虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

「ボーッと生きてんじゃねぇよ」のチコちゃんに助けてもらった出来事 4!

2019-01-31 09:19:17 | それぞれの子の個性と才能に寄りそう

前回までの記事に、海外の幼稚園で多くの親御さんから信頼を集める教育をしておられる

Cさんから、こんなコメントをいただきました。

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ああした人との小さな関わりや繋がりが、こどもを変えていくんですよね。

こういう瞬間を、あまりにも「学ばせる」環境にいる大人は軽視していると思います。

毎日のように、こういうやりとりを話し合えない、今の環境にいらだちを感じます。

すべてがマニュアル通りの対応です。

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Cさんはベテラン教師で、若い先生方を導いていく立場ですが、本当に大事なことが

伝わらず、表面的な形だけがマニュアルとなって指導に使われていく状況に

困惑しておられるのです。

人間関係も人の成長も輪切りにして、バラバラに分解し、

そこだけを、これが正しくこれが悪い、こういう場合はこうすればいい、問題を解決する

ための計画を立てて、とにかくひとつひとつ遂行していく、ということが

できないものです。

少し前、「愛や、美や、心地よさや、ゆたかさなどは、

部分に分解した瞬間にそれ自体失われ、死んでしまうようなところがあります。」

という言葉を目にしたところなのですが、

人間関係や人の成長を支えているものは、

そうした見えない何かなのでしょう。

(もっとも、こうした誤用されやすい抽象語をスローガンにして、保育や教育の場を

運営することは、非常に危険なことなのでしょうが。)

 

それでは、「ボーッと生きてんじゃねぇよ」のチコちゃんに

助けられたもうひとつの出来事についてお話しますね。

学習に対する意欲や関心が薄く

国語のテストはほとんど手付かずで提出しているという小3の

Dくんの学習を見た時の話です。

とにかく、勉強が嫌だ、やりたくない、の一点張りで、

どこがわからないのか、何につまずいているのか、

本当に知力の弱さが際立っている子なのか、

モチベーションに問題がある子なのか、いっしょに学びながら把握したいと思うものの、

「勉強を始める」というその一点だけで一苦労でした。

それで、簡単なところからゆるゆると学習を進めていくよりも、いっそのこと、

一番苦手としているという裏も表も赤いバツばかりだった記述式の国語のテストを

用意してもらって、いっしょに解いていくことにしました。

案の定、長い文章を目にしたとたん、「めんどくさい」「むずかしい」「できない」と、

読む前から白旗を上げていました。

とはいえ、いっしょに長文を読み進めながら、時折、読み終えた部分を理解しているか

質問すると、ちゃんと適切な答えが返ってくるのです。

国語のテストでバツばかりの子の答えではありません。

「読んでる文章がちんぷんかんぷんの子の

答えじゃないよ。ちゃんとわかっているね。よくできているよ」と言いました。

さて、設問を解く段になると、1問目から、「めんどくさい、わからない」

とやる気がありません。

でも、「文章の中から大事な言葉をさがさなくてはならないよね。何を探すといいの?」

とたずねると、「これだよ」と設問中のキーワードを示します。

何を探さなくてはならないのかまではわかるけれど、探そうという気持ちにつながらないようです。

「Dくん、ポケモン好きでしょ。言葉と思わずにポケモンと思って探してよ。」と言うと、

Dくんは二ヤッとして、キーワードを探し出し、それを頼りに正しい答えを書きました。

そんな調子で、モチベーションを維持させるコツさえわかれば、

問題に正確に答える力はあるようで、

8割方の問題を解いていき、正解していました。

が、最後の、すべて記述で答えなくてはならないところになると、

「無理!できない!わからない」と投げ出して、絶対にこれだけはやるもんか、と

強い決意をしているようでした。

 

