虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

自閉症スペクトラム障がいの子 と 論理的に考える力 8

2011-09-23 22:45:15 | 初めてお越しの方

 

『自閉症のDIR治療プログラム』S.グリーンスパン S.ウィーダー  創元社

では、現実世界と関連した論理力について扱っています。

 

この著書では、自閉症スペクトラム障がいの子を含むどの子どもも、現実的な論理の枠組みで

この世の中を理解する必要があり、

家や学校や職場などすべての社会状況の中で利用できる技法を身につけていかねばならない

と論じています。

 

『自閉症のDIR治療プログラム』に次のように書かれています。

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冒頭で示したASD(自閉症スペクトラム障がい)やその他の発達障がいの場合は、

言葉や運動機能や感覚処理の問題などがあるために、論理的に考えて現実世界に合わせる

ことは困難で、ファンタジーの世界に逃げ込む方が簡単です。

高い音が苦手な子どもは甲高い声が耳障りで苦手で、会話を避けるかもしれません。

むしろ独語や空想の方が好きなのです。

ファンタジーの世界では登場人物を監督し会話させることは簡単です。

そこでは、なぜ、いつ、どこでなどの難しい質問をしてくる人はいません。本を読んだり

文章を書いたり計算をしたりという難しい技術を身につける必要はありません。

その世界で過ごすことはとても簡単です。もし言葉が話せれば、独り言を繰り返し、

楽しい時間を過ごすことでしょう。

(略)

このような子どもは現実に合わせた考えが困難です。

なぜなら、論理的な発想をするための第一段階は周りと十分に関わり、周りを知ろうと

思うことから始まるからです。

感覚情報処理に問題があってこうした関わりが困難な場合、

論理的な考えを身につけるまでの道のりは長く、

途中に大きな障害物が横たわっています。ジョーンズ氏のように、論理的思考は部分的にしかできません。

しかし、目標がはっきりすれば、論理的な考えというゴールに

向かってサポートしていくことは可能なのです。

          『自閉症のDIR治療プログラム』S.グリーンスパン S.ウィーダー  創元社 P104、P105

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この夏、ユースホステルでのお泊りレッスンの時にも、自閉症スペクトラムの男の子が、

 

ファンタジーの世界から一歩外に出て、周囲の世界と感情的に意味のある関わりをすることで、

現実の世界に関心を示しはじめる姿を目にしました。

自閉症スペクトラムの子と人間関係 だんだん親しくなっていく 1

自閉症スペクトラムの子と人間関係 だんだん親しくなっていく 2

でその時の出来事を記事にして紹介しています。

 

さらさらと日本地図や大きな数の表を描いていく☆くんは、独り言を言いながら

自分のファンタジーの世界にどっぷりつかって過ごすことが多い子です。

 

感覚過敏がひどく、人と交わるのが苦手で、これといったあてもなくふらふらと歩きまわって過ごしがちです。

目で見たものを写真のように記憶できることから、

覚えた漢字や数字を見本もなしにさらさらと書いて、遊んでいます。

 

そんな☆くんが、独り言や独り遊びの世界から、

自分のしていることを見て、認めてくれている人の存在を感じて、

自分を理解してもらう喜びを感じて、お友だちの作っているものに興味を示したり、

私の遊びや工作の提案に乗ろうとしたとき、

☆くんが無関心や逃げる構えから、人に強い興味を抱いて関わりたいいう思いに

心を広げていく目には見えない微妙な変化が、

そこにいた人々には、まるで☆くんの心の動きを自分で体験していることのように

感じることができたのです。

 

誰もが敏感すぎる☆くんの近くで息をする気配も消すほどに

そっと優しく温かな雰囲気を創り出していて、

☆くんはそこでいつもの☆くんでは見られないような能動的で積極的な態度で

周囲を観察し、行動に移していたのです。

 

 

 


デュプロブロックで2,3歳の子にお片づけをしつける方法

2011-09-23 20:54:18 | レゴ デュプロ ブロック

2、3歳の子にお片づけをするように言っても
片付けるポイントがわからずにうろうろしたり、
飽きてしまったりしますよね。

そんなときにブロックで片付けたいもののサイズの
すきまを作ってあげると
自分から進んでもくもくと片づけはじめます。

カードを入れるとき「ピンポーン」という声を
出してあげたり、
時々すきまの高さを上げたりすると
最後までがんばれます。

ブロックの良いところは、簡単に形が変えられるところです。

こまごましたおもちゃや人形は、ブロックを板状に組んで滑り台を作って、

「滑り台をシューッと滑らせて、おもちゃをお家に帰らせてあげようね」と言うと、

乗り気で片づける子もいます。


割り算の意味がわからない

2011-09-23 17:27:27 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

 

