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虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

自信と自己肯定感について思うこと 2

2016-03-06 17:01:25 | 自己肯定感を育む

「価値観を固定しない教育 未完成な親の価値」

 でも書いたのですが、

「好みも違えば、長所も短所も、考えるプロセスも技能の学び方も

それぞれ違う子ども」に対して、

レベルの高い低いや、物事の良し悪しといった価値観が決まっている場所は、

その子の個性を抑えつけたり、邪魔者扱いしたりしてしまう面があるのです。

 

いつでもどこでもそうである必要はないけれど、

(それこそ、「価値観を固定しない」ということにしがみつけば、

それもまた価値観を固定した関わりになってしまうのでしょうが)

子どもの暮らしは、「こうじゃなきゃ絶対ダメ!」は少なめにして、

自分で自由にできる余白とか、自分で動いて考えて、失敗してもOKという

可動領域を保証してあげることが大切です。

 

 

 ↑ お城の石垣部分は、靴の入っていた箱の4辺を切って、二等辺三角形のパーツを

はめて作っています。

 

これまで、ブロック制作は好きだけど、工作は苦手という感じだったAくん。

はさみを使うのにも自信がないようで、作る作業を大人に頼りがちでした。

どんなものを作りたいか思い描くことが得意なAくんは、ブロックなら

ひとりでとても魅力的な作品を作りあげるのです。

でも、ちょっとした歪みや思ったものと異なる部分を気にする完璧主義な性質が

足かせとなって、「こうしたい」「ああしたい」と口では言うのに、

「先生やって」「お母さんやって」と作業を頼り気味でした。

  

そこで、Aくんのお母さんに、

3回折ってテープを貼ることで作る角柱(側面です)を、

細いサイズのもの中心に事前に作っておいて

ブロック感覚で工作できる環境を作ることを提案しました。

そして、「作って」と頼まれたら、心よく手伝ってあげながら、

何をどんな風に作りたいのか、どんな形で、どんな工夫を凝らしたいのか、

一生懸命口にするAくんの言葉にしっかり耳を傾けることの大切さについて

Aくんのお母さんと話しあいました。

 

 

帰宅後、Aくんのお母さんから、Aくんといっしょにお城を仕上げた報告と写真が

送られてきました。

お城の天守閣は、

Aくんの指示するサイズどおりのパーツをAくんのお母さんが作ったそうです。

Aくんは、作業そのものは、模様を描くくらいしか参加しなかったようですが、

5階建てで、石垣の脇に草を生やす、など、細かいところまで明確に完成イメージが

あったそうです。

その翌日、急に「門を作らなあかん!」と言い出したAくん。

それからのがんばりがすごかったのだとか。

紙製の角柱をいっぱい作ってもらっていたAくんは、

それらを積み木のように組み合わせて、両脇には紙も貼って、開閉式の扉を作って…

今度は戦国パノラマ大図鑑を眺めはじめたのでもう終わりかと思いきや

「とがったやつ出して!」と言い、(爪楊枝のこと)

器用にテープで固定しながら柵の量産体制に入ったとのこと。

その後も、毎日パノラマ図鑑やなわばりちゃんを眺めては

「堀つくらなあかん!」「橋かけなあかん!」「旗たてよ」と作業を続けていたそうです。

 

これまでは紙を切るのも自信ない様子で、お母さんにやらせてばかりだったのに、

定規で長さを測ったり線を引いたりまでできるようになり、

自分のイメージが自分で形にできることが嬉しくてたまらない様子だったとのことです。

 

Aくんのお母さんから、

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自己肯定感、言葉だけではもちろん足りないし、

日常生活ではつい追い立てるように接してしまうので

子どもに「余白」を与えてあげるのがとても難しいのですが、工作を通して、

B(兄)にもAにもちゃんと自己肯定感が育っていくものですね。

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という言葉をいただきました。

 

 

< 3回折ってテープを貼ることで作る角柱(側面)の作り方>

 

Aくんが門に使ったものは、横長に4分割した一枚を、

さらに3回折って4面を作っている細いサイズ(えんぴつくらいの細さ)のものです。

八つ切りの色画用紙(100円ショップ等で売っている一般的な画用紙サイズ)を

そのまま使うか、横長になるように半分に切って使います。

 

 

では、まず、横長に半分に切った画用紙で乗り物を作る方法を紹介しますね。

 

上の写真は、色画用紙半分を横長に切り分けて、それをさらに横長に半分に折ります。

 

いったん開いてもとの形にしてから

↓の写真のようにさっきついた折り線にぴったりつくように折ります。

 

セロハンテープで貼り合わせると、簡単に直方体の側面部分ができあがります。

この作り方だと、ものさしを扱うのが難しい子でも

サイズのそろったきれいな作品を作ることができます。

 

あっという間にできる新幹線。窓やドアを描いているところです。

 

新幹線の先端は、写真のように上部に2ヶ所切り込みを入れて、

側面を折って、両面テープ等で貼り合わせるとできあがります。

 

京都の工作会で、この基本の作り方を紹介したところ、

↑こんなすてきな作品を作っている方がいました。

 

作り方は同じで、画用紙1枚をそのまま使って

折ると、↑のような家が簡単に作れます。

3階建のお家の横にはエレベーターがついています。

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これも京都の工作会の時の作品。同じ作り方で、サイズを変えて。


自信と自己肯定感について思うこと 1

2016-03-05 13:25:14 | 自己肯定感を育む

「姫路城の天守閣が作りたい」と言っていた年長のAくん。

完璧主義なんだけど、手先を使った作業が少し苦手なタイプです。

「こうしたい」「ああしたい」というイメージは山ほどあるのに、

体は思うようについていかない模様。

 

お城を作る際、石垣のサイズや形にこだわった後で、ひとつひとつの石を選んでは

貼っていたため、時間内に仕上がらず、教室では簡単なお城の形の作り方を習って、

お家で作ることになりました。

 

Aくんがいっしょにレッスンしている子たちは、物作りに手慣れた子たちで、

時間内に手の込んだ作品を完成させていきます。

その傍らでマイペースに仕事を進めるAくんの姿を見て、

Aくんのお母さんはAくんの自信が揺らいでいないか気がかりなようでした。

確かに、

「時間内に作品を完成させる子」と「未完成なまま終わる子」、

「自力でもりもり作る子」と「大人に手伝ってもらいながら作っている子」を

目にすると、一方は自信をつけて自己肯定感が上がっていき、

一方はできない自分を感じて自己肯定感が下がっていくように見えるのかもしれません。

 

