小5の★ちゃんが、中学入試をするというので、
志望校の国語の受験問題を解いてもらって、一緒に答え合わせをしながら
解き方について会話を交わして、理解を深めていく手助けをしています。
★ちゃんは理解力があって物覚えもいい子です。
素直で勉強に対する意欲もまずまずです。
読書家で、言葉についてよく知っている★ちゃんですが、中学入試の国語問題で
問われる抽象的な言葉は、難しすぎるようで困惑していました。
先日も、「偽物の正義感」という言葉が表わす内容を抜き出す問題で、
「偽物」という言葉と、「正義感」という言葉の辞書的な意味がわかった後にも、
文の中で表現されているどのような行為が、「偽物の正義感」にあたるのか、
ピンとこないようでした。
★ちゃんの志望校の国語の読解問題は、大人向けの本の脳科学や生物の多様性の
話題が取り上げられるなど、難易度が高めです。
それでも★ちゃんは、国語の読解の際に
「肯定的なイメージで書かれている場所」と「否定的なイメージで書かれている場所」
を見分けて、文の内容がぼんやりとしかわからないときも、適切な答えを選んだり、
文を抜き出したりできるようになってきました。
こんなふうに試験で良い点を取るためのコツをマスターするのが上手な★ちゃんですが、
★ちゃんのお母さんは、日常生活で何かに疑問をもつとか、
納得できない事柄で悩むとか、
「わからない」ことを長い期間、保つようなことがほとんど見られない★ちゃんの様子を
少し気にかけておられて、次のようにおっしゃっていました。
「素直で要領がいいのはいいことではあるのですが、いつも あまりにあっさりと相手の
意見に同調してしまうし、日常生活で問題が起こっても、すぐに他人の意見を聞いて
納得してしまうので心配です。
その場でぶつかった問題は、無理があっても、中途半端な理解でも、その場、その場で
終わらせたいようで、問題を引きずるのが何よりきらいなようなのです。
そのおかげで、集団の場では協調性があるし、
確かに試験の成績は伸びてはいるのですが、いいことばかりでもないのです。
「こういうときはこんなふうに解けばいい」という方法を暗記して解くので、
どうしても問題の表面をさらっていくような解き方で、
ちょっと異なる問い方をされると、基本中の基本とも言える概念が
わかっていないという場合がほとんどなのです。
★は小さい頃から育てやすくて、何でもすぐにマスターする教えやすい子でしたが、
今、その性質がネックになって、本当の理解に達するまで考えていく力が
失われているように感じます」。
★ちゃんのお母さんの心配ごとは、
優等生の子の親の贅沢な悩みのようにも聞こえるかもしれません。
でも、「まったく見過ごしていてもいい、放っておいてもいい」とも思えません。
現に、入試の国語で出てくる抽象的な言葉を学ぶとき、
これまでの★ちゃんのやり方が通用しなくなりつつあるのです。
というのも、抽象的な言葉が指すものは、
「暗記したらおしまい」という一つの意味と結ばれるわけではないからです。
同じ「正義感」という言葉も、
こちらの文章では、このような場面にこのような態度で発揮されていたけれど、
別の文章では、心の中に秘めている思いとして表現されていたり、
明るく肯定的な意見で使われていたかと思うと、皮肉っぽく自己卑下するような
言葉の中で使われていることもあるのです(「ぼくの薄っぺらな正義感」など)。
そうした複雑で多様でさまざまな意味を含んでいる抽象的な概念の理解は、
日常の暮らしの中で「悔しいな」って思ったり、納得できなくてもんもんとしたり、
悲しくて胸が張り裂けそうになったり、
喜びで舞い上がりそうな気持ちになったりしながら、
自分の内面で言葉を練ることを通して発達していきます。
勉強では、理解をするときや記憶するときには集中しても、
ほかの場面で、いつもその場に流れる空気に同調するだけで、自分の考えを持たないで
過ごしていると、「答えが一つ」ではない問題を解く力が育ってこないのです。
★ちゃんは、ひとつ年下の☆ちゃんと一緒にレッスンしています。
☆ちゃんは、★ちゃんとは正反対ともいえる性質の子で、本気で考えているわりに、
すんなり「わかった!」という状態に至ることはめずらしく、
何ヶ月もわからないまま問題を置いていることがよくあります。
算数の文章題を解く際には、少しでも納得できない点があると、
「わからない」と言って考え続けているので、なかなか先に進めないときがあります。
そんなふうに☆ちゃんは、★ちゃんの「得意」としている素早く理解し
マスターするという面で、「苦手」があります。
でも、それは悪いところばかりとは言えず、
「わからない」と言い張るには、自分の頭でしっかり考えているからとも言えて、
☆ちゃんが「あっ、なんだ。そうだったのか、わかった」と言うときには、
その概念の非常に深い意味まで☆ちゃんの内面で消化されてもいるのです。
先日も、つるかめ算をベースにした買い物をする問題で、
数ヶ月前にはでたらめな式を立てて、間違えた答えを書きつづけていた☆ちゃんが、
自分の間違いを見直しながら、なぜ間違っているのか納得できないからと、
さんざんぶつくさこぼしていました。
が、見直しながら図を描いて考え込んでいた☆ちゃんが、「あーなんだ。そうか!