小学3年生の知的なゆっくりさんの○ちゃんのレッスンです。

○ちゃんのお母さんから、「割り算の意味がわかっていないようなのですが、

どのように教えたらいいのか難しくて……」という相談をお受けしました。

○ちゃん、意味を理解しないまま形だけ計算ができるようになっているのですが、

そのため新しい単元に進むたびに、それまで習ったことを忘れてしまいます。

できるようにさせることや、プリントで訓練するだけでなく、

○ちゃんが「わかった!」という理解に至るような教え方が必要なようでした。

 

○ちゃんのお母さんによると、

「9個のいちごを3人に分けるといくつずつになるかな?」といった教え方で

割り算を説明しているけれど、

理解のほどは怪しいそうです。

 

○ちゃんの頭の中には、いちごと人間がごちゃごちゃいっしょにある状態なのでしょうけど、

それでは自分に求められている行為がわかりにくいかもしれません。

 

そこで、紙皿を「割る数」とし、

いちごのおもちゃを用意して、「割られる数」としました。

 

紙皿は、「同じ数ずつ分けると」いう行為が、

目で見るだけで分かりやすいアイテムです。

 

お皿があれば、幼い子でもいつの間にか、物を分けはじめますよね。

 

上の写真は100円ショップの鍋式ですが、

いちごのおもちゃを並べるのにちょうどいいサイズでした。

 

「3×4」と計算式を言って、並べてから、そーっと枠をはずして

きれいにいちごを整列させて遊びます。

子どもたちは「朝礼だ!」といって喜んでやりたがります。

 

この遊びはとても気に入っていた○ちゃん。でも並べた後で、

「これは何×何かな?」とたずねると、間違えます。

どうも全体像をつかむのが難しいようで、自分が注目している部分だけ数えて、

上の写真の置き方のときも、「3×2?」「3×3?」とたずねます。

3ずつ指でなぞるように捉えて、「3の塊がほら、1,2,3,4あるでしょう?

だから3×4よ」と説明しても、3つのいちごを「ひとつのまとまり」として見ることや、

3つの塊ずつに、分けながら見ていくという

行為自体がとても難しかったようです。

 

プリントでかけ算や割り算を丸暗記させていっても、

こうした「見ること」の問題を残したままでは、頭でイメージして解けるように

ならない気がしました。

そこで、○ちゃんには、このように物をいくつかずつの塊で見ていくことと、

「割られる数」の小物を紙皿に分けることを課題にしました。

 

おままごとが大好きの○ちゃん。

きっと楽しんで学んでくれることでしょう。

 

 


国語が得意になる子育て

2011-09-23 06:17:16 | 国語

100円ショップで買ったじょうごを乗せて、
☆ちゃんの折り紙アイスを上から入れると、
下にセットした紙コップにポンと入る仕掛けをつくりました。

ちゃんとコインを投入する穴を空けています。

大人が子どもにブロック作品を作ってあげるとき、
子どもの要望をよく聞いてあげるようにすると、
発想力、思考力、語彙の力が伸びてきます。

別のグループの3歳の★くんは、「お金を入れるのが終わるまで、紙みたいなので、出てこないようにおさえてて、(そのときはジュースの販売機でした)入れたら、それ(お金)でーポンて押されて、出てくるようにして!」
と注文を出していました。

製作する力こそ、幼くても、
頭のなかでは考える力がどんどん発達している時期でもあるんですね。

工作をするにしても、ごっこ遊びにしても、知恵遊びにしても、
その遊びの中で、
大人が子どもとの会話を豊かにする努力を十分して、
子どもの話に良い聞き役になるなら、
子どもの国語力は飛躍的に伸びていくと実感しています。

「いつ、どこで、だれが、どうして、どうなったのか」

遊んだり、けんかしたり、退屈だったりする日常に、
いくらでもそうしたことを話題にして話す機会があります。

親も子どもも時間に追われていると、
そうした国語力の土台となるものが身につかない場合があります。
漢字やひらがなの練習は、小学生になってからの1ヶ月で幼児の1年分を取り戻せますが、
日常の中で会話することで身に付く、表現力や理解力や論理的に考えていく力は、
後から身につきにくいです。
「あ、うん」「まあ」といったひとことで会話する習慣は、性格のようにもなってしまうので、学んだから変わるものでもないからです。

また、「はやく自分で作れるようになってほしい」「これを覚えてほしい」
と、作ってあげている最中に、
子どもに対する要望ばかり心から発している場合も、
良いチャンスを逃してしまいます。

大人はあれもこれも一度にできてほしいと願います。
でも、幼児は、
他の要素をはぶいて、
「ひとつだけ」に集中できるときに伸びます。

小学生以降の子のように、2つ以上のことを同時に伸ばそうとすれば、
どちらも身につかない結果となるのです。


子どもが自分でどんどん作るときは、
製作する力がどんどん伸びて良いのは確かですが、
子どもが「作って!」と甘えてくるときも、
その時しか経験できない学習がたくさんあることに気づくと、
子どもと過す時間がいつも貴重で楽しいものになりますね。


現代っ子 と 広汎性発達障がいの子 と 論理的に考える力 7

2011-09-22 22:12:11 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

(タイトルの「論理的に考える力」を伸ばす方法に行きつくまでに

前置きの話が長くなりすぎてしまったのですが、明日にでも別のレッスンの記事をはさみつつ書いてしまいます)

