ティッシュ箱2個をつないで、テープでとめます。
箱の底を切り抜いて扉にします。
子どもたちのアイデアで回転皿を取りつけました。
ストローを回すと回転します。
↓ 底の様子
ティッシュ箱2個をつないで、テープでとめます。
箱の底を切り抜いて扉にします。
子どもたちのアイデアで回転皿を取りつけました。
ストローを回すと回転します。
↓ 底の様子
「若者たちはなぜ、社会に対して何かを訴えたり行動したりしないのか」という内田樹氏への質問 8
の続きです。
息子の話に何度かウィトゲンシュタインの名前が挙がることがあって、
きちんと読めていないけれど、その内面世界の広がりに共感する、魅力を感じる、といった
感想を耳にしていました。
それをきっかけに息子が次のようなことを言いました。
息子 「最近の若者は内向的で外に目が向かないって声をよく聞くけど、
内向することは必ずしも悪いことばかりじゃないよ。
確かにぼくの周囲にも内面世界の安定を何より優先している人は
多いと思う。
内面世界が広がり過ぎたゆえに、いままで効果がなかったイメージ戦略が
重要視されてるとも言えるよね。
この水の何パーセントかが海外ボランティアへの募金につながります~なんて
言葉にぼくたちの世代が惹かれることを、
単なる世間知らずやゆとり教育が作りあげた弱々しい人間という枠でだけ捉えるのは
どうなのかな?
小さな損害に騒ぎ立てて、攻撃しているように見えるときにも、
裏を返せば、私利私欲をもさぼる人への嫌悪感と
ぼったくらずにまともに商売している人を守りたいという
潔癖な気持ちが動いていたりするもんだよ。
ネットの掲示板を見ていても、
心の奥へ奥へと内面世界に目を向ける人は確実に増えていて、
解決をそこに求める人々も多いのがわかる。
ただ、内面世界が広がるばかりで、
その世界が成長するすべを持っていないんだ。
純文学を読んでいると、ひと昔前の若者も、
内向することを選んだけれど、そこには成長するための確固とした
基盤や背景があったのを感じるよ。
今、ぼくたちが自分たちの内面世界を成長させる活動は
商業主義の社会とか日常の慢性的な忙しさに邪魔されているように思うな」
母 「自分の内面世界を広げることに価値を見出す若い子たちは、
内面世界を切り捨てて、外界に目を向けるより先に、
内面世界を成長させるすべを求めているのね」
息子 「発展途上国の子どもたちがさ、学者になりたい、宇宙飛行士になりたいという
夢を語る一方、日本の子らは夢がない、夢が小さいと嘆かれがちだけど。
でも、ある面、今の日本の子らは『本質的なもの』を見ているともいえるんだよ。
あれになりたい、これになりたいという元々の夢が安易すぎるという点もある。
お金もいになりたい、大金持ちになりたいという夢よりも、
自分自身の日常生活や心の状態の安定を第一に考えるようになっていることを、
単に志が低いという一言で言い表すだけで正しいのかな。
本質を見ているということは、職業とか車や家や持ち物よりも
心や内面世界の安定を大事にしているってことだよ。
もちろん、そこに批判されるような欠陥がないわけじゃない。
でもそれは志を同じにするもの同士がネット上のつながりを通して
いくつもの人の集まりを作っているわりに
そこにリーダーがいないこともあるんだと思う。
つまり、話が戻るけど、内面世界の成長が阻まれているから、
集団のひとりひとりの思いをていねいに拾って、
ひとつの創造的な解決法に向かって方向付けていく力が
育っていないんだと思う。
でも、それが起こる必要がある場は、
必ずしも外の世界の先にアウトプットして団結することからはじまる活動ではなくて、
内面世界の本当のみんなにとっての最善を議論し、熟考して練っていく場から
生まれる活動なんだと思う。
さまざまな事象が複雑に絡まり合う今の世界では、
考えるよりまず行動とばかりに
攻撃や暴力を全面に出して動けば
必ずとばっちりを受ける誰かがいるはずで、それはたいてい
何の落ち度もない普通の人のはずだよ。
だから、ただ若い人が内向的な態度を改めて、外に目を向け、車を買い、流行の商品を追いかけ、
