虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

子育てで気をつけていたこと

2015-01-27 13:56:26 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

 思い出話を書いた記事に、「先生のお母さんについて、そして妹さんとの関係に

ついてもう少し教えていただけませんか?」

というコメントをいただきました。よかったら、読んでくださいね。

(以前、この記事は子育てで気をつけていた3つのこと……という

タイトルだったのですが、3つめの内容がタイトルと少し合わないようだったので

別の機会に紹介することにしました。)

 

私のかなり手抜きでおっちょこちょいな子育ての中で、

大事にしていたことが2つあります。

子どもが大きくなるにつれて、その2つに注意していれば、子育てって、

あとは何とかつじつまがあってくるんだな~と感じることが多々ありました。



<1つめのことと長い前置き>

私はずいぶん幼いころから、表面的な出来事や人の言動の背後にある

目には見えない力関係やエネルギーの流れを敏感に意識していました。

無意識の世界のやりとりのようなものです。

それは、父と自分との間にある奇妙な力関係から気づいたことでもあるし、

妹と母との間で、日夜繰り返されるドラマを外から眺めるうちに

感じたことでもあります。

また団地暮らしという環境ゆえに敏感になったものでもあります。

私の父は、これまでもブログで何度か書いていますが、子煩悩だけれど、

粗暴でわがままで、母からすれば今でいうDV夫。

ギャンブル中毒で、周囲のだれからも恐れられていました。

スポーツや肉体労働で鍛えあげた巨体で、女子どもに暴力を振るうんですから、

ひと睨みされたら最後、誰も父に反抗できる人はいませんでした。

一方、私は喘息や鼻炎や起立性の低血圧やら貧血やらで、身体が弱く(そんな私も

当時は毎日外遊びをしていましたが)内向的で引っ込み思案な性格で、

とにかくひ弱な印象の子どもでした。

それにもかかわらず、私は父をちょっと小ばかにしていて、

「お父さんは私のことを怖れてる。私が怖いんだ」と感じていました。

DVの人というのは、暴力を振るっていないときは、

ベタベタと優しくする~って話をよく聞きますよね。

私の父も同じく、激怒していないときは、何か買ってくれようとしたり、

お小遣いをあげようと言ったり、子煩悩そのものの姿を見せたりしていました。

妹やいとこは、父に当時はまだめずらしいドーナツ屋さんやレストランに連れて

行ってもらったり、おもちゃを買ってもらったり、お小遣いをもらったりすると、

もう目の色が変わって、父の思うままになっていました。

父がお店の近くまで子どもたちを連れて行きながら、急に気が変わったからと

帰りはじめたりすると、半泣きになってすがって、父の機嫌を取っていました。

私は父がそうやって人の心をコントロールしようとするやり口を軽蔑していましたし、

もともと、外食にもおもちゃにもお金にも興味がなかったので、

そうしたドラマの中ではいつも部外者でした。

すると、父は今度は私に嫌がらせを言ったり、にらみつけたり、

げんこつでこづいたりするのですが、それに対してもお腹の中で、

そうした父の幼稚さをちょっと小ばかにしているもんですから、

怖がりもしませんでした。

そんな私を父がどこかで恐れている、怖がっているというのは、

妹や母には遠慮のない父が、私の前では途方にくれた小さな子どものようにも、

老いた老人のようにも見える弱々しい一面を時々見せていたからです。

私は、相手が自分の前に釣らすエサに無関心だというだけで、

それがかなり大きな力になりうることを感じ取りました。

また、表面的に言葉でかわされたり、目で見える出来事の後ろには、

いろんな力がうごめいていて、さまざまな見えない力関係が

成り立っているのだと思いました。

 

虹色教室にやんちゃですぐ口答えする子が来た場合も、

私はすぐさまその子たちが私を巻き込みたいと思っている『力のゲーム』を

行えない状態にするので、

わがままが癖になっている子ほど、素直に私の言葉に従いがちです。

「ぼく誰々君いじめてやったんだ!」とか「~しんじゃえ」「つまんない」とか

言う子に、ショックを受けたり、言葉でわからせようとしたり、悪い子と決め付ける

態度を取ったりすると、たちまち、その子の力争いのゲームに巻き込まれて、

過去にその子が周囲の人と演じてきた悪い関係やドラマを繰り返してしまいます。

そうした言葉は跳ね返さずにきちんと受け取って、こちらから伝えたいことを

はっきり言うと、子どもはたいてい素直に従います。

それがその子お母さんとの間だと、お母さんが注意し、困惑するほど、

子どもは言うことを聞かなくて、好き放題するという繰り返しが続いていることが

多いのです。

 

私の母と妹の関係もそうでした。表面的なやり取りは、妹からのおもちゃを買って

欲しいとか、もっとテレビが見たいとか、母からのそんな贅沢許しませんとか、

テレビは一日○時間まで、とかの言い合いなんですが、

お互いの言葉が相手の気持ちを鎮める方向に働かず、

妹の方は、むしろいっそう気持ちが高ぶって、テレビが見れないんだったら、

すべて終わりだ、何もかもめちゃくちゃにしてやるくらいの勢いになっていくし、

母は母で、どうしてこんな子産んだんだろう~こんな子いらない~

思いきりおしりをたたいて思い知らせてあげなくては……

くらいの追い詰められた気分になっていくんです。

そこまで激しくやりあっているものが、『魔法使いサリーちゃん』ならまだしも、

『デビルマン』ですから……私は母と妹の気が知れませんでした。

そこは、テレビ番組じゃなくて、レストランでもなくて、

目には見えないけれど、お互いが相手を自分のものにしたいというような

力のぶつかり合い、エネルギーのやりとりが背後にはある—。

子どもの頃はそれを言葉にできたわけではないけれど、雰囲気で感じていました。

目に見えない力関係とかエネルギーとか無意識というと、

何だかもやもやと捉えにくい感じがするでしょうね。

テレビやインターネットや宣伝広告があたり前となった現代は、

こうした目には見えない力やエネルギーが乱用されている時代です。

人工的でクリーンで無害そうに見える場所にも、操る側の意図があって、

無意識レベルで操られる側のひとりへと仕立てあげられてしまう

仕組みがいっぱいです。

 

無意識というのは意識されないから無意識です。

テレビで自分よりずっと立派に見えるタレントたちが、口をそろえて、

出された食べ物に「おいしい~!」と笑みを浮かべるのを見続ければ、

自分の味覚と関係なく、みんながおいしい~と言うときには、

「おいしい~」と言うべきなんだな~と知らないうちに学習してしまいます。

食品会社の思惑で、食品添加物いっぱいの新製品を

「おいしい~おいしい~」と食べさせられてしまうくらいはかわいいもので、

しまいには政治や戦争への参加、不参加を決めるような大きな決断をくだす際も、

自分がお留守のまま反射的にみんなに合わせる人が増えていくのかもしれません。

 

話がずいぶんそれてしまったのですが、子育ての話にもどりますね。

大人の場合、自分が感じていることを無視して、操る側や力を乱用している側に

同調する悪い癖がつく程度ですむものの、

子どもの場合、操る側や力を乱用している側が期待していることが、

自分が楽しいことなんだ、うれしいことなんだ、欲していることなんだ~と

間違っちゃうこともよくあります。

そうして子ども時代から自分がスカスカのまま、周囲の思いを自分の思いと

勘違いして育ってしまった子の犯罪や自殺や心の病があとを絶ちません。

だから私は、わが子が何ができるようになったかとか、何ができないかとか、

先生からどう評価されているかとか、

何を食べ、何を着て、どんな家に住んで、どんな学校に通うのか、

なんてことは、ほとんど気にかけませんが、自分の心には細心の注意を

払っています。

エゴに絡め取られて、間違った判断を下さないように、

時々周囲のノイズから離れて、なるべくクリーンな状態を保つように

気をつけています。

それはけっしていつも良い人、良い親でいることではないです。

良い人、良い親であろうという思いだって惰性で仮面のように貼り付けていれば、

叱るときに叱れないし、

ルーズなくらいでいいときにやりすぎてしまいますから……。

ある程度ダメな親でも、子どもの人格や魂に対して、純粋で正直な気持ちで

向き合えたなら、子どもはとても幸せなんだと思うのです。

私も子どもの頃、最も幸せに感じたのは、母が自分の好きな針仕事に夢中になって、

母自身の夢を生きているのを感じるときでした。そうしたときは、私は私で、

自分にとって大事な何かを探しに行きたい気持ちに駆られるのです。

 

