虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

「魔の2歳児」落ち着かせる方法

2022-11-06 15:08:46 | 子育て しつけ

★かんしゃくを起こしてばかりの「魔の2歳児」  落ち着かせる方法

『ナチュラルな子ども時代』(産調出版)という本によると、2~3歳児というのは、爆発的に意志が発達する時期なのだそうです。

だから、かんしゃくをしょっちゅう起こすんですね。

自意識が発達するにつれ、ここにいる「自分」と自分に脅威を与える「他人」がいるという状態になります。

「自分の意志」と「他人の意志」の対立に気づきます。

子どもの「意志の力のエネルギー」はとても激しいものです。

どんなに辛抱強くて理解ある親もついていけない…それが「魔の2歳児」(3歳の間もしっかり続く子も…)です。

この困ったおちびさんに、どう付き合えばいいのでしょう?
どうすれば、かんしゃくはおさまるのでしょう?

まず親は、この困ったちゃんぶりが、いつまでも続かないことを知っておかなくてはなりません。

4~5歳になると、「意志」は「創造的な遊び」という新しい方法で表現されるそうです。

それとわがままに見えても、愛情とサポートをたくさん必要としている幼児であることを片時も忘れるわけにはいきません。

かんしゃくを起こりにくくしたり、しずめるには、子どものエネルギーの出口を見つけ、積極的にそこにエネルギーを向けるように仕向ける必要があります。

わが子が2~3歳のころ、私が見つけたエネルギーの出口は、

・水遊び

・ころころ転がる遊び

・ふざけっこ

・豆の移し変えや砂遊び

・適度な散歩

などです。

本で紹介されていたのは、長靴をはかせて、水たまりでばしゃばしゃさせる、草の上で転げまわらせるなどです。

それでも、2~3歳の子どもはかんしゃくを起こします。

うちの子も、食事が気に入らないことからはじまって、作り直させたあとで、ひきつけを起すほど泣いていたことがありました。

幼稚園に上がるまで、夏の間は、毎日2回水遊びをさせていました。

水遊びは危ないので、注意してそばについていなければなりませんが、適度な疲れが、2~3歳児の激しいかんしゃくをしずめるのには効果ありますよ~♪

想像力を刺激する遊びを教えていくと、かんしゃくばかりの時期を早めに卒業するようです。


子どもが言うことを聞かなくて困るときに 2

2022-09-19 10:44:19 | 子育て しつけ

3歳までと、3歳~を年齢でバシッと線引きできるわけではないのですが、3歳までの子の「言うことをきかない」と、3歳以降の子の「言うことをきかない」は、少しわけて考えた方がよいかと思います。

3歳以降の子は、集団の場などではとても上手に過ごせるのに、お母さんや親しい人をたたく、大人をにらみながら反抗するという子がいます。
この、一方では非常に良い子で、あるとき、「わがまま」と見える態度がある子は、大人をたたいたり反抗したりしているときに、同時に大人に強く甘えたがっている子が多いと感じています。

「園ではおりこう、お母さんには反抗的」という子を教室でお預かりしていると、最初は良い子すぎ、次に私をたたきはじめ、しまいに私のひざにのったり、抱きついてきたりしてべったり甘えていて、最後に、良い子すぎでもなく、反抗的でもないその子らしい明るい笑顔を見せて遊び始めます。

このごろは、3歳から幼稚園に入園している子もたくさんいますから、3歳の子が、小学生並みの「しっかり」を求められている場合がよくあります。

この時期の子は、どんなにしっかりしている子でも、赤ちゃんの頃と同じように抱っこされたり、さまざまな義務を大目に見てもらったりして、幼い子としての扱いも十分受けていないと、ひねた反抗的な態度になっていきます。

3歳以上の子が甘えてきたときは、「あれ~赤ちゃんみたい」「恥ずかしいな~」などと子どもをからかうようなことを言わず、愛されていることがしっかり伝わるように、ぎゅっと抱きしめてあげると、自然と自分から離れていくようになりますよ。

3歳以上の子で、「おもちゃを貸してあげなさい」と言っても、「いやだも~ん」と言いながら、他のおもちゃまで全部自分のものにしてしまったり、お友だちを威嚇して、自分の思い通りに事を進めようとする子がいます。
大人が叱っても平気で、悪者にあこがれているような言動が目立つ子がいます。
こうした子は、自分に自信がない子、自分に過剰に自信がある子の2タイプがあると思います。
自分に過剰に自信がある子の場合、その強さやパワーへの憧れを、正義感につなげるようにしつけていきます。

★やんちゃくんをどうしつけたらいいでしょう?
★やんちゃくんをどうしつけたらいいでしょう?2

自分に自信がなくて、わがままが過ぎる子には、悪い場面で子どもを注意するのを控えて、しっかりできているときに着目して、十分褒めて、自分に対する肯定的なイメージが抱けるように働きかけます。

3歳までの子が感情にのみこまれていたのと異なり、3歳以上の子は、感情にのまれながらも、成長したい思いも同時に抱いていて、良い子と悪い子の間を揺れています。

成長したい思いが強いから、思うようにいかないジレンマでごねているとも言えます。
また、「あれもしたい」「これもできるようになりたい」という思いが増えた分だけ、不安や挫折感も強くなりますから、たっぷり甘えてエネルギーを充電する必要があります。

3歳~4歳前半の不安定な時期を上手に越えると、光輝く4歳児と名づけられるような時期が訪れますよ。


子どもが言うことを聞かなくて困るときに

2022-09-14 08:57:28 | 子育て しつけ

子どもの性質によって兄弟姉妹でも雲泥の差があるものの、子育て中の誰もが、子どもが言うことを聞かなくて困るという体験をしたことがあるのではないでしょうか?

叱る、見守る、我慢する、言い聞かせる、罰を加える、「おばけがくるよ」「こわいおじさんがくるよ」とおどかす、

子どもがこわがっている人物に叱ってもらうなど……家庭によってさまざまでしょうが、どの方法が良くて、効果があるのか悩むことと思います。

言うことを聞かない、かんしゃく、泣き叫ぶ、がんこ、ごね続ける、お友だちのおもちゃを取る、たたく 噛む 危険な場所で走り出すなど、子どもの「困った」態度はさまざまです。

私の場合、子どもの年齢によって、対応を分けるようにしています。

<3歳までの子の場合>

1歳、2歳の子は、自分の感情のコントロールが上手にできません。

また、自分の中にたまった「いやな感じ」を言葉でうまく表現できないし、自分で納得することもできないので、とにかくギャーギャー言ったり暴れたりすることで外に出そうとします。

ですから、大人からすればありえない設定でごね続けることもよくあります。

出かける時間に「行かない」と泣き続ける、全てがいや、理由なくかんしゃくを起す(おそらく眠い、疲れた)

大人が「こうすれば?」「これならどう?」とさまざまな説得を繰り返しても、一度、走り出した感情は、子ども自身にもブレーキをかけることができないのです。

3歳までの子の場合、子どもがこだわっている内容で説得させよう、わからせよう、納得させようとするよりも、まったく別の目新しい切り口で、新しい気持ちを作り出した方が事態を収拾しやすいです。

「靴はかな~い!!」に、「靴はきなさい!」で対応するのでなくて、「靴はかな~い」に、「靴はきたくないのね。おててにかわいいシール貼っておでかけしようか? どのシールにする?」とたずねる形で返すのです。

すると、はきたくないという負の気持ちが、シールを選ぶという楽しい気持ちに入れ替わるので、その後は、いい気持ちに誘導されて素直に靴をはくことが多いです。

いつも物で吊るのはよくありませんから、「ハンコをポン」と手に押すまねをしたり、持って行く予定のハンカチを選ばせたりするのも、一つの方法です。

それでも、ごねつづけたい場合、時期的なものや、眠い、疲れたなど体調もありますから、この時期の子は「ごねるもの」と割り切って対応することも大切です。


怖いもの知らずで聞き分けのない2歳児。強く叱った方がいい?