不満に対して互いに共感しあって何か行動を起こせばいいってわけじゃないと思う。
今、多くのぼくたちの世代が内面に目を向けているとしたら、
それには大事な意味もあるんじゃないかな」
母 「確かに、思い当たるわ。お母さんの母の世代、★(息子)のおじいちゃん、おばあちゃんたちというのは、
何か根本的ない内面世界の大事な部分が欠けているように見えるところがあってね。
たとえば、おばあちゃんはクリスチャンになって日曜礼拝に通っていたけれど、
まるで『クリスチャンである』ということを、
他と自分を分類するためのレッテルや記号のように認識しているように感じるときがあったわ。
聖書は読むけれど、聖書を読んでいる自分という図に満足して、
その内容に少しも近づいていないという感じかな。
まるで、CMで流れる清らかな1シーンを自分のイメージにかぶせるために
クリスチャンになったかのような。
おそらくおばあちゃん、おじいちゃんの親世代が敗戦のショックから立ち直るために
ひたすら外に目を向けて、
自分の内面世界と向き合うことを極端に避けていたこととも関係があるんじゃないかしら。
そんな風に内面世界というか、アイデンティティーというか、
そういうものがまるで空洞であるかのように感じるのは、
母(祖母)だけではなかったの。
あの時代の大人たちの会話のなかにある、
すごく表層的で、美しいものを求めているのに神経症的で、
清潔で完璧で強くてすばらしい世界のイメージの背後にある
人間の不在のようなものを、
子どもの頃、身近な人の死に遭遇したときに
実感したわ。
そういうお母さんも、そうした祖父母世代のもとで育って、
欠如感だけ抱いて成長した後で、
20歳くらいの頃は自分がさっぱりない状態で病んでていてね、
結婚してから長い期間をかけて、自分の全体性を取り戻してきたのよ」
息子 「外に向かう心と同じように
内に向かう心も大事にしなきゃならないってことだね。
そんな風に外に向けて何かをアウトプットするのと同じように
内面で起こることも大事にしてくってさ、
こういうことだと思うんだ。
ほら、マザーテレサは、自分で動いて、社会に働きかけて、
多くの人々を助けたことで有名だから、外に向けてアウトプットされた
行動だけが評価されがちだよね。
でもぼくは、マザーテレサが内面に持っていた
人を助けることに喜びを感じることができるという感性の方に
魅力を感じるんだ。
マザーテレサは、他人を助けることが良い行いだからとか、
道徳的な行動を率先してすべきだからという理由で
活動していたんじゃないと思う。
自分の内側に育ててきた
人を助けると自分も気持ちいい、自分まで喜びを感じる、
人を助けることは自分の内なる神への奉仕であると感じていた
感じ方そのものが、マザーテレサを動かし続けたんじゃないかな。
人は多かれ少なかれ、人を助けたときに、
純粋に自分が喜びを感じる側面を持っていると思うよ。
それは、自分のためにしている行為だから、道徳的な正しい行為より
劣るってことはないはずだよ。
内面世界は、外の世界と同じように
価値を認めて、大切にして、成長させていかなければならない
世界だと思うよ」
明日から5日間、北海道旅行のためにブログをお休みさせていただきます。
今日、は1~2記事書く予定です。
いつもブログを見にくてくださっている方々、どうもありがとうございます。
お友だちに「青い筆箱なんて、男みたい」とからかわれて、
ショックを受けて帰ってきたという☆ちゃん。
3年生までは持ち物のことでからかわれることは一度もなかったそうですが、
4年生になってクラスの子らが男の子、女の子を意識して遊ぶ子が増えてきたのだとか。
小学校に入学したとき、☆ちゃんは、
「ひとりだけ他の女の子たちとちがう筆箱でいじめられるのでは……」と心配する
お母さんに対して、「どうしても青いのがいい」と言い張って
それを選んだそうです。
3年生までは、何の問題もなかったのですが、
4年になってはじめて筆箱の色を指摘され、
ショックを受けて茫然としている☆ちゃんに、
☆ちゃんのお母さんは、「どうする?どうしたい?」とたずねました。
静かに考えていた☆ちゃんは、