これほど強くやるものか、と構えてしまうと、私もお手上げです。

そこで、例のチコちゃんに助けてもらったわけです。

「ねぇ、Dくん。間違えたら、ボーッと生きてんじゃねぇよって言うことにしようよ。

でもさ、あんまり大きい声で言うと、周囲の人が何があったのかってびっくりするから、

小さい声で言わなくちゃならないけど、いっしょに言おうよ。」

そう言ったとたん、Dくんがくりくりっといたずらそうに目を輝かせました。

「それで、正解したら……。」と言いかけると、Dくんが、

「面白くねぇやつだなぁ。チコってんじゃねぇよ、って言うんだよ。」と

うれしそうに言いました。

「そうよね。そうしよう。もし、うっかり正解しちゃったら、

面白くねぇやつだなぁ。チコってんじゃねぇよ、って言おう!」

そう私が言うと、Dくんはえんぴつを手に最後の問題を

解き始めました。

Dくんが、学習に対して、こうも無気力になのは、これまでの

度重なる失敗体験が元になっているのでしょう。

間違えても、「ボーッと生きてんじゃねぇよ!」て言うのなら

面白いかもしれないな、そう思えると、ちゃんと問題に向き合えるのです。

そして、「ボーッと~」が言いたいためにわざと間違えるようなことはなく、

きちんと正しい答えが書けていました。

「面白くねぇやつだなぁ。チコってんじゃねぇよ。」と小声で叱られて、

にやにやとうれしそうな顔をしていました。

あんなに勉強を嫌がっていたDくんは一番苦手な国語の読解のテストを

きちんと解き終えました。

ちょっと欲が出た私は、裏面の問題を「後、2問だけ解こう」と持ち掛けました。

「ええーっ!!」と文句を言いながらも、まんざらでもないDくんは、

キョエちゃんも登場させて、最後まで解きました。

別れ際、Dくんが、「今度、いつ会えるの?」とニコニコしながらたずねてきました。

また、次にいっしょに遊ぶ日(学ぶ日?)はいつかと楽しみにしてくれていたのです。

「また、勉強だよ。」というと、「うん、うん」と満面の笑みでこっくりしていました。

 またまたチコちゃんに助けられたなぁ、としみじみ感じました。



「ボーッと生きてんじゃねぇよ」のチコちゃんに助けてもらった出来事! 3

2019-01-30 09:50:38 | それぞれの子の個性と才能に寄りそう

Aくんが差し出した写真というのは、思わずギョッとするような

写真でした。ゲームに出てくるキャラクターの顔らしいのっぺりした人物の

目から大量の血がしたたりおちているのです。

「これ見せて!これ見せてきてよ。」と意気込んで言います。

「怖い!怖すぎるわ!こんなの見せたら、夜にトイレに行けなくなる子が

いるかもしれないよ。怖いよ。あー。私も見ちゃったから、

怖い夢見るかも、どうしようどうしよう?」

そういうと、Aくんは、「この涙が血のところ、ぼくが描いたんだよ!」と

自慢気に言いました。「早く見せてきて!

早く見せてよ!」そう言ううちに、カーテンから外に出てきて、

さらに外側のカーテンからも

私を押し出して、自分もいっしょに二重のカーテンスペースから出てきました。

 

Aくんは自閉症スペクトラムの診断を受けている子で、

人との関わりに困難さを持っているのですが、

それとは別に愛着の獲得の面でも課題を残している子です。

 

Aくんのお母さんはとても優しい方で、子どもにていねいに関わっておられます。

しかし、Aくんが生まれてからかなり大きくなるまで、お母さん自身が

命に関わるような重い病気を患っておられ、

Aくんの育ちを十分にケアすることができなかったそうです。

Aくんが今、血の涙を流している絵といった恐怖を外に表現していこうとしていくのは、

さまざまな他の原因もあるでしょうが、

赤ちゃんとして必須の世話や愛情を求める行為が、お母さんに生死に関わるような苦しさを

与えてしまうという状態を過ごすうちに負った傷によるものなのかもしれません。

 

Aくんに背を押されながら、血の涙を流している顔の写真を胸にあてて出てくると、

「何?何?見せて!何?見せて~!」と子どもたちが寄ってきました。

「怖すぎる写真だから見ない方がいいよ。夜にトイレに行けなくなるかもしれないからね。

怖いから、見るのはやめておいて!」そう言うと、

「怖くない!怖いの平気。見せてよ。見たいよ、見たいよ。」と子どもたちが

騒ぎ出しました。「じゃぁ、ちょっとだけよ。」とちらっと写真を見せると、

「平気~!そんなの怖くない!もっと見せて!平気!全然怖くない!」と

子どもたちは大喜びでした。

すると、Aくんの顔に満面の笑みが広がりました。

「ぼくが描いたんだよ。ぼくが〇〇で、(ネット上の

ゲームらしいもの)に上から赤で描いたんだ」

「Aくん、子どもはさ。あんまりこういうの見たら、後で怖くなるかもしれないから、

Bさんに見せよう。Bさんなら大人だから、夜にきっとトイレにひとりで行けるよ。」

そう言って、Bさんのところに写真を持っていくと、Bさんはいいリアクションで

Aくんの写真を受け止めました。

すると、Aくんは、それまでの激しい葛藤が解けた様子で、

Bさんにべったりと甘えだしました。

それ以降は不安が高まると、Bさんといっしょに別室でおしゃべりしてすごしたり、

アレルギーの症状が出て身体中が赤くなった時も、

Bさんと涼しい場所に移動して遊んだりしていました。

AくんはBさんに強い信頼と愛着を抱いたようで、

後からお母さんと買い物に出た時に、Bさんにお風呂に入れるバスソルト

(Aくんは皮膚の炎症を抑えるために入浴時にバスソルトを

使っているそうです)をBさんの

ために買ってあげたいと言ったとお聞きしました。

 

次回に続きます。

 

 

 


「ボーッと生きてんじゃねぇよ」のチコちゃんに助けてもらった出来事! 2

2019-01-29 12:54:58 | それぞれの子の個性と才能に寄りそう

私は家でテレビを見る習慣はないんですが、

このチコちゃんの番組だけは何度か目にしたことがあります。

「これ、チコちゃんの缶バッチだね。いいなぁ。でも私は、チコちゃんに出てくる

鳥のキョロちゃんだったかなんだか、その子が一番好きなのよね。

だって、先生は鳥マニアだから。」と声をかけました。

すると、「キョエちゃんだよ。カラスだし」と言いながら、

ギュウギュウに絞られていたカーテンが少し緩みました。

「この缶バッチ便利だね。怒っている時に、いちいち怒らなくても、

見せるだけでいいから。楽だよ。

これ見せたら、ボーッと生きてんじゃねぇよ、って、

相手をびっくりさせれるよね」というと、カーテンにくるまった

ままのAくんが、缶バッチを私の方に押し出して、

「持って行っていいよ」と言いました。

「いいの?でも、これ他の子たちに見せたら、びっくりして,

悲しくなるかもしれないからね。子どもには見せられないな。

Bさんの場合、何にも悪いことしていないのに、

いきなり、ボーッと生きてんじゃねぇよって叱られちゃうの?

