「自己肯定感を育む」ことについて書いた記事を、カテゴリーにまとめました。
>> 自己肯定感を育む(記事一覧)
例えば、こんな記事が入っています。
・セルフエスティーム(自己肯定感)について思うこと(1〜5までの連載)
・自己肯定感は褒めると上がる?(1〜2の連載)
・子どもの自尊感情を伸ばす5つの原則(1〜5までの連載)
・・・などなど。
興味がある方はのぞいてみてくださいね。
「自己肯定感を育む」ことについて書いた記事を、カテゴリーにまとめました。
>> 自己肯定感を育む(記事一覧)
例えば、こんな記事が入っています。
・セルフエスティーム(自己肯定感)について思うこと(1〜5までの連載)
・自己肯定感は褒めると上がる?(1〜2の連載)
・子どもの自尊感情を伸ばす5つの原則(1〜5までの連載)
・・・などなど。
興味がある方はのぞいてみてくださいね。
『自尊感情を伸ばす5つの原則 親から子へ 幸せの贈り物』
玉川大学出版部
の中には、乳幼児時代の子の自尊感情を育てるための
具体的な例がいろいろ載っています。
それらを読んでいると、日本の子育ての場で「そうすべきだ」と信じられている方法の多くは間違っているか、
もっと成長した大きな子のための方法なのです。
そのため親は愛情から
子どもの自尊感情が低くなるように努力することもよくあるのです。
たとえば、赤ちゃんが泣くたびにだっこしている母親に、「泣けば抱いてもらえると思い込んで、ささいなことでも泣いて甘える子になるわよ」と忠告する人がいるとします。その母親は赤ちゃんがしっかり育つように、愛情から泣いても放っておくようになるかもしれません。
こんなとき、自尊感情を育てるという点からすると、乳幼児のうちは、どうすればよいか迷ったら、子どもの要求に応えるのがよいとされています。
子どもは自分の欲求や要求が聞き入れられるので、自分は尊重に値すると感じるようになるのです。
また、早すぎる新しい経験を無理に押し付けると、
自尊感情が低くなると言われています。
この著書には、もうすぐ2歳になる子をプールに連れて行った父親を
例にあげて、どのような場面で子どもの自尊感情が犠牲になるかしるしています。
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はじめてのプールでぐずりだした男の子に水しぶきがかかり、子どもはさらに泣き出しました。
「泣くな。水は怖くないよ。いつもお風呂に入るよね。これはいっしょだよ」
お父さんはそう言って、子どもに水をパシャッとかけました。
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こんな場合、父親は子どもの言葉で表現できないメッセージを無視すべきではなかったのです。子どものしるす興味や準備状態を観察して
体験を用意するか、子どもが新しい体験に慣れるまでもっとゆっくり関わるべきだったのです。
こんな例もありました。
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3歳の子が親の言うことを聞かず、椅子から椅子へ渡っていて、
滑って床に落ちました。「痛いよー」と泣く子に
「だから言ったでしょ」と母親は冷たく言いました。
この母親は「痛かったね」と子どもの話を聞いてあげることもせず、最初に子どもが言うことを聞いていなかったことを叱りました。
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こうした冷たい対応が長期間繰り返されると、
子どもは自分が大切にされておらず、自分は必要とされない存在だと思い込むそうです。
子どもたちがやってはいけないことをして怪我をしても、
心から心配していることをしるすなら、子どもたちは愛されていると自分たちの存在に価値を感じるのです。
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うちの子たちがまだ小学生だった頃、
私は地域の子育て支援の仲間たちと児童館での会議に参加していました。
当時の小学生たちの流行は、バトル用のカードを集めることで、その日、親といっしょに会議についてきていた★くんも、お母さんにとめられるのも聞かず、自慢のカードを大量に持ってきていました。
こうしたカードの一部は、レアものとして、1枚何千円もの値がつくものもありました。
★くんは、お小遣いの全てをこのカード集めにつぎ込んでいて、
他の子が手に入れられないようなレアカードをたくさん持っていることが自慢でした。