しかし、母が果たせなかった自分の夢を私の上にかぶせて

あれこれ期待するときには、心が萎縮し、

この世は何て退屈でつまらないところだろう!と感じていました。

そんなわけで、私が子育てで、気をつけてきたことのひとつは、

自分の心に注意する、です。子どものことで問題にぶつかった時には、

必ず、子ども時代の自分(インナーチャイルド)の気持ちに

おうかがいを立てています。

どんな親であってほしかったのか、子ども時代の私は今の私に訴えます。

すべてを呑むわけにはいかないけれど、正直に対応するわ……と、

現代の私はインナーチャイルドと会話しています。

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<2つめのこと>

私の母は、私が何を言っても、何をしても、良いように解釈して、

ひたすらかわいがってくれました。

ですから、私には母から叱られたリ、注意を受けたという記憶が

皆無といっていいほどありません。

そんな風に猫かわいがりに愛してくれる母に対して、

私はいつも複雑な気持ちを抱いていました。

というのも、私のふたつ年下の妹は、それはそれは極端なほどに、

朝から晩まで叱られ通し~と言っていいほど、

毎日毎日、母とぶつかり合っていたのです。

それは妹がまだ赤ちゃんで、昼夜を問わず一日中わめくように

泣き続けていたころからはじまって、

2~3歳の反抗期も、幼稚園児、小学生、中学生となっても、

どの時期として落ち着いた良い関係というのはなくて、

いつも母と揉めていたからです。

ですから、私は母から特別にひいきにされる度に、胸が苦しくて、

うれしさと同じくらいさみしく悲しい気持ちを感じていたのです。

母にすれば、内気で、けっして反抗しない私の態度に、

自分が良い母であるという証明や癒しを求めていたのかもしれません。

私をひたすらかわいがることで、理想どおりいかない妹の子育てを頭から抹消して

理想の子育てを自分はしているのだと思い込みたいようなふしがありました。

母は、おとなしくてまじめで気が優しい性格で、良い子良い子した子どもが

そのまんま正直で純真な心のままで大人になったような人でした。

そんな母が父のような荒っぽいギャンブル漬けの人と結婚したのですから、

それまでの成長の中でどれほどバランス悪く

『良い人』としてしか生きてこなかったのかわかります。

母は自分の中に『悪い人』をほんの少し受け入れることさえ拒絶して、

自分の人生のバランスを取るように『悪い人』を

自分の代わりにすべて引き受けて生きてくれる父と結婚しました。

そうして生まれた長女の私には、自分の『良い人』のイメージをかぶせ、

父似の妹には、自分の中の『悪いもの』をすべて押し付けて見ていました。

そんな子ども時代の暮らしの中で、

私はいつも変わらぬ愛情を降り注いでくれた母に対し、

どこか屈折した思いを抱いていて、母の死に際に私が間に合わず、

妹が心を振り絞るように泣きながら最後を看取った事実に、

なぜか、ほっとする気持ちを抱いたのです。

私が母に屈折した思いを抱いていたというのは、母はとにかく優しい人では

あるけれど、周囲に可愛がられて育った未熟で弱さも残った性格で、

普段はとても優しくて、食事のことでも、服のことでも、

習い事や友だちのことでもそれは気を配ってくれるというのに、

肝心かなめの、子どもが大きな問題にぶつかったようなときには、

自分が一番パニックを起していて全然頼りにならなかったことでした。

中学に上った妹がたびたび問題を起したときには、

教師や相手側の言うことを鵜呑みにして、簡単に妹の気持ちを踏みにじったり、

裏切ったりする一面もありました。

それで、私は自分が子どもを育てるときには、大きな問題が起こったときこそ、

しっかりと親になろう!誓いました。

いつ自殺するかもしれない母をなだめたりはげましたり、

母に向かって妹の良い面を話して聞かせたりしながら過した思春期に

強く強く覚悟した言葉でした。

そうして、親になった私は、普段はかなり手抜きだけれど、

肝心の子育ての急所には、自分の精神力の全てを振り絞って、

覚悟して挑むようにしています。

受験なんかでも、子どもがうまくいかなかったときに、親まで泣いていたのでは、

子どもは苦しみから立ち直るだけでなく、

親の不安まで背負い込まなくちゃなりませんから……

そうした時ほどけろっとしています。

だからいつもは適当な親なんですが、こうした本当に子どもがSOSのときは、

子どもたちがしっかり頼りにしてくれるので、うれしく感じています。

 


鍋いっぱいのプリン と ひっくりかえったがんもどき

2015-01-27 12:37:56 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)
母の実家の田舎のだだっ広い家に対して、都会のわが家は、
2Kの団地住まいでした。
2DKだって、4人家族にすれば、狭苦しいわけだけど、
2Kとなると、ダイニングと寝る部屋が昼夜で忙しく入れ替わらなきゃ
ならないわけで、まるで芝居の舞台みたいに、
ひとつの部屋がこたつや布団といった舞台道具で、
キッチンになったり寝室になったりと、忙しい家でした。

そんな狭っ苦しい家に暮らしながらも、
人って幼年期や子ども時代に染み付いた身体感覚が
抜けないもんなんでしょうね……
母は、電子ピアノじゃなくて、どでかい本物のピアノを購入してみたり、
食べきれないような料理を作ってみたりと、
母の実家の9人きょうだい仕様の暮らしを引きずっていました。

私も妹も夏生まれで、誕生会には母のお手製のフルーツポンチが
登場しました。
特大サイズのすいかを、ギザギザした切り口でふたつに分けて、
中身をくりぬきます。その時、アイスクリームをすくう
道具の小型版みたいな、すいかをクリッとした丸い形に抜く道具を
使ってました。
そうして、大きなすいかの容器を作って、中にサイダーや
果物のかんずめを注ぎ込み、丸いぶどうの粒のようなすいかを
浮かべてできあがりです。

よく言えば豪華、正しくは大ざっぱで豪快な料理が母の得意で、
グレープフルーツを半分に切って、中身をくりぬき、
ゼリーの粉や砂糖を混ぜて、もういちど注ぎ込みます。
そんなグレープフルーツゼリーが冷蔵庫によく入っていました。

クッキーの種も、おそらく料理本の材料の3倍は作って、
私も妹もねんどで遊ぶように、クッキー人形を良く作りました。
服にフリルをつけてみたり、帽子をかぶしてみたり、
靴や日傘やペットの犬猫、小鳥まで作って、大きなオーブンで
たくさん焼きました。
食べるときには、あまりの量にたいていうんざりして、
ビニール袋に入れてうろうろするうちに粉々になって、
何だかわからない形のクッキーを、
近所の友だちが「おいしい、おいしい」と食べていた記憶があります。

母は母なりに、都会風のこじゃれたものが作りたい気持ちは
満々だった気がします。
シュークリームやアイスクリームやカルピスやクロワッサンなど、
母のこしらえたおやつは、名前だけ連ねれば、
デパートの屋上のレストランで注文するようなものばかりでしたから。

それがどう間違うのか、
あるとき、プリンを作ったときは、大鍋いっぱいのプリン液を
弱火で煮立てて、それをグラタン皿に注いで冷やしてました。
グラタン皿なんて、そういくつもありませんから、
どんぶり茶碗や、タッパーウェアーや小型のボウルまで総動員させて、
プリンを冷やしてましたから、冷蔵庫の棚という棚が、
黄色で埋まってました。
プリンが大好物の私と妹は、最初こそ、飛び跳ねて喜んでいましたが、
途中から、「一生、プリンなんて名前も聞きたくない!」
ってほど、うんざりきてました。