でも、その日の工作のプロセスに付き合う中で、Aくんにはそうした心配は無用で、

「手伝って!」と頼まれる部分は十分に手助けし、

最後まで仕上がりそうになかったら、完成しないまま終了させることが、

Aくんの自分を大切に思い、自分を肯定する気持ちにつながるのだろうと

感じていました。

 

こうした関わり方の加減は、本当にその子によりけり、発達の時期によりけりで、

これが正しいなんて答えはないのでしょうが……。

 

Aくんは、「こんな風にしたい」「あんな風にしたい」というイメージが明確な子で、

サイズや素材の質に敏感です。

お城の石垣作りでは、斜面の角度や石の貼り方のひとつひとつについて、

自分の中の完璧なイメージに合致するまで、思考錯誤を繰り返していました。

 

学校などでは、時間内に仕上がるように、あまり細かいところにこだわらず、

妥協しながら作業を進めることも必要です。

でも、いつもいつもそればかりだと、「このようにしたい」という

イメージを思い描くことができ、細部にいたるまで完璧を目指したいと思う個性は、

仕事を遅らせ周囲との衝突を生む「悪いもの」としか捉えようがなくなって

しまいますよね。

 

次回に続きます。

 

 


少し難しくなるとやりたがらない子、難しそうだと思うと最初からしない子 にどう接したら? 6

2015-08-17 10:16:21 | 自己肯定感を育む

前回までの記事にこんなコメントをいただきました。

ーーーーーーーーーーー

いつも多方面から子どもの成長について考えておられる奈緒美先生に感服しながら、

記事を読ませて頂いております。

今回の記事に、「少し難しくなるとやりたがらない子」は年相応の「向上心」が育って

いないように見える子がいるとありました。

確かに、挑戦して、成功するという小さなハードルを越えることを繰り返した経験が

ないと、なかなか向上心に繋がらないのかもしれませんね。

高学年の息子の友達を見ていて思うことは、自尊感情が高すぎる子も、新しいこと、

自分が苦手とすることにチャレンジしない傾向にあるように思いますが、

どうでしょうか?できない=恥ずかしい、格好悪い。いつも褒められる自分でいたい、

優秀な面だけをみんなに見せていたい。という思いがあるように見えるのですが。

そういう子は、苦手なことに挑戦しないだけでなく、全力で何かに取り組むことも

ないようです。失敗した時に「手を抜いていたから」と言い訳を用意しているようにも

感じられます。息子を含め、大人に近づきつつある子どもの達の心は難しいですね。

見守るべきか、親として背中を押してやるべきか、見極めが難しいです。

ーーーーーーーーーーー

自尊感情というのは、長所と短所、できることとできないことを全部含めた

自分をかけがえのない大切な存在だと感じられることです。

自分の意見を言って自己決定でき、自分を評価し受け入れ、人との関わりの中で

しっかり生活していることを実感していることでもあります。

 

親御さんの中には、「子どもの自尊感情を高めるために、習い事をさせてできることを増やしてあげたい。他の子はできて自分はできなかった……という体験をさせると、自尊感情が低くなるかもしれないから、みんなができることは、前もって練習させてできるようにしています」

とおっしゃる方はいます。

 

そうした大人の考えのもとで身に着けさせた「自尊感情だと思っていたもの」は、

先に書いた本当の「自尊感情」とは似ているようで全く別物です。

「長所があるから、自分は愛されている」「できないと、認めてもらえない」

「自分自身の良い面しか認めたくない」といったあるがままの自分に

価値を見いだせない心に基づいたものですから。

 

コメント主さんの目に、自尊感情が高すぎるように映る子は、おそらく、

自信満々に振舞っているけれど心の底は不安でいっぱいで、防衛心が強い子だったり、

完璧主義で強迫的な性質の子が、大人の期待に無理して応えてきたけれど、

自分の願望ややりたいことがわからない子だったり、

今までの成功から自分をすごい子だと信じ込んでいるけれど、

メタ認知力やさまざまな視点から物を眺める力が育っていないために

自分を正しく評価できなかったりする子なのかもしれません。

 

そうした子は、周囲の評価が気になって、優秀な面だけ周囲に見せたがるし、本気を出した上で失敗すると恥ずかしいので、何に対しても全力投球することを避けたがります。

 

子どもに自信をつけてあげようと一生懸命、大人ががんばった結果、

そうした自尊感情が高いように見えて実は自尊感情がとても低い子が

量産されているんじゃないか、と感じています。

 

自尊感情が高くなる関わりについては、また近いうちに記事にさせていただきますね。


自己肯定感は褒めると上がる? 2

2012-05-23 07:44:19 | 自己肯定感を育む

自己肯定感は褒めると上がる? 1

の続きです。

以前、「親自身が『子ども』から『大人』に変化できていないと、数値で子どもを管理したがるのでは?」という

辛口の記事を書いたことがあります。

子どもの自己肯定感の高低は、その記事で取りあげた内容と密接に関わっているように

捉えています。

↓「親自身が『子ども』から『大人』に変化できていないと、数値で子どもを管理したがるのでは?」

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『10代の子をもつ親が知っておきたいこと』水島広子  紀伊国屋書店
(この著書でクロニンジャーの「七因子モデル」を知りました。)

という著書の中で、「あれっ?」と感じる興味深い話を目にしました。

思春期の子を持つ親御さん向けの本ですが、幼児を育てている方にとっても
とても大切な話だと感じたので、簡単に要約して紹介しますね。

思春期の心の病である拒食症の治療の中心は、
対人関係療法で言うところの「役割の変化」になるそうです。

思春期の課題を消化して、「子どものやり方」から、
「大人のやり方」に変化を遂げることが
病の治癒につながるそうです。

「子どものやり方」というのは、「何でも自分の努力で解決する」というものです。

一方、「大人のやり方」は、「必要であれば他人の力を借りよう」と
考えられることです。

成績が上位になれない、という場合も、一人でさらに努力して自分を追い込んでいくのではなく、いろいろな人生があることを知って、
自分の存在を社会の中で相対化できるようになることです。


「何でも自分の努力で解決する、のが『子どものやり方』だなんておかしい……大人になっていくということは、
他人に頼らず、自分で責任を持っていろんなことをこなせるようになることではないの?」
と感じた方がいらっしゃるかもしれません。

世の中は、矛盾だらけで無秩序なところです。
「がんばったから、幸せになる」とか「努力に比例して成功する」という
単純なルールで成り立っているわけではないですよね。

