲージが衝突することになり、言い合いになりかけたものの、

「それなら、連結したら?」という意見が出て、問題が解決しました。

Nゲージをどんどん(セロテープで)連結すると、長い1台の列車になるので、

1台ずつを行き来させているのと同じになったのです。

 

そうして遊び出すと、ここが終点、こうやって切符を買って……とごっこ遊びを広げる子、

駅で電車に乗る人が住んでいるお家を作ってストーリーを膨らませる子などが出てきて、

遊びが広がっていきました。

 

遊びって、ある程度、「ああ疲れた」「やるだけやった」というところまで

自分の身体なり、頭なりを使いきらないと、

楽しさが湧いてこないものなのです。

その「やるだけやった」は、その時期その時期の子が

やっているうちにどんどん楽しくなっていって、「もうちょっと、もうちょっと」と

自分の限界までやり遂げないと気がすまなくなっちゃうような活動であること、

五感にとって気持ちいいこと、目で見て満足できるものであることが大事です。

 

だからといって、わざわざこういうおもちゃを買いそろえなくちゃいけないということはなく、

お家にあるもので十分だと思います。

 

今回の「つないでつないで長く長くしていく」という活動は、

子どもにとって楽しくて達成感のある活動のひとつですが、

ブロックの板がなくても、下の写真のように「柵だよ」と言いながら

ブロックを置いていくだけでも、子どもにしたらさまざまな想像力を

掻き立ててくれるものなのです。

 

↑の写真の作品を作った子は、教室の端から端まで柵を付けた後で、おもむろに立ちあがると、

しみじみと自分の作り上げた作品を眺めながら、

「どうして、こんなにすごいのが作れちゃったんだろう?」とつぶやきました。

置いていくだけ、並べていくだけ、囲むだけでも、道路ができ、線路ができ、工事現場ができ、公園ができます。

そうした作業に熱中するうちに、想像力がいきいきと働き始めます。

 

「新しいおもちゃを出して、ちょっと触っては、おしまい」という遊び方をしていたら、

自分の想像力を使うところまで行きつかないのです。

 

そうして想像力を働かせて遊んでいると、次には、

「上から電車を眺める駅を作りたいな」「これは特急で、こっちは回送で……」

「こういう風にしたい」「ああいう風にしたい」と

今度は思考力を働かせて、遊び始めます。

↑ 電車をくぐらせようとしたら、人形がトンネルの屋根にあたってしまうから

トンネルを高く作り直しました。

どんどんどんどん線路を長くしていく遊びから、

「地下鉄が上の駅のところに登って行くようにしたい」という願望が生まれ、

苦労してだんだん高くなっていく高架を作りました。

 

どんどんつないでいく楽しみも、お城のなわばり図を作るという意味を意識しながら作ることで、

昔の人の知恵への関心が高まり、自分たちもあれこれ知恵を絞って遊びこむことができました。

↑通ろうとすると、橋が崩れる仕掛け。

どんどん並べて、どんどん乗せているうちに、いろいろな物語が生まれていました。

どんどんどんどんつないでつないで……に熱中していると、こんな素敵な街になった

こともあります。

 

夢中になって遊ぶには、簡単にすぐできて、何度も繰り返したくなるような作業を

思い存分やることができる環境が大事だと思います。

公園でする砂遊びでも、お花を絞って作る色水遊びでも、何でもいいのです。

そうした身体を使って集中する活動を洗練させていきながら、

それがごっこ遊びにつながっていって、

想像力をたっぷり使う機会が生まれるようにサポートしてあげます。

また思考力を使って

次々生まれてくる願望を言葉にしたり、それを達成したり、問題を解決したりする楽しさを

たくさん体験させてあげることも大切です。