今もプリンを見ると、大鍋でタプタプ煮つめられていた
黄色い液体が思い出されて、
懐かしいです。母はそんな田舎ものの一面を持ちつつも、
その天然キャラで他人から慕われて、
のんびりまったり自分の生をまっとうしました。
もうじき、母の一周忌です。

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思い出ついでに、過去記事の
<ひっくりかえったがんもどき>もよかったら読んでくださいね。

私の父は、以前の記事にも書いた通り、
粗暴で困った人ではありましたが、
気持ちが優しく、ユーモアがあって、話し上手な一面もありました。
私の父のことを、周囲の人はよく、「芸能人」に似ていますね……と
評することがありました。
若い頃は石原裕次郎にそっくりだと言われ、
年を取ってからは、北野たけしと梅宮アンナの父を足して2で割った
ような感じに見えるそうです。
機嫌が良いときの父は、子どもの頃の話を、面白おかしく、
時にはしんみりとしてくれるときがありました。
そんな話のひとつで、心に印象深く残っているのが、
「ひっくり返ったがんもどき」の話です。

父は兄や姉のたくさんいる子沢山の家に生まれたようです。
でも実際に父が何人きょうだいであるのか、私は詳しく知りません。
一方的に自分の話したいことを話す父の話は、
どれもバラバラのパズルのピースのように断片的で、
何年たっても肝心の部分がわからないところもあるのです。

父の家は豆腐屋を営んでおり、
ペットなのか食用なのかわからないたくさんの動物…
やぎやら、にわとりやら、たぬきやらを飼っていたそうです。
そんなごちゃごちゃした家には、
変わり者で乱暴な父親や頭の良い美人の姉や、
知恵の遅れた兄など、さまざまな人が暮らしていました。

くわしいことはわかりませんが、今で言う知的障害であったろう兄は
ゆりちゃんという女の子のような名前でした。
近所の幼い子からもからかわれ、ばかにされ、
当時の父にはふがいない兄であったようです。

そのゆりちゃんは、いつも乱暴者の父親のもとで、
豆腐屋の手伝いをさせられていました。
そのころは、子どもが家業を手伝うのは当たり前で、
父も学校から帰ったら、
揚げ終わった厚揚げやがんもどきをならべさせられたり、
使いっ走りをさせられたりしていました。
そんなときにも、覚えが悪く手先が不器用なゆりちゃんは、
始終父親のげんこつをくらったり、どなられたりしていて、
父は要領よく立ち回りながら、びくびくしていたのだとか。
父は何も言っていませんでしたが、もしゆりちゃんが、
この厳しい父のもとから逃げ出したいと思った日には、
乞食しか、今でいうホームレスになるしか、
生き方が残っていないように感じていたふしがあります。

あるとき、ゆりちゃんと二人で、店番をさせられていた父は、
慌てていて、がんもどきの入っていたケースを、
床にぶちまけてしまったそうです。
それは、うっかり1個落としてしまっても、殴られる、
大事な商品でした。
が、箱ごとひっくりかえした……となれば、
検討もつかないような損害です。
父親がどれほど怒るものか、想像すらできなかったでしょう。
殺されてしまうかもしれない…と感じたかもしれません。

すると、いつもはぼんやりで、
頭の働きが悪そうなゆりちゃんが、
「おれがひっくり返したことにするから、何も言わんでいい」
と言ったそうなのです。
その後、ゆりちゃんは、殺されるほど、父親に叱られたそうです。
でも決して、本当のことを言おうとはしなかったのだとか。

父はあったことを話すだけで、自分がどう感じたのか……
といったことは、いっさい話しませんでした。
が、時々、思い出したようにこの話をしていました。

父は非常に毒舌で、
いやみや皮肉を言わない日はないくらいでしたが、
知的障害かと思われる人と、ホームレスの人の悪口だけは、
決して言いませんでした。
母と結婚して間もない頃、橋の下で、凍えているホームレスの
人を見たとき、まだ買ったばかりの布団の一式を
橋の下まで持っていってしまい、
母が大変な思いをしたことがあります。
父を突然、そういった行動に駆り立てたもの……は
ゆりちゃんという兄との思い出だったのかもしれません。

番外 同じ屋根の下で

2015-01-26 21:00:46 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

何度かこのブログでも書いているのですが、

私は大阪の自然がまだたくさん残っている静かな地域の団地で育ちました。

当時、その地区の団地の住人というのは、地の大阪人というのはほとんどなくて、

地方から出てきた人々の寄せ集めでした。

とにかく考え方も生活様式もまったく異なる人々が、ひとつの団地で、

どこか大家族を思わせる「近さ」で暮らしていました。

近さって…わかりづらい表現ですよね。

うまく表現できないのですが、

現代の団地やマンションの住人同士が仲良く暮らしている様子とは

ずいぶんちがう感覚で、お互いがつながりあってたんです。

似た考えの人同士集まったり、似た境遇の人同士親しくするのとは

ちがって、さまざまな雑多な人がごちゃまぜに暮らす中で、

「自分とはちがいすぎる」「正反対」「敵だ!」「あんなの最低最悪の人間だ!」

と感じるほど、へだたりがあるもの同士でも、

「同じ屋根の下に暮らすもの」

として、あくまでも「自分の延長線上に存在するもの」としてとらえていた感が

あるのです。

自分の身内のはみ出し者や自分の性格の中のいや~な部分のように、

嫌は嫌でも、どこかに自分の一部であるような近さがあったのです。

団地には、変質者と噂される男性もいましたが、

年老いた母親がその男性の世話を焼きに来て洗濯などしていると、

その母親とはだれも話したこともないのに

「あんなに…腰が曲がってまで苦労して…」と気の毒がる人がいました。

また、こんなこともありました。

団地内に精神を病んで近所中の家に、夜昼かまわず無言電話をかけ続ける

女性がいました。

あるとき、腹にすえかねた私の父が、口論の末、その女性をなぐってしまいました。

するとその女性の夫が(なぐられた側なんですが…、)迷惑をかけてきたことを

詫びて、父にセーターを届けてきたのです。私の父は…というと、まるでお気に入りの

一着みたいにそのセーターをよく着ていました。

私の母はクリスチャンで「綺麗なこと、正しいこと、真面目なこと、親切なこと」を

いつも愛している人でした。

基本的に見た目も中身も「天然」なので、そうした良い人ぶったところが

さほど周囲の鼻につくこともなく、暮らしていました。

すぐ下の階に住んでいたのは、ちょっと悪ぶっていて、お酒を飲みながら、

とうてい主婦とは思えぬルーズな暮らしっぷりで、子育てをしている方でした。

よくナイトクラブの話やディーナーショーの話を母にしていましたが、

最近の中学生よりも小さな生真面目な世界でしか暮らしたことのない母には、

想像することすらむずかしく、何やら怪しげな雰囲気しか伝わっていなかった

ようです。

母が、おやつも…カルピスやパンまでも(ハードル高いですね手作りを

決め込んでいるのに、下の奥さんは、「昼食も夕食もインスタントラーメンよ」

と言ってはばからない人で、このふたり…いくら上下の階で生活しているからって、

まず仲良くはできないだろう…と誰の目にも明らかなのに、

なぜか姉妹のような親しさが、互いに互いがわからないまま…

わかりあおうともしないままに…十数年という年月に渡って続いていました。

 

少し話が前後しますが、父は大型トレーラーの運転手をしていました。

一晩中、トラックの運転をした後で、朝から夕方までの仕事をこなすようなハードな

勤務体制で、睡眠不足は命取りでした。

ですから、昼夜問わずかかってくる無言電話は、他のどんな嫌がらせよりも

父を激怒させるものでした。もともと衝動的で粗暴な性格ですから、

思わず手がでてしまったわけです…。

父が無言電話の相手のご主人からもらった服を何度も着ていたのは、

セーターをお詫びに届けてもらった時点で、好きで病気になったわけでなし…と、

相手を犯罪者としてではなく痛ましい人生に翻弄される家族も、

ひとりの人として、受け入れることができたからではないかな? と思っています。

私の父の物言いや考え方は、「北野たけし」にとてもよく似ています。

冗談だか嫌味だか、ブラックユーモアだかわからない…

本心なんだか、うそなんだか、からかいなんだか、優しさなんだか…

毎日顔を合わしているものにも皆目検討がつかないのです。

その後、父の冗談には、この無言電話のご近所さんの話が登場しましたが、

見下しや憎しみは含まれない、どこか親しみのこもった口調でした。

 