2022-04-16 20:00:00 | 子育て しつけ

怖いものしらずで、聞き分けのない2歳3カ月の☆ちゃん。

そうした相談をママ友や祖父母にしたところ、

「まだ2歳だから言うことを聞かないのは当たり前。いちいち怒る必要はない」というアドバイスと、

「昔のように怖い人がいないから、大人の言うことを聞く気がない。もっと大きな声で厳しく叱った方がいい」

という正反対のアドバイスを受けて、どう接したらいいのかわからなくなったそうです。

 

叱られても知らんふりするか、笑い声をあげるかして、悪さを続ける☆ちゃんに対して、怖がらせるほど強く叱った方がいいのか、危ないことをしたときには体罰を加える必要もあるのか、まだわからないのだから、抱きしめて気をそらしてやればいいのか、迷っていたのです。

 

そんな相談をうかがいながら、わたしは☆ちゃんと☆ちゃんのお母さんと連れだって公園に遊びにいきました。

そうしていっしょに過ごすうちに、☆ちゃんのお母さんが叱り方に悩んでいる理由がよくわかりました。

というのも☆ちゃんは、道路で車が通りかかったとたん、突然、手を振り払って車の方に走っていこうとしたり、他所の家の郵便受けを開けることとか、汚いゴミを触ることとか、どうしてもやめさせなければいけないことばかりしたがる上、それにしつこく固執するところがあったのです。

抱いて連れて行こうとすると、反り返って激しく抵抗します。

アスレチック付きの滑り台にのぼっていく際、小学生のお兄ちゃんたちが滑り台の前のスペースでカードゲームをして遊んでいたのですが、ひるむことなくお兄ちゃんたちの輪のなかを横断すると、滑り台に上についている鉄棒にぶらさがりました。

その後、滑り台をいきおいよく滑ってきて、何度もそれを繰り返しました。

 

言葉でだけ説明すると、

「2歳児はまだものがわかっていないから、そんなの当たり前」

と言えばおしまいなのですが、どうも☆ちゃんには一般的な2歳児とは微妙な点で異なる面があって、☆ちゃんのお母さんを悩ませていることがわかりました。

それは「危険に対する警戒心のなさ」「危険そうなものに惹かれてこだわる傾向」といったものです。

 

「危ない、ダメ!」と強い口調でストップをかけたにも関わらず、子どもが突然、走っている自転車に近づこうとしてヒヤッとする……といった出来事が重なると、大人が大きな声で「ダメ!危ない!」と注意したら、ストップできるようにだけはさせておかなくちゃ、怖いものがないから言うことを聞かないのだから普段からこの人は怒ると怖いよっとわからせておかなくちゃ、と思うようになる気持ちはわかります。

また、☆ちゃんのように、わざわざ触って欲しくないものにばかりこだわったり、他人に迷惑をかけることをしつこくやりたがったりする場合、「怖がらせておかなくちゃ」という気持ちがだんだんエスカレートして、2歳児相手に一日中、怒り続ける行為にもつながりがちです。

 

☆ちゃんのようなタイプの子にはどのように接するのがいいのでしょうか?

☆ちゃんを見るうちに、叱ったり、怖がらせたりするより、先にするべきことがあるように感じました。

わたしが気になっていたのは、☆ちゃんのお母さんを求める気持ちの薄さです。

 

☆ちゃんは誰にでもすぐ甘えて人懐っこい半面、お母さんと他の人のちがいがわかっていないようにも見えました。

そのためか、転んだり、軽いけがをするような場面で、泣いてお母さんに甘えるのではなく、一瞬、泣き顔になって、放心したように突っ立っていたかと思うと、たちまちケロリとして動きだすことがたびたびありました。

痛みや不快な体験に対する鈍感さのようなものも感じました。

暗い部屋にひとりでスーッと入っていって遊んでいたり、ちょっとこれは危なそうだぞ、という人や場所にも躊躇せずに近づいたりする姿も目立ちました。

 

わたしには、☆ちゃんの問題は、厳しく叱る大人がいないため怖い物がなくて危険なことをするというより、人見知りをする時期の子が他人に見せる警戒心のようなものの足りなさや、「怖い」とか「不安」といった感情に対する鈍感さにあるように感じました。

そこで、☆ちゃんのお母さんに、☆ちゃんが、「お母さんじゃなきゃだめ。お母さんが一番好き」と感じるくらいたくさんスキンシップを取って、☆ちゃんにかかわるように勧めました。

 

また、日常の小さな体験を☆ちゃんの目線でいっしょに味わいながら、「そうっとそうっとね」とか「痛い痛い」「怖い怖い」など、感情を言葉やジェスチャーで表すようにもしました。

身体が固くて、背中を触られても気づかないような鈍感さが気になったので、ごろごろ転がったり、ピョンピョン飛んだりする遊ぶなど、感覚を統合する遊びを増やすことも提案しました。

 

それから2週間後、わたしを見るとすぐにだっこをせがんでいた☆ちゃんが、少し固い表情でわたしを見上げました。

そして、お母さんには何度も笑いかけながら、抱きついていきました。

 

そんな風に、お母さんが一番、他所の人はちょっぴり怖い……という人見知りに近い態度が出てくると、気になっていた鈍感さが、目に見えて減っていました。

まるで耳が聞こえないかのように振舞うことも多かったのに、呼ぶとパッと振り向いたり、「それ、ちょうだい」と指さして指示すると、ちゃんと指さしている先のおもちゃを取って渡してくれるようにもなりました。

「怖いね、怖いね」とか「どうしよう、どうしよう」など、感情をいっしょに味わうのも上手になって、おそるおそる覗きこんだり、怖がる真似をしてキャッキャッと笑い声をあげるようになってきました。

 

そんな風に、いろんな感情を感じとりやすくなってくると、危険なものに出会うと、ちょっと振り向いて、お母さんの表情をうかがうようになってきます。

そうした☆ちゃんの変化を見て、愛着の薄さが感じられるときに、叱って怖がらせて、さらに愛着がつきにくい状態にしなくてよかったとしみじみ感じました。

 

強く叱るべきかどうか迷ったときには、まず子どもの様子をていねいに観察してから、接し方を決めるといいですね。


子育ての悩みから抜け出すための あれこれ

2022-01-14 22:33:47 | 子育て しつけ

子育ての迷いや悩みが答えを出せないまま堂々巡りし続けているとき、

ちょっとした枠組みを作ってみることで、解決しやすくなることがあります。

 

悩んでいるときというのは、

心が気にかけている「そのこと」に一点集中していますから、

一つの明快な答えを求めて真っすぐ真っすぐ、悩みを追いかけているものです。

でも、子育ての悩みって、機械ではない人間相手の困りごとですから、

「線」で対応するより、最初からズレやブレを想定した枠で囲った「面」で

対応したほうがうまくいきやすいのです。

 

たとえば、子どもが何をするのも、「ママ、やって!」と頼り気味で、

ぐずぐずだらだらして覇気がないことを悩んでいるとします。

「線」悩んでいると、注意してもダメ、叱ると泣いて余計にぐずぐずする、

褒めておだてても依存するばかり……もっと構ってあげればいいのか、

もっと厳しくすればいいのか、これまでの対応がまずかったのか、

迷いと悩みは深まるにつれて、親ががんばればがんばるほど、子どものダメなところが

目についてくる……ということが起こりがちです。

 

そこで、いったん「線」で考えるのをやめて、

ざっくりと枠を作ってみることにします。

 

 枠のサイズを決めるのに、数ヶ月前までの過去を振り返って参考にします。

すると、「弟や妹ができた」とか「家族が入院した」とか「引っ越しした」

「保育園に行き始めた」「クラス替えがあって担任が変わった」

「父母が言い争うことが多かった」など、

子どもにとったら衝撃的で不安でたまらなくなるような出来事が

思い当たることがあります。

 

小学生でしたら、「クラスの仲良しグループに入れてもらえない」

「勉強がさっぱりわからなくなってきた」

「厳しい担任になって、他の子が怒鳴られている時もビクビクしている」といった、

親には見えにくい学校内での変化に伴う戸惑いもあるはずです。

 

子どもにしたら手に余るような事態だったはずなのに、

どうしていたかな……と思いを巡らすと、

「ちょっとおとなしいな」「下の子をかわいがっているな」

「ボーッとしていることが多いな」くらいで過ごしていたことに、

気づくかもしれません。

 

そんな場合、遅ればせながら、

「これからしばらくは覇気のないだらだらぐずぐずする時期」が続いて、

 「出来事を受け入れる元気が出てくるころから

泣いたりわがままを言ったり、赤ちゃん返りをしたりして、周囲を困らせる時期」が

くるだろう。

 「子どもの精神的な成長に関わる」のはそれからでいい……

 と、時間軸をざっくり区切っておくと、成長を支えやすいです。

 

というのも、そんなふうに生活が変化したり、普段通りでない出来事に遭遇したあとは、

大人も知らず知らず不安を抱えがちなので、子どものダメな部分が目につきやすい

ものなのです。

そのせいで、近視眼的になったり、感情的になったりりして、

子どもの不安をあおって、困った行動を誘発したら、元も子もありませんよね。

 

「ちょっと気になる」程度の成長の遅れを

子どもの将来を悲観するほどオーバーに悩むこともあります。

他の子のようにできないことがあると、それがちょっとしたことでも、

子どもは子どもでジレンマを抱えたり、不安を覚えたりしているものです。

つまり、心にかかった負荷を消化するそれなりの時間が必要なのです。

そうでないと、がんばる気持ちにスイッチが入らないですから。

子どもは感情を持たない機械と違って、

いくら大人の気持ちが急いていて、今すぐにでも、子どもの遅れを埋める

あれやこれやの対策を打ちたいとあせってみても、

必要なものを飛ばせば、結果的には、ゆっくり対応した場合の何倍も時間がかかることに

なるかもしれません。

 

