子どもの個性も長所も十人十色です。
たとえば「がんばり屋だけど考えるのが苦手な子」
「飽き性だけど頭の回転が速い子」っていますよね。
「がんばり屋だけど考えるのが苦手」という子の長所は
「もっともっとたくさんしよう」「がんばろう」とするエネルギッシュさです。
といっても、勉強の場合、いくらがんばり屋でも 考えるのが苦手だと、
「考えなくてはならない問題」で先に進めないことが続くと、
勉強を避けるようになるかもしれません。
勉強以外のスポーツやお手伝いや携帯ゲームの攻略などでは
長所の根気のよさを生かすけれど、
勉強は苦手というタイプに成長するかもしれません。
かといって、「易しい計算問題ばかり」をスローステップでやらせていると、
ある時点で、考えなくてはならない文章問題の学習に入ると、
満点ばかり取っていて良くできると思っていたのに、
小学3年生くらいから、いきなり成績が急降下しはじめるということも起こります。
「がんばり屋でも 考えるのが苦手という子」の答案を見ると、
はりきってたくさん問題にチャレンジしているものの、
どれもこれも間違いばかりということがあります。
そんなときに、相手ががんばり屋さんですから、多少手厳しいことを言っても、
まじめで素直な対応が返ってくるものですから、
親もつい本人の心への配慮を怠ってしまいがちです。
せっかく自発的にたくさんがんばったという場面でも、
「何でこんなにミスばかりなの?」と本人が自分には能力がないと錯覚するような
ことを言ったり、たくさん×をつけて、「たくさんがんばれば、×が増えるから、
自分から努力すると損だ」と思い込むようなことをてしまいがちなのです。
学校の授業やテストでは、間違えた問題にすぐに×がついて、
間違いを修正するのは大事です。
でも家庭で自発的に学習する場合にも、身近な大人が
自分の「勉強とはこういうもの」というイメージを子どもに無理に押し付けていると、
子どもの長所が学習で生かせなくなってしまう場合があります。
カナダ人の心理学者アルバート・バンデューラが提唱した感覚に、
自己効力感というものがあります。
自己効力感とは、「外界の事柄に対し、自分が何らかの働きかけをすることが
可能であるという感覚」
「ある具体的な状況において適切な行動を成し遂げられるという予期、および確信」
いったものです。
勉強の場面で、過去に「自分の強みを発揮して成功できた」という体験がなければ、
次に「きっと自分にはうまくできるから、がんばろう」と自発的に取り組む動機は
生まれてきませんよね。
私は、学習の場面で、子どもに「自己効力感」が身につくまでの間は、
「最初が肝心だから、ミスはその都度きちんと直しておかないと」とか、
「たくさん失敗しても、それを乗り越えられる強い子になってほしいから」
といった大人の持っている学習へのイメージを、
子どもが「自己効力感」を得るか否かよりも優先しない方がいいと思っています。
私たち大人でも、外国の方を相手に、勇気を持って習いはじめの外国語で
声をかけたとき、間違いを馬鹿にされたり、注意されたり、
何度やっても通じなかったという体験が続けば、
それでもがんばって話しかけ続けるか……というと難しいのではないでしょうか?
でも、相手が外国の子どもだった場合、こちらのミスをいちいち気にしていないとしたら、
たくさん話しかけるうちに、自分は外国語で会話ができるという自信がつくし、
回数を踏むうちに、上手に正しい使い方ができるようになってくるかもしれません。
「自己効力感」がないまま、何年、英語を学んでも、
外国の人と会話のキャッチボールをするのは難しいのかもしれません。
多くの勉強が苦手な中高生は、
知的なハンディーキャップを持っている子ばかりではありません
また、発達障害があって、努力や計画的に物事を進めることに
ハンディーキャップがある子ばかりでもありません。
ごく普通の小学生の頃はがんばり屋で成績も良かった子の多くが
「勉強ができない子」に成長しているのです。
その原因には、日本の教育では、個人個人の「自己効力感」より、
集団に通用する「教育ってこういうもの」という大人が信じやすいものを
優先しすぎているからのように思います。
私は 子どもの個性はさまざまですから、集団の場でない限り、その子が
「自分の有能さ」を感じ取れるような勉強が必要だと思っています。
本来なら、集団の場でも、「みんなから認められている」「自分は有能だ」という
フィードバックを得る体験がたくさん必要だとも思っています。
勉強の場で、「自分の有能さ」を発揮できるという確信が、
いくつになっても自発的に学び続ける姿勢を育てるからです。
一方で、いつも先に解き方を暗記させておいてから良い点を付けていく
スローステップの学習で、「考えない」癖をつけてしまうことも問題だと思います。
このさじ加減は難しいので、何度かに分けて詳しく説明させていただきます。
「飽き性だけど頭の回転が速い子」っていますよね。
さまざまな新しいことをやりたがってチャレンジ精神旺盛なのはいいのだけど、