ここで、母と下の階の奥さんの話に戻ります。

下の階の奥さんというのは、気づかれている方もいるでしょうが、

ADHD風の人です。

そして母はというと、これも気づかれている人があるでしょうが、

ADD風の人です。

ADHDやADDの人がいる周辺にありがちなことですが、

このふたりのとっぴょうしもないアイデアや行動が、この団地周辺の流行を

リードしているところがありました。

ストライキで電車が止まってしまう日に、下の階の奥さんは突然、

「お弁当を持って線路の上をあるいていきましょうよ」と提案しました。

そこで母ははりきって弁当を作り、私と妹にサスペンダーつきのチェックの

スカートという…おそろいの手作り服を着せ、

近所の仲良しに声をかけてまわりました。

団地中の人がこぞって、弁当を手にぞろぞろと、線路とごつごつした線路のまわりの

石を踏んで、終点の北千里の方向に歩いていきました。

今では考えられないことですが、ストとなると、阪急電車の駅にも周辺にも

駅員さんの姿はひとりもなく、とんでもないピクニックの集団をとがめる人は

だれもいませんでした。

 

ADHD風の人って、どんな感じかというと、

のだめカンタービレののだめちゃんや、

サザエさんや、くれよんしんちゃんのようなタイプです。

やたら頭の中が忙しいちびまる子ちゃんや、のんびりまったりのおじゃる丸や

おでんくんのようなタイプです。

ドラマやマンガの中で、彼ら彼女らは主人公ですが、実生活の中でも、半ば強引に、

このADHD、ADDタイプの人が主人公になっていることはよくあることです。

イベントやらパーティーやら、もめごとやら、競争やら、新しい趣味やら、

料理講習会やら、お金儲けやら、旅行やら…

とりあえず平々凡々とした日々に変化をつけてくれるものなら何でもあり!!

の気ままな思考をする人々が、まっとうな考え方の人々までも巻き込んで、

いっしょになって何かする…。

私の子ども時代には、そうした繰り返しの上を流れていたように思います。

私の住む団地のベランダ側には、団地の所有する小さな土地がありました。

いくらかお金を払えば、たたみ一畳~三畳ほどの地面を借りることができたようです。

それで、団地の土いじり好き、花好きが、自分のコーナーに好きなものを植えて、

手入れをしていました。

ひとつのコーナーはまるで外国の童話に出てくる庭のようでした。

ばらやらゆりやら、豪華な大輪の花が咲き誇るあいだを、見て回ったり世話したり

できるように、くねくねした通路が作られていました。

また別のコーナーはパンジーやチューリップなど…花屋の店先で売られているような

よく見かける花が、よく見かける配列で植えられていました。

私の母も、自分のベランダからよく見える位置に土地を借りて、耕していました。

何を植えようか、悩み悩んだ挙句に、田舎から出てきた人しか思いつかないような

発想で、さつまいもの苗を植えました。

それで、秋には団地の人がこぞって、芋ほりです。

まっとうな考え方をする人というのは、ひとつ欠点があります。

多数決の状況を見て、多数である考え方には、

一も二もなくしっぽを振ってしまうのです。

自分のまっとうな勘より多人数の意見を信頼してしまいます。

それで、母と下の階の奥さんが、だれか一人に声をかけて、「わたしたち○○する

つもりだけど、あなたは、どうする?」とたずねれば、

2対1で、多数派の意見が通って、3人で次の人を誘いにいくあんばいです。

そんなわけで、みんな何の疑問も抱かずに、団地の前で芋ほりに興じながら、

だれの家で、スウィートポテトを作るかという相談をしていました。

そのままふかすのがいちばんおいしいという人もいたし、

アメでからめてゴマをふって、大学芋にするのが一番だという人もいました。

それぞれお国自慢の食べ方があって、私たち子どもらは、芋ほりではしゃぎ、

土の中から出てくる虫をつかまえては騒ぎ、料理大会でも大暴れでした。

 

 

私が団地での人騒がせな悪気のない人々が繰り広げるどたばたした日常を書いて

みようと思ったのは、単に思い出にひたりたかったからではありません。

子どもの頃、見聞きして疑問に思ったこと、わからずじまいだったことを、

もう一度、大人になった自分の目で確かめて

本当のことをつきとめておきたかったからです。

見えていたこと、信じていたこと、信じ込まされていたことと、

背後にある真実はずいぶんちがうものです。

 

私の住んでいた団地は、火災などの緊急時にそなえて、ベランダは片方の

隣の住人と鍵のついていないドアひとつでつながっていました。

うちのとなりは、わたしより2~3歳年上の男の子のいる家庭でした。

母や他の子育て中の団地の人とは、どこかちがう精神的な余裕を感じさせる

子育てをしている人でした。

母が妹の次々しでかす悪さを(近所のいじわるっ子の部屋の前の壁に、

友だちとえんぴつで「バカ」と書いたり、上の階に住んでいる親切な初老女性の

スカートをめくったり)、愚痴るたびに、「何で、☆ちゃん(妹)ばっかり悪く

言うの?あの子はいい子よ」と諭していました。

お隣さんは、小学生のひとり息子の●くんに、一人前の大人に対するみたいに

していました。

戦争中の映画で、軍需工場に働きに行くまだ小中学生の息子に、

母親が大人の他人に対するようなていねい語で

「はるひこさん、今日もお国の為にがんばってください」といった言葉をかける

シーンを見ると、私はよくこのお隣さんのことを思い出します。

このお隣さんは親切で温かみがある人で、妹はよく甘えていました。

が、向こうも私に、私も向こうにあまり関心がありませんでした。

そこで私が、お隣さんについて残っている鮮明な記憶は、

妙なお隣さんらしからぬ…お隣さんの姿ばかりです。

 

ひとつは、私が風邪で寝込んでいたときの話です。

熱も下がり退屈していたところに、図書館バス(バスの中に貸し出しする本を積んで

移動しています)の到着を告げるメロディーが(は~るの~うら~ら~に~)

流れてきました。

パジャマのままベランダまで飛び出ると、洗濯中だったお隣さんが何ごとかと

たずねてきました。半べそをかきながら、本を借りに行けないのを残念がる私に、

お隣さんは、ちょうど私も本を返しに行くついでがあるから、

☆ちゃん(私)の分も借りてきてあげよう」と言います。

誰かが自分のために本を借りてきてくれる…という初めての事態に、

すっかり舞い上がった私は、クリスマスプレゼントでも待つような心地で

いまかいまかとお隣さんが帰ってくるのを待っていました。

そうして借りてきてくれた本は

 

ベーブルース伝記

リンカーン伝記

 