現代っ子 と 広汎性発達障がいの子 と 論理的に考える力 2 の記事で、

もうひとつ言葉を説明し忘れているものがありました。

「アフォーダンス」です。

わたしは、子どものために工作見本を提示するとき、

その子がその時期に環境にある「アフォーダンス」の何を探求しているかを観察しておいて、

その行為をさらに追及して洗練していけるように

しています。そうすると、たいていどの子も物作りに夢中になります。

アフォーダンスについて説明は、過去記事った書いていたものがあるので、コピペしておきますね。

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アフォーダンスとは、知覚心理学者のギブソンによる造語で、
環境が動物に対して与える「意味」のことです。

世界にどのような意味があるのか、
人間の脳がそれを作り出しているかのような印象がありますよね。
でも、ギブソンによると、
環境の側に 客観的な構造として「意味」が存在していて、
生き物がその一部をピックアップしているのだそうです。

アフォーダンスの理論はまだ仮説ではありますが、
幼い子たちと接している私には、とてもリアルに実感できるもののひとつです。

たとえば、ひもがあると、それ自体に、物を束ねたり、物と物を密着させたり、結んだり、縛ったり、音を伝えたりする行為の可能性が備わっていますよね。その構造に意味や価値が潜在しているとも言えます。
動物が生活の場を探索することによって獲得することができる
そうした意味や価値が、アフォーダンスと呼ばれているのです。

この概念に出会ったとき、
私はこれまで勘で、

「漠然としていて目には見えないけれど、
子どもの能力の伸びに大きな差を与える何か」

として敏感に捉えて
自分の内面にだけ体系化してきたものの
正体がわかったように気がしました。

私は自閉症の子への教育法を学んできたわけではないのですが、
言葉がほとんど話せない自閉症の子といっしょに過すときがあります。

そんな時、その子の行動から、「教えるときに役立ちそうな情報」として注意深くチェックしているのことがあります。

「教えるときに役立ちそうな情報」というのは、
アフォーダンス……
つまり「その子が環境にある客観的な構造にある意味の
何をピックアップし、どのように使っているか」ということです。

といっても、アフォーダンスという概念を知って、
そうするようになったのではありません。

仕事柄、0歳~2歳の子と関わることが多いので、
言葉がなくても、作業手順や物事の意味を子どもに理解させるために、
私の内部で進化してきた方法が、
アフォーダンスという概念と関わりが深そうだと
後から気づいたわけなのです。

言葉を介さない漠とした世界でも、
アフォーダンスに注目すれば、

相手がどのようなことができそうで、
どのような方法なら理解しそうで、
どのような形で教えればよいのか、
どのようにして一人で学んでいくのか、

の目処が立ちます。

また、障害はないと思われる幼児も、
親御さんの過干渉や、早期教育の影響で、
自由な探索活動が減って、
アフォーダンスの理解が進まないと、
「地頭力が弱い」という状態になりやすいことも
経験的にわかってきました。

これまで記事にしてきた性格タイプの違いによっても、
アフォーダンスのピックアップの仕方や理解の仕方に特徴的な違いがありそうだということにも気づきました。

アフォーダンスという言葉へのくわしい説明がないまま
次々カタカナ語を出してきて悪いのですが……

ターンテイキングという

非言語的なコミュニケーションの方法があります。

ターン・テイキングとは、相手から身振りや目線によるサインが示されているときは受け手となり、サインが途切れたら今度はタイミング良く相手へサインと送り返すといった、
瞬間的に自分の役割を理解してサインを出し合うことです。

このターンテイキングは、言葉を獲得する上で
非常に重要な役割を担っているようです。

それにも関わらず、現在、さまざまな理由で親の側が
ターンテイキングをほとんど行わずに、
子どもの成長を遅らせているケースを
よく見かけます。

これについては、次回にくわしく書きますね。

親御さんに問題がなくても、
自閉症の子の場合、
ターンテイキングをほとんどしないか、したとしても
ぎこちないです。
こうした能力にハンディーキャップがあるのでしょうね。

そのように自閉症の子たちは、ターンテイキングはほとんどしないけれど、
環境や物からアフォーダンスは理解している……

つまり、環境とか物に潜む客観的な構造としての「意味」は
ちゃんとピックアップして利用する力を持っているんだな
と気づくことが多々あります。

人と人として、私と自閉症の子が直接、教え教えられの
関係を作ろうとすると難しい場合でも、
自閉症の子が環境や物のアフォーダンスを理解する姿から、
それを私が利用して
自閉症の子に教えたいものを理解しやすい形に変化させることが可能です。

