『カレーを作れる子は算数もできる』 (講談社現代新書 )という著書で、著者の 木幡 寛氏が次のようなことを書いておられます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
カレーライスを作ったことがあるだろうか?
作ったことがなくても料理のレシピを見てカレーライスを作ることができるだろうか?
まず材料をチェックしてみよう!ニンジン・ジャガイモ・豚肉・油・カレーのルー。それに道具も揃っているかどうか見ておこう。材料のきざみ方、調理の手順……、あれこれ考えなければならない。どうしてタマネギを最初に炒めるのか?その理由がちゃんとわかるか、そして炒めた後にどうするのか……。水の量は?カレーのルーはいつ入れるのか?
それらの段取りをきちんとおさえていなければ、料理は作れない。
(略)
問われてくるのは、注意深い観察・レシピ通り料理の流れを実行するパターン認識・量の認識と把握……。レシピに従って実行する力、料理のレシピを分析したり総合したりする力……。
このように、ものごとの後先を考え行動できる力を、算数・数学では<論理的思考能力>と呼ぶ。カレーライスを作る力の中にはそれらが凝縮されているのだ。
( 『カレーを作れる子は算数もできる』 より引用)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
木幡 寛氏がカレーライスを作る中に凝縮されているという
<論理的思考能力>は、工作をすることを通して養うことができます。
工作の場合、まだ文字が読めない幼児でも
ひらめきを形にするコツ、問題解決能力、科学的な理解力なども
この論理的思考能力といっしょに伸ばしていくことができます。
「学習の基盤作りとして基礎こそ大切なのだから、小学校低学年、中学年の間は、
論理的思考能力など伸ばさず、徹底的に計算をさせるのがよい」とおっしゃる方がいます。
確かに、論理的思考力を求める文章題を教科書で学ぶのは、高学年以降でもよいのかもしれません。
でも、実際には、子どもって3歳を過ぎれば「どうして?」「なぜ?」と
目にするもの全てに疑問を投げかけるようになるものなのです。
論理的に筋道を立てて考えていきたいと思いは、こんなに幼いうちから
芽生えているのです。
それに対して、知識としての答えを押しつけるだけでは、時が経てば聞いたことは忘れ、
知的好奇心は薄れていきます。
まだ、そんなことを考えるのは早いから……と、放っておくのも同じです。
知的好奇心が薄れるだけでなく、
考えること自体をやめてしまいます。
「どうして?」「なぜ?」という疑問から出発して、筋道を立てて考えていくにはどうすればよいのか、
仮説を立てて試行錯誤して考えながら、常識を疑い、新しい解決法を考えていくにはどうすればいいのか……というと、答えは簡単。
手を使って切ったり、貼ったり、組み立てたり、動かしたり、壊したりして学べばいいのです。
要は『工作』です。
「こんなものを作りたい」という思いを描き、そこに行き着くまで、
自分なりにいろいろやってみるなら、論理的な思考力は自然に育まれていくのです。
工学博士で人気作家の森博嗣氏が、『創るセンス 工作の思考』の中で、
だから、「とにかく作りなさい」ということが本書の主張である
ときっぱりおっしゃっていて爽快でした。
森博嗣氏の考えは次の通り。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ビジネス書コーナーに並ぶ「こうすれば成功する」「問題はこのように解決しろ」というタイトルの本は、しょせん「こうすれば上手くいった事例がある」にすぎない。
「こうすれば上手くいきそうな気分になれる」程度の錯覚を誘っているだけで、自分を騙しているようなもの。
一度決めれば、思考停止して、その後楽に動けるから、人間は思い込もうとする習性がある。でも、思い込みは不自由で、その場限りの淡い納得しか得られない。
その場はちょっと気持良く、やる気は出るけれど、その人自身が変わらないのだから、環境が改善されるわけがない。
それより実際に手を動かして、一つでも新しいものを作った方が良い。作れば、貴方は必ずなにかを学ぶし、貴方の中できっと変化が起こるだろう。
(『創るセンス 工作の思考』 集英社新書より引用)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「貴方の中できっと変化が起こるだろう」という言葉って、
さらっと読んでしまいがちですが、
今、教育の世界に何が足りないのか、
最も見過ごされがちで、最も重要な急所を突いているのでは……? と感じました。
この「学ぶ」ことで起こる自分の中の「変化」って、つまり以前記事にした
「持つ」教育 「ある」教育の、「ある」教育をした場合に起こるものでは?