ええっ?ちょっとかわいそうだよ。それに今、ボーッとしていないよ。

あっちで女の子たちと工作してるから。

ちっともボーッと生きていない。普通にがんばってるよ」そう言うと、Aくんは

カーテンをほどいて出てきて、いきいきした明るい表情で、

「見せてきてよ。いいよ。見せてもいいよ。

早く缶バッチを見せてきて!」と言いました。

それから、またカーテンの奥に引っ込むと、大事そうに

大判の写真を裏向けたものを抱えて出てきました。

そして、「これもさ、これも見せてきて!」と言いました。

 

次回に続きます。

 


「ボーッと生きてんじゃねぇよ」のチコちゃんに助けてもらった出来事! 

2019-01-28 10:01:11 | それぞれの子の個性と才能に寄りそう

「チコちゃんに叱られる」というNHKの雑学クイズ番組をご存知ですか?

この番組の目玉は、5歳の女の子チコちゃんが、「ボーッと生きてんじゃねえよ!」と

大人を叱るシーン。

チコちゃんは真っ赤になって目から火を出して怒っています。

この怒りを炸裂させるチコちゃんが小学生の子どもたちに

大人気なのだそうです。

 

実は先週、イベントのお手伝いで東京に行った際に、このチコちゃんに助けられる

出来事が二度もありました。

 

チコちゃんに助けられた一度目は、

イベントで子どもたちの相手をしていた時の話です。

この日は、人との関わり方に極端さを持つ発達に凹凸のある小1のAくんが

参加していました。Aくんは、気に入らないことがあると部屋を飛び出すか、

激しいかんしゃくを爆発させる可能性があったため、

子どもとの関わりに慣れているBさんが

助っ人としていらしていました。

とはいえ、AくんとBさんは初対面。

優しく自分に寄り添ってくれるBさんに対して、

Aくんは強い拒絶の言葉を浴びせて、自分は部屋の隅っこの

カーテンをぐるぐる巻いて、人ひとりやっと入れるくらいの隙間を

作って、その中にもぐってしまいました。

 

実はそのカーテンのスペースというのは、

一畳ほどのカーテンで仕切られた隠れ家のようなスペースの中に

ありました。

つまり、外側にカーテンの防御壁、さらにその中にカーテンの防御壁と、

二重に外の世界から守られている場所なのです。

そこで、近づく人に思いつく限りの毒を吐いて

誰も近づけないようにしていたんです。

 

私は他の子らと工作をしながら、少し手がすいたら

Aくんのそばに寄って声をかけていました。

「Aくん、今日、Aくんと遊ぶためにBさんが遠くから来てくれたんだよ」

などとBさんの名前を出すと、Aくんはすごい剣幕で、

「あんなやつ大嫌い!」「Bさんとか!絶対、あいつだけは嫌!」

「Bさん、最悪。大っ嫌いだからこっちくんな!」と

まくしたてていました。

BさんはAくんと初対面だということをのぞいて、Aくんから

こんなにも嫌われるいわれは全くないのです。

が、Aくんのあまりにも激しいBさんへの暴言を聞くうちに、

AくんのBさんに対する関心が高いこと、

優しくしてくれたBさんにひどいことを言ったことで、

自分自身が深く傷ついていること、親しくしたい気持ちが

拒絶されたり、うまく関われなかったりする不安をかきたてているだろうこと、

などがうかがえました。

「ねぇねぇ、Aくん」と再び声をかけると、

カーテンでぐるぐる巻きになって顔も体も見えないAくんの足元に

丸い缶バッチが見えました。

見覚えのある絵です。

 真っ赤な顔をして目から炎を出して怒りを爆発させているチコちゃんの

缶バッチでした。

 

次回に続きます。

 

 

 



 


経験で培った知恵は、経験を通過していない人に伝わるか

2019-01-26 08:51:29 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

先日、知人からこんな話をうかがいました。

知人の息子さんが夏休みの自由研究の工作に取り組んでいた時の話です。

初めのうち息子さんは、何を提案されても乗り気でなく、

自分でやろうと思いついてもぐずぐずしていたそうです。

が、はっとひらめいてからは、いきいきと自分の思い浮かぶものを想像しながら

一気に形作っていったそうです。

 

知人が自分の意欲に火がつくまでぐだぐだと過ごさせてあげたからこそ

息子さんはいきいきと取り組み、達成感を味わう結果となったわけです。

とはいえ、その都度している判断はちょっとしたことに左右されるので、

一般化できるものなどなくて、

子どもたちのやりたいこととそれだけでは成り立たない生活のペースの狭間で

 その場その場でどうしたらいいか考えていることに思いいたったという話でした。

 

わたしも、何でも一般化しようとする風潮の中で、そうした経験に基づく判断が

ないがしろにされているのを危惧していたところでした。

 

知人がこんなことを言いました。

「ゆとり教育」の始まりや「ホームスクール」の取り組みも、

最初は試行錯誤しながら勘を養いながら出来上がっていったものが、

そういった経験を通過していない人まで表面的な方法だけ取り入れて

やろうとすると、おかしいことになるし、

実際に取り組んだ経験のない人にまで、わかるように言語化するのは難しいです。

 