場合によっては、私自身が、体を使って、
意味を含んだ客観的な構造を示すことができるようになります。

たとえば、自閉症の子が、くぼみのある器の形に、
何かを注ぎ込むという行為の可能性を見出すことができるのなら、
私が手でおわんの形を作れば、
そこでひとつのコミュニケーションが成立するかもしれないのです。
また、近づくと後ろに下がる、押すと倒れるといった
物に潜在する構造をピックアップできているようなら、
人の私がそうした動きを再現することで、
コミュニケーションが成り立ってくる場合があるのです。

自閉症の子が、筒の形から、一方に口を当てて、
「フウッと息を吹き込む行為ができる」という可能性をピックアップできているとすると、
私が、「筒状のものに口を当てて、息を吹き込んで、何かを移動させる」といったお手本を見せて、それに注目するということができる可能性は高いし、

もしそれが可能なら、そうした「本人が構造からわかっていることで見本を見せる」ことを繰り返して、

「一般的な学習課題の手本を見せるときに注目する」という
学習の型を身に付けさせることも可能です。

前にも書いたように私は自閉症について専門的に学んだ経験がありません。
でも、教室には自閉症スペクトラムの診断を受けている子たちも通っています。

虹色教室での活動は、

『アスペルガー症候群・高機能自閉症の人のハローワーク』という著書で


テンプル・グラディンさんらが、自閉症スペクトラムの人がその能力を

十分に生かしながら適職を見つけるためのガイドラインとして

力説している次の3つへの支援をしやすいものです。

★ 才能を伸ばす

★ 自分の強みをみつける

★ 一番得意なことを仕事に生かす



といっても、自閉症スペクトラムの子は、他人から学ぶことが苦手ですし、
好きなことや強みにつながりそうなこだわりも、
自由にさせていると、感覚遊びに終始してしまいがちです。



そこでさまざまな自閉症関連の本に目を通して、
「後々の問題行動につながりそうなことには慎重に接する」
「理解しやすい提示の仕方をする」といった
関わり方の指針にしています。

ただ、そうした本から得る知識だけでは、障害特性も違う、個性も違う、発達段階も環境もこれまでの経験も違う子に
対応するのはとても難しいです。

そこで私にとって、とても役に立ったのが、

「一般的な赤ちゃんが非言語の世界で身近な大人と交流しながら
言葉や知識を学んでいくプロセス」や

「赤ちゃんが身近な環境のアフォーダンスを利用する姿」

といった子育てや仕事で得た体験にもとづく知識です。

そうした私の中でとても微細な点まで体系化している
言葉のない世界の「人と人」、「人と物」の間で交わされるやりとりは、
自閉症スペクトラムの子の「できる」と「できない」の境界線を見極めて、
越えられそうな課題を用意するのに役立ちました。


たとえば、一般的な赤ちゃんは、おっぱいを飲んでいる最中に、ちょっと休憩して、
お母さんがちょっとゆすったり、愛情を込めてつっつくと、急に思いだしたようにまた飲みはじめます。

休憩ついでに、お母さんの表情をうかがったり、くるんと首をまわして、周囲の様子をうかがったりしますが、
お母さんの自然なサインで、「あっ、そうだった、そうだった。おっぱいを飲んでいるんだった」と察したかのように
再び吸いはじめます。

また、まだねんねの時期の子も、ちょっと頬や手の先などをつっつくと、
たちまち「かわりばんこごっこをしようよ」とでも言いたげな様子で、

「あーあー」などの声を出して交互に反応しあうゲームに誘ってきます。
「あーあー」と応えると、手足をばたつかせて、「あーあー」と返し、
こちらも「いないないばぁ」をしたりして積極的にあやしはじめると、
体をねじらせて笑うなどします。

こうしたやりとりがターンテイキングと呼ばれることは、
最近になってしったのですが、
この名前を知らない時期も、自閉症スペクトラムの子たちは、
この交互にやりとりする形が苦手なために、

能力があってもできないことが多いんだな、と気になっていました。

何か教えるにしても、理解力が弱くてつまづくのではなく、
この「人と交互に交わすやりとり」がネックになって、
学習がうまく進まないことがたびたびありましたから。

そこで、
「いったいどのあたりから苦手なんだろう」
「何ならできて、何ができないんだろう」
「教えればできそうなことは何だろう」
「どのような形ならできるようになるのだろう」とターンテイキングということを意識して
自閉症スペクトラムの子たちと接するようになりました。

「トントン」と背中などを軽く叩いて、本人のするべきことに気付かせようとすると、

感覚に過敏さや鈍感さがあるために、ビクッとして自分に攻撃をされたかのような構えになったり、
叩かれているのさえ気づかず、それまでの行動を続けていたりして、

そこで、「あっ」とこちらの伝えたい意図を察するのが難しい子が多いのです。

これって、赤ちゃんがおっぱいを飲むのを休むときに、ゆすったりつついたりすると、
「あっ、そうだった」と自分にとって今必要な行動に気づくのと同じような気づきですよね。

この相手からの小さな刺激を受け入れる時点で、
やりとりがプツンと切れてしまうのだとしたら、
自閉症スペクトラムの子たちが、いくら叱られても
「教え教えられる」という関係をうまく築くことができずに困っているのも納得しました。