すべての課題を自分の責任でこなそうとする人は、「秩序」によって安定するタイプが多いので、
「努力すれば成績が得られる」「親切にすればすかれる」というようなルール
で世の中が動いていないと不安になります。
そうしたタイプの人が、自分の秩序を乱す出来事に直面すると、パニックを起します。そのパニックへの対処のひとつの形が
拒食症という病なのだそうです。

「体重」は、食べなければやせるという体重計の数字にきちんと表れるので、
達成感と安心感が得られます。

思春期には、「自分の限界を知るということ」という
重要な課題があります。
努力すれば何でもできるようになるわけではない。がんばればみんながほめてくれるわけではない。運命や環境をすべて自分の力でコントロールできるわけではないと認めること。

その上で、自分にできる範囲で全力をつくせるようになることが、
大人になるための思春期の課題です。


「人間は努力すれば何でもできるし、そもそも人間は学力だけで評価される」
という狭い考え方は「子ども」としての役割から生じるものです。

大人になるということは、
「人間にはいろいろな限界があり、その中で支えあっていくことが人生」と
いう大人としての役割で考えることができるようになること
なのですね。

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『10代の子をもつ親が知っておきたいこと』で、
拒食症をはじめとする思春期の心の病についての話を目にするうち、
ちょっと怖くなったことがありました。

子育て中の親の中には、思春期の課題を超えそびれて、
まだ「長い思春期」の最中にいる方も多いです。

機能不全の家庭に育った私も、
ひとりめの娘の子育てでは、大人になれていない心のまま
良かれと思って子どもの自尊心を蝕むようなことを
平気でしていました。

「子ども」の心のままで、
心の病を引き起こすような世界観のもとで子育てをしていると、
目に見える安心感や数値上の上昇を確認することを求めます。

「努力すれば成績が得られる」「親切にすればすかれる」というような
安心できる秩序が守られている世界を
お金を払ってでも得ようとします。

それが教育産業が作り上げた
人工的な架空の世界であったとしても、
それを全世界のように錯覚した状態で子育てをしたいと願います。

子育ては、「すべてを自分の力でコントロールしたいという」
現実にはありえない考え方が
はびこりやすい場です。

なぜなら、「自分で努力はしたくないけれど、
コントロールして数値の確認をする作業だけをしていたい」と
いう本当は現実の世界で叶えられてはいけない
病特有の執拗な願いを
簡単に実現してしまうからです。

おまけに、教育産業の多くが、そうした親の考えを
正当化して、
さらに煽りがちです。
教育産業が、儲かることを最優先に考えるのは、
ビジネスだからしょうがない部分もあります。

利用する側が、親にとっての最優先課題はビジネスのそれと
重ならない場合が多いことを自覚することが
大切だと思います。


子どもの幸不幸は、
どんな能力の親のもとに生まれたかよりも、
ちゃんと思春期の自分の課題を済ませて、「大人」になっている
親に育てられているかどうかで決まるように感じています。

子どもの未来も、「大人」に育てられているかどうかで、
大きく変わってくるのではないでしょうか?

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↑先の記事は自己肯定感について説明するために書いたものではありません。

わたしは子どもを外の評価の体系で測っては、数値で確認しながら育てていくことが、

自己肯定感が下がる原因と直にイコールで結ばれると考えているわけでもありません。

 けれどもそうした育て方に代表される

大人が自分の狭い世界観で自分が見たいものを子どもに投げかけて、

子どものある一面には関心をしめし、別の一面は(自分の価値観と合わないからという理由で)無視するような

育て方が、

自己肯定感を育む土壌の貧しさにつながるんじゃないかな、とは思っています。

 

ですから、毎日、子どもをシャワーをあびせるごとく褒めて育てたところで、親が子どものなかに見たいものを褒め、

認めたくないものを無視して褒めているとすれば、

そうした褒め言葉は親の価値観の押しつけでしかなく、

どこかで子どもを否定し阻害している行為ともつながりやすりと感じています。

 

 

 

 

 


自己肯定感は褒めると上がる? 1

2012-05-20 07:06:33 | 自己肯定感を育む

ブログで自己肯定感の話を書くと、

「(自己肯定感を上げるには)もっと褒めるといいんでしょうか?」

という質問をいただくことが多々あります。

そのたびに、「褒める」というのとはちょっとちがうなぁ……と思いつつも

ひとことで、「これこれこういうことしたら上がるものですよ」とアドバイスできるものでもなく、

もやもやした思いをくすぶらせることがあります。

 

そこで、わたしが考える「自己肯定感」が上がると思われる接し方と、

「自己肯定感」が下がると思われる接し方について、言葉にして整理しておきたくなりました。

 

特に、子どもの自己肯定感を上げようと思って褒めているのに、「褒める」行為自体が、

子どもの自己肯定感を下げているように見えるケースについて

言語化できるといいな、と思っています。

 

3歳になりたての子らというのは、

「こういうことがしたいんだ。自分でやってやるんだ!」と

自分の動きを自分でコントロールしたい気持ちが持続しはじめるものの、

「何をどんな風にしたいのか」ということは後回しというか、

本人にするとどうでもいいことだったりします。

 

周囲にすると、一生懸命しているところ、口出しするのも何だけど、

「ちょっと紙の使い方もったいないんじゃない?」「新聞紙使って工作してごらん」なんて

あれこれ口出ししたくなる時です。

 

大人からちょっとあれこれ言われても、

それまで自分や自分のすることに自信が育ってきている子は、

大人のアドバイスもそこそこ聞きいれつつ、「大丈夫だよ。もうこれで、こうちゃく出来上がりだよ。」と

自分のしてきたことを否定しないでいいような切り返しで決着するものです。

お姉ちゃんから手厳しい追及を受けてもへっちゃらで、

ぼくが作っていたのは「○○!」と、おそらく、できあがってものを見て

後付けでひらめいた名前を自信満々に言います。

 

子どもの自己肯定感というのは、自分で自由にできる余白というか、

実際に動く場面でも、想像の世界においても、自分で動いて失敗してもOKという

可動領域がしっかり確保されているかどうかに

大きく関わっているように思うのです。

 

大人が子どもの領域へしょっちゅう侵入していたり、

逆に「子ども」という存在を特別視したりお客様扱いしたりして祭り上げて、

子どもの周りに地に足をつけている大人が存在しなくなったりすることも、

子どもが確かな自分を感じられなくなる、

つまり自分に自信を持てなくなる原因のひとつとなるのではないでしょうか。

 

大人のアドバイスに過剰反応し過ぎて激しいかんしゃくに発展してしまう子も、

即座に大人の指示に従って、「自分のそれまでしていたこともこれからしようとしていたこと」も帳消しにしてしまう子も、

「ママして~」とすること自体放棄してしまう子も、

ちょっとしたことをきっかけに自信や自分への信頼感が揺らぎやすい子なのかもしれません。

 