どうしてわざわざ…小学生の女の子がとうてい好みそうもない本をわざわざ出かけて、

わざわざ選んできたのか…なみだ目でお礼を言いました。

団地の中では長女のような役柄で、みなから一目置かれていたお隣さんも、

やはり母と似たり寄ったりの部分があったのかもしれません。

もうひとつの記憶はこんな話です。

あるとき、団地の人たちと近くの山までピクニックに出かけた時も、

このお隣さんの意外な一面を見てびっくりしたことがあります。

私の住む地域は山を切り開いてできた住宅地で、10分も歩けば、まだ未開発の山々が

残っている場所に出ました。

田んぼもまだあちこちにあって、道にはレンゲが一面に咲き誇っていて、

紫の輝きで目が痛いほどでした。

そこいらの山というのは、どこも竹がびっしり生えていました。

団地のピクニック集団が、お弁当を食べる場所をさがして、その竹やぶに入って

いったとき、土の中からは、タケノコの小さな頭が、北国の子の頭巾みたいな

愛らしい様子でのぞいていました。

おそらくだれからというのでなく、自然とそこにいたみんなが、

その小さなタケノコの周りを、落ちていた小枝や素手で掘りはじめました。

誰もが山のどんぐりや落ち葉を集めるような気持ちで、

何の罪悪感もなしに、タケノコを次々掘っていたように思います。

「ほら、あっちにも…」「がんばって!」子供たちも大人の指導を受けながら、

あちこち掘り返しました。

するとその時、背後から激しく犬のわめき声がしたかと思うと、

巨大な野犬のような犬と、目をぎらぎらと血走らせた初老の男性が、あらわれました。

竹林をバックに、そこにいる全員を射抜くほどの眼力で睨みすえたまま、

「なんちゅうことする~このどろぼうらめ~!!こんなちっちゃいのまで、

掘り起こしけつかって!!」と、怒声を浴びせました。

大人も子どもも、凍りついたまま、一言も発することができません。

最初に言葉を口にしたのは、うちのお隣さんでした。

何を思ったか、小学校高学年くらいだった●くんを、その恐ろしい山の持ち主の

男性の前に押し出して、「●、ほら、謝りなさい。」と叱ったのです。

●くんは、急に我に帰ったように、「すいませんでした~」と

深々と頭を下げて謝りました。

それを最初に、大人たちも、子どもも、涙を流しながらぺこぺこと頭を下げました。

その後、長い長いお説教をくらった後で、うなだれたままとぼとぼと帰宅しました。

●くんのお母さんは、●くんが中学、高校へと進む中で、

●くんの友だちが不良っぽい子であろうと、頼りない子であろうと、

とても大切に扱っていました。

●くんというのは、まじめでハンサムでしっかりしていて背が高くて、

いくつになっても●くんのお母さんの自慢の息子でした。

この日の出来事を思い出すたびに、当時の大人たちの依存的で弱い一面を

垣間見たような気がして、悲しいのか面白いのか懐かしいのかおかしいのか

わからない複雑な気持ちになるのですよ

 

長い間おつきあいありがとうございます。


『きらめき 算数脳』 入学準備~小学1年生

2015-01-26 16:39:55 | 算数

3歳のAちゃん、4歳のBちゃん、もうすぐ5歳になるCちゃんが、

『きらめき 算数脳』 入学準備~小学1年生 の 「グルグル まわれ」

という問題で遊んでいるところです。

 

サピックスのワークの問題を、色紙等で遊べるサイズに作ると

ゲームとして面白いものがたくさんあります。

「グルグル まわれゲーム」 のつくり方

 

赤、青、オレンジ、黄緑、ピンク、黒の折り紙を重ねて

丸く切ります。黒以外に1~5の数字を書きます。

 

教室でした「グルグル まわれゲーム」 遊び方

(ひとりの子がパズルとして、どんどん人形を進めていくのもいいですが、

数名の子で1回ずつ人形を動かしてすごろくのように遊ぶのも面白いです)

 

円形の折り紙を 丸く並べ、人形を①の上に置きます。

 

①の番号からスタートして、書いてある数だけ時計まわりに

進みます。

とまった場所の数字を見て、さらに時計まわりに進みます。

それを繰り返して、①に戻ることができたら賞品がもらえます。(大当たり)

黒い丸にとまると、ゲームはおわりです。(残念)

 

 


2匹の恐竜にとっくみあいをさせるには どうすればいいでしょう?

2015-01-26 13:33:19 | 子どもの個性と学習タイプ

同じサイズの2匹の恐竜。

向かいあわせてライトを当てると2ひきの恐竜の影。

そこで、子どもたちに問題。

 

2匹の恐竜をひっつけないで、とっくみあいをさせるにはどうすればいいでしょう?

 

ライトを左右に動かしたり、ライトを当てる角度を変えたりしても、

恐竜の影はずっと離れたまま。とっくみあいが起こるはずがありません。

 

でも上の写真のように恐竜をずらしておくと、不思議なことが起こります。

ライトを斜めから当てると、離れていた恐竜がとっくみあいを始めるのです。

 

同じような方法で、人形たちにマラソンやおいかけっこをさせるのも面白いです。

 

恐竜のとっくみあいの問題は、子どもたちと影絵遊びをしていた時、

偶然、発見したものです。

 

教室に幼い頃から通ってくれているAちゃんという小学生の女の子がいます。

この子はとても利発な子で、日常に転がっている様々な問題についても、

テストや問題集で出される問題についても、問われていることを正確に把握して、

筋道を立ててていねいに考えていき、正しい答えに行きつきます。

 

Aちゃんには、3つ違いのBちゃんという妹がいます。

Bちゃんも、幼い頃から教室の生徒です。

Bちゃんも、お姉ちゃんと同じように利発な子ですが、

興味の対象や物の考え方、活動への取り組み方などはAちゃんとずいぶん異なります。

Bちゃんは問題を解くよりも実験をするのが好きで、

じっくり何か考えていると思ったら、「~はどうしてなの?」

「~はなぜなの?」と自分の中でよく練られた疑問を口にするのです。

 

教室で、今回の

「2ひきの恐竜にとっくみあいをさせるには どうすればいいでしょう?」といった

問題を思いつくのは、教室のBちゃんタイプの子たちです。

 

お姉ちゃんのAちゃんの「答え」にたどりつくのが得意なところは、

文句なしにすばらしいことです。

でも、妹のBちゃんの「問い」を生み出すのが上手なところも、とっても魅力的だ、

と感じています。

 

青と赤の恐竜の影。


考える方法 と 行き詰った時の解決法 2

2015-01-25 20:02:27 | 通常レッスン

ピッケのつくるえほんのワークショップで小2のAくんが

『くりんの木さがし』というすてきな絵本を作りました。

下の写真は、作品の一部です。

 

りすのくりんの家であった木が倒れてしまったため、

新しい家にする木を見つけにいくストーリーです。

 

 

この作品を作る過程で、Aくんは最後のシーンを作った後で、

先に作ったシーンに戻って手を加えました。

「倒れて枯れた木と周辺の環境」と

「新しく探し出した木と周辺の環境」の変化を際立出せるためです。

 

Aくんは、下の「新しい家にすることにした木」のシーンと

上の「倒れた木」のシーンについて、他の子らに説明しました。

 

「(下の)この絵の木は、いろんな実がなっていて、花も咲いていて、

木のまわりもいろいろな草や花があって、どんぐりも落ちている。

初めは、(上の)前の絵にも、どんぐりとか草とかもっと置いていたんだけど、

最後の絵と比べた時に、どんなふうにちがうかわかるように、

きのこのついている切り株と草だけにしたんだよ。

青い倒れている木は枯れているから青いんだ」

 

最後の作業を終えてから、

それまでしたことを振り返って、おかしな部分はないか、もっとよくなる方法はないか、

と考えてみるのはすばらしい知恵ですね。

 

工作をする時も、算数や他の学習をする時も、とても役立つ頭の使い方だと思います。

 

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年中のBちゃんの頭の使い方は、まるで見ているものに吸い込まれてしまうほど

真剣に物を眺めて、相手の言葉に全身全霊で耳を傾けることから始まります。

 

Bちゃんは、誕生日のプレゼントにシルバニアファミリーのお家を

買ってもらう予定だったそうです。

でも買い物に行った先で、上の写真のような

広げるとお城の中とお庭があらわれるポップアップ絵本を見つけて、

「どうしてもこれがほしい、シルバニアのお家よりもこっちがいい」と

言い張ったのだとか。

Bちゃんは工作が大好きなので、プレゼントにこの絵本をもらうやいなや、

「これと同じものが作りたい」と言いました。 

といってもBちゃんの手に余る大掛かりなポップアップの仕掛けです。

そこで、「虹色教室で作る」という流れになりました

 

Bちゃんといっしょに長い間、うっとりとこのポップアップ絵本を眺めた後で、

「Bちゃん、どの部分が作りたいの?どこがすてきだと思う?」とたずねました。

Bちゃんは庭にある六角形の噴水と植物で作った迷路を指さしました。

 

Bちゃんの指さすそれは、とても魅力的なポップアップの仕掛けでした。

 