わかった、わかった」と言いだしたかと思うと、
同様のかなり難しい応用問題も解いてしまいました。
「ここが納得できない」「どうして、これがこうなるの?」
「なぜ?」「わからない」とさんざん「わからない」と格闘していた結果、
教わって、「こう解けばいいのか」と納得するよりずっと深い理解に達したのです。
もちろん、★ちゃんと☆ちゃんを比べて、
☆ちゃんの方が★ちゃんよりできるとかできないとか、
上とか下とかいう話ではないのです。
どちらにも長所があって、学習していく上で、一方に偏らず、どちらの良い面も
少しずつ取り入れていく工夫が必要だと感じているのです。
『「プロ編集者による」文章上達<秘伝>スクール』という本に、
文章を書くということについて、次のように書かれています。
これって、文章を書くことだけでなく、抽象的な概念について考えを練っていくときも
こういうところがあるな~と思ったので引用させていただくことにしました。
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それでも文章に関心がない人っている。
どうして、ものを書く人と書かない人が分かれるかっていう疑問があるよね。
すごく根本的に言って、うまくいろんなことに適応しちゃっている人は
そんなに書く必要を感じていないのね。そもそも。
(略)
基本的にうまくいかないことを埋めていくために言葉って生まれていくんだけど。
で、どんどん自他が別れていくと、人間はいろいろ考えちゃうんだよ。
うまくいってる時には考えない。
例えば、ここにクーラーがついてればクーラーのことは忘れて、
ただ快適にいるわけだけど、クーラーが壊れていて暑かったら
「クーラーどうしたの?」という言葉が必要になってくるんだよね。
(略)
だから、自分の中でうまくいかないことを治療するために言葉ってのは
生まれてきてるんだよ。人の肉体が傷つくと血が出るでしょう。
それと同じように人がうまく世界とつながれないと、
そこに言葉が必要になってうまれてくるんだよ。
(『「プロ編集者による」文章上達<秘伝>スクール』 村松恒平
メタ・ブレーンより)
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うまくいっているときには考えない……
確かにその通りなのでしょうが、
誰でもわが子が、悩んだり迷ったり、ミスして恥ずかしい思いをしたり、
欠如感を感じたりするような体験をさせないように手を尽くしがちですよね。
その結果、子どもたちは、問題や障害物にぶつかること自体がほとんどなくて、
何となくいつの間にか、真剣に考えることも、
自分に足りないものに気付いて、強く欲することもなしに
日々をやりすごしているのかもしれません。
虹色教室でも、子どもたちが、真剣な表情で
「ああでもない~こうでもない~」と言葉をひねり出しながら訴えてくるときは、
何か心に引っかかることがあって、納得していないときです。
☆ちゃんは、教室に着くなり、
「ねぇ、先生、聞いて聞いて。うちのクラスの~が……」と
学校の愚痴やら、何だか納得できない心に引っかかっていることやら、
これはおかしいんじゃない?と感じた出来事なんかを、話しだすことがよくあります。
それで、私は「へぇ~そうなの」とうなずきながら、よりくわしく説明してもらために、
「それはいつのこと?」「その時、どう思ったの?」「それなら☆ちゃんが、
運が悪いって言い方で表現するのは、カードゲームをするときに、
悪い札が回ってくるとか、くじびきをしたら外ればかり引くとかいうことなの?」
といった質問をします。
すると、☆ちゃんからは、「私は運が悪いけど、席替えのときに隣に座る子とか、
友だちは良い子ばっかりだから、そういう運はいいけど、
でも、ゲームの時の運は悪いのよ」などと返してきます。
そうしたときに、「なら、☆ちゃんの私は運が悪いって言葉は、遊びの中のゲームの
一部にだけ限定して言えることなの?」
「それなのに、私はいつも運が悪いと感じてしまうのは、事実ではなくて、
一部をすべてのように錯覚して使っているんじゃないかしら?」
というように、「限定」とか「事実」とか「錯覚」といった
まだ☆ちゃんには少し難しいけれど、会話の中で使っていると自然にどのような意味か
わかってくる抽象的な言葉も使うようにしています。
こうした私と☆ちゃんの間で交わされるような話は、同じ時間に通ってくる★ちゃんと
交わすことはこれまであまりありませんでした。
★ちゃんは、お勉強のできるしっかりした子ではあるのですが、
会話が始まると、すぐに「そっか~」「うん、わかった」「そだね~(そうだね)」
「そうそう、まあね~」とうなずくだけで、
ニコニコしながら満足そうに話を終わらせてしまうところがあるのです。
子ども同士でけんかになりそうなときも、「じゃ、いいよ。私は今度でいい」と
すぐに譲ってしまって、何事もなかったかのように過ごします。
周囲の人がアドバイスすると、「うん、そうしとく」とふたつ返事で納得します。
★ちゃんのお母さんは、★ちゃんにさまざまな体験をさせるように