子どもはそうした揺らぎのなかで成長していきますから、

こういう反応をするから、自己肯定感が低いとか高いとか、気にかける必要はないのでしょう。

でも、

大人の関わり方の加減次第で、

日常の行為のひとつひとつが、

子どもを勇気づけ、自己肯定感を高めていくきっかけになることも事実だと思っています。

 

それは子どものすることなすことを「褒める」というのとは、異なります。

幼い子たちのすることは、たいていでたらめでめちゃくちゃですから、

大人が「褒めなきゃ、褒めなきゃ」と思っていると、

心にないような嘘をつくことになるか、

子どもが一番自信満々でやった部分は無視して、

大人が言葉でコントロールしてそれなりの形にした部分だけ、「すごい、すごい」と褒めることに

なりかねません。

 

つまり、「自己肯定感を上げるために褒めなきゃ、褒めなきゃ」と思って褒めているうちに、

褒め言葉が、大人の期待通りに子どもを動かすための

見えないニンジンになってしまうことが非常に多いのです。

 

「子どもの自己肯定感を高めるため」という名目で、子どもに何かできるようにさせようとあせっている時、

実は、周囲の人の評価を大人である自分が欲していて、

「もっと褒めてもらいたい」「もっと認めてもらいたい」という飢餓感が

その動機に取って変わらないか、

自分の心を見はっておくことが大切です。

 

次回に続きます。


セルフエスティーム(自己肯定感)について思うこと 5

2012-03-28 14:00:24 | 自己肯定感を育む

 

↑(「どんどんやまのどんこさん」という山を主人公にした絵本を作りました。春のパパ山、ママ山。下はどんこさん)

 

 

日本人の子は他の国の子らに比べて

セルフエスティーム(自己肯定感)が低いとよく言われています。

日本人の親は猫っ可愛がりなほどわが子に集中している人が多いのに、

そのように大切に育てられている子らの自尊感情がどうして低くなるのか、

わたしなりに思うところがあります。

 

ひとつ疑われるのは、懸命にわが子の自尊感情を育くもうとがんばったあげく、

「偽りの自己肯定感」を育ててしまうのではないか、

ということです。

 

スタンレー・グリーンスパン と ヤコブグリーンスパン著の『ADHDの子どもを育む』という本は、

多動のないごく一般的な子たちの子育てにとっても

大切なメッセージであふれています。

 

そのなかに、「自己肯定感を回復するための一般原則」として

4つの原則が紹介されています。

3つ目の原則「その子の持つ生来の資質に目を配る」で書かれている内容を

引用しますね。

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つまり、自己肯定感を真に回復できるような

強みや得意技を見つけることです。たとえば、芸術活動が強みになる子もいるでしょう。冗談や

お話が得意な子もいるでしょう。子どもの資質はさまざまです。

チェスをすること、動物と関わること、山登り、音楽、バードウォッチング、ダンス。

既存のスポーツや学校生活の枠内で花開かないとしても、

子どもは皆それぞれに、その子にしかできない何かを持っています。

大切なのは、子どもがこころから楽しんでいることに、おとながこころを開き、発見していくことです。

 

上手にやるように子どもを持ち上げたり、周りから賞賛を得るための活動に

誘ったりして、偽りの自己肯定感を植えつけないようにすることも

こころに留めておきたい点です。

 

そんな風に誘ったとしても、決してうまくいかないでしょう。

子ども自身が選び、それをしていると楽しくてしょうがないという何かが

大切なのです。

真なる自己肯定感はこういう活動からのみ

得られるのです。

 

(『ADHDの子どもを育む』スタンレー・グリーンスパン と ヤコブグリーンスパン著 

広瀬宏之監訳  越後顕一訳  創元社)

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日本の子がどうして自己肯定感が低いのか、

その秘密が先の文章のなかにはいくつも隠れているように感じています。

問題は子どもに接する大人たちのセルフエスティームの高低とも

関わりがあるのかもしれません。

親自身のセルフエスティームが低いと、

無意識のうちに、

子どもを可愛がるという行為と、

子どもを持ち上げて、あれこれやらせて、周囲から賞賛を浴びるような場面を

たくさん作りだすことがイコールで結ばれがちになるのでは

ないでしょうか。

 

親だけでなく、子どもに接する習い事の教師も

学校の先生もクラブ活動の顧問も、もしそうした大人のセルフエスティームが低ければ、

子どもに賞賛が集まるように仕向けて、

間接的に自分の価値が上がることに

夢中になることもよくあります。

 

そうしてちやほやされて、偽のセルフエスティームを植えつけられた子も、

賞賛を集めることができなかったからという理由で、

大人に疎まれたり、心配されたりする子も、

自尊感情を高めていくことは難しいはずです。

 

次回に続きます。

 

 


セルフエスティーム(自己肯定感)について思うこと 4

2012-03-27 17:39:20 | 自己肯定感を育む

末っ子の母を、
「ぜひ養女に欲しい」と子どものない親戚がせっついていた話を、
母はよくしていました。
それもまた、母を良い子のカラに閉じ込めた思い出だったのでしょう。


母は自分の欲望を極端に我慢して、家族に奉仕する一方、
いったん家族のためと言う大義名分ができると、
怪しい商法の健康器具やら、鍋セットやらに
簡単に大金をはたいてしまったり、
そうしたものに対しては、妙に我慢がきかないところもありました。

そんなことなら、お母さんの好きなものに、
自由にお金を使ってくれたら、
どんなに家族は気持ちが良くてうれしいか…と思うのに、
「私はボロで良いの…。」とやたら自分にはケチケチするのです。

その点、妹は世界は自分を中心に回っている!
と大らかに宣言しているような生き方考え方をする性格で、
母にすると妹のすることなすこと気に入りません。
妹の悪い素行をしつけなおそうというより、
性格を根こそぎ改造しようとでも思っているような
態度でしつけをしていました。

そのため妹は、母にべったり甘えていたかと思うと、
口汚くののしったり、
暴力をふるったり、
だめと言われていることをわざとやったりしていました。

すると母の方も本気になってしつこく妹を叱ります。
妹も妹で、一日中でもごねて、
母を思い通りに操ろうと必死でした。
そんな毎日が、一年中、いえ、何年も…
妹が結婚して家を出たあとも、
冷たい親子の憎しみあいの形で続きました。