「六角形の秘密」とでも名付けたいような

六角形という形を生かした仕掛けなのです。

 

作り方は単純です。

紙を帯状に切って折って、六角形のわっかを作ります。

 

六角形はふたつの向かいあう辺が平行ですよね。

Bちゃんとは、「平行」のことを、手のひらと手のひらの間に少し隙間を開けて

向かいあわせて表現しています。

向かいあわせの平行な辺の上も下も山の形に辺がつながっていますから、

それがぺったんこになったり広がったりするのです。

 

この平行な辺と辺をセロテープでとめて、他はとめません。

すると、とめていない部分の辺が開いたり閉じたりして、

ぺったんこに折りたたまれたり、六角形に広がったりするのです。

 

できた部分はプレゼントとしてもらった絵本に比べると、ほんの一部です。

でも、Bちゃんは、心から満足した様子でした。

真剣に、ポップアップ絵本を覗きこみながら、

「次はこことここを作る」と夢を膨らませていました。

 

 


お仕事裏話

2015-01-25 07:30:49 | 私の昔話 と 物語

『だれのための仕事』という鷲田清一先生の本を読んでいて、

こんな過去記事を思い出しました。時間がある方は読んでくださいね。

 

まだ虹色教室を始める前……私が あちこちの主婦向けのパートを

はしごしていたころの話です。

お友達に誘われて、郵便局の短期バイトをすることにしました。

短期といっても、年末の年賀状の区分け……ではなく、新しい保険証を全国に配る際、

直接、手渡しなもんで、戻ってくる郵便物がはんぱじゃない……

そこで再配達のお知らせを電話でするというお仕事でした。

このバイト……5人がグループになって働きます。私のお仲間は若くてきれいな

仕事の出来る20代。几帳面なおば様、のんびり屋の主婦と私。

性別不明(のち女の子と判明)ひと時もじっとしていない20代前半…の子でした。

性別不明の子は、初日から「友達と遊びに行くのでバイト休みます。」と宣言し

「出れる日に○してもらって雇ったはずでは…?」の質問に、

「その時は約束していなかったんです。」と平然と言い訳し 

郵便局内を凍りつかせました…が、2日目からは元気に出勤しておりました。 

実はその仕事、郵便局が外部スタッフに任せたくなるような裏事情がありました。

こういう特殊な郵便物の再配達は、翌日になるんです。

翌日……フーン それで?とお思いでしょうがこれをお客様に説明したとたん

「なんで、今日持ってこれんのや!!」

「なめとんか、今すぐ持ってこんかい!」と怒鳴られるなじられる……(

お留守だったのはお客様では?そんなに保険証お急ぎですか?

「だから民営化せえ、いうとんじゃ」と説教されるで、この地域の人の心の狭さ、

貧しさをひしひしと実感する結果となるのです。

数日後、仕事を覚えるまでは優等生だった美人の20代が、

受話器の向こうから怒鳴られ続けて精神的にダウン……

几帳面なおば様もため息しかつかなくなり……のんびり屋の主婦も涙目に……

私としては電話の向こうの見ず知らずの人がわめこうと、ののしろうと、痛くも

かゆくもないので、そのおかげで郵便局内ではかなり待遇されているこの仕事…

「結構、おいしいんじゃないかなぁ?」などと感じていました。

そうして元気なのは、私……と、一向に仕事を覚える気配のない性別不明だった

女の子となりました。

その子ときたら椅子をガタガタ……シャーペンをカチカチ……電話の合間に

しゃべるしゃべる……と落ち着かないことこの上ないのですが、

何せこの仕事の裏事情のせいか、上の人に叱られることはありませんでした。

その子以外の4名はだんだんにその子のことが気になってきました。

これまで よそで働けたんだろうか?……とか

親御さんはどうおっしゃっているんだろう?……などなど。

休憩時間にその子に、直接、疑問をぶつける人も出てきました。

質問をぶつけられたその女の子は、

これまで幼稚園でアルバイトしていたことを話しました。

子どもたちがとてもなついて、その子が行くところには子どもの人だかりが、

できていたのだそうです。が、幼稚園の先生方からの評判はものすごく悪くて

「覚えられないんだったら仕事の手順を書いた札を首からさげて仕事せい!!」

といびられていたのだとか…

それを見かねた園児のお母さんから、「あんたー先生にいじめられてたねー」

と小声で同情されるほど ひどいイジメだったそう。

その子の親御さんは、「とりあえず仕事しておれば、いいよー」

と応援してくれているそうです。

きっと、家でもこの通り落ち着かないんでしょうね。

親御さんとしてはお金に換算される事さえしてくれるなら

それ以上の贅沢は言わない気らしい…。

そんな話をするうちに、私はこうも落ち着かず 仕事も覚えられないこの子が

叱られても、いじめられても、がんばって仕事に来ている姿にちょっと感動して

しまいました。この子が、これからも叱られてもめげずにがんばって働いていて

くれるように…と祈るような気持ちでした。

そして、他のメンバーの人たちも同じような気持ちだったらしく……

はじめは、この子のことがすごく苦手そうだった几帳面なおば様までそっと、

その子のフォローをしていました。短期バイトが終わる頃、5人のグループは、

かなり親しくなっていたのですよ。

この話には 後日談がふたつあります。

ひとつめは、この時のお気楽な仕事ぶりをかわれた私は、

その後も郵便局の仕事を任され10円単位のちっちゃい出世をし、

内部のごたごたに巻き込まれて苦しみました!!

ふたつ目は、数年後、阪急電車内で、あの女の子と再会。

なつかしくなって声をかけると「だれ?」とつれない答え。

「ほら 郵便局の短期バイトで…。」と説明しかけると、隣にいたその子の友達が、

「覚えとけよー、そんくらいー」と笑いながらツッコミを入れていました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

郵便局の短期バイトが終わる頃、

私は電話の向こうの怒鳴り声に「めげない」……というか、

怒鳴りだしたら受話器を少し耳から離して「いろいろストレスあるのね~。

大阪、景気が悪いしな~。保険書の配達が翌日になるってだけで、こんだけ負の

エネルギー放出できるんだから、ある意味すごいわ……やれやれ……」と

怒鳴り終えるまで、鼻歌まじりに待っていて、

「どうも申し訳ありません。~~です」と用件を伝えて、ていねいに電話を切る

ってことを繰り返していたのですが、

そのお気楽ムードの仕事ぶりが、短期バイト教育係(?)のお眼鏡にかなったらしく、

バイトが終わる頃、「他のパートもやってみない?」というお声がかかりました。

ちょうど、お金が必要な時期だったので、承諾し、さっそく小荷物係をすることに

なりました。

私……はっきり言って、そんなに仕事ができる人間じゃありません。

雑だし、ポカミスが多いし、定期的に体調崩しますし……

でも、ある他の人に負けない特技があるのです。

それは新しい仕事を覚えるのがはやい……ということです。

といって、頭の中身は平均的日本人。覚えが良いわけでも、頭の回転が速いわけ

でもありません。身体能力もダメダメです。

ならどうして仕事を覚えるのがはやいのかというと、

今の仕事にもつながっているのですが、「教育する」「教える」「教わる」という

時点で、学ぶ内容を瞬時に、ごくごくシンプルで簡単な形に翻訳することが

得意なのです。ですから、難しそうな解説書も、複雑な仕事の手順のプリントも、

見ると同時に、幼児にもわかるようなイラストつきで色分けされた1,2の手順で

できる内容に頭の中で変化させてしまっているのです。

そのため、頭はあまり良くなくても、

驚異的な記憶力と頭の回転の速さを持ってるのじゃないか??