気を配っていますが、何をするにも★ちゃんは上機嫌でうれしそうにこなすものの、
強く心に響くということもないようです。
★ちゃんは、幼稚園の頃から先生の期待するものをそのまんま取りこんで、
自分がやりたいことなのか先生の望みなのかわからなくなるほど、
良い子に振舞うことがよくありました。
それが小学校に上がってもずっと続いてきたために、文章は読めるし、
文法も漢字もわかるのに、文章の中で描かれている主人公の心の軌跡や、
抽象的な言葉が指している内容について、
どれほど具体的に説明されてもピンとこないところがあるのです。
あんまりものわかりのいい良い子もちょっぴり困ったところがあるものです。
算数の勉強のときも、「こういう問題はこのパターンで解けばいいのか~」といった
理解が早いので、根本的な問題の意味をつかまないうちに
解けるようになってしまうところが、★ちゃんの親御さんが気にかけていた
「問題の表面をさらっていくような」解き方になってしまうということなのです。
私は、★ちゃんに、国語で出てきた抽象的な言葉について、
それが表わす具体的な例をいくつか挙げて、
「ね、さっき説明したような偽の正義感を振りかざすような人がいたら、
今度教えてね。あっ、こういうの、偽の正義感だ。自分は道徳的に正しいことを
している態度を示しているけど、それって、何だかずるくないかな?って
ことを言ったりしたりする人がいないか、いろんな人を観察してきてね」
という宿題を出しました。
算数の勉強では、やったけどわからないから、その日はわからないまま置いておいて、
自分の頭のなかでじっくり考えてみることを大切にするように伝えました。
★ちゃん、素直ですから、そんなややこしい課題にも、
「うん、わかった。やっとくねぇ~」と明るい返事でした。
中学入試に出てくる難解な国語の文章や言葉を目にすると、
「そんな難しい言葉が出てくるようになるのか」とびっくりして、
「それなら、早めに辞書を引く習慣を身につけさせておけばいいの?」
「幼いころから、難しい言葉の意味を教えていけばいいの?」
と感じた方がいらっしゃるかもしれません。
そうして、大人が知識を与えて、それに自分の意見をはさまずに素直に
吸収するほど、幼いころは賢く見えるし、学習を先に進めることができます。
でも、そうすればそうするほど、
子どもは現実の世界で自分が理解できないことにぶつかっても、
「大人が正しい答えを教えてくれるから、自分の頭を使って考える
必要はない」という態度を示すようになります。
それか、本に正しい答えが書いてあるから、
苦労して自分で「ああかな~こうかな~」と考えて、
間違えるくらいなら、「何も考えないようにして、暗記した方が得」と
感じるようになったりします。
子どもは子どもの脳の仕組みを使って、自己中心的に物事を考えて
いきますから、
正しいか正しくないかという大人の世界の尺度で測れば、
たいていでたらめで間違っています。
でも、そうやって、子どもが自分の頭で考え、
自分の言葉で練った内容というのは、
子どもが自由自在に自分の内面の世界を歩き回る際の
地図の役割を果たしてくれもいるのです。
たとえば、仲良しの友だちが別の子にいじわるされているのを見て、
「どうしたらいいのかな?」って自分の中でさんざん迷って、
勇気を出してお友だちを助けてあげたという体験があるとします。
すると、子どもの内面には、「正義感」という言葉や「勇気」という
言葉の概念を理解するために元となる体験が、一つ蓄積されたことに
なります。
でももし、大人が「こういうときは、こうするんですよ」と教えることを
徹底しすぎて、お友だちのいじめを見た子が反射的に
「先生~○○くんが悪いことしてる~」と言いつけて、
あとは大人の仕事と考えて、すぐに自分の遊びに戻ったとすると、
同じ体験にぶつかっても何も残らないかもしれません。
もちろん大人の助けを借りなければならない場面というのはあるのです。
いじめも早めに芽を摘んでおかなくてはならないものでしょう。
でも、そうして、子どもが直接体験して、
自分で考える体験を奪ったら奪っただけ、
それ以外の場所では、大人は一歩、控える必要があると思うのです。
何から何まで大人が口をはさんで、決めてしまったのでは、
いったいいつ、子どもは、「正義感」とか「勇気」とか「罪悪感」とか
「憧れ」とか「欲求」とか「自覚する」といった言葉のもとになる体験を
自分の中にためていくのでしょう?
大きくなって、そうした言葉に出会ったとき、
「ああ、私がいつまでもごねていて、
しまいに夕ご飯いらないって言ったときの気持ちが、本の中の……
自分の気持ちと折り合いがつけられなくて、わけもなく執拗に……って
言葉が表わしているのと一緒かな?」と察するためには、
それまで生活の中で、感情を通して味わったさまざまな体験が
たくさん必要なのです。
大人は、子どもに指示を与えたり、答えを教えたりするよりも
一対一でじっくり会話をする時間を設けて、
子どもの話にじっくり耳を傾けるようにすると、
より体験が子どもの中で深まるのではないでしょうか。