母は妹との関係を良いものにしたいと思っていなかったのか…?
というとそんなことはありません。
母はいつも子育てに悩む母で、
懸命に良い母になる方法を学んで自分を変えようと反省する母でした。
しかし母がいつも手付かずのまま
けっして変えようとしないものがありました。

自分が良しとする価値観…「控えめで、温和で優しく、
物を欲しがらず、自慢せず、自分のことよりまず人を思いやるような性格」
だけを良しとする考え方です。
妹の「積極的で強気で自信家で快活な性質」をあるがままに認めて
尊重することは決してなかったのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「コンプレックス」は、
ある種の抑圧が原因となるそうです。
「本当は、こうしたかった」という素直な気持ちを、
対人関係の中で抑圧され続けると、
不満が増大し、「理性から外れたこだわり」となるようです。

子どもの願いに反した価値観を押し付けたり、
よかれと思っていた教育方針が、
子どものコンプレックスの原因となります。

人間関係って、本当にトラブルが多くて、
傷つけ、傷つけられることが日常茶飯事ですが、
相手の立場を考えず、
想像力や優しさの欠けた発言をしてしまうとき、
そこにはコンプレックスが関係しているように思います。

虹色教室に来ている軽度発達障害が疑われる男の子が小学生の頃、
お母さんと楽しそうに笑いながら自転車で移動している時、
学校の担任と会ったそうです。
担任は、うれしそうに微笑んで、
こんな風に家族で仲良く過されている時もあるのですね、安心しました……
というようなことをおっしゃったそうです。
男の子の表情が乏しく、たびたび学校で問題をおこすので、
担任は、親の愛情不足と決め付けていたようなのです。
現実には、男の子のお母さんはたいへん子どもを大切にする方なのです。

先生が自分の育ちの中で作ってきたコンプレックスに無自覚だと、
たびたびこうした事実と異なる発言をして
親や子を傷つけたり、
生徒の問題を大きくしてしまうように思います。


また、親は自分のコンプレックスを見つめていく勇気を持たなければ、
どんなに愛情を持って努力していても、
自分のコンプレックスをわが子の中に投影して、
わざわざ子どもの悪い部分を引き出して育ててしまうようです。

「投影」とは、意識が「自分のものじゃない!」と否定したがっている自分の心を、
他人の心のように解釈して、
相手を否定し、攻撃することです。

嫌がらせやいじめをする人の心には、
この投影が働いているのでしょうね。

そうして、自分の心を守っているのです。

辛いのは、しらずしらずに大切なわが子に、
この投影をしてしまうこと。

自分の先延ばし癖を見たくない親が、
わが子を「ぐず!」とののしったり…
自分の中の怠けたい願望を無視している親が、
子どもを無理な勉強に駆り立てたり…
自分への自信の無さを、
子どもの短所と重ねて、くりかえしぐちったり…
なんかがそうです。

また人の心の中には、コンプレックスとは別に「シャドー」と
いうものが存在するそうです。

人の無意識の中には、
その人の性質として振舞っているのと
反対の性質や考え方があるそうで、それをシャドーと言います。
シャドーとは当人が嫌って否定する悪で、その人の心の一部です。
そのシャドーも無自覚だと、子どもに投影されます。

そして、それが原因となって、
子どもの問題行動が誘発され、
だんだんエスカレートしていくことは、
よく起こることのようです。

それでは、どうしたらそんな悪循環を絶つことができるのでしょうか?

以外に簡単なのだとか…。
こうした他人の中に自分の嫌な部分を見てしまう「投影」を
利用して、自分の心の闇を
しっかり見ることです。
「私にはそんな嫌な心はないんだ…」という思いを乗り越えて、
他人に見ているものが投影だと気づけば、
悪い循環を終わらせることができるそうです。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

身近な大人が自分の嫌な部分や認めたくない自分の欠点を素直に受容して、

余計な投影をしないまっさらな瞳で子どもを眺めることができたなら、

それだけで子どものセルフエスティームは向上していくのかもしれません。

子どもは欠点もあるし、たくさん失敗もするけれど、

常に成長し続ける、向上し続ける存在で、

大人から見ると困った問題も、子どもにすればこれから超えていく山であったり、

将来のための栄養であったりするものですから。

子どもの日々を輪切りにして評価せずに、

自分の人生の物語の続きを書き連ねていく子どもの暮らしを

おおらかに見守ってあげたいですね。

自尊感情さえたっぷりあれば、どんなに困難の多い物語も最後はハッピーエンドに

ちがいありません。


セルフエスティーム(自己肯定感)について思うこと 3

2012-03-27 17:35:21 | 自己肯定感を育む

私の母は大家族の末っ子として生まれました。
もうこの子で終わりにしたい、もう子どもはいらない…そうした
願いのもとで、はじめは、「すえこ」とか「しゅうこ」なんて名前が
考えられていたようです。
でも、それはいくらなんでもかわいそう…ということで、
静かでいておくれ、世話をかけないでおくれ…という母(祖母)の願望に
ちなんだ名前がつけられたそうです。

母は家族の中で一番幼い子として、兄弟姉妹にも母親からも
特別に愛され大切にされて育ったようです。

母の両親、祖父と祖母は、きちんとお互いの顔も見ないまま、会話をかわすこともなく、お見合い結婚をしました。
祖父は芸能に秀でてハンサムで女性にもてた人らしく、
結婚してからも、女性との付き合いも多い自由で気ままな暮らしをしていたようです。
祖母はとても劣等感が強い性質で、地味でまじめで働き者で、
結婚してからは次々生まれる子どもと家事と畑仕事に明け暮れていました。
そんな対照的な両親のもとで、
母はいつも苦労の多い母(祖母)のことを気遣い、
決してワガママを言わず、心労をかけたり手を煩わせたりすることがないように、
常に優しく気がつき我慢強い良い子としての
子ども時代、少女時代を送ったようです。

母が子ども時代の話をする時、きまって繰り返されるのは
次のような話でした。

私のすぐ上の姉は、病気をして熱を出すたびに、
映画に行きたい、おいしいものが食べたいとねだって、
聞き入れてもらっていた。
私は、病気になったときも、母(祖母)がかわいそうで、
そんなことはとても言えなかった…。

母(祖母)はよく子ども達に「これを手伝ってくれたら、○○をあげるよ。」
と言った。それで、一生懸命手伝ったけれど、
一度も何もくれたことはなかった。
でも、母(祖母)は父(祖父)に苦労ばかりかけられて、自分のことを気遣うこともできずに、
子育てに追われてばかりで、本当にかわいそうな人だった。
だから、一度も恨んだことはなかったし「○○はいつくれるの?」とたずねる
こともなかったのよ。