と考えています。
話が飛びますが。
哲学者で大阪大学総長の鷲田清一氏が、『噛みきれない想い』というエッセイの中で、
文学部の哲学科の生徒たちが三年生にもなって1冊の哲学書も最後まで読んでいないことが
理解できなくて、
「みんな、どうして本を読まないの?」という疑問をぶつけた話が載っていました。
このエッセイ、なるほど~と共感できる話で締めくくってあったのですが、それはここで取り上げるのはやめておきますね。
この話、大学の現状を知った感想として、ちょっとした衝撃がありました。
これって「持つ」教育の末路なんじゃないかな……と。
点数をどんどん追いかけていって、哲学を読み解く力を身につけても、
自分の内部にそれを求める気持が育っていなかったら、
つまり「持つ」教育だけ受けて、「ある」教育がお留守のまま進んだら、
その先はどうなっていくのでしょう……?
そこには、学んでいることと行動がアンバランスで、
過去にその学生の立場に身を置いていた人にすると、「どうして……?」と問いかけずには
いられないような姿があるのでしょうね。
『カレーを作れる子は算数もできる』で 木幡寛氏は、次のようなことをおっしゃっています。(簡単にまとめています)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日本が抱えている学力問題は、
<How to>は得意だが<Why>ということに対する問いかけがなされない
ことに帰着する。
「なぜそうなるのか?」を問う学習をないがしろにしたままでは、
PISAのランクが下がるのも当然。
練習・鍛錬・反復による基礎・基本の獲得を徹底しても、
訓練不足に対する効果はあっても、
一方では <計算の操作のみを重要視する>という
落ちこぼれの原因につながる傾向を助長しかねない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<Why>の大切さといえば、先日、数学の問題のことで息子とした会話で話題にのぼったばかりでした。
半日 数学と格闘していて、休憩に現われた息子が、
こんなことを言いました。
「数Ⅰや数Ⅱの問題になると基礎は終わっているから難問だけ拾って勉強していくことになるから、かなり苦しい思いをしていたんだけどさ……。
気分転換に数Ⅲや数Cのチャート式を解いてみると、まだこっちは本格的に取り組んでないから、するのは例題や中レベルの問題だけだから、
今度は簡単すぎて拍子抜けしたよ。
難しいのも易しいのもどっちもやってて思うんだけど、
学校だと長い時間をかけて大量の問題を解くわけだから、
ずいぶん勉強が進んだように感じるけど、
考えないでパターンを繰り返すだけでは、結局、たくさんしたからできるようになったような錯覚に陥っているだけで、
自己満足に浸っていただけなんだな~って。」
「いつの頃からか、数学は暗記だ!って声に反論する人もいなくなって、勉強法の主流になってきたものね。
若い学校の先生方も、自学自習で学んできたなんて人は小数派で、
塾や予備校で学んできた方がほとんどでしょうから、自分が習ったように教えるのは仕方がないのかしらね」
と言うと、息子からは私の極論を和らげるような言葉が返ってきました。
「実際、解法パターンの暗記は必要ではあるんだ。
だからといって、パターンを暗記しながら量をこなせば、完璧になるかというとそういうわけにはいかないんだよ。
こういうタイプの問題は、こういう解き方をするという
問いと解法が直結しているような易しい問題だけしていくのなら、それもありだろうけど。
少しひねった複合問題になると、円の面積の問題に見せかけて、2次方程式で解いていくものだったりするよね。
そうしたとき、たくさんある筋道からどれを選ぶのかということまでも、
パターン化して、解法パターンを増やしていくって方向はよくないと思うんだよ」
「パターン暗記は必要だけど、組み合わせによって増え続けるパターンをさらに暗記していくのは良くないと思うのね。
なら、どうすれば良いと考えているの?」
と私はたずねました。
「そうだな。パターンで問題を解いているときにも、『なぜ』と問う視線が必要なのかもしれない。
ほら、青空学園数学科ってホームページがあるじゃん。
あそこで扱っている解き方は、全て、『なぜ』という問いを追求することで成り立っているんだ。それだけに理解するのに時間がかかったり、苦しい一面もあるんだけどね。
でも、それが必要なんだと思う。自己満足に終わらない勉強をしようと思ったらさ。
受験までは時間との戦いだから、やむをえずパターン暗記を取り入れて解いていくにしても、
青空学園数学科にある『理由』に基づく次元の視点がいるだろうな」
息子の返事を聞いて、
自分が幼い子たちと工作をするとき大事に思っていることを、
息子も受験勉強で感じ取っているんだとうれしく思いました。
「工作をすると何か学べる」というのはわかる。
でも、「工作すると自分が変化する」ってどういうこと?