子どもがさまざまな現実を受け入れて乗り越えていくチャンスと時間を奪ってしまうと、

子どもとの関係がどんどんこじれてきて、

解決しようのないような問題に発展することもあります。

 

枠組みを作るということは、気になる問題を放置したり、

問題があるのに「ない」ものとして否認することではありません。

子どもは人間で、親も人間であることを前提にして、

子どもの側が自分の感情を封じたり無視したりしないように、

大人の側が自分の不安や恐れに基づいて、子どもに関わることがないように、

そのせいで問題をこじらせて悪循環に陥らないように、

ストッパーとして働くような枠を作っておくという生活の知恵のようなものです。

 

子どもの心が自ら成長しようとする自然なプロセスを大事にすると、

問題を安全にスムーズに解決していくことができますよ。

 

以前、何度注意しても、学校の持ち物の管理がいい加減な小学生の男の子の

ことで悩んでいる方から相談を受けたことがあります。

 

「必要なものをかけておくだけでいいように環境を整え、

畳みかけるように言い聞かせ、

本人自身、管理がいい加減だったため何度も痛い目にあっているというのに

直す気配がない。

反省の色もうかがえない。

どうしたものか。

放っておいたら自然にできるようになるようなら、見守りたいものだけど、

そう甘くはいかないのは承知している。

子どもの良い面は十分理解しているし、認めてもいる。

こんなふうに子どもの問題ばかり気にかけているのはどうかと思うし、

自分で自分のしていることにうんざりしてしまうけど、注意せざるえないし、

気にせずにはいられない」というお話でした。

 

ADHD,ADD気味のうちの家族の姿を思うと、大いに耳が痛い内容。

 

「注意欠如の特性は、本当にあなどれないから

意志の力と努力で簡単に克服できるわけでないし……」と思いつつ、

こんな話をしました。(いくつかの会話をまとめています)

 

「わたしも今だに物忘れやミスがひどいですから、

そんな親に育てられているうちの子たちは遺伝もあるから、

Aくん(相談者の息子くん)と同じように生活のごく基本的なことが呆れるほど

何度言ってもできるようにならない……というところがありました。

 今も一般的な基準からすると、ダメな面がずいぶん多いはずですけど、

欠点を持ちつつ、仕事先で大事な役を任されたり、友だちと創造的な活動をする

よい関係を作りあげたりして、それなりに何とかやっています。

 

二人とも自分の欠点への向き合い方とか失敗の受け止め方とか

自分に合う場を見つけるのが上手いな、と思います。

自分に合う場がなければ自分で作ってしまおう……というところすらあります。

 

わたしが娘や息子の年齢だった頃と比べると、わたしの場合、失敗すると

自分はダメだ……ダメだ……と自虐モードに入って、起こった事実を正確に把握する

勇気が持てないために、何度も同じ失敗を繰り返すことがあったけれど、

うちの子たちは、失敗が続いたからといって自分たちを欠陥商品だと思わないし、

素直に自分の失敗を見つめて、それを言葉にしながら

悩んだり反省したりすることができる点が頼もしいなと思います。

それができるからこそ次の対策を練ったり、解決を図ったりすることに

つながっているのもわかります。

 

ですから、何でもきちんとこなせるテキパキとした子に育て上げる方法は

何も言えませんが、反省していないように見える状態から、

現実に起こることを自分の問題として責任を持って引きうけていけるように

後押しする方法ならいくつかアドバイスできるかもしれません。

 

 


「子どものころにどんなふうに育てられたかが、その後の人生を決めている」という言葉 3

2018-08-10 11:57:51 | 子育て しつけ

過去記事です。

 

小1の子たちの作品。「カップ式のジュースの自動販売機」

3人で協力して作っていました。

 

『学びの物語の保育実践』 (大宮勇雄 ひとなる書房)

という著書で次のような

興味深い話を目にしました。

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アメリカのキャロル・ドウェックが「学びに対する内発的な意欲」の姿を明らかにする

ためにこんな実験をしました。

4歳児に4題のパズルを解かせ、最初の3題は

4歳児には難しい全員解答不能となるものにし、

最後の1問は全員が解ける結果になる

ようにしたそうです。

 

それが終了した後で、やったパズルのなかでどれか一題を自由に選んで

もう一度解答するように促します。

すると、解けなかったパズルを選ぶ子と

全員が解けたパズルを選んだ子にほぼ半々に分かれる結果になりました。

 

次にそれぞれの子になぜそのパズルを選んだのか理由をたずねました。

 

すでに解答できたパズルを選んだ子は、「簡単」「できるから」「失敗しないから」といい、

むずかしいパズルを選んだ子らは「くやしい」「こっちの方がおもしろい」「時間があれば今度はできるはず」

などと答えたのだとか。

 

こうした選び方には困難な課題や解決法がわからない事態に対する

各人の立ち向かい方の傾向が現れているとドウェックは言います。

 

簡単なパズルを選んだ子どもの場合は、「正答できるという結果」を求めて

行動しているので、こうした立ち向かい方を「結果志向」と名づけています。

 

他方、後者の子らは困難や不確かなことに挑戦することそれ自体が

おもしろいこと、価値あることと考えています。

人間は一段難しいことにチャレンジするなかで、はじめてさまざまなことを学んでいくものですから、

このような子らは知らないうちに「学びと成長」に向けて行動しようとする

能動性が育っているといえます。

この立ち向かい方を「学び志向」と名づけます。

このふたつの志向はだれしも持っているでしょうし、どちらも必要でしょう。

 

しかし、学び成長する機会、すなわち難題や新しい事態に直面したときに

「結果」と「チャレンジすること」のどちらに重きをおいて行動をきめるかは個人差があり、

それが普段の行動に影響を与えているようです。

ドウェックが、難しい問題を解くときにどんな気持ちか話しながらやってもらう実験では、

結果志向の子は「とても解けそうもない」と悲観的な見通しを口にすることが多く、

学び志向の子は「きっと解けるよ」と楽観的な見通しを持っていたそうです。

                  『学びの物語の保育実践』 (大宮勇雄 ひとなる書房)の一部を少し短くさせていただいて引用しています。

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「結果志向」は、大人が子どもを褒めたり、失敗を責めたりする

「評価的対応」をすることから生じるようです。

 

「結果志向」の子は、友達が小さな失敗をすると、強く非難し、

「学び志向」の子は、友達の失敗を目にすると、その原因と解決法をその子と

いっしょに考える行動を選ぶのだとか。

 

その部分を読んで、虹色教室でグループレッスンを受けている子らは

「圧倒的に学び志向の子らが多いな」とも感じました。

 

行き当たりばったりで適当にやってきた自分の子育てを振り返ると、ひとつひとつの選択は

よかったのか悪かったのかいまだに答えがでないものがほとんどです。

その都度、とりあえず親として悩んだり迷ったりしたものの、

甘いのかゆるいのか、

結局全てにおいて、子ども任せ、本人の心が求めるものに

譲ることになっていました。

 

そうしてみて感じるのは、子どもを大人の評価に染めずに

本人の選択や判断を信頼してさえいれば、

「学びと成長」に向けて行動しようとする

能動性だけは飛びぬけてしっかり育ってくるということです。

「学び志向」とは、子どもが本来持っている自然なあり方なのだろうな、と思います。

 

『賢者の石』のなかでコリン・ウィルソンがこんなことをおっしゃっています。

 

「進化しようとする人だけが進化するということは真実なのである。」

「人間を自由ならしめているのは、人間を上へ上へと駆りたて、したがって、人間が選択をせまられたときに

理由を提供してくれる進化要求にほかならない。」

 

子どもの成長過程では、冒険心がものすごく高まって、

「困難や不確かなことに挑戦することそれ自体がおもしろいこと、価値あること」 

という思いが暴走してしまうような時期もあります。

以前、書いた『子育てって、より偏差値の高い学校に子どもを進ませるための競技なの?』という記事で

親としての覚悟を突きつけられた綱渡りでもするような心地で乗り越えた出来事を書いています。

 

この記事を読んだことがないという方は

どうぞ読んでくださいね。

 

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ずいぶん前になるけれど、「大学受験」を中心とする日本の教育システムの問題を指摘して、

「大学の格差を無くして受験を廃止すると、日本の教育問題の多くが解決する」
とおっしゃっている方と、議論をしたことがあります。
当時も今も、私は賛成でもなく反対でもなくどっちつかずのままです。

この教育システムの問題は身にしみてわかるし、
確かに、日本の学校が入りやすく出にくい大学になって、
子ども時代を塾通いと受験の準備に費やしてしまう子たちが減るのは魅力的ではあります。

でも現実には、生徒が集まらなかった大学が消えたり、
大学を卒業できずに困る人がたくさん出たり、一時期の混乱ではすみそうもないので、経済的な面で実現は難しい気がするのです。

わが家は、
「子育てって、より偏差値の高い学校に子どもを進ませるための競技なの? 
そんなはずない。早い時期から受験準備に明け暮れて、
友だち付き合いや読書や
やりたいことが十分できないなんて、もっての他!」と、

どんなに周囲が受験に過熱していても、親子ともどもマイペースに過してきました。

うちの子たちは、受験テクニックとか受験対策なんてそっちのけで、
「目の前に山があるから登る。どうせ登るなら高い山がいい」という感覚で、
受験を体験してきました。

その結果、子どもたちの成長ぶりを見て、どの受験に対しても、
「合格しようがしまいが、やってよかった!受験勉強は苦しい面や、頭をぶつけることも多かったけど、がんばったなりの成果は得た。」という感想を抱きました。

だったら受験賛成派では?