父(祖父)は子役のようにかわいらしい姪っ子を連れ歩くことが好きで、
本当の子である私を散歩に連れて行くことは、
ほとんどなかった。父(祖父)が一度だけ優しさを見せたのは、
私が大病して死にかけた時くらいだった。

母が学校の参観日に来ると「おばあちゃん?」と友だちにたずねられて
たまらなくはずかしかった。しかし母が気の毒で気にしない振りをしていた。

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母は器用で、きれいなものが好きな人です。
子どもの頃、新聞の日曜版(?)だったかに、画家や切り絵作家の作品が、
印刷されているのを毎週溜めていて、
ある時、それを部屋のふすま一面に丁寧に貼ってましたちょっと天然なのか…?
とても美しかったです。
ベニヤ板でお人形用の立派な家を作ってくれもしました。

また、私と妹の服を、手作りするのが趣味でした。
何人か母のお気に入りのデザイナーがいて、
そのなかなか洗練されたデザインの型紙で手作りするので、
今のファッションにも通じるようなかわいらしさがありました。
私の場合ずんぐりむっくりな体型で、
あまり似合うとは言い難かったのですが、
父似で目が大きくて、きゃしゃな体型の妹は、
「お人形さんみたい!」
とよく褒められていました。
母は近所の人や、道で出会う人から、そうして褒められ認められることが、
無上の喜びだったようです。
しかし、妹が堂々と自分をかわいい!と言ったり、
服や持ち物を自慢するそぶりをすると、
相手が幼稚園児でも容赦なく上から押さえつける時がよくありました。
私にすると、母も妹もふたりとも、
だれかれなしに服を自慢したいのだなぁ…と感じていました。

私はしょっちゅう仮縫いで針がついた服を着せられるし、木にのぼったり穴をくぐったりするとき不便なので、おしゃれをするのがきらいでした。
それに、近所の人が何となく怖かったので、
突然褒められると居心地が悪くてたまらなかったのです。
それで、母や妹の気持ちはさっぱりわからないし、
何だか似ているな…と思っていたのです。

父は乱暴でギャンブル中毒の人(もとは子煩悩なので怒っていないときは
面白くて優しいところがありました。)でしたが、
仕事でほとんど家にいないので、
家の中は母の夢で彩られていました。
手作りのお菓子やパンや飲み物、手芸や絵本やクラシック音楽や楽しいゲーム…
イベントいっぱいのお誕生日会…などなどです。
しかし妹は目ざといタイプで、
母の作るものより、友だちのように買った服がいい!買ったお菓子がいい!
外食に行きたい!
と何時間もごねて泣き続けることが多かったのです。

すると、母の方も意固地になって、
ちょっと機嫌を取ったり、気をそらすために何か提案したりもしないで、
どこまでも戦闘態勢で対応していました。
そして妹の性格や好みをことごとく
批判していました。

私は、母が言うほど妹がひどい子だとは思えませんでした。
というのも、妹は活発で明るくてさっぱりしているので、
近所中の子に好かれていたのです。
子どもが多い地域だったので、
私も友だちに不自由することはなかったけれど、
みなに好かれているとはいい難かったのです。
それで、妹は子どもの私の目からすると、
とても魅力的な子に映っていました。

しかし母は、アンデルセン童話のアニメで、
「ふたりのエルダ(エルガ?エルザ?)」という
悪い魔法で日中、悪魔のような性格に変えられていて、
夜になるともとの姿にもどる盗賊の娘の物語を見ながら、
「○○(妹の名前)のようだ…。寝顔だけはこんなにかわいいのに…。」
とつぶやいていました。

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母の話には、子役のようにかわいらしくて、
いつも父(祖父)に散歩に連れて行ってもらっている姪の話が
よくでてきました。
この姪は母よりいくつか年下で、
母と同じように都会に出てきて結婚していました。
先に都会暮らしを始めていた母は、その姪を大事にして
親しく付き合っていました。
その様子からは、母がこの姪に強い嫉妬心やコンプレックスを抱いているようには見えませんでした。

しかし母の妹に対する子育てには、
この美しい姪に対するさまざまなもやもやする思いが含まれている
のは確かでした。
母は妹が周囲から容姿のことで褒められたり、
ちやほやされたりするのを
すなおに喜ぶことはあまりありませんでした。
「でも、わがままで…」と付け加えたり、
横にいる私を引き合いに出して、「この子は心がきれいで、頭が良いんです」
と言ってみたりで…
その複雑な思いがうかがえました。

おそらく母は、姪に嫉妬している思いを認めたくなかったのではないでしょうか?
というのも、姪と祖父の散歩の話は、
何かの折には必ずといって良いほど、母の口にのぼったのです。
しかし、母はだからと祖父や姪を悪く言うことは一度もありませんでした。
母の言葉にならない思いは、無意識の奥にしまいこまれて、
自分でも気づかないうちに現実を少しずつゆがめていたのではないか…?
と私には思われました。

第一、きちんと言葉にして考えることができれば、
姪を連れていつも散歩していた父(祖父)は、
愛情からではなく、単なる見栄えのする持ち物やペットのように
その子を扱っていた事実に気づくでしょう。
そして、そうした子ども時代の悲しい気持ちに
決別できれば、
妹に対する自分でも理解できないようなイライラした思いに悩んだり
かと思えば特別扱いして甘えを助長させたり
しなかったのではないか…?
と思えるのです。


セルフエスティーム(自己肯定感)について思うこと 2

2012-03-27 17:21:09 | 自己肯定感を育む

子どものセルフエスティームと、親のコンプレックスや家族の機能不全との関わりは大きいと思います。

子どもをたくさん褒めて育てたから、愛していると伝えながら育てたから、どんな能力でも成績でも受容して育てたから、必ずしも子どもの自尊感情が高まるというというものではなく、むしろ親が自分の心の暗部を見つめ、自分のインナーチャイルドを育み、自分自身の存在を愛情を持って受け入れていくことの方が、子どもの自尊感情を高めることにつながっていくのかもしれません。

 

私の育った家庭も機能不全の状態でした。

長い期間、親と子、家族、集団の問題を見つめて、向き合ってきて、しみじみ、これは日本人全体が抱えがちな問題なんだな~と思います。「これが、ふつう」と思えてしまうくらいに。
これから育っていく幼い子たちが、自分らしく幸福に生きていくために、そこから目をそらしてはいけないと感じています。

過去記事なので読んだことのある方もいらっしゃるかもしれませんが、わたしの子どもの頃の体験を紹介します。

 