この日、親たちの会議が半分くらい過ぎたとき、「あっ、忘れてた!」と言って、★くんが児童館の庭に飛び出していきました。その後、血相を変えた★くんが、今にも悲鳴をあげて泣き出しそうな様子で、「自転車のカゴに忘れていたカードがないんだ」と告げました。
私たちも会議そっちのけで、★くんのカード探しをはじめました。
私が児童館の読書室を覗くと、ちょっとつっぱっている小学高学年のグループがふんぞり返ってマンガを読んでいました。
「自転車の前カゴにカードが入った袋を置いていたら、なくなってしまったという子がいるの。あなたたち何か知らないかしら?」とたずねました。
すると、そのグループのリーダらしい子がニヤニヤしながら、
「おばはん。おれら疑ってんか?」ドスをきかせた声で問い返しました。
「ただ、知らないかたずねているだけよ。このくらいの巾着袋に入っているんだけど、もし見かけたら教えてちょうだい」
ちょと厳しくそう言うと、
あの子たちが関わっているとしたら見つからないかもしれないな……と思いながらその場を離れました。
会議をしていた部屋に戻ってみると、
「だからあれほど持ってきたらダメって言ったでしょう!もう買わないからね」とガミガミと叱られ続け、他所のお母さん方からも、「大事なものは持ってちゃダメよ」と注意を受け続けて、涙を流している★くんの姿がありました。
何だかいたたまれなくなって、私がもう一度、自転車が置いている場に行くと、背後からしょんぼりした★くんが近づいてきました。
小さな声で「カードがなくなって残念だったね」と言うと、目に涙を浮かべながらも気丈に自分に起こったことを受け入れようとする表情が浮かんでいました。
私が、「大事なものを持って来ちゃダメよ」とか、「忘れ物がないか、その場を離れる前にチェックしなさい」と言わなかったのは、
私もよく忘れ物をしては、★くんと同じような苦渋を嘗めることがよくあるからなのです。
自分自身がショックのあまり口もきけないような時に、はたから、「ああしなかったから」とか「こうしておけばよかったのに」とかいろいろ言われるのはよい気がしませんから‥‥‥。
ですから、我が子に同じようなことが起こった場合、取りあえず失った物をいっしょに悲しんでから、「今度からどうすればいいかな?」と子どもにたずねる甘めの対応になりがちです。
でもそれでもいいんだな、それだからこそいいこともあるんだな‥‥‥と思うのは、失敗したときに、「だからこう言ったのに‥‥‥」とぐずぐず言われることなく、ただ共感してもらって、次の改善策を話しあえる状態にしておくと、子どもは勇気を持って自分のした失敗を反省して、「次はこうしよう」と決意するようになるのを見てきたからです。
この★くんも、
自分がこれまで他の欲しいものも我慢して懸命に集めてきたものを
一瞬の判断ミスで全て失ってしまったという事実、
これから友だちとカードを見せ合うときには、一番下の立場になるかもしれないという不安、
世の中には盗みをするような悪い人もいることへのショックなどを、
たったひとりでグッと飲み込んで、乗り越えようとしていたのです。
「もう一度だけ探してみようか?」と問うと、誰を責めるでも、愚痴るでもなく、ただ私の手を取って静かに周囲に目を配りつつ歩いていました。
最後に、「大丈夫? がんばれそう?」と聞くと、こっくりしました。
誰だって失敗やミスはつきものです。
しょっちゅう失敗している人も、ごくたまにしか失敗しない人もいるでしょうが、どちみち失敗をしないで、生きていくことなどできないのです。
ですから誰もがぶつかる失敗に対して、失敗したとたんに「ああしておけば、こうしておけば、ああしないから、こうしないから……」と、
寄ってたかって責めたてても、欠点がなおるどころか、
自尊感情が低くなって、
自虐的になるか、他罰的になるかどちらかにしかならないでしょう。
子どもたちの育ちを支援する大人たちは、
ひとつひとつの出来事から
子どもが自分で生き方の指針を見出していけるように
自尊感情を育てるガイドラインを常に心の片隅に置いておくことが大切だと感じています。
前回は、自尊感情が低い場合の尺度となる特徴を紹介しましたが、
今回は、自尊感情が高い場合どんな心の傾向や行動をするのか紹介しますね。
★自尊感情が高いと、友だちが悪いことをしているのを見ると、とめようとします。
★自尊感情が高いと、ほかの人からどんなふうにうわさされているのか気になりません。
★自尊感情が高いと、なにごとも、ほかの人にしてもらうより、自分でやりたいと思います。