でも、いっしょに過ごしていると、自閉症スペクトラムの子たちも、
「心地よいと感じて、自分からもフィードバックを返して、
それに応えると、また返ってくる」というやりとりにつながるものがいろいろとあることがわかりました。

体全体でゆっくりギューッと圧迫されて、ギューと押し返すとか、
ブランコに乗ったり、トランポリンではねたりするときには、
いっしょにいる側が、やりとりにつながるように工夫すれば、交互に楽しくやりとりがつながっていくことがあるのです。

また、段ボールの間仕切りに開けた穴を向こうとこちらで覗きこんだり、
積み木やブロックが今にもぐらぐらと倒れそうな瞬間をいっしょに感じあうときには、
あちらがこちらの意図や反応を察して返して、こちらもそれに応じて返すということが
たびたびできました。

ものすごくささいなことなんですが、
そうした小さな突破口のようなものを探し出して、
こうした非言語の世界のやりとりで息を合わせたり、同時に笑ったり、交互に何かすることが
できるようになってくると、
それまでどうしても教えることができなかったようなことが
スムーズにどんどん教えていけるようになることがあります。

会話がでなかった広汎性発達障がいの子が、おしゃべりを覚えだしたり、
全く遊びが成り立たなかった子が、上手におしゃべりを交わしながら遊べるようになるなど、
それだけが理由で良くなっているのかわかりませんが
急に成長した実感を得たことが何度かあります。


写真は、紙飛行機をくぐらせる輪っかに的を取りつけている★くんです。

★くんは、何かを教えようにも
忙しく動き回るか、一方的にわめき続けるかで、
交互にやりとりすることが
とても難しかった子です。

交互のやりとりの型については、
最初は見えないほどの小さな進歩しかありませんでした。
本人がやりたがる糊や砂といった素材をぐちゃぐちゃ混ぜるとき、
「もっと糊を入れて!」「もっと砂!」といった要求にこちらが応えて、また要求するのを、
次第に、交互に目を見てやりとりする形に変えていき、
だんだん目的や意味のある工作へとつなげていったのです。

工作に2年あまり親しむうちに、
ようやくこちらのお手本を見て、自分でしてみて「これでいい?」とたずねて、また続きを作ると、
それに応じて見本を見ながら作ったり、
地面の下の模型を作るときに、こちらに相談しながら、計画を立てたり、
思うものがなくても癇癪を起さずに納得して、あるもので制作するようになってきました。

自閉症スペクトラムの子の就学準備というと、
字を教えたり、計算を教えたりすることを重視している親御さんもいますが、
工作やブロック制作、日常のごっこ遊び(自閉症スペクトラムの子たちも慣れるとごっこ遊びを好みます)
などの場で、
他人と交互にやりとりする形を覚えたり、相手の話を聞いて、それにフィードバックを返したり、
共同作業ができるようにして
学ぶために必要な型のようなものを身につける支援をすることは
とても大事だと感じています。

一朝一夕には上達しないのですが、
「好き」な活動を繰り返しできるようにして、
その活動のなかで、身近な大人が、知的な向上を目指すだけでなく
そこで交わされる非言語のやりとりを少しずつ向上させるように調整していくと、
子どもの困り感がかなり減ることを実感しています。 <script type="text/javascript"></script>


現代っ子 と 広汎性発達障がいの子 と 論理的に考える力 6

2011-09-22 15:35:03 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

言葉についての説明を加えるうちに、書き始めた当初のタイトルと内容がずれてきていることを

許してくださいね。

現代っ子 と 広汎性発達障がいの子 と 論理的に考える力 2

で力動感という言葉を使っています。

それについて、私が理解している範囲で説明させていただきますね。

力動感とはダニエル・N・スターンの概念で、

小林隆児先生の著書のなかでは、

形態、強度、動き、数、リズムなどといった人や物体の特徴が

包括的で無様相な知覚という特性で直接体験されるもの」という言葉で

説明されています。

力動感というのは、原初的知覚の代表的なもののひとつです。

次々、小難しげな名前を出してきて悪いのですが、

原初的知覚とは簡単にいうと、赤ちゃんの頃の知覚のあり方です。

 

機能分化が生じる前の赤ちゃんの知覚というのは、情動も運動も知覚も共時的に働いていて、

つまり、「気持ちいい」とか「悲しい」といった感情も、

身体を動かすことも、

「あれは固いな」「あれは小さいな」といった何かを感じとる知覚も

どれもこれもがいっしょくたにつながって体験されるのだそうです。

 

ですから、身体を動かしていると、自然に感情も揺さぶられて、目に見える世界も

動く前とは別のもののように変化しているのです。

 

わたしが原初的知覚について、「こういうことか」と深く納得がいったのは、

自閉症のトムくんと過ごしていた時です。

↓の記事にその様子がリンクしてあります。

自分の世界に没頭している自閉症スペクトラムの子とDIRプログラム

トムくんの動きは、どこで何をしているときも原初的知覚で世界と関わっているのが

感じられました。

 

