『地頭力』が育つ幼児期 4
の記事に次のようなふたつのコメントをいただきました。
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>現在は、軽度発達障害児の問題行動なんか も、
つぶさに大人に観察されています。
特別な配慮が必要なので、
それも大切だったりはするのです。
でも、それが、かえって子どもの成長の足を
引っ張っていないのでしょうか?
確かに過干渉は良くないのは判ります。
でもこの部分はよく判りません。
特別な配慮は必要。
でもそれがかえって成長の足を引っ張るとは?
では軽度発達障害児はどうすればいいのでしょうか?
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ひかるママさんと同じく、そこで混乱しました。
愛着の記事以降、1才半からグレーと言われている息子(3才半)にどう関わればいいのか分からなくなっています。
「丁寧な関わり」が、かえって関わりすぎて、言葉のシャワーを浴びせすぎたのかなぁと。
弟(1才3ヶ月)は人見知りもするし、後追いもする。寝るときだってギューッと抱きしめながら寝るのが好きです。
でも、兄は正反対。1才半以前に知らない子にも抱き着いてました。今は、初対面の人にはヒーローに成り切りポーズを決め、戦いを挑みます。
どっちも多動傾向はあるけど、発達障がいか違うかは、まだ分からない。だけど、この先どう関わったらいいのかしらと悩んでしまいました。
ここに書かれたことが、全てのこどもに当てはまるとは思わないけれど、ヒントを頂けるなら頂きたいです。
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軽度発達障害の診断を受けている子や疑いのある子を育てていると、
「ある診断名」の子向けの育て方のマニュアルがあるように
錯覚しがちです。
教師や支援者も、この診断名の子にはこの対応……とステレオタイプな接し方に終始することがあります。
けれど、たとえ発達障害があったとしても、やはり子どもはひとりひとり個性的で、それぞれ異なる道筋で成長しますし、
見守る部分は見守って、手をかし、
叱ったり、厳しい現実にぶつからせるときはぶつからせる……と、
その都度、引いたり押したり柔軟に対応していく必要があるように思います。
軽度発達障害の子についての情報は、
大人の急ぎすぎや、
即断して決め付ける態度に、
「待った」をかけて、よく考えて、
ていねいに子どもに接することをうながすためにあって、
「このように接しなさい」というひとつの答えをしるすものではないのでしょう。
私が、軽度発達障害児の問題行動が大人につぶさに観察されることが、
成長の足を引っ張る場合がある……と書いたのは、
今、大人になってバリバリ働いている男性の方々が、
「子どもの頃は、やどかりを足でふんではつぶしてた」とか、
年中、けんかばかりして怪我だらけだった」などと、子ども時代を振り返る言葉をよく聞くことに由来しています。
現代なら、発達障害児というレッテルを貼られ、そういう目で観察され、
問題行動を直すために周囲からさまざまな指導を受けるはずの行為を、
一昔前の子はけっこう平気でやっていて、
そのままきちんと大人になって働いているわけなのです。
もし、当時、そうした行動をしたから発達障害児だと、
決め付けられて、「普通の子ではない」という目で見られて育てられたり、
発達障害がある子だからと、過保護に育てたり、
過干渉に育てたりしていたとしたら、
責任感を持って働ける大人になれたのか疑問も残るのです。
発達障害のある子として、支援を受けつつ、
学校で適応していたとしても、
親も教師もそれだけで満足せずに、
将来、そのハンディーキャップを乗り越えて生きていくたくましさを
与えてあげる義務を忘れてはならないと
感じています。
ただだからといって、昔のように発達障害に関する情報に無知なままの
方がよかったのかというと、そんなことはなくて、
以前次のような記事でその問題を言葉にしたことがあります。
★発達障害児は多すぎる? 1
★発達障害児は多すぎる? 2
★大人の手をやかせる子はみんな病気なんですか? 1
★大人の手をやかせる子はみんな病気なんですか? 2
★大人の手をやかせる子はみんな病気なんですか? 3
また、次のような記事を書いたこともあります。
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<「生き辛さ」を抱えて生きるということ>
大人になって、自分は発達障害ではないかと疑いを持ちました……とおっしゃる方々からコメントをいただくことがあります。
そうした方のコメントは、いつもとても深い洞察を含んでいます。
発達障害児を育てる親御さんのコメントとは少し異なる
「生き辛さ」を抱えて生きるということを自分で経験してきた方の
生の言葉です。
発達障がいを持った子を育てていると、
どうやって普通に近づこうか、困った癖をやめさせようか、
ひとつでも何かできることを増やそうか、自立への道を歩ませようか
とそればかりで頭がいっぱいになってしまうかもしれません。