★自尊感情が高いと、自分はほかの人に比べていろんな点ですぐれていると思っています。
★自尊感情が高いと、何かしようとするとき、ほかの人が反対するのではないかと心配になりません。
★自尊感情が高いと、自分はどんな不幸にあってもくじけないだろうと思っています。
★自尊感情が高いと、友だちは自分の考えをよく取り上げてくれると思っています。
★自尊感情が高いと、決められたことは、きちんとします。
★自尊感情が高いと、友だちは、自分のためになることをしてくれることが多いと思っています。
★自尊感情が高いと、自分には自慢できることがあると思っています。
他にもいくつかあったのですが、省略しますね。
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私の父も母もとても自尊感情が低い人でした。
子どものために自分を犠牲にすることは何とも思わないほど子どもへの強い愛情を持ってはいました。
ただ、自分たちの自尊感情が低いものですから、
自分の目を通して見る世界が、自分に都合がいいように歪んでいるのです。
そうした親の自尊感情の低さは子どもに伝染します。
それと良かれと思って注ぐ子どもへの愛情が、
子どもの中に芽生える自尊感情や自立心をを押さえつけたり、依存性や弱さを引き出すものとなっていても気づいていませんでした。
↓私の子どもの頃の経験を書いたエッセイです。
☆親のコンプレックスと子どもの困った行動 1
☆親のコンプレックスと子どもの困った行動 2
☆親のコンプレックスと子どもの困った行動 3
☆親のコンプレックスと子どもの困った行動 4
☆親のコンプレックスと子どもの困った行動 5
☆親のコンプレックスと子どもの困った行動 6
☆親のコンプレックスと子どもの困った行動 7
☆親のコンプレックスと子どもの困った行動 8
それで、私や妹が社会に出て行く年頃になったときには、
機能不全家族でアダルトチルドレンとして育った人の特徴をたくさん持っていて、人と共依存の関係に陥りやすく、社会に適応していくことが困難でした。
結婚して子育てをするなかで、私は自分の弱さを見つめながら、自分を成長させていくのに長い年月を要しました。
私が懸命に自分と向き合ってきたのは、
わが子たちに、人に寄りかかることなく、自分で幸せをつかみ取れる人に育ってほしい、
嘘のない目で自分を見つめることができる人に育ってほしい、
誰に反対されても何が起こっても自分の生き方に自信を持てる人になってほしいと願ったからです。
AC(アダルトチルドレン)といえば、過去記事でこんな記事を書いたことがあります。↓
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テレビで幼児教育の特集をしていると、
運動や外遊びには弊害はない。
子どもが元気いっぱいではきはきして、お友だちに思いやりをしるしていたら、
これはすばらしい幼児教育がなされているにちがいない
そうした思い込みや錯覚のもと、
ちょっと引っかかるシーンや気にかかるところがあっても、まるで何もなかったように打ち消して、「すばらしい!」と思ってしまうときがあります。
私はどんなに感動的な演出を目にしても、
<愛される存在でいるためには、他人の基準に合わせなければならない>
というメッセージが子どもに強烈に伝わるような幼児教育をしている場は
信用していません。
もちろん、幼児は他人の基準にあわせる必要がないと考えているわけではありません。
幼児の集団生活を通して、
自分のニーズを主張することと他人の要求をのむことの折り合いをつけたり、友だちと協調することを学んだりしていく必要があると思っています。
けれども、それは、
「愛される存在でいるためには、他人の基準に合わせなければならない」と思い込ませることではないし、
自分の感情やニーズを切り捨てて他の人の意向を優先すること
ではないし、
自分の感情とのつながりを切断すること
でもありません。
数年前に話題になっていたAC(アダルトチルドレン)を生み出す家庭では、
「話すな」「感じるな」「信頼するな」「質問するな」「考えるな」という暗黙のルールがまかり通っています。
幼稚園のような場でも、
何かひとつの方法を盲信して、親も子どもも、個性や感じ方の違いも疑問も口にできない状態で、園の方針を信じこんで子どもを叱咤激励したり、評価したり、無視したり、時には虐待に近いことまでしているときには、
このACの家庭と同じようなことが起こることでしょう。
本来、私たちは、意見が違って良いし、
それぞれの子はその個性に応じて尊重されて良いし、