と感じた方がいるかもしれませんね。
工作って、自分の好奇心のアンテナに引っかかるものを「探す」「見つける」ことからはじまって、イメージして、それを膨らまし、
手を使ってリアルに物と向き合っていく行為です。
テレビゲームのように、途中でリセットすれば消えてなくなるものではなくて、
飽きて放り出せば、そこにはゴミなり残骸なりが残るわけで、
それはそれで自分を知る勉強になります。
森博嗣氏は「工作」とか「もの作り」の概念をかなり広い範囲まで広げて、
写真を撮ることも、カメラという道具を使って、現実から切り取られた「静止画」を作っているのだから、一種の「作る」行為ではないか?
料理を作ることも工作では?
ファッションやガーデニングも工作ではないか?
と どんどん思考を飛躍させることを歓迎しておられます。
工作のセンスはいろいろなものに活かせるし、どんな工作でも大切なのは、それを楽しむことで、そのプロセスでの自分自身の変化を「喜ぶ」ことだから……と。
自分でなにかを作ろうと考えると、その対象に向かう観察眼が芽生える。作るためのプロセスを思い描くようになる。これらは、作ることがない生活では、ほとんど死んでいたセンスだから……ともおっしゃっています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以前、年長さんの男の子とポストを作ったことがあります。私ははがきの投入口と、背後から取り出す部分を作って、郵便のマークをつけたらポストだろうと思っていたのですが、
その子は、ポストの横に集配時間を書いた紙を貼りたいと言い出しました。
きっと、大人よりずっと好奇心を持ってポストを眺めているので、自分なりに「これは面白い!」と感じているポイントがあるのでしょうね。
本人は、18:00~20:00 25:00~30:00など、
適当にそれらしい数字を書きこんでいましたが、
アドバイスしようにもこれまでそんなものに注意を向けたことがなかったので、
さっぱりわかりません。
「どこらへんに、どんなことが書いてあるんだっけ?」とすぐにでもポストのところに飛んでいきたい気分になりました。
子どもたちとレジを作るときもそうで、
どうせティッシュ箱でちゃっちゃっと作るような工作なんですが、
それでも現実に子どもと工作すると、「ピッ」とバーコードを読み取る部分に100円ショップのプッシュライトを取り付けたりして、それぞれの子の懲りたいところに関わります。
すると、「ティッシュ箱にセロテープでベタッとしてできあがり」なんていう工作に付き合っているだけだというのに、私自身の観察眼が変わってきて、
スーパーで清算してもらっているときも、横目で最近のレジの作りをチェックするようになってきているのです。
最近のレジは、小銭をザーッと放り込むと自動的に計算してくれるような
バス料金を精算するコーナーにあるようなローラーがついたお金の投入口がついているものがあるのです。
「こんな物がレジについているなんて、すごいな」「それ何?」「作ってみたい」「日夜レジも進化しているのね」と買い物ついでに、感心することしきり……。
そういう小さなワクワクが自分の中に次々生まれてくること……それが「工作をすると、自分が変化する」ということのひとつかもしれません。
もちろん、工作につきあっているだけの私がそんなに変化するのですから、
作っている本人は、何かを作りはじめたとたん、どんどん観察眼を洗練させていきます。
3歳くらいの子でも、「ちがうちがう、それはこんな風になっていたよ。それから、ここのボタンは、もうちょっと大きくて、ギュッと押したら引っ込まないとダメなんだよ」と、
空き箱工作にやたら高度なワザを求めるようになってきます。
「内面が変化する」といっても幼児の場合、脳が劇的に成長する時期ですから、
大人とは別の面の変化も大きいのかもしれません。
目と手の協応作業が、
脳の機能自体の変化とも関わってくる時期なのです。
幼児が手を使って何かを「作る」ことによって、
その子の潜在能力を最大限に伸ばす
ということへのアプローチは、
モンテッソーリ、ニキーチン、フレネ、フレーベルがそれぞれ独自の世界観で幼児教育のあり方を追求しています。
それぞれはどれもすばらしく、またとても大切なものです。