今年のシアトルへの旅行は、日本の良さや日本人の優秀さを
実感するものでした。
アメリカでは、「不便だな」と感じる出来事に
しょっちゅう遭遇します。
ケチャップやジャムの蓋が空かないなんて日常茶飯事。
「ちょっと」欲しい時も、いつも大袋でまとめ買いがあたり前です。
個性を大事にしている国とはいえ、日本のように
かゆいところにも手が届くような個々の要求に対する特別な待遇は望めません。
その代わり、自分の意志で何かを自由に選ぶことには誰もが寛大で、
いちいち他人のすることに目くじらを立てる人はいないようです。
↓のパーキングエリアの集金箱は、日本では考えられないようなシステムです。
紙幣を数枚折りたたんで小さな穴に押し込み、
もしうまく押し込めない時は、
手持ちのカギなどで、紙幣を押しこむように
イラスト付きで指示が書いてあります。
アメリカでは改善しようと思う人も、クレームをつける人もほとんどない模様。
食べ物にしろ、機械にしろ、日本の商品の繊細さを 思うと、
日本人って反省したり、工夫したり、分析したりすることが大好きで、
商品を作るときにプロ意識を持っている人が多いんだろうなと感じます。
でもそうした日本人の几帳面さや、性急に問題を解決しようとする態度が、
子どもを育てたり、教育したりする場では、
マイナスに働いてしまうのかもしれない、と感じることもたくさんありました。
子どもって成長するもので、長い時間の流れのなかで変化していくものです。
でも、日本だと、自分が目にするもの全てに完成品を求めるというか、
欠陥だと感じたものは見過ごすことができないようなところがあって、
人間の子どものように個性的な成長の一過程にあるものまで
小手先でいじって完成品に近付けようとして、結果として不良品扱いしてしまうことがあるように
見えるのです。
アメリカでこんなお話をうかがいました。
通い始めた学校に適応できなくて、宿題や課題を嫌がって大騒ぎをしていた子のお話です。
その子の親御さんが先生に迷惑をかけていることを謝ったそうです。
すると、その学校の先生は、「ちょっとずつだけど態度が良くなってきています。
大丈夫。この子は高学年になったら、伸びてくるはずです。きっとすばらしい能力を発揮するはずです。
こちらに任せて、もう少し見守ってあげてください」とおっしゃったのだとか。
アメリカの学校はシビアで、きちんとしていないと落第を宣告されることもあるようです。
その一方で、
「今」という短い期間で子どもの能力を決めつけず、
「ひとりの人が育つ」「成長していく」「子どもには個性があって、発達の順序はそれぞれちがう」という
長いスパンで子どもを眺め、
教えるプロとして、そこで生じるさまざまなリスクをしっかり引きうける覚悟があることを感じました。
うちの子の懇談に行くたびに感じたものですが、
日本の学校の先生って、「どうして……?」と首をかしげたくなるほど、
輪切りした世界のことしか話題にしないものです。
小学1年生なら、1年生、5年生なら5年生、中学生なら中学生で、
その子の人生が終わってしまうかのような……
先生自身が成績表の数値の増減に対する
シングルフォーカスに陥った状態で
話が終始しがちなのです。
人間が成長し育っていくという視点に立って、
子どもを教育していくプロとして
「子どもの個性が将来どのように開花するのか」
「今、目の前にいる子がどのように人生を歩んでいくのか」
といった見通しを示していただきたいな、と感じているのは
わたしだけなのか……。
先生って、たくさんの子どもたちと出会い、成長を見守っているわけですから、
親よりずっと
多角的な視点に立って、大きな視野から子どもを眺めることができるように思うのですよ。
工場の製品の検品作業でも行うように子どもを眺めている先生が多くて残念。
日本の社会が、学校の先生にそうした能力を発揮することを許さないところがあるのかもしれませんね。
もうひとつこんな話もうかがいました。
アメリカの子どもたちは、成績の良し悪しに関わらず
自己肯定感がとても高い子が多いそうです。
発言も自信満々。
確か中学生だったと思うのですが、ある男の子が、
学校の成績はボロボロなのに、「将来、医者になりたい」と公言していたそうです。
それに対して、「そんな成績で医者にはなれない」と叩く人はいないそうです。
でもこれを聞いた日本人の女性は、「いくらなんでもその成績で医者になりたいとは無謀な話」だと感じたそうです。
でも、数年後、その子に会うと、
自分の夢のために精進して、しっかり医者になっていたそうです。
「3歳までに……」とか「9歳までに……」とか言わない社会では、
いくつになっても、がんばり次第で後伸びするのかもしれませんね。