 

知人の意見に耳を傾けるうち、ふいに、発達障害という言葉が普及したことで、

今、まさに知人の言う「全く経験のない人が、経験で培ってきた方法の

マニュアルの字面だけをおってそのまま実行する」ことによる弊害が

蔓延しているんじゃないか、と感じました。

 

前回の記事で、発達障害という言葉が普及したことで、

今、まさに知人の言う「全く経験のない人が、経験や勘で培ってきた方法の

マニュアルの字面だけをおってそのまま実行する」ことによる弊害が

蔓延しているんじゃないか、と感じた、という話を書きました。

そのことについて触れる前に、これまでわたしが発達障害という言葉と

どのように付き合ってきたのか、その経緯をお話しようと思います。

 

わたしが発達障害という言葉について意識し始めたのは、教室を始める前に

ファミリーサポートという市の子育て援助の活動に参加していた時に

目が合わなかったり、会話が成り立たなかったり、攻撃的だったり、

常に動き回って危険なことを繰り返したりする子の存在を気にかけていたからです。

 

当時は、突然、思ってもみないようなことをする子

(その子の妹や弟のおむつを替えている一瞬の間に、玄関に突進していって

鍵を開けて外にでようとする子や、

何の前触れもなく、階段のかなり高い段から飛び降りようとする子など)の事故を

防ぎたいという気持ちから、危険度に応じて、預かる側がそうした情報を共有

する必要性を強く感じていました。

 

それと同時に、書いていたらきりがないほど危険なことや破壊的なこと

をし続ける子について、全てを書面に残して親に差し出すことに

躊躇していました。

それは預かる側の義務ではあるものの、

育てにくい子の子育てに困窮している親がちょっと息抜きをしようとしたとたん、

さらに悩みを抱えることにはならないか、

問題を指摘されることで、誰にも頼れない子育てへと引きこもってしまわないか、

親子の関係をさらに悪くすることにつながらないか、といった

迷いの渦に飲み込まれていたのです。

 

十数年前のことなので、親御さんが相談する場もほとんどなく、

あちこち医療機関をはしごしても、「様子を見ましょう」と告げられるのが

関の山でした。

幼稚園や学校で集団活動ができない場合、親御さんは、

周囲から親の育て方の問題として扱われるか、

しつけて何とかしようとするうちにそれが虐待に近いものになっていくか、

子どもの問題から目を背けることだけに力を注ぐか、

わが子は発達障害なのか、発達障害でないのか、と悩むことに

時間を費やしていました。

 

子育てに悩む親への受け皿がほとんどない時期でしたから、

「私自身、どうしたらいいのかさっぱりわからないけれど、

悩みを聞きながら支えていくくらいのことはしよう」という思いで、

発達障害のある子たちと関わるようになりました。

 

その後、知り合った方々から、

子どもの遊びや物作り、算数の学習を見てほしいと頼まれるように

なって、虹色教室という小さな教室を始めるようになりました。

生徒として集まった子たちは、7割くらいがごく一般的な子で、

残りの3割ほどが、発達に気がかりなところのある子たちで、現在もそうした

形で教室を続けています。

 

虹色教室では、何よりもひとりひとりの子の自発的な学びを大切にしてきました。

2時間~2時間半のレッスン時間のうち、最初の1時間半で工作やボードゲーム、

実験などをし、

残りの30分~1時間だけ算数の学習をしています。

 

(教室での学習の一例は、ブログ『ボディーワーカーのギフテッド子育て記』の

 虹色教室と勉強方法 でご紹介いただいています。)

 

教室を通して、十年以上子どもと関わるうちに、

わたしの子供観や発達障害の思いは

最初の頃よりも、

ひとりひとりの子の成長する力を信じる気持ちと個性的な才能に魅了される思い

で占められるようになりました。

 

前置きが長くなってしまいました。話をもとに戻しますね。

 

経験で培った知恵を経験や勘を通過していない人が使う時に

起こる問題ってどんなものでしょう?

 

一番に考えられるのは、経過を観察せずに、期待する結果を求めてしまうことかな、

考えています。また、現実を吟味する前に、先入観が刷り込まれてしまうという

きらいもあります。

 

「こういう問題で悩んだ時は、こうしたらいいよ」という外から与えられた

解決法を試してみて、うまくいかないと、

「これはよくないから別の方法を試してみよう」と次を探し求める気持ちに

向かいがちにもなります。

 

でも、実際にはそれがどんな問題でも、その問題の背後にあるものが

見えてくるくらいまで、じっくりそこで踏ん張ってみないことには、

その子ども自身が見えてこないし、理解もできないのです。

子どものことで気がかりなことがある時、親はその問題を解決して終わりとする

修理屋さんのような立ち位置ではなく、

問題というきっかけを通して、子どもと深く関わっていくようにすると、

子どもを知り自分自身もよりよく知ることになるし、

子どもと大人が相互に変容していくことにもつながります。

 

前の記事で、発達障害という言葉が普及したことで、

「全く経験のない人が、経験や勘で培ってきた方法の

マニュアルの字面だけをおってそのまま実行する」ことによる弊害が

蔓延しているんじゃないか、といったことを書きました。

 

それはどういうことかというと、

子どもとはどういうものかという子ども像を持たない人が、

(まだ子どもという人との付き合いが浅い人が)