お互いその違いから学びあいながら、創造的な解決を探っていくのが社会ですから。
他の人が「物事はこうなっているんだ」と言うと、
疑うことを放棄して、自分の感覚を信じずに言いなりになっている場では、
子どもは、子どもではなくなり、しっかりとした大人(悪ぶった大人)のように振る舞い、
次のどれかの役を引き受けます。
●リスポジブル・チャイルド(責任を追う子)ヒーロー 優等生
●アジャスター(順応者)
●プラケイター(なだめ役)世話焼き
●アクティング・アウト(問題児)スケープ・ゴート、いけにえ
生き抜くための力が、自分の成長のために使われず、
家族や集団の得になるもののために消費されます。
そうした場で育つ子どもたちは、自立しているように見え、輝いて見え、
賢く見え、優しく見えます。
それなら、それでいいのでは?とも思いますよね。
そのように子どものときから大人のように生きた子たちが
大人になると、
立派に大人として社会に適応しているように見えて、
大人になりきれていない部分をかかえているそうです。
それは「子どもっぽい」のとは、ちがいます。
人並み以上に社会的責任を背負っていたりします。
けれども、大人としてじぶんの面倒を見て、自分を幸せにすることができない
のです。
自分の感情をありのままに受け止め、自分の必要を周囲に要求する練習ができていないのです。自分の望みや気持ちをしまいこんで、苦しい生を生きるようになるのです。
子ども時代に、「子どもを生きる」こと。
それは将来の幸福の土台を作ることでもあるのです。
アリス・ミラーは、
「おまえのためだ」と言って子どもを屈服させる教育を受けた子は、大人になってからも誰かに隷属しやすく、宗教的なカルト集団、全体主義的な政党に対しても簡単に服従してしまいやすい
と、指摘しています。
「おまえのためだ」と言って子どもを屈服させる教育は、
子どもの意志を破壊し、子どもの感情や創造性、感受性、反抗心を抑えつけてしまう教育です。
ミラーによれば、そうした教育は、モラル・ハラスメントの被害者を作るそうです。
私の育った家庭も機能不全の状態でした。長い期間、親と子、家族、集団の問題を見つめて、向き合ってきて、しみじみ、これは日本人全体が抱えがちな問題なんだな~と思います。「これが、ふつう」と思えてしまうくらいに。
これから育っていく幼い子たちが、
自分らしく幸福に生きていくために、そこから目をそらしてはいけないと感じています。
前回紹介した男の子のお母さんは、どの場面でも子どもの自尊感情を高めるような対応をしていました。
それで男の子は他の子たちよりできないことが多くても、
何度も練習してでも、
できるようになるまでがんばろうとする前向きな気もちを持っていました。
『自尊感情を伸ばす5つの原則 親から子へ 幸せの贈り物』
玉川大学出版部
という本のなかに、自尊感情の高低を調べる小学生向けと中学生向けのチェックシートがついていました。
それを目にしてショックを受けたのは、
最近の子どもたち、小中学生といわず、幼児にも非常に多くの子に見られる特徴というのが、
そのまま自尊感情の低さを表すものとしてしるされていたことです。
低学力、青年の犯罪、薬物中毒、抑うつ、そして自殺といった問題と、自尊感情の低さは、研究者や専門家によって相関があると指摘されています。
自尊感情が低いと、人生の問題やフラストレーションにしっかり対応できません。
自尊感情が低いと、強くて優しく、責任感と哀れみを持った心が育ちにくくなります。
自尊感情が低いと、子どもは充実した意味のある人生を歩めなくなると言われています。
そんなにも大切な「自分は有能で価値がある人間だ」と自分を肯定的にとらえる自尊感情。
それなのに、何のハンディーキャップも持っておらず、知的な面でも優秀な子であっても日本で暮らすほとんどの子が、自尊感情の低さを表すとされる特徴を持っていることに、心が痛みました。
自尊感情を調べるチェックシートから……どのような特徴が自尊感情の低さをあらわすのか取り上げてみます。
★自尊感情が低い子は、何かしようとしたとき、むずかしそうだと、ほかの人に手伝ってもらいたくなります。
★自尊感情が低い子は、自分でしなければならないことでも、親や先生から言われないとしようとしません。
★自尊感情が低い子は、ほかの人をとてもうらやましく思います。
★自尊感情が低い子は、正しいと思うことも、反対されるとやりとおしません。
★自尊感情が低い子は、自分がほかから尊敬されるような人間になるだろうと思っていません。
次回に続きます。