『自閉症とことばの成り立ち』(小林隆児 ミネルウ゛ァ書房)に原初的知覚行動について次のような記述があります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

自閉症の知覚行動としてよく知られているものとして、独特な視知覚行動がある。

対象を斜めから眺め、まるで銃で撃つ対象の照準を定める際に

われわれが行う独特な目の使い方とよく似ていることから

照準現象と称されているものである。

このような視知覚行動も彼らの原初的知覚行動として捉えることができると思われるが、

そこでは対象を単に静的に知覚するのではなく、自分の方に近づけたり、遠ざけたりしていることがわかる。

それはおそらく対象の動くさまを知覚することによって彼らの情動が揺さぶられているからではないかと推測される。

ここにも力動感といわれる原初的知覚様態の特徴を見て取ることが

必要であろう。

        『自閉症とことばの成り立ち』(小林隆児 ミネルウ゛ァ書房)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

広汎性発達障がいの子たちと遊ぶとき、

ひもで上げ下げするエレベーターや、

長い筒の中をミニカーやボールを転がす遊びなどをとても喜びます。

身体を動かすことと、物が動くさまと、わくわくする楽しい気持ちが、同時に

いっしょに遊んでいる人といっしょに体感することができますから。

さまざまな場面で、その子も気持ちが高揚し、何度もやりたがるような活動を見つけるように

していくと、遊びの幅が広がっていきます。

その時、原初的知覚について少し頭に入れておくことで、

遊びの環境を整えやすくなります。

原因や結果が目で見てわかるようにしたり、

推理がしやすいしかけにしておくと、論理的に考えていく会話の

きっかけを作ることもできます。

 

大人の私も、絵を描いているときには、力動感のようなものを

体験しているような気持ちがします。

色や線のなかに動きや感情を感じとっています。↓

 

 

 

 


現代っ子 と 広汎性発達障がいの子 と 論理的に考える力 5

2011-09-22 10:05:52 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

広汎性発達障がいの子と接するときに、

まず初めに、

心の通い合った人間関係を築くことを目指すか、

発達の遅れを埋めたり問題行動を減らすための計画の流れに

子どもを乗せていくことを目指すかで、

その先の子どもの成長は全く違ってくるように思うのです。

 

子どもと動物を同じに扱うようで失礼かもしれませんが、

ちょっと遠回りな話をはさませてくださいね。

わたしは子どもの頃からずっと小鳥を飼っていて、今もセキセイインコとオカメインコがわが家にいます。

手乗り鳥を飼ったことがある方はよくご存じでしょうが、セキセイインコは人の言葉を真似たり、

人とアイコンタクトを取りながらおもちゃで遊んだりすることがとても上手です。

またオカメインコは、人といっしょに踊ったり、首をさげてあいさつすれば同じように返してきたり、

箱などをついたてにして、「イナイナイバァー」とすると、

人の声に合わせて「イナイイナイ」で隠れていて、「バァー」で顔を出したりして、全身で喜びを表現しながら遊びます。

こうした小鳥たちの人と交流しながら遊ぶ姿はネットの動画を見るといくらでもごらんになることができると思います。

 

でも、そんなに上手に人と双方向のコミュニケーションを取ることができる小鳥と

全く同種類の健康的な鳥も、

小学校の禽舎で集団で飼われていると、

人が近づくとパーッと飛び去っていくか、

エサかと思って網に貼りつくようにして飛んでくるかのどちらかで、

そのつぶらな瞳がこちらの動きを確認しているのはわかるものの

アイコンタクトを取りながらいっしょに遊ぶなど不可能なことのように見えるのです。

小学校にはたくさん子どもがいますし、小屋の世話をしている方もいるでしょうから、

人と接する量は決して少なくないはずなのに、

何十羽セキセイインコが飼われていたところで、一羽として

人とアイコンタクトを取って遊ぼうとする鳥がいないのは不思議なことです。

小鳥は神経質で自分より大きな生き物が近づいてきたら避けて逃げようとする性質がありますから、

自分から寄ってきて、人との交流を深めていこうとする鳥というのは

ほとんどないのかもしれません。

 

でも家庭で可愛がられて飼われているセキセイインコは、

1対1の人との関わりを通して、その関係のなかで、

双方向のコミュニケーション能力をどんどん発達させていきます。

最初はたまたまペットボトルのキャップをくちばしでくわえて、テーブルの縁から床にポトンと落としたのだとしても、

それに人が反応して、いちいちキャップを拾ってテーブルに乗せてやると、

こんどはキャップをくわえる時点で、こちらのまなざしをうかがっています。

きちんと見ていないと、「ピイッ!」と強い鳴き声をあげて、自分に注目を向けさせます。

鳥は目が顔の横についていますから、見るときにわざわざ首を傾けて、片目でより見えるようにする仕草のために、

何をみようとしているのか、4つ足の動物よりもわかりやすいところがあります。

そして、期待通り拾ってやると、ビャッビャッと羽根をはばたかせて、

しだいに興奮して、さらに強く放り投げてみたりするので面白いです。

小鳥を育てていると、双方向のコミュニケーションは、

関わる中で学ばれていくことが目に見えてわかります。

もし小鳥とこうした関わり合いながら自然なコミュニケーションを身につけていく過程を抜きにして、

言葉を教えようとか、芸を教えようとして、どんなに本の通りの働きかけを続けても、

おそらくうまくいかないんじゃないかということは、

小鳥を飼っている方なら誰でも体験的に感じることではないかと思います。

 