発達障害という色眼鏡だけで、子どもの問題に

過剰な干渉をしてしまう、一場面、一場面をより大きな問題として

不安を感じて、子どもをより不安定にさせてしまう

という問題につながるのではないか、と感じているのです。

 

また、周囲の人が、子どものことでうまくいかないことがあるごとに

発達障害かどうかというフィルターを通してそれを眺めるゆえに、

親が不必要に動揺したり傷ついたりして、

反抗期のような子どもにとって大切な体験をきちんと通らせてあげることができない、

ということも起こります。

 

子育てには不快なことやうまくいかないことがつきものです。

うまくいかないことが、即、子ども側に問題があるとか、

親側に問題があるということにつながるわけではありません。

 

子どもの成長にはさまざまな時期があり、性格もさまざまで、

集団の環境やいっしょに過ごす子たちや先生との相性というものもありますから、

どちらにも何の問題もなくても、あれこれあるのが子育てなんです。

 

たとえば、「幼い子が集団の場になじめない」という時、

子どもの状態が「今、その時の姿」で切り取られて、特性の有無をチェックされ、

発達障害かどうかという捉え方だけで処理されることは

危険なことだと感じています。

もちろん、発達障害であるリスクはあるし、

保険の意味で、療育的な関わりをすることが悪いわけではありません。

 

でも、初めから終始、子どもがなじめないことについて、

その子自身の問題として、つまりその子が発達障害なのかどうなのかという

切り口から問題を見るようになると、

集団の場自体が、子どもから学んで成長するあり様が、ゆがむのではないかと

思うんです。

子ども側に問題があるという前提条件が普通になると、

集団を管理する側にとって、それが自らのあり方を考えなくてすむ

逃げともなるし、

子どもという存在から学んでいく集団自身の成長が小さくなります。

 

たとえ、集団の場を発達障害の子たちのニーズに

沿うよう改善して、環境がより良いものになっているように見えても、

問題を子ども側だけに押し付けている

安易な手札を手にしていることに変わりなくて、

もっと根本的な保育なり教育なりの質の向上が難しくなってしまうように

感じています。

なぜなら、問題を発達障害という手札だけで眺める限り、

子どもとはどのようなものか、子どもにとって

良い環境とはどういうものか、を追究する心が

薄くなるからです。


小2の女の子グループの工作と算数の学習の様子です 3

2019-01-20 19:13:22 | 通常レッスン

 またまた、1と2で紹介したグループとは別の女の子たち。

小2の女の子グループのレッスンの様子です。(このところ、女の子グループの

記事が続いています。男の子のグループはというと、すざまじい勢いで散らかしながら

工作をするので、写真を撮るどころじゃなくなっています。近いうちにアップしますね。)

ドイツから来た男の子のおみやげのグーテンベルグの印刷技術の超ミニ本を見た子たち。

「ミニチュアが作りたい」と言いました。

小さなお菓子の箱の展開図を描いて、工作しています。

 

Aちゃんが展開図に折りこむ部分もつけています。

Aちゃん作のミニミニクッキーの箱。

ランドセルを作ったBちゃん。金具の部分を、アルミ箔を圧縮させて作っています。

 

 <分数の大小ゲーム>

分数の大小ゲームをしました。

写真のCちゃん、間違えてしまったようですね。

みなで、どうしたら正確にどちらが大きいか調べられるか考えました。

 

折り紙1枚を1として分数を学習中。

自分で折っていろをつけると、さまざまなことに気づきます。

 

 

<折り紙を使った分数クイズ>

縦と横に2分割ずつして、4分の1 を色付けた折り紙を、

今度は横にもう一度折ります。

そうして開くと、8分の2になっていました。

 

「もう一度、全体を半分に折ると、色をつけた部分どうなるかな?」

とたずねると、「8分の4」 という答え???

実際にためしてみると、16分の4でした。

「それをもう一度、半分に折ると?」とたずねると、

みんなは分子が6だと予測しました???

どうも数が数列のように、2,4,6と増えると思ってしまうようです。

でも実際に折ってみると、「そうか、全部、半分ずつになって、

もうひとつずつ増えるから倍になるのか。

だったら、分子は6じゃなくて、8。32分の8でしょ」と

最後はみんな意味をよく理解していました。

 


小学生に連帯責任を問うと、いじめの土壌がつくられる

2019-01-20 19:12:31 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

発達の凹凸がある1年生の子のお母さんから、小学校で、

連帯責任による罰が与えられているという話をうかがいました。

その子のクラスでは、ひとりの子がルール違反をしたり、

忘れ物をしたり、ミスをしたりすると、

グループ全員やクラス全員で罰を受けるという決まりを設けているそうです。

特性ゆえ、気をつけようと思っていても、

すぐに忘れて同じミスを繰り返してしまいがちなその子は、

その子のせいでいっしょに罰を受けることになった子たちから、

恨まれたり、ののしられたりしているようです。

 

担任の「子どもたち自身が、自覚を持って自分たちの問題を解決していくように」

という指導のもと、たびたびミスしてしまうその子に

みながいっせいに攻撃的な言葉をあびせることもあるそうです。

 

子ども同士、いつもピリピリと他の子がミスや違反をしないか

見張りあっていますから、クラスの雰囲気は、

外目にはいつも静かできちんとしているように見えるそうです。

 