「こんな子に育ってほしい」「あんなことができるようになってほしい」「こんな風に育てたい」と親が子に望むことはたくさんあります。
でも、本当は、親は子どもが「自分は有能で価値がある」と感じるよう自己肯定感さえしっかり育てたら、
子どもは自ら課題を見つけ、自分でチャレンジし、さまざまなことを達成していくようになるものです。
ずいぶん前になりますが、虹色教室に小学4年生の特別支援学級に通っている男の子と親御さんが見えたことがあります。
私が簡単なカードゲームの遊び方を教えると、男の子はとても喜んで取り組み、ルールを覚えました。
それから笑顔で、「お母さん、ぼく、●●(支援級)の友だちにこの遊び方を教えるよ」と言いました。
その子のお母さんは、男の子が新しいことを意欲的に覚えたり、覚えたことをお友だちに教えてあげようと思いつくことが心底うれしくてたまらないようでした。
それで、良い親であることを私に見せようとか、良い親でなくちゃと自分に課すとかではなく、本当に本心から言っている様子で、「この子を誇りに思います」とおっしゃいました。
私はいくつかゲームで遊んだ後で、易しいレベルからいくつか算数の問題を出していきました。そして終いには、その学年相当の『概数』の問題を出しました。
虹色教室で『概数』を学ぶ場合、ラミィキューブというゲームの数のプレートを色画用紙で作った枠組みに置きながら考えていきます。
しっかり解こうという意志があれば誰でも解けるように工夫していますが、
知的には少しもハンディーがない子でも、「難しい!そんなの習っていない」と集中力のない態度で臨めばいつまでも覚えることができません。
その男の子は、知的なボーダーライン上にいる子で、概数の理解はかなり難しいように思えました。
それが、「やってみる!」と言って、必死になってやっていたので、
2、3度間違えた後は、しっかり解けるようになっていました。
1回だけ見させていただく約束のレッスンだったので、その子と親御さんに会ったのはその1回きりです。
でも、私は自己肯定感について考えるたびに、その子のことを思い出します。
次回に続きます。
の記事で、
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子どもにすると、そうして自分の気持ちに決着をつけるのは大変なことです。
それにも関わらず、その瞬間にお母さんが、
(Aくんに対して怒っているわけでもないのに)
「それなら持って帰るのをやめておいたら?」と提案したのを聞いて、
こうしたやりとりの流れが、いつもあたり前のように
Aくんと周囲の大人との間でで展開しているのではないかと感じました。
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「こうしたやりとりの流れ」というのは、大人の側の頭のなかには、
最初から最後までAくんの考えや気持ちというものを想像して、
理解したり認めたりするスペースは存在しておらず、
大人側の正しい意見や意向に、少ない衝突で従わせていくことだけがある場合の
やりとりのことです。
こうしたやりとりの流れは、どんなに子ども思いの親であっても、
むしろ子どもへの思いが強く「あれもしてあげたい、これもしてあげたい、
少しでも能力を上げてあげたい、少しでもよい環境を与え、
よい時間を過ごさせてあげたい」という望みが強いほど、ありがちな展開です。
先日もこんなことがありました。
牛乳パックで車を作ることを繰り返していた1年生のBくんが、
車を作る作業に自信をつけて、「次は自分も乗れる大きな車が作りたい」と言いました。
「本物の車と同じように、車のなかにはちゃんとエンジンがついていて、
ドアをあけたりしめたりできるようにしたい」と。
これは大きなチャレンジです。大きいものを作るのは小さいものを作る以上に
さまざまな作業をやりぬくエネルギーが必要です。材料集めも簡単ではありません。
思わぬアクシデントも起こります。
それでも、Bくんの今回のチャレンジにかける思いは強くて、
これまでにないほど凝った作品ができあがりました。
わたしが「大きい作品だから持って帰れないかもしれないよ」と注意していたので、
コンパクトに折りたたむことができるよう試行錯誤を続けていました。
そうしてやっとのこと作品を完成させたのですが、
残念ながら作品を持って帰ることはできませんでした。
Bくんは涙ながらに、「どうしても持って帰りたい」と訴えていたのですが、
お迎えにきたお父さんに
「持って帰るのも難しいし、家に置くスペースもないから」と説得されていました。