家のなかを探して、使っていなかった別の色の筆箱を持っていくことに
決めて、それからは元気に過ごしているそうです。
この話を聞いて、
お母さんの少し控えた態度のおかげで、
☆ちゃんに「自分で苦しみを克服できた」という体験を
させてあげることができてよかったな、と思いました。
☆ちゃんは、ちょっと強くなって、ちょっとしっかりしたようでした。
次に、辛い出来事にぶつかったときには、
「誰かに相談したり、頭を使ったり、判断したり、何かを選択したりすることで、
それを克服できるかもしれない」と、
簡単にくじけずに考えることができるかもしれません。
4年生の☆ちゃんのレッスンです。
3ケタ÷2ケタの計算で、少し困惑している模様。
お金を使って、だいたいこれくらいの数で割れるかな~という
おおよその数を設定する練習をしています。
アスペルガー症候群の☆ちゃんは、
「318円がだいたい300円くらいで、
こういうものが買えそうだ」という日常で把握している数の感性が
無に等しいです。
「312円が318円になっても、たいしてうれしくないけど、
312円が381円になるのなら、
50円1枚分は得しているな」とピンとくる感性です。
そのため、割り算のケタ数が増えてくると、
混乱することが多くなってきたのです。
☆ちゃんに、「割られる数の上から2つの数と、2ケタの割る数見比べて、
割れなかったら、3つめの数も入れて、とりあえず最初の数だけ残して後を0にして、
5×1=5 5×2=10 としていけば解けるのよ」
と手順だけを訓練していって
できるようにさせることは可能なのです。
そのように、学校で学んできた算数は
意味がわからないまま丸暗記を積み重ねて、
これまできているのです。
このまま、電話番号を暗記するように
形だけ暗記してできるようになっていく危険を感じて、
根本的な数の感性の弱さを克服する形の
アプローチも大事だと感じています。
◆ お金を見た時に、だいたいがわかる感性、
(「325円って、だいたい何百円なのか。
389円て、だいたい何百円なのか。
82円あるとき、20円のガムがいくつ買えるのかなど)
◆ 指1本を10円として、9の指を90円と考え、
目で手を見ながら、90÷30ができる感性
などを育てていくことが大事だと考えています。
☆ちゃんを見るうちに、叱ったり、怖がらせたりするより
先にするべきことがあるように感じました。
わたしが気になっていたのは、☆ちゃんのお母さんを求める気持ちの薄さです。
☆ちゃんは誰にでもすぐ甘えて人懐っこい半面、
お母さんと他の人のちがいがわかっていないようにも見えました。
そのためか、転んだり、軽いけがをするような場面で、
泣いてお母さんに甘えるのではなく、
一瞬、泣き顔になって、放心したように突っ立っていたかと思うと、
たちまちケロリとして動きだすことがたびたびありました。
痛みや不快な体験に対する鈍感さのようなものも感じました。
暗い部屋にひとりでスーッと入っていって遊んでいたり、
ちょっとこれは危なそうだぞ、という人や場所にも
躊躇せずに近づいたりする姿も目立ちました。
わたしには、☆ちゃんの問題は、厳しく叱る大人がいないため怖い物がなくて
危険なことをするというより、
人見知りをする時期の子が他人に見せる警戒心のようなものの足りなさや、
「怖い」とか「不安」といった感情に対する鈍感さにあるように感じました。
そこで、☆ちゃんのお母さんに、
☆ちゃんが、「お母さんじゃなきゃだめ。お母さんが一番好き」と感じるくらい
たくさんスキンシップを取って、☆ちゃんにかかわるように勧めました。
また、日常の小さな体験を☆ちゃんの目線でいっしょに味わいながら、
「そうっとそうっとね」とか「痛い痛い」「怖い怖い」など、
感情を言葉やジェスチャーで表すようにもしました。
身体が固くて、背中を触られても気づかないような
鈍感さが気になったので、ごろごろ転がったり、ピョンピョン飛んだりする遊ぶなど、
感覚を統合する遊びを増やすことも提案しました。
それから2週間後、わたしを見るとすぐにだっこするようせがんでいた
☆ちゃんが、少し固い表情でわたしを見上げました。