やる前は、大騒ぎして、「どんな苦労もいとわない!」という様子だし、
やってみると人一倍、呑み込みもいいのに、すぐに飽きて放り出してしまう子。
目ざとくて、知恵もよく働くけど、気が散りやすくて怠けがちな子。
こういうタイプの子って、お友だちが習い事をしているのを目にすると、
すぐに自分もやりたがって、泣いて騒ぐことがよくあります。
「それならと……」習わせると、少しすると、今度は練習や宿題が嫌で、
毎日、親とバトルになるという結末をたどりがちです。
通信教材もしかり。「ぜったいがんばるからやらせて!」と
地団駄を踏んでいたのもつかの間、教材を取り出したとたんに、
ほとんど手付かずのまま溜め込んでいくものです。
注意が必要なのは、「自分がやると言いだしたんでしょ!がんばりなさい!」
「ちゃんとがんばればできるのに、努力が足りない!」と叱り続けるうちに、
幼い頃は自分から知的なことに何でもチャレンジしたがっていたのに、
大きくなるにつれ、勉強に関わることは自発的にチャレンジするのを避けるように
なってくることです。
その代わり、後々、「やる、やらない」で揉めたり、
「やめたい、しんどい」と悩んだりしなくてもいいテレビゲームや買い物などでは、
相変らず、ごね続けるようになりがちです。
飽き性の子に、我慢することや努力することを、しつけていくことは大事です。
けれども、現代は大人と子どもの境界線が薄れていますし、
幼い子も消費のターゲットになっている時代ですから、
「あなたが自分でやるって言い出したんだから、すぐに投げ出さずにがんばりなさい」
と叱ると、年齢不相応な自己責任の押しつけになってしまうことも多々あるのです。
3歳、4歳、5歳といった子が
「お友だちといっしょにリトミックを習いたい」とごねたところで、
その子の年齢だと、
「お友だちが公園に行ってるから私も行きたい」とごねているレベルの先の見通ししか
持っていないものです。
まだまだ、自分に何が合っているのか、どんなことなら長続きするのか、
何をすると一番がんばれるのかといったことを、
いろいろ試してはやめて、夢中になっては卒業して、より自分を成長させることが
できる何かを、外にも、自分の内側にも探索していく時期なのです。
それなのに、大人の世界が幼い子の暮らしにまで浸透して、
子どもの習い事に、ママ友同士のおつきあいが絡んでいたり
子ども向けの商売のシステムのせいで、
幼児が数年計画の責任感を問われることになっていたりするのです。
「飽き性だけど頭の回転が速い子」の長所は、
新しい興味の対象に向けるエネルギーの強さです。
「やりたい!」と言っているときのエネルギーと、
やりはじめた当初のエネルギーが維持されたら、
この子はどれだけ賢くなることか……?と感じている親御さんは
たくさんおられることでしょう。
私は、あまりお金などの負担がかからないことでいろいろチャレンジさせてみて、
やってみたり飽きたりを繰り返しながら、
「こういうことならがんばれそう」「自分が生かせそう」という
自己効力感を得られるものに気づかせていくことが大事だと感じています。
勉強で、基礎を繰り返し学習するのを極端に嫌がる場合、
「あなたは勉強嫌いの悪い子だ」
「あなたは怠けもので、こんなことをしていたら将来勉強が苦手になってしまう」
というイメージを植え付けないように気をつける必要があります。
このタイプの子は、易しい問題と難しい問題が混在したワークで、
「好きなものを1問選んで解いてね」と言うと、
ちょっとひねったものを選んで解いて、
それを機会に「もっと解きたい」と言い出す場合がよくあります。
子どもの学習に構いすぎるのもよくないのですが、
義務を無理強いして大の学習嫌いにさせるよりも、
長所の頭の回転が良さを使って、知的な課題の面白さに気づかせることが
大事だと思っているのです。
飽き性って悪いことばかりじゃなくて、
執着心のなさや、自分によってより必要なものを見極めていく力や、
好奇心の強さとも関わっているものです。
今、自分にとって一番重要な目的に全力投球できる能力でもあります。
短所に見えるところも、罪悪感を植えつけず、大らかに関わっていると、
そのように良い資質として使っていけるようになっていきます。
うちの子たちにしても、飽き性とはちょっと異なるのですが、
コツコツがんばることが苦手です。
ですから、決まりごとや義務が多い場では、
欠点ばかりが目立っていた時期もありました。
でも、ゆっくりと長所も欠点もどちらも大切に育てていくようにすると、
長所だったものはもちろんですが、短所と思われていたものが、
自分で目的を定めたり、深く考えたり、創造的に解決したり、学び続けたりする
原動力となっているのがわかるのです。
わが子が、子どもとは呼べないような年齢になると、
子どもに対して親ができることは本当にしれていて、
役に立つのは信じてあげることくらいだと気づきます。
子どもは本当に自分がなりたいものに向かって、自分の力で成長し続けていくのです。