子どもの日々には、心の底から切望しても
断念しなくてはならないことがしょっちゅうあります。
それ自体は仕方ないし、そうした経験が子どもを成長させもするでしょう。
Bくんのお父さんの説得も、Aくんのお母さんの説得同様、
常識的な正しい内容でした。
ただ、わたしの心に少し引っかかったのは、Bくんの大きな車を目にしたお父さんが、
Bくんの「持って帰りたい」の言葉も耳にしたとたん、
Bくんのがんばりをねぎらうことも、Bくんがどんな思いでコンパクトに
折りたたむ努力をしていたかも作品の精巧さに感動することも忘れて、
困った顔をして説得し続けていたことです。
その場では、ただただBくんが大人の「持って帰れない事情」に
納得することだけが優先されていました。
最終的には「持って帰れない」としても、
それは子どもの気持ちや思いを無視していいことにはつながらないはずです。
AくんもBくんも周囲の気持ちに敏感な繊細で優しい性質の子です。
こうしたタイプの子を相手にする場合、
大人が極力注意しなくてはならないポイントだと考えています。
とはいえ、Bくんはこのくらいのことで、
「自分に自信がない、自己肯定感が低い」という心の状態には
ならないように思いました。なぜなら、Bくんはこれまで、
「周囲が望むこと」よりも「自分がやりたいと思うこと」を大事にされてきた子で、
自分の興味を出発点に遊び込む体験をたっぷりしてきたからです。
前回の記事にこんなコメントをいただきました。(もとのコメントは非公開にしているものですが、子どもの名前の部分以外は公開することを許していただいているので紹介します)
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以前保育園の保護者の方の様子を見て、子供の要求と保護者の希望を混同している
保護者が多かったこと、さらには大人の希望のみで子供の要求に
気付いていない保護者が増えてきたと感じているとコメントでも書いたことがありましたが、
どうしてそんなことを感じたかと言うと、自分の軌跡だと気付いたからだと思うのです。
同様に、この一連の“自分に自信がない、自己肯定感が低い子”の記事を見て、
このAくんもお母さんも両方とも私であると感じました。
最近も、自分と他人との境界について考えることがありますが、
私は子供の頃、他人の気持ちに敏感であるために、自分の
考えがわからなくなっていたのかなと考えています。そのまま成長し
、合理的な考えでしか判断できない大人になっていたのだと考えています。
大人になるにつれて他者の気持ちを優先しなくても良いようになったから
楽になったようでいて、自分のこともわからないままだったため、
なにか軸のようなものを見失ったまま、生きている実感がないような感じでした。
自分の子供がうまれたとき、久しぶりに他者の気持ちと通じる必要が出てきたけど、
すっかりその他者と通じる感覚を忘れていました。
もちろん自分というものも見失ったままだったので、子供がもっと小さい頃は、
合理的な考えや浅い部分で感じる自分の欲求と子供との関係をバランス
ゲームのように築こうとしていたのかなと考えています。子供がそれで問題なく育てば良いけど、
うちの子供たちは、敏感さをもつ、他者との境界があまりはっきりしない子供たちだったから、
押し付けがましい周囲の考えはどんどん子供たちの内面に流れていくけれど、
子供自身は自分の欲求と折り合いをつけないといけなかったから
だったからしんどかったでしょうね。それで色々問題が起きたのかなと
考えています。そこではじめて、子供がなにを考えているか、問題がどうしておこるのか、子
供のことを知りたいなと考えるようになりました。
ひたすら育児書などをみたけど私の知りたい答えは見つかりませんでした。
結局子供を知る、感じることができるようになってきたきっかけは、
自分をみつめたことでした。自分の感情に相反するものが存在すること(両義性)と、
子供の頃の自分にあったもの(先生の娘さんたちが起こした会社の面接など)
を見つけたことでした。子供との関係で、自分のなかに絶対的な善悪や基準など
の境界がなくても良くて、色々な状況に応じてフレキシブルに動きうる、ファジーさ
を残した境界があれば良いのだと実感したことと、子供のころの自分と
目の前の自分の子供が同じであり、子供という存在の普遍性を感じたことによって、
子供と自分にバランスのよい境界をつくっていこうと考えることができたのだと思います。
子供たちのお陰で、これからも子供の頃に失ったままだった自分を