親御さんの心配は、子どもが深い心の傷を負うことと同時に、

その子が、こちらも特性ゆえに、

「ルール違反をしている子を見つけたら、徹底的に

攻撃してもいい」

と学びつつあることのようです。

 

公立小が連帯責任でクラス運営することはめずらしくないようで、

うちの子たも小学生の頃、「連帯責任って嫌だ」とうよくぼやいていました。

当時、息子が、「いじめはいけない、仲良くしろと先生は言うけど、

先生が連帯責任を問う限り、クラスの誰かに憎しみや怒りがわいてきて、

みんなでいじめるようになっているよ」と言っていたのを思い出し、

「小学校で連帯責任ってよくあるのかな?」とたずねてみました。

「ぼくが小学校の頃もあったし、めずらしくはないよ」と返ってきました。

それから、こんなことを言っていました。

「連帯責任は子どもの性質によって良い効果を与えているようにみえる

場合もあるだろうけど、暗に、

先生の言うことを聞かないとみんなからいじめられるよ、という脅しの力で

子どもを支配することになるからね。

たいてい、直接、先生が子どもを罵倒すると、後で問題になるから、

生徒を使って、致命的な傷を与えて言うことをきかせたり、

馬鹿にしたりする流れで使われるからね。

子ども自身で注意しあって、ルール違反をなくしていくというのは、

言葉の上では立派なことを言っているようでも、

いじめを生む土壌を作っていることに気づくべきだよ。

学級裁判にしても、

小学生くらいの時は、自分が攻撃されたり、

いじめられたりしたくないって気持ちから

安易に、いつも叱られれ役の悪い子がいてくれると

自分は安全だと思うもんだよ。そうすると、発達障害の子が

そうした気持ちに利用されることも、自然に起こってくる。

小学生の頃を思い返してみても、

当時の学級裁判の訴えの多くはただの印象であって、あの子なら悪いことをしそうだ、

あの子はみんなが悪い子と思っている、というだけで、ひとりを、

つるし上げて、徹底的に攻撃していたよ。

そんなのは、教師が、子どもたち同士で解決とか、自覚してとか、

きれいごとで飾っても、ただの子どもへの問題の丸投げに過ぎないな」


嫌な学習を前にすると怒りを爆発させる自閉っ子と

2019-01-20 19:10:37 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

自閉症スペクトラムの中程度~軽度の子らといっしょに、

ユースホステルでのレッスンに行ってきました。

子どもたちそれぞれと、自分が毎日、

かんしゃくを爆発させてしまっていることについて、

分岐する矢印を書きながら、気持ちや態度を書き上げていく作業をしました。

すると、子どもたちに思わぬ大ヒットで、「ぼくのも作りたい」「わたしのも作りたい」

とすごく盛り上がっていました。

 

どこで、自分が「やっちゃった」という事態に進んでいくのがわかったようです。

 

 

上の写真のような2つに分岐する矢印を書きながら、

気持ちや思いがどんな展開に進むのか言い合っていくんです。

自閉っ子は大きな子でもこうした作業をひとりでするのは難しいと思います。

だから、矢印を書きながら、心の軌跡をたどるのを支援していきます。

この矢印を子どもたちと作るうちに、わたしが思っていなかったような原因で、

周囲があぜんとするような切れ方につながることに気づきました。

子どもたちの声を集めると、自閉の程度こそちがえど、

激しい感情爆発やがんこなこだわりはだいたい同じ流れをたどっているようでした。

 

思っていなかったような原因というのは、こうなんです。

まず、宿題が難しい時、「めんどくせー、むずかしくて腹立つ、やりたくない」など思うのですが、

次に続く矢印では、「宿題を出した学校、作った先生などが悪い」

「問題をむちゃくちゃにしてやりたい。えんぴつでぐるぐるぬりつぶしてやりたい」などと思うそうです。

 

この部分で、集まった子全員が、まるで、宿題の問題自体が嫌がらせをする対象であるか、

問題に出した先生や学校というものが貼りついていて、それが自分の目の前で妨害している

かのごとく近く感じるようでした。

 

そして、次の矢印の先では、宿題に向かっていた怒りは、

それをやるように見張っているお母さんへの怒りになります。

そして、お母さんが「ゲーム禁止」「お父さんに言いつける」

「さまざまな罰」「しかりつけてだっこしてくれない」などの罰を加える

のではないかという気持ちにつながるということでした。

 

 

親としたら、目の前のふたつの選択肢でしぶっているように見える時、

自閉っ子は自分の頭がこしらえたあまりに大きな敵を相手にしているので、

言うことをきけるはずがないし、死に物狂いの癇癪は当たり前なのかな、と感じました。

で、実際にそうした罰を親がしたからそれがトラウマになっているのかというとそうでもないんです。

むしろそうした罰を与えない親のもとで、そうした妄想が膨らみやすいようでもありました。

それは見たところ、普段罪悪感を感じていないかのように見える自閉っ子の

自動生成する罪悪感のなれのはてのようでもありました。

自分が悪いことをしているという思いが、大好きな人からすごく罰せられるの

ではないかという不安につながり、難しい問題を見た時点で、

あらゆる恐ろしい罰や大人たちの怒りが自分に迫ってくるような感覚があるようでした。

 他の自閉っ子たちも、問題が難しいと認識した時点で、

悪い方向の矢印の思考の流れを瞬時にたどっているようでした。

そしてお母さんが、「難しいなら、こういう風にやったら?」とやり方をアドバイスしようにも、

子どもの頭の中では壮大な罰絵巻が展開していて、それを戦っているので、とうてい、悠長に

そんな指示に従っていられないようでした。

 