そして、お母さんには何度も笑いかけながら、抱きついていきました。
そんな風に、お母さんが一番、他所の人はちょっぴり怖い……という
人見知りに近い態度が出てくると、
気になっていた鈍感さが、目に見えて減っていました。
まるで耳が聞こえないかのように振舞うことも多かったのに、
呼ぶとパッと振り向いたり、
「それ、ちょうだい」と指さして指示すると、
ちゃんと指さしている先のおもちゃを取って渡してくれるようにもなりました。
「怖いね、怖いね」とか「どうしよう、どうしよう」など、
感情をいっしょに味わうのも上手になって、
おそるおそる覗きこんだり、怖がる真似をしてキャッキャッと笑い声をあげるように
なってきました。
そんな風に、いろんな感情を感じとりやすくなってくると、
危険なものに会うと、ちょっと振り向いて、
お母さんの表情をうかがうようになってきます。
そうした☆ちゃんの変化を見て、
愛着の薄さが感じられるときに、叱って怖がらせて
さらに愛着がつきにくい状態にしなくてよかったとしみじみ感じました。
強く叱るべきかどうか迷ったときには、
まず子どもの様子をていねいに観察してから、
接し方を決めるといいですね。
怖いものしらずで、聞き分けのない2歳3カ月の☆ちゃん。
そうした相談をママ友や祖父母にしたところ、
「まだ2歳だから言うことを聞かないのは当たり前。いちいち怒る必要はない」というアドバイスと、
「昔のように怖い人がいないから、大人の言うことを聞く気がない。
もっと大きな声で厳しく叱った方がいい」という正反対のアドバイスを受けて、
どう接したらいいのかわからなくなったそうです。
叱られても知らんふりするか、笑い声をあげるかして、
悪さを続ける☆ちゃんに対して、
怖がらせるほど強く叱った方がいいのか、
危ないことをしたときには体罰を加える必要もあるのか、
まだわからないのだから、抱きしめて気をそらしてやればいいのか、
迷っていたのです。
そんな相談をうかがいながら、
わたしは☆ちゃんと☆ちゃんのお母さんと連れだって公園に遊びにいきました。
そうしていっしょに過ごすうちに
☆ちゃんのお母さんが叱り方に悩んでいる理由がよくわかりました。
というのも☆ちゃんは、道路で車が通りかかったとたん、
突然、手を振り払って車の方に走っていこうとしたり、
他所の家の郵便受けを開けることとか、汚いゴミを触ることとか、
どうしてもやめさせなければいけないことばかりしたがる上、それにしつこく固執するところ
があったのです。
抱いて連れて行こうとすると、反り返って激しく抵抗します。
アスレチック付きの滑り台にのぼっていく際、小学生のお兄ちゃんたちが
滑り台の前のスペースでカードゲームをして遊んでいたのですが、
ひるむことなくお兄ちゃんたちの輪のなかを横断すると、滑り台に上についている鉄棒に
ぶらさがりました。
その後、滑り台をいきおいよく滑ってきて、何度もそれを繰り返しました。
言葉でだけ説明すると、
「2歳児はまだものがわかっていないから、そんなの当たり前」と
言えばお終いなのですが、
どうも☆ちゃんには一般的な2歳児とは微妙な点で異なる面があって
☆ちゃんのお母さんを悩ませていることがわかりました。
それは「危険に対する警戒心のなさ」「危険そうなものに惹かれてこだわる傾向」といったものです。
「危ない、ダメ!」と強い口調でストップをかけたにも関わらず、
子どもが突然走っている自転車に近づこうとしてヒヤッとする……といった出来事が重なると、
大人が大きな声で「ダメ!危ない!」と注意したら、
ストップできるようにだけはさせておかなくちゃ、
怖いものがないから言うことを聞かないから普段からこの人は怒ると怖いよっと
わからせておかなくちゃ、と思うようになる気持ちはわかります。
また、☆ちゃんのように、わざわざ触って欲しくないものにばかりこだわったり、
他人に迷惑をかけることをしつこくやりたがったりする場合、
「怖がらせておかなくちゃ」という気持ちがだんだんエスカレートして、
2歳児相手に一日中、怒り続ける行為にもつながりがちです。
☆ちゃんのようなタイプの子には
どのように接するのがいいのでしょうか?