見つけられるのではないかと思っています。もしかしたら、
子供の頃に見失ったからこそ、見つけられるものがあるのではないかなと予感しています。
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何度か紹介させていただいている『マイコー雑記』というブログで
という記事を読みました。
この数年、密かに抱えていた悩みを解決する糸口を見いださせて
いただいく内容でした。
悩みというのは、こうしたことです。
わたし自身は教室で子どもたちと驚いたり感動したり
わくわくする気持ちを探究したり真剣に考えをめぐらせたりして、この記事にある一次体験というものを
どっぷり堪能した後で、そこから生まれた気づきや知恵やアイデアを言葉にして伝えています。
でも、そうして一次体験の先にあるものを目にすることで、受け取る親御さんのなかには、
マイコーさんの記事にあるように、体験を子どもが味わう間もなく、「これを機会に学ぼうモード」に
なってしまう方がいらっしゃるのです。
それはまだいい方で、ちまたでは、一次体験をすっとばして、二次・三次情報だけで
子どもの環境を作ってしまおうとする動きもあります。
ブログを読みやすくする意味で、「○○する方法」というタイトルで記事を書くことも
あるのですが、本当は、子どもが生きていることを実感できるような一次体験が土台にあって、
その体験をより豊かな実りあるものにするための工夫を言葉にするつもりが、
読み手に伝わる時には、本末転倒して、「○○を習得させるという目的のために、子どもに
こういう体験をさせる」という形に変形してしまうことも多々あるのです。
前回までの記事で、大人の目線で子どもの体験を眺めることについて書いてきましたが、
それは言い換えると、「子どもが一次体験を堪能する」ことの軽視とも言えます。
また、コメント主さんのおっしゃる
「子供の要求と保護者の希望が混同されること」や「大人の希望のみで子供の要求に
気付いていないこと」とも言えるのかもしれません。
親のみならず子どもに関わる専門職の方や、
子ども思いの気持ちの優しい親であっても、自分がしらずしらずそのようにふるまっていることに
気づかないほど、そうした関わり方が多数派になりつつあるのを感じています。
常識的な配慮だと思いながらも、
Aくんとお母さんのやり取りが心に引っかかったのは、お母さんはどこまでも
大人の目線でAくんの体験を眺めていたところなのかもしれません。
少しの間でもAくんの目線まで降りてみたら、やりたいことがあれもこれもあって、
やってみたらうまくできた喜びに満たされて、
もっとすごいことができそうだと予感して
いいものも見つけたし、やってみたいアイデアもあるし
ちょっとアクセルを踏み過ぎちゃったほど心が自信で膨らんでいたのだということに
気づいたかもしれません。
ですからら、たとえ、今回、「それは教室の大事なものだから持って帰れないよ」と
伝える状況だったところで、
まず、「いいもの見つけたね~」「それで作るもの思いついたの?どんなもの?」と
興味を抱いてたずねたり、自信がついてあれこれやってみたくなっている心を
励ますような代替え案を用意したりできたはずなのです。
先の記事で、Aくんは、
「誘う→
いやいや参加する→
すぐに飽きて別のことを始める→
しばらくすると戻ってきて、最初の活動(特に工作)がやりたいという→
自分なりのアイデアや「こういう風に作りたい」「これが作りたい」という→
そうして自分発でやりたがったことは最後まで熱心にやり抜く→
「もうひとつ作りたい」「これもやってみたい」と次にやりたいことに思いが膨らむ」
という参加の仕方をしていたという話を書きました。
こうした姿を大人の目線だけで捉えていると、
大人側が意図している活動への誘いにスムーズに乗るかどうか、
それに一定時間、取り組めるかどうか、のみに注意が向きがちです。
カリキュラムがかっちり決まっている園でも、
集団で同じ課題に取り組ませる時の反応だけ見て、子どもの意欲や集中力のあるなしを
判断してしまうのかも……と感じています。
話が途中ですが、次回に続きます。
Aくんのお母さんは優しい子ども好きの方です。
「周囲のお友だちがしっかりしていて……」と相談しておられたものの、
Aくんの個性をおおらかに見守っておられます。
レッスンの帰り際に、「ふたつ筒が持って帰りたい」というAくんに対して
「ひとつにしておきなさい」と諭すことは、ごく普通の常識的な配慮でした。
他の子らは持って帰っていなかったし、
教室で使う備品だということは一目瞭然でしたから。