と思った方もいますよね。

それが、やっぱり今も、賛成か反対かどっちつかずなのです。
というのも、
「受験が良い体験になった!子どもが成長した!」と、心底思えるのも、
わが家が、変わり者家庭だから……

つまり受験生のいる家庭とすると、かなりの小数派の『適当で楽天的で自由な』受験生活をさせてきたからとも言えるからなのです。

青色発光ダイオードの発明発見で世界中にその名を知られるカルフォルニア大学サンタバーバラ校の教授の中村修二氏は、
日本再生の条件で一番ネックは「大学受験」で、これを廃止すべきであるとおっしゃっています。

日本の大学受験は、「超難関ウルトラクイズ」そのもので、完全丸暗記の詰め込み勉強が不可欠。そんな将来に役に立た
ないクイズに合格するために、最も夢が多く、頭が柔軟な貴重な中学、高校時代を、無駄に過ごしていると指摘し、
このままでは世界に負けてしまうと危惧しているのです。

中村修二氏のおっしゃっていること、とてもよくわかるのです。

うちの子たちは、中学でも高校でも、呆れるほど無駄に見える時間をいっぱい過していて、旅行に行ったり、友だちと集まってゲーム制作したり、音楽に没頭したり、姉弟で麻雀に熱中したり、読書に熱中したり、絵ばかり描いていたり、料理したり、討論したり、映画を見たり、バイトしたり……そんな態度で難関校を目指すなんて、ふざけているの? と思われるような学生生活を続けてきました。
(本人たちにすると、受験勉強は受験勉強で全力を注ぎ込んでたので、
周囲を驚かすほど偏差値を急上昇させることはできたのですが……。)

その時期その時期は、「明日試験でしょ?」とヒヤヒヤしているのですが、
後になって振り返ると、勉強じゃなくてそういう無駄の中でこそ、いろんなことに感動して、自分でやってみて、自分がどんな人間か、何がしたいのかを理解しているのです。
人と人の間で揉まれて、精神的に大きく成長しているのです。
そうして、自分が将来やりたい夢をつかみ、それをやりぬくための技術やパワーを溜めているのがわかったのです。

子どもたちと話していると、それぞれが自分の人生を真剣に生きようとしている独立したひとりの人へと、この時期の体験を通じて成長しているのが
わかるのです。

でも、だからこの時期は受験なんかなくして、自由に青春を謳歌させた方がいいとも思えないのは、
娘にしても、息子にしても、
自分の計画する力や知力や根気や、だめだったとき持ち直す力を総動員して使っていかなくてはならない『受験』という
厚い壁は、
「社会に出る前のこの時期、経験しておいて本当によかった」と思えるものでもあったからです。

何度も崖から突き落とされて、自力で這い上がっていくような経験が、
外の世界で多少のことにへこたれずに、
自分の夢を追っていくためのベースとなってくれるはず……と、
受験の失敗も、それなりにありがたがってもいるのです。
(合格は、なおありがたいですけど)

ここまで書いても、受験に対する思いは、スパッとひとことで表しにくいのですが、目の前の受験に親の方がのめりこみそうなときは、
「子育てって、より偏差値の高い学校に子どもを進ませるための競技なの?」
と自分に問いかけています。

↓過去記事から、息子の中学入試体験と、受験を通して身についたものについて
紹介させていただきます。
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わが家の事情で何ですが……
子どもが幼い頃は、経済的に何の悩みもなくのほほんと生活していたのですが、バブル崩壊のあおりを受けて、ダンナがリストラにあい、
その後は、自営業で、食べていくのがやっとの暮らしをしていました。

そこに6年生に進級しようという息子の「私立中学に行きたい」があったもんですから、まさに晴天の霹靂で、
「お母さんは入学金を何とかしてあげるから、あなたは勉強を自分で何とかしなさい」と、本屋に連れて行って、受験したいという学校の赤本……選ばせると灘中の赤本だったのですが……を購入して、後は本人任せにするしかなかったのです。
それで、私は郵便局のパートで、晩の10時をまわって帰宅する生活がはじまり、
息子はというと、それまで学習習慣がないもんですから、
やったりやらなかったりではあるものの、灘中の赤本と格闘していました。

それまで私立の勉強をしたことがない子にいきなり灘中の赤本は無茶なようですが、
当時はあまりに中学入試の知識がなかったので、
「まずどういう受験問題が出ているか研究して、
それから必要な参考書なり問題集なりを探しに行こう」という順序で
入試と関わるしか、
何から手をつけたらよいのか想像もできなかったのです。

それと私にとって一番興味があったのは、受験に合格するかどうかではなく、
初めて自分からこういうことがしてみたい!と言い出した息子が、

途中で投げ出さずに、どこまでがんばれるのかな? ということと、

どんな順序で、どんな風に勉強していくのかな? ということだったんです。

自分なりに方法を模索するのか、何か私に頼んでくるのか、息子の出方を見る前に、私が先まわりしてレールを敷くのはおかしな気もしたので、
少し様子を見ることにしたのです。


灘中の赤本は、最初、あまりに難しくて親の私にもちんぷんかんぷんでした。
どれを見ても公立の高校入試の問題よりもはるかに難解でした。
ただ最初に赤本を買ったおかげで、
市販の中学入試用の問題集を何冊仕上げたところで、それだけでは
これらの問題を解けそうにないことだけはわかりました。

うちの息子というのは、「難しさ」に魅了される子です。
勉強自体は、6年生になるそのときまで、きちんとしたことがなかったものの、
物を作るときは、それを作ることは不可能でしょう……というものに惹かれて、紙1枚で何がなんでも作りたいものを作ってしまおうとするし、
パソコンでもテレビゲームでも友だちとの遊びでも、どこから手をつけたらよいのかわからないような
難しさを感じさせる場面でこそ、燃えるタイプなのです。

それで、受験がしたいというので本屋に連れて行ったときも、
何冊か過去問に目を通させると、
これはどれもどうやったら解けるのか見当もつかないないな……のオンパレード
だった灘中の赤本にすっかりのぼせてしまって、
息子の頭の中は、
受験するのはここ以外考えられない~というモードになってしまったのです。

そんな適当な理由でスタートした受験勉強ですが、
小学校に受験校に送るための資料をお願いしに行くと、
そんな無茶な……それはやめた方がいい……と、強く反対され、
しまいには算数専門の教師が怒り出す始末でした。
また、息子が軽い気持ちで友だちに受験することを話したため、
子どもを有名な受験塾に通わしている親が、そんな受験がどれほど
とんでもないことか……
まず自分の子の通っている塾で何位くらいにいるのか確認しなさいよ……
と外部の子用のテストの案内を持ってきました。

息子はといえば、「不可能」とか「難しい」とか「無理」とかいう言葉が無性に好きで、それに強烈にそそられるタイプですから、
そうして外から圧力がかかるほど、
火に油を注ぐのと同じで、
「絶対、灘中に行くんだ。この本全部できるようになるよ」と言って、
ひとりで過去問に目を通していました。

その頃は、中学入試というのがどういうものか、何が出るのか、何から手をつけていいものかさっぱりわからなかったため、
息子は公式も何も知らない状態で、灘の過去問を
問題の文面の情報から導けそうなものを自己流に膨らませて、
何とか答えまで持ち込もうと四苦八苦していました。
そうするうちに、シンプルに考えていけば解けるタイプの問題は
自力で答えが出せるし、
難しいものも答えを見れば、納得できるという状態にはなってきました。