『親のコンプレックスと子どもの困った行動』

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母は、私が物心ついた頃から、子育てに悩む人でした。
その悩みの8割が妹の素行、2割が私のぜんそくです。
それで、家には図書館で借りてきた、「母原病」やら「親業」やら育児に悩む親のための本が、何冊も積んでありました。

それで、私も小学校の高学年頃には、片っ端からそういう本に目を通すようになっていました。
ただ不思議なことに、母はそうした本を読むには読んでも、肝心な部分をすぽっと抜かして読んでいるような、自分の言いように歪曲して読んでいるようなところがありました。
それで、小学生や中学生時代は、私が母に本の内容を解説し、母が納得する…ということが、たびたびありました。
どうして母が、本を読んでもすぽっと抜けたり歪曲して解釈したりするのか、私には長い間謎でした。

母は子ども好きで優しい性格でしたが、私を評価する時と、妹を評価する時では、明らかに基準が違いました。
母は私の事となると、きちんと現実を見ていないところがあって、1から10まで良い様に解釈していました。
私の内気なところは、おとなしくて良い子だ、と言い、友だちが少ないと、この子はひとりの友人を大切にする、と言うような調子です。
一方妹の場合、活発で友だちが多いところに、気づいて褒めているのを見たことがありません。
時に妹は、強い愛情深い性質が溢れるようなところがありましたが、母は「この子には困った」というばかりです。

どうしてなのか、なぜなのか、私にはよくわかりませんでした。
何度、母にその疑問をぶつけてみても、他の事なら何でも親身になって聞いてくれる母が、その部分だけまるで見えない聞こえない人のように、感じられたものです。

母が妹をかわいがっていなかったか…?と言うと、そうでもなくて、母は妹が駄々をこねるのに根負けして、
たびたび妹にだけ高価なおもちゃを買い与える時がありました。
駅前の店のショーケースに飾られていたピンクのうさぎのぬいぐるみもそのひとつでした。
私は、そのぬいぐるみを目にするたびに、うらやましくて頭がぼーっとするほどだったのですが、母はそんな私を指して「この子は欲のない子で、何か欲しいとわがままを言ったことがないんですよ。この子は、本当にいい子なんです。」と知人に説明するのです。
私には確かに、物への執着が薄くて、流行に疎いところがありましたが、それでも目の前で妹におもちゃを見せびらかされるともう欲しくて欲しくてたまらなくなって、夢にも出てくるほどでした。

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母の行動には、私からすると、腑に落ちない部分がいくらかありました。
けれど、母が裏表のある複雑な性格だとも思えませんでした。
というのも、母は純粋な少女のまま大人になったようなところがあって、他人の陰口をたたいたり、
嫌味を言ったりすることは、まずなかったからです。

それでも、普段、非常に寛大な判断を他人にくだす母が、なぜか妹にだけは、ちょっとした反抗に腹を立てたり、することなすこと悪く解釈してみたり、かと思うと、「お母さんは○(妹)のことが一番気にかかる。あの子を誰より愛しているのかもしれない…。」と、まだ子どもの私が傷つくかもしれない…と配慮することも忘れた様子でつぶやいたりすることは、何だかざわざわする不安を私の心に生じさせました。

私は、そんな子育てに悩み続ける母のもとで、子育て本やら、教育書やらを覗き見していたため、高校に上がる頃には、そうした興味がもっと深い意味を求める思いに変って、ユング心理学に関する本を熱心に読むようになっていました。

そうして、ユングの著書を中心に、そのお弟子さんたちの考え方や、他の心理学者たちの考え方に触れるうち、母と妹の不思議な関係の謎が、次第に自分に理解できるものに変ってきました。

母と妹の問題だけでなく、私が疑問を持ち続けてきたおびただしい問いが、心の中でストンストンと納得できるようになりました。

幼いときから、私の頭の中は次々湧き上がる疑問で満杯状態でした。

いつもいつも不思議に感じたことを考え続けているので、実際、とんでもなく物覚えが悪くて、小学校の先生が、「明日○○を準備してくるように…。」と命じた言葉なんかを、覚えていたためしがありませんでした。
目の前にあるものにしょっちゅうつまずいたり、身体をぶつけたりするどんくさいところも目立ちました。
そんなわけで、身の回りの世界はとても生きづらくて、困難な場所のように感じていました。

それで、自分自身がその生きづらさから脱け出すためにも、その後もずっとユング心理学は私の道しるべとなりました。


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ユング心理学で扱われている「コンプレックス」というのは、単なる劣等感という意味ではありません。
客観的に判断できる事実とは異なり、事実と関係なく当人が気にしている…のがコンプレックスなのだそうです。

コンプレックスとは、世間一般の考えから外れて、こだわっちゃうこと…当人の意識の外…すなわち無意識の中のこだわりと言えます。

「無意識の産物」であるコンプレックスは、その人の理性的な言葉や行動を邪魔します。
親切に言ってくれる人に怒鳴って返しちゃったり、自分の理想を他人に押し付けてしまったりします。

コンプレックスの原因はその人の体験と人生の中にあります。
しかし、コンプレックスになったのには、「思い出したくない、知りたくない、意識で自覚したくない」と思える辛い経験がもとになっています。
ですから、自分で自覚するのは、難しいようです。

しかしこのコンプレックスを放っておくと、人生に暗い影を落とし、心の病にまで発展することがあるようです。

コンプレックスを克服するには、
「私はこんなこだわりを持ってしまう人間だ」と理解することと、
「だからしかたない」と妥協したり、
「でもこの場ではコンプレックスを抑えなくては」と努力したりすることが大切なのだそうです。

親の影響がコンプレックスを植えつける原因となる場合が、多いそうです。
親の過剰な期待や理想の押し付けが子どものコンプレックスを作ります。

有能な父と、父を慕って勉強を頑張る娘…といったほほえましい間柄も、父が娘の成績を褒め続けた場合
「成績が優秀でない子は、褒められる価値も愛される価値もない」という娘の感じ方につながり、娘の人生を困難にする父親コンプレックスを植えつける原因となったりするそうです。


そして、娘のコンプレックスは、「自分の能力以上の努力をしない人間」に反発して、激しい攻撃をさせ、人間関係を困難にさせるのだそうです。

親の子に与える影響大きいですね。

もし、この女性が、自分の人間関係を混乱させ、人生を破綻させかけているコンプレックスを克服して、
豊かな人生を作ろうと思うなら、コンプレックスと向き合って、自分の人間観の偏りを修正し、「父親が自分のコンプレックスを生み出した」事実を受け入れなくてはならないようです。

このコンプレックスというキーワードは、それまでずっと謎だった母の不可思議な言動や物の見方を、私が理解できるものに変えてくれました。

 