と誤解されるほど、素早く仕事を覚えてしまえるのです。

そのため、これまでどこのバイトに行っても、仕事を覚えるまでの時点では、

他の人の先を行ってました。

絶対覚えれないような難しい仕事を「1回しか教えへんよ」

なんて脅してくるいじわるな先輩の鼻を明かすのがひそかな楽しみでした(本格的に

仕事が始まれば、ポカミスが多くてぼろが出てくるのですが)。

そうして他の人が何週間かかかるという話だった新人教育期間を2~3日で終えて、

楽しく小荷物係をやっていると、

「もう、覚えたの?」と郵便局内の上司が、小荷物係の視察に来て、

まだこの仕事について日が浅いのに、「きみ、別の部署に行ってくれ」という

お声がかかり、大きな荷物の扱いの部署に移されました。

その上司は新しい部署に何度か見に来て、「女性なのに、ここの係りは大変だね。

もう仕事覚えたの?きみ、別の部署に行ってくれないか?」とまたしても

お声がかかりました。

そして、留守中の荷物の保管と電話応対の部署でも同様のことがあり、

「きみ、別の部署に行ってくれないか?」とお声がかかりました。

(みんな私が出席の印鑑を押すのを忘れたり、雑に押していることなんかにも、

まだ気づいておりません)

私にすれば、ぼろが出る前に教育期間ばかりでラッキーなんですが、

次の部署に行けば、時給数十円アップする可能性も高まるけれど……。

郵便局内でも最大の難所。絶対ミスが許されない、誰も仕事が長続きしない……と

噂される速達便の区分け。

たったひと文字の見落としで、間違って遠方に郵便物が行っちゃた場合、

上司が飛行機で郵便物を届けるはめになる。

人間のうっかりが、上司の一日の仕事と飛行機の運賃の金額とてんびんに

かかっている常に心臓に悪い~部署なのです。

おまけに私はかなり雑で、ミスが多い人間。

うまくいくのかいかないのか、最初から逃げ出すのもな~と

取り合えず受けることにしました。

 

続きを読んでくださる方は↓のリンク先に飛んでくださいね。

お仕事裏話 4

お仕事裏話 5

お仕事裏話 6

お仕事裏話 7

お仕事裏話 8

お仕事裏話 9

 

 

どうして現代の子育てにはこんなにも不安が生じるのでしょう?

2015-01-24 22:20:33 | 日々思うこと 雑感
ずいぶん前の記事ですが、最近よく読まれているようなので、紹介させていただきます。
昔の親たちは、
現代のように教育から幼稚園選びから子どもの服選びにいたるまで、
熱心だったわけでも、上手だったわけでもありませんが、
あんまり不安も抱かずにそこそこに子育てしていました。

やんちゃでやんちゃで、虫やかえるを次々殺したり、
勉強もせずにけんかばっかりしているような子も
男の子はどの子もそんなもの~と見過ごしていれば、
立派な大人になって、ちゃんと働いているもの……
その程度の子育てスタイル、子育て観で十分、世間に通用していましたし、
成功もものにできました。

何で昔の人はそんなにも大らかに子育てできたのでしょう。

その理由のひとつは、子どもを何のイメージに重ねていたか?に
あるように思えます。
農業や牧畜が主な仕事だった時代は、
『生命あるもの』『変化するもの』の育ち方に、
子どもを重ねて見れたのだと思います。

小さな竹のこが、ある時期が来れば人間の背丈を越えて、
大きく成長することを知っていれば、
毎日竹の子が何cm何mmか?と測っては、
根腐れするほど肥料や水をかけるのがどれほどバカバカしいか検討がつきます。

いくら良いとこ取りでいろいろ取り入れたらいいといったって、
パン種を膨らます前にちょっとでも焼き釜に放り込んでしまえば、
問題があることくらいわかります。

物にはタイミングや時期があること、たとえ良いこと良いものでも、
そうしたタイミングが狂うと、とんでもない問題につながること。
自然の動植物に近い子どもは、あるがまま、その自然な成長を信じることが
一番なのだ。

と昔の人は体験的に知っていたのでしょう。

なら今の子育ては、何のうえに子どもの姿を重ねているのでしょう?

私には、買い物で手に入る『商品』に子どもがイメージされているように感じてなりません。完全装備でいろんなアイテムつきで売られている『お子ちゃまロボット』です。

親同士、公園や習いごとの場や幼稚園や学校で、
自分のおもちゃを披露し合い、
新たに自分が付け加えたワザやら、おしゃれアイテムやバイリンガルやら
素早い計算といった付加価値を見せ合いたい、自慢しあいたい、
自分たちの目の前で動かしてみて動作確認がしたい、新しくアイテムを加えて
満足したいそんな思いが渦巻いているように見えるのです。

ですから、親たちのまなざしの中で、
子どもはそれぞれの個性を持っていて、自分のペースで、何が自分に必要か、
何を自分の願いとしようか……とたくさんたくさんの失敗と挫折感、
思うようにならない現実の中で自分でそれらを発見し
たくましく成長していく『生命あるもの』のひとつではありません。

たとえ相手が赤ちゃんでも、園児でも、今、目の前で、
完全に自分が思い描く子どもの姿通りの動作確認ができないんだったら、
不良品だわ、返品したいわ、絶望的だわ、とんでもないものを買っちゃった……

という気分に落ち込んでしまいます。

どの子も天才に変えます!なんて謳っている工場があるのなら、
心なんて、ばらばらになってもいいから、放り込んで何とかしてもらいたい!
と必死に考えてしまいます。
だって『お子ちゃまロボット』は、みんなからすごい!すばらしい!と
賞賛されるためにあるのですから、心なんて必要ないのです。
行為あるのみ、動けばOKです。
 
 


それならば『お子ちゃまロボット』である現代の子どもが、
一番望んでいる『親からもらいたいまなざし』というのは
どういうものなのでしょう?

『ピノキオ』を「人間の子ども」に変えた魔法のように
『お子ちゃまロボット』を、「自分の喜びや願望や意志や
意欲を持った普通の人間の子ども」に変える魔法って
あるのでしょうか?

子どもが望んでるのはこれじゃない? って、私が思うのは、

「たとえ、世界中の人があなたにダメ出しをしたって、
お母さんの目に映っているのは、この世にたった一人しかいない
誰と交換することもできない 比べることなんてできない
すばらしいあなたよ。
だれかがあなたに嫌なことを言ったって、
お母さんにはあなたの欠点も足りない部分も愛しく感じているわ」
 
というまなざしです。

子育ての不安をなくすには、親ばかになるのが一番なのでしょうが、
今やこの自称親ばかの方々も、
子どもの将来を案じて不安でいっぱいです。

親ばかって、子どもを自分の自慢材料にすることでも、
着飾ることでも、贅沢させることでもないはず……。

真の親ばかは、
現代、子どもたちに注がれ続ける
検品作業でもするようなたくさんの大人の視線を跳ね返して、

親はその子どもの唯一無二のたったひとりずつの
男親、女親として、

『子どもがあるがままに存在するだけで
どれほどうれしく幸福を感じているか』
『親の目の中には子どもがどれほど完璧ですばらしいものとして
映っているか』をわが子に伝えられる方々のことだと思うのですよ。

そうして、
欠点をなおしたり、足りない部分を補ったりする仕事は、
子ども自身が、自分でさまざまな経験をする中で欠如感を
味わって、直していく決意をし、努力していくのにまかせ
られる方々なのだと思います。

そんなふうに親が真の親ばかになれたなら、

いつの時代になっても、
子育ては気楽で楽しく、
最後には親にも子にも成功が約束されているものになるのでしょう。

『ギアや滑車がたくさん入ったレゴのセット』で 実験 と アイデア勝負

2015-01-24 17:38:18 | 積み木  ピタゴラスイッチ

ギアや滑車がたくさん入ったレゴのセット の記事で紹介した

『Lego Crazy Action Contraptions

できあがった作品を元にして、遊びや学びを発展させるアイデアを紹介します。

 

小学4年生のAくんがレゴの飲み物をかき混ぜる機械を作ったので、

コップに紅茶の葉(ティーパックの中身)を入れて、

この機械で混ぜることにしました。

 

コップの中に竜巻状の渦を作る予定でした。

 

ところが、テキスト通り作ったかき混ぜ機では

茶葉がコップ内をぐるぐる回転するばかりで、竜巻状の渦はできません。

回転する円盤の水面からの長さを変えて試したところ、

一瞬、竜巻のようなものができるのですが、たちまち消えてしまいます。

 