そのあたりで、再度、本屋に行くと、
日能研やサピックスの出している問題集や、
『中学への算数』という雑誌
などを選んでいました。

私も、そうした問題に目を通すうち、すっかり中学入試問題の面白さに
心を奪われて……今の虹色教室も
その時期火がついた「私の中学入試問題オタク」な趣味の延長線上にある
のですが、
その年はとにかく掛け持ちでいくつもバイトやパートをしているので、
時間に追われていました。
ですから、外で遊びほうけてたり、テレビゲーム三昧したりしながらも、
何とか飽きることなく続けている息子の受験勉強の進行を
傍らからチラチラ覗き見るだけでした。
灘中の赤本と格闘していた息子が、
過去問を解くだけでは、らちが明かないので、
参考書や問題集を何冊か買ってこなくちゃ……と言い出したときには、

ざっと自分で数年分の受験問題に目を通していたため、

どのような問題が、どのような配分で出題されているのか、
確実に点に結びつきそうな分野は何か、
何をどれくらいの量、訓練したら良さそうか、
自分の強みがいかせそうな部分はどこかといったことを、

全体を俯瞰した位置から見渡せていたようです。

そのおかげで、最も得点に結びつきそうで、自分の強みをいかせそうなものの
ランキングが
自分のイメージの世界にできていたようです。

パートから帰宅後、息子の勉強を見てあげようとは思うものの、
灘中の問題は、当時の私には「何を手がかりとしたらよいのかさっぱり~」なものも多くて、
結局、息子からの勉強についての分析や経過の報告に
耳を傾けるだけでした。

息子は、最初に過去問で全体像をつかんでいたので、
最重要課題から順番に手をつけていってました。
こうした全体像を先につかんだり、自分にとって重要なことから、手をつけていく習慣は、
ボードゲームや工作など、好きな遊びに熱中するなかで、
息子が身体で覚えた勘です。
おかげで、短時間ながら、
着実に力をついてはいました。

ネックは時間。
計算が遅いし、ミスが多いところは一朝一夕には
なおらず、時間内に解ききることが入試の際まで、一番の課題となっていました。
実際、灘中の受験準備に一年ではあまりに厳しく、
「最低ラインギリギリだろうけど……
けっこう良い線までいってるんじゃないかな?
当日調子が良ければいけるかも?」
と期待したのもむなしく、結果は不合格。

ついでに受けた中高一貫校は、風邪による腹痛で、試験を途中までしか受けられなかったものの、合格していました。
この私学も関西ではとても人気が高くて、近辺の子たちも、ここの学校を目指して早くから受験塾に通い出すのです。
ですから、ラッキーと言えば、ラッキーで、
息子の受験計画の進め方は、まずまずだったんじゃないかな?とも
思われました。

最初から、合格できそうな学校を狙わず、自分の力を超えたチャレンジをした
ことで、不合格の痛手は負ったものの良いこともありました。
中学に入学してから、姉が数検を受ける際、
息子も同じ準2級(高1レベル)受けたがって、
2週間ほど姉の教科書を借りて勉強しただけで、
1次の計算技能、2次の数理技能のどちらも合格していたのです。
1年間、自分なりに、もがきながらがんばった受験勉強は、
息子の中に何かを残してくれていたようなのです。

数学への感性はもちろんなのですが、
「こういう結果を得たい」と思ったときに、

「結論から」「全体から」「単純に」考えて取り掛かって、
短期間にどうやって自分の思うような結果を導き出すか、
うまく段取りして、やり遂げる力が
受験を通して身についたようなのです。

 

喉元過ぎると熱さを忘れるものですが、 
息子の受験では高校に上るときも、かなり苦しい受験を体験しました。
息子の場合、灘には落ちたものの地元の中高一貫校に通っていたので、
入試なしで自動的に高校に上れることになっていました。
そこの高校の偏差値は70ありますし(高校から入るのは難しい学校なのです)、先生方はみな親切で教育熱心でした。それに、快活で気持ちの優しい友だちに囲まれて全てが順風満帆でしたから、
親の私は、学費の捻出でこそ悩みはしましたが、
まさかこのタイミングで受験に遭遇するとは思ってもみませんでした。

それは中3の夏のこと。
ある日、息子が意気揚々と学校から帰ってきました。
何でも、学校の先生から、すごくよい情報を聞いてきたというのです。
「うちは中高一貫校だから、高校入試は無理ってあきらめていたんだけど、
できるらしいんだ。今から半年くらいしかないけど、がんばって勉強するから、もう一度、灘を受けさせてよ」
唐突にそう切り出されて、
驚いたものの反対する理由もないので、
「それなら、がんばりなさい」とだけ伝えました。
当時、息子がいきなり受験を決意した理由は、
授業時間が長くて宿題が多い学校のシステムに、「過保護すぎる!もっと自由な校風の学校に移りたい」という不満を抱いていたことと、
単に、自分の全力をぶつけるチャレンジがしてみたいと思っていたからのようです。
確かにこの学校、宿題の量が半端じゃなかったのですが、
授業は長いし、通学に時間はかかるし、大量の宿題を済ませてから、高校受験の勉強するのは、あまりにも無茶な話のようにも見えました。
学校の定期考査や小テストの勉強もさぼるわけにはいきません。

とにかく勉強したくても時間がないのです。
それでも、寸暇を惜しんで猛勉強する息子の姿を見るうちに、
私は、どこまでがんばれるのかしっかり見届けたいという気持ちになっていました。

しばらくして、息子が先生から聞いたという情報は、ひと昔前のことか他校のことで、実際には、息子の通う中高一貫校は外部の受験をいっさい認めていなないことがわかりました。

自分の勘違いがわかった後も、いったんお尻に火がついて受験勉強に燃え出した息子は、何が何でも受験したいからと先生方を説得しはじめました。

先生方は、どんなことがあってもそれは許されないからと息子を説得し続けていました。
親の私も何度も学校に出向いて話し合いが続きました。
最初は、頭から反対していたダンナは、
どんな状況になっても必死で勉強し続ける息子の姿を見るうちに、しまいには折れていました。

そして、
「どうしても他校を受験したいというのであれば、いったんうちの学校を自主退学して、公立に転校して、そこから受験しなおしてください。
でも、うちの学校は、内申点はつけることができないので、転校先の中学でつけてもらってください」と告げられました。
文で書くと冷たく見えるのですが、この学校の先生はかなり生徒思いで、
親身になって息子の相談に乗り、本当に受験が決まると、心から応援してくれていました。

そうして、中高一貫校を自主退学して、地元の公立中にいったん編入しました。

「中3から、荒れていると噂されている地元の公立中に編入して大丈夫なんだろうか?」と気を揉みましたが、
息子は平気で、久ぶりに会う小学校のときの友だちとの再会を楽しんでいました。

公立に戻るのは、思った以上に大変で、公立中の教頭から……そんなわがままは許されないし、子どもの人生が無茶苦茶になる、
内申点はいっさいあげられないから、もしその灘がダメだったときは、かなり偏差値の低い高校を受験してもらう!
と親の私がガミガミ叱られ通しでした。

私の方も、息子の言うままにこんな無茶な受験をさせて、みんなに迷惑をかけて、これは甘やかしだろうか?
子どもの意志を尊重するといったって、もし失敗したら息子のこれからの人生を間違った方向に進ませるかもしれない……。

わがままとして息子の決意を押さえつけた方がいいのか、それとも人生の急所としてしっかり関わった方がいいのか……?
悩み苦しみました。

「受けてもいいよ」と言った時点で、
親としては、その結果に責任を持つことを覚悟しました。
苦しいときは腹をすえて、乗り越えようと考えていました。
でも実際には、これほどまでに覚悟が必要だったとは思いもしなかったし、
困難が連続して降りかかってきたときは、振り返らずにただまっすぐ進むしかありませんでした。

とにかく勉強に全力投球して臨んだ受験ですが、灘高も落ちてしまいました。
本気で受験勉強に励んでいたので、安穏と中高一貫校で過していたときより何倍も学力はついていたのですが、運は別物です。
中途の編入で内申点がゼロになるからと、学校からは偏差値が4、50の公立校を勧められました。
「それならそれで、その学校に通って独学で京大受験(息子は京大の自由な校風に憧れているのです)をするよ」と言っていた息子ですが、
運良く後期入試で、
以前通っていた中高一貫校と同レベルの学校の特進クラスに入学することができました。このときは、本当に救われた気持でした。

この受験ばかりは、親の私も大いに勉強になりました。

「親の選択で子どもがどんな困難に遭遇しても、
そのとき、誰かに責任転嫁したり、子どもを責めたり、
弱気になったり、絶望したりせずに、
しっかり腹をすえて、その現実にぶつかっていくなら、
結果がどうなっても必ず子どもの成長となる」と、身を持って知ったのです。