もちろん、「小鳥」と「人間」は全く別のもので、同次元に語られるのは

おかしいのかもしれません。

 

でも、「パソコンやロボット」と「人間」の関係よりは、近いような気もしています。

 

広汎性発達障がいのある子に何か教えるというとき、

どう関わっていいかわからない難しさから、パソコンに情報をインプットしたり、

ロボットに何かを学ばせていくような感性で語られるのを耳にすることがよくあります。

 

それって、何かちがうな~どうなのかな~という感想を抱いています。

確かにハンディーキャップはあるかもしれないけど、

人間と機械では、学習過程の基盤の部分に

進化をどこまでたどっても、たどりつきようがないという本質的な違いがあるからです。

 

今、子どもに診断がくだされて療育がスタートするときに、

心の通い合った人間関係を築くことを目指すか、

発達の遅れを埋めたり問題行動を減らすための計画の流れに

子どもを乗せていくことを目指すかについての違いが、

ほとんど話題にものぼらないままに、

「何かしなくては」「遅れを埋めなくては」という機械に対するインプットのような

感性での関わりが始まっていくことがあります。

療育機関がそのようだというのではないのです。

むしろ、のんびりペースの関わりを中心とした場が多いのかもしれません。

でも、そうしたことが言葉にされないまま、子どもに関わる人々が

不安やあせりを感じて、何が正しく

何を目指したらよいのかわからなくなっている現状があるように見えるのです。

 

そのため広汎性発達障がいの子を自分たちから切り離して

 

異質な特別な育ち方をするように感じて、

マニュアル通りの対応を押し付けていくか、

 

ただただ子どもが好き勝手に動きまわるのになすすべもなく従ってついていくだけか、

 

「子どもは愛情があれば育つから」という理由で、自分流の方法にこだわって、

こうした子の困り感を知ろうとする努力を放棄してしまうか

 

のいずれかの方法に偏っていくのを見かけます。

 

それはまず、広汎性発達障がいの子と親しい関係を作るということを

シンプルに探ってみる時間を飛び越えて、

目に見える結果を追い求めたり、

周囲の人から認められる接し方を形だけなぞったり

してしまうからのように思います。

 

力動感などの言葉の説明は次回に書きますね。

 

 

 


現代っ子 と 広汎性発達障がいの子 と 論理的に考える力 4

2011-09-22 07:56:21 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

私は自閉症の専門家でもなんでもないのですが、それなのに

どうしてこうした記事を書いてるのかというと、

ハンディーキャップを持っている子を育てている親御さんたちが、

病院に通っていたとしても、療育に通っていたとしても、特別支援の教育を子どもに受けさせていたとしても、

どのように子どもと関わっていったらいいのかわからなくて

とまどっている姿にぶつかるからです。

 

闇雲に様々な方法を試した結果、そうした親御さんの教えよう、

早く成長させようという対応が、子どもから自発的な意志を奪ったり、

困った行動を生み出したりしているのも見かけます。

 

自閉症の療育に関する本はたくさん出版されています。

でも、実際にはひとりひとり個性の異なる広汎性発達障がいの子たちに対して

本の通りに対応しようとするとうまくいくか……というと、とても難しいのが現状のようです。

 

そのため、いいとこどりをするような形で

「簡単にだれでもできて、即座によい反応が見らたようにみえる方法」

「取りあえず、これをさせておけば周囲が安心できる方法」ばかりが繰り返されて、

そうした即効性を求める断片的な対応のせいで

子どもの成長にとって本質的で絶対不可欠なものが

ないがしろにされているようにも見えるのです。

 

専門知識とか情報といったものが何もない無の状態で、

わたしたちが最初に自閉症スペクトラム障がいの子とすることは、

コミュニケーションを取ろうとすることだと思います。

 

心と心を通い合わせること、

互いに伝えたいことがスムーズに伝わり合う状態にすることです。

 

それがいろいろな情報を頭に入れると、

まるで機械の取り扱い説明書を手にしているような構えで子どもと向き合い出して、

人と人が関わる場合暗黙の了解として当然あるはずの

コミュニケーションの基盤となるようなものを作る努力すらされないまま

良いとされる方法だけが子どもに試されていきがちです。

 

そういう姿を見るたびに、わたしはコンビニやハンバーガーショップにいるような

気分になります。

何かを与える側が、与えられる側に、

良いとされるマニュアル通りの対応をしていて、そこにはにこやかで文句のつけようのない関係が演じられていく

けれど、そのふたりの人間的な距離はいつまでも縮まっていかないというイメージです。

 