そうした自分の脳内の自動生成システムを、子どもたちの声を集めながら

洗いざらい書いていった後で、

今度は、いい方向に進む矢印をいっしょに書いていきました。

 

すると、そのいい方向の矢印を進む時点で、それぞれの子に、

その矢印が先に進めなくなるような思い込みがあり、

矢印を遮断する決めつけが存在していました。

 

たとえば、「絵を描くと、難しくなくなるかも」というと、

「絵を描いたら、先生に怒られる」というのです。

 そこには過去の記憶の認知のずれからくる間違った解釈がありました

 上の決めつけをしていた子は、よく聞くと、テスト中にプリントにらくがきをしていて注意されたらしいんです

 それ以来、「勉強中は絵を描くと怒られる」の反射的に判断を下すんです。

 

また、良い方向の先に、「お母さんにほめられる」ということがあると、

「でも、ほめられなかった。できたのにほめられなかった。だから、やってもむだ」と、

過去の一度の経験の記憶によって、

悪い方向しか選択肢がないという思い込みへといざなわれているのです。

 教育関連の仕事に就いている知人は、

「困った感のある子が罪悪感を多く持ち合わせているのはとても理解できます。

自分はうまくできないという罪悪感が怒りに変化して、

またその行動から怒られて負のスパイラルに入ることがよく職場でもあります」

とおっしゃっていました。

わたしはこの矢印の紙を作って、まずいっしょに楽しみながら、

悪い方向に思いが展開するのを指でたどりながらいっしょに、ネガティブな言葉を吐いて、

不安がすっきりするようにします。

 

そそれから、いい方向に向かう選択肢の分岐点に物をおいて、

「あーこれだけひとつすれば、いいんだよね。いけるかな、どうしよう。どきどきするねー」

といいながら、子どもが、「長い文章題の1行だけ読んでみる」など、

できそうな課題に分割した難しい問題をひとつずつクリアしていくのを助けました。

 

大事なのは、悪い思考の展開を大人といっしょにオープンに味わってみて、

無意識の世界から意識の世界で眺めて笑えるものにすることなんです。

悪い思考の流れを大人が罰すると思っていることで、

その悪い思考のループから抜けられなくなりますから。

 

先日も苦手な問題にぶつかると、激しいかんしゃくを起こす小5のAくんと、

いっしょにこの矢印の先の内容を埋めているうちに、

爆発寸前だったAくんが自分でも図の中に書き込みをするうちに、

落ち着いたすがすがしい気持ちになってきて、

嫌がってののしっていたケタ数の多い計算に取り組んでいました。

後から指でたどって、今どの分岐点にいるのか見れるようにしたことで、

思いが暴走して、不安で何も手がつけられなくなる状態から抜けられたようです。


3、4歳の子でも、曲線のある立体物を作れるようになるための

2019-01-19 09:05:51 | 工作 ワークショップ

ショベルカーが大好きな年少のAくん。

教室にある小さな宝箱を見つけて、

フタの部分を指さして、「パワーショベルのほるところ」と言いました。

確かにパワーショベルのバケットと呼ばれる部分は、そんな形です。

 

パワーショベルの土をほる部分は、年少児には難しいだ円を半分にした形です。

そうした曲線を扱う工作をする時、教室では幼い子向けに

こんな手順を見せています。

 

長方形の紙を用意して軽く曲げて

作りたいものの形にします。

側面にする紙に当てて、えんぴつで曲線をなぞります。

えんぴつでかいた曲線を切る時、紙をもう一枚重ねて

同じ形が2枚できるようにします。

側面にテープで貼り付けたらできあがり。

 

こういう作り方をしていた子たちは、自然に展開図を思い描くことができるように

なっていきます。

 

写真のように、細長い箱をふたつ貼りあわせると、

パワーショベルのアームと同じように曲がります。

アームを車本体に貼りつける時、ゼリーの空き容器などを2つ重ねて使うと、

アームを自在に回転させることができます。


後々まで影響する時期ごとの接し方 

2019-01-18 13:11:02 | 0~2歳児のレッスン ベビーの発達

 

 

 子どもの月齢や発達の時期によって、後々まで影響を及ぼすような大事な接し方があると

感じています。

3歳の子たちは、いろいろな形で自分の頭を使いはじめるものの、

常識の伴わないでたらめともいえる考え方をします。

人は、「重要そうに見えて正しいこと」は、尊重するけれど、

「無意味に見えること」「どうでもいいような思いつき」「つじつまがあわない考え」

などは、軽んじたり、適当に受け流したりしがちです。

また、3歳の子が口にすることよりも、

世間一般で良いとされていることや大人にとって価値があることを

優先することが多々あります。

 

でも、この時期は、無意味に見え、どうでもいいことばかりで、つじつまのあわない考え方をするからこそ、

まだ生まれたばかりの思考の芽として、その弱さを守ってあげなくてはならないと

実感しています。

大人が軽んじて無視すれば、子どもは自分が考えようとしていたことすら忘れて、

大人の思考の誘導に従ってしまうからです。大人が否定すれば、

ただイライラする感情だけが残って、ぐずってイヤイヤいうことに終始するかもしれません。

3歳の子たちの知恵がどのようなもので、どうやってそれを守るのか(これまでも何度も書いてきていますが)は、

次の機会に書くことにして、

今回は、4歳の子たちに大事だと思う接し方について書こうと思っています。

 

