昨日、母の思い出についての記事をアップそたのですが、
まだ心が母の死を受け入れられるほど回復していないことに気づいたので、
削除してしまいました。
自然とそれに向き合えるようになるまで、もう少し封印したままでもいいかな~という気持ちになりました。
夕べ娘が、「今年の家族のがんばりを評価しようよ~」と言い出しました。
「☆(息子)はもうちょっとがんばった方がよかったんじゃないの?遊びすぎ~」と娘がちゃかすと、息子が笑いつつもちょっと神妙な顔で、今年を振り返っていました。
「まぁ、勉強の面ではがんばりが足りなかったけどさ、いろいろ新しいことにもチャレンジしたよ。絵を展覧会に出したり、曲つくりもしたし」
「今年は、外から評価される年じゃなかったにしろ、みんながんばったんじゃない?」と私が言うと、「そうだ~今年さ、お母さんが一番がんばったんじゃない?」「いい年だったんじゃない?」
と子どもたちが口々に褒めてくれました
そうな風に子どもたちに私の姿を見てもらっていたとは……
うれしいですけど
ただ、今年は私のまったり~した性質からいくと、活動が過多で、変化が多くて、目がまわってしまっていて、
自分が何をがんばったのか、実感できていないのです。
我が家のお正月はひっそりと地味に過します。
いつもの雑多な刺激や雑用から解放されて、
自分の頭の中をクリーンにして、
自分の今後のビジョンや心の中に宿っている本当の願望を見つめるとき
としています。
毎年、家族で元日の食後に、ひとりひとり今年の抱負を
語りあう時間を設けています。
娘も息子もそれを楽しみにしていて、年末になると、
自分の一年のがんばりを見つめなおして、
来年は何を願おうかな~とワクワクしながら考えている様子です。
私は今年はさまざまな出会いがあったため、
さまざまな思い、価値観、ビジョンの
お互いに良いところを分かち合って、自分の願望を、よりしっかりしたものにしたり、足りない部分を補なったりすることができました。
来年、もう少し視野を広げて、今年より思考を拡大させて、
自分の歩んで行きたい道について
考えることができそうな気がしています。
この自分の真の願望を見つめる……という習慣は、
直感型の私が、子どものころから、混乱するとひとりになって
自分の心を見つめてやっていたことです。
私の本質的な性質に沿っているんでしょうね。
子ども時代の私は、(大人になっても親に対してはしばしば)
直感の部分で過敏すぎて、自分でもわけのわからないような
複雑な心理状態に陥ったり、
ひねた言動を取ることが多かったのです。
もともとには家族内の心や感情の交流が機能不全の状態になっていて、
ややこしい愛憎でいつも嵐のように荒れていたからなのですが。
結婚して、共依存のないシンプルな生活を営むようになってから、
自分の育ってきた家族の問題を見つめなおし、
家族の病理のためにずいぶん脆弱に育ってしまった自分自身を育てなおす
努力をしてきました。
子ども時代の私は、たとえば、大好きだった母が
自分を褒めたりかわいがったりすると、
心が引き裂かれるような悲しい気持ちになって
ひとりになりたがるときがありました。
なぜかというと、自分のうれしい気持ちと同時に、
妹の怒りや悲しみや「もっと愛して欲しい」という心の叫びのようなものを
自分の思いのように直感で受け取っていたからなのです。
母は妹が愛しくってしかたがないのに、自分とは異質の感じ方や行動の仕方を
受け入れることができなくて、
私は褒めても妹は褒めない、
私は褒めて妹をけなす、
妹がきちんとした振る舞いができるようになるために、わざと私だけかわいがる、
という行動を無意識のうちにいつも取っていました。
過敏な私は、
母に自分が褒められると、母を拒絶して、
母が傷つく姿に自分がさらに傷ついて
自分の殻に閉じこもり、
かといって妹に対して、
「あなたのために、私はお母さんとけんかしてあげているのよ~」といい子ぶった正義感で動いているように見える自分が嫌で、
そこでさらに、妹からも友だちからも遠ざかって内に閉じこもっていました。
家族それぞれの欲望や願望や相手をコントロールしたい
気持ちが渦巻くのを、どんどん自分の中に受信していくので、
パニック状態になっていたものでした。
そうしたときに、自分を救ってくれて、本来の自分に立ち返らせて
くれた言葉は
「本当は私は何を望んでいるの?」
という自分への問いかけでした。
こう言えば、こう相手は思うだろう、こうすべき、こんな行動をするのは
こうした理由からだろう~といった思惑や推理は、
本当は私のものではなくて、
感情面で複雑で細やかな母や妹の心が表現していたもので、
私は家族と過しているとその影響を受けすぎて、パニックを起すけれど、
ひとりになると、
小動物や植物のように単純で素朴な
自分の心に触れることができて、ほっと鎮まることができたのです。
「私は母や妹のように、思いきり誰かを愛しているのではないかもな……
どうして、あんなにぐちゃぐちゃな心になっちゃったんだろう。
本当に私が望んでいることは何なのだろう?」
そう自分に問いかけると、
私は……妹の思いが満たされて、うれしそうな表情をしているのを見たい
と感じていただけなのです。それ以上でも以下でもなく。
もともと、男の子のようなさっぱりした感性が自分の中心にあって、
物にも人にも執着せず、それぞれが幸せそうにしているのを望んでいるだけなのです。
それなのに、たったそれくらいのささやかな願いも、家族が機能不全に陥っていると、「何となく気分いい関係」は許されないのです。
ちょっと気持ちを許して、自分の正直な気持ちで対応すると、
たちまち依存や自分の心への侵入の対象になって、
人と人との境界線が壊れて、自分の心や気持ちが自分で感じ取れなくなってしまうのです。
虹色教室で、さまざまな方に接していると、
公園での人間関係、園での関係、祖父母との関係などの
複雑な大人同士の心と感情のからみあいが原因で、
素直にシンプルに子どもを見れない、接することができない、
期待する、評価する、勝手に憶測する、操作しようとするという姿が
見られます。
相手が自分の望みどおりの言動を取ってくれないことに
親も子も傷ついて、どんどん悪循環に陥っているのです。
そこから抜け出す方法は、簡単です。
静かに、自分の心からだけ発せられる声に耳を傾けてみるのです。
自分の真の願望が何なのかわかると、
親子の関係は、とてもよい方向に向かっていくと思いますよ。
web拍手を送る