次回に続きます。


セルフエスティーム(自己肯定感)について思うこと 1

2012-03-27 16:43:07 | 自己肯定感を育む

読者の方からコメントをいただきました。

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セルフエスティームについて質問です。子どもの自尊感情ですが、どのようにして育てられるものでしょう?
「ありのままの姿を受け入れ、愛す」ことはしているつもりですが、それと同時に、子どもに「こうなって欲しい」という希望、期待をかけてしまいます。それは「ありのままの姿を受け入れる」ことと矛盾するのでしょうか?
2人の子どもがおります。8歳の長男は幼い頃から発達障害とのボーダーぎりぎりで、手がかかり、私もひどい言葉でなじったこともありますが、明るく、自己肯定感が高いように思います。5歳の娘は、あまり手がかからない子でやりやすいのですが、他の子を褒めたらすねたりして、自己肯定感が低いように感じます。
お恥ずかしい話ですが、子どもに「ありのままのあなたを愛している」と伝えられているのか、自信がありません。

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「ありのままの姿を受け入れ、愛す」ことと同時に、「こうなって欲しい」という希望や期待をかけることは、矛盾することにはならないと思います。

でも、「こうなって欲しい」という思いが子どもの今の姿に対する不満足な気持ちから生じていたり、親のコンプレックスを肩代わりさせるような形の願望だった時には危険な気もします。

自己肯定感を高めることについて、親御さんたちと話していると、子どもに言葉で褒めているか、愛していると伝えているかという部分だけが意識されていて、親の態度や行動が、子どもの自己肯定感を上げたり、下げたりしていることについてはあまり気にかけていないように見えることがよくあります。

 

コメントをくださった方のように一人目のお子さんに発達障がいがあって、手がかかる場合、親御さんの注目や世話のほとんどがその子に集中して、他の子は見捨てられたような気持ちを味わっている場合があります。

言葉できょうだい児を褒めているだけでしたら、褒め言葉のはずが「お母さんはこんなにたいへんだから、あなたが良い子でいてくれなくちゃ困ります」というメッセージとして伝わっていることも多く、本人の心が本当に満たされているかわからないのです。

手がかからない良い子には、親の方がその子だけと過ごす時間を作って、手をかけてあげなくてはならないと思います。

また、たまには悪い子になったり、わがままを出したり、怠惰になって、その子が自分の全てを受け入れてもらっていることを感じることができるように配慮して、「お母さんは幸せ。お母さんは大丈夫。○ちゃんは、子どもだから、お母さんやお兄ちゃんのことを心配して、いっぱいいっぱい我慢しなくてもいいよ」と言ったメッセージが伝わるように抱きしめてあげるといいのではないでしょうか。

 

セルフエスティームは必ずしも親だけが高めるものでもないと思います。

さまざまな人との出会いが、子どもの成長を支えているのでしょうし、他所の子であっても、教師と生徒という間柄であっても、子どものセルフエスティームを高める手助けができるような世の中になればいいな、と思っています。

 

パソコンの生みの親「アラン・ケイ」も、自己肯定感の低さから、学校で問題行動をたくさん起こしていたのでしょうが、ひとりの先生との出会いで、自分という存在のかけがえのなさや素晴らしさに気づいたひとりです。

戸塚 滝登先生の『子どもの脳が学ぶとき』という著書にあった逸話を要約して紹介しますね。 

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アラン・ケイというのは、世界初のパソコンと、それを操作するための高度なプログラミング言語を創り出した人物です。

そのアラン・ケイの少年時代は、学校との戦いで、何度か落第や退学の憂き目にさえあったそうです。
そんなアラン・ケイの小学校時代の話を紹介します。



アラン・ケイは家いっぱいの本を読んで育ち、知的に豊かな環境に育った早熟な子どもでした。
しかし、小学校に入学したとたん世界は砂漠に変わってしまいました。

授業は退屈でたまらず、アラン少年は、学校とは苦痛を与えるところだと思い込みます。

アラン少年が小学4年生になったとき、メアリ・クラーク先生と出会いました。
その先生の教室の隅っこには、ガラクタでいっぱいの工作机があって、乾電池、ねじ回し、電球や電線、電気工作や自作メカの本などが置いてありました。

そのガラクタ机で、電磁石の図解が載っているのを見つけたアラン少年は、英語の時間に実験して試してみようとしました。
するとうまくいったのです。
思わずうれしくて叫んでしまったそうです。

クラーク先生はアラン少年を罰するどころか、かえって発見を誉めてくれました。
それがきっかけになり、クラスには電気の実験に興味を持つ子がほかにも現われ始めたそうです。

すぐに先生は、興味を抱く子を集めて小さなグループを作り、電気について探求するプロジェクトを組織しました。
あっという間に、グループは小学理科をはるかに超えるレベルの学習を達成してしまったそうです。

「あの素晴らしい女教師は知っていたんだよ。未知の世界を前にしたとき、子どもは科学者と同じ心を抱く。子どもは探究したがっている。自分の目と耳で未知の世界を偵察したがってるんだとね。クラーク先生はそれがちゃんとわかっていたんだと思う」
とアラン・ケイは語っています。

その後、ハイスクールを退学し、大学に進学したものの、そこも退学。
空軍に入って、軍に才能を見出され、除隊して、大学に留学、大学院にも進みます。
アラン・ケイの才能はようやく花開き、扱いにくくてがらくたのようだったグラフィックス・コンピューターを、小さいサイズの洗練された使いやすいマシンし変える研究を始めました。
そして、現代のパーソナルコンピューターの原型にあたるマシンの開発に成功できたのです。

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こうした話を聞くと、「すぐに今の小学校でそんなことが可能なはずがない!」とおっしゃる方がいるのですが、今の学校では不可能でも、家庭や身近な大人までが、学校と同じ硬い考えで子どもの教育に当たる必要はないと思うのですよ。
勉強イコール学校で習うことと決め付けると、子どもの才能を枯らしてしまう場合もありますね。

「子どもの未知なるものへの探究心」を大切にしてあげなくてはと考えています。
特に軽度発達障害の子は、ASDの子の場合、ひとつの分野や興味にとことんこだわるところがありますし、ADHDの子の場合、拡散思考とひらめきを駆使して、これまでにないものを生み出す力があったりします。
学校への適応ばかりを気にして、そうした才能を伸ばすことをおろそかにするのはよくありませんね。
子どもは、どの子もすばらしいものを持っていますから…。


引用は「子どもの脳が学ぶとき」戸塚 滝登  高陵社書店 より