自分の受験を振り返って、息子はこんな言葉をつぶやきました。
「中学の友だちと離れ離れになったから、その大切さがわかったんだ。離れていても、ずっと親しい友だちでいれることもわかったし。
それに、こっちの学校でできた友だちも、すごく気が合うから、ふたつの学校に仲の良い友だちがいるのはうれしいよ。
あっちの中学は、宿題が多いといったって、先生たちはとっても甘くって、生徒たちが好きでしょうがないんだ。勉強法はぼくには合わなかったけど、中学は大好きだったよ。いつもとても大事にされていたからさ、優しい良い先生ばかりだよ。ダライ・ラマにも会えたし。(ダライ・ラマは理事長と親しいそうで、お忍びで中学に見えたことがあったのです。)
今の学校はかなりシビアだからね。
あそこにずっといたら、友だちとワイワイするのが楽しくて、いつまでも本気を出さずに甘えていたかもしれないから、やっぱり受験して良かったと思うんだ。ぼくは、どっちの学校も経験できて本当に良かった。
お父さんとお母さんには、ずいぶんお金を使わせちゃったから、がんばって働いてちゃんと返すよ。
ぼくは社会に出たら、中途半端では終わらないよ。」

めでたしめでたし……と思っている間に大学受験なので、子育てって、息つく暇がありません。
まぁ「子育てって、より偏差値の高い学校に子どもを進ませるための競技なの? そんなはずない……しっかり自分の人生と向き合って生きていく子に育てたらそれで十分」と、自分で自分に言い聞かせています。

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「子どものころにどんなふうに育てられたかが、その後の人生を決めている」という言葉 1

2018-08-09 07:53:53 | 子育て しつけ

娘や息子から心に響いた本やら音楽やら絵画(映画やゲームまで)なんかを

紹介してもらうことがよくあります。

 

子どもが大きくなってくると、親のわたしが聞いたことも見たこともないような……おそらく紹介してもらわなければ一生触れることも

なかったようなものに惹きつけられて、

自分の世界をどんどん広げていってる様に不思議な感動を覚えることが多々あります。

 

一方でわたしが紹介したものが、

娘や息子の「一番きれいな~」とか「最高~」という言葉で

口にのぼるのを耳にすると、親子ってやっぱり感性や好みが

似ているところがあるのかな~とうれしい気持ちになります。

 

娘は「美しさ」に敏感な子。

美術館によく足を運んでいて、

わたしにはピンとこないような古美術品や書のようなものからも、

その芸術的な価値を直接汲み取って、深く感じ入っています。

 

そんな娘がこれまで読んだ本のなかで最高傑作として

ヘッセの『デミアン』を挙げるのを聞いて、

最初はちょっと驚き、

後からは、妙に納得しました。

 

なぜ驚いたのかというと、『デミアン』は、

「若い頃夢中になった一冊」としてわたしが娘に薦めた本だったから。

 

娘の鑑識眼は本人のなかにある揺るぎない感性から来ていて、

他人が良いというから良いと思うタイプではないのです。

 

後から妙に納得したのは、

ヘッセの言葉の選び方とストーリー展開の仕方は

「美しさ」という点で完成度が高いからなぁ、とも、

娘は古い新しいにかかわらず「美しさ」に敏感だからなぁ、とも思えたからです。

 

先日、「同じような文を何度も目にしたことがあると思うけど」と前置きして、

娘が本のあるページを差し出しました。

『書きだすことから始めよう』という本の『アインシュタインはどうやってアインシュタインになったか』という章。

 

同じ種も、養分豊かな土地で水と太陽を浴びてスクスク育てば、

自信も規律も忍耐力もなしに、自然に花開き、

日陰や乾いた地で育つと必死に成長しようとしても弱々しい姿になるという話。

 

つまり天才と一般人の違いは、育つ環境にあって、

子どものころにどんなふうに育てられたかが、その後の人生を決めているとのこと。

 

ここで扱われている天才という言葉は

「世間的に大きな成功を収めた特別な才能を発揮した人」というより、

「自分の人生を心から愛してまっとうした人」という色合いが濃いようでした。

 

娘の興味を引いたのは、

「どうしたら天才になれるのか」というハウツーではなく

そのように人生を愛している人たちが育った環境として紹介されていた内容のようでした。

 

娘はこれから社会に出て、どのように生きていこうかと考えを巡らせる

時期にいますから、

この本の言葉は、自分のなかの大人の部分が、

夢を描く子どもの部分に

どのように対応すればいいのかを教えてくれるものなのでしょう。

 

また自分が自分に対して、

気長に根気よくつきあっていかなくてはならないことを学んでいるのかもしれません。

 

わたしも自分のこと、娘や息子のこと、教室に通ってくれている子どもたちのことを

思いながらそのページにあった『天才が育つ理想の環境』のリストに目を通しました。

 

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『天才が育つ理想の環境』

 

●才能を尊重し、大切に伸ばしてくれる。

 

●なりたいものには何でもなれるし、そのなりたいものが何であっても

変わらず愛しているし、選択も尊重すると常に応援してもらえる。

 

●好きなことを見つけられるようサポートし、夢を実現する具体的な方法を教えてくれる。

 

●興味の対象が毎日のようにころころ変わっても、毎回まじめに聞いてもらえる。興味の

対象をすべて試してみる機会が与えられる。

 

●物事が思い通りいかないとき、文句や不平を言っても受け入れられる。そして

「いやならやめなさい」と叱るのではなく、理解を示してくれる。

 

●困った事態に陥っても、叱らずに助けてもらえる。

小さな成功でも、両親をはじめ周囲の人々が心から喜んでくれる。

 

(『書きだすことから始めよう』 バーバラ・シェア  アニー・ゴットリーブ著 Discover)

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現実の世界は厳しいところで、自分がなりたいと思ったものに

誰しもなれるわけではないのはひとつの事実です。

 

自分で天才を目指すにしろ、わが子を天才に育てあげようと目論むにしても、

おこがましくて口にするのもちょっとなぁ、という感じはします。

 

けれども、景気の悪化や就職難を目の当たりにして

将来に自分独自の夢を描くことすら躊躇してしまう若い子たちを見るのは辛いです。

 

人生は長いし、その長い道のりを世界にひとりだけの唯一無二の自分として

生きていくのですから、

自分の心を常に明るい方角に向かせてくれるような

オリジナルの夢を自分も持ち続けたいし、

子どもたちにも持っていてほしいです。

 

わざわざ天才なんて言葉を使わなくてもいいけど、人に生まれたからには、

生まれ持った自分の力を磨けるところまで磨いて、使いきりたいものです。

 

「店頭に並ぶ際、より高い値段をつけてもらうこと」をゴールにするような

人生なんて、やっぱりつまらない。

 

世間の人からは低く見積もられたって構わないから

自分らしさを見失いたくありません。

 

わが子たちににしても、社会のあり様に不平をこぼすよりも

自分の夢を胸のなかで大きく膨らませてほしいし、

一歩一歩前に進むための

ささやかな努力を楽しめるような朗らかさや知恵を持ってほしいです。

 

そのために親は何をすればいいのかというと、

やはり先の『書きだすことから始めよう』 で挙げられていたリストが重要なのでしょうか。

 

まず親自身が地に足をつけて自分をしっかり生きている上での話しでしょうが、

子どもがさまざまなことを試して、

たくさん失敗し、何度も選びなおし、何度でも1からスタートし、自分の弱さを受け入れる過程をしっかりサポートしていきたい、

 

どんな小さな成功もその子自身の心が選んだものなら祝福したい、

と感じました。

 

以前、「天才」という言葉について、あれこれ思うことを記事にしたことがありますから、貼っておきますね。

 

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<「天才」という言葉>

「天才」という言葉、日本ではタブーのように扱われている部分がありますね。

「英才」や「秀才」や「できる子」は目指せる、作れるけれど、
「天才」は生まれつきのもの
誰もが目指してはいけないもの
子どもが天才であってほしいと願うなんて、ずうずうしいにもほどがある…

そんな声をたびたび耳にします。
でも、私は、英才とか秀才とかできる子って言う言葉が、
あんまり好きではないんですよね。
受験戦争や競争社会という小さな枠のなかで
勝ち抜いていけるか…ていう
大人側からの期待や願望から生まれているような気がするからです。

そして「天才」は…というと、レオナルド・ダ・ウ゛ィンチとかアインシュタインのように、
学ぶことを愛してやまず
人生を自分の思うままに生き抜いたイメージ

が、大らか~で好きなんですよ。

「天才」とは、一般常識や他人の期待に振り回されずに、
「自分」の興味と夢を満喫して生きられる人でしょうし
幸運にも「天職」と呼べる仕事と出会えた人なのでしょう。
私は、周囲に認められるか、
その時代から「天才」という言葉を授けられるかは別にして、
子供たちには どの子にも天才のようにいきいきと生きいって欲しいなぁと思っています。あくまでも願望ですが…。