Aくんといっしょに、「どうすれば、竜巻状の渦ができるのか」話しあいました。

 

アイデア 1 回転させる円盤部分のサイズをいろいろなものに変えてみる

 

アイデア 2 回転させる速度を変えてみる 回転のさせ方を変えてみる 

         (途中まで時計まわり、途中から反時計まわりなど)

 

アイデア 3  コップをもっと背の高い入れ物にして水の高さを変えてみる 

        入れ物の底の形が異なるものにする 

 

アイデア 4 回転させるための円盤部分をはずし、棒だけを回転させてみる 

 

いろいろ試してみた結果、

今のところ(3の実験は、教室にあるものでしかできなかったので、十分、

実験できたわけではないので)

アイデア 1 の小さいギア(上の写真の左の棒の先に取り付けてあるもの)で

竜巻状の渦が一番できやすかったです。

このギアを試したAくんは、「こいつ、やるなぁ!」と感嘆の声。

そしてひらめいたように、

「それなら、ギアをなくして棒だけにした方がいいんじゃない?」とAくん。

ところが、ためした棒だけの実験ではあまり思わしい結果は得られませんでした。

 

 

 

上の写真は、Aくんがもうひとつ作った、らくがきマシーンです。

見本通りのものではなく、赤いブロックを継ぎ足してみたものです。

このらくがきマシーンは筆圧や弱いので、先につけるのはえんぴつより

水性マジックなどが適しています。

このマシーンが描くのは、とにかく「らくがき」ででたらめなぐにゃぐにゃ線です。

それも十分面白いけれど、このマシーンにひらがなを書かせることは

できないか、Aくんとチャレンジすることにしました。

 

Aくんのアイデアは、ぐらぐらする継ぎの部分を固定したら、

「へ」のような円の孤の形に似たものが書けるのではないか、ということ。

 

継ぐブロックを増やしたり減らしたり、

取り付けている円盤を大きめのギアに変えて、

ペンを支えるブロックを取りつける穴をいろいろ変えてみたりしました。

 

髪の毛の部分だけが、最初のAくんのアイデアで作った「へ」もどきです。

 

 

上の写真は、『推理勝負』をしているところです。

「この組み合わせで、線が書けない部分はどこからどこまででしょう?

(ペンの可動領域を考えることで解く問題です)

  


考える方法 と 行き詰った時の解決法 1

2015-01-23 15:25:58 | 算数

年長のAくん、Bくん、年中のCくんの算数の時間にこんなことがありました。

サピックスのぴぐまりおん(1・2年生)の『のりものけん』という問題を

解いていた時のことです。

この問題は、園児にはいきなり解くのは難しいので、問題を解く前に、

12枚綴りの切りとることができるチケットを作り、

おもちゃを並べて作った遊園地の乗り物を選んで遊びました。

 

コロコロカー    のりものけん 2まい

コーヒーカップ   のりものけん3まい

メリーゴーランド  のりものけん 4まい

グライダー      のりものけん6まい

ジェットコースター  のりものけん8まい

という決まりです。

 

「グライダーに乗りたい」と言って6枚の乗り物券を切りとって渡し、

残りの6枚で何に乗ろうかと考える……

という遊びをしてから、ワークの問題を読みます。

 

ワークの問題を読む時、一区切りごとに、「どういう意味かわかる?」とたずねて、

理解度を確認しています。

 

「みんなは ゆうえんちに きています。どういう意味かわかる人?」

「はい、みんながゆうえんちにきたってことでしょう?」とAくん。

「そうよ。みんなっていうのは、すすむくん、だいちくん、かおりちゃん、

がんちゃん、めぐちゃん、けいこちゃんね。」

 

「のりものけんを 12まいずつ かいました。どういう意味でしょう?」

「のりものけんの、この点々って切ってある券が12あるから、

それを買ったってことでしょう?」とBくん。

 

「次は難しいよ。ちょうどなくなるように みんなはのりものに のりました。

ちょうどなくなるってどういうことかな?ちょうどじゃない場合ってどんなことかな?」

この質問には、Bくんが必死になって答えてくれました。

「あの、ジェットコースターに乗って8枚出して、それからコロコロカーに乗って、

もういっかいコロコロカーに乗って全部なくなるのは、

『ちょうどなくなる』ってことで、もし、ジェットコースターの後で、

コーヒーカップに乗ったら、ちょうどじゃない」

「そうね。Bくん。よくわかったね。コーヒーカップに乗ったら、

券が1枚だけあまるから、1枚だけで乗れる乗り物はないものね」

「のりものに 1かい のるのに ひつような のりものけんの まいすうは 

右のとおりです。意味がわかる人?右のとおりってどういうこと?」

「この右の絵のところの、コロコロカー2まいとかいうところでしょ」とAくん。

 

こんなふうに一区切りごとにわからない部分がないかていねいにたずねた後で、

『れい』をしっかり見るようにうながします。(『れい』を見て気づいたことを

言葉にしておくのもいいです)

 

「グライダーに 1かい、 コロコロカーに□かい のったよ。」と

すすむくんの言葉から、12枚のチケットの色を塗り分ける問題で、

3人とも考え込んでいました。

 

すると、Aくんが、「先生、ブロックを使ってもいい?」とたずねました。

許可すると、グライダーの6枚を除いた6枚分のブロックを持ってきて、

コロコロカーに何回乗れるのか考えて、きちんと解けました。

BくんもAくんからブロックを譲り受けて、解くことができました。

 

 

Aくんがブロックを使うことを思いついたように、考える方法のレパートリーを

いろいろ持っているといいですよね。

子どもたちが、考えるためにいいアイデアを思いついた時は

みんなでその良さを確認して、アイデアを共有できるようにしています。

 

 小2のDくんがレゴでコマを飛ばすマシーンを作っている時、こんなことがありました。

初めて、ギアや滑車を使ったレゴに挑戦したDくん。

解説書の絵を見ながら、意気揚々と作っていました。

中盤あたりに差し掛かった時、

「ずいぶんできたね。どう?面白い?」とたずねたところ、ため息をつきながら、

「途中でわかんなくなってきた。やっぱ、難しいな。」とつぶやきました。

どうするのかとしばらく様子を見ていると、「はぁ~」と深くため息をついてから、

何やら決意した様子で、「いいや!戻ろっ!」というと、

それまで作っていたパーツをバラバラにしだしました。

それから、説明書の3の図を指して、「先生、ここからやりなおすことにした」

と言いました。

「それなら、今度は、1手順終わるごとにあっているかチェックしようか?」

ときくと、「そうする」とのこと。

そうやって、1手順ずつチェックする間、わたしはチェックしている内容を

「穴の位置は、左から3番目、うん、あっているね」

「ギアとギアがきちんとかみあっているかがポイントよ。ちゃんとかみあって

いたらクルクル回るからわかるわ」などと、口に出して確認しました。

 

 

そうして前にため息をついていた中盤あたりに差し掛かった時、

Dくんは、「もう自分でできるよ。チェックしなくても大丈夫」と

自信ありげに言うと、最後まで自分の力で仕上げました。

Dくんはうれしくてたまらない様子で、

「もっともっと作りたい」と言っていました。

 

このコマ飛ばしマシーンを他の子らにも見せる時、

わたしはみんなに

Dくんが自分で考えた行き詰まった時の解決法について話しました。

「Dくんはね、最初、自分でどんどん、どんどん作っていったの。

でも、途中でだんだんやり方がわからなくなって、どうしたらいいか

わからなくなったのよ。

そうして、行き詰ってしまった時、Dくんはどうしたと思う?」

他の子らは首をかしげて聞いていました。

「Dくんは、こんな風にしたの。

まず、せっかく作ったブロックをバラバラにしていって、最初の方の3番目の図に

戻ってやりなおすことにしたの。

それから、ひとつの図を完成させる度に、先生のチェックを受けて、

ちゃんとあっているかどうか正確に確かめるようにしていたの。

簡単でわかりきっていることも、そういう意味があったんだなって

理解しながら進んでいったら、先に進めば進ほど簡単になっていって、

途中からは自分ひとりで全部仕上げることができたのよ」