言葉についての説明が後まわしになっていますが、次回に続きます。

 

 


現代っ子 と 広汎性発達障がいの子 と 論理的に考える力 3

2011-09-21 23:05:51 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

現代っ子 と 広汎性発達障がいの子 と 論理的に考える力 2

の記事への補足がまだだったので、順番に書かせていただきますね。

 

<間主観的にわかるということ>

「間主観的にわかる」という言葉は、鯨岡峻先生の著書で目にした言葉です。

特別な「わかる」ための技法といったものではなく

私たちが普段、幼い子に接するときに、意識しないで自然とおこなっている

感じ方のようなものです。

鯨岡峻先生の言葉を借りると、

「観察者に相手の思いがまさに直接的に伝わってくるように、

あるいは観察者であるわが身に沁み込んでくる形でわかる」というわかり方です。

「間主体的にわかる」ときには、身体と身体が共鳴し、通底するように

間身体的に通じ合うことが下地となっているそうです。

たとえば、子どもに離乳食を食べさせるとき、母親の方が無意識に先取りして「あーん」と

口を開いてしまうことってありますよね。

子どもが苦いものを食べて、ウッとなったとき、

見ているだけのこちらの口の中まで苦い味が広がってウッとなるときや、

子どもががんばって鉄棒にぶらさがっているとき、

こちらまで力んで、まるで自分がぶらさがっている当事者であるような身体感覚を

覚えたことは経験は誰にもあることと思います。

(「間主観的にわかる」という言葉について、よりくわしく知りたい方は、

『関係発達論の構築』『ひとがひとをわかるということ』『子どもは育てられて育つ』などの

鯨岡峻先生の著書によりくわしく解説してあります)

 

私はこの「間主体的にわかる」という言葉を知った時、

それまで感じていた「間主観的にわからない」という状態に対する

「私の理解のなさ」から

解放されることになりました。

 

乳幼児への接し方にぎこちなさがある親御さんから、

「子どもにどのように接するといいのかわからない」という相談を受けるとき、

たいていが、子どもに良い接し方をしよう、子どもをより賢くしよう、たくさん写真を撮ろう、

ひとり遊びをしてくれないから家事ができない、発達が気になる等々……という

親御さん側の強い構え方や心の声に邪魔されて

「間主体的にわかる」という感じ方が全くといっていいほどできなくなっている

ことが多いのです。

 

以前は、曖昧模糊としたイメージや感覚で受け取っていたものに

「間主体的にわかる」という言葉が与えられたことで、

より鮮明に問題点が見えるようになり、困った状態から抜け出す手立ても打ちやすくなりました。

 

「間主体的にわかる」という状態は、

緊張感とか焦りとか情報をできるだけ手放して、

リラックスして、子どもと過ごす今を楽しんでいると、自然にそのような

わかり方になってくるものだからです。

 

ただ、相手が広汎性発達障がいを持っている子だった場合は、

「間主体的にわかる」には、

少し工夫がいるかもしれません。

でも、もし「間主体的にわかる」という身体と身体が共鳴し、通底するような関わり方が

広汎性発達障がいを持っている子と自然にできるようになってきたら、

いっしょに活動する楽しみが倍増することと思います。

私も、自分の側を調整することで、

広汎性発達障がいの子と心と心で直接通じ合うような

時間が持てるようになって、

「この子は自分からこんなに笑いかけてくるのか」

「この子はこんなに会話を続けることができるのか」

「この子はこんなに創造力があって積極的なのか」と、

その子の意外な面をたくさん発見して驚くことがたくさんあったのです。

 

自分の側を調節するという方法については、

次の記事で具体的に説明させていただきますね。


計算が得意になる遊び♪ トランプでもできます。

2011-09-21 20:25:00 | 算数

前々回の記事の続きは明日にでも書きますね。

子どもがとても喜ぶ計算が得意になる遊びを紹介します。
どこが面白いか…というと、
計算ゲームに「夜店」の楽しみのような
「くじびき」とか「買い物」の要素を加えているからです。
(このくらいの適当さで
ゲームのルールを子どもといっしょに考えるのも
面白いです)


10枚ずつラミィカードか、トランプを配ります。
チップも10枚配ります。

2~3枚で、足したり引いたりかけたり割ったりして10になったら、
前にそのカードを出して、
チップを5枚もらいます。

12と8と6
だと12-8+6=10なので、5枚チップがもらえます。

4と6でも5枚もらえます。

10が作れない時は、お店屋さん
(10枚のラミィキューブの駒かトランプの表を向けているところ)で、
チップを2枚出せば好きな駒が買えます。

また、くじびき(駒かトランプが裏向き)で、チップを
1枚出せば1個裏のまま選べます。

たくさんチップを貯めた人が勝ちです。


このゲームは10の合成を覚える時にも
とても役に立ちます。
なぜかどの子も勉強好きになる不思議なゲームです。
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