少しでも生きやすくなるためにそうした支援は必要ではあるけれど、
実際、「生き辛さ」を抱えて生きている当の本人にすれば、
何が何だかわからない
安心できない世界から、毎時間毎分、
ダメな自分、できない自分、
足りない自分、変わらなくてはならない自分を
つきつけられて、
自分を信じる
自分を受容する
という人として生きていく基盤となるような部分が
いつもぐらついた状態で、
生きていることが周囲に対し申し訳ないような思いまで抱きながら暮らしているのが現状です。
運動オンチの人がオリンピック選手を養成する体操クラブに入れられれば、
たとえ、バカにされたり、期待されたりしなかったとしても、
周囲のようにできない自分に自信を失い、
苦しみを感じて生きるようになりますよね。
発達障がいを持って生きるということは、支援を受けていても、優しくされていても、
挫折感とコンプレックスと疎外感と誤解される悲しみと絶えず向き合いながら
それを受容し、呑み込んでは、
一歩、一歩、前に進んでいく作業です。
障害特性ゆえに苦しい、感情がコントロールできないという事実とは別に、
現実がむごすぎて、
苦しくて、感情がコントロールできなくなるのです。
それでも一生懸命、生きている子がいて、
そうした苦しい受容を途方もないほど繰り返しながら、
大人になって、一生懸命生きている方がいます。
私たちは、自分が持っている「ふつう」という固定観念と比べて、
経済的に自立しているかとか、
社会的に認められているかとか、
人間関係が上手にこなせているか、
とかで人を比べたり、評価したり、人を社会のお荷物とみなしたりします。
でも、もし、人類というひとつのまとまりのなかで、
何割かの人が、
必ず 自分たちが過去に汚した環境の影響をかぶって
障害を持って生まれる役を引き受けなくてはならなかったり、
誰かは必ず、進化しようとする遺伝子の影響で、
ある部分だけ特化した
生きずらい生を引き受けなければならないとしたら、
人類が自分も含んで確率的に持っているもののひとつを
引き受けてくれた人に対し、
あれこれ比べたり評価するというのはどうなのでしょう?
そうした生をバカにする人や、変わるように急かす人が、
なら次は自分がそうした苦しい生を引き受けて、
最後まで生き抜きます~と簡単に言えるのでしょうか?
こうした生き辛い生には、苦しみとひきかえに、
ひとつのすてきなプレゼントが用意されています。
ジョージア州に、成功者と億万長者を20年間調べ続けて、
自分もその仲間入りをした方がこんなことを
おっしゃっています。
『人とちがうことは利益をもたらす』
トマス・J・スタンリー
人が褒めてくれるような長所は、意外に、利益をあまりもたらさないのだそうです。なぜなら誰もがあこがれる見栄えの良いところには、
人が群がって競争が激しくなるからです。
『戦って勝つのは下策。戦わずに勝つのが最上』と孫子も言っています。
本田宗一郎は、
『私は世間でいう゛悪い子゛に期待している。なぜかといえば、そういう子どもこそ ゛個性の芽生え゛を持つ頼もしい可能性に満ちた本当の意味での
゛いい子゛なのである』
『失敗もせずに問題を解決した人と、十回失敗した人の時間が同じなら、
十回失敗した人をとる。
同じ時間なら、失敗した方が苦しんでいる。それが知らずして根性となり人生の飛躍の土台となる』
と語っています。
生き辛さは、このように、きちんと生き抜けば、それだけで価値があるものなのです。
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子育ては、発達障害がある子はもちろんですが、発達障害がない子を育てていたって、
いくつになっても迷いの連続です。
私のように社会に出る寸前の
子どもと呼んでよいのかわからないような年齢の子を育ててたって、
迷いから開放されることはないのです。
門限を決めれば……いったい、いくつになるまで、子どもを縛るつもり?友だちは一人暮らしをしているというのに……と言いかえされる始末ですから。
そこで、迷っても、簡単に周囲に流されるわけにもいかず、
自立しようとする子どもの声をきちんと聞かないわけにもいかず、
だれか子育ての専門家に答えをたずねるわけにもいかないのです。
自分の子と自分の目の前の問題にしっかり向き合って、
自分で決断をくだすしかありません。
発達障害を持った子を育てる場合も、
さまざまな専門家の意見を参考にしつつも、
やはり、最終決定権は親自身が握っているのです。
失敗しつつ、
少しずついい感じに子どもとの関係ができていけばいいんだと思います。
そうだからといって、子育ては苦しいばかりじゃありません。発達障害のある子もそうでない子も、自己肯定感を育み、「自分」で生きている実感を味合わせていけば、
たいていの問題は、自分で悩んで、自分で解決して、
勝手にひとまわり大きく成長していくものです。
子育ての迷いをふっきるため書いた詩です。↓よかったら読んでくださいね。
ある日の娘 ある日の息子
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