今回は、わたしが「持って帰っていいですよ」と言ったからいいものの、
持って帰ったらダメな場面も多いでしょうし、ふたつもひとりで取ったら
他の子が困るということもあるでしょう。
だとしても、帰り際のお母さんとAくんのやり取りには
ちょっと気になる点もありました。
Aくんは人の気持ちを察知する繊細な性質の子です。
意気揚々と「ふたつ持って帰りたい」と言っていたAくんが、
優柔不断なぼそぼそしゃべる態度に変化していったプロセスでは、
大人の強い口調も厳しい表情も必要ありませんでした。
ただ何となく大人は自分の主張を面白く思っていないらしい……
自分の言い分は間違っているし、価値がないようだ……という雰囲気が
Aくんの気持ちに浸透していくなかで、Aくんは、「ふたつ持って帰りたい」
という主張を「ひとつでいい」に変えました。
子どもにすると、そうして自分の気持ちに決着をつけるのは大変なことです。
それにも関わらず、その瞬間にお母さんが、
(Aくんに対して怒っているわけでもないのに)
「それなら持って帰るのをやめておいたら?」と提案したのを聞いて、
こうしたやりとりの流れが、いつもあたり前のように
Aくんと周囲の大人との間でで展開しているのではないかと感じました。
次回に続きます。
「園のお友だちがみなしっかりしているせいか、何をするのも自信がない様子です」
という相談をいただいていた年中のAくん。
集団での活動にうまく参加できないことが多々あるようで
園の先生から指摘を受けているという話でした。
虹色教室に着いてしばらくの間、Aくんはゲームや工作に誘うと
尻込みして「うーん」「できない」とつぶやいて
もじもじしていました。興味を持ってやりはじめても、少しでも手間取ると、
お母さんや周囲の評価をうかがうような視線を投げて、
スーッとその場を離れていました。
仲のいい友だちがみんなひらがなが書けるので、
「Aくんひらがな書けないの?」「Aくんできないの?」とたずねるそうで、
ひらがなを見るだけで顔をひきつらせて、強い拒否反応を示していました。
最初のうち、活動に誘いかけても乗り気ではなく、ちょっと参加すると興味を失って
うろうろしていたAくん。でも、いっしょに時間を過ごすうちに、
それまで見聞きしていたAくんの姿とは別の一面が見えてきました。
誘う
▼
いやいや参加する
▼
すぐに飽きて別のことを始める
▼
しばらくすると戻ってきて、最初の活動(特に工作)がやりたいという
▼
自分なりのアイデアや「こういう風に作りたい」「これが作りたい」という
▼
そうして自分発でやりたがったことは最後まで熱心にやり抜く
▼
「もうひとつ作りたい」「これもやってみたい」と次にやりたいことに思いが膨らむ
レッスンの間に、Aくんは知的な課題にも熱心に取り組みたがるようになっていました。
帰り際、こんなことがありました。
次第に積極的になって、
「あれが作りたい」「あれもこれもしたい」と言っていたAくんが
教室にあった筒を見つけて、「これで作りたい」と言いました。
「教室は終わりの時間だけど、その材料は持って帰っていいよ。
袋に入れてあげるから自分で持ってね」と言うと、Aくんは筒を手にはめてみて、
ああしようかな、こうしようかな……と自分の思いつきを興奮した口調で話しながら、
「ふたつ持って帰ってもいい?」とたずねました。
Aくんに「持って帰っていいよ」と答えたのですが、
Aくんのお母さんは恐縮した様子で、
「ふたつはやめておきなさい。ひとつだけ」とAくんを説得していました。
「いいですよ。作りたいものがあるようだし。帰りに荷物にならなかったら、
どうぞ持って帰ってください」と言いました。
「ひとつにしなさい」とお母さんに何度諭されても、Aくんは、
「ふたつとも持って帰って、こういう風にして作りたい」と熱心に言い続けていました。
普段、やりたいのかやりたくないのかはっきりしない
遠回りな意思表示が多いAくんにすると、本気さが見える瞬間でした。
が終いに、教室に着いた時見せていた、優柔不断で自分に自信がないような
態度に戻って、もごもごと口のなかでつぶやくように「じゃぁ、ひとつでいい」
といいました。いかにも不満そうです。
でも、自分の言い分を通すほどの熱意もなさそうです。
すると、それを見たお母さんが、「じゃあ、持って帰るのやめておいたら?」と、
提案しました。
お母さんとしたら、グズグズ聞き分けがなかったAくんが
ひとつ納得しかかったところで、ここは、大人の言うことをちゃんと聞いてくれそうな
チャンスだと感じたのかもしれません。
引っ張りますが、次回に続きます。