会話のきっかけは、息子の
「今じゃパソコンがどんどんブラックボックス化しつつあって、
すごいことができていても、いったいどんな原理で実現しているんだろうって
興味を持つ人は少ないよね。
日常のあたり前の道具になり過ぎて、不思議を不思議と感じるのも難しい。
前に見たレイン(lain)ってアニメができた頃(1998年)は、
実際にパソコンで実現できていること自体はたいしたことがないし、
たいて内部構造のシンプルさを理解している人がパソコンを使っていたんだろうけど、
パソコンに対して道具以上のイメージを重ねていた人が多かったんだろうな」
という言葉。
わたし 「道具以上のイメージを重ねるって、どんなふうに?」
息子 「未知の自然現象のように捉えていたんじゃないかな。拡張していくことで
どんなものでもできそうな無限の可能性を見ていたというか。
ライフゲームのように、空間や時間が不連続だったらどんな世界が形成されるか、
なんて哲学的な問いをパソコン上で確かめようとするなんて、
PCを便利な道具として捉えていたら出てこないイメージだと思うよ。
人工生命とか人工知能の研究とか。
SFでもコンピューターに不可能はないってほど奇想天外な世界が描かれていてさ」
わたし 「今は、いろいろ研究しつくされて、ある程度、
パソコンでできることの限界が見えてきたってこと?
それともお金にならない研究を続けるのは難しいのかな?」
息子 「お金の問題はもちろんあるんだろうけど、
限界が見えてきたわけじゃないと思うよ。ただ、機能が複雑で高度になるほど、
用途が限定されて、応用がききにくくなるし、夢が広がらないんじゃないかな。
高機能なものは、その特殊性のせいで全体像が見えにくいじゃん。
使い方の制限も増える。
使う分には、機能が高くていろんなことができた方がいいに決まっているんだろうけど、
それから別の可能性をイメージしていくことや自分の考えを組み込んでいくのは
もっともっと単純な機能の方が向いているんだと思う。
たとえば、2、3行のプログラムなら、どこか書き変えたら新しい何かが生まれるん
じゃないかと子どもでもいろいろやってみるだろうし、そこから何が正しく
何が間違っているか、何ができて、どうしたら元通りになおせるのか学び取れるよね。
でも、それが1000行とか2000行といったプログラムだったら、
ブラックボックス相手の使用者の立場なら、高度なことができていいわけだけど、
多少いじっただけでもまともに動かなくなる。
そこから自分でイメージしたり考えたりできる可能性は限られるよ」
(しゃぼん玉膜の中の雲の粒)
わたし「河合隼雄先生が、最近読み返している『日本人とアイデンティティ』 の中で、
新しい発想や創造性は、既存のシステムと相いれない。
既存のシステムに固執する限り、新しい発想も創造性も悪の烙印をおされて
しまいがち……といったことを書いておられたんだけど……。
★(息子)が言う機能の高さが想像の可能性を狭める原因って、
高機能になるとどうしても機能が上がる過程で、
付け加えられるシステムに固執してしまうからってこと?」
息子 「そうとも言えるけど、ぼくがさっき言いたかったのは
パッケージ化されることからくる制限と言った方が近いかな。
たとえば、ねじが一つあるとすると、実際に使えるかどうかはそのサイズや
質に左右されても、その形状からイメージできる使い道は多岐に渡るよね。
家具とか建築物とか乗り物とか、目に見えないほどのサイズにして使うことも
考えられるはず。あくまでもイメージだけど。
でも、テレビのリモコンに使われているねじは、同じねじでも、
その用途以外のものを想像しにくいよ。
そんなふうにパッケージ化されることで、型にはまった見方しかできなくなることって、
教育の世界でもあるんじゃないかな。
お母さんの教室でも、すぐに、それやったことあるからいい、
それ知ってるからやりたくない、っていう子がいるじゃん。
そういう子が体験済みだって主張する体験は、おそらくパッケージ化された体験に
含まれているものなんだと思うよ。
だって、本当に自分の頭と身体で体験したことを再体験するなら、
繰り返しの中で感動や理解が深まったり、
工夫して新しい価値を見つけだしたりするものだから。
でも、体験の中には、さっき言ったテレビのリモコンのねじみたいに、
パッケージの一部から切り離してイメージできないようなものがあるんじゃないかな」