「天才を作る時間~どれぐらいあればいいのか」の記事のなかでは、
天才を作るのは、☆あなたも「天才」になれる? 10000 時間積み上げの法則という記事のリンクが貼られていました。

そこで「天才」が作られる法則としているのが、

1,10000時間を費やせる努力と情熱。開始年齢はあまり関係ないらしい。

2,時代と才能が一致するタイミング

なのだとか…。

1の10000時間を費やせる努力と情熱。

と言うと、エジソンの
「天才は1%のひらめきと99%の汗」という言葉が浮かびます。

本当は、エジソン自身はピピピッとひらめくことを
重視していたらしく、

(1%のひらめきさえあれば、99%の努力も苦にはならないというニュアンスでこの言葉を発言したらしいのですが…。)

竹のフィラメントを発明するのに1万回失敗しても挫折せずに努力し続けたエジソンの姿は、
英才くん、秀才くん、できるくんからすれば、「実験オタク」や、単なる「バカ」なのかも知れません。
天才を作る時間が10000時間という話の真偽の程はどうであれ、

「何かが好きでたまらないこと」
「心底、ひとつのことに夢中になって打ち込めること」
「誰かのためにでなく、自分で自分の人生を切り開いていること」

が天才の必須条件のようです。

2の、運…

私はこれは、偶然の産物ではなく、
宇宙とうまくシンクロできているかどうか…
SQ(精神的知能の略)…意味や価値という問題を提起して解決する能力を
人生のなかで十分高める事ができたかどうかに関わっているのだろうと
思っています。
SQを高めて行くことが、自分を個性的な人生へと導き、天職と出会わさせるのだと感じるからです。

SQとは、
広い豊かな視野に立ち、自分の行動や人生に意味を見出す能力のことです。
数あるなかから、より意味のある行動路線や
人生の道を選ぶための能力です。

「SQ 魂の知能指数」によると…

IQなら、コンピューターも高いです。
EQ(こころの知能指数)は、動物達も高いです。周囲の状況を察知する能力にたけ、過たずにそのルールに従うことができるのです。
しかし、コンピューターも動物も、
なぜそのルールがあるのかも、なぜそういう状況になっているかも
問うことがありません。

SQを持っている人間は、ルールや状況を変えることができます。
限界と遊び、識別し、道徳観を持ち、厳しいルールを理解と同情で
やわらげることができます。
同情や理解が限界に達したら、限界だと悟る事ができます。


IQは、脳内の「直列的な神経配線」にもとづいているそうです。
EQは、「連想を引き起こす神経配線」にもとづいているそうです。

SQは、脳全体のデーターを統一する神経の共振にもとづいているそうです。


「天才」という言葉から、ずいぶん脱線していますが…

SQテスト
柔軟である能力(積極的かつ自発的に適応できる能力)
高度な自己認識
苦しみに立ち向かい、苦しみを利用する能力
苦しみに立ち向かい、苦しみを乗り越える能力
夢や価値に触発される資質
不必要な危害を他人に加えたくないという気持ち
多岐にわたるものごとのあいだに関連性を見る傾向
「なぜ?」とか「もし何々だったらどうなる?」という質問をし、
゛根源的な”答をもとめる顕著な傾向
心理学者が、゛場独立性”と呼ぶものであること。つまり、因習に逆らう器量を持っていること。

↑のテストがたくさん当てはまるというSQの高い人は
世間の評価はどうであれ「天才」と言えるのかも知れません。 

 


子どもの好きなものに敏感になる

2018-08-03 07:51:47 | 子育て しつけ

子どもの好きなものに敏感になる

 

子どもが好きなもの。

好きなおもちゃ、好きな色、好きな感触、好きな活動、好きな展開、

好きな景色、好きな言葉。

身近な大人がその子独自の「好き!」に敏感になることは、

その子の潜在能力を最大限に伸ばす手助けとなります。

また、子どもにとって毎日がわくわくの連続となり、

何にでも意欲的に真剣に取り組む態度がはぐくまれます。

 

子どもの「好き」に敏感になるということは、

ただアニメのキャラクターが好きだとか、果物が好きといった

漠然とした把握の仕方ではなくて、

「どんどん物を積んでいくときの……あっ今にも落ちそう、

ヒヤヒヤするなぁといった場面で、

この子いつも真剣な表情になっているな。崩れた時は大笑い。

ヒヤヒヤドキドキするような手に汗握るような展開が好きなんだな~」

「この子は自分のアイデアに耳を傾けてもらった時、一生懸命になるな」

「この子は自然の美しさに敏感だな。落ち葉を踏みしめる感触まで楽しめる

感性を持っているな」

「この子は虫や動物が大好きだな。その動きをいつまでも観察している。

生き物がどんな暮らしをして、何を食べて、どんな活動をしているのか、

喜んで想像しようとするな」

というように子どもの好みをよりていねいに眺めることです。

子どもが好むものというのは、その子の感性や才能やその時期必要としている

発達上の課題と結びついているものです。

たとえば、いつも道の縁の段差になっている部分を歩きたがる子がいるとすると、

その「好き」は、

その子の身体能力の高さを表しているのかもしれないし、

ちょうどバランス感覚が急成長する時期なのかもしれないし、

ちょっとドキドキするようなことが好きな

チャレンジャーな性質がそうさせているのかもしれません。

そのいずれにせよ「またぐずぐずして!はやく、はやく!」と急かして進むのと、

「この子は今、こういうことが好きなんだな」と気づくのとでは、

その後のその子の成長はずいぶん違ってくるのです。

現実には、それは遊ぶものじゃないから乗ってはだめよ、

と注意しなくてはならなかったとしても、

子どもといっしょに、ヒヤヒヤする高いところを通っていく冒険の話をするとか、

積み木で道路の段差を作っていってお人形を渡らせる遊びに発展するといった

楽しい遊びの発見につながりますから。

子どもは「どうしてそこまで面白いの?」と驚くほどに喜ぶことでしょう。

子どもにとって自分の好きなものとの出会いは、

「自分らしさ」との出会いであって、

個性を輝かせるチャンスでもあるのです。

 

こうした子どもの「好き」を見つけるのに、物作りほど最適なものはありません。

ダイナミックか、几帳面か。きれいな色使いが好きか、

パワフルに大きなものを扱うのが好きか。アイデア重視か、出来栄えに敏感か。

お手本を見る観察力があるのか、自分で考えて動く子か。

科学的な仕組みに関心があるのか、想像力を刺激するものが好きか、

新しいルールを作りだすことが好きなのか。

子どもの作るものの出来栄えばかりに気を取られていると、

子どもの「好き」は見えてきません。

まずいっしょに楽しむこと。作りたがらなければ作ってあげるのもいいです。

子どもが目をキラキラさせる場面があればどんなものを好むのか見えてきます。

「こんなものを作って!こういう風にして!」と注文を出すようになれば、

いっそうはっきりするでしょう。

作るのが苦手だから難しいというときは、

子どもといっしょに他の子の作品や、身近な物の仕組みや、動植物の姿を眺めて

感動するだけでもいいんです。「すごいね。どうやって作ったらいいのかな?

紙をくるくるってしたらできるかな?」と相談しあうだけでも、

その子の心に響くものが何かわかってくるはずです。

 

身近な大人は、子どもの好奇心が世界の不思議に向かって開かれていくよう

導いていくことができます。 

頭と手を使って、工夫し何かを生み出す喜びを伝えてあげることが

できます。

想像力を膨らませて人生を楽しいものにする方法を教えてあげることができます。

 

学ぶことの面白さ。

夢中になること、達成感を味わうことで満たされる気持ち。

世界中に自分の好きなことは溢れていて、好きなことはいつでも

見つけることも探しにいくこともできるし、

自分で作りだすこともできるということ。

 

そうした気づきはどれも、子どもが「好き」なものを通して身につけて

いくことができるものです。

 

最後にわたしが子どもたちに向けて書いた詩を紹介させてくださいね。

子どもに贈りたいものを心に巡らせながら、

ひとりひとりの子どもたちの幸福を願って書きました。

 

 

『小さな友へ』

 

世界をかけぬけ

手当たり次第につかみとるすべは

むずかしいようで 意外にやさしい

 

天指して地面にまっすぐ立つすべ

世界を味わいゆっくり抱きしめるすべは

当たり前のようで

本当にむずかしい

 

小さな友よ 

教えてあげようか

 

朝つゆで顔を洗えば

春を見ることができる

走りたいからと走り

笑いたいからと笑えば

夏に触れることができる

 

友を失って

再び得たなら

秋を感じることができる

未来の花が咲くまでの

ささやかな孤独を愛せるなら

きっと冬を知ることができる

 

