高学年になると、言うこともそれなりに論理的になってきますし、
衝動的に言葉を口にするより、自分の内面で会話することが増えてきます。
でも、その少し手前の9、10歳の子たちは、
明らかに、それまでの言われたことをそのまま鵜呑みにするような考え方を
卒業しつつあるものの、
たいてい、外に向かって自分の考えを伝えられるほどの力はないし、
第一、自分が練っている考えが何なのか、自分でもよくわかっていないものです。
それでも、「それは、ちょっとちがう」と感じたり、もやもやと思いをくすぶらせたり、
「きっと、こうだ、絶対、こうだ」とひらめいたり、
「何はともあれ、何か言いたい」「自分の中にあるものを、言葉にして吐きだしたい」
という思いに捉われやすい時のようです。
それを、「うるさい!」「黙って、やりなさい」「そんなのおかしい」と一喝するのは簡単です。
でも、もし、身近な大人が、そうした言葉の中に含まれるその子の世界に真摯に耳を傾けるなら、
きっと、考えるという行為自体を大切に扱う姿勢が育ってくるのではないか、と思っています。
少し前にお聞きしたことなので、記憶があいまいなので、記憶違いがあるかもしれませんが、
ちょうどこの年代の知人のお子さんが、ある時、
学校の宿題をしながら、こんなことをつぶやいたそうです。
「こういうのじゃなくて、もうちょっと難しい勉強がしてみたい」と。
それを聞いた知人は、思考力を必要とする問題の載っている問題集を見せました。
すると、その子は、「こういうのじゃなくて、もうちょっと難しいのが……」と言ったそうです。
「それなら……」とお父さんが中学入試の問題を教えてあげようとしたのですが、
それに対してもその子は、「こういうのじゃなくて、もうちょっと難しい勉強が……」と
言ったもんですから、
「いくら何でも、今の勉強も完璧じゃないのに……!」とお説教モードに移っていきそうなところを、
「それなら……」と、知人が高校だったか、大学だったかに使っていた本を出してきて
あげたそうです。
すると、その子は、それをじっくり読んで、満足したそうです。
それからずっと、その子は、とてもまじめに自分の課題をこなしているようです。
その子が、「もうちょと難しいの……」と言った理由は、
勉強を舐めてかかってそういったわけでも、
あれこれ難癖つけて勉強をさぼろうとしたわけでもなくて、
ただ、今、学んでいる勉強の先の先に何があるのか、その先から全体を見渡してみたら
どんな風に感じるのか、強い好奇心に駆られたからのようなのです。
また、まだはっきりと言葉で表現することはできないけれど、その子が時折、漏らす疑問や言葉からは、
生きることと死ぬこと、宇宙の不思議についても、自分の中で
いろいろなことに考えをめぐらせていたようです。
おそらく思春期を前にして、自分で世界や自分が生きていることについて考え始める
入口に立ったんだな、と感じました。
そういえば、うちの子も11歳くらいの時に(11歳の孤独 という詩に書きました)
それまで長い間、考え続けた様子で、
「宇宙はアメーーバーみたいなものかな、お母さん……
だってアメーバーはひとつがたくさんに増えていく。
宇宙は膨張していくでしょ」と自分自身に問いかけるような口調でつぶやいたことがあります。
きっと、9歳とか10歳の頃から、自分の中でこの疑問の答えを探り続けてきたんじゃないか
と思われました。
大人が全てを知っている存在でも、何にでも答えを与えてくれる存在でもないことに
気づきだして、
抽象的な思考の世界に入っていこうとする子の姿は
純粋でもろくて、ばからしくて大人には見えにくいものですね。
知人のお子さんにしても、その子の中にはさまざまな思いが渦巻いているはずなんですが、
たいていの大人の目には、やらされていることに難癖をつけているか、舐めてかかっているようにしか
映らないのでしょうから。
知人は、「今、自分がやることをきちんとして、全部できるようになってから、
もっと難しい問題をって言いなさい」と大人の考えでしつけることもできたし、
「今の年齢のレベルも難しいのは解けないのよ」とか「中学入試の問題は難しいわよ。もっと勉強しないとできないわよ」
とはっぱをかけることもできたし、
「生意気なことを言って、まだこんなこともできないでしょ」と辱めることもできたのです。
でも、そうしないで、
その子の気持ちに添って、対応しました。
すると、その子は、納得もしたし、親の自分への信頼感も感じたでしょうし、今、自分がするべきことを受け入れたのでしょう。
おそらくその出来事に励まされもしたはずです。