上の写真は、もうすぐ年中になる子たち、4歳になってまだ日が浅い子たちの

工作風景です。

この時期の子と接していると、模倣が新しい段階に入ったのを感じます。

それまね大人や友達の真似をしてきた経験の蓄積ゆえか、多くの子が、

相手の行動を見るだけで、それは自分にできそうか、理解できるレベルの活動かを

判断するようになるのです。

この時期に、技術面や理解の面で、その子の能力の許容量(キャパシティ)を

超えるものをたくさん目にすると、

「できない」「ママ、やって」「先生、やって」とすぐに大人を頼るように

なることがよくあるのです。

そこで、お手本を見せる時は、子どもがわかるレベルで、できそうだと感じ、

やってみたいという気持ちがそそられるように気をつけています。

 

3歳が頭を使い始める時期だとすると、4歳は頭と体の両方を使う活動を始める時期と

いっていいかもしれません。

 

 

自分で、「こういうことをやってみよう」と思ってやりはじめて、

それに考えを乗せていきます。

行動こそ似ているようでも、それまでは、絵を描きだしたら、描く作業に

気を取られてそれだけで終わるか、「こうしたい」「こうだよ」とアイデアを出す時は、

しゃべることに夢中で、大人の手助けがないと、何をしらいいのか思いつかなくなる子が

ほとんどなのです。

でも、4歳の子らは、自分の「やりたい」に何が必要なのか、どんな手順で何をしていけばいいのか

手本を見ながら読み取るようになります。

といっても、体と頭を統合させる活動をしはじめる時期ですから、

それも身近な人が気遣ってあげないと、まだそれは簡単に摘み取られてしまう

新芽の段階です。

上のしゃしんは、4歳の子がうずまきを描いて、「ぺろぺろキャンディー」を作っていた

時の写真です。切り取った「ぺろぺろキャンディー」をお家の階段の横に

貼り付けて、

「ぺろぺろキャンディーみたいだったけど、ぺろぺろキャンディーの

すべりだいみたいになった」と言っていました。

 

 

 

 

 

上の写真は1歳3ヵ月のAちゃんの写真です。

1年生のお兄ちゃんがいるので、写真のクラッシュアイスゲームを購入したところ、

お兄ちゃんとお母さんがピースをはめて氷面をセッティングして、

Aちゃんが氷面を一撃で壊すという関係が繰りかえされているそうです。

教室でお家と同じクラッシュアアイスゲームを見つけたAちゃんは、

氷のピースをお母さんとわたしに手渡しては、早く氷面を完成させるよう

催促していました。

 

1歳の子たちは、「はい、どうぞ」とお母さんや身近な大人に何かを手渡すこと

1歳ちょうどの子たちは、自分の持っていたものを相手の手に落としていくか、押し付けていくような感じですが、

1歳3ヵ月くらいになると、はいどうぞ」と手渡すと、相手がそれをどう扱うかよく知っていて、

それを期待して渡すようになります。

Aちゃんの場合、「いくつもいくつもピースを渡すうちに

お母さんが順番にそれをはめていくので、

最終的に氷の面ができがって自分がそれをたたいて遊べるな」とかなり先のことまで見通した上で

遊んでいます。

Aちゃんのように相手からフィードバックを期待して働きかけるようになる時期、

子どもが何を期待しているのか、こちらの行動から何を読み取っているのかに

思いをはせながらていねいに接していると、

その後の他者から学ぶ力に大きな影響を与えるのを感じています。

 

 

上の写真は、1歳1か月のBちゃんが

自分の靴下をくつの中に入れようとしているところです。

Bちゃんのお姉ちゃんのひとりが、いったん脱いだ靴下を、なくならないように靴の中に入れておく

習慣があるそうなのです。

それで、Bちゃんも自分の靴下を手にすると、玄関の靴に向かっていくのです。

こうした真似っこは、繰り返すうちに、次第に真似する相手の意図を読み取りつつ模倣する

という一ステップ進歩したものへ変化していきます。

 

↑えんぴつでらくがき。

 

1歳前半の子たちは、小さいものをつまんで、ひっぱるのが大好きです。

↑の写真は、Bちゃんのために作った「ひっぱるおもちゃ」で遊ぶ

Bちゃんとお母さんの姿です。

こういういたずらのような遊びは、「遊んでいるな」と、

ただ見守る場合が多いと思うのですが、大人が返すフィードバックと環境(主に情報を減らして、

子どもが違いや用途に気づくようにすることです)

をわかりやすいものにすると、

1歳児さんたちは、大人とのやり取りに興じながら、相手の考えていることに

関心を寄せ始めます。

「こっちは長い」「こっちは短い」「こっちはストローをさしておいて引き抜く。なぜなら、そういう形だから」

「こっちは指で押さえる。」といったことを、模倣しながら理解していくだけでなく、

相手の行動と理由の結びつきに敏感になっていきます。

子どもたちの育ちを観察していると、

この時期の関わり方が、3歳頃の理由への関心や問題解決能力に影響を及ぼしている

のではないかと感じています。