あまたの貴重な宝のなかから

ひとつだけひとつだけ

小さな友への贈り物をえらぶとしたら

「答えのない問い」

それがいいだろう

 

 

↑大好きがいっぱい♪


子どもの内面に 言葉にできないうっぷんが溜まっている時には? 1

2016-05-27 12:50:39 | 子育て しつけ

2歳10ヶ月のAくんは、大らかで茶目っ気のある性質。

2歳を過ぎた頃から、周囲で起こっていることをじっくり観察して

自分なりの意見をよく口にしていました。

 

ところが今回のレッスンでは、ちょっと様子が違いました。

やりたいことがあっても、他の子がしている間は

身構えた慎重な態度で立ちすくしている姿が何度も見られました。

 

これまでニコッと顔をほころばせては自分の考えをつぶやいていたのに、

終始、表情をこわばらせて黙りこくっていました。

そういえば、数ヶ月前から、Aくんが何かしようとするたびにAくんのお兄ちゃんに

全て奪い取られてしまったり、Aくんが「これで遊びたいよ」と言っても、

「こっちで遊ぶんだよ」と無理強いされたり、Aくんが何か言おうとすると

お兄ちゃんが割りこんできたりすることが続いていたのです。

男の子の兄弟は、こんな風に周囲をヒヤヒヤさせるほどの衝突を繰り返しながら

成長していくものです。

とはいえ、あまりに理不尽すぎる出来事の連続に、

さすがに大らかな気質のAくんも自分のなかに溜めこんでいるものがあるようでした。

 

この日、Aくんのお兄ちゃんは教室に来ていなかったのですが、

お友だちのBくんのお兄ちゃんが来ていて、いっしょに遊んでいました。

Aくんが、Bくんのお兄ちゃんと同じおもちゃを使いたがり、

同じ遊びをしたがるものですから、自分のお兄ちゃんとの衝突ほど激しくないものの、

たびたび思いがぶつかりあっていました。

 

といっても、Aくんは以前のように自分の意見を主張しようとせず、黙ったまんま

固まっていました。その表情から、口には出さないものの

Aくんの心のなかには、さまざまな思いが渦巻いているのが見て取れました。

 

この日教室には、他の子が「これは、いらない」と残していった

工作作品が置いてありました。それを見つけたAくんは、ゆっくり

それをやぶきだしました。

あわててお母さんが注意しても、さらにやぶいていきます。

「それはね、お友だちが、もういらないよって言ってた作品だから、

Aくんがもらうことができるよ。好きなように改造してみたら?」と問いかけても、

まだやぶいています。

やぶいているAくんの表情は、派目をはずして悪さをしている感じでは

ありませんでした。

何か言いたいことがあるけど、うまく言葉にできなくていじいじしている……

そんな感じです。

 

次回に続きます。


子どもが自ら困難に立ち向かうのはどんな時か

2013-07-08 07:39:10 | 子育て しつけ



『学びの物語の保育実践』(大宮勇雄著  ひとなる書房)は、
保育と教育の可能性を大きく広げてくれるすばらしい本です。
また家庭でどのように子どもに関わると
意欲的で持続的な自分の力を100パーセント出しきるような学びの構えを
身に付けさせることができるのか学ぶことができますよ。

子どもに「学ぶ構え」をつけるのには、
毎日、一定時間、机に座る習慣をつければよいと考える方がいます。
身体が習慣になじんでくると、頭も自然に集中するという理由でしょう。

でも、現実には形だけ作っても
頭も心もそわそわして、心ここにあらずになるのが子どもです。
無理矢理習慣付ければ、適当にする癖がつくか、嫌がるようになるか、
きちんとしたところで「義務を果たす」以上でも以下でもない結果となりがちです。

まず、子どもの内面に自ら困難を選んで、
自分に課していこうとするチャレンジ精神を養っていくことが
外から見た目を整える以上に大切なことだと感じています。


『学びの物語の保育実践』にマーガレット・カーによる面白いインタビューが載っています。

幼稚園・保育園で行っている活動の中には「むずかしいと思う」ことはそれほど多くあがらなかったと
カーは報告しています。
このインタビューによると、23人の子どもたちのうち10人の子どもたちは、困難な課題は(園以外の)
他の場所だけにあるという回答で、
つまり子どもたちのおおよそ半数は、園を、彼らが困難なことに立ち向かい乗り越える場所としていないことは
明らかだったのです。

子どもにとって集団の場には、挑むに値する「困難な課題」が見当たらない場合があります。
それに、子どもにもみんなの前で恥をかかないようにしようとする知恵はありますから、
失敗するリスクの高いチャレンジは、
十分なサポートない場ではやりにくいですよね。

この著書にあった言葉を借りれば、

保育者のエネルギーが一斉保育の準備、計画に注がれる保育、

子どもの関心が断ち切られるような保育、

保育者の期待する活動や姿から子どもの「できる・できない」を評価する保育の場には、

子どもが成長するために自ら選びとっていく課題が存在しないし、

あったとしても、それに保育者が気づき、認め、応える態勢が整っていません。

最近では、早期教育の情報や幼児教室の考え方が中途半端に家庭の中にも浸透して、
0歳、1歳児、2歳児が育つ家庭環境までが、
大人の期待する活動や姿から子どもの「できる・できない」を評価するという
とんでもないものに変容しつつあります。


『学びの物語の保育実践』に次のように書かれています。

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「困難に立ち向かう」姿は、どのようにして生まれてくるのでしょうか。
それがわかれば、試行錯誤や創意工夫をしながら問題解決に粘り強く取り組む
子どもを育てることができるでしょう。
学びの物語の五つの視点は、そうした学びがつながっていくプロセス、つまり「成長」を
とらえるうえでとても有効です。(略)

関心と熱中から、「困難に立ち向かう姿」が生まれてきた、そういう記録を紹介します。(略)

「関心」は「熱中」をもたらし、「熱中」は「関心」の幅を広げ、
その深まりをもたらす。
「関心」と「熱中」が相互に手を携えて発展する中で、子どもはむずかしいことに挑戦し、
誰もやったこともないようなやり方で自分のテーマを表現したくなる。
そして……探求は、……の本質に向かう。

              『学びの物語の保育実践』(大宮勇雄著  ひとなる書房)

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虹色教室で子どもたちと接していると、
子どもが何度も何度も、
この関心と熱中から、誰もやったことのないようなやり方で自分のテーマを表現し、
自ら困難を選んで挑戦していく姿を目にします。

私が感じるのは、
こうした学びと成長のプロセスに入っていきやすいか、入っていきにくいかは、
親御さんの価値観と姿勢に大きく左右されるということです。

障害のあるなしとか、知能の高い低いとかはあまり関係ないように思います。

子どもが困難に立ち向かおうとせずにぐずぐずしがちな場合、
親御さんが子どもの関心や熱中よりも、
外から子どもに与えられる評価が関わる課題の方を重要視していることがよくあります。

子どもが自分が何が好きで何が面白いのかもわからないし、気づかないうちに、
次々、するべきことや、喜ぶべき楽しみを与えられているのです。
ベビー向けのサークル活動で楽しそうに振舞うこと、
いっしょに参加すること、
絵本を喜んで読んでもらうこと、
他の子のできることは同じように意欲的に取り組むことといった
親への過剰なサービスを赤ちゃんにまで求めてしまいがちなのです。

赤ちゃんは、親へのサービス業をするために生まれてきたわけではありませんよね。

まず、子どもが自分のペースで自分を育てていこうとするのを「待つ」ことが、
子育ての最初の課題です。
子どもが何かに関心を寄せ、ひとつのことに熱中しはじめたとき、
「また、同じことをしている」「ママがしてほしいこれをやってみて」
「~へお出かけしましょう」と忙しく振り回さずに、それに気づいて、認めてあげて、
十分繰り返せるようにサポートしてあげることです。
子どもの興味や関心の中から、困難にチャレンジしていこうとする決意が生まれるまで
忙しく大人の事情でいじくりまわさないことが大事です。

大人がヘリコプターのおもちゃを見せてあげたいときにも、
子どもの関心は、工事現場で道路を掘り返しているおじさんの作業にあるかもしれません。

大人が水泳教室で級が上がるかどうか気にしているときも、
子どもの関心は、雨水の音が何かに似ていて、それを詩の言葉で表現してみたいという思いにあるかもしれません。


大人が先回りして、子どもができそうな課題を設定しては、「いつのまにかできるようになっていた」という
本人不在の成長をプロデュースし続ける限り、
子どもは「自分で興味を持ったことから熱中しはじめて、
そこから困難な課題を見つけだし、自分で設定して乗り越えていく」という本当の成長に結びつく
体験ができません。

↓は自ら選んだ課題に一生懸命取り組む子どもたちの姿です。




















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