引っぱるようですが、次回に続きます。
↑ 科学クラブの女の子が、秋休み(国立小の子です)に鍾乳洞に行ってきたそうです。
こんなすてきなお土産をいただきました。
つるつるした石のようなのに、蜜蠟のようでもあって、
ひんやりしているのに、なぜか温かいようにも感じます。
「これを隠して、洞窟ごっこをしよう!」と
さっそく子どもたちのおもちゃになっていました。
「貝殻の渦巻きの形はどうしてできたのかな?」と
話し合っていると、「海の水が渦をまいていたところに
あったから、こんな風になった」という子が続出。
貝殻はプラスチックとはちがう
本物の感触がします。
子どもたちによると、本物か偽物かはすぐわかるけれど、
本物と偽物ではどこがどう違うのか、
言葉にするのは難しいそうです。
母 「安定した状況を求め過ぎていて、すでに安定しているのに、
かえってその安定を崩しているんじゃないかって視点について、
もう少しくわしく説明してもらえない?」
息子 「人は、多かれ少なかれ未知なものに憧れて、
すでに持っているものには興味を感じることができないって性質を
持っていると思う。
でも、安定という基準を、ありえないほど高い架空のものに
設定してしまったせいで、
安心できるんだけど、イライラする、
安全なんだけど、意欲が湧かない、満足できないって気持ちが
日本中に蔓延しているように感じるんだ。
といっても世界は未知なものだらけだし、未知なものを避けているわけでも
ないんだろうけど、
人生のなかにそうした未知なものが
どっぷり入ってくることがなくなってる気がするんだよ。
子どもの事故を防ぐため、子どもによりたくさんの知識を詰め込むために、
子どもの世界から冒険が消されてしまったようにね」
母 「ちょうど鷲田清一先生の本で、
かなり前の酒鬼薔薇事件の直後に書かれた文章なんだけど、
快適さとか安全とかを求めて
教育や街作りが進めてきたものが正しかったのか、原則も根本から
見直しを迫られているのではないか、と問いかける文を読んだところよ」
「これなんだけど」とわたしは息子に『普通をだれも教えてくれない』(ちくま学芸文庫)
という本の
『「おとな」の事件』『息つまる゛快適な街゛』という文章を見せました。
ついでに同じ鷲田清一先生の『噛みきれない想い』(角川学芸出版)も手渡しました。
しばらくいくつかの文章に目を通していた息子は、
ニコっと笑って、「この先生は、世代を超えて自分のフィールド外の人とも
気さくに話をする方なんだろうね」と感想を言いました。
いつもながら、★(息子)は直観的に書いていないことまで感じとるんだな、と虚を突かれました。
著書のなかで、鷲田清一先生は次のようにおっしゃっています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
神戸の児童殺害事件をめぐって実に多くのことが語られてきたが、
論じても論じても、容疑者の子どもの像も、被害者の子どもの像も、どこか
はっきりしない。それはこの事件が「おとな」の事件だからではないか。
論評の渦のなかでそんなふうに思うようになった。
教育の反省と改革、都市設計の精神の見なおし、事件とともに
こういしたことが求められるように、人びとは感じ出している。
(略)
環境にやさしい、地球にやさしい……そんな「やさしさ」という言葉のインフォメーションが、
やさしさをすり減らせる。市民の自由、非行の防止のためによかれと
思って積み上げてきたことが、
「よい」ことばかりであるがゆえに、もっとも「よくない」ことを
生み出すことになった。
そういう事実を、よく考えてみる必要があるように思う。
もちろん「おとな」が、である。
「やさしさ」と声を大にして言える、みずからの意識の粗さ、意識の不感症を、である。
(『普通をだれも教えてくれない』鷲田清一(ちくま学芸文庫)p082)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
息子はちょっと考えてから、
「ある意味、この世にぼくとかお母さんみたいな『子ども』って存在が
いないのかも」と面白いことを言いました。
わたしは「前にハーメルンの笛吹きっていう詩で同じようなことを書いたことがあるわ。子どもがもう子どもじゃなくなって、
街中、子どもがいないって詩ね」と答えました。
息子 「小学生のとき、周りを見ていてずっと感じてたんだよ。
ぼく以外、ひとりも子どもがいないんじゃないかってね」
母 「ふーん、そうなの」
息子 「誰もが自分に求めるレベルも
他人に求めるレベルも厳しすぎるよね。
人間に求める常識が高くなっているというかさ。
公務員の癖に忘れものするなんて、公務員やめちまえ~なんて
暴言が簡単に出てくるしさ。
一方で、人間なんだから失言もするだろうし、人間なんだから
ぶちぎれるときだってあるはずなのに、
ひとつの汚点で人間であることも認めてもらえないような
風潮もあるよね。
学校にしても、年中、成績がいいやつは勝ち組で、
悪いやつは負け組でって、
テスト1枚でおまえはバカだアホだってののしってもいいって
思ってる教師が、どんだけってくらいいたしね。
ネットの世界でも、他人に求めるものはすごく高い一方で、
自分は批判されてもしょうがないって
自虐や落ち込みをよしとしている人が増えているようだよ」
母 「それはしんどいわよね。
そこから抜け出す方法はあると思う?」
息子 「批判したり、攻撃したり、慢性的にイライラしたりするのは……
人に高い常識を求めてキレ続けることも含めてさ、
自分のなかに何だかわからない不安を抱えているんだと思う。
ごまかさないで不安の原因を探す必要があるはずだよ。
自分の常識からはずれる人を蔑んだり、
他の人々の怒りに同調して、誰かを攻撃したりするのじゃなくて、
実際何が不安なんだろう、生きがいがない理由は何だろうって、
自分に嘘をつかずに、
そういう問いに真摯に向き合うと、
ちょっとは楽になるのかもしれないよ。
それぞれの人が自分の本当の問題から目をそらしているから、
こんなに社会が混乱している面もあると思うからね」
(<科学クラブの子どもたちへのお知らせ>
今回、作ったプラモデルの片方のモーターが
動かない状態でプラモデルを持って帰っていますが、
説明書の⑩の「A9でボリュームを右に回しておきます」という
部分をよく読んで十字ドライバーで調節し、かたつむりが走行するための黒い線を
画用紙に油性マジックなどで描いてから、走らせてみてください。
もしわからない場合や、説明書がないという子は次回の科学クラブにプラモデルを持参してください。
走らせ方を説明します)
小学2、3年生の科学クラブの様子です。
今回はプラモデル作りや、自由な電子工作や、シャボン玉の膜を交わらせるための道具を
針がねで作ったりして遊びました。
作ったプラモデルは、『かたつむり ライントレーサー』です。(模型店で1600円ほどで購入できます)
かたつむりが、触角を上下に動かしながら、黒いライン上を走行します。
科学クラブの子たちは、算数クラブさんたちに比べて
(虹色教室で学んでいる)算数の学習時間が少ないので、
今回は理科の問題はお休みにして
最後に旅人算を学ぶ時間を30分ほど取りました。
はじめてこうした問題を目にする子が多いにも関わらず、
工作や科学の実験で培った工夫する力で
教えなくても、それぞれが自分で絵を描いて、式を立てて、
問題を解くことができたのには驚きました。
ケーブルカーのリサイクル。
滑車を使って、面白い仕組みができないか、
友だちといっしょに、いろいろ試しているところです。
↑女の子は、電池が使えるか確かめる役をしていました。
↑シャボン玉の膜の特徴を調べています。
思ったより簡単にできて、面白かったです。
もう少し、じっくり作業がしたかったです。
参考にしたのは、『数学は楽しい』part2(日経サイエンス社)の「シャボン玉の幾何学」
という記事です。
一番楽しそうに遊んでいたのは、
みんなで巨大なブロックの塔を作っていたときです。
協力しあって、いきいきした表情で作っていました。
科学クラブのメンバーのひとりの子のお母さんによると、
虹色教室では、友だちといっしょにいろんな遊びを創り出して
うれしそうにしているけれど、
普段、家に遊びに来た友だちたちに、工作に誘っても、ボードゲームに誘っても、
「やりたくない~つまらない~めんどくさい~」と、どれも却下されて、
最終的にテレビゲームをすることしか遊び方がなくなってしまう
ということでした。
この科学クラブのメンバーのひとりは、
テレビゲームよりも、手を使って何かを作ることや、
自分たちで考えた遊びをすることが好きな子です。
でも友だちと遊ぶときには、遊びが限られてしまうのです。
難しい問題だなと思います。
虹色教室でも、出会った当初はどの子も、
遊ぶのも友だちと関わるのも上手じゃありません。
でも、遊びを大事に育んでいく場があるだけで、
どのグループの子らも、自然にとても仲良くなっていきます。
遊びを創り出し、議論しあい、協力しあって何かを作り上げていくことが
上手になっていきます。
子どもに何かを教える、何かを与える、何かを詰め込むという
一方通行の働きかけではなく
子どもたちが創造的にかかわることができるようになる場作りが
重要だと感じています。
↑ブロックで作ったクイズ。
4つの凹凸でできている正方形のブロックを基本の1と考えて、
この塊は基本の1のいくつ分でしょう?
内側に空洞があるので、難しいです。